さらに上野さんは次のようにも言います。「孤独死や行旅死亡人が注目され、『家族がいるのになぜ?』という驚きの声が聞かれますが、家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか。いまや家族は資源であると同時に、リスクにもなる時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺されるかもしれないのです」(同上)。

しかし、「家族は資源であると同時に、リスクにもなる時代」は、決して「いま」という時代にだけ特有の現象ということはできないでしょう。姨捨伝説や棄老の話は柳田國男の『遠野物語』(1910年)や深沢七郎の『楢山節考』(1956年)にもあり、その痕跡が物語や小説の形で遺されています。深沢の『楢山節考』は小説ですが、まったく根も葉もない創作ではありません。信州の寒村の貧困と昔から伝わる説話に材を得たもので、かつて日本の各地で起きていたであろう風俗の掘り起こしになっています。柳田の『遠野物語』に出てくる棄老の話は文字どおりそう遠くない時期の遠野の風習の紹介です。「家族がリスク」であった時代は昔からあったのです。家族が殺される話もそうです。横溝正史の『八つ墓村』や松本清張『ミステリーの系譜』の小説のモデルとなったことでも有名な戦前(1938年)の〈津山三十人殺し〉も犯人の祖母(家族)と近隣の住人30人が被害者となった家族殺人を含む大量殺人事件でした。家族をリスクとして殺すこうしたたぐいの事件も昔から相当数ありました。

上野さんはこうして「家族がリスク」となった時代がいまという時代である、と恣意的に想定して、いまという時代は「おひとりさまの老後」の時代だと言います。実は上野さんはこのことが言いたかったのでしょう。上野さんの「『孤族の国』 男たち」批判は、このことが言いたいためのさしみのツマのようなものでしかなかったのかもしれません。

それはそれとして、上野さんは同論評でご自身の「おひとりさまの老後」の論を展開するにあたって「そもそも1人でいることの何がそんなに悪いのでしょうか?」などと反問します。しかし、誰が「1人でいることは悪い」ことだなどと言っているのでしょう? たしかに一部の右翼論者は「一人暮らし」悪論を展開しています。しかし、この「一人暮らし」悪論は右翼論者が左翼とフェミニズムを攻撃したいがために展開している為にする論にすぎず、取るに足らないものです。右翼以外のまっとうな論者で「一人暮らし」を罪悪視する論者を私は寡聞にして知りません。

しかし、「一人暮らし」悪論を展開する論者は少なくとも、家族間の愛情の大切さを説いてやまない論者は少なくありません。上野さんはこうした「家族愛」論者に反発して「そもそも1人でいることの何がそんなに悪いのでしょうか?」と反問しているのでしょう。フェミニズムには「家族は、家父長制と女性に対する抑圧を存続させる主要な制度である」(『フェミニズム事典』明石書店)とする定義があるようです。そうだとすれば「家族」という制度を解体しないことには真の女性解放もありえないことになるわけですから、いきおいフェミニズム論者は「家族」批判に向かわざるを得ないでしょう。そして、それが「1人でいることの何がそんなに悪いの?」という反問にもなるのでしょう。

しかし、「家族」という〈制度〉を批判することと「家族愛」という〈概念〉を批判することとは違います。〈制度〉としての「家族」は〈保守思想〉としての「家父長制」と融和的な関係性を持ち、それゆえに「女性に対する抑圧」制度として機能する側面を強く持っていると私も思います。そればかりでなく「家族」から自立しようとする男性、またトランスジェンダーの人々にも強い「抑圧」制度として機能しているとも思います。したがって家族単位ではなく、「『おひとりさま』を前提に生活や社会を設計し直す必要がある」という上野さんの意見には賛成です。

しかし一方で「家族愛」論者が家族間の愛情の重要性を説くのは、家族は「夫婦関係を基礎にして、そこから親子関係や兄弟姉妹の関係を派生させる人間社会の基本的単位であり、また、人間形成の基礎的条件を提供する基礎的社会集団」(社会学小辞典、有斐閣)だからです。その家族間のスピリチュアルな愛情の問題までを「家族」という〈制度〉の問題群のひとつのように回収してしまう考え方には私は賛成できません。上野さんと同じように「シングル単位」の家族論、人間関係性を提唱しているジェンダー研究者の伊田広行さんもそれが〈制度〉としてではなく、スピリチュアルな関係性として機能するのであれば、「家族」という基礎的社会集団かつ基礎的愛情集団の重要性を必ずしも否定していないように見えます。

ところが上野さんの「家族は昔からそれほど頼りになるものだったのでしょうか」。また「いまや家族は資源であると同時に、リスクにもなる時代。1人でいれば1人で死ぬだけですが、極端な話、家族といれば殺されるかもしれないのです」という家族観、あるいは家族批判に私は家族を構成するそのひとりひとりに対する本来あってしかるべき〈優しいまなざし〉を見出すことはできません。それどころか家族を「資源」や「リスク」という社会学用語に回収してしまう上野さんのスタンスに私は強い違和感を持つのです。これは上野フェミニズムの重大な欠点というべきものではないでしょうか。

「孤族の国 第1部 男たち」にはさまざまな男たちの「孤族」が描かれています。妻をないがしろにして自分勝手に生きてきた男の「孤族」。その身勝手な男は年老いて次のように述懐をします。「半身不随になり、年老いた今になって切実に思う。妻がいたら、子どもがいたら、と。/『指輪を外されへんのは、近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰ですわ』」(「第1部 男たち11」)。別の老人の述懐。「何より心残りなのは、感謝の言葉を伝えられなかったことだ。『優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね』」(同左)。同記事の中に次のような一説も出てきます。「みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭さん(70)は4年前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海の底にいるよう」。

このそれぞれの男たちの深い「孤族」の言葉。「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しくてどうしようもない深いしじまの底からの男たちの嘆息が上野さんには聞こえているでしょうか。聞こえていてなおかつ「こんな虫の良い期待をするから結婚できないんだ」、とまだまだ思われるでしょうか。もちろん、上野さんのツッコミは間違いではありません。いくらでもツッコミを入れてもいいと思うのです。しかし、「虫の良い期待をする」男は同時に「深くて冷たい海の底にいるよう」な悲しみのぬしでもあるのです。その男たちの「孤族」は考えるに値しないでしょうか?

 朝日新聞の「孤族の国」連載

上野千鶴子さん(東大大学院教授。ジェンダー学/女性学)が朝日新聞の「耕論(オピニオン)」(2011年1月20日付)に昨年末から今年の1月6日にかけて同紙に連載された「孤族の国 第1部 男たち」という記事について論評しています。同連載はその「孤族」という絶妙のネーミングの思いがけなさと地域、また家族の崩壊、格差、貧困、孤独、孤立・・・といういまという時代の重たい「現実」を反映した重量感のある記事に支えられて静かな評判となっていました。同紙編集グループがつけたキャプションだと思いますが、同論評の標題は「男よ率直に弱さを認めよう」。しかし、私は、上野さんのこの論評を読んで「率直に(男の)弱さを認め」る気にはなれません。

まず第一に上野さんの同論評には男とか女とかという問題を超えて、いま現に「孤族」という現実そのものに苦しみもがいている「人間」への共感の視点が乏しいのです。その「人間」としての、「人間」であるがゆえの「孤族」と「孤独」の問題を「男」の問題でしかないように矮小化して上野さんは次のようにご託宣します。「連載『孤族の国』に『老後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけなのに』と嘆く独身の中高年男性が登場しました。/こんな虫の良い期待をするから結婚できないんだ、とツッコミたくなりました。女性では考えられません」。

しかし、上野さんが「ツッコミたくな」るとして挙げるこの「虫の良い期待をする」独身中高年男性は、同記事の中では「孤独死と隣り合わせの時代。寂しい最期を迎えたくないと、婚活に励む男性たち」の一例として取り上げられている一逸話でしかありません(この上野氏のあげる「老後の世話をしてくれて」云々の記事は「『孤族の国』 男たち」の連載2回目の「還暦、上海で婚活したが」(2010年12月26日付)という記事のようです)。それも「伴侶を求めて国の外へ目を向ける男たち(略)年間3万人前後」の中の一例。さらに「中高年限定の婚活パーティー」に参加する人数不詳の男たち、人口6千人余の岩手県の山村の町がはじめた婚活事業に登録をした町民十数人、の話を含めた中の一例。そうしたたくさんの「婚活に励む男性たち」の中の一例のみをピックアップして、さも世の男たちのすべてがこのような「虫の良い期待をする」やからであるかのように論を進めていく態度は決してフェアな態度とはいえないように思います。また、〈事実〉という客観素を最大限重視するのが研究者の態度であるとするならば、上野さんの態度はそうした真摯であるべき本来の研究者の態度とも相容れないもののようにも思います。彼女の言論のありようはデマゴギッシュなそれとどれほどの相違があるでしょう?

もちろん、ジェンダー平等の思想がまだまだ深く根づいているとはとてもいないわが国のような社会においては「老後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけ」などという「虫の良い期待」を持つ中高年男性は決して少なくないでしょう。もしかしたら多数派かもしれません。そういう意味では上野さんの指摘はあながち間違いだとはいえません。しかし、それをいうのなら女性も「虫の良い期待をする」独身の中高年男性の低レベルな〈思想〉に相応しい同程度の〈思想〉を持つ同類相憐れむのたぐいの一方の当事者張本人だといわなければならないでしょう。平成21年10月の内閣府大臣官房政府広報室の「男女共同参画社会に関する世論調査」によれば「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきであるか」という問いに対して「賛成」と答えた女性はまだまだ37.3%、約40%に及びます(ちなみに「賛成」と答えた男性は45.9%)。女性の〈思想〉も低レベルな男性の〈思想〉にほぼ相応しているのです。

この結果を長年の男性社会によって形成された(させられてきた)女性の負の遺産と見ることはもちろんできます。しかし、現実に男性の低レベルな「虫の良い期待」に相呼応する女性も事実として決して少なくないのです。上記の「『孤族の国』 男たち」の連載2回目に出てくる「中高年限定の婚活パーティー」歴20年以上の原泰浩さん(76)は、近年、中高年婚活希望者が急増している理由について「ブームといっても意識には男女差がある(略)。女性は生活の支えを求める人が多いが、男性は寂しさが理由では」というご自身の経験に基づく中高年女性観を述べています。「生活の支えを求め」て婚活する〈思想〉と「老後の世話をしてくれて、みとってもらえる相手が欲しいだけ」という〈思想〉はお互いともにある意味打算的で、かつ「虫の良い期待」という点では五十歩百歩の〈思想〉と見るべきものだろうと私は思うのですが、上野さんの論にはなぜか婚活希望中高年〈男性〉に対する批判はあっても同じ婚活希望中高年〈女性〉に対する批判はありません。どういう思想のなせるわざでしょうか。上野さんの論にははじめから婚活希望中高年〈女性〉は「善なるもの」として措定されているのです()。そう見なければ上記の「男女差別」の説明はつきません。私が上野さんの論にまったく説得力を感じないのは当然なことといわなければならないでしょう。

:このように考える心の奥深いところにある〈心性〉(意識の生起と消失のあわいのところにある〈識閾〉)には、まず自分はなによりも愛しくかけがえのない存在であるとする自己了解があり、その自分を含む同性(女性)一般、そして、同じ女性としての自分は「善なるもの」というア・プリオリ(無前提)な自己肯定、すなわちジコチュー(自分という存在を尺度にして世の中のすべてを解釈しようとする)的な情動、衝動的欲求というべきものが伏在しているように見えます。そうであればこのようなフェミニズム思想は決して普遍性を持ちえないでしょう。

次に上野さんは「おひとりさまの老後」の問題と「家族」問題について論を進めていくのですが、ここでも上野さんは不必要に〈男性なるもの〉を批判しています。上野さんは次のように言います。「男性は弱音が吐けない上に、新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている。それでも自分の窮状を認められず、わかろうともしない。現実逃避の天才」。「実は家族は、コミュニケーション能力を育てる空間ではありません。例えば父親は『メシ・フロ・ネル』の3語で足りるような役割が決まっていて、その通りに振る舞えば関係が維持できていた」。「(男性は)パワーゲームの企業社会のノウハウしか身につけてこなかったから『困っている』と言い出せない」(同上)。

なんとモノクロームで、古めかしい男性観でしょう。いまどきこのような男性がどれほどいるというのでしょう? 「男性は弱音が吐けない」? 統計的なことはさておいて、私も60歳代に突入しましたが、私の見るところ私のまわりでも弱音を吐くいわゆる団塊世代の男性はゴロゴロいます。上野さんはおそらく居酒屋(安酒場)の常連客ではないでしょうからその辺のところはわからないでしょうが、私は安酒場の人一倍の常連客です。日中はカミシモをつけてなにやらいかめしそうなオッサンたちもここでは弱音と不安を連発します。もちろん、カッコウをつけていることが多く、完全にカミシモを脱いでいるわけではないので弱音は中途半端なものが多いのですが、中途半端な分メソメソと延々と語る男たちも少なくありません。私は安酒場で日常的にこのメソメソ話を目撃しています。

最近、若者たちのある種の〈在り方〉を指して〈草食系男子〉という言葉が流行っていますが、この〈草食系男子〉という言葉も類型として「弱音を吐く」タイプの若者男性の謂いではないでしょうか。〈草食系男子〉の定義はいろいろあるようですが、「草食系男子とは、心が優しく、男らしさに縛られておらず、恋愛にガツガツせず、傷ついたり傷つけたりすることが苦手な男子のこと」(森岡正博『最後の恋は草食系男子が持ってくる』)というのがほぼ一般的な定義のようです。「パートナーエージェントが30代未婚男女400人を対象におこなった調査によると、『どちらかといえば草食男子』(61%)、『完全に草食男子』(13%)と、『自分は草食男子』と思う男性は75%にのぼった」(ウィキペディア『草食系男子』)ということです。「男性は弱音が吐けない」という上野さんの認識はステレオタイプ(固定観念)以上のものではないでしょう。

上野さんはさらに「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」とも、「父親は『メシ・フロ・ネル』の3語で足りるような役割が決まってい」たとも言挙げを重ねるのですが、これらの言挙げも古めかしくかつ幼稚なステレオタイプを超えるものではありません。

いったい父親が「メシ・フロ・ネル」の3語の会話で足りていた時代とはいつの時代のことを言っているのでしょう? 先ほども述べたように私はいわゆる団塊の世代の末端の人間ですが、私が知る限りの友人の顔を総動員しても「メシ・フロ・ネル」の3語だけでこと足りるような夫婦生活をしていた友人の顔はとんと思い浮かべることはできません。よほど大金持ちのぼんぼんでもなければそんな大層なことは口が裂けても言えない、というのが世の男性の悲哀?(もちろん、冗談です)。いや、実情というものではなかったでしょうか。「専業主婦世帯と共稼ぎ世帯の推移」というデータを見ても1992年には共稼ぎ世帯とサラリーマンと専業主婦の世帯は逆転し、共稼ぎ世帯の方がサラリーマンと専業主婦の世帯を上回っています。夫婦共働きの家庭ではいくらなんでも「メシ・フロ・ネル」の3語だけではすまされないでしょう。そういう3語だけの会話では即、離婚の原因になるはずです。

また、上野さんは「(男性は)新自由主義的な『自己責任論』によって、さらに追い込まれている」と言うのですが、新自由主義的な「自己責任」論が男性に特有な思潮のように言うのも事実に反します。「自己責任」論は小泉政権時代のイラク人質事件に際して興った保守反動の思潮のひとつですが、その「自己責任」論をもっとも囃し立てたひとりがほかならないときの小泉純一郎首相その人でした(『週刊朝日』2004/4/30号「『自己責任』言いたてる 小泉政権の矛盾」)。そして、その小泉政権のとき、いわゆる小泉旋風なるポピュリズムの嵐が吹き荒れ、そのポピュリズムの嵐の中心的な立役者はワイドショー好きの中高年以上の女性層でした。このことは当時の各種世論調査に明瞭に記録されています。上野さんはなにゆえにここでも「自己責任」の思潮を〈男性的なもの〉の責に帰そうとするのでしょう? 理解に苦しみます。

 
◆―埋立そのものへの疑問

 佐伯港の整備計画の存在を知った和久さんは、学習塾を経営する傍ら毎日、番匠川の流量を調べていた。東京から帰って二年、子どもの頃に夢中になって遊んだ番匠川の流れがほとんどなくなっていることが気になっていた。和久さんはやがてその原因を突き止めた。一九五三年から佐伯港に進出していた興国人絹パルプ(興人)(注4)が番匠川の川水を一日十万トンも使用していたことがわかったのである。

 一方で和久さんは「佐伯港の整備が何のために行われるのか」、その理由を調べていた。同港の整備計画の可否を審議した大分県の港湾審議会の資料には、女島地区に深さ一四メートル、五万トン級の船が接岸できる埠頭が必要とし、その理由は「一一三・三万トンのチップ輸入のため」と記されていた。

 ここで和久さんはおかしなことに気づく。佐伯港でチップを使って生産しているのは興人だけだ。港湾審議会の資料に「チップ輸入」とあるのは明らかに興人のチップ輸入のことを指している。しかし、その興人の現在のチップ輸入量は二〇万トン。その量のチップの使用ですらすでに番匠川の川水を枯らしている。これ以上、チップの輸入はできない算段なのだ。

 もうひとつおかしなことがある。行政側は大入島埋立のほんとうの目的は「佐伯港の海底を掘って岸壁や航路を造る際に出る浚せつ土砂など七三万立方メートルの捨て場である」という。そうであれば、浚せつ土砂の捨て場をまず確保してから海底の掘削工事にかかるというのが順序というものであろう。しかし、九六年一月から同港海底の掘削工事が先に行われ、同島の埋立工事はいまだ行われていない。

 海底の掘削工事で浚せつされた土砂(ヘドロ)はどうなっているのだろうか。すでに大分市沖の大在港に二六万立方メートル、藻場造成事業(一五億円)と称して大入島横の彦島の海に三五万立方メートルが捨てられている。県のいう七三万立方メートルの廃棄土砂にはバイパス工事の陸上残土も含まれているから、実際には同島の海を埋立ててまで廃棄しなければならない土砂は存在しないのである。

 ではなぜ、県は、その大入島の海をあえて埋立てようとしているのか。和久さんは海上自衛隊の基地になるのではないかと疑っているが(注5)、行政当局は否定していて真相はいまのところ薮の中である。

◆―行政の総攻撃

 九八年一月、行政側としてはともあれ法律では求められていない住民説明会まで終えた。前年度の九七年には公有水面埋立法で義務づけられている環境アセスメント(影響評価)も終えている。そうであれば、すぐにでも埋立に着手できるはずであった。

 ところが行政は埋立をしなかった。その理由が二〇〇〇年三月の同島東地区漁協総代会で行政側が示した図面でわかった。埋立工事区域はわずか五〇メートルだが同島荒網代区にもかかっていて、漁業権放棄について同地区組合員の同意が得られていなかったのだ。

 行政側の総攻撃が始まった。翌四月、行政は佐伯市長など二〇名の幹部出席のもとに荒網代区のある東地区全員集会を呼びかけた。が、反対意見が続出した。そうであればと六月、行政関与のもとに同地区総代会は漁業権放棄について同意書で賛否を問うことを強引に決定する。

 そうして七月には、反対意見のもっとも多かった荒網代区で同意書を配布、回収したが、結果は公表しなかった。前記の佐伯の自然を守る会が独自に調査したところ、埋立同意者は組合員一五六名中わずかに四三名。漁業権放棄に必要な組合員の三分の二以上の同意はもちろん得られていない。翌年の〇一年三月、行政は再度、同意書配布を試みたが、ここでも否決された。

 行政は別の手を打ってきた。同年五月、佐伯市は大分県に対して、同島西地区限定で埋め立て工事を推進してほしい旨の要望書を提出。これを受けてすぐに県は埋立計画を西地区限定に変更した。そして八月、同地区漁協総代会に一億八〇〇〇万円の補償金(東地区にはいわゆる迷惑料として九九〇万円)を提示。十月、佐伯市漁協臨時総会が開催され、同地区限定の漁業権放棄が承認された。

 翌年の六月、行政は再々度、漁業権放棄を迫るため東地区住民説明会を試みる(注6)。しかし、これも同区住民に阻止された。同島の海を守ろうとする島の人たちの決意は揺るがしようがないのである。四日後、行政は同地区総代会会長に「東地区の工事区域は要らない」と最後通告を突きつけた(注7)。こうして〇三年一月に埋立免許が認可されることになる。同四月、住民側は、大分県を相手に埋立免許取り消しを求めて大分地裁に提訴した。

