CML(市民のML)という公開型のメーリングリストに福島第一原発の問題の本質とメディアの責任について「福島第一原発の問題の本質 ジャーナリズムの2つの禁忌(2011年 6月29日)という問題提起の投稿がありました。下記はその問題提起に対する私の応信です。本ブログにもエントリし、問題提起の問題提起をしておきたいと思います。

田島さん

原発問題に関する311以来の本質的な情報発信のご努力に敬意を表します。

が、政府と東電の情報隠蔽に加担して、無知のゆえか、あるいはその非倫理体質のゆえか、そのどちらでもあろうと私は思っていますが、そのことについて恥じることをまったく知らないメディアの反ジャーナリズム性(逆説的な言い方ですが、いまやそう呼ぶよりほかありません)、あるいは似非と言ってもよいのですが、その根腐れした非ジャーナリズム性を批判することはきわめて当然なことだとしても、「福島第一原発の問題の本質」を論じようとして、その「問題の本質」は、「東京電力の不作為でも菅内閣の実行力のなさでも」ない。「情報の隠蔽とメディアによるその加担につき」る、というのは、それこそ「本質」を見誤らせる俗の俗なる評価といわなければならないだろう、と私は思います。

田島さんの標記の論に関連していまからご紹介しようと思っています金平茂紀さん(放送メディア・ジャーナリスト、TBSテレビ執行役員(報道局担当))の論、「【放送】原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない」でも引用されている言葉ですが、今回の「福島第一原発の問題の本質」は、「情報の隠蔽とメディアによるその加担」というよりも、それ以前の問題として、「『官―政―業―学―報』(元NHKの科学ジャーナリスト小出五郎の言う『原子力ファミリー・ペンタゴン』)」がこれまで一体として構築してきた原子力推進体制の虚構が一挙に白日の下に晒されたことにある。メディアの情報隠蔽への加担は、あくまでもその一端としての「報」の部分の綻びというものでしかない。そのように見るべきものであろう、と私は思います。

そのように見なければ事の本質を見誤つだけでなく、「本質」の背後にある巨大な悪(端的に言ってかつての自民党政権時代の政治とそれを継承するいまの民主党政治(一部に根強い擁護論のある菅政権であれ、小沢信奉者の待望する小沢「政権」であれ、民主党枠内の政治であることに「本質」的になんら変わりはありません)に表象されるもの。したがって、それは、私たちの意志次第で変えられるものでもあります)を取り逃がしてしまうことにもなるだろう。そう私は思います。

さて、以下にご紹介する金平茂紀さんの論はさすがあの「筑紫哲也NEWS23」の番組編集長(デスク)を8年間務めあげた秀腕の記者だけあって反ジャーナリズム・メディアの虚報の弊を衝いて鋭いものがあります。田島さんの指摘するメディアの「2つの聖域、タブー」についても触れています。

以下、金平記者の論の抜粋です。

「科学ジャーナリストの塩谷喜雄は原発事故後にあらわになった「権威への帰依」=「思考停止の風潮」を次のように激しく批判した。《メディアの解説に登場する「専門家」に求められているのは、見識や先見性ではない。あえて言えば、専門性ですらない。大学教授、研究部長などの「肩書き」である。肩書きは何の安全も保障しない。しかし、読者や視聴者を「権威」に帰依させることで、吟味や評価という面倒なプロセスは省ける》(月刊「みすず」2011年5月号)。/メディア側が出演交渉の際に参考にしたであろう、或いは作成したであろう原子力の「専門家リスト」は、そのような人物たちで占められていた。(2)にあるように反原発派、原発批判派の学者や研究者、識者らはすでに出演者リストから外されていたとみるべきだろう。」

「その意味で、NHK報道局が3月21日付で出した内部文書「放射線量についての考え方」は興味深い文書だ。/福島放送局長、仙台放送局長、水戸放送局長、本部関係各部局長あてに出されたこの文書には、民放各局の同種文書にはない次のような文言がある。《(政府は)今のところ、原発から半径20キロに出している避難指示と、20キロから30キロまでに出している屋内退避の指示を変更する予定はありません。我々の取材も政府の指示に従うことが原則です》《(NHKの原子力災害取材マニュアルは)……ひとつの参考データと考え、取材を続けるかどうかは政府の指示に則して判断することにします》。/ここでは、報道機関としてのNHKが「政府の指示」を相対化する視点を完全に放棄している点に着目しなければならない。」

「最後に(7)専門記者の育成はきわめて重要な課題だ。中途半端な、あるいは不正確な知識に基づくコメントや解説は取り返しがつかない影響を視聴者、読者に与える。幸い僕が勤務する局には、地震や火山噴火、気象、原発事故に関して基本的な知識を提供できる専門記者たちがごく少数ながらいた。だが、多くのテレビ局のなかにはそのような人材が全くいない局もある。/本誌と同じ朝日新聞社から、僕がテレビ報道の仕事を始めた1977年に、ある本が発行された。『核燃料 探査から廃棄物処理まで』という本で、著者は朝日新聞科学部記者(当時)の大熊由紀子氏だ。先輩記者から「これはまあ教科書のような本だから一応目を通せ」と言われるほど影響力があった本だが、今、読み返すと、推進側に偏した内容がきわ立つ。/《原子力発電所が、どれほど安全かという大づかみの感触には変わりはない。あすにでも大爆発を起こして、地元の人たちが死んでしまう、などとクヨクヨしたり、おどしたりするのは、大きな間違いである》《私は、原発廃絶を唱える多くの人たちが書いたものを読み、実際に会ってみて、彼らが核燃料のことや、放射線の人体への影響などについて、正確な知識を持ちあわせていないことに驚いた。多くの人たちが、アメリカの反原発のパンフレットや、その孫引きを読んだ程度の知識で原発廃絶を主張していた》。/同じく元朝日新聞論説主幹の岸田純之助氏は、日本原子力文化振興財団の監事をされていらっしゃる。これらの人々に今、聞いてみたい。今回の福島原発の事故をどのように思っているのか、と。自分たちのかつての言説に対する責任をどのように感じているのか、と。」

