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東大教授の児玉龍彦さんが3日前の衆院厚労委員会で福島第1原発の問題について「怒り」の陳述をしたことはいま私がここで語らなくてもよく知られているところだと思います。
 
2011.07.27 国の原発対応に満身の怒り - 児玉龍彦(youtube)
児玉龍彦氏の怒りの発言/文字起こし(「阿武隈(原発30km圏内生活)裏日記」ブログより)
説明要旨(3頁 衆議院厚生労働委員会 2011年7月27日 東京大学アイソトープ総合センター長 児玉龍彦)
児玉龍彦国会発表詳細(31頁)

この児玉教授の衆院厚労委員会での意見陳述について一部に無条件の賛美が溢れる一方で、あるメーリングリストでかつて(およそ20年ほど前)児玉氏はスカベンジャー受容体という動脈硬化の原因の発見で一躍世界に名を馳せたことがあることを知る人から要旨次のようなフォローをする投稿がありました。

頭にあることを全て表現するのに口が追いついていかないような彼の性急な陳述は、一般の人にわかりやすいものとは言い難い。でも、全てが一級の学識に裏打ちされていることは、察してあげて下さい。

たしかに児玉氏の陳述は一般の人には必ずしもわかりやすいとは言いがたいところがあります。難しい用語のある陳述を「性急」にしゃべりすぎているきらいがあるからです。以下は、そのフォロー者への私の応答です。参考としてエントリしておきたいと思います。

(前略)

児玉教授の陳述について、「頭にあることをを全て表現するのに口が追いついていかないような彼の性急な陳述」というのは正確なご指摘だろうと思います。必ずしも「一般の人にわかりやすいものとは言い難」かっただろうと私も思います。

しかし、3日前の児玉教授の衆院厚労委員会での意見陳述には私もそのひとりですが多くの人が感動しました(そういう感動の声を私はたくさん読みました)。

私を含むそうした人びとの感動の背景のひとつには、もちろん彼の発言の「全てが一級の学識に裏打ちされていること」へのある程度人生を経験した(からこその)市民の直感的な理解があったことがあげられるように思います。私の観察によれば、市民(ここでは「苦労人」と自注しておきます)にはそういうことを直感的に「察する」力があるのです。

もうひとつ。「怒り」の表現についての市民のこれも直感的な洞察があげられるように思います。かつて山口泉という作家は「怒り」について次のように語ったことがあります。

人間のあらゆる感情のなかで、最も清潔なものは何だろう? それは怒りであると、私は思う。/的確な論理と厳密な倫理とに裏打ちされた、ほんとうの怒りとは、何と清潔な感情であることだろう(『世界』1996年6月号)

「怒り」こそ真正の意味で論理的な表現というべきではないか(『松下竜一 その仕事』第15巻「砦に拠る」解説)

あの意見陳述における児玉教授の「怒り」の中にあった「清潔な感情」を市民は直感的に理解したのです。だからこそ多くの人びとが感動した。児玉教授の「怒り」の陳述が多くの市民に感動を与えたもうひとつの理由はおそらくそういうところにもあっただろう、というのが私の理解です。

「怒り」とは別の言い方をすれば「語り口」の問題ともいえるかもしれません。(略)児玉教授の「怒り」の陳述を文章に起こしたものを読んでも、人びとはおそらく彼の「怒り」の内実をよく理解しえないのではないでしょうか? 彼の真正な「怒り」は文章ではないところ、すなわち「語り口」によって表現されていたように思われるからです。改めて「語り口」の持つ意味、その大切さを思います。
脱原発政治は(菅でも小沢でもなく)誰が担うのかという問題について、また、世上で言われるいわゆる菅首相の「脱原発解散」評価に関して下記のブログ記事に考え方のヒントを教えられ、また共感するところが多くありました。

世上(その多くはメディア)に言われる菅総理の「脱原発解散」(仮にそういうことがあったとして)に乗ってしまうのは小泉ポピュリズムが席巻したあの「小泉フィーバー」のときの二の舞を演じる危険性(原発推進政党でしかない民主党(注)を「脱原発宣言」という言葉のポピュリズムだけで結果として救うことになる)を私として感じますが、下記記事に見るような「次期内閣が原発推進を口にしようものならたちまち支持率が暴落するであろう恐怖におびえるくらい国民的な運動」が「盛り上」がった段階での「脱原発解散」であるならばむろん私は賛成します。

次の選挙で原発推進をほのめかす政党には決して投票しないことです。つまり民主党も自民党もアウトということですね」という結論部分はとりわけ重要な指摘だと思います。

注:民主党が原発推進政党でしかないことは、民主党・菅内閣が2010年6月18日に閣議決定した「エネルギー基本計画」に「原子力発電を積極的に推進する」(p27)「核燃料サイクルは、(略)確固たる国家戦略として、引き続き、着実に推進する」(同左)と明確に記されていること(この閣議決定は民主党・菅内閣の公式見解としていまも生き続けているのに対し、菅首相の「脱原発宣言」は同首相個人の「私の考え方を申し上げた」(山本公一氏の項の21分45秒頃~)個人的見解にすぎません)。また、2010年参議院選挙時の民主党のマニフェスト・政策集においても「政府のリーダーシップの下で官民一体となって、高速鉄道、原発、上下水道の敷設・運営・海水淡水化などの水インフラシステムを国際的に展開」(PDFp5)すると記されていること。さらに少なくとも6人の民主党議員が東京電力の原発推進を図る労働組合である電力総連から合計8740万円もの献金を受けているという事実があること(AERA 2011年4月25日号)。さらにまたその電力総連は2人の労組出身者(小林正夫、藤原正司)を参議院に送り込み、2010年の参院選では蓮舫(現内閣府行政刷新担当大臣)、北澤俊美(現防衛大臣)、江田五月(現法務大臣)、輿石東(現民主党参議院議員会長)をはじめとする48人の民主党議員に推薦を出している(女性セブン 2011年4月28日号)という事実があることなどなどからも議論の余地のない明白なことだといわなければならないでしょう。

以下、転載です(赤字強調は引用者)。

菅総理は真剣に脱原発を考えるなら海江田氏の首を切るべき(Afternoon Cafe 2011.07.26)

