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辻元清美氏の社民党離党劇について少し私の感想を述べておきます。辻元氏の同党離党劇に実のところ私は少しも驚いていません。ついにくるべきものがきた。辻元離党劇の序幕は随分以前から見ていたような気がするからです。

そのひとつの理由。社民党内にはもともと民主党連立内閣離脱に関して同党12人の国会議員(当時)のうち又市征治副党首、重野安正幹事長、阿部知子政審会長ら同党重要幹部=国会議員の大半が消極的な態度を示していたという報道があったこと。その連立残留派のキーパーソンのひとりが同党の看板議員(国土交通副大臣)としての辻元氏でした。

連立離脱か残留か、悩む社民…普天間問題(読売新聞 2010年5月25日)
連立残留めぐり社民 一転、内紛状態に(産経新聞 2010年5月28日)

もうひとつの理由は辻元清美氏に対する私の評価に関わってくるのですが、同氏が1996年に当時の社会党の衆議院議員になった頃から私は彼女に一種独特の権力志向の臭気を感じていました。辻元氏が最初に世間に認知されたのは『ピースボート』事業(「平和」と「アジア諸国などとの交流」を売りにした船舶旅行事業)の成功においてでしたが、その当時から彼女にはその対象がジャーナリストであれ政治家であれ財界人であれその分野の〈著名人〉を自らの事業に巻き込み、共同行動をとることに抜群の手腕がありました。

その彼女の手腕が超党派のNPO議員連盟の結成やNPO法の成立に結実していったということはいえるわけですが、一方でそのNPO法は、市民自治が最重要視されなければならないNPOの分野でその許認可権を行政権力に委ね、NPOの活動の自由を縛るなどの妥協の産物ともいえるものであり、市民自治にとって問題の多い法案でもありました(同法案には当初「(特定の公職の候補者、政党などへの)推薦、支持、反対をするものではないこと」という憲法で保障された「思想・信条・良心の自由」を根底的に否定する政治活動制限条項が規定されていましたが、同制限条項を緩和することで最終的に全会一致の合意をみました)。辻元氏はその社会運動家としての、また国会議員としての妥協の過程で、あるいはまた大物政治家、あるいは大物ジャーナリストなどとのつきあいの中で自らが権力の穴熊に堕ちるということはなかったか。あった、というのが私の15年来の辻元観察(あくまでも印象観察にすぎませんが)、辻元評価であり、上記で述べた辻元離党劇の序幕は随分以前から見ていたような気がする、という理由でもあります。

ただ、例の辻元逮捕のとき、私も辻元逮捕の不当性を糾弾する抗議署名に賛同していることも付記しておきたいと思います。

さて、辻元離党劇の問題性は、社民党にとっての問題性と辻元氏自身にとっての問題性の2通りにわけて検討してみる必要があるだろうと思いますが、辻元氏自身の問題性は大きくいって次の2点にある、というのが私の見方です。

第1点。辻元氏は自身のブログで「これからは無所属議員として活動を始めます」と述べていますが、しかし、これは井原勝介氏(前岩国市長)が指摘していることですが、辻元氏は社民党の公認を得て議員当選を果たしている。「公認を得て選挙を戦うということは、政党の看板を背負うことであり、その看板に対しても責任を持つ必要がある。」「一つの理念を掲げて政党に集い、政党を通じてその理念と政策の実現を図るというのが、政党政治の本来のあり方である。その政治の基盤となるべき政党と袂を分かつというのであれば、議員辞職する覚悟を持つべきである」ということです(「辻元清美の離党」 井原勝介ー草と風のノートー 2010年7月28日付)。「私は社民党を離党します。これからは無所属議員として活動を始めます」では済まないのだ、と私は思います。辻元氏は自らの行動に筋を通そうとするのであれば一旦議員辞職するべきでしょう。