「その作業は、戦後まもなくの頃、吉本隆明らが行った知識人の「転向」研究と性格が似ているのかもしれない。だが、誰かがやらなければならない作業だと思う。なぜならば前項で記したように原発推進に異を唱えた人々は、ことごとく迫害され排除されてきた歴史があるからだ。/私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか。」

なお、金平茂紀さんの論の全文は下記のとおり。

【放送】原発とテレビの危険な関係を直視しなければならない(金平茂紀 朝日新聞  「メディアリポート」 2011年6月10日)
 
 この原稿は大震災発生からほぼ2カ月の時点(5月9日)で書いている。大津波は壊滅的な被害を残して一応「去った」が、原発事故はいまだ「現在進行形」だ。そこで本稿は、原子力発電所事故とテレビ報道の関係に敢えて絞って書き進める。それはこの問題にこそ、なぜ日本の原発が今回のような惨事を引き起こす事態に至ったのかを解くための、きわめて重要なカギが含まれているように思うからだ。とりあえず論点を整理しておく。

 (1)今回の原発事故の重大性、深刻さをテレビは伝えることができたか? メディア自身にとって「想定外」だったことはないか? 当初の「レベル4」という原子力安全・保安院発表に追随するような「発表ジャーナリズム」に疑義を呈することができていたか?

 (2)事故について解説する専門家、識者、学者の選定に「推進派」寄りのバイアスがなかったか? その一方で「反対派」「批判派」に対して排除・忌避するようなバイアスがなかったかどうか?

 (3)原発からの距離によって描かれた同心円による区切り(原発から何キロ圏内)を設定してメディア取材の自主規制を行っていたことをどうみるか? さらに各メディアによって設けられた取材者の被ばく線量の基準は妥当だったかどうか? 一方で、線量計を持参して原発至近距離までの取材を試みたフリーランンスの取材者をどのように評価するか?

 (4)「風評被害」の発生について、テレビはどんな役割を果たしたのか? パニックの発生を恐れるあまり、過剰に安全性を強調することがなかったか? 安全性を主張する際にその根拠にまで遡及して報じていたか?

 (5)「国策」化していた原子力発電推進について、テレビが果たしてきた役割を検証する自省的視点があったかどうか? 電力会社の隠蔽体質や情報コントロールについて批判する視点が担保されていたかどうか? 

 (6)テレビにおける過去の原子力報道の歴史を共有できていたか? 原発を扱うことをタブー視する空気にどこまで抗してきたかどうか? スポンサーとしての電力会社を「相対化」する視点がしっかりと確保されていたかどうか?

 (7)テレビに限らず、企業メディアにおける科学部記者、専門記者の原子力発電に関する視点、立ち位置が批判的に検証されてきたことがあるか? 何よりもテレビにおいて、原発問題に関して専門記者が育成されてきたかどうか? 記者が推進側と「癒着」しているような構造はなかったかどうか?

 以上の整理は、まだ生硬なものだが、論をすすめる意味合いで構成した。重複も多々ある。

●テレビが報じ損ねた原発事故の重大性

 (1)(2)について。結論から言えば、テレビは当初、今回の原発事故の重大性を報じ損ねた。初期段階では、大津波による壊滅的な被害状況に報道の関心が奪われており、そのこと自体はやむを得ない面もあっただろう。東京電力の地震発生後の第一報も緊急炉心冷却装置が働いて稼働が停止したというものだった。

 だがまもなく「外部電源のまるごと喪失」という最悪の事態が明らかになった後でさえ、テレビに登場していた「専門家」「識者」「学者」の大部分は、「圧力容器と格納容器は燃料を多重に封じ込めており大丈夫」「検出されている放射線量は、1年間そこに居続けても自然に浴びる放射線量よりやや高い程度で、ただちに健康に問題が生じる量ではない」「核分裂反応は停止しているから、チェルノブイリのような爆発は起こらない」等と「安全」言説を繰り返していた。ましてや、水素爆発が起きて建屋が破壊された後にあってさえ、そのような言説を主張し続けていた者もいた。私たちはそのことを実際にみてきた。

 問題は、なぜ「専門家」「識者」「学者」がそのような言説を繰り返す人々で占められていたのか、だ。私たちメディアの側が声をかけて出演交渉をしたのだ。その時、私たちはどのような基準で彼らを選んだのか。

 科学ジャーナリストの塩谷喜雄は原発事故後にあらわになった「権威への帰依」=「思考停止の風潮」を次のように激しく批判した。《メディアの解説に登場する「専門家」に求められているのは、見識や先見性ではない。あえて言えば、専門性ですらない。大学教授、研究部長などの「肩書き」である。肩書きは何の安全も保障しない。しかし、読者や視聴者を「権威」に帰依させることで、吟味や評価という面倒なプロセスは省ける》(月刊「みすず」2011年5月号)。

 メディア側が出演交渉の際に参考にしたであろう、或いは作成したであろう原子力の「専門家リスト」は、そのような人物たちで占められていた。(2)にあるように反原発派、原発批判派の学者や研究者、識者らはすでに出演者リストから外されていたとみるべきだろう。

 この「肩書き」「権威」のまやかしを厳しく批判していたのが、故・高木仁三郎だった。彼の立場=「市民科学者」という概念がいかに重要な意義をもっているかがわかる。生活エネルギーの本来の受益者である市民の立場に立った科学の在り方が問われていたのに、彼の死後、それに応えるような「権威を疑う視点」はメディア内部でどんどん弱くなっていったのだ。

 保安院の事故評価が「レベル4」という今から考えれば信じられないような「過小評価」をしていた理由は何だったのだろうか。事故評価が「レベル5」に引き上げられたのは地震発生から7日後、そしてさらに史上最悪の「レベル7」に引き上げられたのは32日後だ。この間メディア側はひたすら「発表」を待っていただけだった。海外の原子力関係機関が「レベル4」の評価を聞いて疑義を唱えていた事実があったというのに。

