下記の呼びかけは、「わたしは1960年に神戸で生まれた在日コリアン二世です。両親は済州島出身の一世です。私はいま、「中崎町ドキュメンタリースペース」というドキュメンタリーの制作グループを創り、大阪の釜ヶ崎を拠点に活動をしています。釜ヶ崎は、1960年代、炭鉱離職者や沖縄出身の人々などの日雇い労働者の街『寄せ場』として、1970年代からは高度経済成長を背景として多くの沖縄や未解放部落、在日韓国・朝鮮人などの人々が土木・建築、港湾などの底辺の労働に、従事してきました・・・・」という文章から始まります。


ぜひ全文をお読みになられてください。そして、K(金稔万/キム・インマン)さんの「本名を名乗るための裁判」にご支援、ご賛同いただければ幸いです。転載させていただきます。

注:K(金稔万/キム・インマン)さんは韓国強制併合「調印」100年目の日の8月22日に不当逮捕され、9月1日まで勾留されていました。また、金稔万さんは不当逮捕前の5月24日、本名を名乗るために、日本政府と大林組とその下請けの三者を提訴していたということです。
http://d.hatena.ne.jp/FreeK/

以下、呼びかけ文。

呼びかけ:イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて

■はじめに
わたしは1960年に神戸で生まれた在日コリアン二世です。両親は済州島出身の一世です。私はいま、「中崎町ドキュメンタリースペース」というドキュメンタリーの制作グループを創り、大阪の釜ヶ崎を拠点に活動をしています。釜ヶ崎は、1960年代、炭鉱離職者や沖縄出身の人々などの日雇い労働者の街「寄せ場」として、1970年代からは高度経済成長を背景として多くの沖縄や未解放部落、在日韓国・朝鮮人などの人々が土木・建築、港湾などの底辺の労働に、従事してきました。現在では、産業構造や雇用形態の激変、労働者の高齢化により、「寄せ場」そのものの姿も変貌しつつあります。そのような中で、私は4年前の、2006年末、越冬闘争の撮影に参加する機会がありました。そして、2007年3月には、その釜ヶ崎において2088人の労働者の住民票が消除され、選挙権までもが奪われるという事件が起こりました。その様子をカメラに収め、ドキュメンタリーを制作する過中で、様々な人々と出会いました。

■阪急梅田百貨店で起こった事
私が日雇いとして働いていた、大阪梅田の阪急百貨店の解体現場での事でした。そこでは、多くのフィリピンからの「研修生」という名目の移住労働者が、最低賃金の3分の1以下、月6?8万円の「手当て」で働いていました。私は特別永住権を持つ日本で生まれた在日朝鮮人二世であり「本名」で働いていました。ところが、雇い主によって、ヘルメットの前面に貼られた「本名」のシールを剥がされ、そして、裏側に貼ってあった「本名」のシールの上には「通名」のシールを貼られました。「本名」のままだと、「不法就労」防止のための「外国人就労届」を出さなければならないと雇い主が考えたのがその理由のようです。しかし、在日朝鮮人の場合、本名を使おうが、通名を使おうが、法的に「外国人就労届」を出す義務などなく、不法就労という事自体がありえません。他の現場では、「本名」で働いていても何も言われず、問題がなかったのに、何故突然、そこの現場でだけ、そんなことを言われたのかさっぱりわかりませんでした。(さらに、そこの現場では、入退場の時に、全員に指紋の押捺を義務付けるということもしていました。何故そんなことが必要なのでしょう?)多くの在日朝鮮人にとって、それは日常的に遭遇する不条理のひとつです。私は、いま現在も継続する「創氏改名」を問う裁判を起こしました。2010年5月24日、私は、日本政府と大林組とその下請けの三者を提訴しました。
 
■本名を名乗ることは人格権
自分が何者であるかを明らかにすることは「人格権」であり、自分の本当の名前が何かということは、自分がそれを決定する権利なのです。しかし、幼い在日たちは、それに気づくことができないほど主体を奪われています。「ある日、不意にわたしたちが自分は何者であるのか、を知らされるのは、わたしたちがはじめて他者に出会う小さな子どもの頃である。」「わたしたちは、この世に在るものとして生きていくために、仮りの名を自分のものにして、自分でない仮りの者に自分を似せていくのだ。この世が日本人のものであるならば、わたしたちは、より日本人らしい、日本人に自分を真似ていく。」(「李珍宇ともうひとりのRたち」より 朴壽南)

■私が本名を名乗るまで
多くの在日コリアン二世がそうであるように、私もかつて、日本の学校に「通名」で通っていました。授業参観などでオモニ(母)が学校にやってくるのが厭でした。なぜなら、一世で無学で字も書けないオモニが来るとクラスのみんなに朝鮮人であることがばれるからです。14歳の時、外国人登録のため、クラスの皆に知られずに授業を休み、区役所に行き指紋を押す、その時、私はそれまでにも感じていただろう「チョウセン」という不遇性にもろに遭遇するのです。しかし、私はクラスで「本名宣言」をする勇気もなく、「指紋押捺拒否」も出来ませんでした。大学に入学し同胞学生のサークルに、勧誘されてようやく、「本名」を名乗ったのです。

■創氏改名の歴史とは(略)

■人類館事件について(略) 

■戦後も残る「創氏改名」
「創氏改名」は過去の話ではありません。戦後も「創氏改名」は根強く残りました。日本政府は外国人登録の氏名欄に本名以外に「通名」を併記することを認め、公的書類にも「通名」使用を承認し、誘導しました。現在も在日朝鮮人の多くは根強い民族差別のために「通名」を使用せざるをえない状況にあります。大阪府外教調査(1994年)では、日本の公立高校に通う在日子弟の本名使用率はわずか12%です。ある在日三世の高校生K君が飲食チェーン店に本名で面接に行ったら、唐突にパスポートを見せてくれと言われたといいます。K君はオモニに、こう言いました。「オモニたちが何年(本名の)運動やっても日本は変われへんやん。僕は韓国に行くわ。韓国に行って、韓国でも僕は差別されるけど、生まれた子どもは差別されへんやろ。」その言葉は私の胸を刺します。また、ベトナム難民二世の子供たちも「本名」と「通名」で悩んでいると聞いて驚きました。北朝鮮に対する悪質な報道や朝鮮学校の無償化問題にも象徴されるように、日本の社会に体系的な排除、包摂の論理が、肉体化されているのです。

■Kとの出会い、そして提訴へ
今回、訴訟にはもう一人日本人のKいう原告がいます。Kはお父さんが中学校の校長先生であり、K自身も進学校の高校に通っていたのですが、閉鎖的でマンネリな学校や家庭に反発し中退して、あちこちを放浪し釜ヶ崎にやってきたのです。Kは37歳で型枠大工として釜ヶ崎で働き、ドヤに住んでいました。2007年3月、釜ヶ崎解放会館に登録していた2088人の住民票が一斉に削除されて、選挙権が奪われたとき、Kはその釜ヶ崎解放会館に「住民票」を置いていました。Kは当該として本人訴訟で一定の勝利判決を得ました。Kは、私の「創氏改名」されたヘルメットを見て、滑稽だと笑いながらも、一晩で共同原告としての訴状を書きあげました。そして、参議院選挙(7/11)を控え、「本名裁判」の第一回口頭弁論直前(7/8)に、なんと別件で逮捕(6/29)されたのです。Kは今も、大阪拘置所に不当にも長期拘留されていますが、私に裁判資料を送り続けているのです。

■イルムから―
現在、日本に在住する外国人は221万人を超え、日本の人口の1.74%を占め、また、そのルーツの多様化も進んでいます。グローバル化や少子高齢化の流れの中で、多くの「研修生」「実習生」など、さまざまな在留資格に細分化された外国人が、この日本に暮らしています。また、祖国から政治的に迫害され避難して来た「難民」も多くいるのです。一方でかつてのオールドカマーを代表する「在日韓国・朝鮮人」の人口は日本国籍の取得や、日本人との婚姻した子供たちが日本籍を選択するなどにより減少を続け、現在58万9千人となっています。国籍別で増加しているのは中国人が65万5千人、ブラジル人が 32万2千人、フィリピン人が21万人となっており、無国籍の人たちも1,525人います。(2009年7月入国管理局発表)そして、日本で生まれてくる子供たちの30人にひとりのどちらかの親が外国籍なのです。先日、群馬県の小学校六年生の上村明子さんがクラスでのいじめが原因で自殺するという傷ましい事件がありました。詳細はわかりませんが、いじめられた原因が、お母さんがフィリピン人であることと伝えられました。上村明子さんが自らの出自を隠さず、民族名やあるいは、日本名と民族名を併記したダブルネームを名乗り、当たり前のように、受け入れられ、名前を呼ばれる環境が学校や地域や家庭にあったならばと思います。在日朝鮮人だけではなく、他の外国人が自らの出自を隠し、そのアイデンティティが自他ともに見えなくなる状況が発生しています。民族的アイデンティティの危機を克服することなしに国際化や多文化共生がなされることはありえないでしょう。多くの在日朝鮮人や在日外国人の子供たちが自然に本名を名乗ることができるように、この裁判がひとつの問題提起になればと思います。「イルムから―」いっしょに考えていきたいと思います。

(NDS=中崎町ドキュメンタリースペース)金稔万(きむ・いんまん)

「イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて」は、この裁判への、多くの人々のご支援をお願いしたいと思います「イルムから―」に対する個人・団体での賛同をお願いします。そして、ぜひ、メッセージをお寄せください!

■賛同フォーマット
■<名前(あれば肩書きなども)>
■<ブログへの名前の公表>可能・不可能
■<メッセージ(応援・意見・あなたの体験など、なんでも結構です!)>

■賛同メールの送り先:nds-2010osakaあっとhotmail.co.jp
(あっとを@に置き換えて送信してください)
連絡先:釜ヶ崎医療連絡会議 大阪市西成区太子2?1?2
電話:06-6647-8278
ブログ「イルムから―当たり前に本名が名乗れる社会を求めて」
http://d.hatena.ne.jp/irum/
カンパ振込先郵便振替口座 00940?5?79726
(加入者名:釜ヶ崎医療連絡会議)
*通信欄に「イルム」と明記してください。
今後の弁護士費用など、何かと経費が必要になりますので皆さんのご支援のほどどうぞよろしくお願いします。
下記はアジア女性資料センターの政府が高校無償化の朝鮮学校適用手続きを停止させたことに対する抗議と要請文です。転載させていただきます。

が、その前に、民主党議員のレイシストぶり、非理性、非倫理観、非人権感覚、を如実に示す本日付けの報道記事と朝鮮学校適用手続き停止に抗議するブログ記事を各2本ご紹介しておきたいと思います。

まず、民主党議員のレイシストぶり、非理性、非倫理観、非人権感覚、を如実に示す報道記事2本。

朝鮮学校無償化見直しを 前原氏「前提変わった」(産経新聞 2010年11月26日)
前原誠司外相は26日の記者会見で、朝鮮学校への高校無償化適用に関し、北朝鮮による韓国・延坪島砲撃で「前提は変わった」と指摘、無償化方針を見直すべきだとの認識を示した。「北朝鮮は朝鮮戦争休戦以来、初めて民間人が住む島に無差別で砲撃を加えた。言語道断だ。私の考えている(見直しの)条件に含まれる」と強調した。高木義明文部科学相にも同様の見解を伝えているという。

【朝鮮学校無償化】「審査進めず推移見守る」 鈴木文科副大臣」(産経新聞 2010年11月25日)
鈴木寛文部科学副大臣は25日の記者会見で、菅直人首相が朝鮮学校への高校無償化適用の手続き停止を指示したことに関連し「(無償化適用の)申請があった場合はただちに審査を進めるのではなく、事態の推移を見守る」と述べた。/鈴木氏は無償化の適否について「教育上の観点から客観的に判断すべきだという基本的な考え方は変わっていない」とした上で「審査をいったん停止し、関係省庁とも連携して対応を考えていく」と語った。審査開始の時期は明言を避けた。/朝鮮学校が本年度と来年度に無償化適用を受けるための申請期限は30日。文科省によると、日本の高校生年代の生徒が通う「高級学校」で運営中の10校のうち8校が25日までに書類提出などで申請の意思を示している。

次にその民主党議員、「菅総理のレイシズム反人権体質」を厳しく批判するブログ記事2本。

いくら非難してもしたりない菅総理のレイシズム反人権体質(Afternoon Cafe 2010年11月26日)
無償化停止の指示は菅総理が出したそうです。/何という恥知らずなレイシスト、反人権体質の「市民運動家」なのでしょうか。まあこういう人でなきゃ自立支援法「改正」みたいな詐欺行為はできませんよね。このようなレイシストに総理大臣を勤める資格はない、すぐにでも辞任してもらいたい、と百回でも叫びたい気分です。

北朝鮮砲撃、民主トロイカの馬脚、河村のリコール失敗(きまぐれな日々 2010年11月26日)
その後、文科省が朝鮮学校にも無償化を適用する方針を示したが、政府は今回の砲撃事件を受けて、これを一時停止する方針を示した。菅直人首相が直接指示したものらしい。/だが、これはいうまでもなく筋違いである。北海道新聞のコラム「卓上四季」が、『日本で暮らす高校生にどんな責任があるというのか。こんなときにこそ冷静に理非を判断して節を曲げないのが、大人の国の対応だろう。」と書く通りである。

注:上記どちらのブログも背景色にイハカラー(黄)を採用しています。

以下、アジア女性資料センターの抗議&要請文です。

朝鮮半島における軍事衝突を受けて、高校無償化の朝鮮学校適用手続きが停止されたことに対し、アジア女性資料センターでは本日、以下の抗議と要請文を政府に送付しました。適用停止に対する抗議の声を、多くの団体や個人からも送っていただければ幸いです。送付先のFAX番号は以下の通りです。

菅直人総理 03?3595?0090
仙石由人内閣官房長官 03?3508?3235
高木義明文部科学大臣 03?3503?5757




2010年11月26日

総理大臣 菅直人様
内閣官房長官 仙谷由人様
文部科学大臣 高木義明様


高校無償化の朝鮮学校適用手続き停止に抗議し、即刻適用を要請します

 私たちは、朝鮮半島において発生した軍事衝突を受けて、政府が、いったん決定した高校無償化の朝鮮学校適用に向けた手続きを停止していることに、強く抗議します。

 そもそも高校無償化は、すべての子どもたちに教育を受ける権利を保障することを目的とした施策であり、外交問題とは一切関係なく、すべての高校において4月から実施されるべきものでした。他の認可外国人学校に対しては5月以降から実施されていたにもかかわらず、朝鮮高校に対してのみ実施を遅らせてきたことは、政府による怠慢であり差別にほかなりません。

 文科省はようやく11月に、朝鮮高校への適用に向けて外形的な基準を公表し、具体的な手続きを進めていましたが、このたびの軍事衝突を受けて、高木文部科学大臣は11月24日の記者会見で、外交関係を無償化適用するかどうかの判断材料にしないというこれまでの考え方は変わっていないとする一方で、「重大な決断」をする可能性を示唆しました。また仙谷官房長官は、現在進めているプロセスをいったん停止すると述べています。

