8月23日発信:

以下は、先月の7月24日に広島市立大学平和研究所教授の田中利幸さんが「せまられる日本の反核運動再検討」というテーマで大分市で講演された際のレジュメです(主催:平和のための戦争展 in 大分)。

原子力の平和利用に対して夢想を抱くメディア、科学者を含む戦後日本全体を覆った共同体言説ともいうべき大衆的・啓蒙的「原子力」言説(1946年~50年代)状況については先日、加藤哲郎さん(政治学者)の分析をご紹介しましたが、今回紹介させていただく田中利幸さんは1950年代に世界的な規模で推進された米国大統領アイゼンハワーが提唱した“Atoms for Peace”政策の広島への影響、とりわけ原爆被害当事者としての被爆者団体、反核運動組織としての原水禁、原水協への負の影響に焦点を当てて当時の言説状況を掘り起こしています。どちらも日本の反核運動の再検討課題、いまの脱原発運動の共同行動のための検討課題に資する大切な問題提起、資料の提示となっているように思います。

以下、田中利幸さんの指摘される1950年代から60年代にかけてのわが国の反核運動勢力の言説状況です。


原爆から原発へ:せまられる日本の反核運動再検討(レジュメ)
田中利幸(広島市立大学平和研究所教授)

A)はじめに 原爆開発と「原子力平和利用」の歴史的背景

1938年、ドイツの化学物理学者オットー・ハーンとマイトナーが、人類史上初めてウランの核分裂実験に成功。そのわずか7年後の1945年7月16日午前5時半、米国アラモゴード史上初の核実験「トリニティ」。その3週間後の8月6日午前8時15分、広島上空に投下されたウラン爆弾が炸裂し、7万人から8万人の数にのぼる市民が無差別大量虐殺の犠牲となる。その3日後の午前11時2分、今度は長崎にプルトニウム爆弾が投下され、4万人が即時に殺戮され、年末までに7万4千人近い人たちが亡くなっていった。

広島・長崎原爆投下からほぼ2年後の1947年7月26日、米連邦議会で「国家安全保障法」が成立し、これをもって「冷戦」が正式に始まった。戦後の核技術の新しい応用の重要な一つが、潜水艦の「動力源」。原子炉を使い、燃料交換なしで長時間、長距離を潜水航行でき、核弾頭を装備したミサイルを敵地近辺の海域から発射することができる潜水艦の開発。

原子力潜水艦の開発の任務を与えられたのがハイマン・G・リッコーバーで、彼の指揮の下、アイダホ州の軍研究所で秘密裏に開発製造された潜水艦用原子炉が沸騰水型の「マーク Ⅰ 原型」。この「マークⅠ」原子炉を動力源とする潜水艦ノーチラス号は、1954年1月21日に完成。当初からリッコーバーは、原子力を海軍用潜水艦ならびに艦船に応用するにとどまらず、大量の電力を発電する原子力発電所に活用することを考えていた。しかしながら、リッコーバーの計画の実現化は、原子力技術の拡散を意味するものであり、それは同時に核兵器製造技術の拡散化をも意味するものであった。

こうした動きに反対し、核技術とその研究開発を厳しい規制の下におくべきであると考えていたのが、アルバート・アインシュタインやロバート・オッペンハイマーであった。しかし米ソ冷戦状態が深まりつつあった1953年の段階では、米国の核技術分野における支配力は、すでにアインシュタインやオッペンハイマーらの手から離れ、リッコーバーを含む戦後の新しい科学者グループとその支配者たちの手に移っていた。

第2次大戦直後の数年間はアメリカが核軍事力を独占していたが、それも1949年8月29日にセミパラチンスクで行われたソ連初の核実験の成功で終わりを告げた。さらにソ連は、1953年8月12日に水爆実験と思われる核実験を行った。これに対抗して、アメリカ側は、1951年から53年にかけて、合計36回の爆発実験を実施し、軍事力の誇示に努めた。こうした事態のために、近い将来に米ソ間で核戦争が引き起こされるのではないかという不安が高まってきた。

このような緊張した状況を緩和する手段として、1953年12月8日、米大統領アイゼンハワーが、国連演説で、“Atoms for Peace”、すなわち「原子力平和利用」なる政策を打ち出した。このアメリカの平和政策の背後には、アメリカ軍事産業による西側同盟諸国資本の支配という野望が隠されていたが、これによって、リッコーバーは、政府の全面的支持を得て「マークⅠ」の原子力発電への応用実現化に乗り出すことができ、最終的には、その技術特許がジェネラル・エレクトリック社の手に渡ったのである。

史上初の核兵器攻撃の被害国である日本も、アメリカのこの「原子力平和利用」売り込みのターゲットにされ、アメリカ政府や関連企業が1954年の年頭から様々なアプローチを日本で展開し始めた。その結果、日米安保体制の下で、兵器では「核の傘」、エネルギーでは「原発技術と核燃料の提供」、その両面にわたって米国に従属する形をとるようになった。その結果、日本政府は、核兵器による威嚇を中心戦略とする日米軍事同盟と、原発からの放射能漏れならびに放射性廃棄物の大量蓄積の両面で、これまで多くの市民の生存権を長年脅かしてきただけでなく、そのような国家政策に対する根本的な批判を許さないという体制を維持してきた。

スリーマイル島、チェルノブイリなどでの原発事故にもかかわらず、日本政府と電力資本、原子力産業界は「安全神話」を唱え続け、これまで様々な事故を隠蔽してきた。したがって、今回の福島第1原発での破局的事故は、大地震という天災によって引き起こされた「事故」などではなく、本来、起こるべきして起こった「自己破壊」と呼ぶべき性格のものである。

広島・長崎の被爆者は、生涯にわたって爆風、火傷、放射能による様々な病気に苦しんできた。被爆者は、いつ癌やその他の致命的な病に侵されるか分からないという恐怖に怯える生活を今も余儀なくされている。このように、長年にわたり無数の市民を無差別に殺傷する核兵器の使用は、重大な「人道に対する罪」である。今回の福島原発事故も、内部被曝の結果、これから数十年にわたって予想もつかないほどの多くの市民をして、無差別に病気を誘発させることになるであろう。このことから、原発事故も「無差別大量殺傷行為」となりうるものであり、したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべき性質のものである。

B)被爆者による原発推進

被爆者問題に敏感であるべき日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、福島原発事故による放射能汚染問題で、周辺住民の健康管理などの対策を早急に実現するよう政府と東京電力に要請したのは、事故から1ヶ月以上も経った4月21日であった(福島県知事への要請は5月27日)。被爆者たちの福島放射能汚染に対する反応は、一般的に、極めて遅く且つ弱いのは、なぜか?

1999年9月30日午前11時頃、茨城県東海村の核燃料加工会社JCOの施設内で核燃料を加工中に、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応が発生、この状態が約20時間持続した。事故現場から半径350m以内の住民約40世帯への非難要請が出され、500m以内の住民には非難勧告、10km以内の10万世帯(約31万人)への屋内退避および換気装置停止の呼びかけが出された。

日本原子力産業会議(2006年に「日本原子力産業協会」に改名)副会長であった森一久(被爆者):

「原子力は原爆の怖さを知った上で使われている。被爆者の、平和利用にだけその力を使って欲しいという悲痛な叫びに支えられ、今日まで続いてきた。その過程は風化させてはならない。」(強調:田中)しかし、「臨界事故と広島・長崎の体験は、放射線被害という点で関係はあるが、同列に扱ってはならない。広島のあの日は、そんな甘っちょろくはなかった。一方は軍事産業で瞬時に強烈な放射線を浴び、一方は事故で作業員だけが大量に浴びた。一緒に論じるのは大げさではないだろうか」。

福島県の発表によると、福島第1原発事故前に、原発から20キロ以内の現在立ち入り禁止になっている「警戒区域」で暮らしていた被爆者は4人(2人が広島で、あとの2人が長崎で被爆)。

*遠藤昌弘(85歳)は福島市出身であるが、病気療養中であった広島市西区で被爆。戦後、故郷に戻り、小高町(現在の南相馬市)で就職。1980年代には、「原爆と原発は別物。核の平和利用がこれからの日本には必要」と唱え、原発建設のための周辺道路整備のための用地買収交渉に積極に加わった。

*現在、福島県原爆被害者協議会事務局長を務める福島大名誉教授の星埜惇(83歳)は、広島原爆投下の翌朝、広島市内に入った「入市被爆者」。「原発は、大量破壊兵器の原爆とは別だと思っていました。しかし制御不能に至った原発を目の当たりにすると、認識を変えざるを得ません。」

戦後歴代の広島市長の中で、浜井信三、渡辺忠雄、荒木武の3名が被爆者であるが、そのうちの誰も「原子力平和利用」に反対した人はおらず、とくに渡辺氏は「原子力平和利用」の積極的賛同者であった。

原爆が無数の市民を無差別に殺傷したのと同じように、原発あるいは原子力関連施設で一旦大事故が起きれば、大量の放射能が拡散され、その放射能汚染の結果、その後数十年にわたって予想もつかないほど多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させる危険性については、広島・長崎の被爆者たちは自分たちの経験から十分すぎるほど理解しているはず。にもかかわらず、なぜゆえに原子力平和利用の賛同者になったしまったのか?