 当局=お上からの「発表を待つ」という思考の枠組みがメディア側に染みついていなかったか。保安院や原子力安全委員会には、電力会社側の「暴走」をチェックする監視役に自らがあることの意識の致命的な欠如がみてとれる。そもそもなぜ「保安院」が経済産業省「内」にあるのか、という根本的な疑問をメディアも提起してこなかった。

 要するに、原子力事業を進める上で「官―政―業―学―報」(元NHKの科学ジャーナリスト小出五郎の言う「原子力ファミリー・ペンタゴン」)の強固な構造が出来上がっており、その間には何の緊張感もなく、むしろもたれあい、相互チェックをする体制などなかったのだ。そのことをテレビ報道に携わる者は今からでも遅くないから(いや、もう遅いか)考えなければならない。

 (3)について。地震発生直後のシミュレーションにおいては同心円を描くことは一定の意味があった。原発から何キロ地点にどの都市が位置しており、どのような位置関係にあるかを知ることには意味がある。だがモニタリングによる一定の放射能に関する測定情報が入ってきて以降、同心円という線引きに実体的な意味はなくなった。実際の放射能分布は、同心円状にではなく、地形や風向きなどの要素によって不定形状にまだら状に拡散していたのであって、福島県内でいえば、南相馬市よりは飯館村や葛尾村の方がはるかに数値が大きかったし、福島市内の放射線量も結構高かったのだ。

 僕の知る限り、在京、および福島県内の主要メディアは原発から20キロ圏内、30キロ圏内、あるいは40キロ圏内の立ち入り、取材を制限、自主規制するという内規を決めた。僕の手元にはいくつかの在京民放の原発取材マニュアルや、新聞、通信社の同様のマニュアルがある。さらにはNHKの内部文書もあるが、民放各社は概ね、原発から30~40キロ圏内での取材を自主規制の範囲としていた。もちろん局によって運用に濃淡があった。また東北地方の民放各社は概ね東京のキー局の作成した内規、マニュアルに従った行動をとっていた。

 住民に対しては国が、20キロ圏内に避難指示、30キロ圏内に屋内退避または自主避難という基準を設けていたが、なぜメディアはそれよりも広めの基準を課したのか。ここが最も考究されなければならない点だろう。

 たとえばある在京キー局は、応援取材に入った系列局は「土地勘がなく、万が一の場合などは適切な避難行動が困難」なので、地元局は30キロ圏外は取材可、応援系列局は40キロ圏外というように差を設けていた。別のキー局は一律40キロ圏内を「立ち入り禁止」としていた。取材陣は地元住民と違ってすぐには移動が困難だ、との判断がその根拠だという。さらに別のキー局では、取材者に対しては「さらに慎重を期して」地域内住民の避難指示の2倍の同心円内での取材制限区域を設ける、とある。いずれの民放も自局の自主的な判断による規制だった。

●NHKが放棄した政府指示の相対化

 その意味で、NHK報道局が3月21日付で出した内部文書「放射線量についての考え方」は興味深い文書だ。

 福島放送局長、仙台放送局長、水戸放送局長、本部関係各部局長あてに出されたこの文書には、民放各局の同種文書にはない次のような文言がある。《(政府は)今のところ、原発から半径20キロに出している避難指示と、20キロから30キロまでに出している屋内退避の指示を変更する予定はありません。我々の取材も政府の指示に従うことが原則です》《(NHKの原子力災害取材マニュアルは)……ひとつの参考データと考え、取材を続けるかどうかは政府の指示に則して判断することにします》。

 ここでは、報道機関としてのNHKが「政府の指示」を相対化する視点を完全に放棄している点に着目しなければならない。

 さらに但し書きの項目では年間許容被ばく量について言及しており、年間被ばく量を1ミリシーベルト以下に抑えるというICRP(国際放射線防護委員会)勧告の数値は、《「放射線は浴びないのに越したことはない」という極めて保守的な考えに基づいた値です》《放射線医療の国際的な考え方として、100ミリシーベルトまでは、ほとんど健康被害はみられないというのが一般的です》と断じていた。

 ちなみに民放の被ばく線量の基準では、あるキー局の場合、「年間積算が1000マイクロシーベルトまで」「時間当たりでは10マイクロシーベルトで会社に連絡をとり、30マイクロシーベルトでただちに取材中止」となっていた。

 フリーランスの綿井健陽は、事故直後の3月13日に福島第一原発の至近距離である福島県双葉町の原発正門前まで到達して取材・撮影したジャーナリストのひとりである。綿井の記録によれば、午前10時15分ごろ、双葉町役場前で線量計の針が振り切れ、同10時35分頃の双葉厚生病院内でも線量形の針が振り切れていたという(19・9マイクロシーベルト以上)。僕自身は、福島県内の飯館村取材中に瞬間値で6マイクロシーベルトを記録したことがあった。

 このようなフリーランスの行動を「無謀」と批判する声がある一方で、圏内に住民がいるのに取材活動を自主規制することは報道の責務を放棄するに等しいという反論が聞かれた。

 企業メディアの枠内で長年仕事をしているジャーナリストの鳥越俊太郎も避難指示区域内の原発正門前まで到達したひとりである。彼は次のように言う。《私が問題だと思うのは、日本のメディアがこのエリアに警察の同行以外で入って取材しないことです。戦場取材も危険です。でも、戦場には記者もカメラマンも入ります。なのに、放射能となるとなぜ全員右へならえで自己規制してしまうのか? なぜ? 私は今はゴーストタウンと化したこのエリアをテレビカメラで取材し、いくつかの報道番組に声を掛けました。しかし、「うちで放送する」と言ってくれた局は一つもありませんでした。ふぬけですね》(毎日新聞4月18日付朝刊)。

 鳥越の主張には一定の論拠がある。先に引用した綿井氏がイラク戦争当時、バグダッドにとどまり、バグダッド陥落で国外退避した日本の主要メディアを尻目に現地取材を敢行した事実と二重写しに思えてくるのは僕だけではないだろう。