 軍事衝突を受けての手続き停止は、政府が自ら決めた規定を無視してまで、朝鮮学校の子どもたちを政治的対立にまきこみ、在日コリアンへのいっそうの差別をあおる危険で非人道的な行為です。

 私たちは政府に対し、基本的教育権保障の問題である朝鮮高校への無償化適用を朝鮮半島における軍事衝突と関連付ける言説を断固として退け、法と規定にもとづいて適用手続きを速やかにすすめること、そして在日コリアンのコミュニティと子どもたちを、これ以上の差別と暴力から保護する責務を誠実に果たすことを求めます。

アジア女性資料センター
〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町14-10-211
TEL:03-3780-5245 FAX:03-3463-9752
E-mail:ajwrc@ajwrc.org
http://www.ajwrc.org/
怒り心頭に達する。

私は、民主党・菅内閣は菅氏が「辺野古回帰」の日米合意を踏襲する考えを民主党代表選の前日に早々と表明したときからまったく期待していませんが、それにしても朝鮮学校への高校無償化適用手続きの停止を菅首相自らが「指示した」とは驚き呆れて言葉も出ません。もはや彼を市民運動出身のリベラリストと評価することは金輪際できません。菅という男は思想のない、理念のない、単に世俗的な出世欲が強いだけのきわめて低俗な男でありました。そのことがはっきりしました。

今回の北朝鮮の韓国への砲撃事件と朝鮮学校への高校無償化適用の問題はまったく次元の異なる問題です。比較しようもない人間の尊厳、人間固有としての教育を受ける権利の問題と唯物的、没人間的な政治情勢、国家統治の問題とをリンクさせるという甚だしき非理性。理念の不在。思想の貧困。もはや彼、及び菅内閣に何を期待することもできないでしょう。菅内閣、民主党の終焉はすぐそこにあります。

以下、報道記事。

高校無償化:朝鮮学校への適用、手続き停止指示 菅首相(毎日新聞 2010年11月24日 21時28分)
 菅直人首相は24日、朝鮮学校への授業料無償化制度の適用に関し「私から(高木義明)文部科学相に、こういう状況の中なのでプロセスを停止してほしいと指示を出した」と述べ、北朝鮮砲撃事件を受け手続きを止めるよう指示したことを明らかにした。首相官邸で記者団に語った。

 仙谷由人官房長官は同日の記者会見で「制裁的意味合いはない」としているが、政府筋は「砲撃事件が起きて、国民の税金を使うことに国民から理解が得られるかどうか、まずプロセスを止めて検討することになった」と説明している。【宮城征彦】

手続き停止「私が指示」=朝鮮学校の無償化?首相(時事通信 2010年11月24日-20:08)
 菅直人首相は24日夜、朝鮮学校の高校授業料無償化に向けた手続きに関し、首相官邸で記者団に「私の方から(高木義明)文部科学相に、こういう状況なのでプロセスを停止してほしいと指示した」ことを明らかにした。手続き停止については、仙谷由人官房長官が同日午前、「いったん停止する方向に動く」と表明。高木文科相も無償化見直しの可能性に言及していた。


 沖縄・比謝川

沖縄在住の作家の目取真俊さんがご自身の本日付のブログ記事で佐藤優責任編集による「沖縄と差別」という特集記事を組んでいる『週刊金曜日』(11月12日号)の姿勢を批判しています。

『週刊金曜日』11月12日号を読む(目取真俊 海鳴りの島から 2010年11月24日)

一昨日のエントリで私も『週刊金曜日』(11月12日号)の同特集を批判する記事を書きましたが、目取真俊さんの本記事における『週刊金曜日』、佐藤優批判は、一昨日の私の『週刊金曜日』、佐藤優批判とほぼ問題視点を同じくし、芥川賞作家の手によって一昨日の私の論を(結果として)さらに補強するものとなっています。

以下、目取真俊さんの『週刊金曜日』、佐藤優批判の抜粋です(全文は上記リンク記事参照)。

(『週刊金曜日』に)自ら書いている評論や座談会で佐藤氏は、仲井眞氏の〈変節〉を狙う菅政権を批判する一方で、仲井眞氏の「県外移設」という主張を検証することはしない。むしろその検証を封じ込めようとする。冒頭に引用した座談会での佐高氏との会話はそれを露骨に示したものだが、評論では菅政権や朝日新聞の「沖縄差別」批判という形で巧みにそれを行っている。/つまり、佐藤氏が責任編集した『週刊金曜日』11月12日号の「特集 沖縄差別」は、仲井眞氏の最大の弱点である普天間基地問題について、仲井眞氏の「県外移設」という主張の信頼性を高め、なおかつそれが有権者に検証されて〈変節〉の可能性が論じられることを封じ込める=争点ぼかしすることを主たる目的として編まれたように、私には見える。それは仲井眞氏を側面から支援するものだ。

佐藤氏は〈筆者は権力闘争からあえて距離を置いている〉(17ページ)と強調しているが、白々しい限りだ。県知事選挙という〈権力闘争〉のただ中で同号を発行しながら〈距離を置いている〉と主張するのは、佐藤氏ならびに『週刊金曜日』編集部のまやかしであり、自らの言論活動の責任を逃れようとするものでしかない。

沖縄県知事選挙も残り4日となった。現職の優位を生かして先行していた仲井眞氏に伊波氏が猛追して並び、激戦になっているという報道がある。これから投票日まで、普天間基地問題の争点ぼかしを許さず、仲井眞氏の主張する「県外移設」の内実を過去の言動との整合性を含めて検証し、批判していくことが重要となる。『週刊金曜日』11月12日号で佐藤氏が行っているちゃちな仕掛けなど蹴り飛ばせばいい。

選挙に立候補した政治家の過去の言動を検証し、変節しないか、信念を貫けるかを見極めるのは、現在の選挙で最も重要なことだ。むしろ有権者は政治家の変節や二枚舌を許さないためにも、政治家の公約を疑い、確かめ、納得がいくまで検証した上で投票すべきなのだ。そのように有権者が熟考して投票できるようにするのが、週刊誌を含めたメディアの果たす役割のはずだ。

伊波勝利のための奔流がさらに激しい流れとなって沖縄という大河を揺さぶっています。

 リコールの訴えをする河村名古屋市長と橋下大阪府知事

わが国の地方自治体の代表的なポピュリスト首長のひとり、名古屋市長の河村たかしが主導する市議会の解散請求(リコール)運動で有効署名数が法定数に届かず、住民投票は行われないことが確実になった模様です。

河村たかしのポピュリズム(根拠の乏しい俗うけのする安易な政策をちらつかせて市民を扇動する)の手法をひとまずは防げたこと、また、その悪しきポピュリズム政治の拡散にひとまずはストップをかけたことはよろこばしいことです。しかし、大阪には橋下がいて、東京には石原、そして鹿児島には竹原(阿久根市長)が依然として居座っています。わが国の悪しき俗流ポピュリズムとの戦いはこれからさらに正念場を迎えるというべきでしょうか。

以下、報道記事です。




住民投票の必要数に届かず=市議会リコール署名?名古屋市選管(時事通信 2010/11/24-16:49)
 名古屋市の河村たかし市長が主導する市議会の解散請求(リコール)運動で、同市選挙管理委員会は24日、河村たかし市長の支援団体が提出した約46万5600人分の署名のうち、16区中15区分で、無効数が10万5314人分に達した発表した。残る南区の署名が全員有効でも、有効数は36万288人分にとどまり、解散の是非を問う住民投票に必要な36万5795人分(市内有権者の約2割)を下回る。

市議会解散署名、法定数に届かず 名古屋(共同通信 2010年11月24日 17時22分)
 名古屋市の河村たかし市長の支援団体「ネットワーク河村市長」が市議会の解散を求めた直接請求(リコール)は24日、署名を審査していた同市選挙管理委員会の発表で、有効署名数が法定数の36万5795人分に届かないことが確実になった。

 同日夕までに市内16区のうち15区で発表された有効署名数は計33万3741人分。残る南区の署名がすべて有効でも、法定数を下回る。市長の支援団体が提出した署名は46万5602人分(緑区が24日に訂正し8人増加)。

 署名の審査期限は当初10月24日だったが、市選管は有効性に疑いのある署名を再調査するため期間を1カ月延長。支援団体は延長は違法だとして名古屋地裁に提訴したり、市内で大規模なデモ行進をするなど反発した。

 また市選管は名簿提出後に「氏名や住所に一部でも誤りがある署名は無効」とする厳格な基準を示した。支援団体は無効票が増えた原因と指摘しており、批判を強めるのは必至だ。

現在熾烈な選挙戦が繰り広げられている沖縄県知事選でどちらも普天間基地の「県外移設」を主張しているという点では同じだとして伊波候補と仲井真候補を同列に置こうとする論調が横行している中で、本日の琉球新報の社説は一頭地を抜く論を展開しています。その論は次のようなものです。

今知事選で、最大の争点の一つはまぎれもなく米軍普天間飛行場の返還・移設問題である。/仲井真、伊波の2氏が「県外」「国外」に移すことを公約に掲げた。争点がかすんだとする見方には、政治的思惑も見え隠れする。(略)仲井真、伊波の両氏の公約や発言を読み取れば、その違いははっきりしてくる。/(略)「県内は不可能に近い」。本土を視野に入れた移設による解決が望ましいとにじませる一方、「県内移設反対」の言質を求めると慎重に明言を避けている。/有権者からは県内に反対と見なされたいが、政府との決定的な対立は避けたいという姿勢に映る。(琉球新報 2010年11月23日)

沖縄メディアのこうした論の立て方を私は望んでいました。県知事選の投票日まであと5日。沖縄のメディアもやっとまっとうな論を展開し始めました。この流れが本流となって決して押し戻すことができない大河のような流れとなって奔流することを私は強く期待します。

社説:知事選・普天間問題 違いを見極め選択したい(琉球新報 2010年11月23日)
《沖縄県知事選》 【琉球新報社説】 普天間問題、違いを見極め選択したい(写真で見る・知る沖縄 2010年11月23日)
 沖縄の重大な分岐点となる県知事選挙まであと5日に迫った。事実上の一騎打ちを繰り広げる現職の仲井真弘多、新人の伊波洋一の両候補が激しく競り合い、予断を許さない情勢の中で終盤を迎える。

 今知事選で、最大の争点の一つはまぎれもなく米軍普天間飛行場の返還・移設問題である。

 仲井真、伊波の2氏が「県外」「国外」に移すことを公約に掲げた。争点がかすんだとする見方には、政治的思惑も見え隠れする。県民世論を土台に、2人の有力候補の政策から県内移設の選択肢が消えた事実は重い。地殻変動の中で迎える知事選の歴史的意義をかみしめたい。

 「世界一危険」と称される普天間飛行場問題の原点は、基地周辺住民の命を守る観点での返還だった。しかし、日米両政府は返還条件となった県内移設にとらわれ、賛否の意思表示を迫られた沖縄社会は揺さぶられ続けてきた。今選挙は、県民自らそのくびきを断ち切り、名護市辺野古への移設計画の命脈を断つ可能性を帯びている。

 仲井真、伊波の両氏の公約や発言を読み取れば、その違いははっきりしてくる。

 県内移設を容認・推進してきた仲井真氏は、高まる世論に押される形で「県外移設要求」にかじを切った。「日本全体で負担を負うべきだ」「県内は不可能に近い」。本土を視野に入れた移設による解決が望ましいとにじませる一方、「県内移設反対」の言質を求めると慎重に明言を避けている。

 有権者からは県内に反対と見なされたいが、政府との決定的な対立は避けたいという姿勢に映る。沖縄振興の新たな法整備など今後の折衝を見据え、政府との協議の門戸を開いている。

 伊波氏は、県内移設反対を鮮明にし、米公文書の詳細な解読を基に、国外、特にグアムへの移転が米軍の既定路線であると持論を展開している。その一方、推薦する3政党との基本姿勢との兼ね合いもあり、本土を視野にした県外移設に踏み込むことは避けている印象がある。

 「辺野古移設を葬り去る」と強調する伊波氏は、日米合意を前提とした協議には応じず、両政府に断念を迫るとしている。

 日米安保に対する価値観も異なる。日米両政府との交渉手法の違いは有力な判断材料となるはずだ。政策や公約を今一度精査し、沖縄の明日を託す一票を投じたい。

参考1:沖縄タイムス(20日付)と琉球新報(23日付)の社説の「違い」を見るために
■社説:[県知事選]この静けさは何だろう(沖縄タイムス社説 2010年11月20日)
 県知事選挙が盛り上がらない。沖縄の針路を左右する極めて重要な選挙であるにもかかわらず、選挙の意義に見合うような熱気が、感じられない。一体、どういうことなのだろうか。

 県知事選は復帰後、10回行われているが、11回目の今回は、過去のどの選挙と比べても、特異さが際立つ。

 2人の有力候補が米軍普天間飛行場の移設問題で、「県外」「国外」への移設を主張し、争点がぼやけてしまったことが、この選挙の最大の特徴である。

 辺野古移設の姿勢を変えていない民主党本部は、どの候補も推していない。沖縄の県知事選で政権与党が自主投票を決めるのは初めてだ。自民・公明推薦の候補が、自民党本部に推薦の申請をしないのも例がない。

 普天間問題がもたらした複雑な「ねじれ」が、有権者を戸惑わせ、選挙運動の盛り上がりにブレーキをかけているのは明らかだ。

 菅直人首相はオバマ米大統領との首脳会談で、「5月の日米合意をベースに沖縄県知事選後に最大の努力をする」と語った。知事選は現職の仲井真弘多氏と、前宜野湾市長の伊波洋一氏による事実上の一騎打ちとなっているが、誰が当選しても、選挙後の政府との交渉は難しいものになるだろう。

 「どうせ動かないのだから」と選挙を棄権する人が増え、投票率が下がるようなことがあってはならない。

 現実を変えることができるのは、選挙によって示される有権者の民意である。

 過去10回の知事選で、例外的に投票率が下がったケースが2回ある。

 革新陣営が分裂し、稲嶺恵一、吉元政矩、新垣繁信氏らの争いとなった2002年の知事選(投票率57・22%)と、大田昌秀氏と翁長助裕氏が争った1994年の知事選(投票率62・54%)である。

 両選挙に共通するのは、大差がついたことだ。選挙に対する有権者の関心が薄れ、投票率が低下した結果、大差がついてしまったのである。

 今回の選挙はそのような状況にはない。そこまで投票率が下がるとは考えにくい。

 ただし、普天間問題の争点がぼやけ、中央と沖縄に「ねじれ」が生じたことは、いわゆる浮動層の知事選への関心を低下させる懸念がある。

 各陣営は他候補との違いを有権者にアピールし支持を訴えているが、現時点では、政策の違いが有権者に十分に浸透しているとは言い難い。

 盛り上がりに欠ける現在の状況を打開するためには、一にも二にも運動量を増やすことである。運動を拡大し、政策をめぐる論戦を深めていくことによって有権者の関心を高めていくことが必要だ。