私は菅政権発足当初から不支持を表明し、一貫して辛口の批判をしてきました。今もそれにかわりありません。
特に消費税増税や、普天間基地問題で今の閣僚の沖縄に対する無礼な態度など、ひとつも支持できません。本来なら退陣に値すると思っています
ですが今の菅降ろしの政争劇に与さないのは、それが原発推進したい勢力による「国盗り合戦」だからです。決して積極的に菅総理を支持しているわけではありません。
次に来るであろう内閣は間違いなく原発推進の方向に逆戻りしようとするでしょう。菅総理を下ろしたい民主党内の勢力も自民党も原発を再稼働させたくてうずうずしています。
菅総理も菅降ろしに熱心な民主党内の勢力や自民党政治家と所詮同じ穴の狢ですが、なんとか脱原発の方向を向いているその一点だけは菅降ろしの勢力に比べかろうじてマシだと言えます。政府の方針が原発推進に後戻りすることに手を貸すことだけは避けたいです。
今の菅降ろしが成功すれば次には菅政権よりもっと悪い政権になるのは間違いないでしょう。・・・まったく何でいつもbetterかbestではなく、worseかworstの消極的選択肢しかないのだろう、とため息つかざるを得ないのですけどorz

しかし脱原発に関して菅総理の方がまだましとはいっても、決して菅総理をあてにはできないことは肝に銘じなければなりません。菅総理の脱原発の信念など見ての通り吹けば飛びそうなか弱さです。特に、海江田氏の暴走に釘を刺そうともしないことには大いに不満です。

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海江田経産相:原発輸出交渉 トルコに経産職員派遣へ
http://mainichi.jp/select/biz/news/20110724k0000m010030000c.html

 海江田万里経済産業相は23日、テレビ東京の番組に出演し、原発プラントの受注に向けて交渉中のトルコに、近く経産省職員を派遣し、日本の原子力技術の安全性などについて説明することを明らかにした。菅直人首相は「脱原発依存」を打ち出したが、海江田経産相は原発輸出に力を入れる姿勢を改めて明確にした。

 海江田経産相は番組で、トルコや既に受注が決まったベトナムが、東京電力福島第1原発事故後も日本の原子力技術に期待しているとの認識を示し、「トルコに行って実際の技術をしっかり話して来てくださいと(指示した)」と述べた。

 原発輸出については、21日の参院予算委員会で、菅首相が「議論したい」との答弁を繰り返す一方、海江田経産相はベトナムやトルコに「特派でも派遣して説明する必要がある」と交渉を続ける姿勢を示していた。【和田憲二】

毎日新聞 2011年7月23日 19時06分(最終更新 7月23日 22時56分)
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菅総理、あなたが総理なのですから総理の脱原発指針に添わず独断で原発推進に突っ走る大臣は首を切るべきじゃないですか?もし私が総理なら、前回勝手に玄海町原発安全宣言を出した時点で海江田氏を罷免しています。
しかし菅総理は海江田氏をとがめるわけでもなくそのまま。
そして記者会見でやっと脱原発宣言したかと思えば、閣僚から反発を買って速攻「あれは個人的見解です」と腰砕けるていたらく。
これじゃ誰が首相かわかりゃしません
だいたい脱原発方針に一斉に反発する閣僚達って、どれだけ国民と乖離してるんだか・・・

経産省官僚の巻き返しがものすごいのは想像に難くないですが、官僚主導から政治主導へってのは民主党のウリじゃなかったんですか? なんで菅総理は今こそ「政治主導」を発揮しないんです?

おそらく菅政権の先はもうほとんどないのですから、最後くらい反原発でびしっと筋を通して花道を飾ってはいかがですか?

また、海江田氏の次のような発言も見過ごしてはおけません。

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「線量計つけず作業、日本人の誇り」 海江田氏が称賛
2011年7月24日0時15分
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201107230699.html

  海江田万里経済産業相は23日のテレビ東京の番組で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の作業に関連し、「現場の人たちは線量計をつけて入ると(線量が)上がって法律では働けなくなるから、線量計を置いて入った人がたくさんいる」と明らかにした。「頑張ってくれた現場の人は尊いし、日本人が誇っていい」と称賛する美談として述べた。

  番組終了後、記者団に対し、線量計なしで作業した日時は確かでないとしたうえで、「勇気のある人たちという話として聞いた。今はそんなことやっていない。決して勧められることではない」と語った。

 労働安全衛生法では、原発で働く作業員らの健康管理に関連し、緊急作業時に作業員は被曝(ひばく)線量の測定装置を身につけて線量を計るよう義務づけられている。作業員らが被曝線量の測定装置をつけずに作業をしていたのなら、法違反にあたる。厚生労働省は、多くの作業員に線量計を持たせずに作業をさせたとして5月30日付で東電に対し、労働安全衛生法違反だとして是正勧告している。
(引用ここまで)
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戦前の特攻隊賛美と同じ精神構造ですね。
特攻隊を美談と感じる時代錯誤甚だしい感覚の持ち主が政治の中枢にいてはいけません。

こんな海江田氏の首を切れない菅総理に脱原発を全面的に委ねる気には到底なれません。ですから
日本がドイツやイタリアと同じく脱原発に明確に舵を切るには、次期内閣が原発推進を口にしようものならたちまち支持率が暴落するであろう恐怖におびえるくらい国民的な運動を盛り上げることしかないのではないでしょうか。今こそ国民が主権者であることを認識し、間接民主制の欠陥を国民的な運動で補う時ではないかと感じるのです。そして次の選挙で原発推進をほのめかす政党には決して投票しないことです。つまり民主党も自民党もアウトということですね。
ちょっとズレているかもしれませんが、菅首相の「脱原発宣言」の評価するか否かの以前に、日本社会の現状で市民の立場から、次のように「脱原発解散」を主張する意味はあると思うのですが、いかがでしょうか。
 
Cさん、はじめまして。

抽象論としての市民の立場からの「脱原発解散」のご主張は理解できますが、実質的な衆議院解散権は、内閣、それもその内閣を主宰する時の総理大臣にありますから、市民による衆議院解散の主張は、そこに仮にどのような市民の深甚な願いや思惑が託されていたとしても、結局のところ、時の内閣、時の総理大臣の思惑や党利党略、私利私略に利されるということに結果としてならざるをえないのだと思います。そういう意味で、市民が衆議院解散を要求し、主張することは国民主権の立場からもにきわめて当然な所為だとは思いますが、同時に、市民がその主張を為すに到るまでには時の政権政党、時の政権為政者の党利党略、私利私略に利されないという相当の見きわめと判断が求められることのように思います。仮にその主張が時の政権政党、時の政権為政者の党利党略、私利私略に利されるようなことにでもなれば、いったいその「解散」の主張は何のためのものであったのか。元も子もなくなるという事態が起こりえないという保証はないわけですから。