 結果的に「横並び」に陥る企業メディアの行動様式は、記者クラブ制度に対するフリーランスからの批判の構図とよく似ている。記者の取材にはリスクが常にともなうものだ。問題はそのリスクを最小化しようという企業防衛の論理が報道の論理=ジャーナリズムを凌駕することが当たり前のようになっている日本の現実なのだ。時間の経過とともに、同心円状の区切りに従った取材規制は運用上で破られて、NHKを含めてすぐれた圏内取材の成果が放送された。

 (4)について。「風評被害」は情報の真実性と伝播速度を関数として、心理的な恐怖心との相乗効果によって生じる。放射能汚染は目に見えない。また健康被害の持続時間や程度もよく理解されていない。それで野菜や魚介類の出荷停止や家畜の受け入れ拒否という事態が起きる。

 ところが発表されるのは「通常の○○○倍という数値の放射性物質が検出された」という事実だけなのだ。「この程度なら直ちに健康に害を及ぼすものではない、安全だ」と、メディアが「専門家」を介してメッセージを発する際に、その主張の根拠にまでさかのぼって安全性が報じられていただろうか。この点が心許ないのだ。この報じ方に関する懇切丁寧な「配慮の欠如」こそ、市民の不安感、不信感を増幅させたものだ。何を根拠に安全だというのかに市民が疑念をもつのは当然のことだ。その点で私たちテレビは大いに反省する余地がある。

 (5)(6)について。この点が実は今回の原発事故報道を検証する際に最も重要な論点であると僕自身は考えている。テレビ報道と原発との関係を直視する根源的な姿勢の見直しが必要だと思う。前記の小出五郎氏の「官―政―業―学―報」の原子力ファミリー・ペンタゴンの実情の一端に触れて惨憺たる思いを抱いたことにも関係がある。

 特にひどいのが「学―報」の原子力行政との癒着ぶりだ。原子力学会は日本学術会議にも属さない畸形的な組織であり、原子力開発推進を唯一の存在目的とした「利益団体」だとの声が聞こえてくる。そこに今回テレビに出てきた「専門家」「識者」「学者」たちが属していた。「自主・民主・公開」の原子力三原則が唱えられていた時代の学会とは全く別物に変質したのか。

 そしてメディア、なかでもテレビ報道のなかの原発を担当する記者の多くは、旧科学技術庁記者クラブ担当、いまでは文部科学省記者クラブ担当となっていて、テレビ局の場合は、実際、科学部系の記者が少ない。だが、それ以外に原発報道にからむ記者たちは、経済産業省・資源エネルギー庁担当の記者、経済部の電力会社担当の記者、さらには経済団体担当の記者たちが関係してくる。それに加えて、テレビ局営業の電力会社担当者、編成局の広告代理店担当者らがさまざまなレベルで絡んでくる。

 だが、僕らの先輩や先達たちは過去、勇気をもってテレビ報道の場でいくつかの試みを行ってきた。その結果いくかの不幸な出来事が起こった。

 なかでもNHKには過去、原発問題を扱ったすぐれたドキュメンタリー作品やテレビ報道があった。前出・小出五郎氏のNHKスペシャル「あすへの記録・耐震設計」(1977年)は、それらの秀逸な作品のなかのひとつである。中部電力浜岡原発内部の取材を中心に地震に対する耐震がどの程度考慮されているのかを検証した作品だ。このなかで地震学者・石橋克彦氏(神戸大学名誉教授。当時は東大助手)の警告が先駆的に取り上げられている。小出氏によれば、担当上司はとてもビビっていて、タイトルを「中性的なもの」に変えさせられ、さらに内容面でもいくつかの注文をつけられたという。

 広島テレビの岡原武氏のドキュメンタリー「プルトニウム元年」3部作は、地方の時代映像祭で大賞を受賞するなどきわめて評価の高い作品だ。被爆地・広島の視点から原発問題を直視した鋭角的な視点がきわだつ。

 放送前の社内プレビューで社長が「内容が一方的だ。君らこれを放送するんか」と言い放ったという。放映から1年後、岡原氏と上司の報道局長、プロデューサーら4名がそろって営業局に配転された。電力会社はCM出稿をストップした。電力会社の第二労働組合がかなり露骨に局に抗議を申し入れてきたという。岡原氏の件はあまりにも露骨なケースだ。岡原氏はそれから丸10年間、報道現場から外された。以降、広島の地から原発問題を正面から扱う番組はほぼ消滅した。原爆はOKだが原発はNOとされたのである。

 毎日放送の深夜ドキュメンタリー「映像.08」で、小出裕章さんら原発に異議申し立てをしている京都大学の学者たちの生活や活動を扱った作品「なぜ警告を続けるのか」は08年10月に放送された。放映後、同局内ではちょっとした騒動が起きたが、広島テレビのような露骨な事態には至らなかった。電力会社からCM出稿1カ月差し止めもあったという。この作品を実際に見る機会があったが、一体何が問題なのか。むしろ誠実なつくりの作品である。

 一般論でいえば、報道内容にスポンサーが不当に介入したとなると、アメリカでは憲法に保障された表現の自由への侵害、報道の自由への挑戦と受け止められ大問題になり、場合によっては訴訟という事態になる。ところが日本ではそうならない。事実関係の誤りであるならば訂正のしようもあるが、そのような趣旨の抗議ではないのだ。原発推進に対しては異論を許さないという一方的な姿勢の押し付けなのである。

 いずれのケースでも、共通していることがある。電力会社、あるいは「国策」の主体である「国=お上」の意向を酌んで具体的に動く人々がいて、直接間接に制作現場、あるいはその周囲に圧力を行使する。それは多くの場合、広告代理店、営業・編成部門、会社・組織の上司や管理職、同僚、後輩、場合によっては労働組合、番組審議会委員、そして最終的には、一緒に働いている人間との人間関係の破壊という形をとるのである。私たちはそろそろこの「抑圧の構造」を直視しなければならない。報道の現場において何が守られなければならないのか、を考えなければならない。