 日米安保への評価、経済政策の手法、カジノ導入をめぐる姿勢、県立病院の独立行政法人化など、政策の違いは次第に明らかになりつつある。対立軸を鮮明にし、有権者に分かりやすく政策を示してもらいたい。

 投票率を高めることが、政府に対する沖縄の交渉力を強くする。

参考2:本日(2010年11月23日)の「写真で見る・知る沖縄」ブログより


「写真で見る・知る沖縄」ブログ(2010年11月20日付)より



県知事選挙が盛り上がらない。沖縄の針路を左右する極めて重要な選挙であるにもかかわらず、選挙の意義に見合うような熱気が、感じられない。一体、どういうことなのだろうか。

上記は、一昨日の沖縄タイムスの社説の冒頭の一説です(「[県知事選]この静けさは何だろう」 2010年11月20日付 )。

沖縄タイムス紙は同社説で「県知事選挙が盛り上がらない」理由を2点挙げています。第1。「2人の有力候補が米軍普天間飛行場の移設問題で、『県外』『国外』への移設を主張し、争点がぼやけてしまったこと」。第2。「沖縄の県知事選で政権与党が(どの候補も推薦することができず)自主投票を決め」、また、「自民・公明推薦の候補が、自民党本部に推薦の申請をしない」という「普天間問題がもたらした複雑な『ねじれ』が」生じていること。そして、沖縄タイムス紙は、その「複雑な『ねじれ』が、有権者を戸惑わせ、選挙運動の盛り上がりにブレーキをかけているのは明らかだ」とした上で、「普天間問題の争点がぼやけ、中央と沖縄に『ねじれ』が生じたことは、いわゆる浮動層の知事選への関心を低下させる懸念がある」「各陣営は他候補との違いを有権者にアピールし支持を訴えているが、現時点では、政策の違いが有権者に十分に浸透しているとは言い難い」という現下の沖縄県知事選挙情勢に対する同紙としての厳しい見方を示し、同時に深い憂慮の念を表明しています。

知事選への関心が低下し、投票率が下がるとどういうことになるのか。同紙はこれまで同県知事選で投票率の下がった2回のケースを挙げて、いずれの選挙も「大差がついた」のが共通する特徴だ、としています。大差がついたのは投票率の低下にともなっていわゆる組織票がものをいう選挙になった、ということを意味しているでしょう。投票率の低下は組織力と組織動員力に勝れる候補者の側が有利になる、というのは選挙の鉄則、あるいは経験則といってよいものです。

このことを沖縄県という風土に即してみると、同県の経済団体、業界団体はすでにこぞって仲井真候補(現知事)支持(「自主投票」を余儀なくされているところもありますが)を打ち出しています(「組織の支持固まる 県知事選」 沖縄タイムス 2010年11月17日)。そうして、沖縄は、「土建・建設業に携わる者は自分たちの親族の中に必ずひとりいる」といわれるお国柄です(むろん、戦後の「本土」政府の沖縄に対する差別的なアメとムチの政策を否応なく反映している結果でもあるわけですが)。また、沖縄は、血縁主義的なきずなが強く、この関係は、沖縄の「親族の相互扶助のメカニズム」として強く機能しているとも指摘されています。この「親族の相互扶助のメカニズム」が沖縄の保守の動員力の原動力となっており、また、左翼が動員にたびたび失敗してしまう最大の原因になっていると指摘されているところでもあります。すなわち、投票率の低下は、そうした「親族の相互扶助のメカニズム」からなる組織票獲得に有利に働く懸念があるわけです。

また、沖縄は、しばしば「創価学会王国」とも呼ばれてきました。 2009年の衆院選の比例代表選挙では創価学会を母体とする公明党の同県での得票率は全国第1位で12万票余の得票を得ています。また、今年の参院選の比例代表選挙でも公明党の同県での得票率は全国第3位で約9万5千票の得票を得ています。投票率の低下は、当然、この公明党、創価学会の組織票の力をさらに大きなものにしていく要因にもなります。

「県知事選挙が盛り上がらない」原因、また「浮動層の知事選への関心を低下させる」原因が沖縄タイムスの社説のいうように「2人の有力候補が米軍普天間飛行場の移設問題で、『県外』『国外』への移設を主張し、争点がぼやけてしまったこと」に仮にあるのだとすれば、私たちは、争点は決してぼやけているわけではないこと、「県内移設反対」と「県内移設不可能(条件付き賛成)」という争点は伊波候補と仲井真候補との間には画然として明らかに存在していること。仲井真候補のいう「県外移設」の主張は選挙前になって急遽唱えだした選挙戦術のための付け焼き刃の主張でしかないこと。その論よりの証拠として仲井真候補は決して「県内移設」反対を明言することはせず、「『県内移設』反対を曖昧にすることによって、『県外移設』を唱えつつ、『県内移設』で政府と議論する余地も残そうとしている」(目取真俊 海鳴りの島から 2010年11月12日付)まやかしの言説を弄していることを沖縄の有権者のみなさんにもっともっと広範に知っていただく努力をあと1週間総力をあげて展開していく必要があるように思います。

上記のことについて以下に書いています。再度掲げておきます。ご参考にしていただければ幸いです。


ところで、私は、上記ブログ記事において、佐藤優が沖縄県知事選について論じた「『義挙』の容認は危険」(「佐藤優のウチナー評論」 琉球新報 2010年11月13日付)という評論について次のような批判をしておきました。

佐藤は仲井真氏と伊波氏を同列に並べて「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」と述べていますが、この論じ方に私は彼の意図的なトリックを感じます。佐藤は『県外移設』という言葉こそ最近口にしだしたものの「県内移設反対」とは絶対に言わない仲井真氏を当選させたいと本音のところでは思っているのです。しかし、普天間基地の県外移設を強く求める沖縄県民の「民意」の前ではそのことをあからさまにすることはできない。そこで「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」などと間接的に仲井真氏をバックアップする論陣を張ろうとしているのです。私たちはこの佐藤のトリックにだまされてはならないでしょう。

佐藤優は、上記で私が批判した「『義挙』の容認は危険」(「佐藤優のウチナー評論」 琉球新報)という評論の論理とまったく同じ論理を『週刊金曜日』の先週号(2010年11月12日/823号)の誌上で展開しています。佐藤優の保守擁護(具体的には仲井真擁護)のためのトリック論法は上記に見たとおりですが、私が改めて驚き呆れざるをえないのは、その佐藤の論を主軸に佐藤優責任編集として「沖縄と差別」という特集を組んでいる『週刊金曜日』という公称「革新」メディアの姿勢です。

その「沖縄と差別」という特集の冒頭のページのリード文には同誌編集部の手によって次のように書かれています。

一一月二八日投開票の沖縄県知事選挙は、極めて重要な意味を持つ。それは沖縄にとってだけでなく、日本の将来にとっても及ぼす影響は大きい。しかし、残念ながら多くの人々にそのことは理解されていない。この特集では、現在の激しい選挙戦からは距離を置き、沖縄が置かれている本質を取り上げる。本質とは、東京の政治エリートがつくりだす構造的差別について考えることだ。沖縄・久米島出身の母親を持つ佐藤優さんの責任編集で特集を組む。

『週刊金曜日』編集部は公称「革新」メディアという手前もあって「沖縄県知事選挙は、極めて重要な意味を持つ」と一応は言っているものの、同号発売の日には同知事選の激しいつば競り合いが繰り広げられているこの時期に「現在の激しい選挙戦からは距離を置き、(略)東京の政治エリートがつくりだす構造的差別について考える」などというなんとも遠大なご高説をのたまわっているのです。この『週刊金曜日』のスタンスには、「沖縄の民意」を代表して普天間基地建設反対を明確に掲げて立候補している伊波候補支援のためにメディアとしてできうる最大の論陣を張ろうなどという革新メディアとしての使命感など微塵も感じることはできません。佐藤優と同様に『週刊金曜日』編集部も伊波氏と仲井真氏とを同列に並べて論じようとしているのです。そこには「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」などと言う佐藤のトリック論法に欺かれて、そのことに気づきもしないおよそ革新メディアとは言いがたいメディアの惨たらしい敗残の姿しか認めることはできません。

本記事があまりに長くなるきらいもありますので、同特集において佐藤優が展開している論の珍奇さについてはここではこれ以上触れないことにします。最後に佐藤優、糸数慶子、佐高信による同特集の座談会「沖縄人宣言のすすめ」を若干批判しておきます。

同座談会の冒頭で佐藤は次のように言います。

米海兵隊、普天間飛行場の県内移設反対は、実質的に一騎打ちとなっている知事候補者の二人とも主張している。なのに、沖縄で示された民意はひっくり返すことができると東京の政治エリート(政治家、官僚)は驕っています。

そうして朝日新聞などのメディアの記者も東京の政治エリート(政治家、官僚)と「同じ視線」でモノを見ている、と「本土」のメディア批判をします。左記の佐藤の論法の本旨は、すでに上記で見たように伊波氏と仲井真氏を同列に置くことによってさも両者を「対等」に取り扱っているように装い、実質的に仲井真氏をバックアップしようとしているところにあるのです。

にもかかわらず対談者のひとりの糸数慶子氏は「たしかにひどい書き方でした」と応じます。糸数氏はさらに佐藤の「自民党沖縄県連も公明党沖縄県本部も主張は『県外移設』ですよね」という誘い水に乗って「そうですね」と応えます。しかし、糸数氏は、「そうですね」と言ってしまってはいけなかったのです。自民党県連や公明党県本部がいう「県外移設」の主張は決して「県内移設反対」の主張ではないことを事実をもって反駁する必要があったでしょう。

また、佐藤の「『仲井眞は裏切るかもしれない』という"消耗戦"に巻き込まれてはいけません。それは、沖縄の民主主義を内側から壊すことになります」という論法に対して、佐高信氏は「最初から変節を疑うのは良くないということですね」と応じます。しかし、これも佐高氏は、仲井真氏の「県外移設」の論は選挙前になって急遽唱えだした選挙戦術のための付け焼き刃の主張でしかないこと。その証拠に仲井真氏は決して「県内移設」反対を明言しないこと、を事実をもって反駁する必要があったでしょう。

私はいま沖縄県知事選挙において『週刊金曜日』が果たそうとしている「犯罪的」といってよい負の役割の重大さを思います。『週刊金曜日』はまかりなりにも革新メディアを公称しているのです。革新メディアの役割とはなにか、を『週刊金曜日』編集部、そして同誌編集委員には真摯に反省していただきたいものです。

沖縄県知事選は28日の投票日まで1週間を切りました。私たちは総力をあげて仲井真陣営の「県外移設」の主張のウソを暴いていく必要があるように思います。

「写真で見る・知る沖縄」ブログ(2010年11月20日付)より



本日(2010年1月22日)の「写真で見る・知る沖縄」ブログには沖縄タイムス・朝日新聞・QABと共同通信の沖縄県知事選中盤情勢調査の記事がアップされています。


●沖縄タイムス・朝日新聞・QAB共同中盤情勢調査(沖縄タイムス 2010年11月22日)
「伊波・仲井真氏 競り合う」「無党派層でほぼ互角」「2割、態度示さず」
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-11-22_12211/
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-11-22_12215/

●共同通信世論調査(共同通信 2010年11月22日)
「仲井真氏わずかに先行」「伊波氏猛追 2割未定」
http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010112101000422.html


伊波・仲井真氏 競り合う 県知事選中盤情勢(沖縄タイムス 2010年11月22日)
 28日に投開票される沖縄県知事選で、沖縄タイムス社は朝日新聞社、琉球朝日放送と共同で20、21の両日、県内の有権者に電話調査し、取材で得た情報と合わせて中盤の情勢を探った。新顔で前宜野湾
市長の伊波洋一氏と、現職の仲井真弘多氏が激しく競り合っている。幸福実現党公認の金城竜郎氏は厳しい。ただ、有権者の2割が投票態度を明らかにしておらず、終盤にかけて情勢は変わる可能性もある。

 投票態度を明らかにした人を分析すると、全体の6割を占める無党派層では、伊波氏と仲井真氏への支持がほぼ互角となっている。民主党は今回、独自の候補を擁立しなかったが、民主支持層をみると、伊波氏、仲井真氏への支持は伯仲している。

 また、伊波氏は推薦を受けた共産、社民の両党の支持層をほぼ固めたのに対し、公明と自民県連などの推薦を受けた仲井真氏も、両党支持層をまとめた。

 米軍普天間飛行場の移設問題では、伊波氏が「国外・県外」、仲井真氏が「県外」への移設を主張しているが、この問題をどのように解決するのが最も望ましいと思うか、情勢調査と併せて行った世論調査で尋ねた。その結果、「国外」と答えた人が57%を占め、「県内」18%、「本土」15%だった。

 このうち「国外」を選んだ人では伊波氏への支持がやや厚く、「県内」「本土」と答えた人はそれぞれ7割以上が仲井真氏を支持している。

 投票する際に何を一番重視するか、四つの選択肢から選んでもらった質問では、「経済の活性化」が49%で最も多く、次いで「基地問題」の36%が多かった。「経済の活性化」を最も重視する人のなかでは仲井真氏、「基地問題」を最も重視する人のなかでは伊波氏への支持が厚い。年代別に見てみると、伊波氏への支持は50代と60代が多めで、仲井真氏への支持は70歳以上でやや厚めだ。

 職業別では、伊波氏は事務・技術職層と主婦層で、仲井真氏は製造・サービス従事者層で支持が厚い。

 地域別にみると、伊波氏は沖縄本島の中部で、仲井真氏は南部で支持を広げている。

仲井真氏わずかに先行 共同通信世論調査 伊波氏猛追 2割未定(沖縄タイムス 2010年11月22日)
 任期満了に伴う沖縄県知事選(28日投開票)で共同通信社は20、21両日、電話による世論調査を実施し、取材結果を加味して情勢を探った。自民党県連から支援を受けて再選を目指す無所属現職の仲井真弘多氏(71)=自民県連、公明、みんな推薦=がわずかに先行し、無所属新人の前宜野湾市長伊波洋一氏(58)=社民、共産、社大、国民新、新党日本推薦、そうぞう支持=が激しく追う展開となっている。

 ただ、20%以上が投票先を決めていない状態。知事選に「大いに関心がある」と「ある程度関心がある」の合計が87・8%に達し、4年前の前回知事選時の調査を約3ポイント上回るなど有権者の関心は高く、情勢は大きく変化する可能性がある。

 焦点の米軍普天間飛行場移設問題では、日米合意に基づく名護市辺野古崎地区への移設を「容認できる」は24・3%。逆に「容認できない」が62・1%となり、県民の反発の根強さを裏付けた。

 「容認できる」のうち7割弱は、県外移設を求めながらも県内移設反対とは明言しない仲井真氏を支持。これに対し「容認できない」の半数は、県内移設反対と国外移設を前面に訴える伊波氏を支持するが、仲井真氏にも3割弱が流れている。