◆―「磯草の権利」を守る闘い

 その裁判の中心的な争点が「磯草の権利」である。大入島石間浦の住民は、江戸時代から同浦の海藻、 貝類を採って生活の糧としてきた。そして、その浦はいまでも自治会にあたる石間区が管理している。その入会権的権利を「磯草の権利」というのである。

石間区の住民は、江戸時代以来の慣習によって石間浦の海に漁業権を有している。大分県は埋立免許を受けるにあたり、同区住民の同意を得なければならなかったのにこれを得ていない。したがって、大分県が受けた埋立免許は違法であるというのが原告、すなわち住民側の主張である。

 しかし昨年の十月、大分地裁(関美都子裁判長)は、原告側の工事差し止めを求める仮処分の申し立てを却下した。この裁判所の決定は「裁判官が漁業法を全く理解していない」(熊本一規明治学院大学教授・漁業法)ことを示しているが、この世の中では、正論が必ずしも通るとは限らない。むしろ、逆の事態が横行している。裁判所だけは例外とはいえないのである。

 今年の二月、佐伯港総合開発促進協議会と同市自治委員会連合会は共同して、佐伯市民に対して「大入島埋立工事の促進を求める署名活動」の呼びかけを行った。前者の会長は佐藤佑一佐伯市長(当時)である。彼らは「五万人余の署名を集め、大分県知事に提出した」(旧佐伯市の人口も約五万人。おそらく赤ちゃんも署名したのだろう)という。同市の課組織、自治会を動員した回覧版方式の署名活動であった。バックラッシュはここでも横行している。

 私たちは、どうすれば行政の「理不尽」に対抗することができるだろうか。行政の埋立強行の後の徳田弁護士のことばが印象的だった。あの大入島の人たちの命をかけた抵抗に、「私たちは―行政も、司法も含めて―人間の心を持った者として、この問題をどう受けとめるのか。そのことがいますごく問われている」というのである。

注1…この島は、全国でも稀にみる貝類の宝庫。大分県の定めたレッドデータブックでも絶滅が危惧される多くの希少種、世界で3ヵ所しか確認されていない貝類も発見されている。
注2…「大分県の自治体住民と議員の対等なパートナーシップ」を掲げて昨年6月に結成。今年の1月、大入島の強行着工について大分県の広瀬知事に抗議文を提出した。議員14人、市民13人。
注3…事業者、免許権者もともに大分県。弁護団はこれを「お手盛り」行政と批判している。
注4…50から70年代、対岸の「興人」パルプ工場の廃液が海を汚染。魚は異臭を放ち、海藻は死滅した。この間4人の子どもが溺れ死んだが、汚水で探すことができなかったという。
注5…同島にはかつて海軍の基地があった。現在も自衛隊の潜水艦がしばしば停泊している。真珠湾攻撃の際の基地となったことでも有名。
注6…01年の漁業法の改正によって、漁協組合員の同意が必須条件となった。
注7…これによって東地区に1ミリでもかかる埋立工事はできないことになった。
2005年に大入島埋立問題について書いた拙攷を資料として再録しておきます。
 

 
「一度病気で死にかけた命。
このままワイヤとともに海に沈められてもかまわない。
命に替えてもこの海を守る」
 
アンカーブロックをつっている鋼鉄のワイヤに
住民は自分の腕を結びつけた
 
                  地方の眼
                大入島でいま何が起きているのか?大分県佐伯市 
                             (公職研『地方自治職員研修』 2005年11月号)
 
大分県地域自治政策研究センター
おおいたローパス事務局次長
東本高志
 
「個人の尊厳から出発するかぎり、どうしても抵抗権をみとめないわけにはいかない。
抵抗権をみとめないことは国家権力に対する、絶対的服従を求めることであり、奴隷の人民を
作ろうとすることである」(宮沢俊義『憲法Ⅱ』「抵抗権」)。
今年の1月24日、大分県佐伯市大入島で行政と住民は激しく対峙した。
大入島の住民にとって、その攻防の武器は「磯草の権利」と住民の「抵抗権」であった。
大入島からの現地ルポ。
 
 大入島(おおにゅうじま)は大分県の佐伯湾に浮かぶ小さな島である。周囲二二キロ、人口約一二〇〇人。この島の海を土地の人たちは「宝海」という。晴れた日には遠くに水の子灯台、四国の山々が見える。「宝海」はその瀬戸内海、豊後水道の通り道にある。目と鼻の先にある対岸の佐伯市側からは九州有数の清流、番匠川(ばんじょうがわ)の流れも注ぎこむ。
 
 同島の埋立反対運動の長老(おさ)、前石間区長の清家太さん(85)は、「この海からは数えきれないほどの海藻、貝類、魚介類が獲れる」という(注1)。アワビ、サザエ、モイカ、ヒジキ、テングサ……。その海藻、貝類が先祖代々、島の人たちのいのちき(大分の方言で、生活、生計のこと)の糧となってきた。

 その自然の幸に恵まれた大入島、石間浦の海がいま、大分県という行政の力によって強権的に埋立てられようとしている。しかし皮肉なことに、その埋立強行は、島の人たちの「命をかけた」抵抗を呼んだ。そして、その抵抗が、全国の人たちの心を動かし、行政の公共事業、環境破壊を止めている。

◆―攻防の日

 大分県は今年の一月二四日を強行着工の日と決めた。その理由は「地方自治法上予算は二度繰り越せない」(実際には繰り越している)というものであった。島の住民の切実な願いよりも予算の消化の方が大切であるというのである。本末転倒も甚だしい論理である。当然、多くの県民の批判をあびた。

 その強行着工の前夜、大入島在住で、佐伯の自然を守る会事務局長の下川澄江さん(49)から電話がかかった。同会は埋立反対運動の司令塔的存在である。そして、下川さんと私はおおいたローパス(注2)の仲間でもある。「県は、明日にでも埋立工事を強行すると言っちょる」。大分県当局にとって県民の批判など痛痒も感じないらしい。下川さんの声に被さって激しい物音が聞こえる。同島ではもう明日の県側の攻撃に備えて臨戦態勢に入っているようだ。

 翌日、仲間たちの応援を募って現場に駆けつけると、すでに激しい攻防の渦中であった。海上では埋立区域の石間浦住民の漁船約二〇隻が工事の汚濁防止幕を張るためのアンカーブロックを積んだ作業船を取り囲み、石塊の投入作業を阻止している。岸壁では女衆(おなごし)、男衆(おとこし)が鉦(かね)をたたき、般若心経を唱え、「台船帰れ」のシュプレヒコールをしている。私たちも輪の中に加わった。

 しかし、もどかしい。陸上では何もできない。そう思ったとき、一人の女衆が漁船から身を乗り出し、台船クレーンのワイヤーに自分の手を巻きつけた。男衆もすぐに続いた。その男衆が後で語った。「一度病気で死にかけた命やけん、このままワイヤーとともに海に沈められても構わないちゃ。命に代えてもこの海を守る」。

 日が落ちてもこう着状態が続いた。県の幹部が言った。「オバチャン、もう止めようぇ。今日は帰るけん」。県知事、県の幹部は、ここまで住民が抵抗するとは思っていなかっただろう。そのショックを隠すように翌々日の二六日にもアンカーブロックを海に落とそうとしたが、やはり石間浦住民に阻まれた。その翌日、大分県は工事の「一時中断」を発表せざるを得なかった。

◆―埋立目的の茶番と偽装

 しかしなぜ、行政は、いまも島の住民のいのちきの場である豊饒の海を埋立てなければならないのか。埋立は「不可逆的な自然の改変」(日本自然保護協会)である。そうであるならば、その埋立によって島の住民の生活も根底的に「改変」されざるをえない。「埋立ヲ為サムトスル」(公有水面埋立法)には当然、その埋立によって被る損失を上回る公益性が必要である。

 ところが、埋立願書(注3)に記された埋立地の利用目的(公益性)は茶番というほかないものであった。美しい海、豊かな自然に恵まれた大入島の海を埋立てて「緑化」し、過疎化が進んでいる島にいまから「宅地」をつくろうというのである。

 しかも、埋立のために投入されようとしているのは、かつてパルプ工場の廃液によって汚染された佐伯湾に沈むヘドロである。埋立区域の目の前には同島で唯一の小学校もある。わが子、わが孫の通う小学校の眼前の海がヘドロで埋め尽くされようとしているのである。先祖代々からのふるさとの海(藻場)を命がけで守ろうとしている島の住民にこんな馬鹿げた行政の理屈が通用するはずもない。

 埋立免許取消訴訟で住民側弁護団からその利用目的の茶番を追及されると、大分県の広瀬勝貞知事は昨年の一二月、島の住民との話し合いの席で「(宅地と緑化という目的は)そうではありませんで、ほんとうは浚せつ土砂の捨て場」であると本音を吐いた。

 たしかに「浚せつ土砂と掘削残土の廃棄場所の確保」は、当初の埋立願書にも記されていた。が、県は島の住民には一貫して「緑化と宅地」の整備と説明してきた。だとすれば、当初の埋立目的は偽装であったというしかない。同裁判の弁護団長をつとめる徳田靖之弁護士は「埋立てて、それを何に使うかは、公有水面埋立法上の本質的な要素。行政の手法は、あまりにも欺瞞的だ」と同県を批判する。

◆―住民自治とは何か

 佐伯市で学習塾を経営していた(九五年からは同市の市議会議員、ローパス会員。埋立反対の理論的なリーダー)和久博至さん(56)は、地元紙の大分合同新聞(九三年五月一七日付)を読んでいて「おやっ」と思った。「九九年を目標に八〇〇億円の港湾整備事業が佐伯市で予定されている」という記事が目から離れなかった。とっさに和久さんは思った。「八〇〇億円という巨額なお金を使って佐伯港の整備が何のために行われるのか?」。

 住民はまだこのことを誰も知らない。突然、不意打ちをくわされたようなものだ。「行政が外堀を埋めて表に出てきたときには何も抵抗できない。賛成も反対もできない状態では、市民、住民自治はまったく存在しなくなる」。

 実際、行政は、佐伯港の整備計画とセットである大入島石間浦海岸の埋立計画(費用総額約八〇億円、現在は縮小されて四七億円)を同島住民に知らせず、秘密裏にことを進めてきた。一部の漁協幹部を除いて、同島住民が同埋立計画の存在を知ったのは、実に「佐伯港整備計画」が地元紙に載った五年後、同整備計画の対象区域である女島(めじま)埠頭の岸壁築造工事が着手されてからも三年後のことである。

 九八年一月、行政は、埋立区域の石間区住民に対してはじめて説明会を開いたが、ポンチ絵のような粗図を示し、ただ「一七・三ha埋立てます」と言うだけである。そのことをはじめて聞く住民側はまったくイメージがわかない。あっけにとられているうちに説明会は終ってしまう。行政は、それを「質問なし」「異議なし」ということで住民の同意を得たことにする。これが残念ながらいまの行政の一般的な手口なのである。同区住民の埋立反対運動はここから大きく展開することになる。

 この後、同区住民は総会を開き、住民投票を行った。埋立賛成九三票、反対二三八票。投票で負けた賛成派は「新石間区」というもう一つの行政区を設立した。行政区は自治体の認可なしには設立しえない。佐伯市という行政の肝入りで先祖代々からの部落が二分されたのである。同石間部落の藤原清人さん(67)は埋立に反対したが、姉の夫は賛成した。以後、姉弟の関係は途絶えている。姉の夫が海難事故で死亡したときも藤原さんには連絡はなかった。行政が「怨念」を作り出したといったら、言い過ぎになるだろうか。
 

 陸上自衛隊日出生台演習場(由布市)


2月5日に大分市で「許すな!憲法改悪・市民連絡会」主催の下記の公開講演会と集会が開かれます。

   第14回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会in大分&日出生台」公開講演会
              沖縄・日出生台から日本のいまが見える

日時 2月5日(土)13:00(開場12:30)?15:30 
会場 コンパルホール (JR大分駅下車 徒歩10分)大分市府内町1丁目5番38号 Tel 097-538-3700 
【プログラム】
○日出生台のたたかいから(映像)梶原得三郎(憲法・教育基本法の改悪に反対する市民連絡会・大分)
○基調報告 高田健(許すな!憲法改悪・市民連絡会)
○記念講演 高良鉄美 (琉球大学法科大学院院長)「沖縄からみた平和憲法、日米安保」
○田村順玄・岩国市議ほか、全国各地の憲法運動からの報告
参加費 500円  
主催 「第14回許すな!憲法改悪・市民運動全国交流集会in大分&日出生台」実行委員会 
お問い合わせ:03-3221-4668(市民連絡会)

また、翌6日には下記の予定で日出生台ツァーが計画されています。
*予定は現段階ではあくまでも仮のものです。ツァーご希望の方は上記市民連絡会(03-3221-4668)までお問い合わせください。

6日 おおまかな行程表
8:00大分駅発

9:10民芸村駐車場 (湯ノ岳庵や金鱗湖付近を散策) 

10:10民芸村駐車場発

10:30見城寺(日出生台登山準備・現地からの報告を聞く) 

11:00見城寺発

11:30監視小屋着(ローカルネット大分・日出生台事務局長浦田龍次さん、演習場地元の衛藤洋次さん(後継者グループ「人見会」)の話)

12:00監視小屋発

12:30陸上自衛隊の日出生台演習場集会開始

13:30ゲート前集会退場

13:40バス乗車・発

15:50 大分駅(別府経由)着

全国から、そして大分からの多くのみなさんのご参加を期待したいと思います。

なお、今年で8回目となる大分県・日出生台での在沖縄米軍実弾砲撃訓練は2月7?13日にかけて7日間の予定で行われるということです。6日に陸上自衛隊日出生台演習場ゲート前で行われる「草の根の会」(梶原得三郎代表)など主催の集会は米軍演習初日7日の前日に行われるため日出生台における米軍演習抗議のためにも多くの人たちに駆けつけていただきたいものです。

日出生台 米軍訓練2月7?13日(大分合同新聞 2010年12月28日)

以下、日出生台での米軍演習問題について地元MLに1月16日付けで発信されたローカルネット大分・日出生台事務局長の浦田龍次さんのメールを貼り付けさせていただこうと思います。ご参考にしていただければ幸いです。なお、下記の県要請には私も同行させていただきました。

県に日出生台米軍訓練の一刻も早い縮小廃止を申し入れました
湯布院の浦田です。
こんにちは。

1月14日、大分県庁にて、知事宛に日出生台の米軍訓練の一刻も早い縮小廃止を求める要請文を提出しました。

以下、要請文とそれを伝える記事を2本。

また、この申し入れの際に、求めて、後で受け取ったものですが、最近、県が国に対して日出生台の米軍訓練の縮小廃止を求めた要請文書と、日出生台の米軍使用協定(新)と確認書のコピーをHP上にアップしました。
http://www.jca.apc.org/~uratchan/localnet/lonets.html

どうぞよろしくお願いします。

大分県知事 広瀬勝貞 殿

   日出生台での米軍訓練のいかなる拡大も許さず、一刻も早い縮小・廃止の実現を求める要請文

 日出生台では8回目の米軍移転訓練が、来月にも私たち住民の願いを踏みにじってまた強行されようとしています。私たちはこの米軍訓練が、当初の国の説明とはまったく違う形で、なし崩し的に拡大しつつあることに大きな不安と怒りを覚えています。

 国は当初、この訓練について、移転になるのは「沖縄の県道104号線越えで行われていた155ミリりゅう弾砲の実弾砲撃訓練」であると説明。日出生台ではそれを「協定」まで結んで確認していました。しかし、実際にふたを開けてみると、米軍は沖縄の県道越え演習では行っていなかった夜間砲撃訓練を連日実施。さらに、訓練を重ねるにつれ、155ミリ砲以外にも小銃、機関銃も使用したいと強硬に迫り、結局、米軍の要請によって協定は書き換えられ、昨年、小銃、機関銃を使用した初めての訓練が日出生台で実施されてしまいました。

 私たちがショックを受けたのは、米軍が使用できる武器が、155ミリりゅう弾砲の他にも拡大されてしまったことだけではなく、米軍の訓練を制限すると期待されていた「米軍使用協定」が、何の「歯止め」の効果も発揮できないまま、米軍の圧力で書き換えられてしまったことです。これを境に、米軍訓練がなし崩し的に拡大してしまうのではないかとの大きな懸念を抱かざるをえません。

 それを象徴するように、昨年の訓練では、過去最多の603発という砲撃数を記録。さらに、米軍は日出生台では初めて、照明弾35発、白リン弾39発を発射しました。また、この砲撃の直後、3件の火災(公式は2件)が発生。このような火災は、日出生台でのそれまで米軍訓練においては一度もなかったものであり、昨年の訓練がいかに異様なものであったか、米軍訓練が変質し、拡大しつつある象徴であると見なさざるをえません。

 さらに、昨今、報道されている、米軍普天間基地の訓練移転先として日出生台の名前が挙がるようなことは、言語道断、絶対にあってはならないことです。 

 知事におかれましては、どうか、日出生台の住民負担、大分県民の負担がこれ以上、拡大することの絶対にないよう、国に対しても毅然とした姿勢で向き合い、一刻も早い、米軍訓練の縮小廃止の実現を国に求めていただけますよう、ここにお願い申し上げます。 

            2011年1月14日
      ローカルネット大分・日出生台

【報道】
県と市民団体に相違/日出生台米軍訓練巡り(朝日新聞 2011年01月15日)
 2月に日出生台演習場(由布市、九重町、玖珠町)で予定されている在沖縄米海兵隊の実弾射撃訓練について、地元の市民団体「ローカルネット大分・日出生台」のメンバーが14日、県庁を訪れ、訓練の中止を求める広瀬勝貞知事あての要請文を提出した。質疑応答では、情報公開や訓練内容の解釈について県と市民団体側との相違が浮き彫りになった。

 要請文は、訓練が拡大して夜間砲撃や小銃、機関銃を使うようになったことや、過去最多の砲撃をした昨年の訓練では白リン弾を使用し、火災も発生するなどの異様な事態となったと指摘。住民の負担がこれ以上拡大しないように、国に対して一刻も早い米軍訓練の縮小、廃止を要請するよう、広瀬知事に求めた。

 質疑応答もあり、県防災危機管理課の牧野雅典課長らが応じた。

 訓練日程について「米軍の物資が県管轄の大在公共埠頭(ふ・とう)を経由するので、県が把握できるのではないか」というローカルネット側の問いに対し、県は「過激な人がそういうもの(米軍の兵器)を狙って違法行為をするような場合があったときに、県民の不安を招き、安全を侵す可能性がある」として、情報を把握しても非公表にすると伝えた。これに対しメンバーからは「訓練が始まった当初はすべて公開されていた情報が、年を追うごとに公開されなくなってきた」という批判が出た。

 また小銃や機関銃を使うことについて、県が「小銃の使用は砲陣地の防御のため」として訓練の拡大ではないとする考えを示していることについて、メンバーから「訓練の拡大ではないという国の言い分を代弁するのでなく、拡大は拡大だと県が認めない限り、県は県民の立場には立てない」などの意見が出た。「広瀬知事がまず訓練期間中に現地に足を運ぶことが大事だ」などの声も上がった。

ローカルネットが米軍訓練で申し入れ(OBSニュース 2011年 1月14日16:55)
日出生台演習場でのアメリカ海兵隊の実弾射撃訓練を前に、訓練に反対する住民グループが、14日、県に訓練の縮小・廃止の実現を求めました。一方で県は、訓練で使う武器の輸送の日程について公表しない考えを示しました。

来月7日からのアメリカ海兵隊による訓練を前に、住民グループ、ローカルネット大分・日出生台は14日、県庁を訪れました。ローカルネットは「去
年は新たに小銃などが使われ訓練が拡大した」として、訓練の縮小・廃止の実現を求める要請文を提出しました。今回の訓練で、海兵隊の移動などの日程は明らかになっていません。県は県が管理する大分港での武器の陸揚げについて、日程が決まっても公表しない考えを示し、住民側は強く反発しました。また県が、去年の訓練は拡大ではないと主張していることに対しても、住民側は不信感をあらわにしました。

 阿久根市の祭り

この16日、鹿児島県・阿久根市で竹原信一前市長(51)が解職請求(リコール)住民投票で失職したことに伴う出直し市長選挙がありましたが、即日開票の結果、リコール運動を進めた市民団体「阿久根の将来を考える会」発起人で新人の西平良将氏(37)が3選を目指した竹原氏を864票差で破り、初当選を果たしました。