●原発を後押しした記者に責任を問う作業が必要

 最後に(7)専門記者の育成はきわめて重要な課題だ。中途半端な、あるいは不正確な知識に基づくコメントや解説は取り返しがつかない影響を視聴者、読者に与える。幸い僕が勤務する局には、地震や火山噴火、気象、原発事故に関して基本的な知識を提供できる専門記者たちがごく少数ながらいた。だが、多くのテレビ局のなかにはそのような人材が全くいない局もある。

 本誌と同じ朝日新聞社から、僕がテレビ報道の仕事を始めた1977年に、ある本が発行された。『核燃料 探査から廃棄物処理まで』という本で、著者は朝日新聞科学部記者(当時)の大熊由紀子氏だ。先輩記者から「これはまあ教科書のような本だから一応目を通せ」と言われるほど影響力があった本だが、今、読み返すと、推進側に偏した内容がきわ立つ。

 《原子力発電所が、どれほど安全かという大づかみの感触には変わりはない。あすにでも大爆発を起こして、地元の人たちが死んでしまう、などとクヨクヨしたり、おどしたりするのは、大きな間違いである》《私は、原発廃絶を唱える多くの人たちが書いたものを読み、実際に会ってみて、彼らが核燃料のことや、放射線の人体への影響などについて、正確な知識を持ちあわせていないことに驚いた。多くの人たちが、アメリカの反原発のパンフレットや、その孫引きを読んだ程度の知識で原発廃絶を主張していた》。

 同じく元朝日新聞論説主幹の岸田純之助氏は、日本原子力文化振興財団の監事をされていらっしゃる。これらの人々に今、聞いてみたい。今回の福島原発の事故をどのように思っているのか、と。自分たちのかつての言説に対する責任をどのように感じているのか、と。

 その作業は、戦後まもなくの頃、吉本隆明らが行った知識人の「転向」研究と性格が似ているのかもしれない。だが、誰かがやらなければならない作業だと思う。なぜならば前項で記したように原発推進に異を唱えた人々は、ことごとく迫害され排除されてきた歴史があるからだ。

 私たちの国の歴史で、「戦争責任」がついにうやむやにされてきたように、「原発推進責任」についても同様の道筋をたどるのか。歴史はやはり繰り返すのだろうか。

(「ジャーナリズム」11年6月号掲載)

   ◇

金平茂紀(かねひら・しげのり)

TBSテレビ執行役員(報道局担当)。1953年北海道生まれ。1977年TBS入社。モスクワ支局長、「筑紫哲也NEWS23」編集長、報道局長、アメリカ総局長などを経て2010年9月より現職。著書に『テレビニュースは終わらない』『報道局長 業務外日誌』など。
ある公開型のメーリングリストでごく最近、狭義には筑豊からかつて日本最大の石炭積出港として栄えた若松港(北九州市)へ、さらには響灘へとそそいでゆく遠賀川上で川ひらた(地元では五平太船と呼ばれていました)を操って木材、石炭などを運搬していた船頭たちのことを、広義には遠賀川沿いに住まう石炭に関係する人々のこと、またその「川筋気質(かたぎ)」の精神を継承している遠賀川流域の人たちのことをいう「川筋者(もん)」のことについて、また、それとは別件で、辺見庸の文章の「誤読」の問題について議論することがありました(議論の中身は注で示しておきます)。その議論に関連して以下のような文章を認めて発信してみました。弊ブログにおいても記録としてエントリしておきたいと思います。

3年前に東京都知事の石原慎太郎がネットカフェ難民について「ネットカフェは1500円だが、山谷は200円、300円で泊まれる宿がいっぱいある。(ネットカフェ難民を)大変だ、大変だというのは、メディアのとらえ方もおかしいんじゃないか」という超弩級の低認識発言をして多くの見識のある市民から批判されたことがありましたが、そのときにネットカフェ難民のこと、山谷労働者のこと、辺見庸のことなどについてある人と会話することがありました。

下記に再録する私の会話の中には「川筋者(もん)」についての別の角度(注1)からの私の言及があり、また、同会話では辺見庸のことについても言及しています。辺見庸については東日本大震災のことについて語った彼の文章の読解の問題を巡ってこのメーリングリストで多少の議論がありましたが(私はもっぱら「誤読」の問題にズームを絞って議論しているのですが。注2、注3)、その延長線上のこととしてではなく、辺見の文章を別の角度から検証する参考にもなりうるように私として思われるところもありますので、あえて3年前に別のメーリングリストに発信した文章を再録してみることにします(注4)。


Tさんのご投稿を読んで、私も思い出したことなどをつらつらと書いてみようと思います。

Tさん wrote:
> さて呑んだくれというのはどうでしょう? かつて盛んに呑んだくれただろう彼
> らも、仕事なく金もなければ、ドヤ代が何百円であれ払えないし、炊き出しで
> 食いつなぐのが精一杯ではないかという気がします。

そうですね。私もそう思います。

数回前のメールでもご紹介させていただいた辺見庸はそうした山谷のいま(といっても、10年ほど前)を「病んだ人の森」と表現しています。でも、そうした中でもやはり「呑んだくれ」はいるのですね。

辺見はその山谷で「一月の寒さの中、路上で朝から酒を食らってひっくり返っていて、午後見てもまだひっくり返っていて、このおっさんもう死んじゃうんじゃないかなと思ってどきどきするんだけど、次に日にはちゃんと立って歩いていたりする」男のことを以下で語っています。

Tさんのおっしゃる「諦観のようなものが覆っている」山谷のことも、「寄せ場労働者は底辺にあるがゆえに、私たちには見えない社会の構造が見えている」ことも。

辺見庸はブンヤ稼業を引き払った後(共同通信社を96年に退社)、山谷界隈でいっとき安酒をあおりながら日雇い労働の仕事をしていたことがあるようです。その契機については以下でも語っていますが、辺見は「偽善」としてではなく、東京・山谷の下町で人間の真のありようを考えようとしていたのだ、と私は思っています。そのとき「奥さま」とも離婚されたようです。どのような理由で離婚されたのか、もちろん私にはわかりません。が、新聞記者という一応「世間」に認められた職分を捨て、わざわざ東京・山谷で日雇いをするという辺見の生き方に「奥さま」は結局のところついていけなかったのだろう、というのが私ごとき下衆の勘ぐりです。