この疑問に対する答えを見いだすには、1950年代に世界的な規模で推進された“Atoms for Peace”政策の広島への影響を詳しく分析してみる必要がある。

「原子力平和利用」の発端は、周知のように、1953年末に米国大統領アイゼンハワーが国連演説で表明した“Atoms for Peace”政策=米国政府が真に目指したものは、同年8月に水爆実験に成功したソ連を牽制すると同時に、西側同盟諸国に核燃料と核エネルギー技術を提供することで各国を米国政府と資本の支配下に深く取込むことにあった。

1954年3月、ビキニ環礁における米国の水爆実験で第5福竜丸が死の灰を浴びるという大事件によって急激な高揚をみせた日本の反核運動と反核感情を押さえつけ、さらには態勢を逆転させるため、さまざまな「原子力平和利用」宣伝工作を展開。

C)広島ターゲット作戦第1弾:「広島に原発建設を」

1954年9月21日:

米国原子力委員会のトーマス・マレーが、アトランティック市で開催された米国鉄鋼労組退会で、アメリカ援助による原発の日本国内建設を提唱。「広島と長崎の記憶が鮮明である間に、日本のような国に原子力発電所を建設することは、われわれのすべてを両都市に加えた殺傷の記憶から遠ざからせることのできる劇的でかつキリスト教徒的精神に沿うものである。」

1955年1月27日:

米国下院の民主党議員シドニー・イエーツが広島市に日米合同の工業用発電炉を建設(建設費2億2,500万ドル、出力6万キロワット、資源はアメリカから持参3年計画)する緊急決議案を下院本会議に提案し、2月14日の本会議でも再度この決議案に関して演説。同年2月4日、イエーツは、上下両院合同原子力委員会およびアイゼンハワー大統領に書簡を送り、同決議案の実現を要請したが、その書簡の中で次の3点を明らかにしている。

1.広島を原子力平和利用のセンターとする。
2.私の考えでは広島の原子力発電所は3年以内に操業できる。
3.私は最初原爆に被災し、いまなお治療を要する6千名の広島市民のため病院建設を計画したが、原子力発電所建設の方が有用だと考えるに至った。

広島側の反応:

浜井市長:「医学的な問題が解決されたなら、広島は“死の原子力”を“生”のために利用することは大歓迎」。

渡辺市長(5月に市長に就任):「原子炉導入については世界の科学的水準の高い国々ではすべて原子炉の平和利用の試験が行われ、実用化の段階に入っているので、日本だけ、広島市だけいたずらに原子力の平和利用に狭量であってはならない。適当な時期に受入れる気持である。」

長田新(広島大学名誉教授で、子供たちの原爆体験記『原爆の子』を編集):「米国のヒモつきでなく、民主平和的な原子力研究が望ましい。」

森瀧市郎(当時、広島大学教授、原水爆禁止広島協議会の中心的人物):「アメリカ人に広島の犠牲のことがそれほどにまっすぐに考えられることならば、何よりもまず現に原子病で苦しんでいる広島の原爆被害者の治療と生活の両面にわたって一部の篤志家だけに任せないで、国として積極的な援助をしてもらいたい」と拒否反応。のみならず、反対の理由として、原発が原爆製造用に転化される懸念、平和利用であってもアメリカの制約を受けること、さらに、戦争が起きた場合には広島が最初の目標になることを挙げている。

全般的には、多数の被爆者が「原子力平和利用」に対し、最初から「条件付き賛成」という態度を表明。

地元新聞の中国新聞:

「その偉大なエネルギーを平和の目的のため、さらに人類の幸福増進のため使用することについては、だれしも反対はないことであろう。」
「広島市によって代表されている原子力に対する悪い印象をぬぐい去り、併せて広島市の復興を推進させ、広島市民の幸福増進に寄与したいというような意味であろう。率直にいって、世間でいう罪ほろぼしというような気持も考えられないことはない。」

D)広島ターゲット作戦第2弾:「原子力平和博覧会」

「ホプキンス原子力使節団」訪日(1955年5月9日から1週間):

読売新聞社主・正力松太郎が、原子力援助百年計画の提唱者であるゼネラル・ダイナミック社長のジョン・ホプキンスを代表とする「ホプキンス原子力使節団」を東京に招待。滞在中に、鳩山首相と懇談させたり、随行員として連れてきたノーベル物理学賞受賞者、ローレンス・ハウスタッドに「平和利用」に関する講演会を日比谷公会堂で開き、テレビ中継を行ったりした。

「原子力平和博覧会」(東京:読売新聞主催、1955年11月1日~12月12日):

この博覧会は、アメリカが当時、“Atoms for Peace”政策の心理(=洗脳)作戦の一部として、CIAが深く関与する形で、世界各地で開いていたものであった。

広島での開催(1956年5月27日~6月17日の3週間):

東京の後、名古屋、京都、大阪、広島、福岡、札幌、仙台と巡回。広島の場合には、広島県、市、広島大学、アメリカ文化センター(ACC)および中国新聞社の共同主催で、予算は728万円を計上。会場=平和公園内に前年8月に完成した広島平和祈念資料館と平和記念館(現在の広島祈念資料館東館)。

展示物の中に広島にとって「適当」とみなされるものを、アメリカ側が広島平和祈念資料館に寄贈=アメリカ側は、最初から「原子力平和利用」宣伝が、広島で、しかも原爆被害の実情を伝える目的で建設された平和祈念資料館内で、繰り返し行われることを狙っていた。

展示内容:

(1)原子力の進歩に貢献した(湯川秀樹を含む)科学者の紹介(2)エネルギー源の変遷(3)原子核反応の教育映画(4)原子力の手引(5)黒鉛原子炉(6)原子核連鎖反応の模型(7)放射能防御衣(8)ラジオアイソトープの実験室(9)原子力の工業、農業、医学面における利用模型(10)田無サイクロトロン模型(11)マジックハンド(12動力用原子炉模型)(13)CP5型原子炉模型(14)水泳プール型原子炉模型(15)原子力機関車(16)移動用原子力炉、実験用原子炉模型(17)PGD社原子力発電所模型(18)原子物理学関係図書館

配布パンフレット『原子力平和利用の栞』:

「原子医学が無数の人々の命を救ったことは周知のことである。原子力によって農場では食料が増産された。商業面では、洗濯機・たばこ・自動車・塗装・プラスチック・化粧品など、家庭用品の改良のために。アトム(原子)は一生懸命はたらいてきた。

豊富な電力冬にはビルをあたため、夏にはビルを冷房してくれる。だが、原子力はそれ以上の意味があるのだ。医者は本世紀の終わりまでには、ある種の危険な病気は完全になくなるだろうと予言する。もし、われわれが賢明であれば、原子力はすべての人に食を与え、夢想にも及ばぬ進歩をもたらすことになろう。」

「病院では、ラジオアイソトープは奇跡をあらわす名医である。その放射線は腫瘍やガンの組織を破壊する。それは赤血球の異常増加を抑止し、アザをとり除き、甲状腺の機能状態を明らかにして、その機能昂進を抑制する。血液の中に注射されると、その放射能は人間が生きるためには何リットルの血液が必要か、また血球の補充力が低下しているかどうかを医者に告げる。」