第2点。もう1点は辻元氏が27日の大阪での離党表明記者会見で述べた「政権交代を逆戻りさせてはならない」「政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく」(読売新聞 2010年7月27日)という発言の問題性です。辻元氏は自民党政権から民主党政権へと変わった昨年夏の衆院選での「政権交代」を絶対視しているようですが、政権交代で重要なのはいうまでもなく政権交代という形ではなく、その政権交代の結果として政治変革、政治の中身が変化したかどうか、ということです。自民党政治の延長に過ぎない政権交代は政権交代の名に値しないのです。民主党政権は自民党政治に決別しえたか。普天間基地問題に象徴される民主党政権の対米従属、民意無視の政治姿勢を見る限り、民主党政権の政治は自民党政治の延長であり、というよりもさらに悪質化しており(たとえばSCC共同声明参照)、自民党政治に決別しえたとはとてもいえません。それを単純に「政権交代を逆戻りさせてはならない」などと言ってしまう。ここに辻元氏の信念に基づく「理念」の実現よりも「権力」によるまやかしの「理念」の実現(すなわち「理念」の非実現)の方を重要視する権力志向の姿勢がよくあらわれていると見るべきでしょう。

また辻元氏は「政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく」とも言うのですが、この発言も実現するべき「政策」「理念」、さらには「政権」の質を問わないきわめて理不尽かつ非理念的な言表にすぎません。政策実現とはなんの政策実現なのか。その政策実現とは市民的な政策の実現の謂いにほかならないでしょう。そうであれば「政権の中」がそもそもその市民的な政策の実現にはほど遠い空間、空洞にすぎないということはありえることです。まさに自民党「政権の中」が市民的政策の実現という点では空洞そのものでした。そうした空洞の「政権の中」にあってどのような「政策実現が近づく」というのでしょう。離党表明記者会見で述べた辻元氏の「論」は空論以外のなにものでもないものです。というよりも、自らの行動を正当化しようとする自己弁護論といった方がより正鵠を射た見方というべきでしょう。

さらに千葉県議の吉川ひろしさんが指摘されていることですが、この「政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく」という辻元発言は、「戦前・戦中のなかで政権の弾圧によって殺された少数派の人々や権力と死に物狂いで闘った団体の存在までも否定する」(CML 005115)マイノリティー否定、市民運動否定の論ともいわなければならないでしょう。すなわち辻元氏は自らの母体ともいうべき市民運動を否定することによって自らの若き日の人生までも自己否定しているということにもならざるをえないのです。しかし、その市民運動が自らの権力志向の具でしかなかったとすれば、社会運動家出身という彼女のトレードマークは所詮仮=贋の姿でしかなかったということになるわけですから自己否定ということにはならないでしょう。

大津留公彦さんの好意的な辻元評価はわからなくはないのですが、若き日の辻元清美の勇姿が大津留さんが見られたとおりだったとして、残念なことですが、辻元清美はどこかの節目で変節してしまったのでしょうね。私の辻元評価はそういうものです。

参考:
辻元清美衆議院議員の社民党離党に思う(大津留公彦のブログ2 2010年7月27日)
辻元清美衆議院議員の社民党離党に思う2(大津留公彦のブログ2 2010年7月28日)

少し長くなりましたので、辻元離党劇と社民党にとっての問題性とのつながりの問題は改めて明日書くことにします。

 E.フロム『自由からの逃走』

「薔薇、または陽だまりの猫」ブログ(2010年7月26日付)で私のCML 005082の記事(2010年7月26日付エントリ)を紹介してくださっています。


その私の記事に「電灯」さんという人が下記のようなコメントを寄せていました。

「東本高志さんという人の、『民主主義』というものの理解の程度が端的にあらわれた一文だとおもう。/阿久根市長のやっていることは地方自治法違反の可能性がかなり高いと私もおもう。/しかし、東本高志さんのいうように、それは「明らかに民主主義に反する決断」なのか?/市長は、地域住民の強い支持を得ているらしいではないか?/つまり、市長は住民の支持のもとに、違法なことをやっているのである。」(全文は最下段に転記しておきます)