話は変わりますが、私はいまは大分市に住んでいますが、私の郷里は北九州市の若松というところです。この若松市(現在は若松区)は筑豊炭田から掘り出される石炭積出港として栄えた町で、筑豊から若松までは遠賀川~堀川運河でつながっていました。この遠賀川沿いに住む者を「川筋者(もん)」といい、そこで育った彼らの荒くれの精神を「川筋気質(かたぎ)」と呼んでいました。火野葦平といってもご存じない方も多いかもしれませんが、戦争中の芥川賞作家で『花と龍』という作品が有名です。高倉健や鶴田浩二主演で何度か映画化もされました。その『花と龍』や村田英雄の歌った『無法松の一生』などを想起していただければ「川筋気質」というものもなんとなくわかっていただけるような気がします。私もその「川筋気質」を引き継ぐひとりだと自分では思っています。

広義の意味で筑豊育ちということもあって「追われゆく坑夫たち」など上野英信の作品は何冊か読んでいます。大分の中津市には4年ほど前に亡くなりましたが、松下竜一という作家もいて、松下は上野英信の一番弟子を自称していました。松下は作家としてばかりではなく、環境権運動のリーダーとしても有名で、私はその松下の仲間の一人でもありました。そんなもろもろもありまして・・・

以下、吉本隆明と辺見庸の対談集『夜と女と毛沢東』(文藝春秋 1997)「山谷の鍋底から世の中を見ると・・・」の一節からの引用です。

夜と女と毛沢東 

吉本 辺見さんの最近の関心についてお伺いしていきたいんですが、いま山谷に通っていらっしゃるそうですね。

辺見 はい。私は昨年(注:96年)の暮れで勤めていた会社(注:共同通信社)をやめたんですけれども、ひとつには山谷へ足を踏み入れちまったという経験がしからしめているところがありますね。最初は記事を書くつもりで、お恥ずかしい話ですが、その取材のために通っていたんです。一ヵ月か二ヵ月で足抜きして帰ってくるつもりでしたが、通えば通うほど、取材すれば取材するほど書けなくなりましたね。山谷はいってみれば鍋の底なんですよ。ちゃんと鍋の底の方に沈んでいる食い物ともいえないようなところから世界を見るという、今までの私の方法とはまったく逆の取材だったんですね。それまで自分がドブの上澄みの方ばかり見ていたのがわかりました。

吉本 退社のきっかけになったのですね。

辺見 昔の、労働力市場としての山谷より、いまの山谷のほうがおもしろいんですね。いまは、病んだ人の森です。私自身がちょっと現実の風景からなぎ倒されるものを感じるんです。人間が倒木のように見えます。いま山谷にホームレスは千人くらいいて、どんどん増え続けています。見ていますと、彼らの肉体的、精神的な根腐れの仕方にはすごいものがあると思うのです。いっぽう私はどこかで彼らに対する親近感というか、彼らに近いものを自分に感じています。すなわち、私も根腐れしている、と。戦後五十余年の時間がつくってきた負の部分がほんとに露骨に出ているという感じがするわけですね。消費資本主義が無感動に排泄してきたものですね。  

それから身体としてのホームレスたちがまた興味深いのです。一例をあげれば彼らは実によく歩くんですね。新宿から山谷までなんかは当たり前ですね。千葉から山谷とか、長野五輪の施設を作る飯場へ行って、そこでひとしきり働いて、喧嘩して飛び出して長野から松本まで歩いたとか。彼らはしきりに歩くんです。途中でも旅館なんかには泊まらずに。また路上生活、アオカンと言いますが、冬場は非常に厳しくて、一週間続ければ病気になると言われています。にもかかわらずこの冬空の下で寝ている。彼らをドヤ(簡易宿泊所)や病院に収容しても、不思議なことに一ヵ月もするともう出たいという男もいるんですね。屋根と暖房があればよさそうなもんだけど、屋内にいる方がどんどん体調が悪くなってゆく。それが路上生活に戻ったとたんに元気になったりするんですね。一月の寒さの中、路上で朝から酒を食らってひっくり返っていて、午後見てもまだひっくり返っていて、このおっさんもう死んじゃうんじゃないかなと思ってどきどきするんだけど、次に日にはちゃんと立って歩いていたりする。私はそういうのを何度見ても、不思議な感動を覚えるんですね。  

こういう風景は語れば尽きないんですけれど、どうも山谷にホームレスが集まって来るのは、単に景気が低迷しているからとか、企業でリストラが進んでいるからという経済的理由だけではないものを感じるんですね。もっとメンタルなものも理由ではないかと思うんです。さらにいえば、この時代の人間とはこういうものではないか、いわば国家とか、家族とか、会社による束縛を、心底嫌がっているんじゃないか。それらからすべて抜けて「無」になりたがっている者もいるんじゃないか、と。

(略)  

最近、彼らとの関わりの中で、ほんとに人とも言えないような、土の中から生まれてきたような人間を抱き起こす作業をしたことがあるんです。裸足でしてね。ベルトのかわりに腰に針金巻いて、そりゃひどい臭いです。まだこの手や胸の中に感触が残っているんですが、そのとき感じたのは、憐憫でも同情でもないんですけどね、ある種のいとおしさなんです。まったくの負として、そのように生きているといういとおしさですね。じゃあ、負でない世界にどんな意味があるというのか、私は山谷に行く以前は都心で暮らしていましたが、そこには果たして根腐れはないのか。この消費資本主義の中で根腐れがないかというと、隠蔽しているだけで、地下茎部はもっとひどいかもしれない。少なくとも私は、きんきらきんのビルから出てくるスーツ姿の男女にいとおしさを感じたことはありません。いま、健全に見せかけているものって、すべていかがわしいと思います。  

私は宗教者ではありませんけど、人間が神に似せて作られたのだとしたら、彼らの方がわれわれより神に近いのではないかとまで考えました。戦後社会の矛盾を矛盾として額面どおり身体で受け止めてしまっている人間たちに、私は不思議なプラスの要素を見たんです。(後略)