ところでいま、菅首相は「脱原発解散」を心ひそかに目論んでいるのではないか、というのがもっぱらのメディアと政界スズメの憶測です。そのメディアと政界スズメの憶測の筋書きはおおよそ次のようなものです(強調は引用者)。

「当初は、とりあえず浜岡原発を止めてみた。とはいえ原発をすべて止めるほど度胸もなく、問題点も詰めていなかった。あのときどういう状況だったかといえば、小沢一郎元代表が菅政権倒閣の決意を固めて、まさに倒閣の流れが盛り上がる直前だったのだ。/そこに意表を突くような夜7時からの停止要請会見で、菅内閣の支持率は急上昇した。断崖絶壁に追い込まれつつあった状況で、浜岡停止要請が流れを変える大きなきっかけになったのだ。

「今回も同じである。「菅辞めろコール」が与野党に広がる中、ようやく格好をつけた内閣改造でひと息入れたかと思えば、予想外の松本龍復興相辞任劇で再び、政権の求心力に大きな疑問符がついた。/ここは原発再稼働路線を続けるよりは、国民受けする脱原発姿勢に舵を切り替えた方がいい。そんな判断に傾いたとみていいだろう。ようするに、人気取りで原発政策が行ったり来たりしているのである。」

「延命のためなら退陣表明まででっちあげる男/こうなると次の展開も大方、予想がつく。/政権が苦境に追い込まれれば追い込まれるほど、菅は脱原発に傾く。逆に支持率低下が一段落すれば、脱原発を離れて現実路線=再稼働容認路線に戻る。支持率次第で重要な原発政策が左右されてしまうのである。/これからどうなるかといえば、菅内閣の支持率が劇的に改善する要素はほとんどない。むしろ内閣の亀裂状態が深まる中、支持率は低下する可能性が高い。となれば、菅は脱原発姿勢を次第に強めていくとみていい。/菅は市民運動出身の政治家として、国民受けする政策を見極める直感力と目の前に迫った危険を避ける逃げ足の速さだけは、かねて官僚の間でも定評がある。いま菅の手元にある「使える道具=政策」は脱原発だけだ。/菅は脱原発で突っ走るしか道はない、と思い定めつつあるのではないか。」

「・・・・財源と重要政策を人質にとる形で解散・総選挙とはひどい話だが、菅ならそれくらい、やりかねない。なにしろ延命のためなら、自分の退陣表明でさえでっち上げる首相なのだ。追い詰められれば、脱原発を大義名分に解散・総選挙に走る可能性はますます高まったのではないか。」

上記は一メディアにおける一著者の憶測にすぎませんが、実は私もこの著者とほぼ同様の憶測と懸念(懸念の方向性は違いますが)を抱いています。

「市民運動出身の総理」という市民の「菅神話」の残滓がいまだ根強くあるいまの段階での市民による「脱原発解散」の主張は、上記で私の言う「時の政権政党、時の政権為政者の党利党略、私利私略に利される」ことになり、また、先のメールで私が述べた私たちが「『政権交代』という一点の大事さを思うあまり」民主党に投票し、その結果としてある普天間「移設」問題、高校授業料無償化からの朝鮮学校外しなどなどの数々の民主党の裏切り行為という臍をかむような苦々しい経験を反復する愚を犯すことに再度手を貸すことになるのではないか。この件に関する私の最大の懸念はそういうものです。
「煮え切らない中途半端な態度」こそが、【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論なのです。それが分からない人は、政治オンチ。理屈ばかり並べて、何も実現できない。

菅直人の「粘り」を「権力亡者」だと批判するのは、逆に「権力への妬み」ではないかと
 
Bさん

「煮え切らない中途半端な態度」と「粘り」とは違います。「粘り」とは、ある目標なり目的があって、その目標や目的の実現のために「根気強く最後までやりとおそうとするさま」(大辞泉)のことをいいます。「粘り」は「中途半端」とはまったく逆の概念です。

それにしても「『煮え切らない中途半端な態度』こそが、【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論なのです」とはなんとも牽強付会な政治論です。このような政治論は浅学菲才にして私は聞いたことはありません。

Bさん

「浜岡原発のすべての原子炉の運転停止を要請しながら、一方で2、3年後には同原発を再稼働させることを中部電力に確約する」ことは「煮え切らない中途半端な態度」ということはいえますが、「【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論」、また「粘り」のひとつということはできますか?

また、脱原発宣言をしたその記者会見で、「原発の再稼働は『大丈夫となれば稼働を認めることは十分あり得る』」と述べる(中日新聞 2011年7月14日)ことが、「【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論」、また「粘り」のひとつということはできますか?

さらに「脱原発方針を表明した日の翌日に、トルコの首相あての祝電の中で、引き続き、原発の売り込みに意欲を示」す(FNNニュース 2011年7月15日)ことが、「【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論」、また「粘り」のひとつということはできますか?

さらにまた、菅首相の脱原発宣言について閣内を含む民主党内や党外からの批判が高まるやすぐに国会において「(脱原発宣言は)私個人の考え」にすぎないなどと釈明することが、「【政治的】に【脱原発】を【延命】させるために必要な方法論」、また「粘り」のひとつということはできますか?

冗談じゃありません。首相としての発言は、「個人」ではなく「公人」としてのものに決まっているじゃありませんか。首相としての責任をきちんとわきまえてもらいたいものです」(五十嵐仁の転成仁語 2011年7月17日)。政治家としてきわめて整合性のない「中途半端な態度」、もっと厳しく言えば「欺瞞的な姿勢」というほかないものではありませんか?

スポーツ報知の記事(2011年7月16日)にも「鳩山由紀夫前首相(64)も、米軍普天間飛行場の移設問題に関し「最低でも県外というのは私の個人的な思い」などと語り、その後政権は崩壊した」とあります。菅首相の発言はそのような性質のものというほかないのではありませんか?