しかし、この「電灯」さんという人の認識の方こそ「民主主義」というものをよく知らない人の一知半解の「論」というべきものでしょう。以下、同コメントに対する私の反論的応答です。

反論の前に次のことを指摘しておきます。「電灯」氏は「明らかに民主主義に反する決断」という先の記事における私の言葉を引用し、それが「阿久根市長の決断」に対する私の批判であるかのように「論」を進めていますが誤りです。私は先の記事で次のように書いています。「今回の仙波氏の決断は明らかに民主主義に反する決断といわなければなりません」。「明らかに民主主義に反する決断」とは阿久根市長ではなく、仙波氏の決断のことを指していることは明らかです。

さて、反論です。

まず第1に「電灯」氏の「論」の前提としての「(阿久根)市長は、地域住民の強い支持を得ているらしい」という事実認識が誤っています。阿久根市のホームページの「選挙の結果」の頁によれば、昨年5月の同市出直し市長選の投票結果は現市長の竹原信一氏は8,449票の得票、反市長派の対立候補の田中勇一氏の得票は7,887票。その差562票。この選挙結果を見ても「(阿久根)市長は、地域住民の強い支持を得ている」ということはいえません。反市長派は阿久根市長に562票差まで迫る健闘を見せている、というのが常識的な選挙結果の見方のはずです。

さらに同出直し市長選以後の竹原阿久根市長の法を無視した独断専行の市政運営について市民の多くはリコールの準備を進めていますし、阿久根市職員の9割も「違法状態が長く続くことは許されない」として“反乱”(上申書提出)を起こしています。どこから見ても「(阿久根)市長は、地域住民の強い支持を得ている」とはいえないでしょう。

阿久根市長リコールへ 市民団体が準備委発足(南日本新聞 2010年5月30日)


第2。「市長は住民の支持のもとに、違法なことをやっているのである」「民衆に支持されているからこそ阿久根市長は独走できる」という認識も誤っています。というよりも、「住民の支持のもとに、違法なことをやっている」という「電灯」氏の認識は、「民主主義」というもの、また住民の「信託行為」の結果としてある「議会制民主主義」というものの本質をまったくわきまえない驚くべき痴呆的認識といわなければなりません。

民主主義は法治主義の謂いでもありますが、その法治主義のもとでは法に反する一切の違法行為は例外なく司直によって罰せられます。それが仮に「住民の支持のもとに」行う違法行為であってもその行為が「違法」であれば当然罰せられます。「電灯」氏はまずそのことがおわかりでないようです。

また住民は、ある代表者(ここでは市長)を「信託」する投票行動=選挙において、ある代表者の当選以後の政策決定権について全面委任して投票しているわけではありません。投票行動とはある代表者に対する有権者の期待値の表明でしかありません。ある代表者がその有権者の期待値に背くとき有権者はリコールなどの直接請求権を用いてある代表者を解職することができるのです。そのことがなりよりも投票行動は有権者の期待値の表明でしかないことの証明になりえています。そのほかにも三権分立制度、その機能のひとつである行政権に対する議会制度などのしくみも有権者の投票行動=代表者への全面委任ではないことを証明する政治システム上の保証制度ということができます。

第3。「電灯」氏のいう「民衆の圧倒的支持が、違法な結果を招くことがあるのは、ヒットラーを典型例として、政治学・憲法学の常識だ」というのはそのとおりです。が、「だから、民主主義的要素をいかに制御するかは、政治学・憲法学のテーマになっている」という認識は誤りです。

上記で「電灯」氏のいっているのは大衆社会論の問題なのですが、その大衆社会論において政治学・社会学の「テーマになっている」のは、「民主主義的要素をいかに制御するか」という問題ではなく、逆に「議会制民主主義基盤の脆弱性がファシズム台頭の要因であった」ことに対する深い反省的省察です。E.フロムの『自由からの逃走』をはじめとする現代の大衆社会論はすべてその反省が考察の出発点になっています。また、メディア、ジャーナリズムの現代の「ウォッチ・ドッグ(権力に対する監視者)」論もファシズムの時代にナチス・ヒトラーなどファシストの扇動の道具としてメディアが利用されたことの反省がその論の出発点になっています。