注1:「川筋者(もん)」についての私の最初の言及は次のようなものでした。
http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010258.html
注2:辺見庸の文章の「誤読」の問題にズームを絞った私の議論とは次のようなものです。
(1)http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010190.html
(2)http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010216.html
注3:注2の私の議論の前提となった対者の議論の主なものは次のようなものです。
(1)http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010181.html
(2)http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010187.html
(3)http://list.jca.apc.org/public/cml/2011-June/010195.html
注4:3年前に別のメーリングリストに発信した文章の前提になっている対者の会話は次のようなものです(一部省略)。私の記憶に残っている良質の対者の会話でした。あえて下記に掲げさせていただこうと思います。

T.Tと申します。東本さんの投稿を読んで思い出したことなどをつらつらと。

台東区役所のある部署の課長は、野宿者のひとりひとりを訪ね歩いて、ここは公共の場所なのだから近隣住民とのトラブルだけは避けるようにと話してまわっているそうです。それがれっきとした仕事のひとつ。(略)もちろん積極的な施策ともいえないでしょうが、野宿者の強制撤去を図った(都庁所在地)新宿区よりはマシ?

私自身はおととし頃一度だけ山谷の教会に行ったことがあります。およそらしくないたたずまいで、おそらくそこが山谷労働者福祉会館そのものだったかもしれません。寄せ場の歴史や外国の野宿者事情の話の後で質問を受けた講師が、そういうことは〇〇さんの方が詳しいでしょうと指名して、その男性が語りはじめました。

高度成長期に国家が必要とした安価な使い捨て労働力のための寄せ場、炭坑の閉山、農村の疲弊=出稼ぎ等々による無限の労働力供給システム、警察とヤクザによる管理…現代史の裏面のような話に耳傾けてしばらくしてから、えっ、この人自身がその日雇い労働者なの?と気付きました。

労働者の高齢化と(長年の肉体酷使による)障害、今は寄せ場に行っても仕事がないこと、自分らの代わりに蚕だなのような所に寝起きする若者達が携帯で召集されていることなど、山谷の現状が彼の口から淡々と語られたからです。確かに駅からの道すがらは酔っ払いもごろ寝姿も見ることなくひっそりとしていたのですが、この街をすでに諦観のようなものが覆っているのかもしれないと感じました。

けれども山谷にも学生活動家らが押し寄せた熱い時代があったようですね。その頂点が山岡監督のドキュメンタリー撮影の頃だったらしいです。先ほどの会場に話を戻すと、それらの現場をつぶさに見てきた別の労働者らしき人が博覧強記の話を始めて、居合わせた人たちがしきりと懐かしがっていました。お開きの後は彼らと、講師(大学の先生)、牧師(会の主催者)、支援者のみんなでどこぞの飲み屋に繰り出すらしく、さぞかし盛り上がるだろうと思いながら帰途につくと、片足をひきずるように歩いている老人の姿が目にとまって、あの人はどうやって暮らしているのだろうと考えてしまいました。

というわけでこの日の第一印象のせいで、寄せ場労働者は底辺にあるがゆえに、私たちには見えない社会の構造が見えている人たちとの思いが、私の心に残りました。ちょうど最後尾から最もよくレース展開が見渡せるように。

さて呑んだくれというのはどうでしょう?かつて盛んに呑んだくれただろう彼らも、仕事なく金もなければ、ドヤ代が何百円であれ払えないし、炊き出しで食いつなぐのが精一杯ではないかという気がします。全国の寄せ場事情は知りませんし、山谷は最も高齢化したところなのかもしれませんが。

ネットカフェ難民と言われる人たちは、そういう伝統的な?寄せ場には行かないのですね。寄せ場労働者たちはかつて確かに連帯し闘い学ぶ「場」を持っていたのに、現代の若者たちにはそれさえないのかと思うと胸がつまります。引き綱よろしく携帯電話で一人一人が狩り出されるというのも、悔しく切ない話です。

以上思い出すままにささやかな個人体験を書いてしまいましたが、石原都知事の「超弩級低級認識発言」は、人間の格が違いすぎという気がします。なのになぜ私たちは金持ちで仕立てのよい服を着て偉そうにしている人を、素直に有難がって(一票投じて)しまうのでしょうか。大金持ちと聞いたら先祖はさぞかし悪いことをしたんだろうくらいに思えば間違いないのに…などと「追われゆく坑夫たち」(上野英信 岩波新書)を読みながら思ったことです。こちらは麻生首相の出自を明かす?本でもあります。機会があったらご一読ください。
村上春樹には「私はいつも卵の側に立つ」という「有名」なスピーチがあります。もちろん、この言葉は、村上が2年前にエルサレム賞という文学賞を受賞した際にイスラエルの東部の町エルサレムで同賞受賞記念スピーチの一節として発した言葉でした。いままた、村上のスペインのバルセロナであったカタルーニャ国際賞授賞式の際に語った「(これまで原発を容認してきたのは)日本人の倫理と規範の敗北でもありました」、「我々日本人は核に対する『ノー』を叫び続けるべきだった」というスピーチが例によってというべきでしょうか民主メディアを含むマスメディアと、これもまた自らを反原発論者、またデモクラートと自称する人たちを含む大勢の人たちから喝采を浴びています。しかし、私の見るところ、村上の言葉の言貌は薄っぺらなもので、真実を決して穿つことのないもの、真実とはおよそかけ離れた安易な言葉の羅列にすぎないもののように見えます。

村上の言葉を薄っぺらというのはこういうことです。村上はこの
スピーチで日本人の「無常」観について述べています。村上によれば、その日本人の「無常」観は、春は桜、夏は蛍、秋は紅葉に代表されるものです。
 
「桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまう(略)。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。」
 