かくして、原子力利用は、発電のみならず、医療、農業、工業など様々な分野で、今後飛躍的な一大進歩を遂げることが期待されており、「全人類の福祉のために、その前途は無限に輝いている」というメッセージになっていた。

広島原爆被害者同盟事務局長 藤居平一

「この博覧会を見ると原子力の平和利用というものが相当進んでいるという印象を濃くする。こういう風に原子力が平和的に利用されることによって人類の平和と幸福が近い将来、必ず約束されるであろうという感じを持った。あらゆる分野で原子力が人類の福祉増進のために利用されている状況がよく分かるのだが、われわれの立場からいうと、原子力が最初に人類の前に姿を現した原爆という悪魔のツメによっていまなお病床に呻吟している多くの人たちが現にいる限り、あらゆる平和利用に先立って原爆症に対する治療法とか予防法などの研究に第1目標に置いて欲しい。そうであってこそ現在原爆症の為に絶望的な思いでおられる被害者たちに“生きていてよかった”という明るい希望を与え得るのだと思う。つまり、原子力の平和利用は一切の原水爆兵器の禁止と原爆症の根治方法の研究というこの二つの前提でなければならぬと思う。これは世界の国際道義の問題である。なお、付言すれば、この平和利用博を見た人はあとで必ず中央公民館にある原爆資料も併せて見られんことを希望する。」

原水爆禁止広島協議会事務局長 森瀧市郎

「原子力利用のうえで広島はとくに放射能に敏感になっている。原子炉で燃えカスをどう処理するのか、原子炉はあってもそれがどこにも示されていない。こうすればよいというところがみせてないのが残念だ。利用のよい面は分るが死の灰の危険をなくするのにどうするのか、その疑問にこたえるものがみせてほしい。これは消極面についてで積極面ではその応用の大きいこと、それが分りよく見せてあることで興味を持った。」(強調:田中)

同年8月初旬、長崎で開催された第2回原水禁世界大会中に結成された日本被団協結成大会で、森瀧が読み上げた大会宣言文:

「私たちは今日ここに声を合わせてたからかに全世界に訴えます。人類は私たちの犠牲と苦難をまたとふたたび繰り返してはなりません。破壊死滅の方向に行くおそれのある原子力を決定的に人類の幸福繁栄の方向に向かわせるということこそが、私たちの生きる限りの唯一の願いであります」と述べ、「原子力平和利用」を積極的に支持するまでになる。かくして、この時点で森瀧は、「核兵器=死滅/原子力/声明」という二律背反論に完全に埋没。

長崎から見学に訪れた被爆者グループ:

「私たちは原爆ときいただけで心からの憤りを感じますが、会場を一巡してみて原子力がいかに人類に役立っているかが分りました。原子力が戦争にだけ使われるのでなく、真に平和のために使われるのを強く望みます。10年後の今日も私たちの前途には大きな問題が残されていますが、こうした問題が山積しているとき、原爆地広島でこの博覧会が開かれたことは意義あることと思います。」

広島で開催された「原子力平和利用博覧会」への入場者数は記録的な数となり、中国新聞報道によると、「広島会場の総入場者数は10万9,500名。広島の男女知識層を中心に遠くは長野県、茨城県、北九州からの見学者、全国校長会議出席者、中国5県からの団体見学者など各地のあらゆる階層の老若入場者を集めた。」この博覧会で上映された原子力利用に関する11種類の映画は、広島アメリカ文化センターの管理下に置かれ、学校や文化団体に貸し出すという制度も設置された。

博覧会閉会後、原爆関係の展示物がもとに戻された資料館では、悲惨な原爆展示物を見終わった見学者が、見学の最後には、突然に、「原子力平和利用」に関する展示が置かれた。輝くような明るい部屋に誘導され、そこを通過して退館するような見学コースに変更。

E)「広島復興大博覧会」

広島復興大博覧会:(1958年4月1日から50日間の会期)

平和公園、平和大通り、新しく復元された広島城の三カ所に、テレビ電波館、交通科学館、子供の国といった合計31の展示館を設置。中でも最も人気を集めたのが、史上初のソ連の人工衛星を展示した宇宙探検館と原子力科学館。原子力科学館には、アメリカが期待していたように、「原子力平和利用博覧会」の際に寄贈された展示物が再び展示され、その展示館として広島平和祈念資料館が再度当てられた。

今回は、原爆関係の展示物を別会場に移すことなく、「原子力平和利用」展示物と並列させるというスタイルがとられている。展示物を並列させることで、「核兵器=死滅/原子力=生命」という二律背反論的幻想を強烈に高めた。

『広島復興大博覧会誌』:「近い将来実現可能な原子力飛行機、原子力船、原子力列車などの想像模型が並べられている。人類の多年の夢が、今や現実のものとなってくるかと思えば本当に嬉しい限りだ。原子力の平和利用は、世界各国が競うて開発しているところであるが、ここには各国最新の情勢が写真でもって一堂に集められている。今や日進月歩の発展を遂げつつある世界の原子力科学の水準に一足でも遅れないようにわが国も努力をつづける必要があると痛感させられる。」

この復興大博覧会を訪れた見学者は、「原子力平和利用博覧会」の見学者のほぼ9倍にあたる91万7千人。

まさに地獄のような原爆体験をさせられ、放射能による様々な病気を現実に抱え、あるいはいつ発病するか分らないという恐怖のもとで毎日をおくっている被爆者たち、しかも被爆者の中の知的エリートたちまでもが、なぜゆえに、かくも簡単にこの二律背反論的幻想の魔力にとり憑かれてしまったのであろうか?

かくも苦しい体験を強いられ、愛する親族や友人を失い、自分も傷つけられた被爆者だからこそ、「貴方たちの命を奪ったものが、実は、癌を治療するのに役立つのみならず、強大な生命力を与えるエネルギー源でもある」というスローガンは、彼らにとっては、ある種の「救い」のメッセージであったと考えられる。

アメリカにとって、とりわけ原子力推進にかかわっていた政治家や企業家にとっては、「毒を盛って毒を制す」ごとく、原爆被害者から「原子力平和利用」支持のこのような「お墨付き」をもらうことほど有利なことはない。それゆえにこそ、広島が、とくに被爆者が、「原子力平和利用」宣伝のターゲットとされ、繰り返し「核の平和利用」の幻影が彼らに当てられ、被爆者たちはその幻影の放つ輝かしい光に幻惑されてしまったのである。その意味では、被爆者たちは「核の二重の被害者」とも言える存在である。

F)「原水爆禁止世界大会」での「原子力平和利用」支持

被爆者を支える意図を含めて立ち上げられた「原水爆禁止世界大会」が、「原子力平和利用」幻想を打ち砕くのではなく、逆にその発足当初から支持してしまい、被爆者の眩惑をさらに強めてしまったのみならず、反核運動にひじょうな熱意をもって全国から参加した多くの市民をも同じ幻想におとしめてしまった。

1955年8月6日に広島市公会堂で開かれた第1回原水爆禁止世界大会:

オルムステッド女史(国際婦人自由平和連盟代表、米国人)の挨拶:「私の国の政府が、人類の生活の向上に使わねばならない原子力を、破壊のために使ったことを深くおわび申し上げます。 ・・・・・ 原子力は人間のエネルギーと同じく、あらゆる国であらゆる人に幸福をもたらさなければなりません」(強調:田中)。

「広島アピール」に含まれた文章:「原子戦争を企てる力を打ちくだき、その原子力を人類の幸福と繁栄のために用いなければならないとの決意を新たにしました」。

安井郁(原水爆禁止日本協議会事務総長)

この第1回原水爆禁止世界大会の9ヶ月後に同じ広島で開催された「原子力平和利用博覧会」について、次のような談話を中国新聞で発表。

「原子力の平和利用は将来の文明が進むべき大道であるから、それについて博覧会が開かれるいうことはまことに喜ぶべきことである。ただ原・水爆禁止運動に従事する私として気がかりなのは、この恐るべき大量殺害兵器が禁止されるまえに、平和利用のみはなばなしく叫ばれて、原・水爆禁止の声がそのかげにかくされてしまうことである。われわれは原子力の平和利用を進めるのと平行して原・水爆禁止を一日も早く実現するよう努力しなければならない。原爆都市広島において原子力平和利用博覧会が開かれるに当り、私は以上のことをはっきりと指摘しておきたいと思う。」