この結果について私は次のような寸評を書いていくつかのメーリングリストに発信しました。

阿久根市長にリコール運動を進めた市民団体の発起人で新人の西平氏良将氏(37)が竹原信一前市長(51)を破って初当選しました。864票差でした。

日本列島本土の最南端の地の鹿児島でポピュリズム市政の一角がとにもかくにも崩れ去ったわけでほんとうによかったです。

竹原阿久根市政のこれまでの数々の悪政、問題点については下記をご参照ください。

■阿久根市長問題(弊ブログ 2010/3/29?2010/9/16)
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/folder/268124.html?m=l

次は河村名古屋ポピュリズム市政、石原東京ポピュリズム都政に決定的な終止符を打つ必要があるのですが・・・・ 名古屋市議会解散の賛否を問う住民投票は明日告示されます。また、名古屋市長選挙も23日告示されます。そして、東京都知事選挙も・・・・

【報道記事】
■阿久根市長に西平氏初当選 竹原氏に864票差(南日本新聞 2011年1月16日)
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=29532
■阿久根市長に西平氏が初当選 出直し選、竹原氏及ばず(共同通信 2011年1月16日)
http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011011601000117.html

この私の記事についてCML(市民のML)というメーリングリスト上で下記のような反論がありました。

Re: 阿久根市長に西平氏初当選 南のポピュリズム市長竹原氏を破る 864票差(CML 2010年1月17日)
河村名古屋ポピュリズム市政、石原東京ポピュリズム都政の問題について異論はありませんが、それと竹原信一氏を同列に論じていいか疑問があります。竹原氏の落選はポピュリズム政治の弱める方向ではなく、強める方向に働くのではないかと思います。
日本の問題は官僚とマスメディアが結びついていることで、竹原氏はマスメディアによって悪人とされました。この点が河村氏や石原氏とは決定的に相違します。竹原氏の落選を喜ぶことはポピュリズム政治の打倒に逆行するのではないかと思っています。

以下は、同反論に対する私の再反論です。弊ブログにも再録しておきたいと思います。

      *

林田さん、ご意見拝読させていただきました。

林田さんのご意見の論旨は「日本の(政治の)問題は官僚とマスメディアが結びついていることにある。しかし、竹原阿久根前市長はそのマスメディアと結びつくどころか逆に同メディアを敵に回して戦ってきた。ゆえに竹原氏の落選はポピュリズム政治の弱める方向ではなく、強める方向に働くだろう。竹原氏を河村名古屋市長や石原東京都知事と同列に論じることはポピュリズム政治の打倒に逆行することになる」というもののようです。

しかし、「竹原氏はマスメディアを敵に回して戦ってきた」という林田さんのご判断は前提となる事実認識に誤りがあるように私は思います。

竹原氏が議会から2度の不信任決議を受け失職し、出直し市長選で市長に再選されたのは2009年5月31日のことです。下記の弊ブログ記事に引用しているマスメディア記事はこの時点では必ずしも批判的ではなく、どちらかといえば竹原市政に好意的なスタンスをとっています。

■阿久根市長問題(1)「ヤッホー! 市民派市長再選される」という呆れた投稿について―阿久根ブログ市長の「革命」と橋下大阪府知事の「革命」の危険な類似性(弊ブログ2010年3月29日付。ただし、実際の執筆は出直し阿久根市長選のあった翌日の2009年6月1日付。同弊ブログ記事は左記の2009年6月1日付記事を再録したもの)
■上記ブログ記事において引用している西日本新聞記事(2009年6月1日付。ただし転載されたもの)
■上記ブログ記事において引用している南日本新聞記事(2009年6月1日付)
■上記ブログ記事において引用している朝日新聞記事(2009年6月1日付。ただし転載されたもの)

鹿児島の地元紙の南日本新聞は同年同月4日付記事でも2期目に入ろうとする竹原市政を次のように評価しています。

2期目に入った「竹原流」改革の行方は、いまだ“視界不良”のまま。竹原市長に将来を託した市民の期待にこたえ、議会での理解を得るためにも、改革の具体的な手順や道筋をできるだけ早く示すことが、いま求められている。」(「阿久根 竹原市長再選 改革の行方」(下))

上記の南日本新聞の竹原市政評価は「「竹原流」改革の行方は、いまだ“視界不良”」というもので、ここにはいまだ明確な竹原市政批判は見られません。他のマスメディアの論調も同様です。

マスメディアがいっせいに竹原市政批判を強めていくのは、竹原市長が「裁判所の決定を無視して市職員の職務への復帰、給与の支払いを拒否したままであったり、自身の個人ブログに障害者を差別する記述をしたことをメディアや市民に批判されると逆に居直って、「日本の裏社会を構成している主な要素はヤクザと同和そして在日」などと一段とエスカレートさせた差別的な記述を自身のブログにさらに書き連ねたり、 メディアの市庁舎内での撮影を原則禁止にして国民の知る権利、報道の自由に挑戦する姿勢を見せたり」(弊ブログ、2010年3月29日付)と、自治体の首長としてというよりも一個の人間としてもとてもまっとうとはいえない破廉恥蒙昧ぶりを繰り返しだした頃からのことです。

こうした政治家、自治体首長の破廉恥蒙昧ぶりをメディアが批判的にとりあげ、報道することは、「官僚とマスメディアは結びついている」とか「(竹原前市長は)マスメディアを敵に回して戦ってきた」とかいうこととはまったく別次元のことというべきであり、むしろ「権力の監視者(ウォッチドッグ)」としてのメディアの決定的に重要な役割のひとつというべきものでしょう。メディアは権力の虚と濫用を世に暴きだす役割を負って現代社会に登場しているのです。これはジャーナリズムの常識というべきものです。

にもかかわらず、メディアの竹原前阿久根市長批判は弊ブログ記事にも書いていることですが、メディアのそれとしてはむしろ中途半端なものでした。左記の弊ブログ記事に引用している朝日新聞記事は官と民間の格差問題の本質を誤って適示し、結果として当時の竹原市政のむしろ応援歌になりおおせている、というのが私の見るところです。

また、これも弊ブログ記事で指摘していることですが、マスメディアの朝日新聞系列の「AERA(アエラ)」2010年8月9日号では竹原阿久根市政を進んで評価しようとさえしています。私の見るところ同紙以外の新聞、週刊誌を含む多くのメディアも同様の傾向を示していました。

以上見てきたところが林田さんが「竹原氏はマスメディアを敵に回して戦ってきた」と判断されるマスメディアと竹原氏の関係の実態です。林田さんとは逆にマスメディアはこれまで竹原ポピュリズム政治に消極的、積極的に手を貸してきた、というのが私の判断なのです。竹原氏の落選は決して「ポピュリズム政治を強める方向に働く」ことはなく、(長い目で見て)ポピュリズム政治の終焉と凋落の第一合目、というのが私の判断でもあります。

竹原前阿久根市政のポピュリズム性、橋下大阪府知事や河村名古屋市長、石原東京都知事の唱える「革命」なるものの危険な類似性については何度も重複引用して恐縮ですが、こちらで指摘しています。再度、お目通し願えれば幸いです。

もともと同記事は、竹原前阿久根市長が再選された翌日の2009年6月1日に「ヤッホー! 市民派市長再選される」、「すごいね。真実を知った市民のパワーを思い知ったかい?」などと空騒ぎする何人かの「平和」市民のなんともアホらしい投稿を見て、その認識のあやまちに気づいていただくために認めたものでした。
俳優の細川俊之さんが死去されました。

自宅の居間で転倒し、頭部を打撲したため、急性硬膜下血腫で死去した、ということです。享年70歳。

私は30代までは細川俊之という俳優は好きではありませんでした。そのにやけた口調と色男ぶりが私の趣味ではなかったからです。

しかし、40代の後半あたりからだったでしょうか。細川俊之という俳優が名優であることに気づき始めました。そのにやけた口調と色男ぶりがときに茶目っ気となり、役者として鍛え上げられた演技がかもしだす「男の色気」であることに気づいたからです。細川俊之は私の好きな名優でした。

その細川の死について、細川俊之の元妻の小川眞由美がコメントを出しています。

小川眞由美も私の好きな女優です。名優だとも思っています。

その小川眞由美のコメント。

「もう、あの声と甘いマスクは 無 なのですね。残念です」。このコメントはそれでよいのです。当然のコメントだと思います。かつての夫への愛情も感じます。

しかし、「俳優として、渋い甘さはこれからでしたのにねえ。ご冥福をお祈りします」というコメント。

「これからでしたのにねえ」、「ご冥福をお祈りします」という小川の他人行儀なコメントになにかしら女の薄情さのようなものを感じてしまうのは私の僻目のせいでしょうか? 私にはそうとばかりは思えないのですが・・・

 ベッドを降りて5メートルほど離れたトイレへ歩く。引き戸を開けてまた数歩。便座に腰掛ける。「つえをつかんと行けた。治ったんや」。うれしさと同時に目が覚める。

 兵庫県西部の特別養護老人ホームに入所している男性(78)は、繰り返しこんな夢をみる。布団に横たわっている自分の右半身は、脳梗塞(こうそく)の後遺症で動かない。

 仕事も、遊びも。そんな半生だった。働いていた妻とはすれ違いが続き、1987年に離婚届を突きつけられた。早期退職して得た退職金と、自宅を売って作った計6500万円を慰謝料として渡した。

 それでも、遊び癖は直らない。転職してからも大阪の盛り場・キタで毎日のように飲んだ。スポーツクラブに週5日通い、悲惨な老後とは無縁と思っていた。

 5年前の春、カーテンを取り換えようとして上を向いたとき、頭の後ろに痛みを感じた。入院して1週間後に意識がなくなり、目覚めたのは2カ月後だった。

 話こそできるようになったが、つえがなければトイレにも行けない。食事以外は6畳ほどの自室にこもる。親しく話せる入所者はおらず、一言もしゃべらない日もある。

 離婚後も元妻とは連絡をとっていたが、病気になってからは途絶えた。「死んどると思っとるやろな。僕のことが新聞に載ったら、誰かが妻に伝えてくれますかね」

 入院しているうちに、私物は親類にほぼ捨てられた。残ったのは結婚指輪だけだ。やせた薬指には合わず、中指にはめている。半身不随になり、年老いた今になって切実に思う。妻がいたら、子どもがいたら、と。

 「指輪を外されへんのは、近くに妻がおったらなと思うからかな。結局、自分のことしか考えてない。勝手放題にしてきた僕への罰ですわ」

■死別の悲しみ分かち合う

 東京都心からJR中央線で約1時間半の山梨県上野原市。駅を囲むように広がる住宅街の一角に、武田繁男さん(64)は暮らす。

 家のことは妻に任せきり。休みの日は家でごろごろするだけ。当たり前だと思っていた生活は、4年前、妻の突然の死で終わりを告げた。あと半年で定年を迎えたら、2人で旅行を、と考えていたところだった。

 電車の中で泣きそうになる。誰もいない家でぽろぽろと涙をこぼす。おいしいものを食べると、「食べさせてやりたかったな」と思う。

 何より心残りなのは、感謝の言葉を伝えられなかったことだ。「優しい言葉、いえないんだよね、俺たちの世代は。だめだね」

 今、多くの時間を、縁側のそば、深緑の山並みを望むこたつで過ごす。左手に電話とパソコン、目の前にテレビ。手の届く範囲で、ほとんどの用が足りる。

 そこでほぼ毎日、欠かさずにするのが、メールの送信だ。宛先は、配偶者を亡くした人の会「気ままサロン」のメーリングリスト。

 〈一瞬に終わった一年。エスカレーターの駆け上がり、いつまで続けられるか。脱兎(だっと)のごとくいければ〉

 〈子供達(たち)は昨夜あわただしく帰京。よって、お一人様生活に戻りました〉

 ほぼ毎日、日常生活や気づいたことを取り留めなくつづる。パソコンの向こうにいる仲間たちが、話し相手の代わりになる。

 みな、同じような喪失感を味わっている。千葉県柏市の公平(こうへい)敏昭さん(70)は4年前に、東京都日野市の堀野博資さん(69)は10年前に妻を亡くした。深くて冷たい海の底にいるよう。そんな思いを、同じ境遇だからこそ安心して伝えられる。

 「男の方がめそめそしていますよ。カミシモつけて素直に気持ちを吐き出せないんだよね」と堀野さんは言う。

 時には顔を合わせ、共に過ごす。年末、平日の昼間、新宿のカラオケボックスで開かれた「気ままサロン」の忘年会には20人以上が集まった。東京都板橋区の井出弘明さん(74)が選んだ古い洋楽に、1人の女性が涙をぬぐった。

 「主人が好きだった歌で」

 「いやあ、女性を泣かせちゃったな」。井出さんはそういって、場を和ませた。

 井出さんも、家に帰れば1人。「行ってくるよ」と声をかけても、答える人はいない。ついでに買い物を頼まれることもない。かっこ悪いからと嫌がったネギだって、今なら買ってくるのに……。

 そんな気持ちを抱えるのは一人だけじゃない、そう仲間たちは教えてくれる。

 悲しみは決して消えない。でも、分かち合う友がいれば少しだけ、心が軽くなる。(鈴木剛志、仲村和代)

■つながりがあれば前向きに

 死別や離別で伴侶を失った人、そしてその人たちが過ごす時間は、長寿に伴って増えていくだろう。男性の場合、家事能力の低さが苦しみに拍車をかける。「孤族」の時代、よりよく生きるために、最低限の生活能力は必要だ。

 一方、喪失感は簡単に埋められるものではない。「残された者を最期まで気遣っていた夫や妻の思いをおろそかにせず生きよう。そのために仲間がいる」。気ままサロンの佐藤匡男代表の言葉だ。

 共感できる人とのつながりがあれば、伴侶と生きた時間をいとおしみながら、前向きに生きることもできるのだと感じた。(仲村和代)=第1部おわり

 男性の体が動かなくなった。画面の中で、ベランダの向こうの空だけが明るくなっていく。「これ、ガチ(本当)だぞ」「やべえ」。ニュースはあっという間にインターネット上に広がった。

 「来週自殺します」という予告が、ネット掲示板2ちゃんねるに載ったのは昨年11月上旬だった。予告した男性は自室にカメラを設置。生中継動画をネット配信し、書き込みを見ながら思いを語っていた。中継は最期の瞬間まで続いた。

 掲示板には、「どうせ死ねないだろ」「早くしろよ」と、匿名の書き込みが相次いでいた。24歳の男子学生も、その中にいた。

 興味本位で動画を見始め、同年代が泣きながら語る姿に、「これはやばい」と思った。学生も突然大学に行けなくなり、うつ病と診断されていた。手首に包丁をあて、痛みに耐えられずにやめた。八方ふさがりだった。

 画面の向こうで、その男性は語った。うつ病で休職中であること、大学時代の友人と離れて寂しいこと、容姿へのコンプレックス。ひとごととは思えない。「死ぬのはやめろ」。そう書き込み、朝まで中継につきあった。

 翌日、男性は「昨日は途中で寝ちゃってごめん」とまた配信を始めた。「死ぬ気ないな」。掲示板の書き込みはだんだん、あおる方向へ変化していく。「さっさと死ね」。学生もばかばかしく思って、何度か言葉を浴びせた。最期の映像を見ても、現実感はなかった。

 「あおったヤツは人殺し」。今度は掲示板に、そんな言葉があふれた。

 それから1カ月。取材に応じた学生は「書き込みと自殺の因果関係はないと思う」と話した後、続けた。「ほかの人があおってる中で『生きろ』と書き続けて、『空気を読め』っていわれるのが嫌だったのも事実。死ぬわけないって思ってた。でも、人が亡くなった以上、言い訳でしかない」

 2ちゃんねるは「習慣」だった。1日10時間以上パソコンの前にいたこともある。現実の友達とは違う、独特のつながり。出会いもあった。

 しかし、大学に行けなくなった時、真っ先に頼ったのは両親。相談すると、郷里から数時間かけて、すぐに駆け付けてくれた。大学の先生や友人も見守ってくれている。

 あの男性は、そんな存在に気づけなくなっていたのだろうか――。学生は事件を機に、ネット漬けの生活を卒業する決意をしている。


■救いと牙と 紙一重の空間


 自殺した男性も24歳。大学を卒業し、昨年4月から仙台市で働きはじめたばかりだった。上司は「ごく普通の職場の、ごく普通の青年」と語った。

 例年の倍以上の難関となった入社試験をくぐり抜けた。飲み会でも「がんばります」と明るかった。ところが5月末、突然「調子が悪い」と休みを申し出たという。

 「ゆっくり休むように伝え、親御さんとも連携してケアしていたつもりだった」。ショックを隠しきれない様子の上司は繰り返した。「自殺をあおるサイトがあるなんて、理解できない」

 男性の自殺の衝撃が、水紋となって同世代に広がる。

 事件の後、残された動画を見た神奈川県のフリーター(23)は「誰かに分かってほしい、かまってほしい。彼にとってその場所が、ネットだったんだ」と思った。

 17歳の頃から、生きる意味を見いだせずにひきこもった。何度も死を考えた。分かり合える人を求めて、ネットをさまよった。同じようにつらい人がたくさんいることを知り、少し、救われた。

 固定した人間関係が苦手だから、正社員にはなりたいとも思わない。親がいなくなって生活できなくなったら死ねばいい、と低い声で話す。

 それでも、一歩ずつ前に進もうと、もがく自分がいる。生活を立て直そうとする姿を連日、ブログにつづる。「4カ月くらい安定剤を断っている。がんばってるな、おれ」

 共感したいと願う人たちが誰かに寄り添ったり、時に傷つけたり。膨大な情報が飛び交うネットは、プラスにもマイナスにもなる、と思う。

 最近、派遣社員として販売の仕事をするようになった。いつもは昼夜逆転の生活だから昼間に働くのはつらいが、徐々に人前に出ることに慣れてきた。今なら、前向きな人たちとつながることもできるかもしれない。

 ネットでも、現実でも。


■つまずいてもやり直せる道を


 ネット上でどぎつい言葉を交わす彼らは、実際は礼儀正しく、まじめな若者たちだった。実社会でつまずき、自己否定の言葉を連ねる彼らを追いつめているのは何だろう。

 若者の生きづらさをテーマに取材をする渋井哲也さんは「少子化で子どもへの期待値が高まり、逃げ道がなくなっている」と指摘。小さな集団で育つ分、異質な人と対話する力が落ちていると感じる。

 周囲と同じ歩調で歩むことを求められ、一度つまずくと元の道には戻れない。その恐怖が、彼らを閉じこもらせているように感じる。何度でもやり直せる、そんな「空気」が必要なのだと思う。(仲村和代)

 庭先で、マツが腰をひねり枝を広げる。奥には、どっしりとした瓦ぶきの家屋。その2階に男性の部屋はある。

 「僕がひきこもっているのは、父さんへの復讐(ふくしゅう)だ」。そう家族に訴え、30年間、社会と接点を持たずにきた48歳の男性が、昨秋、中部地方の専門病院に通い始めた。

 結婚して家を出ている姉によると、通院へ背中を押したのは、反発しながらも同居してきた80代になる父の死だった。「病院へ行こう」。1人になった男性に姉が促すと、素直にうなずいたという。

 対人不安から、会話は親類と医師に限られる。記者も、姉に付き添われて歩く姿を離れて見守った。病院へ送り、実家に食品を届ける姉は疲れ果てる。「世間から見ると大人。でも、自立はまだ」

 高校3年、最初は不登校から始まった。母の死、いじめ、進路選択などが重荷となり、思春期の心を閉ざした。

 「母さんが甘やかした」「卒業して就職しろ」。仕事中心で、亡くなった母に子育てを任せてきた父は、叱るほか接し方を知らなかった、と姉は言う。それが息子を逆上させ、時に暴力となった。

 一つの家に冷蔵庫が二つ。父子は別々に食事した。体面から家族で抱え込み、医師にも相談しなかった。「でも、父なりに弟を愛していた」と姉は思う。将来を案じ、年金保険料を代納し、貯金を続けた。スーパーの警備員など定年後も75歳まで働いた。

 ひきこもりの長期化に、当事者と家族が追い詰められている。国の推計で当事者は全国70万人。「親の会」の調査では平均年齢30歳を超す。

 関東地方の36歳の男性。大学になじめず、うつ状態になり自殺を図った。人と会うのが怖い。昨年から介護施設で週1回のバイトを始めたが、気分に波がある。取材後、携帯に電話してもつながらず、数日後に「落ち込んで、出られなくて」。67歳になる元高校教師の父の年金が頼りだ。

 大学院の時に就活に失敗した東北地方の29歳の男性は、30歳を前に自分で入院を決めた。同世代が仕事をこなし、結婚する時期。30代になると就職も難しくなるため、長期化させない治療の節目と言われる。「退院したら教員免許をとりたい」「まだ間に合うだろうか」。焦り、揺れる。