「自民党」「民主党」「共産党」などという「伝統的組織政治の枠組み」で、この問題を捉えるのは大間違いです。そういう「党派性」の破壊者「市民ゲリラ」出身だからこそ、菅直人は、「右」からも「左」からも嫌われ、憎まれ、嫉妬され、叩かれるのです。

国会は「自民党」「民主党」「共産党」などという政党の枠組みから成り立っています。その枠組みのひとつひとつの吟味なくしてどのような政治批評、政党批評があるえるというのでしょう? その枠組みの中での具体的政党批評、また政党批判のない政治批評などそれこそ「絵空事」の政治批評、意味のない政治批評にしかなりえないのではありませんか? 具象の政党批評、また政党批判と「党派性」とはこれもまったく違った概念です。また、Bさんのおっしゃる「『党派性』の破壊者『市民ゲリラ』出身の菅直人」は民主党というまぎれもない大政党、党派性そのものを代表する党首(ボス)です。そういう菅直人を「『党派性』の破壊者」のごとくいうのはまったく当たらない批評といわなければならないでしょう。

付記:
上記で紹介した法政大学の五十嵐仁さんの論は次のように続いています。
(以下、略。前エントリ参照)

五十嵐さんの指摘する上記の3つのことができれば私も菅首相のほんもの性を認めます。しかし、そういうことは残念ながら菅首相には決してできないだろうというのが私の判断であり、先の私のメールの趣旨でもありました。残念ながら、です。

私は、そのような菅首相のパフォーマンス以上のものとはみなせない脱原発宣言を高く評価しすぎることは「菅政権の延命に結果として手を貸すことにしかならないだろう」、と先の「政権交代」選挙後の民主党の普天間「移設」問題、高校授業料無償化からの朝鮮学校外しなどなどの数々の裏切り行為という苦い苦い経験を念頭に同じ過ちを繰り返すべきではないと警鐘を鳴らしているのです。
 前回の標題エントリ記事にはいつにもまして多くの反応がありました。そして、その多くは菅首相の脱
 原発宣言を評価する人たち(脱原発宣言以前に菅直人その人を評価する人たち、と言っておいた方
 が実際に則した表現といえるかもしれません。が、私はその人たちの心性の純粋さを疑うものではあ
 りません)からの反論、あるいは反論のようなものでしたが、同記事はもともとその人たちを念頭にお
 いて、あるいはその人たちにさらなる再考、再度の熟考をうながすために認めた記事でしたので、そう
 した反応ははじめからある程度は予想されたものでした。これから何回かに分けて掲載する記事は、
 そうした菅首相の脱原発宣言を評価する人たちの反応への私としてのいくつかの応答です。前回標
 題記事で私があえて物申しておきたかったこと、問題提起しておきたかったことの内実をさらに理解
 していただくための一便にはなりえていると思います。何回かに分けて掲載するゆえんです。

菅首相宣言の後、イギリス人からメールがきて、(略)あちらでは菅首相宣言はドイツの政策転向に次ぐ驚きとなっている模様です。日本全体や、米国(福島からのプルトニウムやストロンチウムを検出)を初めとする諸外国に与えた影響を考えれば、菅首相宣言くらいが当然で、他の民主党や自民党の現状維持派が、おかしいはずです。

Aさん。私は菅首相の脱原発宣言は「当然で」はないと言っているのではありません。首相として脱原発宣言は発するのはそれ自体としては当然のことです。ただ、菅首相の同宣言は、「何とも煮え切らない中途半端」なもの(浜岡原発のすべての原子炉の運転停止を要請しながら、一方で2、3年後には同原発を再稼働させることを中部電力に確約するがごとき)で信用できない。もちろん、その「方向性には同意する」ものの「政権延命のために、国民の人気取りに走っているだけ」(東京新聞社説)の自己保身のためのパフォーマンス以上のものには見えない、と言っているのです。

彼の脱原発宣言がパフォーマンス以上のものでないことは、その論よりの証拠として閣内を含む民主党内や党外からの批判が高まるやすぐに国会において「(脱原発宣言は)私個人の考え」にすぎない、と釈明したことに端的に現れています。この菅首相の釈明について、たとえば共産党の志位委員長は「こんな無責任な首相はいない。政治家としての資質が根本から問われる。これからは菅首相が何を言っても『それはあなた個人の見解ですか』と確認しなければ、話が先に進まない。内閣として原発撤退に取り組む意志はないと言ったに等しい」と厳しく批判しています。当然すぎる批判といわなければならないでしょう。

そのような菅首相のパフォーマンス以上のものとはみなせない脱原発宣言を高く評価しすぎることは「菅政権の延命に結果として手を貸すことにしかならないだろう」、と先の「政権交代」選挙後の民主党の普天間「移設」問題、高校授業料無償化からの朝鮮学校外しなどなどの数々の裏切り行為という苦い苦い経験を念頭に同じ過ちを繰り返すべきではないと私は警鐘を鳴らしているつもりなのです。

もし「日本は原発をこのまま国内では維持、海外では促進する」とでも対外宣言すれば、他国の政府はともかく、多国民から怒号のメールが押し寄せるかもしれません。

上記の私の指摘とも関連するのですが、菅首相は原発の「海外での促進」について積極的な対応をしています。以下の事実も菅首相の「脱原発宣言」の偽善性、欺瞞性を証明してあまりあることのように思います。「多国民から怒号のメールが押し寄せ」てきてもまったくおかしくない事態といえないでしょうか?

菅首相、脱原発方針表明の翌日にトルコ首相に売り込み(FNNニュース 2011年7月15日)

菅首相が脱原発方針を表明した日の翌日に、トルコの首相あての祝電の中で、引き続き、原発の売り込みに意欲を示していたことがわかった。政府関係者によると、菅首相は14日、6月の総選挙で勝利したトルコのエルドアン首相に、両国の協力関係の継続を求める祝電を送り、その中で、原発の受注交渉の継続を希望-していることがわかった。菅首相は、前の日に原発のない社会を目指す考えを示したばかりで、原発の輸出を進めることとの整合性が問われるとみられる。

それがどうして日本では、維持派が菅降ろしに結束しあえるのかわかりません。(略)そちらの議員たちのほうに、私は大変失望と怒りを覚えます。

菅首相のこれまでの原発政策、「脱原発宣言」の不整合とその欺瞞性を実証的に明らかにし、真の脱原発政治を実現しようとする菅批判と「(原発)維持派の菅降ろし」の策謀(民主党内では小沢派の議員が多い。吉良州司も小沢派議員のひとりです)とを混同し、一緒くたに批判するのは、結果として信実を藪の中に放り込み、真の脱原発を阻害する以外のなにものでもない逆立した批判ならぬ批判でしかない、と私は思います。

ところで、大分1区選出の吉良州司議員の、脱原発は「国益」にならない、という主張はどう思いますか?