 仲井真氏は自民、公明両党支持層の8割前後に浸透。伊波氏も共産、社民、社大3党の支持層の約8割、国民新党支持層の7割超を固めた。無党派層では伊波氏がわずかに優位だが、両氏とも3割台の支持にとどまり、態度未定の3割の行方が注目される。

 自主投票とした民主党の支持層は、両氏による激しい争奪戦を反映し、それぞれの支持が約4割と真っ二つに割れた。諸派新人の幸福実現党員金城竜郎氏(46)は支持が広がっていない。

仲井真氏わずかに先行 沖縄知事選、伊波氏猛追(共同通信 2010年11月22日)
 任期満了に伴う沖縄県知事選(28日投開票)で共同通信社は20、21両日、電話による世論調査を実施し、取材結果を加味して情勢を探った。自民党県連から支援を受けて再選を目指す無所属現職仲井真弘多氏(71)=公明、みんな推薦=がわずかに先行し、無所属新人の前宜野湾市長伊波洋一氏(58)=共産、社民、国民新、日本、沖縄社大推薦=が激しく追う展開となっている。

 ただ、20%以上が投票先を決めていない状態。知事選に「大いに関心がある」と「ある程度関心がある」の合計が87・8%に達し、4年前の前回知事選時の調査を約3ポイント上回るなど有権者の関心は高く、情勢は大きく変化する可能性がある。

 焦点の米軍普天間飛行場移設問題では、日米合意に基づく名護市辺野古崎地区への移設を「容認できる」は24・3%。逆に「容認できない」が62・1%となり、県民の反発の根強さを裏付けた。

「写真で見る・知る沖縄」ブログ(2010年11月22日付)より



この憤ろしい沖縄の現実。


米軍に判決拒否権 基地従業員解雇控訴審 米優位の協約判明 原告勝訴でも復職困難(沖縄タイムス 2010年11月18日)
 米国人上司のパワハラで不当に解雇されたとして、米軍キャンプ瑞慶覧で自動車機械工として働いていた北中城村の安里治さん(49)が、処分を承認した国を相手に解雇取り消しなどを求めた訴訟の控訴審は17日、福岡高裁那覇支部(橋本良成裁判長)で和解協議があり、国側が「米軍が復職を受け入れる見込みは厳しい」との考えを示し、和解に至らなかった。12月7日に判決宣告される見通しだが、解雇無効の判決が確定した場合でも、米軍側が日米間で定めた諸機関労務協約をたてに復職を拒むことができることが分かった。

 基地従業員の雇用契約で、日本の司法判断よりも米軍の裁量が優先される協約が日米間で結ばれていることも明らかになった。

 同協約では、日本の裁判所で解雇無効の判決が確定した場合、「安全上の理由による解雇」を除く訴訟事案については、裁判所の判決によって国が解雇された従業員を復職させる義務を負い、米軍はこれを履行すると定められている。しかし、日米の協議の結果、「安全上の理由による解雇」と判断された場合は、米側が復職を拒むことが可能になる。

 国側は高裁からの和解勧告後、在沖米4軍に復職受け入れを打診したが、海兵隊はすでに拒否し、残る3軍も厳しい見込みとの認識を示したという。

 原告弁護団によると、国側はこの日の協議で、判決確定後の対応について、「同協約通りに対応をする」とし、原告が復職できない可能性もあるとの認識を示したという。

 原告弁護団の池宮城紀夫弁護士は「裁判所の判決に反するような労働協約が結ばれていること自体極めておかしい。日本の主権はどこにあるのかとあきれてしまう。植民地的な協約だ」と話した。

 4月の一審・那覇地裁判決は、安里さんが米国人上司を励ますために、別の米国人上司に対して「ウチクルス」と言ったことについて、「上司に対する不満等を暴力的な言葉を使用した表現にとどまり、解雇事由に当たらない」とし、解雇無効とその間の賃金のほぼ全額の支払いを認定していた。

[ことば]
 諸機関労務協約  在日米軍が必要とする労働力を提供するために防衛省が米軍との間で結ぶ労務提供契約の一つ。ほかに基本労務契約、船員契約がある。この契約に基づき、防衛省は基地従業員を雇用して米軍に提供し、米軍は使用者として職場で従業員を指揮・監督する。1961年締結、発効。

「奴隷の職場か」反発 米軍優位の労務協約 識者 政府に改善要求(沖縄タイムス 2010年11月18日)
 「奴隷的な職場になってしまう」―。福岡高裁那覇支部の和解協議で、地裁判決で解雇無効が言い渡された基地従業員に対して、米軍が日米で交わされている労務協約をたてに復職を拒む姿勢を見せていることが明らかになった17日、関係者からは基地従業員と米軍の対等な労使関係を求める声が相次いだ。

 全駐労沖縄地区本部の座間味寛書記長は「(協約内容が)米軍優位なことが往々にしてある。不平等を是正してほしいが、米軍の合意がないとできない。今後も対等な労使関係を求めていきたい」と話した。

 社会保険労務士の吉田務さんは「ウチナーグチのウチクルスは、『打って殺す』という意味ではなく、せいぜい、『やっつけてやる』ぐらいの一時的、感情的な発言と取るのが一般的だ。労働基準法でも会社の就業規則でも、解雇理由にはなり得ない」と指摘。その上で「明らかに不当、不法解雇。地裁判決が正しいにもかかわらず、米軍が従わず、解雇が認められれば、憲法が定める勤労権より米軍の管理権が優先されることになる。基地従業員は悪口も何も言えない、奴隷的な仕事ということになってしまう」と強い危機感を示す。

 米軍の実態に詳しいピースデポの梅林宏道代表は「米軍に権限があるとしても『安全上の理由』は軍事機密にかかわる問題などに限定される」と対応を批判。

 日本政府の対応については、「自身が雇用者である日本人労働者よりも米軍の意向を優先している。米軍が日本の裁判所の判断に従うのは当然のことだ」と強調した。

 地位協定に詳しい本間浩法政大学名誉教授は、協約が日米間で合意されているため「内容をひっくり返すのは困難」とした上で、「安全上の理由」との判断基準について、「米側の判断が合理的に正当性があるか雇用主の日本政府が見直さないといけない。正当性がなければ、米側の主張を撤回させるために積極的に意見を述べる姿勢が求められる」と指摘した。

 防衛省は沖縄タイムスの取材に対して、「(高裁で)解雇無効の判決が出された場合、復職を求める方向性で、できるだけ早く米軍と協議することになる」と答えた。

「写真で見る・知る沖縄」ブログ(2010年11月18日付)より



《沖縄県知事選 7日目の情報》

2010年1月17日付けの「写真で見る・知る沖縄」ブログには「学者文化人の会 伊波氏支持表明」の記事をはじめ以下の記事がアップされています。


なお、同ブログ16日付には以下の記事もアップされています。


なおまた、沖縄県知事選挙関連情報として琉球新報の沖縄県知事選挙特集頁に以下のデータがアップされています。

データに見る知事選
・沖縄県知事選 過去の得票数と投票率の推移
・沖縄県知事選 市町村別得票数で見る保革分布推移
・沖縄県知事選 過去1年間の県内市長選挙結果
・沖縄県知事選 前回知事選以降の期日前投票推移

《沖縄県知事選 8日目の情報》

2010年1月18日付けの「写真で見る・知る沖縄」ブログには「国民新党、新党日本は伊波氏を推薦」の記事のほかに以下の記事がアップされています。


参考:
《沖縄県知事選 各地の情勢2》 南部の保守地盤に伊波氏はどこまで浸透できるか。(2010年11月17日)
《沖縄県知事選 各地の情勢1》 那覇市は当落を左右する決戦場(2010年11月16日)
  
このほか18日付けの「写真で見る・知る沖縄」ブログには、治外法権下している「沖縄の現実」をいまさらながらに見せつけられる憤りに満ちた「沖縄の現実」の記事(沖縄タイムス)がアップされています。なお、このニュースについては別立てでエントリします。

「写真で見る・知る沖縄」ブログ(2010年11月17日付)より



今日(11月15日)の「写真で見る・知る沖縄」ブログの「《沖縄県知事選》 仲井真氏先行 伊波氏が猛追」という記事では琉球新報の同序盤情勢世論調査記事を含めて下記の4つの記事の写真がアップされています。

・仲井真氏先行 伊波氏が猛追 3割は態度未定 「関心がある」9割
・仲井真氏 那覇で浸透
・伊波氏 中部で拡大
・県内反対が7割(注:普天間飛行場返還・移設問題)

本紙の取材を加味して序盤情勢を探ると、無所属現職の仲井真弘多氏(71)=自民党県連、公明、みんなの党推薦=が一歩先行し、無所属新人で前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)=社民、共産、社大推薦、そうぞう、国民新党県連支持=が追い上げる展開となっている。

「3割近くの有権者が投票する人をまだ決めていないことから、今後の情勢は流動的で、残り2週間の攻防が当落を左右する。

今回の知事選に関心があると回答した人は全体の88・5%を占めた。投票に「必ず行く」「たぶん行く」と回答した人も94・5%に上り、選挙への関心の高さを示した。

地域別では、仲井真氏が大票田の那覇市で先行し、本島南部でも勢いがある。伊波氏は地元の宜野湾市でリードするなど、本島中部で浸透を見せる。

普天間飛行場返還・移設問題で、名護市辺野古への移設の是非を聞いたところ「反対」が68・1%、「賛成」は18・7%だった。先島地域への自衛隊配備の是非では「反対」が43・8%で、「賛成」の37・0%を上回った。


関連:
仲井真氏先行伊波氏が猛追 琉球新報・OTV電話世論調査(琉球新報 2010年11月15日)
 28日に投開票される第11回県知事選が11日に告示されたことを受け、琉球新報社と沖縄テレビ放送は合同で12?14の3日間、県内11市の有権者を対象に電話世論調査を実施した。本紙の取材を加味して序盤情勢を探ると、無所属現職の仲井真弘多氏(71)=自民党県連、公明、みんなの党推薦=が一歩先行し、無所属新人で前宜野湾市長の伊波洋一氏(58)=社民、共産、社大推薦、そうぞう、国民新党県連支持=が追い上げる展開となっている。

 無所属新人で幸福実現党の金城竜郎氏(46)は伸び悩んでいる。ただ3割近くの有権者が投票する人をまだ決めていないことから、今後の情勢は流動的で、残り2週間の攻防が当落を左右する。

 調査では、今回の知事選に関心があると回答した人は全体の88・5%を占めた。投票に「必ず行く」「たぶん行く」と回答した人も94・5%に上り、選挙への関心の高さを示した。

 地域別では、仲井真氏が大票田の那覇市で先行し、本島南部でも勢いがある。伊波氏は地元の宜野湾市でリードするなど、本島中部で浸透を見せる。

 政党支持別では、自民党が支持率を23・9%に回復させてトップとなり、仲井真氏は自民支持者の8割超を固めていることが追い風になっている。伊波氏は社民、共産、社大支持層の7?8割を固める。民主党の支持率は自民に次ぐ12・5%で、伊波氏が6割を取り込んでいる。

 一方、支持政党なしと答えた人が4割近くを占めており、無党派層の動向は今後の焦点となる。

 早急に取り組んでほしい県政の課題(複数回答)は「基地問題・普天間問題の解決」(47・9%)、「経済対策・産業振興」(47・3%)が拮抗(きっこう)して高く、「医療・福祉」「子育て支援・教育対策」と続いた。

 普天間飛行場返還・移設問題で、名護市辺野古への移設の是非を聞いたところ「反対」が68・1%、「賛成」は18・7%だった。先島地域への自衛隊配備の是非では「反対」が43・8%で、「賛成」の37・0%を上回った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 【調査方法】12?14の3日間、県内の有権者を対象に、コンピューターで無作為に作った番号に電話をかけるRDD(ランダム・デジット・ダイヤリング)方式で実施した。有権者がいる世帯にかかったのは823件で、514件の回答を得た。

付記:
今日(11月15日)の「写真で見る・知る沖縄」ブログには一昨日の13日に発信した「佐藤優の論に異議あり ――本日の「写真で見る・知る沖縄」ブログ」という私の記事も紹介されていました。

《佐藤優の論に異議あり》 ブログの紹介(写真で見る・知る沖縄 2010年11月15日)

「写真で見る・知る沖縄」ブログには上記の弊記事をトラックバックしておいたのですが、同ブログ主宰者の我樹丸さんは弊記事を「貴重なご意見」だとしてご自身のブログに紹介してくださいました。真意が通じることこそうれしいことはありません。沖縄県知事選勝利のための情報発信をさらに期待します。もちろん私も沖縄に連なる「本土」の人間のひとりとしてささやかながらも情報発信を続けていく所存です。

なお、「きまぐれな日々」主宰者の古寺多見さんも「尖閣ビデオ流出事件の西山太吉インタビューと沖縄県知事選」という記事で「仲井真弘多のみならず、佐藤優にも『ノー』を突きつけない限り、『本土』と沖縄の再分配問題は前に進まない、と強く主張する次第である」というコメントを付加して上記の弊記事を紹介してくださっています。付記の付記として紹介させていただくしだいです。


今日の「写真で見る・知る沖縄」ブログより



今日(11月13日)の「写真で見る・知る沖縄」ブログは下記の7本の琉球新報と沖縄タイムスの本日付記事を転載しています。

■《沖縄県知事選 政策対決》? 【基地問題】
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_5cdc.html
■《沖縄県知事選》 知事経験者の見方 大田昌秀氏と稲嶺恵一氏 
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_d2a2.html
■《沖縄県知事選》 【政府の視線】 現職へ”戦略なき期待感”
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_13e9.html
■《沖縄県知事選 中央政党に聞く》 その他の4政党
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_93c2.html
■《沖縄県知事選》 下地氏、伊波候補支持へ。
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_4920.html
■《普天間》 オスプレイ配備、知らぬ存ぜぬは止めよ
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_2003.html
■《佐藤優》 尖閣問題での『義挙』の容認は危険。
http://gajuma.blogzine.jp/okinawa/2010/11/post_decd.html

そのご努力は多としたいのですが、上記のアップ記事のうち佐藤優のウチナー評論「『義挙』の容認は危険」という琉球新報記事(2010年11月13日付)を無批判にアップしている点には少し以上の疑問を感じます。

佐藤優は上記の「評論」の中で次のように述べています。

11月28日の沖縄県知事選挙は、事実上、仲井真弘多氏と伊波洋一氏の一騎打ちとなる。いずれの候補が当選しても、外務官僚、防衛官僚が望む米海兵隊普天間飛行場の県内移設を認めることにはならない。(略)そのために、仲井真候補も伊波候補も、選挙で当然生じる感情的しこりが、官僚に付け込むすきを与えないように『戦後処理』を考えながら選挙戦を展開してほしい。