長崎での第2回原水爆禁止世界大会では、「原子力平和利用」に関する独自の分科会がもたれた。

しかし、ここでも「平和利用」そのものを全面的に支持しながらも、原子力が巨大資本に独占されていることに対する批判に議論が集中。したがって、秘密主義、独占主義を排除し、「民主・公開・自主」という日本学術会議が打ち出した平和利用三原則を支持するという結論で終わっている。

かくして原水爆禁止世界大会では、「原子力の民主的な平和利用」こそが、様々な経済社会問題を解決する魔法のカギでもあるかのようなメッセージが、1963年に分裂するまで毎年、反復されたのである。(原水爆禁止世界大会は63年、原水爆禁止国民会議〔原水禁〕と原水爆禁止日本協議会〔原水協〕に分裂。1969年に原水禁が初めて公式に「原子力平和利用」反対の方針を打ち出した。しかし、実質的に原水禁が反原発で行動をとるのは、スリーマイル・アイランド原発事故後の1979年以降である。)

G)結論 ― 反核・反原発を統合的に推進するために

かくして、日本の反核運動の主流ならびにその重要な一部を担ってきた被爆者たちもまた、「原子力平和利用」についてはほとんど本質的な検討をしないまま、核兵器反対運動にそのエネルギーを集中させていった。このような歴史的背景から、日本の反核運動は、スリーマイル・アイランドやチェルノブイリのような大事故が起きた時にのみ、反核運動にかかわっていないが、身の危険を感じた一般の主婦、母親、環境保護運動家たちが立ち上がるという現象を見せてきた。反核運動組織や被爆者からの支援をほとんど受けないそのような市民運動は、電力会社、原子力産業と政府が打ち出す「安全神話」の反撃によって弱体化され、おおきなうねりを全国的規模で持続させるということができなかったのである。

現在、福島第1原発事故による大惨事という経験を強いられている我々市民、とりわけこれまで反核運動に取り組んできた組織に身をおいてきた者たちは、このような歴史的背景を持つ自己の弱点を徹底的、批判的に検討する必要がある。

原爆が無数の市民を無差別に殺戮したのと同じように、核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故も、放射能汚染の結果、予想もつかないほどの多くの人たちをして、無差別に病気を誘発させ死亡させることになる恐れがある。

核兵器は明らかに「人道に対する罪」である。「人道に対する罪」とは、「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害」などの好意をさすものであり、核攻撃は、そのうちの「一般住民に対しておこなわれる殺人、殲滅」に当たる。核実験ならびに核兵器関連施設や原発での事故は、核兵器攻撃と同じく、放射能による「無差別大量殺傷行為」となりうるものであり、したがって「非意図的に犯された人道に対する罪」と称すべきもの。「人道に対する罪」が、戦争や武力紛争の際にのみ行われる犯罪行為である既存の認識は、ウラルの核惨事、チェルノブイリや福島での原発事故が人間を含むあらゆる生物と自然環境に及ぼす破滅的影響を考えるなら、徹底的に改められなければならない。

残念ながら、これまでの日本の、とりわけ広島の反核運動は、ほとんど反核兵器運動にのみ焦点が当てられ、「ノーモア・ヒバクシャ」というスローガンにもかかわらず、原爆と一部の核実験の被害者を除き、無数のヒバクシャに対してはほとんど無関心の状態であった。私たちは、このような反核運動の弱点を徹底的、批判的に検討する必要がある。そのような真摯な反省の上に立って、今後、反核兵器運動と反核エネルギー運動の統合・強化をいかに推進し、人間相互の関係ならびに人間と自然との関係が平和的で調和的な社会をいかに構築すべきかについて、広く議論をすすめていくことが今こそ求められている。


参考文献:
有馬哲夫著『原発・正力・CIA』(新潮新書 2008年)
田中利幸「『原子力平和利用』と広島―宣伝工作のターゲットにされた被爆者たち」(『世界』2011年8月号掲載)
8月22日発信:

毎日新聞の山田孝男記者(編集委員)は3.11以来、同紙の連載コラム『風知草』でこの国の記者としては珍しくいわゆる傍観者=記者の立場を超えて<脱原発>の旗幟を鮮明にした反原発のオピニオン記事を精力的に書き続けていますが、今回の反原発記事のテーマは「かすみ始めた『脱原発』」(2011年8月22日付)というもので、民主党代表選とこれからの日本の政治の「脱原発」のゆくえを絡めて、筆者としての懸念を述べたもの。

しかし、筆者の懸念は懸念として了とするものの、その懸念には私として次のような違和感が残ります。

山田編集委員は文芸評論家の加藤典洋の「疑問だらけの菅降ろし」(同紙、同年8月11日付)という一文を紹介した上で、国会での再生エネルギー特別措置法案成立後の29日に日程が内定している民主党代表選にふれて次のように言います。

これは『非常識な菅』の代わりに常識家を選ぶ選挙ではない。元代表の操り人形を選ぶ選挙でもない。原発推進の官産複合体に挑み、改革する意志と実力を備えた指導者を選ぶ。その国家意思を世界に示す機会にしなければならない。

一般論としてそれはそのとおりなのですが、同編集委員自身が「『脱原発』がかすみ始めた」「原発の維持・推進に理解を示す後継候補が増殖している」と否定評価する候補者同士の争いになるとみられる同党代表選で「原発推進の官産複合体に挑み、改革する国家意思を世界に示す機会にしなければならない」などという期待を述べるのは論理矛盾といえないか? 前提としての論理と結論としての論理が相矛盾して整合しえていないのです。つまり、無理筋の論理ということです。

このようなことになるのも、同編集委員の視点が民主党内部とその周辺の政情を回遊するところから抜け出ていないからです。民主党代表選について論じているのだから、民主党の周辺を回遊することは当然だろう、という反論があるかもしれません。しかし、民主党内部とその周辺において「原発推進の官産複合体に挑み」うる改革意思は望めない、と判断する以上、その釣果の望めないところにいくらとどまっていても鯛でえびを釣る愚を犯すだけのことにしかならないでしょう。えびから笑われるだけのことです。

もっと眺望のあるところに出て広く大海を見渡してみる必要があるのではないでしょうか。真に「原発推進の官産複合体に挑み」うる改革意思を持つ魚の群れを見つけ出すために。魚の群れは遠いところにいるのではなく、案外近くで発見できるかもしれません。その際、魚の群れは小さいなどというべきではありません。魚の色を問題にするべきでもないでしょう。釣果の望めないところで日がな過ごすよりも実り(収獲)は確実なものがあるはずです。魚の群れが小さいというのであれば大きくなるまで育てるというも一興でしょう。この国の養殖技術は戦前、戦後に比べて格段に進歩しています。魚の色が問題であるならば、育てながら魚に魚の色の理由を聞いてみるのも一興でしょう。色がついたのには相応の理由があるはずです。案外、納得のいく理由が聞けるかもしれません。

『風知草』の筆者にはそういう視点が欠けているのではないか、というのが、彼の懸念は懸念として了としながらも私に違和感が残る理由です。そして、山田編集委員、というよりもメディアに勤める諸氏に深く考えていただきたいことでもあります。
8月21日発信:

私は8月6日付けメールで「脱原発運動内部における矛盾をいかに克服するのか?」という問いに私なりの考えを述べて返信をしたことがあります。

その中で私は、共産党が過去に原子力発電について「平和利用を実現 人類史に新しいページ」(「アカハタ」 1954年)などという取り返し不可能な大人災というべき福島第1原発事故が発生したいまから見ると「犯罪的」と言ってよいほどのきわめて楽観的かつイデオロギー的(ソ連の原発政策の礼賛)な見通しを述べているにもかかわらず、「原発技術は未完成で危険なものだとして、その建設には当初からきっぱり反対してきました」(志位和夫委員長「原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入を国民的討論と合意をよびかけます」 日本共産党HP 2011年6月13日付)などという牽強付会な自己正当化を試みていることに対して私なりの共産党に対する疑念と疑問を述べておきました。