 出てくるのを待たず、専門家の医師が迎えに行こう。そんな試みがある。

■「おるかー」医師が迎えに

 「おーい、おるかー」。呼び鈴を押しても反応がない。和歌山大学そばのアパートの2階。玄関口で宮西照夫教授(62)が声を張り上げて20分たったころ、やっと開いた。

 師走の夕暮れ。無精ひげの男子学生(24)は湯船の中で寝ていたという。ベッドの枕元の壁には、「怠けたい自分に打ち克(か)て」と手書きの張り紙が掲げてあった。

 精神科医の宮西教授は、大学の保健管理センターの所長を務める。ひきこもる学生らの自宅を訪問してカウンセリングし、外出を促す独自のプログラムを実践。8割以上を復帰させてきた。

 男子学生は、留年を機に夏まで不登校を続けていた。復学後も1週間以上休むと、教授や友人が自宅を訪ねる。

 この学生の場合、一人暮らしのアパートを初めて教授が訪ねたのは昨年6月。呼び鈴を押しても反応がなく、ポストに手紙を残した。「元気か」「また来るよ」。それをくり返し、4度目の訪問となった7月、ドアが開いた。

 「最初は面倒くさいと居留守した」と男子学生。「でもこのままじゃダメだという思いが募ってくるタイミングがある。その時にノックされるとドアを開けられる」

 一方、両親から外に出るように言われると、心配かけてるな、申し訳ないなと、ますます落ち込むという。当事者や家族が問題を抱え込み、孤立する事例を見てきた宮西教授は、「行き詰まった親子に第三者が介入し、風穴を開けることが大事」と訴える。

 「宮西プログラム」には番外編がある。信頼を築き、部屋を出られると食事に誘うのだ。この日、床に座って1時間近くひざ詰めで語った後、別れ際に玄関口で学生の肩を抱いた。「今度、一緒にラーメン行こな」

■親も高齢化 態勢づくりを

 なぜか、ひきこもる人々の6、7割を男性が占める。進学や就職をめぐり、周囲が男性に寄せる期待の高さがストレスになっている、と専門家は見る。さらに、最近の不景気が社会復帰を阻んで長期化を招き、加えて就職難が新たに20、30代になってひきこもる高年齢層も生んでいる。

 親の高齢化も深刻だ。「全国引きこもりKHJ親の会」の奥山雅久代表は66歳。自身も末期がんを患い、長期化する当事者を支える制度実現を訴える。記事の48歳の男性のように、抱えてきた親が亡くなる事態はすでに始まっている。家族に依存しない態勢づくりが急務だ。(西本秀)

 がん末期で入院を拒否し、一人暮らしをしている人がいると聞き、昨年10月半ば、71歳の男性の部屋を訪ねた。

 東京都台東区の山谷地区にある古い木造アパートの2階。畳の上の介護用ベッドに、男性がうっすらと目をあけて横たわっていた。

 「つらいよねー」。そう声をかけながら、看護師が胸に医療用麻薬を貼る。男性の表情が次第に和らいでいく。

 1日2回、看護師が訪問する。医師が適宜往診し、ヘルパーも1日3回。だが、その合間や夜間は一人きりだ。

 家族のいない、独居の人が自宅で最期を迎える。医療の見守りを受けつつ、たった一人で。そんなことができるのだろうか。病院に死を任せるのが当たり前の今の日本で。

 男性が病院から自宅に帰ってきたのは6月だった。

 口腔(こうくう)底がんが進行し、手術、化学療法、放射線治療ともできず。余命数カ月。気管切開、胃に管で栄養を直接入れる「胃ろう」。生活保護。病院からの受け入れ要請を受けて、地元で「あやめ診療所」を営む伊藤憲祐医師(40)は言葉を失った。

 がんは早期に発見されたにもかかわらず、手術のタイミングを逃していた。何度入院しても勝手に退院してしまう、という。もう、ほかに頼るところはない。

 山谷地区では、簡易宿泊所などに住んでいる日雇い労働者たちの高齢化が進んでいる。そんな男性たちに医療や介護を提供するNPOの訪問看護ステーションや介護サービスが、医師とチームを組んだ。費用は、生活保護の医療扶助などでまかなう。

 トラブルは、初日から起きた。入浴サービスを受けるとき、指定時間より早く自分で施設に来た揚げ句、待たされたと怒って帰ってしまったのだ。自分のペースを貫き、針を逆立てたヤマアラシのように、いつも周囲に突き刺さる。そんな人だった。

 男性は、半生をほとんど語らず、訪ねてくる親類や知人もいなかった。温泉とこけしで知られる宮城県の鳴子出身。生活苦で中学生のときから働きはじめたのだという。その性格から、人と群れずに生きてきたのだろう。

 その後も、「自己流」は続いた。看護師が訪問する時間にわざと外出する。胃ろうに入れる栄養剤に、自分で缶コーヒーや豆乳を混ぜる……。

 そんな身勝手の数々を、スタッフらはあえて受け入れ、休日さえつぶした。

 男性を担当した訪問看護ステーション「コスモス」看護師の平野智子さん(35)は、その理由を語る。「人を待つ」ということが今、医療の場で失われている。病院ではどうしても医療が中心になるが、在宅なら患者のこだわりを大切にできるはず、と。

■閉じた心 開いた医療ケア

 室温で氷がとけていくように男性は変わっていった。看護、介護が終わると、何度も手を合わせるようになった。病状が進み、会話が難しくなるとペンを握った。「すみません」「たすかります」

 その頃、ある高齢の女性が、部屋を訪ねた。50年以上会っていなかったという男性の姉(84)だった。

 本人は不義理を気に病み、身寄りのあることを隠していた。伊藤医師が説き伏せ、半ば無理やりに連絡をとった。

 「あなたも安心して、感謝を忘れずに最期を全うしなさい。私もすぐにいくから」

 姉は、肉親でなければ口にできない言葉を、ほほ笑みながら言った。義姉のはからいで親や兄と同じ墓に入れることも伝えた。看護師の目には、男性の表情がすっと楽になったように見えた。

 衰弱し、血圧が低下していく。それでも残された力を振り絞り、胸の前で手を合わせようとする。最期は、かすかに布団が動くだけになった。

 ありがとう、と。

 男性が亡くなったのは、10月末の深夜だった。朝、ヘルパーの渡辺博幸さん(47)が部屋に入り、いつも通りに声をかけながら布団をめくると、胸が動いていなかった。

 翌週、斎場に集まったのは医師、看護師、ヘルパー、姉と義姉、そしてボランティアの僧侶と記者の私。男性が残したのは、数十枚の写真と数枚のCD、腕時計、そして鳴子産のこけし二つ。

 男性は、みとる人もいない深夜、一人暮らしの部屋で、この世から去った。世間の尺度を当てはめれば、孤独な死だったのだろう。でも、たった一人で生きてきた男性は、死の直前に、大切な何かを取り戻したようにみえる。

 伊藤医師は言う。「人の死は点ではないんですよね。いい生が続けば、いい死になるんです、きっと。男性は、最後に人とつながった」

 ヘルパーのひとりは、男性が亡くなる数日前に見せた表情が忘れられない。

 部屋にあったビートルズのCDをかけると、男性は曲を口ずさもうとした。顔には、確かに笑みが浮かんでいた。

■山谷地区での試みに希望

 「人は誰でも死ぬんですよね。私も、あなたも」。男性の介護をしたヘルパーが、取材中、ふいにそう言った。

 そう、人は例外なく死ぬ。孤独死を恐れる人は多いが、死ぬ時は誰でも一人きりだ。孤族と多死の時代、「幸せな死とは何か」という問いの答えは、それぞれ自分でみつけるしかない。在宅死を望む人も、きっと増えるだろう。

 大切なのは、死の直前まで不安を取り除き、手を携えてくれる人の存在だ。孤立した単身男性が多く住む東京の山谷地区には、志を持った医療・介護関係者が集まっている。彼ら、彼女らの試みに希望をみたい。(真鍋弘樹)

 きらきらと光る装飾がつけられたハンドルを握り、埼玉県の重機オペレーター、浅見真さん(39)は帰路につく。今日は電話しよう、そう思うと一日の疲れが和らぐ。

 祖母の作った夕飯を食べ、風呂に入って一段落してから、電話に手を伸ばす。相手は、有料の話し相手サービス「聞き上手倶楽部」。話を聞いてもらう。それだけのために10分千円のお金を払う。

 指名するのは、代表の菊本裕三さん(51)。顔は写真でしか知らない。会いたいわけでもない。でも、友達のような存在だ。いや、この世で自分のことを一番よく知ってる人かもしれない。

 最初の電話は4年前だった。高額請求を警戒して、プリペイド携帯電話でかけた。

 「離婚しました」

 「何で?」

 意外にあっさりと話せた。月に数度は利用するようになった。中身はもっぱら仕事の愚痴だ。会社はゼネコンの下請けで、リーマン・ショック以降、年収は半減し、社員も減らされた。不安が募る。

 「中間管理職みたいな立場なんすけど、現場の不満を上に伝えても何も変わらない。でも下からは突き上げられて、板挟みなんですよ」

 「職場で元気なのは外国人だけ。日本人は下向いて歩いてて指図聞くだけ。俺って、沈んでいく日本のど真ん中にいるんだと思うんです」

 「聞き上手倶楽部」の菊本さんは元美容師。客の話に耳を傾ける美容師ほどリピーターが多く、「聴く」大切さは身にしみて感じていた。うつ病の増加が話題になっていた2006年、「一歩手前で予防することができれば」と考え、サービスを開始。「話し相手のいない高齢者」を想定していたが、実際は違った。家族も友達もいて仕事もしている、まじめな人が多い。

 家族に何回も同じ話はできない。周りに聞いてもらえない。利用者から漏れるのはこんな言葉だ。

 顧客は数千人になり、同業者も増えている。事業は順調だが、半面、菊本さんは少し寂しさも感じている。「嫌なやつと思われたくない、うっとうしがられたくない、だから愚痴や悩みを言えない。もっと甘えてもいいのに」

 浅見さん自身、一緒に暮らす祖母や父との関係が悪いわけではない。肉体労働で鍛えた体にストリート系ファッション。友達も彼女もいる。でも、深刻な話はしない。愚痴をいうと雰囲気が悪くなる。「話しても仕方ないなって思うんすよ。自分をさらけだせる人、いないっすね」

 「10年後は大した楽しみもなく引きこもってるんだろうな。さみしいっていうより、すごくひとりなんじゃないかな。孤独死、するかもな」

 こんな話、身近な人には、したことがないし、サービスを利用していることはこれまで誰にも話していなかった。思いをはき出したら、翌朝、また現場に向かう力が湧いてくる。(仲村和代)

■赤の他人に救われた

 石油ストーブでほどよく暖まった畳敷きの部屋、60代の男性2人が、ちゃぶ台を前に向き合う。聞こえるのは、小さな声、そしてインコが鳥かごを揺らす金属音だけだ。

 「少しずつ進んでしまう病気ですから。1ページずつ、記憶を破っていくわけです」

 「はい」

 「私が夫であるかどうかも、わからない状況になっていくわけです」

 「はい」

 語り手は、千葉県船橋市に住む徳田利彦さん(67)。相づちを打っているのは同市の小柳嘉一郎さん(69)。2人は数カ月前まで、まったく面識のない赤の他人だった。

 傾聴ボランティア。高齢者ら悩みや寂しさを抱えた人の話し相手になる運動だ。自治体としては船橋市が初めて、9年前から始めた。ボランティアは現在286人、昨年度の訪問回数は3717回。

 勧められてボランティアを受け入れた徳田さんは、最初は懐疑的だった。初回は仕事の話題だけ。こんなことをして意味があるのか、と思ったが、ふと気が変わった。

 この人に話してみようか。自分のこと、妻のことを。

 「家内がアルツハイマーだとわかったのは7年前です。今思えば、20年近く前から始まっていたのかもしれない。家に帰ると、暗い部屋でひとり座り込んでいて。どうして気付いてやれなかったのか」

 話し始めると、次から次へと思いが湧く。92歳の母親も施設に入っていること。妻や母のことを相談したいが、息子たちも不況で収入が減り、それどころではないこと。

 「家内と夜中にドライブしました。死のうと思って、直線道路でスピードを出して、母さん、これでいいかいって。その時だけ家内は真顔で、いいよ、と言うんです。かえって踏み切れなかった」

 小柳さんは余計な口を挟まない。ただ話を聞くだけ、といっても簡単ではない。同市福祉サービス公社の40時間の講習を受けなければボランティアにはなれず、会話の内容には守秘義務が課せられる。

 「家内がこうなったのは、私のせいなんです。夫婦は空気のようなものと思い、ずっと無視してきた。家内を介護施設に入れてから、ひとりでいると、おかしくなってしまいそうになる。テーブルをたたき、泣きわめいて……」

 徳田さんは、自分の生きてきた道を語り始める。高校を卒業し、鹿児島から集団就職列車で上京したこと。転職を重ね、睡眠時間3時間で何年もがむしゃらに働いたこと。

 「人がつながりを失って、今のような世になったのは私たちに責任があるんですよ。がむしゃらに働いて、家族にいっぱい迷惑をかけて」

 小柳さんはただ、深くうなずく。同世代の男性2人。同時代を背負ってきたからこそ分かり合えることがある。

 徳田さんの顔に、次第に赤みがさしていく。(真鍋弘樹)

■話すことは生きること

 苦境にあるとき。悩みを抱えているとき。誰かに話しても、決して問題が解決するわけではない。それでも胸中を吐き出せば、心の荷物が軽くなる。

 家族が「孤族」へと姿を変えている今、話し相手の不在に悩む人たちは今後も増えていくだろう。ボランティアや有料の話し相手も、選択肢のひとつとなっていくに違いない。

 船橋市の傾聴ボランティアでは、話し手と聞き手のペアが7年間も続いたケースがあったという。人を固く結ぶのは、決して血縁や地縁だけではないのだ。

 話すことは、息をすることに似ていると思う。普段は意識をしなくても、人はこれなしには生きていけない。(真鍋弘樹)

 居間のかもいに、額縁入りの賞状が並ぶ。米寿の祝いなどに贈られた「寿状」は、亡父あても含めて3枚。94歳になるベッドの上の母を、静かに見下ろす。

 介護保険で、最重度より一つだけ軽い「要介護4」。週1の訪問入浴を済ませ、おぼつかない手つきでコップを口元へ。「あっ、こぼすよ」と慌てて近づく長男を、少女のように澄んだ目で見つめる。

 森谷康裕さん(66)は父が逝った10年前から、母里津子さんと2人きりで暮らす。東京都葛飾区にある築39年の木造2階建てで小さな食品雑貨店を営む。

 昨年、母の左太ももの骨折がわかったが「もう治せない」と医者に言われ、ほぼ寝たきりになった。耳が遠くなり、終日つけっぱなしのテレビの音も聞こえているかどうか。最近の会話は「今」と「過去」が入り乱れる。

 そんな母との生活を「自営だから良かった」と思う。お兄ちゃーん、と呼ばれれば、すぐ飛んでいく。親類の消息を問われても「あの人、もう死んじゃったでしょ」と耳元で何度でも正してやれる。

 いつの間にか居着いた猫が、ひだまりの部屋を通り過ぎていく。

 4人きょうだいの一番上だった森谷さんは、高校を中退して16歳で、両親の店を手伝い始めた。すぐにオート三輪を買い、毎朝6時に市場へ。父が作るきんぴらや煮豆は評判で、年の瀬になれば自家製の「お節」を買いに来る常連客を、親子3人でさばいた。

 30歳過ぎで見合い結婚したが、1年足らずで破綻(はたん)した。「サラリーマン家庭みたいに決まった休暇が欲しいと言われても、ね」

 時代は流れ、街は変わる。

 駄菓子の売れ行きが落ち、主婦は消費期限が表示されたパックの総菜を好むようになった。常連客は老い、店の前を通り過ぎる人々は向かいの駐車場付きスーパーへ吸い込まれていく。

 忘れられた孤島のような商店の陳列棚に品物は少なく、閉店セール最終日のようだ。

 森谷さんはほとんど外出せず、毎日3度の食事を作って母に食べさせ、おむつを替えて寝かしつける。独身の弟(58)が週2回は顔を出すが、妹たちはあまり来ない。「旦那や孫の世話で忙しいんだろう」。ため息がもれる。

 2人の時間は、10年前から止まっているかのようだ。だが、母は卒寿を過ぎ、自分も高齢者と呼ばれる年齢に達して、同じ病院に通う。10年後、一体どんな暮らしが待つのか、考える余裕はない。

 「車いすにさえ乗せられれば、日帰りでも連れ出してやれるんだけど」。そう言いながら、2年前の旅行の写真を手に取った。満開の芝桜を背にした母は、少し不安げに、こちらを見つめている。

■息子介護の本音 言えた

 残業を終えて帰宅すると、母は出走直前の競走馬のような目をしていた。明け方まで続く徘徊(はいかい)の前兆だ。「向こうに行ってろっ」。思わず頭をたたくと、みるみるうちに白髪が鮮血に染まった。急いで病院へ。「次は通報します」と医師は言った。

 数年前のことだ。

 鈴木宏康さん(51)は独身で、アルツハイマー型認知症を患う82歳、要介護3の母を介護する。川崎市の築30年を超す分譲団地の4階、3LKで2人の生活を続ける。

 電機メーカーの下請け会社を辞めたのは46歳。リストラ含みの配置転換で嫌気がさしていたとき、母の病状が悪化した。四六時中、部屋を動き回って、独り言を繰り返す。水道の蛇口は開けっぱなし。そばを離れられなくなった。

 最初はアルバイトに出るつもりだった。でも面接で「欠勤しないで」と言われれば諦めるしかなかった。昼間預かってくれるデイサービスの利用料を差し引けば、時給は実質275円。施設に入れる貯蓄もなく、母の年金で暮らそうと決めた。

 生活は想像を絶した。

 力任せに玄関ドアをたたき続ける母を部屋にとどめておけず、昼も夜も背後から追って、何キロも歩き続けた。たびたび行方不明になり、連絡を受けては連れ帰る。やむをえずデイサービスに預けた晩は、興奮して大暴れ。地域のケアマネジャーに愚痴をこぼすと「育ててくれた親でしょ」と言われ、心が折れそうになった。もう二度と行政には頼るまい、と決心した。

 たまに元同僚や友人から飲み会へ誘われたが、断った。苦しい胸のうちを訴えたところで何になるのか。そもそも母を置いて外へ出られない。周囲に壁を築き、2人だけで閉じこもるような日々。

 ボランティアの女性(63)が訪ねてきたのは、この頃だ。「気になる親子がいる」というケアマネらの訴えで、様子を見にきた。片時も落ち着かぬ母の横で、ふてくされてたばこを吸い続けていると、集まりに顔を出して、としつこく誘われた。足を運ぶうち、「本を書いたら」とすすめられた。

 2人きりの閉じられた空間に、少しずつ新しい空気が入っていく。

 日記を書いたこともないのに真夜中、パソコンに向かった。2009年、単行本「息子介護」を出した。つたなくも過激な表現で、孤立無援な日々に正気を失いかける心境をつづる。「自分自身の人権なんて言ったら、介護なんてできない」「日にいく度か心の中で殺すのです。お袋を」

 単行本は話題を呼んだ。同居の親をみる無職の独身男性の「本音」を聞きたいと、介護職や行政担当者らが続々とやってくる。介護関係者の会に誘われることも増えた。

 鈴木さんは気が向くと、母を連れて、そんな会に参加する。「キャバクラに行く方がいいに決まってます」などと憎まれ口をたたきながら。(高橋美佐子)

■「ごめん」2階に父の遺体

 2階に上がると、目の前の部屋の床には楕円(だえん)形のしみが広がっていた。北関東の新興住宅地の一角にある、築14年の木造戸建て。薄茶色のフローリングに広がるしみは周囲が黒く、中心部は白い。

 1人でここに住む男性(39)が7カ月間、父親の遺体を寝かせていた跡だ。

 「仏様だから、頭は北に向けて、こうやって、そっと布団の上に寝かせて……」

 丸刈りの男性は、遺体を布団に乗せた様子を、腕を広げて示した。刺繍(ししゅう)の入ったジャンパーにジャージーのズボン。家の中には、ゲームセンターで取ったぬいぐるみがいくつも飾ってある。

 2009年2月のある日。66歳の父親が心臓発作が起きたように苦しみ始めた、という。「心臓マッサージのようなことをして、発作が治まったのでよくなったと思って寝ちゃって」