佐藤は仲井真氏と伊波氏を同列に並べて「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」と述べていますが、この論じ方に私は彼の意図的なトリックを感じます。佐藤は「県外移設」という言葉こそ最近口にしだしたものの「県内移設反対」とは絶対に言わない仲井真氏を当選させたいと本音のところでは思っているのです。しかし、普天間基地の県外移設を強く求める沖縄県民の「民意」の前ではそのことをあからさまにすることはできない。そこで「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」などと間接的に仲井真氏をバックアップする論陣を張ろうとしているのです。私たちはこの佐藤のトリックにだまされてはならないでしょう。

この点について、沖縄在住の作家の目取真俊さんは次のように指摘していました。

「佐藤優のウチナー評論」を読む 1(海鳴りの島から 2010年6月27日)
「佐藤優のウチナー評論」を読む 2(海鳴りの島から 2010年6月27日)

琉球新報で毎週土曜日に連載されている〈佐藤優のウチナー評論〉で、佐藤氏が〈平成の琉球処分その4〉(2009年6月19日付)、〈平成の琉球処分その5〉(同6月26日付)と題して、沖縄の〈革新〉と〈保守〉への提言を行っている。一見、双方を対等に扱い中立の立場から提言しているかのように見せかけているが、内容はといえば〈革新〉を批判する一方で〈保守〉を礼賛し、〈目に見えない沖縄党を強化しよう〉という美名の下に、沖縄の総保守化を促しているにすぎない。

佐藤氏が提起しているのが、〈保守〉陣営を厳しく批判するなということであり、具体的には仲井真知事への〈評価〉を厳しくせず、〈非難〉をするなと主張している。佐藤氏はこう書いている。/〈まず、革新陣営に苦言を呈する。あなたたちは、頭がいい。しかし、過剰な美学がある。小さなプライドが強すぎる。他者に対して厳しすぎる。『正しいことをやっているからわれわれについて来るのが当たり前だ』というおごりがある。/(略)〈あなたたちは、頭がいい〉といったん持ち上げたうえで〈革新陣営〉をこき下ろすその内容の浅はかさ、傲慢さには辟易させられる。

佐藤氏は〈沖縄人としての本物の矜持を持とうではないか〉だの、〈保守陣営も革新陣営も、もっと深く沖縄を愛そうではないか〉などと書いているが、よくもこういう言葉を、沖縄で生まれ育ち、何十年も沖縄で生きてきた琉球新報の大多数の読者に向かって書けるものだ。沖縄人としての矜持の持ち方や沖縄の愛し方は、人それぞれ多様であっていい。佐藤氏が偉そうに沖縄に住む沖縄人に教えさとす類の問題ではない。夜郎自大も大概にしてもらいたいものだ。

目取真俊さんは昨日の記事でも佐藤優が「いずれの候補が当選しても、県内移設を認めることにはならない」と言う一方の候補者の仲井真氏の「県外移設」の正味の中身について次のような指摘をしています。

「県外移設」と辺野古微修正(海鳴りの島から 2010年11月13日)

昨日11日に沖縄県知事選挙が告示された。再選を目ざして立候補した仲井真氏は、選挙前になって普天間基地の「県外移設」を唱えだした。一方で、「県内移設」反対を明言することはせず、名護市長選挙・市議会議員選挙の結果や県民世論の変化など外部環境の変化を理由に挙げて、「県内移設」は不可能、という状況認識を示すにとどめる手法を貫いている。「県内移設」反対を曖昧にすることによって、「県外移設」を唱えつつ、「県内移設」で政府と議論する余地も残そうとしている。

それを見透かしているからこそ、普天間基地の「県内移設」(辺野古新基地建設)を是が非でも進めようとしている民主・国民新政権や自民党本部、名護市の移設「容認」派議員たちは隠然、公然と仲井真氏を応援している。仲井真氏の「県外移設」が本物なら、彼らも応援しようがないだろう。「県内移設」を進めようとしている者たちが応援していること自体が、仲井真氏の唱える「県外移設」の内実を明らかにしているのである。

選挙に当選したら公約をひっくり返す政治家の醜態を、沖縄県民はこの1年余でさんざん見せられてきた。110メートル以内の沖合移動という「微修正」で政府と「決着」する寸前までいっていた仲井真氏が、選挙前になって唱えだした「県外移設」。外部環境=吹く風しだいでひっくり返る軽い公約はもういい。いま沖縄に必要なのは、沖縄に新たな基地は決して造らせない!「県内移設」反対!を明確に打ち出し、それを貫くことだ。

もう一度繰り返します。私たちは佐藤優のトリックにだまされてはならないでしょう。佐藤の繰り出すレトリックは仲井真氏を当選させたいがためのレトリックにすぎないのです。

今日の「写真で見る・知る沖縄」ブログより



毎日の琉球新報や沖縄タイムスの主だった記事をスキャナに読み込んでそのままアップしている「写真で見る・知る沖縄」というブログがあります。ご存知の方も少なくないと思います。琉球新報や沖縄タイムスの記事は電子版でももちろん読むことはできますが、現物(の写真)をナマで見るのとではやはり迫真性というか迫力がまったく違います。それに同ブログでは電子版にはアップされていない興味ある記事を掲載していることも多い(どちらかというとその方が多い)のでとても参考になります。

その「写真で見る・知る沖縄」ブログの主宰者の我樹丸さんが今日のブログで次のように宣言しています。

いよいよ、今日は沖縄県知事選の告示日。新人の伊波洋一氏と、現職の仲井真弘多氏の一騎打ちとなった。我樹丸は本ブログを通じて、全国の皆さんに選挙当日まで沖縄の生々しい状況を伝えていくことにする。

本日(2010年11月11日付)アップされている記事は次の6本。


沖縄県知事選情報を知るひとつのツールとして「写真で見る・知る沖縄」ブログを利用されてはいかがでしょうか。

今日の「写真で見る・知る沖縄」ブログより




 年越し派遣村 労働相談風景

「Afternoon Cafe」ブログを主宰する秋原葉月さんが今日付けで「今年は派遣村を開設しないそうです」という記事を書かれています。

今年は派遣村を開設しないそうです(Afternoon Cafe 2010年11月10日)

秋原さんは次のように書いています。

去年公約通りに政府が初めて貧困率を調査して1年たちます。/しかし貧困問題に関してあれから何の政策も採られず、状況は何にも変わりません。もちろん貧困率も高いままです。/せっかく貧困率を調査しても、それを改善する政策がとられなければ何の意味もありません。/セイフティネットの張り直しや派遣法見直しなど、貧困問題を解決する抜本的政策は全く手つかず。牛の歩みどころか、完全に停滞したままです。/新政権発足から1年以上たつのに、政府はこれら待ったなしの政策に何故ちっとも取りかかることができないのでしょう?/私にはその理由がまったくわかりません。/そんななか、今年は派遣村開村が見送られることになったようです。/そういえば去年石原都知事が、もう派遣村なんかやらないって随分不機嫌にしてましたから、それが一番の理由なのかも。

「大事なのは年間を通して(対策に)取り組んでいくこと。」というのはその通り正論です。従って「年間を通して対策に取り組み効果もあがっているから、もうあらためて年末の派遣村を開く必要はなくなった」というのなら話は分かります。/でもお世辞にもそうだとは言えないのに派遣村を開かないと決めたのは、生活困窮者の意向より派遣村が大嫌いな都知事の意向を優先したから。/で、その罪滅ぼしに、年越し前の生活支援強化を行うことにした、という印象を受けます。

上記の「大事なのは年間を通して(対策に)取り組んでいくこと」というのは、「セーフティ・ネットワーク実現チーム」主査の小宮山洋子厚生労働副大臣の言葉のようです。産経新聞(2010年11月9日付)によれば小宮山副大臣は次のように語っています。「昨年は年末年始に住居の提供や就業の相談を行ってきたが、大事なのは年間を通して(対策に)取り組んでいくこと。全力を挙げて(役所が開いている)12月28日までやっていく」。共同通信(同月同日付)によればこの部分は次のようになっています。「厚労省の小宮山洋子副大臣は会合後の記者会見で『派遣村が必要とならないよう、(役所が開いている)12月28日まで周知に全力を挙げる』と話した」。小宮山副大臣は「派遣村が必要とならないよう全力を挙げる」と語ってはいますが、「今年は派遣村を開設しない」とは断言していません。左記の小宮山副大臣の言葉は次の元派遣村村長の湯浅誠・内閣府参与の発言とも呼応します。「年末年始の対応はするとも、しないとも言えない」(朝日新聞 同月10日付)。ですから、「今年は派遣村を開設しないそうです」「『派遣村』見送りへ」といってしまうのは秋原さんや産経新聞の少し早とちりのようです。もう少し様子を見てみる必要があるように思います。

しかし、秋原さんの次のご指摘はそのとおりだと思います。

この年末支援強化も官公庁の御用納めの12/28までです。/一昨年末に年越し派遣村が開村されたのは、年末年始は役所が休みでハロワもないのでホームレス等の生活困窮者が特にこの厳寒時期に深刻な状況に陥る危険があったからでした。/それを思えば国や地方公共団体は12/28までで店じまいするのではなく、引き続き生活困窮者が寒さをしのぎ年を越せる支援を行うべきではないでしょうか。

派遣村は「貧困問題を可視化して、突きつける」ことに大きな役割を果たしていると思います。/貧困問題というのは放っておけば決して人々の見えないものです。それを見えるようにしたのが派遣村です。/しかし、もしこれをきっかけに今後派遣村が開設されない流れになってしまったら、せっかく可視化しかけた貧困問題が再び見えないところに一歩後退させられ、人々の意識から遠ざけられてしまうような気がします。貧困問題について自民党政権並みに何もせず、派遣法改正すら遅々として進まない現政権にとって、それはきっと好都合なことでしょう。日本ではまだまだ貧困問題を可視化していく必要があると私は感じます。

そういう意味では、湯浅さんの「年末年始の対応はするとも、しないとも言えない」という発言は少し不満ですね。内閣府参与という立場では言いにくいこともあるのでしょうが、この不景気の嵐の中で、仮に政府一丸となって「全力を挙げ」たとしてもお役所の都合どおりに12月28日までに貧困問題、ホームレス問題が一挙に解決するとは常識的に考えられません。湯浅さんは先の記者会見では「仮に政府が年越し派遣村を開設しない場合でも、これまでどおり自立生活サポートセンター・もやいをはじめとするNPOや労働組合、ボランティアの協力によって年越し派遣村は何があっても開設する」とつけ加えるべきではなかったでしょうか? そうすれば内閣府参与がそこまで言うのであれば、と政府をさらに突き動かす力にもなりえたのではないか、と思うのです。

以下、少しばかり今年の年越し派遣村に関する報道のリンクを貼っておきます。


 芦生の森


 芦生の森 冬の目
 「芦生原生林の博物誌」より

あるメーリングリストで白髪岳?市房山?球磨川源流と続く九州脊梁や京都の芦生の森のシカの害の問題、同脊梁のクマザサがおおかた全滅している問題、また、京都の山のミズナラやコナラ枯れの問題などが話題になっていました。芦生の森では林床植生はオバアサガラやイグサ類、イワヒメワラビなどシカが食べない物が残っているだけ、という報告もありました。その中で芦生の森の「芦生」は「あしう」かそれとも「あしゅう」か、という話題も。少しその「芦生」の読み方の問題に割って入りました。


なにか懐かしい便りを聴くような思いで「山の荒廃」の往復便を拝読させていただいています。もう半世紀以上も続いているNHKラジオの「ひるのいこい」をドライブのついでなどにたまに聴いていると「○○県の○○農林水産通信員からのお便り・・・・」というアナウンサーの声が耳に心地よく流れてきます。農業・漁業関連のニュースだったり、季節の話題だったり、地方の行事の案内だったりします。なにかジーンとくるのですよね、あの「便り」。そこに人びとの暮らしと営みの基本形が感じられるからかな・・・・。聴いていて、ときどき涙が出たりします。そんな感じで「山の荒廃」の往復便読ませていただいています。

「芦生」の読み方に興味を惹かれたので少し調べてみました。

「芦生」はこんなところなんですね。とても心惹かれるところです。

http://www.nhk.or.jp/sawayaka/ashiu.html

ところでウィキペディアによると「芦生」は「あしう」と読むようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%9F%E5%8E%9F%E7%94%9F%E6%9E%97

しかし、「他府県の方へ、『芦生』の読み方は『あしう』です。人によっては『あしゅう』と発音したりもします」という現地に詳しい方のコメントもあったりします。

http://forestwalk.exblog.jp/5019710/

しかし、さらに調べてみると、「芦生」のある町の役所の南丹市の「お知らせ なんたん」に「『広報なんたん 4・5月号』掲載内容のお詫びと訂正」という欄があって、そこに「訂正箇所」として次のような記載がありました。

「中央写真キャプション (誤)芦生(あしゅう)⇒(正)芦生(あしう)」

http://www.city.nantan.kyoto.jp/kouhou/oshirasenantan/pdf/57/all-5.pdf

地元のお役所がわざわざ訂正記事まで出しているところをみると「芦生」の読み方は「あしう」というのが一応一般的な読み方のようです(しかし、「あしう」が「あしゅう」という読み方に転化するのはよく理解できます。何音便というのかわかりませんが、ともかく音便化した形でしょう)。

ちなみに大阪の「難波駅の下の南端に」「芦生」という屋号のお蕎麦屋さんがあるらしいのですが、その屋号の「芦生」は「あしゅう」と読むらしいです。そういうブログ記事も見つけました。

http://blogs.yahoo.co.jp/tinutarou2006/39501423.html
各メディアがいっせいに大きく取り上げていますから多くの方は周知のことだと思いますが、民主党の馬淵澄夫国交相は昨日6日、政府・民主党のこれまでの八ツ場ダム建設中止方針を撤回する方針を表明しました。


 馬淵澄夫国交相は6日、大沢正明群馬県知事らとの懇談会で、同県の八ツ場ダムの建設について「私が大臣のうちは『中止の方向性』という言葉に言及しない。予断を持たず検証を進める」と述べ、前原誠司前国交相が表明した中止の方針を事実上、撤回。さらに建設の可否を検証した結果が出る時期は「12年度予算案に反映できる時期で(来年の)秋ごろだ」と説明、建設継続を求めてきた大沢知事らは発言を評価した。ただ八ツ場ダム中止は民主党がマニフェストで掲げる目玉政策の一つだっただけに、野党からは「見解を覆しておいて、何ら理由を述べないのは極めて不誠実だ」(石破茂自民党政調会長)と厳しい批判が出ている。(以下、省略)

これも言うまでもないことですが、民主党は2009年の政権マニフェストで「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す」ことを高々と掲げていました。その政策が多くの市民の支持を得て昨年8月の「政権交代」につながったといっても過言ではない同党の目玉政策中の目玉政策というべきものでした。この一報を聞いて、社民党元衆院議員の保坂展人さんは「『政権交代』の終焉の一幕を見るようなニュースだ」という感想を述べています。(保坂展人のどこどこ日記 2010年11月6日)