しかし、原子力発電について楽観的見通しといまから顧みてあまりにも非科学的な科学技術信仰に憑かれていたのはひとり共産党ばかりではなく、当時の日本という社会全体の稚なさにあった、とつい最近まで一橋大学で政治学の教鞭をとっておられた加藤哲郎さん(現早稲田大学客員教授)が指摘されています。加藤哲郎さんは次のように言います。「『原爆から原発へ』を批判的に論じるのなら、そうした(引用者注:戦後日本の)時代背景を、自らの反省に引きつけて、検証すべき」だろう、と。

戦後日本の「原子力」言説を「自らの反省に引きつけて、検証すべき」という点では共産党も社民党(当時は社会党)も原水協も原水禁もひとしくその責を負っているというべきだろう、と私も思います。

以下、加藤哲郎さんの指摘です。

◆新潟県や福島県の豪雨で、また大きな被害が出ています。大きな地震も続きます。台風も近づいています。もう震度5くらいでは驚かなくなった、「非日常の日常化」に、唖然とします。福島や北関東の放射能、野菜から牛肉に広がった汚染食品にこそ、「非日常の日常化」の広がりがあります。つぎに卵や魚から放射性物質が検出されても、政府の「直接健康には心配がない」との説明には半信半疑でも、私たちは「非日常の日常化」を甘受し、今までの生活を続けることになるのでしょうか? そこからまたぞろ、「原子力の平和利用」の日常化が、たくらまれています。菅首相の「脱原発」は、首相の政見から「個人的」意見へ、長期的・段階的「減原発」へと、後退を重ねています。九州電力の「やらせメール」に佐賀県知事まで関与していたと分かったのに、中部電力・四国電力では経済産業省原子力安全・保安院が率先して国主催の原発シンポジウムを「やらせ」に導いていたことまで広がると、やはりというか、あきれはててというか、半ば思った通りと、納得できてしまいます。「非日常の日常化」の極みです。マスコミの報じる問題は、もっぱら今夏を停電なしでのりきれるかどうかのエネルギー需給問題に転化され、再生エネルギー開発には時間がかかるという口実で、「エネルギー供給のベスト・ミックス」「減原発」に落としどころをもっていく、そんな原子力村の算段に乗りかかっています。焦点は、現在とまっている原発を、一つでも再稼働を許すかどうかに、収斂しています。

◆朝日新聞が、シリーズ「原発国家」「原爆と原発」「核の時代を生きて」と、日本人と原子力の関わりの、歴史的検討を始めました。結構なことです。7月31日の「1984年に外務省、原発への攻撃を極秘に予測、全電源喪失も想定」という記事も、ジャーナリズムの信用回復に資するものです。でも、これらを読んでも、すっきり胸に落ちません。何かが欠けています。それは、自己分析の欠如です。1955年のライバル読売新聞社主正力松太郎がCIAとも結んだ「原子力の平和利用」キャンペーンは、当然また取り上げられるのでしょうが、その年「新聞週間」の標語は、「新聞は世界平和の原子力」だったのです。「原爆から原発へ」を批判的に論じるのなら、そうした時代背景を、自らの反省に引きつけて、検証すべきでしょう。たとえば朝日新聞は、1946年1月22日社説で「原子力時代の形成」を、47年9月10日社説で「原子力の平和利用」を主張しています。48年2月29日の記事では、「原子力に平和の用途」を掲載してきました。しかしこれは、別に朝日新聞だけのものではありません。「唯一の被爆国」日本の核意識・核イメージの初発におけるボタンのかけ違い、「原爆」そのものの受け止め方の問題と関わっています。以下、私も属す 20世紀メディア研究所の占領期新聞雑誌情報データベース「プランゲ文庫」を手掛かりに、現在進行形の研究の一部を公開しておきます。一つには、今年もヒロシマ・ナガサキ原爆記念日の8月を迎えます。この機会に、ヒロシマ・ナガサキの悲劇がいかに忘れられていったか、1945年8月体験の「非日常の日常化」のメカニズムを見ておくことも、意味あると思われるからです。いまひとつは、私はまもなく日本を離れ、昨年同様、8月アメリカ、9月ヨーロッパの調査旅行に出発します。次回更新は、二つの滞在旅行の合間の一時帰国時、9月1日になる予定ですので、時局コメントや政局モノは、今回は省かせていただくためです。

◆問題は、1955年の中曽根康弘・正力松太郎の暗躍によるAtoms for Peaceによる原子力発電への出発、「自主・民主・公開」の原子力基本法のはるか以前から、「原子力」に「原爆」の裏返しとしての「巨大な力」「無限のエネルギー」「新しい産業革命」を見いだしてきた歴史にまで遡ります。「原子力の平和利用」言説に限定すれば、1946年9月の雑誌『全体医術』と、同月の仁科芳雄・横田喜三郎・岡邦雄・今野武雄の座談会「原子力時代と日本の進路」(『言論』46年8・9月号)に現れ、こどもたちの世界では、『中学上級』47年2月号「科学の新知識」で使われ、朝日新聞社の『こども朝日』47年10月号は、「平和に原子力、すばらしい威力を世界の幸福に利用」と報じます。学術論文としては、以前も書いた平野義太郎「戦争と平和における科学の役割」(『中央公論』48年9月号)が先駆ですが、内容的にはもっとずっと早くから、もっと啓蒙的なかたちで、占領期日本の言論空間では当たり前でした。

◆ヒロシマ・ナガサキと敗戦の年、1945年12月には、雑誌『科学世界』に「機関車に原子力を」、『雄鶏通信』に「原子力の工業化は前途遼遠」「原子力自動車」「原子力発電機スピードトロン」が出ています。ヒロシマの地元『中国新聞』でも、1946年3月25日にビキニ環礁での核実験で「原子力
の漏洩心配なし・ローズス少将談」を報じたのを先駆けに、「強力な武器としてのみに利用されている原子爆弾を食糧増産に利用したらどうか」(46年7月26日)、「原子力の平和的利用法、偉大な発見近し」(48年5月4日)などと、「原子力へのあこがれ」は、日本全体と共有されていました。一
番多いのは、自動車・機関車・船・飛行機など交通手段の動力で、「機関車も燃料いらず、平和の原子力時代来れば」(『九州タイムズ』46年11月27日)、「月世界・金星旅行の夢ふくらむ、今日原子力の記念日」(『西日本新聞』46年12月3日)ですが、もちろんそのエネルギーは発電にも期待されます。「原子力の医学的利用」(『海外旬報』46年6月10日)、「平和のための原子力時代来る、新ラジウム完成す、安価にできるガンの治療」(『京都新聞』48年8月8日)はもとより、「お米の原子力時代」で農業増産(『生活科学』1946年10月)、「農民の夢、原子力農業」(『明るい農家』
49年6月)、はては「農家を悩ます颱風の道、原子力で交通整理」と、原子爆弾で台風の進路を変えることさえ夢見られます(『中国新聞』46年7月26日)。寒冷地北海道の科学普及協会『新生科学』48年12月号は「科学の目:近く原子力暖房」という具合です。

◆つまり原子力は、敗戦・復興期の日本人の夢でした。『科学の友』1949年3月号の「進歩してきた人類の文化」は、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代から始まり、フランス革命時代・産業革命時代・大戦時代を経て、ついに「原子力時代」に到達します。ヒロシマと共に原爆を経
験したナガサキでも、「平和にのびる原子力、破壊→幸福の力→建設、驚異・300倍の熱量、航空機・自動車・医療へ実用化」と『九州タイムズ』49年8月9日で語られます。長崎原爆記念日についての記事です。「平和のために闘う原子力」は『科学画報』49年4月にあり、「原子力は第2の火、
人間は別種の動物に進化」(『長崎民友』49年1月1日)と、原子力は「歴史を進める」主体、「進化」「進歩」の象徴として出てくるのです。