 目覚めると、父は息を引き取っていた。呼びかけても、返事はない。

 「医者に診断書を書いてもらうためのお金もなくて、お葬式代もないし、家のローンも残っているし、もうどうにもならなくて」

 ほとんど使われていなかった一番きれいな部屋に遺体を寝かせた。毎日、「ごめんな、ごめんな」と声をかけ、顔を触り続けた。

 遺体と2人きりの生活が終わったのは、「父親の姿をみない」という近所の通報があったからだ。父の死後も年金を受け取っていたとして、男性は詐欺容疑で逮捕された。死亡を届け出ていれば保険でローンを返済できたことは、取り調べで初めて知った。

 「所在不明高齢者」の存在が明らかになった昨夏以降、この種の事件が各地で発覚した。首都圏の住宅地で、地方都市で、山村の集落で、同じことが起きている。男性の場合、生活の歯車が狂い始めたのは10年ほど前。母の病気が悪化したことが理由だった。

 当時は父、母、妹との4人暮らし。ローン返済には父親の収入が不可欠だったため、男性が仕事を辞めて看病や家事をした。さらに父が交通事故で大けがをし、両親の面倒をみなければならなくなった。収入は1カ月おきに振り込まれる、約30万円の年金だけになった。

 母は、06年冬に死亡。1年半たたないうちに、今度は妹が心臓の病気で亡くなった。国民健康保険料すら払えず、父親の容体が急変しても、医療費が心配で119番できなかった。

 「住宅ローンの保険のことを知っていれば」。猶予つきの有罪判決を受けて自宅に戻った男性は、家族3人の遺影が並んだ仏壇の前でそう語る。相談できる知人や親族はいなかった。父親が役所に頼ることを嫌がっていたので、公的機関にも駆け込まなかった。孤立に導かれるように、男性は年金詐取に走った。

 今、生活保護を受けている。就職のあてはない。将来どうするのか、日が暮れると考え込む、という。

 年を取っても親と同居している人は年々増え、収入は年金頼みということも多い。家族関係の研究を続けてきた、山田昌弘・中央大教授は「年金パラサイト」と表現する。

 「寄生」が、「介護放棄」になることもある。12月22日、津地裁の法廷に立った桐本行宏被告(57)は、そんな一人だ。

 「年金を半分あげる」と言われて母親と同居を始めた。だが数年後、ささいなことから対立。食事を運ばなくなり、さらには当時80歳の母の部屋が開かないよう、ふすまに釘を打った。母の死を確認した後も約1年半、年金をもらい続けていた桐本被告は詐欺のほか、保護責任者遺棄などの罪に問われている。

 「お母さん、ごめんなさい。愚かな息子です。恥ずかしく、情けないです。小学校の入学式の時につないだ手の温かさを覚えています。もしできるのなら、あのころに戻りたいです」。留置場で壁を眺めながら考えたという謝罪の手紙を弁護人が読む間、桐本被告は声を上げて泣いた。(中井大助)

■介護で引きこもり 防ぐ手を

 私の兄は44歳の独身サラリーマン。都内の実家に住んでいたが、最近一人暮らしを再開した。以前は「結婚して独立を」とせかした妹の自分が、ここ数年は、老いた両親のそばに兄がいる「安心感」に寄りかかってきたことに気づく。

 介護をする家族で最も孤立しやすいのが「高齢の親と同居する独身の息子」とされる。家事に不慣れで近所とのつながりが薄く、地域の見守りや緊急支援の対象からも外れてしまう。高齢者虐待のトップも息子で、夫や娘をはるかにしのぐ。

 「介護のせいで職を失ったのに、落後者という負い目に苦しむ」と春日キスヨ・松山大教授は警告する。介護する息子の「声にならないうめき」は、時に命を危機にさらす。

 老いた親と経済的に苦しむ子が、「家」という密室に引きこもるのを防ぐため、早い段階から他者がかかわる必要がある。「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」が、一昨年設立された。受け皿は、各地に生まれつつある。(高橋美佐子)

 休み時間は、いつもひとりでいた。本を読むでもなく、携帯電話をいじるでもない。休憩室を出て、日当たりがいい場所に、ただ座っていた。

 茨城県つくばみらい市の工場に勤務する男性(44)は、昨年9月まで部下だった期間契約社員のそんな姿を、よくおぼえている。

 彼は、反物状のフィルムを梱包(こんぽう)し、ラベルを貼り付ける仕事をしていた。仕事は丁寧で、中高年の同僚7人と一緒に黙々と作業を続けていた。

 口数は少ないが、声をかけると丁寧に受け答えをする。女性たちが「お菓子、食べようよ」と誘うと、控えめに輪に加わるが、翌日にはまたひとりで、ひなたに座る。

 元上司は語った。「コミュニケーションが得意じゃないんだろうが、普通の青年だった。あんな事件を起こす人間とは思えない」

 12月17日の朝、JR取手駅前で、中高生らが乗るバスに包丁を持って乱入した。バス運転手の怒号と生徒たちの悲鳴。あごを切られた女子高校生のマフラーが血に染まった。切られたり殴られたりして、14人が負傷した。

 斎藤勇太容疑者(27)。工場を辞めた1年2カ月後、不特定多数の未成年にやいばを向けた。殺人未遂容疑で現行犯逮捕され、「人生を終わりにしたかった」と供述した。

 茨城県警によると、斎藤容疑者は高校を卒業した後、半年ほど予備校に通った。だが大学には進まず、10回ほど職を変える。3年前に母親を亡くし、年金暮らしの父と同居していたという。昨年、工場との契約が切れた後は職に就かず、自宅にこもっていた。

 県警の捜索時、部屋にはテレビやパソコンといった、外界とつながる道具が一切なかった。高校時代に好きだったという本も一冊もなく、友人、知人とつながる携帯電話も持っていなかった。

 取手駅から約9キロ離れた同県守谷市内に、容疑者の自宅はある。事件の2カ月前、近所の60代女性が会っていた。

 髪を肩まで伸ばし、ぶかぶかの部屋着姿だった。一言も発しない。「中学生のころと、ずいぶん変わっちゃったな」と感じた。女性が何より驚いたのは、まったく表情が無かったことだった。

 つながりを断った1年2カ月について、斎藤容疑者は何も語っていない。事件の動機についても、弁護士に「表現しづらい」と話している。

 工場の元上司は思う。ひとりが好きなのだと思っていたが、実は違っていたのかもしれない。してやれることがあったんじゃないか。「でも、子どもたちを傷つけたのは許せない。しかりつけたい」

 弁護士を通じ、元上司がそう語っているのを知った斎藤容疑者は、こうつぶやいたという。「そんなふうに思ってくれている人がいるんだ」

■居場所を探す 宗教にネットに

 12月上旬、中国地方の大学で、大津市の会社員(36)が大学教員ら約40人を前にして、「大学におけるカルト勧誘」をテーマに講演をした。「大学に入ったばかりは、知り合いが少なくて寂しいですよね。ベンチで1人で座っている新入生が狙い目です」。「孤独を狙う」との文字を映し出したスクリーンの前で声を張り上げる。

 「僕もそういう人に声をかけました。例外なく話を聞いてくれました」。自らがしたことへの後悔がこもる。

■家族より濃い血

 1993年に大学に入学したが、遊ぶことばかりに熱心な同級生に違和感を持った。入試を終え、新しい目標も持てない。話し相手が欲しくなり、前年、受験を前に大学を下見したときに声を掛けられた「人生を考えるサークル」に電話をした。

 講義の選択方法や試験対策を丁寧に教えてくれる。飲み会や食事会、合宿が頻繁に開かれる。サークルが新興宗教の偽装だと分かった後も、キャンパスの外にある「部室」に通い詰めた。少し年上の東大生が、教義をマンツーマンで教えてくれた。まるで兄のよう、いや「家族より濃い血」が流れていると感じた。

 教団で生きていこうと決心した。4年生で大学を中退。「なぜだ」と父は激怒し、母は泣いた。昔の自分のような大学生を、今度は自分が「兄」になって勧誘し、100人以上を誘い込んだ。

 お布施集めにも奔走した。「保険も解約したし、もうだいぶつぎ込んだ。もう出せるものは……」。土下座して号泣する高齢女性を「地獄に落ちますよ」と脅し、50万円をむしり取った。

 認められて本部職員となり、ネット対策を担当した。教団を攻撃するサイト運営者を、告訴すると脅す日々。「おまえ、変わっちゃったな」と言われたくなくて、教団の外にいる知り合いを避け続けた。

 そんなある日、ふと疑問がわいた。なぜ、教団職員の残業代が支払われないのか。なぜ、教団の会長に絶対服従なのか。なぜ、会長はぜいたくな生活をしているのか。外部の人たちが言うことの方が、正しいのでは……。

 12年間在籍した教団を去ると、孤独が押し寄せた。家族より濃いつながりのはずの仲間から、ぱったりと連絡が来なくなった。就職はしたが、同僚との付き合い方が分からず、3回転職した。教団に入る前よりつらい。まるで、焼け野原に一人でたたずんでいるように。

 孤立感から抜け出せたのは3年後。結婚して子どもが生まれ、家を建てた。同じ年齢の男性が送っている生活を、自分も営めるようになったと思えたときだった。

■サイトの有名人

 かき入れどきの土曜だというのに、店のシャッターは閉じていた。朝方までソファでパソコンを操り、そのまま眠ってしまったのだという。

 兵庫県の阪急沿線、駅前に続く通りの一角で、男性は小さな洗車店を営む。だが、実際は休業状態。週1度、食料を買いに出かけるほかは、店舗2階の自室にこもってインターネットに浸る。

 自分のことを「僕」と呼び、眼鏡の奥で人が良さそうに笑う34歳には、ネットの世界にもう一つの顔がある。「bureno(ブレノ)」。動画サイトでは、ちょっとした有名人だ。

 「スパイの子」「日本から出て行け」。画面の中で、日の丸や拡声機を手にした男たちが、ののしり声をあげる。今年8月、右派団体の幹部らが威力業務妨害容疑で逮捕された朝鮮学校前の街宣を、この男性が撮影した。

 ドラマのように軽快な音楽をつけて編集した「作品」はネットに投稿され、累計で数十万回もアクセスがあった。各地の街宣に同行し、投稿を繰り返していた男性は、団体幹部とともに逮捕されたが、「関与が薄い」として不起訴になった。

 「ブレノ」は、滑らかなカメラワークで「ぶれない」という意味を込めた登録名だ。自身の活動を、海上保安官が「sengoku38」の名で尖閣沖の衝突映像を流出させた事件とダブらせる。「日本はもっと怒っていい」

 自分の居場所はどこだろうか。いつも探してきた。

 小学生のとき両親が離婚した。父と母の家を行き来して育ち、小中だけで五つの学校に通った。捨ててあるラジオやゲーム機を持ち帰り、自宅で一人、分解して遊んだ。

 理系の専門学校を中退し、カプセルホテルのフロントなど職を転々とする。父が亡くなり、遺産を元手に、車の塗装剤の販売を始めたが失敗。洗浄水を特別な濾過(ろか)装置に通した現在の店も振るわない。「自分のこだわりは、世の中には分からない」と強がる。

 動画や書き込みを投稿する度に、引用、転載されていないかを確認する。取材の日に男性が検索すると、以前投稿した写真が17カ所からリンクを張られていた。「ちょっと少ないなあ」

 掲示板には、何百もの投稿が秒単位、分単位で届く。自分の発言に、ほかの人から反応がある時、男性の胸は弾む。一瞬一瞬の反応でいい。認められている、と思える。

 現実の社会で右派団体の撮影にのめり込んだのは、行く度に喜ばれ、必要とされたからだった。だが、会のメンバーの多くは、彼を「ブレノさん」と呼び、逮捕されるまで本名すら知らなかった。

 事業のため、生活のために取り崩してきた父の遺産は間もなく底を突く。最近の夕食は1キロ200円のソーメンを小分けして食べている。「愛国」にすがり、見ないようにしていた現実に目を向ける時期は、近づきつつある。

 本当は何をしたいのか、と聞くと、拍子抜けするほど普通だった。

 「中小企業でこの人がいると便利だなっていう人がいるでしょ。パソコンもサッと使えて、ホームページもチラシもつくれる。本当は、そうやって役に立ちたいんです」(鈴木剛志、西本秀)

■自分を追い込む若者たち

 茨城・取手事件の斎藤勇太容疑者について、彼を知る人を訪ねて歩いた。職場で一緒にお菓子を食べた女性は「あんなことをする子じゃない」と動揺した。元上司も「私たちが知っている斎藤君じゃない」と。

 これらの印象と、忌まわしい凶行との落差が胸につかえている。

 斎藤容疑者は、度重なる転職、失業、母の死などの苦境や不運をいくつか抱えていた。社会から切り離されていく間に、やり場のない怒りを心の中にため込んでいたのかもしれない。突然、爆発するほどに。

 新興宗教に10年以上を捧げた36歳。ネットにのめりこむ34歳。彼らの素顔は、まじめで少し不器用な青年だった。そんな若者たちが、時に日常に背を向け、自分を追い込む。

 社会から認められない。社会とつながっていない。そんな不遇感を募らせるのは彼らだけではないだろう。顔を上げて、すぐ近くに目を向けてみれば、自分はひとりではない、と気付かせてくれる誰かがいるかもしれない。(鈴木剛志)

 たたきの先の障子を開けた警察官が声をあげた。

 「あっ」

 まさか――。60代の家主の女性は怖くて家のなかをのぞく気になれない。

 「やせている人ですか?」

 警官から聞かれてけげんに思った。独居の借り主はがっちりした男性のはずだ。高校時代はラグビー部員だった。

 月2万5千円の家賃が滞り始めて4カ月。消費者金融の取り立てもきていた。行方をくらましたと思っていた。

 まだ39歳。死んでいるなんて思いもしなかった。

 冷蔵庫は空。棚にしょうゆと油の瓶があるだけだった。医師の死体検案書に〈摂食の形跡無し〉と記載された。

 その借家は、トタン張りの平屋建て。さびて赤茶けていた。師走の風に、玄関のサッシがカタカタと鳴る。

 裏の借家の初老の女性は、男性と話したこともないという。真っ暗だった家で人知れず死んでいたと知ったときはふるえがとまらなかった。

 「なるときはあんなになるのかと思って。餓死では死にきらん。餓死では」

 この死が報じられた当時、家の前に来て涙を流す女性を見た。「『いい人だった』と聞いて、そんな人やったんやなって」と同情を寄せた。

 昨年4月、北九州市門司区で起きた餓死事件。男性は、いま37歳の私と2歳しか違わない。健康面に問題を抱えていたわけではないという。前年11月まで働いてもいた。

 そんな男性が、飢えて、死んだ。心象風景を探る取材を始めた。

■「たすけて」言い出せぬまま

 餓死した39歳の男性が育った家は、借家から数百メートルの場所で床屋を営んでいた。

 祖父母と両親、兄との6人暮らし。親族によると、父親は借金が原因で行方不明になった。祖父母が死に、兄は大学進学を機に家を出た。男性も県外で働いた時期があったが、実家に戻った。未婚で、母親が5年前に亡くなってからは一人暮らしだった。

 仕事は不安定だった。専門学校を出て富山県の会社に就職。だが1年ほどで退社して福岡県内の会社に入り、2001年からは居酒屋などの飲食店を転々とした。少なくとも6店に勤めたが、いずれもアルバイトだった。

    ◇

 最後に勤めた居酒屋チェーン店を今年10月に訪ねた。人の入れ替わりが激しく、当時のスタッフはいなかった。当時の店長(32)は熊本市の系列店にいた。男性は10?20代のアルバイトに交じって、調理場の仕事を黙々とこなしていたという。辞めた理由は借金。取り立てが来ると迷惑をかける、と自ら切り出した。

 同じ時期に半年間、掛け持ちで働いた食堂では、「自分の店を持ちたい」と周囲に希望を語ることもあった。

 無職で迎えた昨年の元日。男性を招いた家があった。保育園から一緒だった元同級生宅。その同級生の帰省に合わせて呼び、みんなで刺し身や煮物をつついた。

 元同級生の母親(61)は振り返る。「ちょっとやせたなって思ったんよ。でも『恋でもしよる?』ってたわいのない話をして、いつもと変わらんようだった」

 仕事の近況を尋ねたときは、働いてます、と答えていた。

 昨年3月20日ごろ、男性から電話があった。

 「おばちゃん、風邪ひいて何も食べてないんよ」

 「ならお弁当でも作ってあげる」。もち米を使っておこわを作り、卵焼きを詰めて車で来た男性に渡した。

 「あれが最後の食事やったんか……。助けて、と一言いってくれれば何かできたかもしれんのに。それが腹立たしくて」。涙声になった。

 元同級生と男性は同じ専門学校に通い、同じ飲食店でアルバイトをした。陽気な元同級生は接客。物静かな男性は調理室。元同級生は、気に入られた客の誘いで東京の会社に就職した。以来、正社員として働き、妻子もできた。「何かにつけて得な人とそうでない人と、あるんかね」。しみじみと母親は言った。

 この土地には、隣近所で助け合う心が残っていた。気さくなこの母親に接し、なぜ、との思いが強まった。

    ◇

 〈たすけて〉

 平仮名で書いた紙の切れ端が入った封筒が男性の部屋に残されていた。

 宛先に書かれていたのは母方の叔父(66)。駅に近いマンションで暮らしている。

 「逃げたと思ってた。餓死とは意外やった。できるか? 40前の男が食えないまま閉じこもって死ぬなんて」

 叔父の言葉は辛辣(しんらつ)だった。

 「誰も悪くない。本人の責任」

 男性の家族が借金問題を起こすたびに親族が尻ぬぐいをしてきたという。男性の収入は少なく、同居する母親の月8万円の年金と叔父らの資金援助が頼りだった。「完全なパラサイト」と断じた。

 「もう、情けないよ……」

 叔父は高卒で地元のセメント会社に就職。「粉まみれになってがんばった」と言う。「金を稼げるならなんちゅうことはなかった」。いまなら3Kと言われる職場だ。先輩後輩、社内の人間関係でつながっていた。簡単に辞めていく人間はいなかった。そうして定年まで勤めあげた。

 叔父にとって、おいっ子は歯がゆい存在だったろう。

 男一人なら生きていける、と母親が病死したあとは援助をやめた。

 男性が飲食店を掛け持ちで働き始めたのはこの後だ。

 食堂の時給680円、居酒屋800円。午前8時から日付が変わるまで働いて、月収は20万円に届くかどうか。

 二つの店と自宅とはほぼ一本道でつながっている。車検が切れた軽自動車で単調な道のりを往復する日々、何を考えていただろう。

 昨年1月、門司区役所に生活保護の相談に行っている。相談記録票には、飲食関係の正社員に限定して求職中と聞き取った内容の記載に続き、「相談結果の処理」の欄にこう書いてあった。

 〈39歳、健康体であれば何か仕事はあるはずである〉

 「幅広く探してみる」と男性は保護を申請せず帰った。

 男性を追い込む直接のきっかけとなった借金の理由は取材ではわからなかった。督促状は丁寧にクリップで束ねられ、6社から計150万円に上った。家に5台も残されていた携帯電話も謎だった。

 頼ったのは結局、親族。昨年2月に大阪にいる4歳上の兄に連絡して金銭的な支援を頼んでいる。叔父は兄からの電話で経緯を聞き、借金問題にはかかわらないように忠告したという。

 その兄に電話で取材を申し込むと、仕事で多忙だから、と断られた。もう一度かけても答えは変わらず、心境を聞くことはかなわなかった。

 未投函(とうかん)の叔父あての手紙。封筒の表書きがぴしっときれいな字で書かれているのに、〈たすけて〉の文字は弱々しかったという。

 出すか、出すまいか。

 命が尽きる寸前まで迷ったのではないか。

 弱い自分をさらけ出し、助けにすがってまで生きる。生き延びたとして、その先に希望があるのか――。電気が切れ、真っ暗な借家で煩悶(はんもん)するやせ細った39歳を想像した。

 叔父の言葉が、私の頭にこびりついている。

 「すがるところが無くなった。だから、死んだ」

 財布に残されていた現金は9円。叔父は、これもメッセージだと受け取った。

 「食えん(9えん)」

 菩提(ぼだい)寺のさい銭箱に投げ入れたという。

 私もやってみた。1円玉4枚と5円玉1枚。軽い硬貨が乾いた音をたてて落ちた。

■救いの手にすがる難しさ

 餓死した39歳の足跡をたどって見えてきたものは、孤立した働き盛りを支える「希望」の無さだった。

 正社員を辞めた時期にバブルが崩壊。職を転々とした男性の生活は、母親の年金や親類の援助で成り立っていた。「自分の店を持ちたい」と周囲に語っていたが、実際には蓄えと呼べるものは無かったようだ。若いころコウサイ(転載者注:漢字を入力するとエラーが表示されるのでしかたなくカタカナにしています)相手がいたが、未婚のままで母親と2人で暮らし、その母親を亡くすと、孤立無援になった。