吉良州司については私は以前から彼を「プチ右翼」と批判してきましたが、吉良が「プチ右翼」議員にすぎないことは全国的にもよく知られるようになってきました。彼のいう「国益」とは天皇制論者、あるいは新しい歴史教科書をつくる会系の「国益」思想と大差のない、というよりも同じものです。Aさんのおっしゃるとおり彼の地元のこの大分の地で彼の「国益」思想の危険性について市民に機会あるごとに広く知らしめていくことはきわめて重要なことだと私も思います。いま、彼が「プチ右翼」議員であることは全国的にもよく知られるようになってきたとはいったものの、逆にこの大分の地では彼の正体はよく知られていません。なんとかしなければならないとは常々考えていることです。原発問題に関しての吉良批判はとりあえずは下記の「きまぐれな日々」の批判で事足りるように思います。

原発推進勢力の顔ぶれを見よ。中曽根康弘、渡邉恒雄、石原慎太郎、与謝野馨、平沼赳夫、鳩山由紀夫などなど。みんな、もうすぐ政治の世界からいなくなってしまう人たちばかりだ。(略)それがわかっていないのが、民主党の吉良州司、長島昭久以下の右翼議員で、彼らは菅首相の記者会見が行われた13日、なんと「原発の早期再稼働」を求める文書を提出した。愚かな小沢信者は、このニュースを報じる読売新聞ほかの記事にリンクを張って「菅降ろし」の気勢を上げているが、ついに小沢信者は極右にして原発推進勢力である連中とも意気投合するかに至ったかと呆れるばかりだ。

付記:

菅首相の脱原発宣言に関して「菅首相の「原発ゼロ」表明を「無責任」な「絵空事」に終わらせてはならない」という小論を法政大学の五十嵐仁さんが7月14日付けで書いています。五十嵐さんの論は次のようなものです。

「このようななかで、菅首相も15日午前の閣僚懇談会で「私個人的の考えだ」だなどと釈明し、無責任な対応を示しました。冗談じゃありません。首相としての発言は、「個人」ではなく「公人」としてのものに決まっているじゃありませんか。首相としての責任をきちんとわきまえてもらいたいものです。/原発推進勢力の巻き返しにあって、菅首相自身がたじろいでしまっては困ります。このまま曖昧にされれば、やっぱり「無責任な放言にすぎなかったのか」ということになりかねません。/具体的な施策によって裏打ちされなければ、単なる「絵空事」に終わってしまうでしょう。(略)/菅首相の「原発ゼロ」に向けての表明を「無責任」な「絵空事」に終わらせてはなりません。そのためには、3つのことが必要です。」

「第1には、閣内や民主党内を「原発ゼロ」をめざす方向でまとめることです。事前の協議や調整がなかったというのであれば、これからきちんと詰めればよいのです。/閣議で、閣僚1人1人の意見を確認するべきでしょう。もし、従わないというのであれば、罷免すれば良いだけのことです。」

「第2には、後継政権への継承を確実にすることです。これは、有力な次期後継者がいる閣内での意思統一を図ることで、かなりの部分は達成されます。」

「第3には、具体的な段取りや計画を策定することです。菅首相は、先の記者会見で「原発に依存しない社会を目指すべきだと考え、計画的、段階的に原発依存度を下げる」と述べましたが、そのための具体的な計画を示しませんでした。/早急に、これを策定しなければなりません。電力供給の不足を招かない形での原発依存度の低下が可能であることを、具体的に示す必要があるでしょう。」

五十嵐さんの指摘する上記の3つのことができれば私も菅首相のほんもの性を認めます。しかし、そういうことは残念ながら菅首相には決してできないだろうというのが私の判断であり、先の私のメールの趣旨でもあります。残念ながら、です。

菅期待論はやめた方がよい(小沢期待論も同じです)、脱原発政治を実現することには決してならない、というのが私の意見です。では、どうすればいいのか? 答はこれまでの私の文脈から明らかなように思います。蛇足ながらこれは党派性の問題ではありません。脱原発政治が真に実現できるかどうかの問題です。
菅首相の「脱原発宣言」の評価について、当面最小限のこと、かつ、私として本質的と思われることについて私の見方と意見を述べておきたいと思います。

菅首相の「脱原発宣言」」(7.13記者会見)の評価について、次のような意見がある種説得力のあるメッセージとして少なくない人々の共感を得ているようです。

首相自身が政府見解ではなく個人の考えだと国会で釈明して後退しているものの、この7.13記者会見「脱原発発言」は基本的には原子力村の住民に対する市民的な良識のひとつの勝利の現れだと思う。これは政治的にひとつのチャンスだと捉えるべきでしょう。これを確保し、橋頭堡としていきながら、情勢を発展させて「政府見解」へと成長させなければなりません。そのためには首相としての菅直人が公然たる記者会見の場で明言した「原発に依存しない社会を目指す」という「個人の考え」を政府内にも首相自身にも再確認をせまることが重要だと思う。

上記の発言は、菅首相の3・11以後の一連の「何とも煮え切らない中途半端」な原発政策、また行政指揮、また発言は必ずしも支持しないし、支持できるものでもないが、まかりなりにもこの国の政治の最高責任者である一国の宰相が「脱原発宣言」を「公然たる記者会見の場で明言した」のである。これは政治的なきわめて大きなチャンスである。菅首相の政治的資質がたとえ「煮え切らない中途半端」なものであろうとなかろうとこの大きなチャンスをものにしないという手はない。この一国の宰相の言質をわれわれはそれこそ質にとって「原発に依存しない社会」を真に実現させる橋頭堡にするべきだ、という趣旨で、一見たしかに説得力のあるメッセージであるように見えます。