◆ですから当時の華やかな労働運動のなかでも、たとえば全逓信労組広島郵便局支部の機関紙が『アトム』と命名され(47年9月20日)、「第2の火の発見ーー原子力時代」は国鉄労組東京鉄道教習所『国鉄通信教育』48年12月号の「教養」欄にあります。特に1949年は、1月総選挙で共産
党大躍進、夏に下山・三鷹・松川事件、10月毛沢東の新中国建国、そのころソ連初の核実験成功発表ですから、すでに志賀義雄「原子力と世界国家」(日本共産党出版部『新しい世界』48年8月)で「社会主義の原子力」の夢を語っていた共産党まで、「光から生まれた原子、物質がエネルギー
に変わる、一億年使えるコンロ」(日本共産党出版部『大衆クラブ』49年6月号)とボルテージをあげます。ソ連の原爆保持でその夢が現実になったとして、1950年1月18日の第18回拡大中央委員会報告、いわゆる「コミンフォルム批判」を受けての日本共産党の自己批判は、冒頭「国際的
規模で前進する人民勢力」で「ソ同盟における原子力の確保は、社会主義経済の偉大な発展を示すとともに、人民勢力に大きな確信をあたえ、独占資本のどうかつ政策を封殺した」「原子力を動力源として運用する範囲を拡大し、一般的につかえるような、発電源とすることができるにいたったので、もはや、おかすことのできない革命の要塞であり、物質的基礎となっている」と宣言するのです。

◆しかしまだ、「原爆」や「原子力」では、「原子力戦争は人類の破滅」(『週刊東洋経済』48年4月24日)、「原子力と共産党員、使途は平和か武器か」(『九州タイムズ』49年2月25日)、「天国の裏は地獄である、我々は何れを選ぶか」(『農民クラブ』49年6月)、「ソ連の原子爆弾で戦争の危機緩和か、原子爆弾に使われる危険」(『週刊東洋経済』49年10月)と留保があり、危惧もされます。占領軍GHQの検閲は、あらゆる出版物に及びますから、原爆を落としたアメリカへの批判や広島・長崎の放射能被害の継続は隠蔽されます。「ソ連に原爆と殺人光線」といった記事は検閲され(『京都新聞』48年3月11日)、逆に「広島・長崎の原爆放射能消滅」というAP電はフリーパスです(『北日本新聞』48年10月8日)。

◆ところが、「ピカドン」「アトム」とカタカナになると、あまり抵抗感なく、受け入れられたようです。カタカナの魔力は、「ピカドンと婦人、広島病院のお答え、不妊の心配なし、奇形児も生まれませぬ」(『中国新聞』46年7月10日)などと使われ、『佐世保時事新聞』48年8月2日は、原爆記念日を前に「アトムの街々」特集で、「広島と長崎、それは原爆の地として世界注視のうちに新しい平和を求めて起つところ、人類に原子力時代到来を願って今こそ戦後の世界復興を」と、訴えます。広島・長崎を「アトム都市」とする記事は47年から現れ、47年12月の昭和天皇の広島行幸は、「お待ちするアトム広島」(『九州タイムズ』47年12月1日)、「ピカドン説明行脚、天皇がアトム広島に入られた感激の日」(『中国新聞』47年12月11日)のように使われます。「あとむ製薬」から「ピカドン」という薬も売り出されています(『愛媛新聞』49年1月13日)。

◆1948年の長崎原爆記念日は、「祈るアトム長崎、3周年記念、誓も新た平和建設」と報じられました(『西日本新聞』48年8月10日)。爆心地は「浦上アトム公園」になり(『熊本日日新聞』48年8月10日)、「アトム公園を花の公園に」とよびかけます(『長崎民友』49年3月24日)。これがこどもたちの世界では、「アトム先生とボン君」(『こども科学教室』(48年5月1日)、中野正治画「ゆめくらぶ・ミラクルアトム」(『漫画少年』48年8月20日)、和田義三作連載マンガ「空想漫画絵小説:アトム島27号」(『冒険世界』49年1月1日)、原研児「科学冒険絵物語 アトム少年」(『少年少女譚海』49年8月1日)と、ほとんど無防備で、「夢の原子力」へと一直線です。手塚治虫「鉄腕アトム」(「アトム大使」1951年)の登場は、時間の問題でした。

◆実はこうした大衆的・啓蒙的「原子力」言説の背後に、敗戦による荒廃・焼け跡闇市からの「復興の夢」、「遅れた国」日本の「近代化の夢」があり、そこで期待される「科学の力」「文化国家」への希望と信頼が読みとれます。それを受けた、科学者たちの解説・論評が、「原子力時代」の時代認識を支えています。1945-49年に論壇・記事への登場回数の多い方からあげると、湯川秀樹134、武谷三男128、渡辺慧88、仁科芳雄68、藤岡由夫37、嵯峨根遼吉37、伏見康治30、坂田昌一17、朝永振一郎14、といった物理学者・原子力研究者たちです。私が注目しているのは、左派の原子力解説者武谷三男と、中曽根康弘の核政策ブレーンになる嵯峨根遼吉、しかしフクシマの悲劇を見た今日の時点では、湯川秀樹、仁科芳雄、朝永振一郎らの言説も、「共産党宣言」のヴァージョンアップを謳った渡辺慧「原子党宣言」も、改めて読み直されるべきだと思われます。

◆8月はアメリカ、9月はヨーロッパ で国際歴史探偵ですが、その合間の9月4日(日)13-16時、東京豊島区立池袋小学校で、としま・くるま座塾の公開講演会「広島・長崎原爆投下から66年、福島原発震災6か月、あらためて核と原発を考える」が開かれ、作家・演出家早坂暁さんと共に、私も話します。タイトルが<「唯一の被爆国」でなぜ「ヒロシマからフクシマへ」の悲劇が再現したのか? 原子力にまつわるあらゆる「神話」の検証を>、これ実は、7月1日更新時の本トップの見出しです。つまり本ウェブサイトを通じての講演依頼、こういう市民の集いでお役にたてるのなら、大歓迎です。この間、夏の旅行のため、世界各地の友人・協力者の皆さんと日程調整のメールをやりとりしたのですが、ニッポンの3・11は、フクシマのその後も含めて、ほとんどニュースに出なくなったようです。リビアの政治危機、ギリシャの財政破綻、ノルウェーの政治テロ、そしてアメリカのデフォルト問題と、世界は動いていますから、ある意味、当然なことです。こういう中で、大沼安史さん『世界が見た福島原発災害ーー海外メディアが報じる真実』(緑風出版)は、「非日常」が世界から注目されていた局面での日本メディアの問題を浮かび上がらせ、貴重な記録です。仙台で被災した著者大沼さんは、ブログ「机の上の空」で、いまも価値ある情報発信を続けておられます。さっそく「IMAGINE! イマジン」に入れて、「小出裕章非公式まとめ」と共に、海外でも毎日チェックします。皆様もぜひ。次回更新は、8・15はお休みとし、9月1日の予定です。
ブログの更新を怠っていました。滞らせていたこの間のいくつかの記事をアップしておきます。
 
8月21日発信:

田島(ni0615)さんがCML(市民のML)に下記のような記事(2011年8月20日付)を投稿されていました。

miki_kirin さんのtweetから

娘が高校生でもこんなに不安になるんだもの。ましてや小さい子のお母さんお父さんはどんなに毎日大変だろう。そして
いちばん気になるのは、放射能があぶないってこと知らないお母さんお父さんたちの子どもたち。それから危ないって知ってるけど、忘れようとしてるお母さんお父さんの子どもたち。

その田島(ni0615)さんの記事への応答として下記のような返信を認めてみました。


先日、札幌の松元保昭さんが本MLに徐京植(ソ キョンシク):フクシマを歩いて――NHK こころの時代、私にとっての『3・11』」という秀逸なテレビ・ドキュメンタリーをご紹介くださっていましたが、その中で徐京植さんはユダヤ系イタリア人作家、プリーモ・レーヴィの『溺れるものと救われるもの』(朝日新聞社 2000年。原著 1986年)という遺稿を援用して、「同心円的に遠ざかっているからこそ恐怖や不安を自覚することができる想像力」に対して、同心円に近い人たちの現実を直視することを避けようとする心理、「少しでも楽観的な作られた真実、なぐさめの真実というものを見つけ出してそれに縋(すが)ろう」という心理について語っていました。