 男性が最後に職を失ったのは、リーマン・ショックのあと。同じ時期に自動車工場を解雇された元同級生(41)は「ひとごとではない」とおびえていた。自分も親がいなかったら生活できなくなっていた、と。

 男性には、支え、支えられる存在としての家族がいなかった。だがほかに助けを求める先は無かったか。

 心配してたびたび様子を見にきていた家主、弁当を持たせた元同級生の母、生活保護の窓口……。すがってもいい、どこかで一言を絞り出してほしかった。(井上恵一朗)

 師走の朝に訪ねた浜松市内のハローワークは、54台ある求人検索機がすでに満席だった。やっと空いた端末で、ある男性の条件を入力する。

 61歳、フルタイム、派遣、木材加工、勤務は浜松周辺――。結果は「該当する求人件数 0件」。勤務地を静岡県全体に広げて、どうにか「2件」になった。

 その2社に電話してみた。

 「資格や免許はない? いろんな工場を転々? そういう人が一番困るんだよ」

 「老眼になると労災が怖い。体力も落ちる。正直言うと60歳超えると無理ですね」

 ため息が出た。彼も、同じだったろう。

 工藤均さんが自ら命を絶ったのは、汗ばむ陽気の残る10月中旬の昼すぎだった。

 「もう疲れた。仕事もないし、金もない」。か細い筆跡で遺書を記し、ひとりで22年間暮らした木造アパートのベランダにロープを掛けた。東名道のインターに近く、工場や住宅が混在する地域。裏のアパートに住むベトナム人工員が第1発見者だった。

 「安すぎる。生活保護と変わらない」。派遣会社を去ったのは5月半ば、誕生日の翌日。60歳を超すことを理由に1200円から850円への時給引き下げを通告されていた。年金保険料を納めず、何とか確保してきた手取り月17万円が、約3分の2になる。

 自らハンドルを握って、派遣先に社員を送り届けるという社長は作業着姿で取材に応じた。「賃下げは、派遣先の建材工場の要求だった」「280円の牛丼もある。食っていける額だ」と言い、工藤さんをこう評した。「強気でプライドが高い。辞めても、若い時のように次があると勘違いしていたんだ」

 確かに、次はなかった。(西本秀)

■働きたい、人とつながりたい

 6月、アパート前に白いセダンが止まったままなのを心配して、上階の男性が工藤均さんの部屋を訪ねた。

 「仕事が見つからない。自分も安い部屋に移りたい」

 ふさぎこんだ工藤さんは、男性が市営住宅の抽選に当たったと聞き、しきりにうらやましがったという。

 7月、貧困相談に乗る市民グループと面会し、生活保護受給を勧められる。だが、車の処分が必要と聞くと申請を拒んだ。グループの落合勝二事務局長は、「年金も預金も家族もない。彼には車が唯一の財産だった」とみる。

 最後の失業手当、約10万円を受け取った9月。落合さんの目には、身長160センチほどの工藤さんがもっと小柄に見えた。生活保護に代わり住宅手当を提案したが、「頼れる人も頼られる人もいない身。どうなったっていい」と投げやりに断った。

 仕事が見つからず、生きるプライドも奪われていく。

 10月に入り、失業手当もほぼ使い切ったのだろう。近所の主婦(63)は、泣きはらした顔でアパートに帰る工藤さんに気付いた。野菜を譲ったこともあったが、その日は声をかけそびれた。「あの時、話しかけていれば……」

 リーマン・ショックが直撃した製造業の街、浜松では、2009年の自殺者が前年から2割増えて165人になった。中高年を中心に、男性が8割近い。

 クリスマスの夜。「温まってください」。浜松駅前で失業者らにスープを配った日系ブラジル人団体「エスペランサ(希望)」の河内オスバルドさん(58)は、失業者が自殺に追い込まれる日本が不思議でならない。ブラジルの10万人あたりの自殺率は日本の5分の1以下。「私たちは食べものと一緒に、声をかけて言葉を配る。助ける、助けられる、に遠慮はいらない」

 青森に生まれ、両親のいない工藤さんに、遺体の引き取り手は現れなかった。市役所が火葬し、遺骨を預かった。

 手放すのを拒み続けた車は所有権が宙に浮き、いまもアパートの駐車場に放置されている。最後まで仕事を探していたのか、助手席には運転用の黒いサングラスと一緒に、求人情報誌が置かれていた。

     ◇

 働きたいのに、働けない。働き盛りであるはずの30?50代の男性が、もがいている。

 元編集者、55歳。待ち合わせの駅に、着慣れたスーツ姿で現れた。15年ほど勤めた業界紙が昨年10月に倒産。勤めていた時と同じリズムを保ち、家を出るという。

 100社に書類を送り、面接まで行けたのが3社。若い頃は、引く手あまただった。時代は急激に変わった。

 生きていけないんじゃないか、という不安だけではない。働くことで社会の一員になっているんだ、と思う。とにかく、働きたい。

 元出版社員、40歳。大手企業を辞めた「即戦力」だが、勤めた会社が次々に倒産したり、部署がなくなったり、と不運続きだ。給料は安くてもいいから、長く勤められる会社。求めているのはそれだけなのに、決まらない。

 求人は昔と比べると両極端だ。とても高いスキルが必要か、逆に単純作業で誰でもいいか。「ちょっと何かができる」という中間層は、どこに行けばいいのか。お金じゃなく、人から信頼されて働けることが楽しいのに。

 大学院卒、31歳。塾講師のアルバイト以外は経験なし。弁護士を志し、旧司法試験に6回挑戦した。30代半ばで就職活動するよりは、と法科大学院への思いを振り切った。

 もうすぐ年賀状の季節。同級生から、近況が届くだろう。家を買った。子どもができた。そんな一方で、勤めた会社が倒産し、再就職先もつぶれた友人がいる。まるで、人生はくじ引きのよう……。

 仕事を失うことで、収入以外に失うものが確実にある。彼らは今日も面接会場へと向かう。

     ◇

 その部屋が自分の唯一の居場所であるかのように、22歳の男性は座っていた。

 アパートの一室。壁には美少女アニメのポスターやカレンダー、雑誌や漫画本が積み上がる。自分が好きなもの、自分を拒否しないもので、周囲にバリケードを築こうとしているかのようだ。

 昨年、うつ病の診断を受けた。離婚した親の援助も受けられず、21歳の若さで生活保護を申請した。

 最後に働いたのは、巨大な冷蔵庫の中だった。くるぶしまで届く分厚いコートを羽織り、手には軍手。冷凍された弁当の食材を指定された数だけ振り分ける。次第に足先がしびれ、感覚がなくなる。時給は1千円。

 翌朝のボードに、食材の数のミスが張り出される。また自分だ。「一緒だと仕事にならない」と同僚。「簡単なことなのに」と上司。遠回しに解雇を宣告された。

 高校を卒業し、郷里の岩手県から上京してアニメ・ゲーム制作の専門学校に進学したが、希望の職にはつけず、非正規労働を繰り返した。宅配便の荷物の仕分け、日雇い派遣、風俗情報誌……。だが、なぜか、何をやっても人より遅い。いつも追われるように職場を去る。生きる資格がない、と社会から宣告されたような気がする。

 思えば小学生の頃から、同級生に近づいただけで「バイ菌」と逃げられた。過去をさかのぼっても、いい思い出は見当たらない。唯一の例外は高校生のとき、県で俳句大会の1位になったこと。22年の人生で、あのころが最も輝いていたと思う。

 今でも、俳句雑誌に投稿を続けている。〈どこまでも向かうあてなき冬野かな〉

 今、定期的にしているのは、ブログに思いを書き込むことだけ。人とつながりたい、と画面が叫ぶ。

 「一生、結婚なんて考えられない。生活保護がなければ路上生活か自殺しか……」

 この年末はしばらく部屋から出られず、1日1食、白米やインスタントラーメンだけで過ごした。100円ショップで買った壁時計は、12時55分を指したまま動かない。「途中で止まって。まるで僕の人生のようですね」(西本秀、仲村和代、真鍋弘樹)

■最後の命綱失うと転落は深い

 人はなぜ働くのだろう。生活のため。食べるため。それだけか。「社会の役に立ちたい」。出会った失業者の多くが生きがいを求めていた。

 自殺した浜松の男性も、ただ食べるためなら生活保護で済む。でも受給を拒否した。自殺は「孤立の病」と呼ばれる。失業をきっかけに、社会につながっているという感覚が消え、生きる意欲を奪われてしまったのか。むしろ社会の側が、彼を拒否したのだと、取材して思った。

 取りかえ可能な非正規雇用が広がり、「必要とされている」という手応えが得難くなっている。就職難で社会の入り口で門前払いされた若者は、結婚から遠ざかり、「孤族化」に拍車をかける。家族や地域のきずなが細れば、仕事が最後の「命綱」となり、切れた時、転落は深い。

 浜松のハローワークで出会った59歳の男性は半年間、失業状態が続いていた。「選択肢がない」とこぼして、「首相の言った、一に雇用、二に雇用、三に雇用の約束はどうなった」と語った。(西本秀)

 雲を突くような銀色の摩天楼、101階建ての「上海環球金融中心」がかすんで見える。目的のホテルは、高層ビル群から離れた裏通りにあった。生鮮市場や小売店が雑然と並び、不用品を集めるリヤカーが、ベルを鳴らして通り過ぎていく。

 今年還暦を迎えた岡山市の男性は2年前の11月、上海に来た。かび臭い廊下の奥まった一室に、現地で集められた女性を次々に招じ入れた。

 今度こそ。男性は強く念じていた。今度こそ妻を――。

 婚活を本格化させたのは50代半ばから。若いころ心に決めた相手がいたが、思いを打ち明けられずに終わった。今も写真を大切にしている。その後、父から継いだすし屋の借金返済に追われ、同居の母親が他界したときには、未婚のまま50歳を過ぎていた。

 結婚紹介業にはいくつ登録したかわからない。登録料を納めたのにそれきり、ということもあった。

 中国人を妻に、と考え始めたのは4年前のこと。

 「あなたの年では日本人は難しい」。岡山市内のホテルで、ある業者からファイルを見せられた。中国人女性の写真とプロフィルで50人分はある。ニーハオぐらいしか知らないが、他に選択肢はない。

 最初に紹介されたのは、日本在住の「チョウ」という39歳の女性。日本人男性と離婚していた。初めて会った日に食事をして、もう一度会った後に婚姻届を提出した。念願の夫婦になるのに要したのは、わずか2日間。

 だが、業者に150万、女性に30万円支払って得た結婚生活は、すぐ破綻(はたん)した。婚姻届を出したその日に大阪で働くと出て行った。1カ月後に帰ってきたが、結局、生活を共にしたのは5日ほどだ。

 どんなに手を尽くしても、日本人でなくても、伴侶が見つからない。家業の手伝いや後継ぎを望むわけではない。老いゆく自分の世話をし、みとってくれる相手が欲しいだけなのに。

 伴侶を求めて国の外へ目を向ける男たち。外国籍の女性を選ぶ日本人男性は年間3万人前後。そのうち、中国人が約1万2千人と最も多い。

 上海のホテルで、男性は2日間で約20人と「見合い」し、「リュウ」という38歳の女性を選んだ。決め手になったのは、仲人役として同行した在日中国人女性の言葉だった。「服が派手じゃない。あの人はまじめよ」

 だが、その女性も来日後20日間で姿を消した。生活費として5万円を渡した2日後。2度の「結婚」に費やした金はおよそ450万円。蓄えのほとんどをはきだした。

 自分は孤独死するかもしれないと覚悟している。死後に備えるノートを買った。親類の連絡先や保険証書類の保管場所を記し、遺影用の写真をはさむ。遺体は献体するように書き留めてある。

 20年ほど前からコイ釣りにのめり込み、暇な日はぽつんと糸を垂れる。孤独には慣れた。が、寂しくないといえばうそになる。(井上恵一朗)

■赤い糸、今日も見つからなかった

 午後3時過ぎのファミリーレストランで、千葉県市川市の39歳の男性は、その日初めての食事だという中華定食をゆっくりと口に運んだ。温かいものを期待して頼んだが、出てきたのは冷たい料理。「おかしいなあ」。独りごちて、スープをおかわりした。

 最後の仕事を辞めて1年10カ月がたつ。専門学校を卒業後、非正規も含めて10近い仕事を経験し、いずれも短期間で辞めた。自宅アパートにはテレビもない。空の冷蔵庫、電気ポット、カセットコンロ、ちゃぶ台の上のパソコン、それがすべてだ。

 「普段の生活すらみすぼらしいのに、婚活なんて無理。収入のない自分は、そもそも勝負のラインから外れちゃってます」

 結婚相手探しをする前に、諦める。自ら、線を引いて。そんな男性が増えている。

 この男性が人とのつながりの大切さを痛感し始めたのは最近だ。20代半ばまではゲームセンターに通うお金があればそれでよかった。気軽に食事に行くような友達もいないのは、「自己責任」かもしれない。でも、もう戻れない。

 時々、出会いを期待してインターネットのオフ会に顔を出すが、女性が出てくることはほとんどない。姉と妹は、20代で出産した。「あの時、気づいていれば」。仕事や子どものことがつづられた同年代のブログを見て、ため息をつく日々だという。

 5年たっても10年たっても、自分が結婚できる状況にあるとは、とても思えない。「どう考えても、まともな人生にはもう返ることができないんです」

     ◇

 年末のある日。貸し切りになった新宿駅近くのレストランに、50代から70代の男女が集まり始めた。女性の服装はそれぞれに趣味が感じられる着こなしだが、男性はほぼ一様にスーツとネクタイだ。

 午後1時半、店を貸し切った中高年限定の婚活パーティーが始まると、一人の男性があいさつに立った。「ここに来るようになってだいぶたちますが、赤い糸はどこかにいってしまって見つかりません。来年こそいい年に」

 そう、婚活という言葉ができる前から伴侶さがしを続け、20年以上になる。川崎市に住む原泰浩さん(76)が妻を胃がんで亡くしたのは、38歳のときだった。

 「おなかに固いしこりがあるの」と打ち明けられ、触ってみると卵大の塊が。診察を受けると「余命半年」と宣告された。娘が小学生、息子は2歳半でおしめも取れていなかった。それからの人生、子育てと仕事の両立で、白刃の上を歩いているようだった。

 子どもが大きくなってから、中高年専門の結婚紹介団体の先駆け、「太陽の会」に登録した。月に1度の会に出席し、20人以上の女性と会話をする。200回以上は出席しただろうか。会で次々とカップルが誕生しても、自分の赤い糸は見つからなかった。

 「太陽の会」は、住民票と戸籍謄本を会に提出しなければならないなど、厳格な運営方針で知られる。最近、後発業者が急増しており、「高齢婚活希望者は、年2割は増えている感触」と坂本達児・東京本部代表は言う。

 だが、ブームといっても意識には男女差がある、と原さんは感じる。女性は生活の支えを求める人が多いが、男性は寂しさが理由では、と。

 仲のいいカップルを見ると自分が惨めに思えて、観光地への足も遠のいた。次第に日が短くなってきた人生の残り時間、70代後半を迎えて欲しているのはただ、優しさだ。

 会話が盛り上がるのを横目に原さんはこの日、パーティーを早めに切り上げた。今年春から飼い始めた雌のシバイヌの不妊手術のために。

 今日も、これは、という人は現れなかった。死ぬ間際に「おまえがそばにいてくれて幸せだった」と言えるような人が欲しいだけなんだが。

 「やはり、孤独死かなあ」

     ◇

 北上山地の中腹に広がる岩手県住田町は人口6千人余、面積の多くを山林が占める山村だ。この町役場に、担当者しか全容を知らない、という極秘のファイルがある。

 町が始めた結婚支援事業に登録をする町民のリストだ。

 この事業の目標は「5年で結婚10組」だったが、これまでの成婚例はゼロ件。最大の誤算は、登録した十数人が全員、男性だったことだ。

 登録者たちはみな、自分がリストに載っていることが周囲に知られることを恐れている。そのため、町役場は、保秘にかなりの気を使う。

 町の人口は30年前と比べて約3割減った。高齢化率は、今年10月現在で38.6%と、県内で3番目に高い。町内の未婚者を対象にした調査では、3人に2人が「結婚を希望しているが、出会いや紹介を待っている」と答えた。

 「年間2組ぐらいだったら簡単だと思っていたけれど、甘かった」。相談員の佐々木忍さん(65)は失敗を認める。出会いの場を設けて男女を引き合わせても、先に進むことがほとんどない。

 町内で、独身男性はすぐに見つかる。町立スポーツセンターの管理人を務める吉田次男さん(60)も、そうだ。

 町を離れていた30代のころには結婚を考えた女性もいたが、相手が岩手に住むことを嫌がった。病気だった母の面倒をみるために仕事を辞め、故郷に帰ってきて20年。下の世代に、同じ境遇の男性がどんどん増えている。

 町議の高橋靖さん(55)も独身だ。過疎化の方向性に一石を投じたいと町議選に立候補し、初当選したのは2001年。10年近くこの問題に取り組んで、一つだけわかったことがある。特効薬はない、ということだ。(仲村和代、真鍋弘樹、中井大助)

■未婚でも不安感じない社会に

 孤独死と隣り合わせの時代。寂しい最期を迎えたくないと、婚活に励む男性たちがこれほど多いことに驚く。結婚年齢の上限は、もはや無くなったようだ。

 未婚、晩婚化が進んでいても、人々の結婚願望が衰えたわけではないと感じる。かつて地域や職場の世話焼きが男女の仲を取り持ち、親が決める見合い結婚も多かった。それがいまや、結婚相手探しは恋愛市場での自由競争が原則となった。

 経済力や容姿、性格……。様々な条件が合致しなければ、なかなかゴールにまで至らない。不安定雇用と低収入のために二の足を踏む若者や中年男性が多いのも無理はない。「おれも孤独死かな」。20代でそんな言葉をもらす若者さえいる。

 出会いの場を広げることはもちろん大切だ。男女のすき間を埋めるように「婚活ビジネス」が広がる。

 それでも単身化は進むだろう。未婚で生涯を送る「孤族」たちが不安を抱えずに生きていける、そんな社会であってほしい。(井上恵一朗)

 あの出来事は、日本に住む1億2700万人のごく一部の人々に起きたことだった。だが、足元の地面が崩れ落ちていくような感覚を味わった人も多かったはずだ。

 住民票や戸籍という紙の上だけで生きる「所在不明高齢者」が全国で見つかった。大阪で実の母親が2人の子を餓死させた。各地の高齢者が次々と熱中症で世を去った。

 いま、この国で、何かが起きている。

 ■増え続ける「独居で未婚」

 今年、国勢調査が行われた。結果が発表されるのは来年だが、研究者たちが注目しているのは単身世帯率と未婚率の増加だ。今回の調査で、1人世帯が「夫婦と子どもからなる世帯」を上回るのは確実視されている。

 単身化は今後、さらに勢いを増す。みずほ情報総研の藤森克彦主席研究員は著書「単身急増社会の衝撃」で20年後の日本の姿を描いた。50?60代の男性の4人に1人が一人暮らしになり、50歳男性で3人に1人は未婚者……。単身化自体は個人の自由な選択の結果であり、否定すべきことではない。その半面、高齢の単身者は社会的に孤立し、様々なリスクに無防備になるケースが多いのも事実だ。

 単身化に加え、雇用が崩壊し、地域共同体の輪郭が薄れ、家族の中ですら一人ひとりが孤立している。

 同時に、極端な高齢化と人口減少も進む。600万人を超す「団塊の世代」の高齢化により、生産年齢人口(15?64歳)が減り続ける「下りエスカレーター」の時代。グローバル化とデフレで、格差・貧困社会化も深まっている。

 東京23区では毎日、平均10人が孤独死する。「社会が壊れるスピードの方が速く、何をしても追いつかないとすら感じる」。孤独死や自殺、貧困の問題に取り組む僧侶、中下大樹さん(35)の実感だ。

 ■成長のツケ 男性に顕著

 今の姿は半世紀前に宿命付けられていた。

 「集団就職列車で東京に向かう日。列車が走り出したら、ホームをお袋が懸命に走ってくるんです」。90代の母を介護する60代の男性が語った思い出だ。

 戦後、地方から都市部へ流れ込んだ大勢の若者たちは「金の卵」と呼ばれ、懸命に働き、消費にも励み、団地という新しい住まいで夫婦と子ども2人の「標準家庭」を築いた。終戦直後のベビーブームで生まれた「団塊の世代」が成人する頃、日本に高度経済成長の花が咲いた。