(民主党政権発足以来)『八ッ場ダム工事』は中止どころか旧政権の工程表通りに着々と進んでいる。おそらく、このままだと民主党政権が『八ッ場ダム建設中止の撤回』を明らかにするのも時間の問題ではないかと考えてきた。『中止の撤回』の後は、『建設の再開』である。/なぜ、こんな奇妙なことが起きたのか。その謎は、『ダム本体事業中止』という言葉に隠れている。前原前大臣が中止したのは『ダム本体事業』であり、言い換えればダムサイト(=本体)の部分以外の『ダム関連工事』は粛々と進んでいたのが実態だ。鉄道や道路の付け替え工事も、ダム建設計画のままに建設された。川原湯温泉の入口で、この春に着工した『湖面1号橋』は高さ100mで52億円の予算をかけてつくられる。この高さも、ダムに水が溜まり湖面をまたぐことを想定して設計されている。(同上)

前原前大臣も、馬淵大臣も『ダム建設派』の地元自治体に配慮するが、莫大な建設費を負担する国民や下流流域の人々からあがる『建設反対』の声に耳を傾ける機会をほとんど持ってこなかった。自民党時代よりも、国土交通省河川局の閉鎖的体質はひどくなり、政治のイニシアティブを探すことは困難で、今日のような最低の結論を持ち出す姿に、『何が政権交代だ』と言いたい。(同上)

私も保坂展人さんの見解に同感です。馬淵澄夫国交相が示した今回の「八ツ場ダム建設中止撤回」方針は民主党政権が国民的規模で見捨てられる「終焉」のはじまりのドラの音のような気がします。

こうした状況の中で11月21日に東京で「八ッ場あしたの会」主催のシンポジウムが開催されるようです(同シンポジウムの開催自体は馬淵発言前から決まっていたものですが、当然、同シンポジウムでは今回の馬淵発言は強く批判されることになるでしょう)。

シンポジウム「八ッ場ダムはどうなるのか」―明日のために必要なこと―

◆日程:2010年11月21日(日曜日)

    開場12時45分  開会13時15分  終了予定16時40分

◆会場:東京大学弥生講堂一条ホール
http://www.a.u-tokyo.ac.jp/yayoi/map.html

◆登壇者(アイウエオ順/敬称略)
司波寛(都市計画コンサルタント)・嶋津暉之(水問題研究家・八ッ場あしたの会運営委員)
寺嶋悠(子守唄の里・五木を育む清流川辺川を守る県民の会・福岡の会スタッフ)
中村庄八(地学団体研究会会員)・保坂展人(ジャーナリスト・前衆院議員)
牧山明(長野原町議会議員)・まさのあつこ(ジャーナリスト)ほか

参加費(資料代):500円

主催:八ッ場あしたの会 共催:八ッ場ダムを考える1都5県議会議員の会
http://yamba-net.org/
憲法研究者の上脇博之さんがご自身のブログに「小沢氏2度目の『起訴相当』議決に関する雑感」という論攷を書かれています。

小沢氏2度目の「起訴相当」議決に関する雑感(上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場 2010年11月6日)

同記事の「1.東京検察審査会への申立人について」では、同申立人は巷間噂されている在特会会長の桜井誠という人物ではなく、「真実を求める会」という「保守」を自認しているものの自民党寄りというわけではなく、政党とも関係のない関東近郊に住む60代を中心とする男性約10人で構成される団体のメンバーのひとりで元新聞記者の職歴を持つ人であることを「小沢氏告発の団体とは 『保守』自認、政治的意図なし」という2010年10月8日付の朝日新聞記事を引用して紹介しています。

上脇さんはこれまでも東京検察審査会への申立人は在特会会長の桜井誠ではないことを2度ほど記事にしているのですが、上記の記事では、その理由のひとつとして「当該代表を真実の申立人と思い込み、高く持ち上げる者がいることを知り、当該代表が『嘘つき』であることを明らかにしかった」ということを挙げています。上記で上脇さんがいう「当該代表を真実の申立人と思い込み、高く持ち上げる者」とは、ユダヤ陰謀論者としてブログ界では有名らしいリチャード・コシミズ氏のことであり、その暴論の受け売りに精を出す山崎康彦氏あたりのことを指しているのでしょう。この点についての山崎氏の論の荒唐無稽さについては私も上脇さんの論を一部援用してJanJanBlogに記事を書いています。


同記事の「2.政治家の説明責任の重要性」では、上脇さんは、東京第5検察審査会の2度目の「起訴相当」議決について「議決の要旨を読むと『状況証拠』しか挙がっていない点で議決理由について批判を加えておいた」(はじめに)ということを前提にして「小沢一郎氏の『政治とカネ』の疑惑」について(1)旧政党の政治資金(税金である政党交付金や立法事務費を含む)を異常な方法で迂回して受け取っているという問題(2)自民党の手法を継承した『組織対策費』名目での使途不明金問題(3)今回の強制起訴議決でも問題にされている4億円の原資について、これまで『政治献金』『金融機関からの借り入れ』『プール金』『父の遺産』『個人の資産』と、説明する度に異なっていて、どの説明が真実なのか、分からなかった問題などを例にして、刑事事件とは別様の問題として(上脇さんは今回の東京第5検察審査会の2度目の「起訴相当」議決のあり方を批判してはいますが、それはイコール小沢氏の「犯罪容疑」をも否定している、ということでもないように思います)小沢氏の政治家としての監督責任・説明責任の問題を問題視しています。

上記の上脇さんの今回の東京第5検察審査会の2度目の「起訴相当」議決の評価のしかたに私はほとんど同意見です。私は最近検察審査会制度を「制度」として支持する論を展開していますが、あたかもその論が今回の検察審査会の小沢強制起訴議決を全面的に支持しているものであるかのように一部に受け止められている向きがあるようですが、それは誤解です。実は私自身が小沢強制起訴議決について少なくない疑問を持っているのです。私が批判しているのは小沢氏を擁護したいがために事実を歪めてまで検察審査会及び検察審査会制度を批判する小沢「支持者」ではない妄信的といってよい一部の小沢「礼賛」主義者のリテラシーとエセ思想です。この際、これまでの私の最近の論の補注をつけさせていただきたいと思います。
私は最近いわゆる「小沢礼賛」論に対して「反論の論」を述べることが多いのですが、その私の「反論の論」について誤解を生じさせている側面があるように思います。下記はそのことについての私のとりあえずの自己レス的エントリです。

私の最近のモノ言いが「小沢礼賛」とは逆に小沢批判のための批判、為にする批判のように受けとめられている方も少なくなくいらっしゃるようです。たとえば下記のような私の最近のモノ言いが一部の人たちの反感、あるいは顰蹙を買っているようです。


しかし、少しばかりの自助的見解を補足させていただくと、上記の「相も変らぬ」などという私のモノ言いは、本MLも含めて私の関わっているMLで非論理的というばかりでなく事実を歪めた「小沢礼賛」論を発信し続ける人たち、さらには郷原信郎氏から平野貞夫氏、岩上安身氏、上杉隆氏、宮崎学氏などなどに至る「小沢礼賛」論に与する人たち(誤解を避けるために一言しておきます。私は左記の人たちの言説のすべてにウソがあるとか誤っていると言っているわけではありません。たとえば郷原信郎氏の論など傾聴に値する論も少なくないと思っています。しかし、その傾聴に値する論が「小沢擁護」の論に展開するときその論に破綻が生まれる、というのが私の評価です)の手を変え品を変え次々と繰り出される「小沢擁護」の論(それも事実を歪めた論が多い)に業を煮やした末の表現であるという側面を持っています。そういう側面を持った表現である、ということを自助的に補足しておきたいと思います。

また、私の最近の文章は、上記のような事情もあって、ある論への反論として書かれたものが少なくありません。そうした反論の論は「反論」という性質上断面を切り取った体の文章になりがちだという側面もあります。したがって、その反論の論は、十全な目配りをした論ということができないだけに、読む人に誤解を生じさせる余地がかなりの程度あります。たとえば私は検察審査会制度を「制度」として支持する論を展開していますが、あたかもその論が今回の検察審査会の小沢強制起訴議決を全面的に支持しているかのように受け止められてしまうということがあります。実は私自身が小沢強制起訴議決について少なくない疑問を持っているのですが、そういうことが伝わらず、誤解されているようです。そうした認識は私にもあります。いまは多忙でできないのですが、この辺のところは今後埋め合わせをしながら論を展開していく必要性を感じています。
下記もある人への反論です。私として重要な論点が含まれていると思いますので、少しばかり文章を変更した上でエントリしておきたいと思います。

小沢信奉論批判は政治革新のために私は必須のことだと思っています。民主党が条理無道なことをしているのになぜ民主党の小沢なのか。その批判を徹底的にしない限り政治革新はできません。反感? 確かに小沢信奉論者は私の論に反感を持つでしょうが、その情念的にすぎない反感を深切な論をもって論駁しないことには政治革新などは到底覚束だろうと私は思います。

私は小沢信奉論は反共産党思想とひとつらなりのものだと思っています。私の見るところ、いま、「護憲」勢力に少なくない小沢信奉論者がいます。彼ら、彼女たちは「護憲」の志を持ちながら改憲論者の小沢・信奉にどうして傾くのか? それは、共産党は嫌いだという情念的な反共主義、社民党の極少数政党にも期待は持てない。そうした心情からメディアから叩かれ、検察にも何度も追及されて「受難」「殉教」のイメージのある小沢一郎を自らの主観を仮託して「反権力」と「反体制」を象徴するもののように祭り上げる。そうした大衆の根深いところでの反共主義が小沢信奉論者を増加させる要因になっているように思えます。しかし、共産党にいろいろな点で問題があることも確かですが、自民党政治、それとほぼ同値の民主党政治に変わりうる理念的な革新政治の設計図と展望を持ち、国会勢力としても、大衆勢力としても根強い力を持っている共産党を排除する思想をそのままにして真の政治革新は実現しないでしょう。

私は先日、CMLというメーリングリストに「きまぐれな日々」の主宰者の次のような所見を紹介しました。

「そんな小沢一郎が、『受難』『殉教』のイメージから、『反権力』や『反体制』自体が自己目的化した人たちの支持を集め、最近では従来共産党を支持していた人からも支持者を奪っていることは憂慮すべきことだ。『小沢信者』どころか『小沢支持者』ともいえない『護憲派』の人が、小沢信者が大好きな『特捜暴走 ― 小沢失脚への陰謀」と題した動画を紹介しているのを某所で見て、ため息が出たものだ。」

これはとても重要な指摘です。上記の指摘は、いわゆる革新勢力はここまで保守的思考に侵食されているということを示しています。

あなたは私の論は少なくない人たちに反感をもたれていると指摘します。反感? それが私の非による反感であるならば私はいくらでも反省しますが、革新勢力の思想を根腐れ、根絶やしさせかねない思想の問題の本質を指摘して反感を買う。そうした反感を恐れてどうして政治革新が実現できるでしょう。戦前、平和を真に願う市民は「アカ」「非国民」と呼ばれて日本国民総体から反感を買っていたのです。ある種の人たちの「反感」をものさしにして、その尺度でモノをいう。そうしたものさしの使い方は私は誤っていると思います。

あなたは何を守りたい、というのでしょう? 私たちが守らなければならないのは個々の組織ではなく、この国のとめどもない保守化、反動化の嵐から市民を守らなければならないのです。護憲、平和勢力のある組織に役割があるとして、この国の果てしない保守化、反動化の波をくいとめる防波堤の役割を果たしてこそ意味を持つというべきなのです。

あなたには小沢信奉論の行きつくところのまがまがしい事態がまったく見えていないようです。想像力が及んでいない、というべきでしょうか。小沢一郎は何度も指摘しているようにまぎれもない改憲論者であり、自衛隊海外出兵論者です。いちいちここで論証するつもりはありませんが、彼のいう「ふつうの国」が戦争国家の道を開く道にすぎないことは多くの人が指摘していることでもあります。まがまがしい事態とは、こうした道の行く末のことを言っているのです。
私は以前に「前田朗さんの花崎皋平さんの最新刊『田中正造と民衆思想の継承』批判について」という文章を書きました。下記はその補遺のようなものです。(ある人に宛てたものですが宛名人の名前は省略します)

私は花崎皋平さんについて前エントリで次のように書いています。

「花崎さんはいうまでもなく『本を書いて自分の思想を述べることに主眼を置』いている作家、思想家です。(略)花崎さんはただ自身の生き方として『この社会から疎外され、差別されている辺境民、下層民、少数民族、在日朝鮮人、障害者など『弱者』とされる人びととの連帯や共生を第一義に追及する生き方』(『開放の哲学をめざして』1986年、p88)、『『地域』に根ざす生活者=住民の立場を根拠として、普遍的な主体たることをめざす』(『生きる場の風景』1984年、p153)生き方を選び取ろうとしているだけです。花崎さんの本を素直に読めばそのように読解するのは当然のことのように思えます。」

上記を別の言葉で言えば、花崎さんは自身を民衆思想家と位置づけてはいないが、民衆思想家に連なる生き方をしたいと強く志しているそういう思想家である、と。民衆思想家に連なる生き方を志している思想家を広い意味で民衆思想家と私たち(読者)が評価しても一向に構わないだろう、と私は思っています。そういう意味で、私は、あなたのおっしゃるように「花崎さんを民衆思想家として評価して」います。しかし、それは「矛盾」でもなんでもない、と自分では思っています。

花崎さん自身も民衆思想家を「定義」して次のように言っています。

「民衆思想とは、民衆の一員であることに徹し、地域に根ざした実践と経験に基づいて練り上げられた自前の思想を指す。それは必ずしも文字で書かれたり、著書となってひろめられたりするものではない」(『田中正造と民衆思想の継承』「第13章 田中正造の思想的可能性」p236)

「必ずしも」と言っているのですから、その意は、「文字で書かれたり、著書となってひろめられたりする」思想を非民衆思想として否定する、ということではもちろんないでしょう。事実、花崎さんのいう民衆思想家の中には著作家の石牟礼道子や森崎和江、田中美津も含まれています。

私たちにとって大切なことは「文字で書かれ」ているかどうかということではなく、そこで語られた、いま現に語られている思想をどのように受けとめるか、ということだろうと思います。その自身の受容によってある人を民衆思想家とみなすかどうかはその思想を受容した「私」の評価の問題です。その「私」の評価をあれこれと批評してもつまらぬことです。「私」の評価を「私」の評価として尊重する姿勢こそ大切なのだろうと私は思います。

先のエントリで釈迦の托鉢を例にしたのはもちろん宗教を論じるためではありません。近代的な用語でいえば、いわゆる「知識人」という非生産者と労働者・農民という生産者との関わり合いの問題として釈迦の托鉢を例にしたにすぎません。たとえば教師という仕事は生産労働に関わる仕事ではありません。しかし、その教師という仕事は地域にとって不必要か。説明しなくとも多くの人はノーと答えるでしょう。それと同じことの比喩として釈迦の例をとりあげたのです。また、教師は労働の対価をともなう仕事をしているが、田中正造の教えと学びの旅の流浪は対価をともなわないから単なる寄宿の族(やから)のような存在でしかない、という解釈が仮にあったとして、つまらぬ解釈です。たとえばボランティアの仕事は対価をともなわない仕事が多いですが、その仕事を寄宿の族の仕事といえるか、などなどあれこれ思い巡らしてみれば田中正造を単なる高等遊民とする論の浅はかさはわかるのではないでしょうか?
下記はあるメーリングリストで私を「たかが・・・・」と論評する人に宛てた私の反論のような文章です。その反論を反論自体としてここに紹介することに意味を感じませんが、その中で私は小田実の「人間みなチョボチョボや」という人間観をとりあげています。その小田の人間観(もちろん、私が見た小田の人間観ということになりますが)を紹介することは意味のあることだと思います。(宛名人の名前は省略します)