 NHK「徐京植 私にとっての『3・11』 フクシマを歩いて」を観ての感想とともに

田島さんの上記のご投稿を拝見して、私もおおいに触発されたその徐京植さんの胸に迫る考え尽くされた思想そのものとしての「語り」を思い出しました。以下、そのうちの該当部分の音声を文字起こし、抜粋してみました。

もちろんこのドキュメンタリーのキーワードは松元さんも言及されている番組の冒頭から出てくる「根こぎ(根こそぎ)」という言葉です。徐京植さんは原発事故後に自殺においやられた相馬市の54歳の酪農家の「根こぎ」という国家的暴力によってずたずたにされた無残な生について、原発事故後も福島の地に残留してその国家的暴力としての「根こぎ」に抗しているスペイン思想の研究者の佐々木孝さんご夫妻、耕作のできない田んぼで1日1時間という時間を決めて黙々と草刈りをしている清水初雄さんについて敬意をこめて語った後、同心円に近い人たちの現実を直視することを避けようとする心理について次のように語ります。

私自身も私の韓国にいる友人や親戚から「大丈夫か」という連絡やあるいは「一刻も早く韓国に逃げて来い」というような連絡を受けました。だけど、そうしなかった。だから、そのことを私はたとえば自分はなぜここを動かないんだろうということを考えたときに繰り返し思い出したのはヨーロッパのユダヤ人、ナチスによるユダヤ人絶滅政策の危機がひたひたと迫っているにもかかわらず、もちろん知識人やあるいはお金を持っている人たちは非常に大量にですけれども国外に逃れましたけれども、それでも逃れないまま犠牲になった人たちが数百万人いるわけですね。その人たちはなんだったのか、なぜ動かなかったんだということをわかるようでわからない問題だったんだけれども、今回考えてみてなんか少しわかったような気がしました。

で、ここで私が思い出すのはプリーモ・レーヴィという人で、イタリアのユダヤ人、アウシュビッツで1年近く強制労働を経験しましたが、辛うじて生き延びて、生還後は文学者になった人です。『アウシュビッツは終わらない』という作品が彼の代表作で、日本でもよく読まれていますが、40年後、1987年に自殺されました。これ(注:『溺れるものと救われるもの』(プリーモ・レーヴィ 竹山博英訳)が画面上にクローズアップされる)は彼が自殺の前年に書いた自分自身の人生の経験を総括するようなエッセー集です。ここにこういうことが出てきます。

「私たちにされる質問の中でいつも必ず出てくるものがある。なぜあなたたちは逃げなかったのですか」。彼は「それはひとつのステレオタイプであり、歴史を時代錯誤的に見ることである」とここで書いています。まあ実際にはお金がないとかつてがないとかそういう人たちにとって国を出てゆくということは簡単なことではないんだ、ということを書いた上でこういうことを言っています。

「この村、この町、地方、国は私のものである。そこで生まれたのだし、祖先はそこに眠っている。そこの言葉を話すし、そこの習慣や文化を身につけている。おそらく自分もその文化に貢献している。税金を払っているし、そこの法律を守っている」。で、そういうものであるだけに「まさに、不安をかき立てるような推測はなかなか根付かないのである。極限状態が来るまで、ナチの信徒が家々に侵入してくるまで、兆候を無視し、危険に目をつぶり、都合のいい真実を作り出すやり方を続けていたのである」。つまり、不安を感じないわけじゃないのだけれども、いま言いましたようなさまざまなその人間を絡めとっている網の目、その人間が簡単には抜くことはできない根、というものがあるがゆえに危険な兆候をできるだけ軽く見ようとしたり、なにか気休めの都合のいい真実、そういうものを作り上げて縋(すが)ろうとする。そういう心理をプリーモ・レーヴィはここで語っているんですね。」

これを読んで(これは前から読んでいたんですけれど)、あゝ、こういう心理なのか、ということをそのとき思い当たったような気がしました。私が日本にとどまったのは、なにか楽観したいたわけでもなく、諦めていたわけでもなく、自分自身が日本という社会に絡めとられているという現実を、ふだんそんなに気がつかないことを突きつけられたというそういう意味です。逆にいうと祖父の場合に根扱ぎにされて日本に来たんだけれどもそれから3世代のうちに私はこの社会の網に絡めとられてこの社会に根を下ろすことになっている。半ばでも、ということです。で、具体的にいうとたとえば職業。収入ということだけじゃなくて人間は自分の属している会社とか、私の場合は教員ですが、そういう社会組織と無縁に生きていけるだろうか、ということですね。外国人であるか日本国民であるかにかかわらず日本社会にその人の生活の根があるということです。それを破壊するということがどれくらい暴力的なことか、ということですね。
 

相馬市の54歳の酪農家の絶望と自死もこの「根こぎ」という国家的暴力の延長にある、それによってもたらされた悲劇であったことはいうまでもありません。徐京植さんはこの酪農家の死を「国家によって殺されたのだ」と語っていました。
内富まことさんと大畑豊さんが先月31日に福島県ではじめて開かれた原水禁主催の原水爆禁止被爆66周年世界大会に関連してCMLというメーリングリストに「脱原発運動内部における矛盾をいかに克服するのか?」という問題提起を含む下記のような投稿をされていました。

■大畑氏:Re: 原水禁大会、フクシマで初開催=脱原発訴え、デモ行進も(CML 2011年8月1日)
■内富氏:脱原発運動内部における矛盾をいかに克服するのか?―Re: 原水禁大会、フクシマで初開催=脱原発訴え、デモ行進も(CML 2011年8月1日)

そのおふたりの問題提起に対する私の応答を下記にアップしておきます。

少し遅いレスになりましたが、内富さん、また大畑さんの「脱原発運動内部における矛盾をいかに克服するのか?」という問題提起はとても重要な問題提起だと思いますし、私もその問題意識を共有します。

ということを前提にした上で、内富さん、また大畑さんの上記の問題提起に関連していくつかのことを申し述べさせていただきたいと思います。

第一に大畑さんがCML 011086で、内富さんがCML 011069で発信された「原水禁大会、フクシマで初開催=脱原発訴え、デモ行進も」というニュースに関してですが、おふたりが紹介されている時事通信、毎日新聞、読売新聞、JNN(TBS系)、東京新聞などの報道記事では「放射能のない福島を返せ」などと訴えた先月31日の約1700人が参加した福島市内のデモ行進は同地での原水禁世界大会参加者らのみによって行われたデモ行進であったかのようですが、河北新報の記事によれば、同デモ行進は同地での原水禁「大会に先立ち、福島県平和フォーラム」が主催した「原発のない福島を求める県民集会」参加者ら約1700人によって行われたデモ行進であったようです。

私は確認してはいませんが、他の人からの情報によれば、この「原発のない福島を求める県民集会」について8月1日付の「赤旗」(紙版4面。インターネット版にはなし)は次のように報道しているようです。

原発のない福島を求める県民集会が31日、福島市内で開かれ県内外から1700人が参加しました。福島県平和フォーラムの主催。幅広い団体が賛同して取り組まれたもので、日本共産党福島県委員会、新婦人県本部、県労連女性部も賛同しました。

すなわち、今回の原水禁を主催団体とするフクシマでの原水爆禁止被爆66周年世界大会の関連行事として行われた「原発のない福島を求める県民集会」には、単に主催団体としての原水禁関係者だけでなく、これまでことあるごとにといってよいほどさまざまな局面で原水禁と対立することの多かった共産党を含む原水協系の団体や労働組合も賛同、参加しています。この「原発ゼロ」をめざすためのフクシマでの共同の動きは、内富さんのおっしゃる「『国民的大統一戦線』を構築するため」の3.11以後の特記すべき重要な変化のあかしのひとつと見てよいのではないでしょうか。私たちはこの重要な変化の兆しを見逃してはならないと思います。それと同時にこの重要な変化の兆しを私たちはきちんと評価することの大切さを思います。

ですから、京都の識者4氏が呼びかけ人となっている9月10日に予定されている「原発NO! 京都府民大集会」とバイバイ原発・京都や地球温暖化防止京都ネットワークなどが呼びかけ団体となっている「9・11大行動」(1000人~3000人規模)が競合しないように調整することは決して不可能なことではないだろうと私は思います。内富さんも「調整できたらと思」っています、とおっしゃっておられるので、内富さんたちのご努力に期待したいと思います。