「電灯」氏の「論」に一片の道理もありません。


参考:「電灯」氏のコメント Unknown (電灯) 2010年7月26日:
東本高志さんという人の、「民主主義」というものの理解の程度が端的にあらわれた一文だとおもう。

阿久根市長のやっていることは地方自治法違反の可能性がかなり高いと私もおもう。

しかし、東本高志さんのいうように、それは「明らかに民主主義に反する決断」なのか? 市長は、地域住民の強い支持を得ているらしいではないか? つまり、市長は住民の支持のもとに、違法なことをやっているのである。

民衆の圧倒的支持が、違法な結果を招くことがあるのは、ヒットラーを典型例として、政治学・憲法学の常識だ。だから、民主主義的要素をいかに制御するかは、政治学・憲法学のテーマになっている。

ところが、地方自治の場合、首長は住民の直接選挙で選ばれる。つまり、内閣総理大臣の場合より、民主主義的基盤が強いようにわざわざ制度設計されているのだ。そして民衆に支持されているからこそ阿久根市長は独走できるのであり、端的に言えば、住民の民主主義と地方自治法が矛盾対立しているのがコトの本質である。だからこそ、問題は根深く、かつ部外者にとっては成り行きが面白い。

東本高志さんという人は、「民主主義」ということばの前で、思考停止してしまう人だったのだな。



「仙波敏郎氏を副市長に阿久根市長が専決処分」という東京新聞(共同発)の記事を以下のコメントをつけていくつかのメーリングリストに「拡散」する人がいました。

内部告発の仙波氏を副市長に 阿久根市長が専決処分(東京新聞 2010年7月25日)
 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が25日付で、愛媛県警の裏金づくりを内部告発した元巡査部長の仙波敏郎氏(61)を、専決処分で副市長に選任した。

 仙波氏によると、市長から電話を受けて会うようになり、11日に副市長就任の要請が正式にあったという。地方自治法では、副市長は議会の同意を得て選任するとしている。

 竹原市長は議会を開かないまま専決処分を乱発するなどして問題となっているが、仙波氏は共同通信の取材に対し「わたしは議会を開くべきだと考えているし、司法判断も順守すると市長には伝えてあるので、最初から衝突すると思う。批判も出るだろうが、働きぶりで評価してほしい」と話した。

 仙波氏は愛媛県警地域課鉄道警察隊の巡査部長だった2005年、県警の裏金づくりを内部告発。その報復で不当な人事異動をされたとして提訴し、県に100万円を支払うよう命じた判決が確定した。

 同市では08年、竹原市長が初当選した直後に提案した副市長人事が議会に不同意とされてから、副市長が欠員となっていた。

(共同)

コメント:
阿久根市長が、まさに驚く判断を下しました。/もうご存じの方もあるかもしれませんが、、、/「仙波敏郎氏を副市長に選任」/お二人共、意思貫徹が、すごい人物です。さらにこれから議会と火花が散る。/全国から、どうなるのかと、さらに熱い注目となります。/本当にもし、仙波敏郎氏が副市長に任用されたら、もし実現したら? 愛媛県警は? 阿久根市議会は? どんな展開に?/激動の日本そのものを、よくもわるくも、ここでも体現しているという感じを私は受けます。

以下は上記のメールに対する私の反論的応答です。

上記の認識はきわめて底の浅いかつ危険な認識といわなければなりません。

仙波敏郎氏はともかくとして、竹原阿久根市長はもっとも典型的なポピュリストというべき人であり、もっと端的に言えば「狂恣」の人です。このような「狂恣」の人をどのような意味でも評価することはできません。というよりも危険です。その危険度も度を外れています。下記のエントリ群にそのことは明らかです。