人間は誰もが「たかが」の存在だと私は思っています。そういう意味で「たかが・・・・」というあなたの指摘には私には異議はありません。故小田実はもう40年以上も前から人間は誰もが「たかが」の存在であることを「人間みなチョボチョボや」という彼流の言葉で言い続けていました。40年以上も前からというのは私が彼の本をはじめて手にしたときから、という意味です。その故小田実のホームページがまだ遺されていて、その頁の下の方に彼の全集(全82巻)創刊の案内があります。その全集の内容をひとことで表現する言葉としても編集者によって「人間みなチョボチョボや」という言葉が選ばれています。

人間は誰もが「たかが」の存在であること、みなチョボチョボであるという認識は、考えてみれば当たり前すぎるほどの認識というべきですが、小田のエライところはその当たり前の志節を生涯持ち続けたことにある、と私は思っています。

その小田がなぜ「たかが」という言葉を用いずに「チョボチョボ」と言い続けたか。それはひとつには彼が関西人であったということがもちろん要素としてあるでしょう。お国ことばの表現というわけです。しかし、もっと重要なことは、「たかが」という言葉はなにかとなにか(たとえば地位、職業、学歴、富裕と貧困・・・・)を比較する際に用いられる表現であるということが大きかっただろうと私は思っています。人間は比較される存在ではないのです。あなたではない私、私でないあなた、そのかけがえのない一個の生として尊重され、いとおしまれるべき存在といわなければならないように思うのです。

「たかが」という言葉には、もちろん遣われ方にもよりますが、その一個のかけがえのないの生をもしかしたら侮る思惟、差別を容認する思想に転化しかねない危うさを持っているように思えます。そのことに気づいていたからこそ小田は決して「たかが」という言葉を用いず、「チョボチョボ」という言葉を好んで用いたのではなかったでしょうか? 左記は私のあてずっぽうな推量にすぎませんが、あなたに考えていただきたいことです。
「みどりの未来運営委員会」は先にいわゆる「尖閣」問題に関して「「尖閣」諸島(釣魚島)沖漁船衝突事件―― 脱「領土主義」の新構想を」という見解を発表していましたが、このほどその見解の一部を修正する下記のような修正見解を発表しました。[註]の【参考】として付加されている「みどりの未来」会員からの意見とメモもとても参考になる内容を含んでいます。改めてご紹介、転載させていただこうと思います。

先に発表された「みどりの未来運営委員会」の見解及び同見解修正に至る議論については下記をご参照ください。


【見解】
「尖閣」諸島(釣魚島)沖漁船衝突事件―― 脱「領土主義」の新構想を<みどりの未来運営委員会 10月27日一部修正>

         最新のこちらもご参照ください
【見解】 ↓
より公正で公平な、よりよく生き、自然の権利に基づいた世界を提案する「ヤスニITT イニシアティブ」の基本理念を支持し、その実現に向けた協力を国際社会に求めます <みどりの未来運営委員会 11月1日>

             ……………………………………………………………………………

■HPへの対処

・本文の「10月13日 みどりの未来運営委員会」を「10月13日みどりの未来運営委員会(10月27日一部修正)」とし、本文の下記の箇所を以下のように変更し、「…通ずる論理です(註)。」とする。

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(原)そもそも、日本政府が領有権を正当化する「無主地先占の原則」(所有者のいない島については最初に占有した者の支配権が認められる)は、帝国主義列強による領土獲得と植民地支配の論理であり、アイヌなど世界の先住民の土地を強奪した法理です。

(修)そもそも、日本政府が領有権を正当化する「無主地先占の原則」(所有者のいない島については最初に占有した者の支配権が認められる)は、帝国主義列強による領土獲得と植民地支配を正当化する法理であり、また、アイヌなど世界の先住民の土地を強奪してきた歴史にも通ずる論理です(註)。

            ----------------------------------------------------------

[註]
 10月13日公表の文章では、「(無主地先占の原則は)・・・アイヌなど世界の先住民の土地を強奪した法理です。」とありましたが、「日本がアイヌの土地を強奪し、これを日本の領土であると主張したのは、日本がこの地域をすでに『支配』していたという理由からであり、『無主地先占の原則』とは違うのではないか」という旨の指摘がありました。
 確かに明治政府は、アイヌの土地について「すでに日本が支配」しているなどとして、対外的に「無主地先占」論を持ち出してはいないようです。しかし、江戸幕府からアイヌ支配を引き継いだ明治政府は、アイヌ民族の土地を「持ち主なき土地」(=「無主の土地」)として強奪し、国有化し、さらにこれを民間へ売り払うなどしたばかりか、ロシアとの交渉においては、この土地を勝手に分割し、取り引きしたりしました。
 北海道ウタリ協会(現在北海道アイヌ協会)が1984年5月に総会で決議した「アイヌ民族に関する法律案」においても、こうした政策の不当性を強く訴えています。  
 「無主地先占」の法理は、「持ち主なき土地」を当事者との交渉なく強奪してきた近代国家の論理が基礎にあり、その意味ではこれとアイヌ民族などの土地強奪の歴史には通ずるものがあると考えます。しかしながら、10月13日公表の文章のままでは正確さに欠けるため、今回示した通りの表現に修正しました(10月27日)。

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【参考】 「みどりの未来」会員からの意見とメモ

 私は、アイヌの土地強奪には「無主先占」の法理が用いられたと認識しています。
 明治国家がアジアへの侵略を開始する過程と並行して、アイヌと琉球を国内植民地化していったのですが、北海道ウタリ協会(現在北海道アイヌ協会)が1984年5月に総会で決めた「アイヌ民族に関する法律案」では、法制定が必要な理由のなかで「近代的統一国家への第一歩を踏み出した日本政府は、先住民であるアイヌとの間になんの交渉もなくアイヌモシリ全土を持ち主なき土地として一方的に組み入れ、また帝政ロシアとの間に千島・樺太交換条約を締結して樺太および北千島のアイヌの安住の土地を強制的に棄てさせた」という指摘があります。そもそも土地は誰のものでもないという考え方で私的所有権を設定しなかった先住民の土地を、「持ち主なき土地」(無所有地)であるとして強奪するのが無主「先占」の法理の核心です。アイヌ民族の人びとが「持ち主なき土地」という論理で、土地を日本国家に奪われたと認識していることが、大事な点だと思います。

1 アイヌの土地の強奪については、たしかに、江戸幕府と松前藩による侵略と支配との連続性と区別(明治政府による新しい支配の特徴)が問題になります。明治政府による支配は、アイヌが共同使用していた土地を「無主地(持ち主なき土地)」として接収したこと(国有地化)したことにあると思います。つまり、近代に固有の土地所有権や国家の論理が用いられたということでしょう。

2 前田さんが言われるように、「先占の法理」は国際法上の論理ですから、すでに日本国家の「領域」として支配していた北海道(蝦夷地)のアイヌの土地を奪うのに、明治政府がこの法理を公式に持ち出す必要はなかったし、持ちだしていません。「先占の法理」は、千島・樺太交換条約に際してロシア側が持ちだしたものです。

3 問題の核心は、明治国家がアイヌ民族を「国内植民地」として支配したときに、その土地を「持ち主なき土地」として強奪したことにあると思います。すなわち、国際法上の「先占の法理」を形式的に使っていないとしても、その核心にある「持ち主なき土地」の支配は正当であるという論理を使っていると言えます。「先占の法理」は領土画定=領土拡大(植民地獲得)と不可分の論理ですが、「先占の法理」を批判するためには「国内植民地」化にも通底する土地強奪の論理を浮かび上がらせる必要性があるというのが、私の主張したいことです。

4 「先占の法理」と「無主地」獲得の論理、領土画定・拡大(植民地獲得)と国内植民地化との関係を、歴史的な過程に即して整理する必要があると思います。

 私の考えと行動は徐々に辻褄の合わないものになりつつある。PKO協力法に(さえ)反対した私は、少なくともそのコンテクストでいくならば、五原則も憲法もにやにや下卑た笑いを笑いながら泥靴の踵で踏みにじるような今回の自衛隊のイラク派兵には、まさに憤死せんばかりに反対しなければならないはずである。派兵の論拠を臆面もなく憲法前文に求めて、恬(てん)として恥じないどころか、なにやら大発見でもしたかのようにひとり昂揚している戦後史上最悪の首相とその好戦的な取り巻きどもを声をかぎりに糾弾しなければならないはずだ。赤錆だらけの私という廃船の最後の仕事として、壊れるまで闘っていいはずだ。それは自明である。だが、かならずしも私はそうなってはいない。たしかに私は怒っている。しかし、憤死にはほど遠い。たぶん歳のせいだけでなく、なんとなし大儀なのである。私はいま、まちがいなく怒っているのだけれども、仔細に自己を点検してみると、〈これはどう考えても、たとえ最大限に割り引いても、相当に怒らなければならないケースだな〉という、どこか他人事のような、そして怠惰な思考のプロセスの帰結として、余儀なく怒っているふしがあるのだ。いわば、私は自身を折伏し、あるいは自己に命じてしぶしぶ怒っているようでもある。一方、自衛隊派兵への怒りは、本稿執筆の時点で、よそから私のところにかすかな波動としては伝わってきているが、勢い盛んな弾性波としては伝播してきてはいない。なぜなのか。
 故岸信介はかつて「自衛隊が日本の領域外にでて行動することは一切許せません」「海外派兵はいたしません」と言明し、故佐藤栄作も同様のことを公言しているよしである。実際、あれほど長かったベトナム戦争でも、この国は考えられるあらゆる支援と便宜を米国にあたえたけれど、自衛隊をだすことだけはしなかった。この最低限の「節操」を戦後日本のモラル基準とするならば、今回小泉内閣のなしたことはこの国の戦後のなりたちを根本から崩す一大破壊行為といって過言ではない。まことにいまはわれわれがこぞって痛憤すべき重大局面なのである。それがそうなっていないことのわけを、私はデモならぬパレードとやらに加わって、悄然と歩きながら考えている。
 ところで奇妙な話だが、一九六八年十月二十一日の「国際反戦デー」の主要スローガンを私は覚えていない。はっきりと記憶しているのは、それが「自衛隊の海外派兵反対」ではなく、その深刻さに較べるならば(いいかたはおかしいが)はるかに〞低位?の闘争目標であったにもかかわらず、社会党、共産党、全学連各派など約四十万人以上が参加して、全国各地で集会、デモ、ストライキを行ったということであり、その結果、東京の一部では路面がゆらゆら揺れたという事実である。
 やや粗雑になぞらえるならば、今日の事態とはベトナム戦争に自衛隊を派兵したようなものなのに、ろくな抵抗もない、路面も揺れない、ということなのだ。だからどうしたといわれれば、当方としては話の接ぎ穂もない。ただ、辻褄が合わないな、なんだか間尺に合わないな、と口ごもるのみなのである。
 かつてベトナム戦争というものが戦われたという事実さえ知らない若者たちが多数いることを私は知っている。岸信介や佐藤栄作らによる「派兵せず」の誓約にしても、きょうびはまるで趣味のよくないジョークのようにしかもちだされないことも私は知っている。この時代、いずこにあっても議論、争論、激論のたぐいが、まるで忌むべき病のように避けられていることも知っている。怒りでも共感でも同情でもなく、嘲りや冷笑や、せいぜいよくても自嘲が話に常につきまとい、議論の芯のところをすぐに腐らせてしまう時代であることも知っている。
 じつは感官がどこかやられてしまったのではないかと私は目星をつけている。私もあなたも、怒りをつかさどる感官が機能不全におちいっているのではないか。いや、機能不全におちいらなければ、すなわち怒りを無化することなしにはやっていけない時代がすでにきているのではないか、と私は感じている。
 どこがやられたのか。どこが損なわれたのか。だれがそうしたのか。さっきから喉元に浮かんでは消える。ひどくもどかしい言葉がある。しきいき。識閾。意識の生起と消失のあわいのところ。あるいは閾下。そうだ。無明のそこがいましきりになにかに侵されているのではないか。ここから先は名状がとても難しい。東京都の石原慎太郎知事が昨年の九月にいいはなった。「田中というやつ、爆弾をしかけられて当ったりまえの話だ」。その後も「田中均なる者の売国行為は万死に値するからああいう表現をした」と開き直った。暴言、妄語、傲岸不遜をとったらなにも残らないような人物だから、きわめて不快ではあったけれども、石原慎太郎がそう語ったという事実に私はいちいち驚きはしなかった。私が驚愕したのは、知事の妄言にマスメディアも世間もさほどには怒らず、この希代未聞の暴言者が依然胸を反らして公職にとどまっていられるということであった。そのとき私は、この国にあっては正邪善悪を判じる戦後の人間的自明性がつとに崩壊しているのだなと実感し、なぜかしきりに「閾」ということを考えたのだった。かつては議論の余地もないとされた人間的自明性が弱体化し、希薄になったことでぽかりと開いてできた私たちの無明の空洞=閾が危機に瀕しているのではないか、と。そこに透明な菌糸のようなものが盛んに流れこんでいるのではないか、意識はそのように占拠され、収奪されているのではないかと想像した。
 人の群が滞っている交差点の手前から、意味不明の怒声が聞こえてきた。警察官の制止を無視して何人かの若者が道を渡ろうとしている。機動隊はいない。若者らは交通警察官と揉みあっているようだ。怒声は若者たちが警察官に対して発したらしく、若者らを諌めるようなデモ主催者の声も交叉した。それにかぶせるように背後から舌打ちと「ばか、なにやってんだか……」という疲れの滲んだ老人の呟きが聞こえてきた。なにやってんだか。その言葉に背中を押されるようにして、私は行列から離れひとり地下鉄の駅に向かった。閾のような地下鉄の構内に下りていく。閾が侵されていると思う。そこに棲み、怒り悲しみの基となっていた人間的「固体知」のようなものが、埒もない「メディア知」のようなものに修正されたり閉めだされたりしている。自衛隊派兵を怒る人間的な固体知が、もうすでにイラクに派兵されたのだから、いまは彼らの無事と任務の成功を祈るほかないという、既成事実に基づくメディア知によって駆遂されつつある。お腹を空かせた北朝鮮の子供たちに食料を送るのがなぜいけないのだと憤る固体知が、制裁強化は当然というメディア知に排除される。外交官二人の殺害についてもそうだ。おびただしい数のイラク人の死傷者は忘却され、メディア・イベントとして物語化された「同胞の死」のみがナショナルな集合的記憶を形成し、異論を許さない聖域をこしらえていく。米英軍により家族を殺され、領土を占領された者たちの怒りの闘争はかつての南ベトナム解放戦線のそれと同様に正当なレジスタンスといえるのではないかという固体知も、反テロ戦争という根拠なきメディア知、国家知に押しのけられる。メディア知はおそらく国家意志に重なる。両者には閾の共犯関係がある。苛烈な議論、熾烈な闘争があるわけではない。ほの暗い識閾での、声調の曖昧なやりとりがあるだけだ。マスメディアが深く深く介在するそこに、強権発動を要しない協調主義的な日本型ファシズムが生成される微温(ぬる)く湿った土壌がある。固体知の怒りはメディア知によって真綿で首を締めるように殺され、消去されていく。おそらく犯意はどこにもない。編集幹部や記者やプロデューサーやディレクターたちには、特段の正義感も悪意も、むろん犯意もありはしない。躰を張った激しい議論もあるわけではない。彼ら彼女らはしばしばたがいの閾下で無言の相互理解をしている。マスメディアという閾下の犯罪装置に私たちの識閾が連なっている。その閾の不可視の回廊を撃ち、断つべきではないのか。
 石川淳は短編「マルスの歌」のなかでファシズムの不可思議な波動について「この幻燈では、光線がぼやけ、曇り、濁り、それが場面をゆがめてしまう」とスケッチしたが、それはいま、私たちの閾下の眺めにも揺曳しているかのようである。私がさっきまでいた集団ピクニックか仮装行列のような群もそうだ。「誰ひとりとくにこれといって風変りな真似をしているわけではないのに、めいめいの姿が異様に映し出されることはさらに異様であった。『マルスの歌』の季節に置かれては、ひとびとの影はあるべき位置からずれて動くのであろうか」。この国の一見穏和なファシズムの波動は、私がいたあのパレードの光と影をも歪めていたのではなかろうか。「彼らのファシズム」としてでなく「私たちのファシズム」として。そのためなのだ。われわれの身体は本来あるべき怒りの位相からずいぶんずれて動いているようだ。覚めてあやかしの閾を撃つ。メディア知や国家意志(国家知)を徹して疑う。怒りの内発を抑えない。一人びとりが内面に自分だけのそれぞれに質の異なったミニマムの戦線を築く。そこから街頭にうってでるか。いや、いや、街頭にうってでるだけが能ではなかろう。どこにも行かず内攻し、内攻の果てに自分の日常にクラックを走らせるだけでもいい。この壮大な反動に見合う抵抗のありようを思い描かなくてはならない。ときに激しい怒りを身体で表現する。そうしたら、いつかまた路面がゆらゆらと揺れる日が訪れるのだろうか。
                                                        世界 SEKAI 2004.3
                抵抗はなぜ壮大なる反動につりあわないのか
                                ――閾下のファシズムを撃て
                                                                辺見庸