 都市部の集合住宅で家電製品に囲まれて住む核家族はいわば、高度成長が導いた生き方だった。半世紀がたった今、その団地やアパートで孤独死が頻発する。戦後の人口急増や都市への大移動は経済成長に必須の条件だった。それが裏返しとなり、負の要因となって社会を覆っている。

 日本だけの問題ではない。やはり後発の新興経済国として急成長を遂げている韓国、中国などアジア諸国の未来の姿でもある。日本社会は、この変化の先頭を走っている。

 経済成長に過剰に適応したとも指摘される人生のかたちは、男性によりはっきり表れている。首都圏有数の大規模集合住宅・常盤平団地(千葉県松戸市)の自治会長として孤独死予防センターを設立した中沢卓実さん(76)は言う。「日本の男性は働くことしか知らない。退職したら家に閉じこもり、ないない尽くしになる。あいさつしない、友人ない、連絡しない……」

 会社という「疑似家族」に人生の大半を委ねることができた世代は、まだいい。不安定な雇用に直面する若い世代は、人生前半で働く場から排除され、仕事と結婚の扉の前でたじろぐ。

 ■意識と政策変えるとき

 ここで、立ち止まって考えたい。いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。目指したのは、血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。時計の針を逆回しにはできない。

 問題なのは、日本が「個人を単位とする社会」へと変化しているにもかかわらず、政策も人々の意識も、まだ昭和/高度成長期にとどまっていることではないか。精神科医の斎藤環さんは「日本は『家族依存社会』だ」と言う。国が担うべき仕事、社会保障などを家族に押しつけてきた、という意味だ。家族が「孤族」へと姿を変えた今、このやり方は通用しない。

 「個」を選んだ結果、「孤」に足を取られている。この国に広がっているのは、そんな風景なのだろう。誰もが「孤族」になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える。

 高齢社会化が一段と進む2020年。単身化がより深く広がる2030年。日本社会がかつて経験したことのない20年が目の前に続いている。残された時間は、決して長くはない。(真鍋弘樹)


 孤独死や自殺の発生状況を東京都監察医務院が分析したところ、40代後半から60代の単身男性がとりわけ高いリスクを抱えているという結果が出た。単身者の健康状態が悪化しやすいことは海外の研究では指摘されているが、国内で同様のデータを取っている自治体はほかになく、大都市圏の傾向を示す初の分析として注目される。

 生涯未婚率は全国的に上昇を続けており、今後、この年代の単身男性は急増すると予測される。孤独死対策は65歳以上の高齢者を対象に検討されることが多いが、単身男性についてはより若い世代への目配りが課題と言えそうだ。

 東京23区内の死亡例について、金涌(かなわく)佳雅医師が中心となって分析した。孤独死には明確な定義がないため、「自殺や事故死、死因がはっきりしないケースのうち、自宅で死亡した一人暮らしの人」を対象とした。

 金涌医師らによると、孤独死は年々増え、1987年の男性788人、女性335人から、06年には男性2362人、女性1033人になった。平均すると23区で毎日約10人が孤独死していることになる。

 同じ孤独死でも男女の発生年代は明らかに異なる。女性は65歳を過ぎてから件数が増え始め、80代前半が最多。これに対し、男性は50代前半から急増し、率でみると70代前半にピークとなる。亡くなってから発見までの日数も男女で差があり、06年の場合は男性が平均して12.01日と、女性の平均6.53日の約2倍だった。また、男性の孤独死は、完全失業率が高い区や生活保護率が高い区で起きやすかったが、女性の場合はこのような相関関係がなかった。

 自殺については、05年の1554人を性別と「一人暮らしだったかどうか」で4グループに分けたところ、単身男性の自殺率が最も高く、特に40代後半から60代にかけて顕著だった。

 国勢調査によって単数・複数世帯の人口が算出できる05年の場合、単身男性の自殺率は10万人あたり46.60人と世帯を持つ男性(19.46人)の倍以上だった。年代別にみると、40代後半から「10万人あたり60人」を超え、60代後半までこの高いレベルが続く。同じような傾向は90年、95年、00年にもみられた。

 金涌医師は「40代から60代の単身男性に健康問題が表れる傾向が共通している」とし、この層を対象に調査を進めたり、対策を取ったりする必要があると指摘。「リスクを把握するためには東京23区以外に住んでいた人や、病院など自宅以外の場所で亡くなった人も対象に分析すべきだが、日本ではそのような統計がなく、把握が困難だ」と話している。(中井大助)


 人口構成の急激な変化に伴って起きる「2020/30年問題」。元厚生労働事務次官の辻哲夫東大教授は、医療や介護など従来の仕組みを思い切って見直さなければ、「どの国も経験したことのない高齢者の急増が大都市圏を津波のようにのみ込み、お手上げ状態になりかねない」と指摘する。

 「2020年問題」は団塊世代の高齢化と「多死時代」の到来だ。20年代、団塊世代は後期高齢者になる。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、毎年の死亡数は150万人台に達し、出生数の2倍になる。高齢化率は30%を超す。

 「2030年問題」は未婚や離別、死別による単身世帯の急増によって起きる。特に単身化が進むのは、その時期に中高年となる団塊ジュニア前後の男性だ。60代で見ると、05年に10%だった一人暮らしの割合は30年に25%に。女性も50、60代で単身化が進む。男女合わせた全世帯で一人暮らしは4割に迫る。

 背景にあるのは未婚率の上昇だ。30年の時点で生涯未婚率は男性は3割に、女性で2割を超えるとされる。1990年生まれの女性の場合、3分の1以上が子を持たず、半数が孫を持たない計算だ。

 地方で先行する少子高齢化問題と異なるのは、団塊・団塊ジュニアという人口の塊が高齢化・単身化することだ。極めて多くの中高年の単身者が、都市部にあふれる時代が来る。人口研の金子隆一・人口動向研究部長は「ぬるま湯がじわじわ熱くなっているのに、目に見えて何かが起きないと危機感が広がらない」と警鐘を鳴らす。(西本秀)

 駐車場に止めてあった軽自動車の中から男性の遺体が見つかったのは、6月25日のことだった。3カ月間、放置されていた車のドアミラーには、ツタのような植物が絡みついていた。

 神奈川県逗子市の公園の一角。駐車場の前は県立高校、隣には保育所がある。毎日、高校生や親子連れら数百人もの人が車の前を行き来していた。だが、犬を散歩させていた近所の男性が「臭いがする」と通報するまで、警察や市に連絡はなかった。

 後部座席に敷かれた布団で寝たまま、遺体はすぐに身元が分からないほど腐乱していた。DNA型鑑定で身元は特定できたが、遺体の引き取り手がおらず、逗子市が火葬して遺骨を預かっている。

 佐藤正彦さん、享年55。なぜ、このような最期を迎えたのか。引き取り手のない「行旅(こうりょ)死亡人」として官報に記された以前の住所を訪ねた。

 木製の窓枠がきしむ、2階建ての古いアパートだった。昔からの住人は、借金の取り立てが佐藤さんのところに来て、部屋を荒らしたのを覚えている。2001年ごろ、佐藤さんは荷物を残したまま、姿を消す。部屋の玄関に積まれたままのスポーツ新聞には、求人欄に印がつけられていた。

 さらに、本籍地の秋田県北部へ。佐藤さんが育ったトタン張りの実家は窓が割れ、人は住んでいなかった。約10キロ離れた場所に住む姉(62)を探し当て、話を聞いた。4人きょうだいの末っ子だった佐藤さんは1970年に地元の中学を卒業するとすぐに上京し、働きはじめたという。地方の若者が職を求めて大量に都市に移り住んだ時期である。

 その後、実家への連絡は途絶えた。親の葬儀にすら出なかった佐藤さんが出し抜けに姉の元に現れたのは、昨年の夏だった。事前の連絡もなく、東京で亡くなった兄の遺骨を携えていた。郷里での滞在は、わずか3日。菩提(ぼだい)寺で納骨を済ませ、再び軽自動車で帰っていった。

 姉が仕事や住まいを尋ねても、決して答えることはなかった。

 兄の勤務先だった都内の塗装店を訪ねると、佐藤さんの生前の姿がおぼろげに浮かび始めた。

 上京後も4歳上の兄を頼り、時にお金も借りていたという。一つの職が長続きしない弟に困りながらも、兄は連絡がつくように携帯電話を買い与えていた。

 「弟は上京した当初は国鉄関連の溶接工として働き、収入もよかった。でも目をけがして転職せざるを得なかったんです」。塗装店主は、そう兄から聞かされた。

 その兄が昨年3月に亡くなると、佐藤さんはエアコンが壊れた軽自動車で、兄のお骨を郷里に届けに向かった。片道約700キロの道程、兄の骨と二人きりで、何を考え続けたのか。その胸中を知る人は、いない。

 佐藤さんの生存が最後に確認できたのは、兄の死の約1年後の今年4月9日。神奈川県警によると、姉に電話をかけた記録が残っている。「ご飯を食べるお金にも困っている」。姉が「私も困っている」と答えると、電話は切れた。司法解剖の結果によると、軽自動車の後部座席で生涯を終えたのは、その直後。病死だった。

 生活保護を受けて暮らす姉は「弟を迎えに行きたいけれども、逗子まで行くお金も力もない」と話した。県警はもうひとりいる姉にも連絡を取ったが、「縁が切れているので」との返事だった。

 郷里に残る墓には、墓石がない。目印となるのは、佐藤さんが兄のために立てた卒塔婆(そとば)と、姉が今年の墓参りで並べたコップ酒や缶ジュースだけだ。佐藤さんの遺骨は今、そこにはなく、逗子市郊外の遺骨安置所に眠っている。

 「終(つい)のすみか」となった軽自動車は、市役所が業者に頼み、処分をした。(中井大助)

■街のアパートで一人また一人

 開け放しの共同玄関は、昼間でも暗い。目をこらすと、男物の靴ばかりが並んでいるのが見えた。靴を脱いで上がると、冷たく、湿ったような感触が足の裏に伝わる。

 東京都北区の2階建てアパートの一室で6月、50代とみられる男性が遺体で見つかった。死後8カ月経っていた。

 商店街の外れにあり、スピーカーは一日中、歳末福引の案内を流している。呼び込みをする八百屋の店先で、買い物客が世間話に興じる。

 2階の廊下には、前日の雨漏りでできた水たまりがあった。その奥に、部屋がある。「今でも時々においが漏れてくる。いい気持ちはしないけど、もう慣れたよ」。案内してくれた隣の部屋の住人(63)がいう。

 遺体の周囲には、食べ物のゴミや酒の空き缶、たばこの吸い殻が散乱していたという。部屋からは生活音もほとんどせず、人を避けるように暮らしていた。

 このアパートでの孤独死は、今回が初めてではない。「ここに住んで20年だけど、記憶にあるのは4人くらいかな」。10年ほど前には、今回と同じ部屋で高齢の男性が亡くなった。開いたままのドアから寝ている足が見え、「暑いから開けてるのかな」と思っていたら、翌日になっても同じ格好だったという。

 アパートが建ったのは昭和30年代、半世紀ほど前だという。そのころは家族連ればかり。共同台所を囲み、みな銭湯に通った。「改築して台所を中に作ってから、中のことがわかんなくなっちゃったね」と長年管理をしてきた男性(76)はいう。元々、管理人としてここに住んでいたが1年半前、転居した。「住んでれば気づいただろうけど」

 隣のアパート兼店舗も、同じ頃に建てられた。ここでクリーニング屋を営む店主は振り返る。「昔はどちらのアパートも家族連ればかりだった。表で子どもが遊んでいてにぎやかだったよ」

 単身男性ばかりの今、誰が住んでいるかすらわからない。店舗の上のアパートでも数年前、男性が孤独死し、数カ月後に見つかった。「すぐ上でも気づかないもんだね」と店主は天井を見上げた。

 十数年前、近くに大型スーパーができ、通りの店は次々に姿を消した。店先で話しこむ客も減った。豊かになり、求められるものは変わった。

 亡くなった男性は10年ほど前に入居したという。偽名だったため、当初は身元がわからず、「行旅死亡人」として、区が火葬した。その後、身元はわかったが、生前語っていた本籍地や年齢とは全く違っていた。

     ◇

 首都圏の大規模団地で11月上旬、死後3カ月以上経った男性(79)の遺体が見つかった。遺族に依頼された遺品整理会社「あんしんネット」の作業に同行した。

 部屋に一歩入ると、防臭マスクを通してすら強烈な異臭が鼻を突く。昭和40年代の団地に典型的な2DKの間取り。ちゃぶ台には、食べかけのご飯やみそ汁がそのまま残っていた。

 居間として使われていた南側の部屋が最期の場所だった。食事をしている途中に倒れ、そのまま亡くなっていた。床に広がるおがくずのような茶色い粉は、皮膚や体液が乾いて固まったものらしい。カレンダーには7月10日まで斜線が引かれていた。

 第一発見者の長女(52)夫妻は、団地から車で1時間ほどのところに住んでいる。

 男性は山形県出身。サラリーマンで、70歳まで現役で働いていたが、2年前に妻を亡くし、あまり出歩かなくなった。「けんかでも相手がいた方がいいな。一日口きかないの、つらいな」という言葉が、長女の耳に残っている。

 それでも、同居の勧めにはなかなか応じず、ようやく説得し、家を改築しているところだった。「商売や引っ越しで忙しくて」。もっと早く連絡していれば、早く改築を始めていれば――。長女は後悔の言葉を重ねた。

 10棟以上の建物に囲まれた公園で、日が暮れるまで、子どもたちの歓声が響く。スーパーや八百屋、医院まで併設されている。発見時、ポストには郵便物があふれ、テレビはつけっぱなしだったが、男性の死に気づいた人は誰もいなかった。

 市民が当たり前の生活を営む場所の一角で、人知れず孤独死が発生する。そんな時代を、この国は迎えている。

 管理事務所は、一人暮らしだということも把握していなかった。発見前日、隣人から「虫が増えた」と苦情が入ったが、ポストに「対処してほしい」と書いた紙を入れただけだった。

■苦しみの末路に目を向ける

 何カ月も誰にも発見されない、孤独な死。団地や古いアパートがその現場となることが多いのは、一戸建てなどに入居できない中高年単身者の受け皿となっているからでもある。さらに、そこにも住めない人たちが、車や路上で暮らし、ひとり死んでいく。

 彼らは生前、他人とのつながりを拒絶するように、閉じこもって暮らしていることが多い。では、自ら選んだ結果といえるのだろうか。

 「あんしんネット」の石見良教さんは、最近、高齢者の部屋を片づける「福祉整理」に力を入れている。認知症や体力の低下でゴミを片づけられず、不衛生な状態で暮らす高齢者がいる。「助けを求めることもできない人たちに目を向けてほしい」という。

 悲惨な孤独死が問題なのは迷惑だからではない。それが、孤独な人間の苦しみの末路だからだ。そこに目を向けることが、いま多くの人が抱える生きづらさを和らげる一歩にもなる。(仲村和代)
朝日新聞が昨年末から「孤族の国」という連載を始めています。1月6日にその第1部「男たち」が終了しましたが、担当記者のひとりひとりの記事にはそれぞれ「現実」を反映した相当の重量があり、私はひとりひとりの記者によって現前化されるその現実のつきつけられた否応もない重たさに圧倒される思いで読了することがしばしばでした。たいへん読み応えのある連載企画となっているように思います。

朝日新聞の同連載スタートの弁は次のようなものです。


 社会のかたちが変わっている。恐るべき勢いで。

 家族というとき、思い浮かべるのは、どんな姿だろう。父親、母親に子ども2人の「標準世帯」か、それとも夫婦だけの世帯だろうか。今、それに迫るほど急増しているのが、たった1人の世帯だ。「普通の家族」という表現が、成り立たない時代を私たちは生きている。

 外食産業、コンビニ業界、インターネットなどにより、昔と比べて一人暮らしは、はるかにたやすくなった。個人を抑え込むような旧来の人間関係から自由になって、生き方を自由に選び、個を生かすことのできる地平が広がる。

 だが、その一方で、単身生活には見えにくい落とし穴が待ち受ける。高齢になったら、病気になったら、職を失ったら、という孤立のわなが。血縁や地縁という最後のセーフティーネット、安全網のない生活は、時にもろい。

 単身世帯の急増と同時に、日本は超高齢化と多死の時代を迎える。それに格差、貧困が加わり、人々
の「生」のあり方は、かつてないほど揺れ動いている。たとえ、家族がいたとしても、孤立は忍び寄る。

 個を求め、孤に向き合う。そんな私たちのことを「孤族」と呼びたい。家族から、「孤族」へ、新しい生き方と社会の仕組みを求めてさまよう、この国。

 「孤族」の時代が始まる。

この朝日新聞の提起する「孤族」の問題は、今年の新年からNHK報道局がキャンペーンを張っている「ジャパンシンドローム(日本症候群)」の問題提起とも相通じるものがあるように思います。この1月10日、NHKのニュースウオッチ9では次のような問題提起を含むニュースを報道しました。

世界が注目 ジャパン・シンドローム ( NHK ニュースウオッチ9 2011年1月10日(月)放送)
日本はいま世界がまだ経験したことのない試練に直面しています。私たちはそれをジャパンシンドローム
と名づけました。少子高齢化などにともなう急激な人口の減少、毎年およそ30万人、地方都市ひとつ分の人口が消えていきます。そしてそれは社会保護の不安定化や経済の縮小、地域の崩壊を引き起こしてい
るのです。私たちはジャパンシンドロームを克服できるのか? 世界が注目しています。

参考:■報道局キャンペーン「ジャパンシンドローム(日本症候群)をのりこえろ!」
世界が経験したことのない急速な少子高齢化と労働力人口の減少、グローバル化による国際競争の激化。
経済や社会の停滞で若者が内向き化するなど人々の価値観がゆらぎ、地域や家族の絆も薄れつつある日
本。「無縁社会」や「消えた高齢者」、「児童虐待」など社会の様々な場面にひずみが表れ多くの人たちが自信を失い不安を感じています。NHKは報道局「明日の日本プロジェクト」を中心に、日本全体に広がるこうした閉塞状況を「ジャパンシンドローム(日本症候群)」と名づけ、新年からその処方箋や克服の手がかりを提言するキャンペーンを展開します。

この朝日新聞のいうところの「孤族」の問題とNHKが提起するところの「ジャパンシンドローム」の問題、そしてその解決は、現在の日本の格差社会、その格差社会の根底にヘドロのように巣くっている逃げ場のないまでの閉塞状況、若者と老人の表現に絶するまでの「孤独」。そうした私たちの現代社会の悲況を克服していくためにも決して避けて通ることのできない“待ったなし”の緊急、喫緊の課題群であろうと私も思います。

以下、弊ブログにおいてこの朝日新聞「孤族の国 第1部 男たち」の特集記事を順次ご紹介させていただきます(重要な記事を保存する目的のためです)。いずれの記事も軽々に読み飛ばすことのできない問題提起、重量感のある記事ばかりです。

孤族の国(朝日新聞連載企画 12/26?1/6)

孤族の国 第1部 男たち
・孤族の国の私たち 朝日新聞紙面で連載スタート(12/26)
・55歳、軽自動車での最期 「孤族の国」男たち―1(12/26)
・家族に頼れる時代の終わり 「孤族の国」(12/26)
・孤独死、40代から高リスク 東京都監察医務院調査(12/26)
・高齢化と単身化が都市を襲う「2020/30年問題」(12/26)
・還暦、上海で婚活したが 「孤族の国」男たち―2(12/26)
・失職、生きる力も消えた 「孤族の国」男たち―3(12/27)
・39歳男性の餓死 「孤族の国」男たち―4(12/30)
・彼は無表情だった 「孤族の国」男たち―5(12/30)
・少女のような目の母と 「孤族の国」男たち―6(12/31)
・聞いてもらうだけで 「孤族の国」男たち―7(1/2)
・最後に人とつながった 「孤族の国」男たち―8(1/3)
・ひきこもり抜けたくて 「孤族の国」男たち―9(1/4)
・自殺中継 ネットに衝撃 「孤族の国」男たち―10(1/5)
・動かぬ体 細る指 外せぬ指輪「孤族の国」男たち―11(1/6)

*一昨年4月に北九州市門司区で起きた39歳男性の餓死事件の「孤族」を取材した記事と昨年12月に「人生を終わりにしたかった」という理由で凶行を起こした27歳青年の取手駅通り魔事件、昨年8月にあった在特会の京都朝鮮学校襲撃事件の一部始終を撮影した「bureno(ブレノ)」と呼ばれるネットにのめりこむ34歳青年の「孤族」などを取材した同連載の2本の記事については下記に特にリンクを張っておきます。「孤族」は私たちの日々の闘いの現場でも起きている現代の悲しい日常の現象であることを示すためにも。

例:ふるさと納税(国見町)