仙波敏郎氏は「正義」の人とはいえますが(彼と彼の刎頚の友であったジャーナリストの故・東玲治さんとはオンブズマンの会席で一献傾けたことがありますが)、その「正義」は任侠道のそれと大差なく、著しく民主主義の認識に欠けるところがあります。

仙波氏は副市長受諾の前提として専決処分での選任について「違法とは断定できない」との認識を述べていますが(読売新聞 2010年7月26日付)、この認識は誤りです。

専決処分は、「議会を招集する時間的余裕がない」(自治法第179条)ときなどに認められている特例的な措置ですが、竹原阿久根市長の一連の専決処分は「議会を招集する時間的余裕がない」わけではなく、「仕事は迅速にやるべきで、議会にかけたら時間がかかる」(毎日新聞 2010年5月7日付)という理由であえて議会を召集せずに行う専決処分ですから明らかに地方自治法の趣旨に違反しています。すでにご紹介していることですが、こうした事態における専決処分は無効である旨、裁判においても判決が出ています。

「本件専決処分は時間的余裕がないためにやむなく行われたものではなく、市議会の議決を免れることを意図してされたものと評価されても致し方ないというべきである。したがって、本件専決処分については、『普通地方公共団体の長において議会を招集する暇がないと認めるとき』という要件を充足しないから、これによって制定された本件改正条例は,効力を有しないというべきである」(銚子市職員調整手当
請求事件 平成19年3月9日 千葉地裁 民事3部)
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070704095740.pdf

今回の仙波氏の決断は明らかに民主主義に反する決断といわなければなりません。

なお、地方自治法は、副市長の選任には議会の同意が必要と定めており、同専決処分を議会が同意する可能性はゼロといってよいでしょう。仙波氏は自らの決断の誤りを「正義」の人らしく潔く認めて、副市長受諾を撤回するべきでしょう。
千葉第2検察審査会は今月13日付で「森田健作氏を告発する会」のメンバーが審査申立をしていた森田千葉県知事「無所属詐称問題に関して「不起訴相当」の議決をしました(発表は3日前の21日)。私は先に弊紙ブログに「資料:森田知事「無所属」詐称問題」」というエントリを合計6本アップしましたが、以下はそのことを伝えるメディア記事と同審査会の不起訴相当」議決がきわめて不当であることを逆証する「審査申立書」及び衆議院・法務委員会での総務省自治行政局選挙部長の答弁などを弊紙ブログにアップした理由説明を兼ねています。

はじめにメディア記事を3本。

「完全無所属」の森田知事、検審が「不起訴相当」( 読売新聞 2010年7月22日11時47分)
 昨年3月の千葉県知事選で当選した森田健作知事が、選挙中に「完全無所属候補」と記した選挙ビラを配布したのは「虚偽事項の公表」にあたるとして、公選法違反容疑で市民グループから告発され、千葉地検が不起訴(嫌疑不十分)としたことについて、千葉第2検察審査会が、「不起訴相当」としていたことが、分かった。

 議決は13日付。

 議決は「『無所属候補』とは、立候補届出書に添付する所属政党の証明書がないことを意味する」と定義付けた。森田知事については「政党隠しを徹底して行ったと推測できる」としながらも、「政党と人的、資金的につながりがないという意味だったとまで認めるのは難しい」と結論づけた。

 ただ、「有権者に誤解を与えかねない表現に対して、今後の選挙では公平、公正なものに是正する必要がある」とも指摘した。

 森田知事は22日の定例記者会見で、議決について「私の主張を理解してもらい、厳正に判断した結果だと思う」とし、指摘については「真摯(しんし)に受け止めさせていただきます」と述べた。