第二に大畑さんの先日の共産党の「原発ゼロ」宣言に関する「反省して路線を変える、と言うならまだしも『当初からきっぱり反対してきました』って、どうなんでしょ」(CML 011086)というご指摘についてですが、この点については私も大畑さんとほぼ同様の共産党に対する疑問と疑念を持っています。 そして、同様の疑問や疑念を持っているのは単に大畑さんや私ばかりではありません。

たとえば共産党ウオッチャーの村岡到氏(『プランB』編集長)は「共産党の『原発ゼロ』はセクト主義」(村岡到の探理夢到 2011年6月9日)という論攷の中で大畑さんの疑問とほぼ類似の問題を挙げて次のような重要な指摘をしています(私は村岡氏と見解を異にするところが多く、その他の問題で村岡氏を全面的に評価するものではないことをお断りしておきます)。

昨日、国会図書館で1954年の「アカハタ」を閲覧した。この年の6月にソ連邦が世界最初の原発運転を開始したので、それを共産党がどのように報道したのか確かめるためである。予想以上に絶賛していた。「ソ同盟原子力発電所操業を開始」「平和利用を実現 人類史に新しいページ」(略)「ソ同盟科学技術の勝利」「無限の繁栄を約束」の大見出し。次の日は「原子力は人間に奉仕する」とモスクワ放送を記事にした。(略)不破哲三氏は、1961年の会議で原発反対の決議を上げたことがあることを古文書を探し出して強調し、「それ以来、この問題でのわが党の立場は一貫しているのです」と歴史を偽造しているが、折角、歴史を探るのなら、その7年前にもさかのぼる必要があるのではないか。

さらに「日本共産党三中総 『原発撤退』方針の積極面の裏で危機が深行」(『プランB』第34号)という論攷では次のような指摘もしています。

日本共産党は、七月三日、四日に第三回中央委員会総会(三中総)を開き、当面の活動方針を決定した。最大のポイントは、共産党が「原発撤退」を「綱領的課題の一つとして位置づけ」て活動すると明確にしたことである。これまでは政党のなかで「脱原発」を明確に主張していたのは社民党だけだったから、積極的な決定である。(略)そのことを明確にしたうえで、三中総の問題点を明らかにしよう。(略)この短評では詳述できないが、次の文章を思い出す必要がある。「社会党は、原発推進と『原発絶対反対』との間を動揺。各地で混迷を深めているのが現状です。この原発絶対反対と関連をもった一部のニセ『左翼』や『原水禁』グループなどが策動しています」。これは、一九八八年五月の「赤旗」の主張であり、『原発推進政策を転換せよ』(一九八八年)というパンフレットに収録されている。当時は、この認識を基礎に、共産党は反原発運動に消極的だったのであり、「原子力の平和利用」に力点があった。

上記の村岡氏の指摘に関連して私もこの問題について地元の図書館で当時の「赤旗」記事を探索してみましたが、村岡氏の指摘する記事のほかにもたとえば「赤旗」の88年4月22日付けの「ニセ『左翼』集団主導の4・23反原発集会」という記事では今回のフクシマ原発事故でもその存在の貴重さと大きさを広く市民に知らしめることになった原子力資料情報室を1975年に設立した故高木仁三郎氏や『暗闇の思想を―火電阻止運動の論理』(朝日新聞社、1974年)や『ルイズ―父に貰いし名は』(講談社、1982年。全国学校図書館協議会選定図書、第4回講談社ノンフィクション賞受賞)などの名著があり、草の根の視点から市民運動情報を発信し続けるミニコミ誌として全国的に根強い購読者の層があった『草の根通信』を1973年から2004年に死去するまで発行し続けた故松下竜一氏や、さらには「日本はこれでいいのか市民連合」批判という形で晩年には当の共産党自身が推奨してやまない九条の会の世話人でもあった(ある)故小田実氏や鶴見俊輔氏(鶴見氏が「日本はこれでいいのか」に実際に参加していたかどうかについては私は詳らかではありませんが、「ベ平連」時代からの小田実氏との関係から見ても鶴見氏は仮に正式な「日本はこれでいいのか」の参加者ではなかったとしても少なくともそのシンパサイザーであったということだけは確かなことのように思います)までもを「ニセ『左翼』」の一員として激しく糾弾しています。

今回の集会は、こうした運動の盛り上がりを「原発とめよう」のスローガンのもとに組織し、大量動員を競って、市民権を得ていこうというのが、ニセ『左翼』各派の反共主義者、反党盲従集団のねらいです。/集会の実行委員会の事務局は、プルトニウム研究会・原子力資料情報室や「反原発新聞」編集部などの所在地となっており、高木仁三郎氏が中心的な役割を果たしています。彼はニセ「左翼」暴力集団の暴力活動として有名な「三里塚闘争」に参加していたことや、大学で「全共闘」運動にかかわっていたことをみずから認めている人物(『わが内なるエコロジー』)です。(略)「一万人行動」の実行委員会の参加団体には、三菱重工爆破犯を美化している松下竜一氏(「草の根通信」)や、反共市民主義の「日本はこれでいいのか市民連合」、原水禁運動の分裂組織「原水爆禁止国民会議」などが顔を並べています。(「赤旗」 1988年4月22日付)

上記に見るようなこうした共産党のこれまでの数々の誤まった主張を根本的に反省することもしないでそのまま放置しておいて、「それ(1961年)以来、この問題でのわが党の立場は一貫しているのです」(不破哲三前中央委員会議長「『科学の目』で原発災害を考える」 赤旗 2011年5月14日付)とか「原発技術は未完成で危険なものだとして、その建設には当初からきっぱり反対してきました」(志位和夫委員長「原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入を国民的討論と合意をよびかけます」 日本共産党HP 2011年6月13日付)とかいう共産党の頑なでかつ牽強付会、自己正当化の姿勢を改めない限り同党の「原発ゼロ(脱原発)宣言」には常に疑問符がつきまとうことは避けられないことのように思います。左記の姿勢は、私は、共産党のためにもとても残念なことであると思います。

私は先のCML2011年5月3日付けで発信したメールにおいて浅井基文さん(元外交官、政治学者)の論攷を援用して、共産党の原発政策の理論的根幹に伏在している問題性について「1963年の第9回原水爆禁止世界大会当時の『いかなる国』問題と同根の理論的問題を含んでいるように思われること」を指摘することがありました(「『日本共産党の原発政策の転換について』という岩佐英夫さん(京都・弁護士)発信のメールへの応答」 弊ブログ 2011年5月4日)。

浅井さんはその引用論攷の中で次のように慨嘆していました。その慨嘆は私の慨嘆でもあります。

こういう認識(引用者注:日本の原水爆禁止運動において社会党・総評指導部は日本原水協から脱落していったが、日本原水協及び共産党は核兵器廃絶の大義を守りつづけてきたという共産党・志位委員長の認識)からは「今なお分裂し、このままではじり貧を免れない(としか私には思われない)日本の原水爆禁止運動の深刻な状況を直視する真摯な姿勢を窺えないことを非常に残念に思う」、「日本の平和運動の今日における沈滞は1963年の原水爆禁止運動における社共分裂に大きな直接的な原因があると言っても過言ではない。日本の平和運動が日本の世論を引っ張り、世界の平和を引っ張る力を発揮することを強く願うだけに、上記の志位委員長の発言は、正直言って理解に苦しむ。そして、このような自己正当化の主張を公然と行う共産党の姿勢は、やはり多くの国民・人々の共感を遠ざける方向に働かざるを得ないことを、私は恐れる。」

そのことを改めて問題提起して内富さん、大畑さんへの応答に代えさせていただきたいと思います。

しかし、繰り返しますが、第一で述べた今回の原水禁を主催団体とするフクシマでの原水爆禁止被爆66周年世界大会の関連行事として行われた「原発のない福島を求める県民集会」に主催団体としての原水禁関係者だけでなく、共産党を含む原水協系の団体や労働組合も賛同、参加したことは、「『国民的大統一戦線』を構築するため」の3.11以後の特記すべき重要な変化のあかしのひとつと見てよい事象だと思います。私たちはこの重要な変化の兆しをきちんと評価することの大切さを思います。