しかし、急いでいるので結論部分しか述べませんが(「当面」というゆえんです)、私は、こうした菅評価、あるいは菅発言利用論ともいうべき上述の主張は、「何とも煮え切らない中途半端」な原発政策(浜岡原発のすべての原子炉の運転停止を要請しながら、一方で2、3年後には同原発を再稼働させることを中部電力に確約するがごとき)、したがって「脱原発宣言」を口では唱えながら結局のところ原発推進政策に帰着するであろうことが目に見えている菅首相、菅政権の延命に結果として手を貸すことにしかならないだろうと思っています。すなわち、「『原発に依存しない社会』を真に実現させる」ことには決してならないだろう、と。

下記の記事をお読みください。本日付け(注:本稿脱稿時)の産経新聞の記事です。

首相、9月国連総会出席に意欲 演説草案作りを指示 外交ドミノで退陣封じ!?(産経新聞 2011年7月17日)

菅直人首相が9月下旬に米ニューヨークで開かれる国連総会への出席に強い意欲を示していることが16日、分かった。複数の政府筋が明らかにした。(略)外交日程を早めに固めることで8月退陣論を封じる狙いもある。退陣表明しながら続投に固執する首相に与野党は不信感を募らせており、8月の壮絶な『菅降ろし』攻防は避けられそうにない。/複数の政府筋によると、首相は9月21日から始まる国連総会一般討論演説に出席し、自ら演説する意向を示し、外務省に演説の草案作りを指示した。(略)/首相は昨年の国連総会にも出席しており、2年連続となれば平成16、17両年の小泉純一郎首相(当時)以来。ある政府関係者は『首相は小泉元首相を強く意識している。連続出席で長期政権の基盤を固めるつもりではないか』と語った。
 
「菅降ろし」にいささかバイアスがかかった感のある記事ではありますが、指摘されている事実はそのとおりでしょう。菅首相の「脱原発宣言」は多くのメディアも指摘しているとおり、与野党を問わない「菅降ろし」の合唱の窮地に陥った菅首相の自己保身のための窮余の一策だと見るのが妥当なところ、というのが上記の記事からもうかがえることのように思います。「9月下旬に米ニューヨークで開かれる国連総会への出席に強い意欲を示」すなどそれこそ「公然たる民主党代議士会」で辞任表明をした人が倫理的に為せることではないでしょう。

菅首相の「脱原発宣言」支持の訴えは菅首相の自己保身のための延命戦略に逆に利用されるだけだろう、というのがこの件に関する私の判断です。

いま、市民の間では菅政権評価が二分しています。同じように小沢政権待望論も市民の間で評価が二分しています。しかし、人々はなぜ菅か小沢かにこだわるのでしょうか? 菅か小沢かでなぜ思考停止してしまうのでしょうか? どっちに転んでも私に言わせればどちらも民主党の枠内での政治、あるいは自民党を含む2大保守政党制の枠内でのコップの中の嵐での人事にすぎません。そして、民主党政権も自民党勢力も原発推進を唱える政党です。であるならば、そこでの人事がどのようなものであったとしても基本的に「脱原発」への政策転換は望みがたいものがある、といわなければならないのではないでしょうか。

いま私は一昨年の「政権交代」選挙で民主党への支持が膨れ上がった弊害について思っています。あのとき「政権交代」という一点の大事さを思うあまりかつては社会党、社民党支持であった人たち、また共産党支持であった人たちの多く、あるいは少なくない人たちが民主党支持に回ってしまいました。その民主党支持が一回限りの現象ではなくずるずるといまも続き、その弊害が菅か小沢かという民主党サイド、あるいは2大政党制の枠組みの視点からでしかものを見ることができない元「革新」の人(自身は自分のことを「革新」の人だと思っているところがこの新民主党支持者の特徴です)をあまりにもたくさん輩出させてしまった。この弊害と悔恨と反省について・・・

この点については改めて述べます。
放射線の低線量被曝について「年100ミリシーベルト以下ならだいじょうぶ」という流言飛語(注1)を「長崎大学医学部教授」、また「長崎市出身の被爆2世」、また「チェルノブイリ原発事故の医療支援にも長年携わってきた長崎と日本における被曝医療の第一人者」などという肩書きと「権威」の名の下に「避難」というあてどのない難民の旅を余儀なくされている福島の原発被災者に発して、一躍時の人となり、「フクシマの笛吹き男」、また「Mr.100mSv」などという異名もとる(もちろん、批判と揶揄の対象として)あの長崎大学医学部教授の山下俊一氏が「請われ」て福島県立医科大の副学長に就任するというニュースが原発関連記事のはざまの中で流れています。わが耳を疑い、やりきれない思いでこのニュースを聴いた人も少なくないはずです。

県立医大:副学長に山下氏 放射線健康管理、指導や人材育成 /福島(毎日新聞 2011年7月9日 福島版)

山下氏は福島第1原発事故を受けて、今年3月から県の放射線健康リスク管理アドバイザーを務めている。県立医大は「今後、大学が県民の放射線健康管理の拠点となることから、指導や人材育成に必要と判断した」と説明した。

長崎大:山下教授、福島医科大副学長に15日就任 被ばく医療の人材育成 /長崎(毎日新聞 2011年7月9日 長崎版)

片峰茂・長崎大学長は8日の会見で「本大学の被ばく医療の絶対的リーダーを出向させることは痛いが、長崎・広島が六十数年間研究、蓄積してきたものを福島で生かすことは科学者として当然。大学を挙げて支援していく」と話した。

山下氏の「年100ミリシーベルト以下ならだいじょうぶ」発言の非科学性については科学者、医学者からの科学的、医学的観点からの批判も多く、私ごとき理科音痴の徒がここで改めて多言を費やす必要もないでしょう(注2、注3)。ここでは私は、上記の世間では一応長崎を代表する知識人とみなされるだろう片峰茂長崎大学学長の「本大学の被ばく医療の絶対的リーダー」(毎日新聞 同上)とするがごとき軽薄にして浅薄な(「権威」を唯一の評価尺度とする、というほどの意味)山下氏評価(注4)は、被爆の地、長崎の「戦後」において、いったいどのような道筋を経て醸成されてきたのか。また、機能してきたのか。ごく最近あるメーリングリストを通じてひとりの長崎市民と交わした「往復書簡」(と、一応言っておきます)の一部をご紹介させていただくことによって、その「権威」なるものの正体、その「権威」なるものの愚かしく着到すべき地点について、私の思うところの所感を述べてみたいと思います。