 市民グループは、知事選当時に自民党東京都衆院選挙区第2支部代表者だった森田知事が完全無所属と名乗ったのは、虚偽事項の公表だとしていた。



今回の検察審査会の「不起訴相当」議決が不当なものであることは下記の大野ひろみ千葉県議のブログ記事「森田知事告発;悔しい検察審査会 その?」に端的に指摘されているとおりだと思います。

決議文では、以下の理由で「不起訴相当」にしている。

◆問題とされている2号チラシの「完全無所属」という文言は、「政党推薦無所属ではない」という意味を超えて、「政党と人的・資金的につながりがない」という意味であったとまで認めることは難しい。

◎(反論)
上の指摘は「無所属候補」とチラシに書いた場合は納得できる。しかし、わざわざ「完全」という言葉をくっつけ強調しているのである。誰が考えても、パーフェクト無所属、100%無所属、純粋・無添加無所属、不純物ゼロ無所属… という意味である。しかも決議文では、この「完全無所属候補」という言葉を「造語」と規定している。「造語」とは、意図的に有権者に対して一定の効果を狙って作る言葉である!

検察審査会は「森田健作氏を告発する会」のメンバーが同審査会に提出した「審査申立書」で指摘している事項について真剣に検証したのかどうかきわめて疑わしい。おそらく検察官の説明と検察提出の資料を無批判に鵜呑みにした結果として「不起訴相当」議決があるのでしょう。

上記のことを明らめるためにも今回の検察審査会の不当議決を逆証する意味合いを合わせ持つ「審査申立書」及び本不当議決の核心である検察審査会の「無所属」解釈をこれも逆証する意味合いで、この問題についての衆議院・法務委員会での総務省自治行政局選挙部長の答弁などを弊紙ブログにアップしておきます。ご参照ください。




検察審査会の今回の不当議決への批判は同審査会の議決文を読んだ上、改めて論じたいと思っています。
4月3日にあった衆議院・法務委員会において門山泰明政府委員(総務省自治行政局選挙部長)は、富田茂之衆議院議員(公明党)の質問に応えて、「候補者が『無所属』をことさら公にした(すなわち選挙運動)場合は公選法235条1項に抵触するおそれがある」と明確に答弁しました。

森田健作の刑事告発にとって有力な「証言」が政府側から飛び出した格好です。
衆議院TVカレンダー検索の4月3日→法務委員会→発言者一覧の富田茂之(公明党)の順にクリック)

この件に関する富田議員の質問は次のようになっています。

・14分48秒あたり?:政治資金規制法違反に関する質疑応答
・22分28秒あたり?:無所属の定義に関する質疑応答

政府委員の「公選法235条に抵触する可能性」に触れた部分は以下のとおりです。

●富田議員(24:10あたり?):
公選法第235条の趣旨から言いますとですね、一般論として、ある程度の党員で、かつ政党支部の支部長をつとめるような人物がことさらそれらの事実を隠して当選を得る目的で選挙活動のさまざまな場面で自分は政党に所属しない、政党の支援を受けない、無所属、完全無党派であることをアピールしていたような場合にはこの235条の虚偽事項公表罪に該当する可能性があるというふうに思えるのですが、そのように理解してよろしいですか?

●総務省自治行政局選挙部長・門山泰明政府委員(24:39あたり?):
一般論としてのお尋ねでございますが、若干前提をご説明させていただきますと、立候補届け出におきまして立候補届出書に所属する政党その他の政治団体の名称、これを記載する場合には当該政党その他の政治団体の証明書、いわゆる所属党派証明書というのを添付するということになっておりまして、この所属党派証明書の添付がない場合には無所属と、こういう扱いになるわけでございます。したがいまして立候補届けにおきます無所属という機会(注:場合、という意味か?)は立候補届けをした方がどの政党にも属しないということを意味するものではなくて、所定の所属党派証明書がない、記載されていないという場合に記載すべきかなり広い意味の呼称であると解されておりまして、一般に政党に所属する方が無所属として立候補届けをし、無所属として選挙運動をすることは当該規定に抵触しない、と考えられるところでございます。