 気だるい土曜の昼下がりに都心のビル街を皆とだらだらと歩いていたら、ふと遠い記憶が蘇った。足下の路面が大きく波打つようにゆらゆらと揺れたときのこと。足の裏が、あの不安とも愉悦ともつかない弾性波の不可思議な感覚をまだかすかに覚えている。アスファルト道路がまるで地震みたいに揺れたのだ。それは、身体の奥の、なんとはなし性的な揺らぎをも導き、この弾性振動の果てには世界になにかとてつもない変化が継起するにちがいないという予感を生じさせたばかりでなく、足下の揺らぎと心の揺らぎが相乗して私をしばしば軽い眩暈におちいらせさえしたものだ。あれは錯覚だったのだろうか。錯覚を事実として記憶し、三十六年ほどの長い時間のうちに、そのまちがった記憶をさらに脚色して、いまそれが暗い脳裏からそびきだされたということなのか。冗談ではない、と歩きながら私はひとりごちる。冗談ではない、ほんとうにこの道がゆっさゆっさと揺れたのだ。誓ってもいい。数万の人間が怒り狂って一斉に駆けだすと、硬い路面が吊り橋みたいに、あるいは春先に弛んだ大河の氷のように揺れることがあるのだ。
 足下の道が揺れると、いったいどうなるか。このことも私はかすかながら記憶している。道が揺れると、〈世界はここからずっと地つづきかもしれない〉と感じることができたりする。勘ちがいにせよ、世界を地づづきと感じることはかならずしもわるいことじゃない。なあ、おい、そうじゃないかとだれかにいいたくなる。地つづきの道が揺れる。弾性波がこの道の遠くへ、さらに遠くへと伝播してゆき、知らない他国の女たちや男たちの、それぞれの皺を刻んだ足の裏がそれを感じる。ただこそばゆく感じるだけか心が励まされるのか、こちらからはわからないけれども、とにかくなにか感じるだろう。伝播する。怒りの波動が、道を伝い、道に接するおびただしい人の躰から躰へと伝播していく。つまり、この場合、人も道も大気も、怒りの媒質となって揺れるのだ。なあ、おい、そういうのを経験してみたいと思わないか。世界の地つづき感とか自分の内と外の終わりない揺れとかを躰で感じてみたくないか。そのことをだれかに問うてみたくなる。本当のところは、ま、錯覚なんだけどね、一回くらい躰で感じてみたくないか、と。私の隣りを歩いている若い男に声をかけようとする。彼はさっきから盛んにタンバリンを鳴らしている。腰をくねらせたり片足を宙に跳ね上げたりして踊りながら、タンバリンを叩いている。男の眼がときおり細まり恍惚とした面持ちになる。遠くのスピーカーから「ウィー・シャル・オーバーカム」が聞こえてくる。皆がそれを歌い始める。ご詠歌みたいに聞こえる。私は話しかけるのをやめる。やかましい、と叫びたくなる。寒さと気恥ずかしさが、躰の奥の、あるかなきかの怒りをかき消しそうになる。地面はむろん揺れはしない。揺れるわけもない。たった三千人ほどの行進なのだから。いや、人数なんか少なくてもいい。せめても深い怒りの表現があればいい。それがない。地を踏む足に、もはや抜き差しならなくなった憤りというものがこもっていない。道は当然、揺れっこない。私は、しかし、道はいまこそ揺れるべきだ、揺するべきだと考えている。昔のように、というのではない。さらに大きな新しい弾性波を起こすべきなのだ。もちろん、懐旧でも、憧憬でもなく、そう思う。
 交差点の信号機が赤になり、行列が止まった。じつに素直なものだ。「私たちは自衛隊のイラク派兵に絶対反対します」と書かれた最前列の横断幕も歩みを止めた。その前で、皆が笑顔で記念撮影をしている。たがいに携帯電話で撮りあい、その写真をすぐにだれかに送信したりしている。だれもが自己身体の部位の一部のように携帯電話をもっている。かつてはあれほど不気味に見えた携帯電話の風景がいつの間にか眼に慣れて、いまはずいぶん平気になってしまった。皆が例外なく躰に埋めこまれたかのように携帯電話を備えている。あれほど携帯を難じた私もまた。どんなことにだって人はほぼ慣れる。世界とはたぶん、それに慣れなければとてもではないがつきあっていけないなにかの病気なのだ。というより、世界によって躰が無理矢理慣らされるのだ。それを私たちは慣れたとか選択したとか思いこんでいる。ひどい倒錯。そう、政治の三百代言にも簡単に騙され、慣れ、欺罔(ぎもう)にもさして怒らない体質になりつつある。
 私は不意に国連平和維持活動(PKO)五原則という、型落ちした携帯電話のような?死語?を思い出す。五つすべていえるか、自問してみる。もの覚えがひどく悪くなった私なのに、なぜだか死語の類はよく覚えている。自衛隊がPKOに参加できる前提条件は、第一、紛争当事者の間で停戦合意が成立していること。第二、えーと、当該地域の属する国を含む紛争当事者がPKOの実施とそれへの日本の参加に同意していること。第三、これはしっかり覚えている。特定の紛争当事者に偏ることなく中立的な立場を厳守すること、だ。第四、以上の三原則のいずれかが満たされなくなった場合には参加部隊を撤収すること。第五、武器の使用は要員の生命などの防護のため必要な最小限のものに限る、だったな。私はかつて、このPKO協力法に(さえ)憲法の原則を踏まえて大反対した。いま、それを屁で飛ばすようにして重装備の自衛隊がイラクに派遣された。今回は「イラク復興支援特別措置法」(イラク新法)に則っているから、PKO五原則は関係ないだって? まったく冗談ではない。五原則はわずかながらでも憲法を意識していたこの国のほんのささやかな「慎み」みないなものではあった。それに(さえ)異論を唱え、九二年くらいだったか、私は反対デモに参加したこともある。記憶するかぎり、道が揺れることはまったくなかったが、いまよりはよほど緊張感のあるデモではあった。人々の足取りに憤慨があった。

アジア女性資料センターの標題声明を転載します。

転送歓迎♪
山形県長井市で発生した集団性暴力事件が、10月28日、不起訴処分となったことについて、アジア女性資料センターは本日、以下の声明を出し、山形地方検察庁のほか、最高検察庁、最高裁判所、法務大臣、内閣府男女共同参画担当大臣に送付しました。

(報道)
集団強姦容疑の消防士3人不起訴 山形地検
集団強姦:消防士3人を容疑不十分で不起訴処分 山形地検

関係各所にはすでに送付していますが、声明への支持を表明する意味で賛同いただければ幸いです。賛同される団体・個人の方は、ajwrc@ajwrc.orgまでご連絡ください。


【抗議声明】
山形地検の集団性暴力事件不起訴処分に抗議する 
刑法強姦罪および関連法規の即時見直しを!

 山形県長井市で20代の女性が知り合いの男性の部屋に呼び出され、男性消防士3人に集団性暴力を受けた事件について、山形地検は10月28日、容疑者3名を嫌疑不十分で不起訴処分としました。報道によれば、同地検は「暴行の程度が強かったと認定できる客観的な証拠がそろわなかった」と、不起訴の理由を説明しています。つまり、「刃物を見せつけたり、服を破る」等の行為が確認できなければ、「被害者の抵抗を著しく困難にする程度の暴行または脅迫」があったとはいえない、というわけです。

刑法上の強姦罪や集団強姦罪が成立するには、生命の危険を感じるほどの脅迫や、被害者の抵抗を封じるほど大きな暴力の行使が証明されなければならないという「暴行・脅迫」要件は、これまでも、数多くの被害者が被害を訴え出て正義を得ることを阻んできました。しかし、たとえ直接的な暴力や脅迫がなくても、多くの被害者が、恐怖やショックのあまり抵抗できない状態に陥ってしまうことは、数多くの調査・研究からも明らかになっています。密室で3人の男性に性行為を迫られた女性が、ほんとうに自由な選択ができる状況にあったのかどうかを精査せず、機械的に「暴行・脅迫」要件をあてはめた山形地検の判断には、大きな怒りを感じます。

合意のない性的行為を受けた被害者の心身の苦しみは、非常に長期にわたることもありますが、現在の強姦罪その他の性暴力関連法の規定はきわめて形式的なもので、性的自由の侵害により生じる被害を正当に評価していません。

実態からかけ離れた強姦罪その他関連法における「暴行・脅迫」要件をこのまま放置することは、多くの性暴力犯罪を野放しにする、政治と司法の許されざる怠慢です。日本の強姦罪の規定については、国連人権委員会や女性差別撤廃委員会も見直しを勧告しています。

私たちは最高裁判所に対し、現行の「暴行・脅迫」要件の解釈見直しを早急に行うよう求めます。また政府および立法府に対し、積極的かつ明白な合意をともなわないあらゆる性行為を性暴力として禁止することを含む包括的な性暴力禁止法の立法と、同趣旨にそった刑法、およびその他の性暴力関連法の見直しに向けた行動を、一刻も早く開始するよう求めます。

2010年11月1日

アジア女性資料センター


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『女たちの21世紀』最新号「今日、なに着てく? 装いのポリティクス」
http://ajwrc.org/jp/modules/myalbum/photo.php?lid=156&cid=4
(10/29)海外で「女性支援」に関わるということ第3回
http://ajwrc.org/jp/modules/bulletin2/index.php?page=article&storyid=139
(11/2)パキスタンの買春街で生きる女性たち
http://ajwrc.org/jp/modules/bulletin2/index.php?page=article&storyid=170
(11/16)インドネシアにおける人身売買
http://ajwrc.org/jp/modules/bulletin2/index.php?page=article&storyid=169
ヒューマンライツ・ナウ事務局長で弁護士の伊藤和子さんが現在内閣府で策定中の第三次男女共同参画基本計画の「後退?」について重要な指摘をされています。

先月の10月25日に開かれたもっとも直近の第三次男女共同参画基本計画の第62回基本問題・計画専門調査会で配布された会議資料としての「第3次男女共同参画基本計画(案)」には、これまでの資料では明確にうたわれていた民法改正とポジティブアクションの具体策がペンディングにされて空欄になっている、というのです。

第三次男女共同参画基本計画を後退させてはならないと思います。また、民主党政権下で第三次男女共同参画基本計画の「後退?」が起きていることも留意する必要もあるように思います。

委細は下記の伊藤和子さんの記事を読んでいただきたいと思いますが、伊藤さんの言われる「以前のペーパー」とはおそらく下記のことでしょう。注をしておきます。

基本問題・計画専門調査会の頁

第3次男女共同参画基本計画策定に当たっての基本的な考え方(2010年7月22日)

・第1分野 政策・方針決定過程への女性の参画の拡大
*「ポジティブ・アクション」の「ポジティブ」で検索をかけると手っ取り早い
・第2分野  男女共同参画の視点に立った社会制度・慣行の見直し、意識の改革 
*「民法」で検索をかけると手っ取り早い

以下、伊藤和子さんの記事です。

後退? 第三次男女共同参画基本計画(弁護士伊藤和子のダイアリー 2010年10月31日)
内閣府が現在策定中の第三次男女共同参画基本計画。福島前大臣の時代になかなか先進的な計画ができあがっているな、と思って政府の取り組みを見直しかけていたところ、、、

10月25日の基本問題・計画専門調査会の配布資料として、基本計画案が配布され、それがウェブアップされましたが、重要な課題が空欄になってペンディングにされていて、驚きました。

http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/kihon/siryo/ki62-1.pdf

ひとつは政治に対する女性の参画に関するポジティブアクション(9ページ)

もうひとつは民法の女性差別規定を改正すること(16ページ)

以前のペーパーで明確にうたわれていた、民法改正とポジティブアクションが空欄になっているのです。

このふたつの項目は、2009年の国連女性差別撤廃委員会による日本審査で出された改善勧告に入っているうえ、特に重要なので、2年以内にフォローアップ報告をするように特に求められた勧告。

それが、今後5年間の男女共同参画の基本計画iにいったんは入っていたのに、消えてしまったとしたら???

まったく残念なことに、政府は、きちんと目を光らせて監視していないといったいどこにいくのか本当にわからない。そーっとこんなことが進んでいるなんて。

後退をさせないように、市民社会として、こういうことを曖昧にさせないようにしましょう。