そして、その私の所感を述べるためには、長崎からのあるひとりの市民の臨場感のある「報告」という前提が欠かせません。あるひとりの長崎市民と私のやりとりを「往復書簡」として紹介させていただくゆえんです。

*あるひとりの長崎市民の文章の転載についてはご了承をいただいています。

●[あるひとりの長崎市民 第1信](2011年6月5日付)

(前略)
長崎では約一ヵ月後に迫った8月9日、原爆投下の日を前に地元マスコミがどんな特集を組むか、準備を重ねています。その中には全国放送されるものもあります。

今日、長崎のローカルテレビの記者と話していて、その記者がこう話していました。
「今年の原爆忌は原発問題を抜きにしては報道できない。長崎大学の山下教授を出したいけど、出したら、ウチの社がたたかれるから出せない」

これ、すごいことだと思いませんか?
もちろん全てのマスコミがそう思っているとは限りませんが、私たちが山下教授を問題視することで、メディアが彼を出すことを躊躇しています。

変化は確実に起きています。

松本復興省の言動は憤りを通り越すものですが、「書いた社は終わり」と言われてもメディアが報じたことで彼は辞任に追い込まれました。国や電力会社が赤信号で通せんぼしていても

赤信号 みんなで渡れば怖くない!

今まで書きたいけど書けなかったというメディアの人たちも青信号にする日までがんばってー!

●[東本 第1信返信](2011年6月6日付)

Aさん

長崎市からのAさんならではの臨場感溢れるご報告、敬意と興味をもって拝読させていただいています。

ところで標題メールに関してAさんにひとつ質問があります。

長崎のローカルテレビの記者が「長崎大学の山下教授を出したいけど、出したら、ウチの社がたたかれるから出せない」とAさんに話されたということですが、そのローカルテレビの記者の話の趣意がいまひとつ判然としません。

その意は、「長崎大学の山下教授を(私(記者)としては)出したいけど」というものなのでしょうか? それとも「長崎大学の山下教授を(ウチの社としては)出したいけど(私(記者)は反対)」というものなのでしょうか?

もし、前者の意であるとするならば、「私たちが山下教授を問題視することで、メディアが彼を出すことを躊躇して」いるというご認識はそのとおりでしょうし、そういう意味で私も一歩前進だと評価してよいとは思いますが、だからといって、ローカルテレビの記者の話を「青信号」の予兆のように評価するのには少々飛躍があるように思います。

メディアはひとりひとりの記者によって形づくられます。そのひとりの記者が「長崎大学の山下教授を(私としては)出したいけど」と考えているのだとすると「青信号」ではなく、まだまだ「赤信号」といわなければならないように思います。

Aさんは聞いてみられましたか? 「あなた(記者)個人としてはどう思っているの?」、と。もし、くだんの記者が前者のごとき考え方をしているのであればAさんは「青信号」などと安心せずに、その記者の認識の「赤信号」のゆえんを彼(記者)ともっと話しこむ必要があったのではないでしょうか?

くだんの記者が後者の考え方をしているのであれば、たしかに「青信号」の予兆、と受け止められるもののように私も思います(ひとりの例で大局を判断することはもちろんできませんが)。

●[あるひとりの長崎市民 第2信](2011年6月6日付)

こんにちは、長崎のAです。
外は土砂降りの雨です。皆様の町は大丈夫でしょうか?

> 長崎のローカルテレビの記者が「長崎大学の山下教授を出した
> いけど、出したら、ウチの社がたたかれるから出せない」

(略)

と語ってくれた記者は、長年原爆報道に関わってこられた方です。

まず、長崎のことを先に書きます。
3.11以降、長崎の新聞やテレビはいっせいに山下教授のインタビューを取り上げました。それは彼がチェルノブイリで長年研究を続けてきた長崎の被爆者医療の「顔」的存在だったからです。

私は山下教授とは挨拶しか交わしたことがありませんが、「すごい方なんだ」と思っていました。3月11日までは。

3月11日以降の新聞には、山下教授の「安心安全」「子どもはどんどん外で遊ばせていい」などのインタビューが載りました。ん?と思い、ネットでの情報を見、「言ってることがおかしい!」と思い至りました。

ところが、そう思う人ばかりではなかったのです。
被爆者の信頼もあつい熱心な記者たちが、山下教授を批判する意見に
「御大になんてこと言うんだ」
「今まで電気使ってたんだろ」
というブログを書いたり、私がどんなに資料を出して説得しても、まるで壁に向かって話しているように、受け入れてもらえませんでした。
長崎のメーリングリストでも、批判するのは数人だけ。一種の山下信仰が覆っているかのように。

私が話した何人もの被爆者もそうでした。
被爆者は山下教授と「長いおつきあい」のある人たちばかりです。
「20ミリシーベルトはおかしいでしょう」と言っても「ぼくたちは専門家じゃないから」という答え。
悔しい、悔しい思いをずっとしてきました。

そんな長崎だったから、おとといの記者の台詞は、ようやく風穴があいた、という気がしたのです。

私の印象では、「本来なら福島の事故を受けて、長崎の放射線権威である彼を原爆忌に出すというのは当然どこのマスコミも考えること。
しかしそれを長崎のメディアが躊躇している」というふうに受け止めました。
その記者も、地震の前から山下教授とつきあいのあった記者ですがこう言っていました。
「今までは良かったけど・・教授は今回のことでミソつけたね」。
やっとここまできたのです。

(後略)

●[東本 第2信返信](2011年6月7日付)

Aさん、ご返信ありがとうございました。

山下俊一というひとりの医者(長崎大学医学部教授)が長崎という被爆の地でこれまでどのような「権威」を自身として矜持し、また県民から扶持されてきたか。長崎独自の事情の一端がよく理解できました。そのような文脈の中での長崎のローカルテレビの記者の言葉であった、ということも。

しかし、「権威」の人は所詮「権威」に躓き、「権威」の階梯を超えられない人なのですね。

山下氏の「年100ミリシーベルト以下ならだいじょうぶ」発言は、帰するところ「国」という「権威」に跪拝する小「権威」者の「小役人根性」(ドストエフスキー『地下室の手記』ほか)、その小心ゆえの俗情に求められるように思います。