一方、政党に所属する方がいかなる政党にも所属しないということを公にして選挙運動をするということにつきましては、これも一般論でございますけども、それが立候補届けにおける無所属ということではなく、実際の政党への所属関係について当選を得、または得させる目的をもって公職の候補者の政党その他の団体の所属に関し虚偽の事項を公にしたと、そういうふうに認められる場合には公職選挙法235条1項に抵触するおそれがある、ということは考えられるところでございます。なお、個別の事案につきましては具体の事実に即して判断されるべきものと考えております。

門山政府委員(総務省自治行政局選挙部長)は「当選を得、または得させる目的をもって公職の候補者の政党その他の団体の所属に関し虚偽の事項を公にした(すなわち、選挙運動をした)」場合は、「公職選挙法235条1項に抵触するおそれがある」と明確に述べています。森田告発にとって、重要な国会答弁だと思います。

([http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/6199177.html 中から続く])

(5)アエラ5月25日号には、『森田健作知事の剣道2段は「自称」』として、森田氏が本件知事選の候補者紹介でも「剣道2段」と紹介されていた(甲9・千葉日報記事、甲10・読売新聞記事)のに全日本剣道連盟の段位を取得していないことが報じられた(甲51・アエラ記事)。
 この問題に関し、森田氏は5月21日の会見で「40年ほど前、剣道を一生懸命やっている時に範士から『二段を許す』と言われた」ので二段を名乗ってきた、と説明し、今後は改めるのかと問われると「40年間言ってきて指摘されることがなかった。私の思いはそういうことです」と答え、今後も改めるつもりのないという考えを示した。翌22日には、記者団から「初段は取得しているのか」と尋ねられ「ない。二段、二段。それで十分」と答えた(甲52・毎日新聞記事)。ウソをついてばれなければそれでよし、ばれてもウソをおしとおすという森田氏の人格態度が端的にあらわれた説明といえる。
(6)6月19日、森田氏は議会で全会派が森田氏に対し森田氏の政治資金問題を質問したことについて、「それしか(聞くことが)ねえんだろ」と発言した(甲53・毎日新聞記事)。重大な問題であるからこそ全会派が質問したのだが、森田氏には問題の重大さが理解できていないのであろう。
(7)森田氏は、6月20日、ドン・キホーテから違法に受け取った政治献金480万円を返金処理したのに、6月18日の時点で政治資金収支報告書を修正していないことについて県議会本会議で問われた。森田氏はこれに対し、返金処理をしたのは4月中旬と説明しながら、7月に予定している政党支部の解散後まで収支報告書の修正はしないとし、その理由を「スタッフが不足しているため」と説明した(甲54・毎日新聞記事)。政治資金収支報告書には、虚偽の記入をしてはならない(政治資金規正法第24条)のであるから、収支報告書の記載が事実と食い違うことがあれば何をさておいても修正しなければならないはずで、人手不足が(もし本当に人手不足であったとしても)すぐに収支報告書を修正しないことの言い訳にならないのは当然である。
(8)10月2日には、森田氏が本件知事選に立候補を表明する前月の平成20年12月まで政党支部を受け皿として企業献金1816万円を受領し、1212万円が森田氏の資金管理団体である森田健作政経懇話会に寄付されていたことが報じられた(甲55・朝日新聞記事)。森田氏はこれまで「自民党支部のお金は知事選には使っていない」と説明していたが、実態は森田氏の説明とは異なることが明らかになった。なお、平成21年1月以降の収支について、森田氏は法律上平成22年3月までに提出すればよいので、それ以前には提出しない、としている。しかし、「自民党支部のお金は知事選には使っていない」というのであれば、その根拠を示すべきであろう。
(9)以上のとおり、森田氏の発言には、法律を軽視していると思わざるを得ない発言や、理屈に合わない言い逃れとしか言いようのない発言がいくつもある。
 したがって、「完全無所属」についての森田氏の説明もまた、公職選挙法を軽視して虚偽の事項を公表しておきながら、理屈に合わない言い逃れをしていると考えて差し支えない。