なにやら清少納言の枕草子の一節を思い出し、川端康成の『美しい日本の私』というノーベル賞受賞の際のスピーチを思い出させます。しかし、私には村上の作文にはそれ以上のものは見出すことはできません。川端もこのノーベル賞受賞記念講演で日本人の「無常」観について語っています。私は川端の思想を全面的に支持するものではありませんが、それでも川端には道元禅師を語って道元の「春は花夏ほととぎす秋は月/冬雪さえて冷(すず)しかりけりという「本来の面目」の歌に対する深い洞察があったように思います。また、明恵上人を語って「雲を出でて我にともなふ冬の月/風や身にしむ雪や冷めたき」という明恵の「無常」観への愛しみも感じられました。また、芥川龍之介の『末期の眼』を語って芥川の悲しみに対する川端の深い同情心も感じとることができました。しかし、村上の言葉には教科書的な単なる教養の言葉としての「無常(mujo)」観しか読み取ることはできません。

そして、その「無常(mujo)」観は、村上によって福島の原発事故と結びつけられます。
 
「今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。/でも結局のところ、(略)我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。(略)少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。」(同上) 
 
そして、さらに村上の「無常(mujo)」観は日本人の「倫理」と「規範」の問題、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」というあの広島の原爆死没者慰霊碑の言葉へと結びつけられていきます。

「『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから』/素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。」(同上)
 
この広島原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」という言葉についてかつて寺島実郎は次のように述べていたことがあります。
 
「広島の原爆慰霊碑に掲げられた『二度と過ちは繰り返しません』の言葉も、熟慮するほど不可解である。思わず共感する言葉であるが、誰のいかなる責任での過ちなのかを明らかにすることなく、『なんとなく反省』『一億総懺悔』で納得し、それ以上踏み込まないのである。/表層な言葉の世界への陶酔を超えて,いかにして実のある世界に踏み込むのか,これこそが戦後日本という平和な擬似空間を生きてきた我々の課題である。」(「小さな花」の強さ 2004年4月)

寺島は加藤周一と『軍縮問題資料』の2004年2月号ではじめて対談する機会を持ったようですが、上記の寺島の感想は、加藤の「一億総懺悔」批判の言葉に触発されて書かれたもののようです(この時分は寺島はまだまっとうだったようです)。加藤は『日本社会・文化の基本的特徴』(『日本文化のかくれた形(かた)』所収。加藤周一、丸山真男、木下順二、武田清子共著、岩波現代文庫、2004年)で「一億総懺悔」ということについて次のように述べています。
 
「あの十五年戦争で、日本側には、戦争責任者というものが、個人としては一人もいない。みんなが悪かった、ということになります。戦争の責任は日本国民(略)全体が取るので、指導者が取るのではない。『一億総懺悔』ということは、タバコ屋のおばさんも、東条首相も、一億分の一の責任になる。一億分の一の責任は、事実上ゼロに近い、つまり、無責任ということになります。みんなに責任があるということは、誰にも責任がないというのと、ほとんど同じことです。」
 
そうした加藤や寺島の認識に比して、村上の広島の原爆死没者慰霊碑の言葉の解釈はいかに浅薄なものであるか。私が村上の言葉を薄っぺらと批判するのはこうした村上の認識をも指しています。

私は2年前に村上のエルサレム賞受賞記念スピーチが評判になったときに
次のような感想を述べたことがあります。

「メディア、テレビの出演回数を誇るたぐいの凡俗、凡庸、低劣な『知識人』『文化人』風情の村上春樹の『エルサレム賞』受賞評価というのならば、私も納得することもできるのですが(もちろん、負の意味でですが)、なぜこうもやすやすと自らを民主主義者と自称する人たち、また、自らをデモクラティックと誇称するメディアが少なからず、というよりも寡聞の限りにおいては圧倒的に村上春樹の脆弱愚昧、こけおどし(見せかけは立派だが、中身のないこと)ともいってもよいスピーチを称賛してやまないのか。あるいは有体にいって騙されてしまうのか、というのが、村上の『エルサレム賞』受賞の報を聞いた当初からの私の決定的ともいってよい違和感でした」(「後論:作家・村上春樹のエルサレム賞受賞記念スピーチは卑怯、惰弱の弁というべきではなかったのか?」CML 2009年5月31日付)。

私は今回もほぼ同様の感想を持っています。


追記:

村上春樹の薄っぺらな文章に対比する形で良質な文章の例として引用しようと思っていた文章に東日本大震災後の3月16日付けで北日本新聞に掲載された辺見庸の文章があります(添付をしようと思っていて亡失していました)。辺見もやはり大震災後の人間の倫理の問題について語っているのですが、その現実を見る「眼の探索」の深さはこれこそ本来の作家のものというべきものです。私は辺見の眼の確かさに改めて頭を深く垂れます。そして、辺見と同時代人であることを心強く思います。

■3月16日北日本新聞 辺見庸「震災緊急特別寄稿」
http://blog.goo.ne.jp/sizukani/e/0ddcbff19adac5a8f6851b2372d1f6cd

 風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ浜辺が、突然に怒りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。

 その音はたしかに眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音でもあり、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。

 それらにすぐ紅蓮の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっそうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物のすべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく水に押しながされた。

 ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりもひどいうつつだった。

 それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非情無比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をおびてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたちになにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐懼せよ」と。あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と。

 わたしは畏れかしこまり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示録的光景はそれじしん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。

 知人たちの住む浜辺の集落がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所などどこにもない。磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・・。一変していた。なぜなのだ。わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じているようであった。畏れよ、と。

 津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処だけではないのだ。人間は最強、征服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲」にも、大きな地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒な繁栄を謳歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない。わたしたちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。

 時は、しかし、この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。

 われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。

 愛や誠実、やさしさはこれまで、安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられてきたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかでなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現がはたして可能なのか。

 家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることができるのか、すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわることだろう。

 カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられない、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公のベルナール・リウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせている。

 混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。

 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。あんなにもたくさんの死をのんだ海はまるでうそのように凪ぎ、いっそう青み、ゆったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつおいつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。この凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。

 わたしはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例外をみとめない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている非常事態の名の下で看過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるのも、倫理の根源からみちびかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば平らかになるだろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆまねばならない。かんがえなくてはならない。

(2011年3月16日水曜 北日本新聞朝刊より転載)