山下氏の上記発言の論拠は次のようなものでした。

結論を言うと、どうぞ安心して、安全だと思って日常生活を送ってください。/なぜなら、国が年20ミリシーベルトと基準を定めたからです。/私は、個人的には100ミリシーベルトでもだいじょうぶだと思っています。なぜなら、それ以下の被曝の発ガンリスクは、科学的には証明されていないからです。(注5)」(池田香代子ブログ『20ミリシーベルト問題 山下教授の論理に乗ってみる』参照)

「権威」というものがいかに愚かしく、馬鹿馬鹿しいものであるか。現在進行形の「山下教授事件」はその格好の材料を提供してくれているもののように私には見えます。

注1:「流言飛語」とは注2以下で述べる事実をもってそう言っています。
注2-1:ここではひとつだけ100mSv/年以下の低線量被曝の「生物学的影響」について警鐘を鳴らしている米国科学アカデミーのBEIR-VII報告をご紹介させていただこうと思います。『電離放射線の生物学的影響に関する第7報告(「一般向けの概要」日本語訳)』。
注2-2:なお、上記のBEIR-VII報告(日本語訳)の要点は、弁護士でNPJ編集長の日隅一雄さんのブログ記事「枝野官房長官に抗議の内容証明を送りませんか?~あまりに非科学的な安全デマに唖然!」(2011年7月10日付)で簡潔に紹介されています。ご参照ください。
注2-3:上記の米国科学アカデミーのBEIR-VII報告は次のような記事にもなって紹介されています。
線量限度の被ばくで発がん 国際調査で結論」(共同通信 2005年6月30日)
注3:放射線の低線量被曝の危険性については下記「ペトカウ効果について―低線量被曝の恐ろしさ」(CML 2011年7月11日付)についてという記事もご参照ください。
注4:片峰長崎大学学長は下記では山下氏について「専門家として福島の原発事故による健康影響について一貫して科学的に正しい発言をしている」などと滑稽にも絶賛すらしています。片峰学長も山下氏と悲しいかな同類項の悪しき「権威」の人と強く批判されなければならないでしょう。
http://www.nagasaki-u.ac.jp/ja/about/message/katamine/message97.html
注5:この山下氏の発言も真っ赤なうそであることはたとえば注2-3の記事に見るとおりです。

追記として:

●[あるひとりの長崎市民 第3信](2011年6月10日付)

(前略)
それから昨日、内科医師であり、チェルリブイリ・ヒバクシャ救援関西の発起人である振津かつみさんの講演会が長崎で開かれました。

「もう二度とヒバクシャが生み出されないことを願っていたのに福島の事故が起こってしまった。福島の事故はおそらく、皆さんが生きている間は解決しません」と、時折声をつまらせながら、チェルノブイリでのデータを中心に下記のお話をされました。

「放射能はこわくない。こわいのはPTSDだ、と言っている長崎の大学教授がいるけれど、チェルノブイリでPTSDが原因で病気が増えたと疫学的に証明したデータは1つも見たことがない」

「長崎原爆の被爆者が、66年たっても様々なガンを発症しているように、チェルノブイリもこれから。福島は、1-20ミリシーベルト/年の場所に約150万人が住んでいる。福島には放射能の津波がやってきたのです」

「これから国や福島は、県民の健康調査はすると思うけれど治療の予算がどれだけ取れるか。検査はしても治療をしないのではABCCと同じ」

「ICRPの線量限度は科学じゃなく社会・経済的に決めている」

「原爆被爆者が健康手帳を勝ち取ってきたように、福島でも健康手帳を今後実現させていかなければ」などなど。

会場からの質問・意見では長崎大学の山下教授への批判も出されました。すると一人の若い男性が手をあげました。「私は長崎大学で山下先生を手伝っています。先生は人望も厚くてすばらしい先生です。youtubeで講演が流れているけど断片的なので誤解をしている。全部とおして見て欲しい」。

会場はざわざわ・・
と、振津先生がマイクを取って
「本人が人望が厚いということ云々ではなく、原発推進に組み込まれていることが問題。断片的といっても、間違ったことを言っているからyoutubeに流れている。チェルノブイリでは発生したのが子どもの甲状腺ガンだけと言っているがそれは間違い。福島の人々に何が必要なのかを考えてほしい」。

会場からは拍手が起こりました。

(後略)
反原発運動に相渉って胸に刻みつけておきたい日のしるべです。

1959年6月30日
 
反原発運動に相渉って心に刻みつけておきたいウチナンチューの言葉です。
 
「ヤマトゥでは現在、福島第一原発の事故によって自分たちの生活が脅かされるにいたり反原発運動が盛り上がっている。しかし、米軍基地問題に関しては、大方は相も変わらず他人事のようだ。」(目取真俊 2011年6月30日)

宮森小学校への米軍機墜落から52年(目取真俊 海鳴りの島から 2011年6月30日)

「1959年6月30日、旧石川市(現うるま市)の住宅街に米軍のジェット戦闘機が墜落し、宮森小学校に突っ込んだ。小学生11人、一般住民6人の死者を出すという大惨事となった。その日から52年目を迎えた。」

「沖縄にとってこの事故はけっして過去のものではない。肉親を失った家族や当時の教師、同窓生、地域住民にとって生々しい記憶としてあるだけでなく、米軍機の墜落によって新たな犠牲者が生まれることへの不安に、沖縄県民は今もさらされ続けているのである。」

「1959年はヤマトゥでは砂川事件で伊達判決が下された年である。翌年には日米安保条約の改定に対する大規模な闘争が起こった。その後、日米両政府は米軍基地の沖縄への集中化を進め、ヤマトゥでの反基地闘争を沈静化していった。ヤマトゥでは現在、福島第一原発の事故によって自分たちの生活が脅かされるにいたり反原発運動が盛り上がっている。しかし、米軍基地問題に関しては、大方は相も変わらず他人事のようだ。」

参考1:
1959年沖縄 「宮森小」事件 1965年沖縄 「少女轢殺」事件 そして消された争点「沖縄」(弊ブログ 2010年7月2日)

参考2:
崖(石垣りん詩集『表札など』所収 1968年)

戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら何やら。
火だの男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。あの、
女。              (「崖」)