 

CML(市民のML)というメーリングリストに「防衛省の不当な名護市への米軍再編交付金の不交付に抗議し、『新基地ノー』を掲げる稲嶺進名護市長及び名護市を支援しよう」という趣旨の名護市への「ふるさと納税大作戦」を呼びかける投稿がありました。

その投稿文を読んで私は下記のような応答文を書きました。地方自治の本来のあり方の問題と日米安保条約下の米軍基地問題、政府のアメとムチの政策と私たち(市民)としてどう向き合うべきか、という問題提起のつもりでもあります。


Kさん、「ふるさと納税大作戦?案内」を拝読させていただきました。

防衛省の不当なアメとムチの政策の一環としての名護市への米軍再編交付金の「不交付」に抗議し、「新基地ノー」を掲げる稲嶺進名護市長及び名護市を支援しよう、支援したい、というお気持ちはとてもよく理解できます。

しかし、このKさんたちの「ふるさと納税大作戦」の問題提起は正しい問題提起といえるでしょうか? 私には少しばかり疑問があります。その私の疑問は下記の沖縄在住の作家の目取真俊さんのこの問題への疑問と問題提起に通じるものです。以下、目取真俊さんのこの問題についての論をご紹介させていただこうと思います。目取真俊さんの下記の論に私は強い説得力を感じます。ご一読、そしてご再考いただければ幸いに思います。

米軍再編交付金とふるさと納税について(目取真俊 海鳴りの島から 2010年12月29日)

12月29日付琉球新報に、名護市が2011年度予算に米軍再編交付金に関わる予算を計上しない方針を決めた、という記事が載っている。12月24日に沖縄防衛局が09年度の繰り越し分と10年度の要求分を「不交付」としたことに対して、28日に開いた市部長会で上記の方針を決め、市議会与党連絡会議に伝えて理解を得たという。同記事には「市は今後、こういったアメとムチの交付金には頼らない市政を進めていく」という市幹部の言葉や、24日に稲嶺進市長が述べた「政府がこのような決定をした以上、新たな財源の確保に努めながら、再編交付金に頼らないまちづくりに邁進していきたいと思う」という発言も載っている。

今回の米軍再編交付金に関する名護市の方針に対して、一市民として高く評価し、支持したい。元もと稲嶺市長は、基地問題と経済問題をリンクさせる政府の手法を批判し、米軍再編交付金に依存せず財政を健全化することを訴えて当選した。(略)稲嶺市長が議会でくり返し発言しているように、ほとんどの市町村は最初から米軍再変交付金などないし、それでもちゃんと自治体運営を行っている。必要な予算を取るための工夫を首長や職員は必死で行っているのであり、これまで安直に基地がらみの「アメ」に頼っていた名護市の姿勢を改め、本来あるべき姿に戻るために今回の方針決定は大きな一歩だ。

最近、名護市への米軍再編交付金の不交付と関連して、「ふるさと納税制度」を使って名護市を支援しようと呼びかけるブログを散見する。取り組み自体は以前から行われていて、実際に納税も行われているが、懸念することがいくつかある。/市のホームページに載っている納税者のコメントを見ると、普天間基地問題に関する稲嶺市長への支援を目的としたものが多い。まるで特定の政策を支持、支援するためのカンパ代わりのようだ。そういう人たちは市長の政策が変わったり、あるいは反対の政策を唱える市長に替われば、「ふるさと納税」を打ちきるだろう。そうやって市政運営に影響を与えるために「ふるさと納税制度」を利用しているとすれば、それは制度の趣旨を歪めるものではないか。

仮に名護市よりもっと規模の小さな自治体で、米軍基地や自衛隊配備を受け入れたいという首長がいて、その首長を応援するために「ふるさと納税制度」が利用されたらどうするのか。数千人にしか人口がいない小さな自治体に対し、大規模な運動が取り組まれて数千万円や数億円という「ふるさと納税」がなされた場合、それこそ自治体運営に影響を及ぼしかねない。やっている本人たちは善意のつもりでも、金を使って外部から自治体をコントロールしようという発想において、その取り組みは政府の再編交付金と似通ったものだ。

「ふるさと納税制度」は、その自治体の出身者や関係する人が、その自治体への愛着や善意に基づいて財政支援するためのものであり、首長個人への評価や個々の政策への支持・不支持を抜きに行われるのが筋ではないのか。納税のあり方にしても、短期的に高額の支援をするより、少額でも長期的に支援する納税者が増えていく方が望ましいように思う。いずれにしろ、特定の政治運動や企業の利益追求などを目的に同制度が利用されれば、小規模自治体ほど外部からの影響を受けやすく、政策が左右されて自治が冒される危険がある。

首長を支援したいのなら、その後援会にカンパをすればいい。運動を支援したいのなら、運動を担っている団体にカンパをすればいい。地方自治体はどこも財政を立て直すのに必死であり、「ふるさと納税」者が増えてほしいだろう。しかし、たんに金が集まればいいというものではない。「ふるさと納税制度」を政治運動として利用するのは誤りであるし、やめるべきだ。名護市への支援は寄付という形もあり、税制度を絡めてはいけない。/最後に、地域振興は基地問題とは関係なく行われるべきであり、菅政権は米軍再編交付金そのものを即刻廃止すべきだ。

 幸福の科学学園購入予定地

超右翼政党として悪名の高い幸福実現党の母体である宗教法人・幸福の科学が滋賀県大津市に学校法人・幸福の科学学園を建設しようとしており、同地では住民たちの手によって同学園建設反対のための大津市長、滋賀県知事宛の請願署名活動が展開されています。

「幸福の科学」学校法人、大津で大規模土地取得へ(京都新聞 2010年10月23日)
 宗教法人「幸福の科学」(東京都)の学校法人が大津市北部で大規模な土地の取得を検討していることが22日分かった。独立行政法人「都市再生機構」(東京都、UR)が開発した約7万9千平方メートルで、近く契約する見通し。幸福の科学は栃木県那須町に中高一貫の「幸福の科学学園」を今春開設しており、関西校の候補地に位置づけている。

 学校法人幸福の科学学園が購入を検討している土地は、JRおごと温泉駅北東にある住宅地の一角。JR湖西線の沿線で、仰木の里東2丁目と雄琴北1丁目、雄琴3丁目にまたがっている。

 URによると、9月24日から10月1日まで取得希望者を募集したところ、同学園から申し込みがあった。URと同学園はすでに売買の意思を決定済みで、10月中にも正式契約を結ぶ方針という。

 栃木県の幸福の科学学園は共学の全寮制で「徳力と学力」を持つ人材の養成などを目的に今年4月に開校した。来年度の1学年の募集定員は中学が60人、高校が100人。

 大津市での土地取得計画について、幸福の科学は「まだ具体化はしていないが、関西校を開設する構想はあり、計画を練っている最中」としている。

大津市 住民らが反対する組織結成(滋賀報知新聞 2010年12月16日)
=幸福の科学学園の建設計画=

◇大津
 大津市仰木の里で平成二十五年開校予定の「幸福の科学学園関西校」に反対する住民組織「北大津まちづくりネットワーク」(一自治会、個人有志六十人)が十二日、結成された。集会は仰木の里市民センターで開かれ、二百七十五人が参加した。

 同地域は、独立行政法人・都市再生機構(UR)が宅地開発を手掛けてきた、JRおごと温泉駅北東に広がる閑静な住宅街。計画は、仰木の里二丁目と雄琴北一丁目、雄琴三丁目にまたがる約七万九千平方メートルに、今春栃木県内に開校した幸福の科学学園(中学定員百八十人、高校同三百人)と同規模の中高一貫校を建設するもの。

 この土地を巡っては、URが九月下旬から十月にかけて取得募集を行い、同学園が二十億四千九十万円で落札し、十月七日に売却を決定し、同月二十八日に譲渡契約を結んだ。

 一方、URから地元への告知は、住民によると、売却決定後に学区自治連合会や市にはあったが、住民に明らかになったのは、建設業者が十五日に学園と連名でボーリング調査の告知を回覧してからという。

 これを受けて一自治会は、▽UR側から事前説明がなかった▽閑静な住宅街にそぐわない▽学校の教育内容が不明確?などとして、建設反対の決議を行った。このほか周辺の仰木の里、仰木の里東地区の二十三自治会のうちいくつかの自治会は、今後の対応を検討しているが、七自治会のアンケートでは八割が建設に反対する意見だった。

県、市に対して署名提出へ

 十二日に行われた集会では、幸福の科学について学んだあと、各自治会から現状が報告され、北大津ネットワークの規約確認と加入の呼びかけが行われた。

 今後、同ネットワークへの加入を呼び掛けながら、大津市長と知事宛ての署名を集めて来年一月中旬までに提出する。市に対しては建設を許可しない、そして県には学校設置の認可をおろさないよう要望する。市議会、県議会へも協力を求める。

 URに対しては公募・選定の過程が不透明だとして質問状を今月上旬に出し、早期の回答を求めている。

 この動きに対して幸福の科学広報局は「引き続き丁寧な説明を続けたい。学校内容は詰めている段階で、計画の概要ができ次第、自治会を通じて説明したい」としている。

上記の幸福の科学学園の建設計画に反対している住民組織「北大津まちづくりネットワーク」(一自治会、個人有志六十人)のホームページはこちらです。

同ネットワークが取り組んでいる幸福の科学学園建設反対のための大津市長、滋賀県知事宛の請願署名
の第一次集約日は1月16日ということです。ご署名にご協力いただければ幸いです。

また、大津市における幸福の科学学園の学校建設問題の経過についてはこちらの報道をご参照ください。

以下、この問題を私に知らせてくださったKさんのメールをご紹介させていただこうと思います。

宗教法人・幸福の科学については、沖縄の先の知事選挙において、幸福実現党として候補者を立て、全国の米軍基地の75%が集中する沖縄に更らに新たな米軍基地の建設を進めるよう訴えたことから、極めて問題のあるグループ・党・宗教団体だと考えるところですが、その系列の学校法人・幸福の科学学園が大津市仰木の里で、学校建設を進めようとしていることはご存知の方も多いと思います。私立とはいえ、幸福実現党のような超保守?右翼的な団体の系列の学校が県内にできることは、滋賀の教育を今よりさらに国家主義や新自由主義的な方向に揺さぶるきっかけとなると考えます。

こんな団体の学校ですから、中学校において「つくる会」教科書を使用することも十分考えられるのではないでしょうか。つまり、「つくる会」教科書に対する反対運動にとっても、重大なことと考えます。

一方、大津市仰木の里の住民は、住民の立場で反対運動に立ち上がっています。

「北大津まちづくりネットワーク」HP
http://kitaootsu-net.sakura.ne.jp/cooperation.html

私としては、上記に述べたような趣旨からも、これらに注目し、協力できることはしていきたいと思うところです。

すでに、署名活動が始められています。

私たちのような立場からの署名協力についても立場を越えた協力として、「北大津まちづくりネットワーク」の了承もいただいています。

滋賀だけでなく各地で幸福の科学と地域の問題が起きています。

署名は大津はもとより、県内外で進んでいるようです。

直筆署名を集めておられますで、メールなどによる署名はありません。HPからプリントアウトして、郵送で送ってください。
私は下記の村山一兵さん(ナヌムの家)の不当解雇の闘いを支持します。


参照2:

              村山一兵さんについて

以下、村山一兵さん(ナヌムの家)からの訴えの転載です。

村山一兵さんの訴え[1便(2010年12月25日)]
ナヌムの家より。村山一兵の不当解雇と業務停止に関して、ご支援を宜しくお願いします。

みなさま

ナヌムの家より、村山一兵(研究員)、古橋綾(インターン)です。

村山一兵の不当解雇と業務停止の件でいろいろお騒がせしています。

先日もメールでお知らせしました通り、12/9(木)に、不当解雇と即日業務停止の宣告を受けました。その場で解雇理由を提示した書面の作成を要求しましたが、「作成する」と言いながら(安信権所長)も、後日「解雇をするのに書面は必要ない。他の所に聞いてみろ。」(琴仙副院長)と前言を翻す発言をしていました。結局現在まで書面は受け取っていません。

12/9(木)のうちに事務所および歴史館のカギと警備カードを、数日後に業務用PCを没収されました。

その後、一昨日(12/23木)まで2週間、解雇をちらつかせながら業務を行えないように妨害を受け続けました。日本からの連絡も取りつがれず、日本から前もって予約をして訪問していただいた訪問客の方の歴史館の案内も、業務停止であるという理由で妨害されました。直接的にまたは暗に「早く出ていけ」という要求をされ続けました。

事務所側が解雇通達時(12/9木)から一昨日(12/23木)まで、明言していた不当解雇と業務停止の理由は、「12/5に東京で行われた女性国際戦犯法廷10周年のシンポジュウムに事務所に無断で参加し、姜日出ハルモニの通訳をしたこと」「始末書の不提出」の二つです。

私たちはこの理由自体が、全く不当なものであると考えています。

しかし、これらはしかるべき場所できちんと争う必要があると考えます。現在韓国内で信頼できる方々とともに対策会議をもって準備をしていますので、経緯説明に関してはもう少しお待ちください。

先週末、この事実を知った友人が日本の運動団体のMLなどを通して村山一兵の状況に関してのメールを送ってくださいました。そのメールが今まで私たちがお世話になった多くの方々のもとに届き、心配の連絡を多くいただきました。また、事務所側に直接抗議のメールや電話をしてくださる方もいたようです。

そのようなことを受けて、昨日(12/24金)の職員朝礼で、安信権所長が、村山一兵に対し、「ナヌムの家の悪い話をすることは、結局はハルモニに被害をあたることである。」「ナヌムの家の職員として個人的な感情を外部に話してはいけない。」と非難を始めました。

その後、安信権所長は「12月末に解雇とは言っていない。3月末に今年の契約が切れるので、再契約はしないと言った」と言い始めました。

朝礼後、琴仙副院長、安信権所長、金貞淑事務長と村山一兵の4者で話し合いがもたれましたが、3人とも「12月末で解雇とは言っていない」と口をそろえました。

解雇宣告は他の多くの職員も聞いていますし、この2週間の間、上記3人の幹部たちは繰り返し「12月末の解雇」を村山一兵に言い続け、精神的な圧力をかけ続けました。

それを昨日になって突然「言っていない」と主張することは全く厚顔無恥な態度であります。

ナヌムの家で住み込みで働いてきた「外国人」である村山一兵に対し、突然「出ていけ」ということは労働権だけではなく生存権の侵害でもあります。

会議で決まったとされること(実際には一方的な命令がほとんど)を私たちが守らない場合は「会議で決まった業務命令を履行しなかった」という理由で始末書等を要求されるのにもかかわらず、ここまで事務所側が会議の場でも明言し続けてきた「12月末までの解雇」を「言っていない」と言うことは、村山一兵の人権が軽視されていることの表れです。

また、12月末までの契約である古橋綾に対しても、今月中旬「いつまでの契約か?部屋はいつ明け渡す気だ?」という発言がされていますし、これまで行っていた業務を妨害されています。(古橋綾は業務停止にはなっていません)

この2週間、私たちは日中には事務所に出勤し、精神的な圧迫を受け続けてきました。また、しかるべき措置を適切にとる必要があると考え、事実関係の資料の作成、対策会議、関連組織への相談など、毎晩明け方まで行動してきました。

私たちは再三書面の提出を要求していますが、事務所幹部からの対応は、すべて口頭で、証拠が残らないように行われています。今回のように、言葉を覆し続けることは今後も可能です。

今回の一件で、現状を外にいる方々に知らせ、外からの圧力が必要であると強く考えるようになりました。そして、私たち以外の方々に証人になっていただく必要があると考えます。

この処置の不当性をどうかナヌムの家の事務所幹部に訴えていただけませんか。

安信権所長は昨日の朝礼で「私と一兵の個人的なこじれのように日本で宣伝している」として村山一兵を非難しました。

確かに、この問題は安信権所長と村山一兵の個人的なこじれではありません。事務所幹部らからの組織的な行為です。

琴仙(クムソン)副院長(プウォンジャン)、

安信権(アン・シングォン)所長(ソジャン)、

金貞淑(キム・ジョンスク)事務長(サムジャン)への抗議をお願いしたいです。

韓国語ができなくても、日本語・英語でも圧力になると思います。

(金貞淑事務長は日本語が少し話せます。)

TEL: +82-(0)31-768-0064
FAX: +82-(0)31-768-0814
E-mail: y365@chol.com / nanum365@empas.com
住所: 464-840大韓民国京畿道広州市退村面元堂里65 ナヌムの家

です。

もし可能でしたら、状況が分かるように私たちの方にも訴え内容や反応を教えていただけたらと思います。

事務所幹部らの人権侵害的な行動は、私たちにだけ向けられているわけではありません。簡単にここを出ていくことができない高齢のハルモニたちのことを考えると、何もしないで出ていくわけにはいかないと思っています。

みなさんのご協力、どうぞよろしくお願いします。

村山一兵(研究員)+82-(0)10-4229-1980

古橋綾(インターン)+82-(0)10-7117-3343

村山一兵さんの訴え[第2便(2011年1月1日)]
ナヌムの家より。2011年になりました。状況報告です?

皆さん

2011年になりました。今年も宜しくお願いします。

ナヌムの家より、村山一兵(研究員)、古橋綾(元インターン)です。

多くの方からご心配、ご支援の連絡をいただいております。ありがとうございます。

12月末が過ぎました。現在の状況をお伝えします。

以前のメールでもお伝えしましたとおり、

村山一兵は、12/9に、「12月末の解雇」「業務停止」を宣告されました。

しかし、事務所側は、12/24に「12月末には解雇とは言っていない。」「3月に再契約をしないといったはずだ」と急に立場をかえました。

解雇期限が12月から3月に変わった理由説明もありません。

現在もナヌムの家にて生活を続けておりますが、依然として業務停止状態が続いています。

事務所&歴史館のカギ、警備カード、そして業務用PC本体は没収されたままです。

日本からの連絡も来訪も私には引き継がれない状況です。

先日も日本からの来訪団体に歴史館案内をしようとすると、

安信権所長や朴宰弘幹事に、「おまえは業務停止のはずだ」「なぜここにいるのだ」「出て行け」と、激しい言葉で妨害を受けました。

同行したガイドの方は、「今までも案内をしてもらったのに、なぜ突然できないというのですか。

今日も案内してほしいのですが。」と困惑されていました。

しかしながら、私が案内しない代わりに、事務所側でしっかりと対応するということはなく、日本からはるばる韓国まで歴史を学びに来てくださる皆さんの学ぶ機会が奪われている状況です。

現在の状況は「解雇撤回」ではありません。

もし解雇を撤回するのであれば、明確な形の謝罪と業務停止解除をするべきです。

現に、解雇を前提として強いられた業務停止は続いていますし、日常的に無視・叱責などの精神的圧力が加えられています。

事務所幹部らは村山一兵が圧力に屈して、自ら出て行くのを待っているのだと思います。

現在は、韓国内の協力者の方々と状況を相談しています。

また、インターンとして働いてきた古橋綾は、契約期間を満了して12月末にナヌムの家を後にしました。

今後は、ナヌムの家の中では一人での闘いになります。圧力もますますひどくなっていくことが予想されます。

体力が続く限り闘っていくつもりですが、今後どういった状況になるかは分かりません。

皆さんからの抗議メールや電話は、事務所幹部らにも届いています。

幹部らは、多くのメールや電話に驚いているようです。

不当な業務停止をやめることと、3月以降の勤務の継続などを、訴えていただけたらと思います。

琴仙(クムソン)副院長(プウォンジャン)、

安信権(アン・シングォン)所長(ソジャン)、

金貞淑(キム・ジョンスク)事務長(サムジャン)への抗議をお願いしたいです。

韓国語ができなくても、日本語・英語でも大丈夫です。

(金貞淑事務長は日本語が少し話せます。)

TEL: +82-(0)31-768-0064
FAX: +82-(0)31-768-0814
E-mail: y365@chol.com / nanum365@empas.com
住所: 464-840大韓民国京畿道広州市退村面元堂里65 ナヌムの家

です。

もし可能でしたら、状況が分かるように私たちの方にも訴え内容や反応を教えていただけたらと思います。

事務所幹部らの人権侵害的な行動は、私たちにだけ向けられているわけではありません。

簡単にここを出ていくことができない高齢のハルモニたちのことを考えると、何もしないで出ていくわけにはいかないと思っています。

これからもご協力、どうぞよろしくお願いします

皆さんの2011年がいい年でありますように。


村山一兵(研究員)+82-(0)10-4229-1980

古橋綾(元インターン)+82-(0)10-7117-3343

nanum365@hotmail.com or nanum365@gmail.com(このメールは一兵が管理してます)