6 公職選挙法の趣旨
 公職選挙法235条(虚偽事項の公表罪)は、虚偽事項の公表が、「買収行為や選挙の自由妨害等とともに、選挙人をしてその公正な判断を誤らせる原因となるものであって、選挙の自由公正を害するところ大なるものがある点に鑑みて」(安田充ほか編著『逐条解説 公職選挙法(下)』)、これを不正行為として処罰対象とするものである。
 したがって、公表された事項が「虚偽」かどうかは、一般の選挙人の判断において、235条の列挙事由に関し公正な判断を誤らせるかどうか、という基準で判断されるべきである。そして、前記第4項で述べたとおり、「完全無所属」をうたった2号ビラは、一般の人の判断において、森田氏の「身分」ないし「所属」に関し公正な判断を誤らせる可能性がある。
 これを総務省の国会答弁(甲2・議事録)にあてはめると、総務省が「公職選挙法235条第1項に抵触するおそれがある」とする場合(立候補届における無所属ということではなく、実際の政党への所属関係について、当選を得または得させる目的をもって公職の候補者の政党その他の団体への所属に関し虚偽の事項を公にした、そういうふうに認められる場合)にあたるといえる。
したがって、このようなビラを配布した森田氏の行為を処罰することが、公職選挙法の趣旨にも合致する。

7 公職選挙法235条の「身分」の解釈について
(1)なお、検察官からは、不起訴の理由のひとつとして、公職選挙法235条の「身分」に、政党とのつながりがあるかないかを評価する具体的事実(政党支部の代表であって、個人では法律上受領できない企業・団体献金を、政党支部を通じて知事選に利用できる地位にあったこと等)が含まれない、ということが挙げられていたことから、この点について反論しておくこととする。
(2)検察官は、公選法の前身である普通選挙法の解釈において、「身分」等の列挙事由が制限列挙と解されていたこと、各列挙事由の内容も制限的に解釈されていたことを指摘するとともに、公選法の「身分」も普通選挙法の「身分」と同様に制限的に解釈されるべきであるとして、公選法の「身分」が政党とのつながりがあるかないかを評価する具体的事実を含むような広い概念と解することはできない、とする。
すなわち、三宅正太郎ほか著『普通選挙法釈義』(大正15年初版、昭和5年第5版)には、「身分というのは華族士族というがごとき族称のみならずそれより少しく広く社会上の門地を指すものと解する。例えば『候補者は県下唯一の名望家××氏の娘婿にあたる』というがごときである」との記述がある。この解釈を根拠に、公選法の「身分」も、限定的に解釈されるべきとするのが検察官の解釈である。
(3)しかし、現行憲法のもとでは、身分制度は廃止されているから、憲法改正の前後で「身分」を連続的に解釈することには無理がある。
現在では、選挙の候補者が政党と人的・資金的つながりがあるかどうかは、有権者の重大な関心事であり、投票先を決定する際の重要な考慮事項である。したがって、その正確性を担保するため、「身分」に含めて解釈することの必要性がある。
また、「身分」という言葉自体は幅のある概念を含みうる言葉であり、例えば、刑法65条の身分とは、男女の性別、内外国人の別、親族の関係、公務員たる資格だけでなく、すべて一定の犯罪行為に関する人的関係である特殊の地位または状態を意味する、と解されている(最高裁昭和27年9月19日判決)。公選法235条の「身分」について、「同条の他の列挙事由以外の地位または状態であって、選挙人の投票に関する公正な判断に影響を及ぼす可能性のあるもの」というようにある程度広く解釈することは文理解釈として可能であり、一般人にとって不意打ちとならないと考える。
さらに、自治省選挙局内選挙制度研究会編『改正公職選挙法解説』(昭和37年発行)には、虚偽事項の公表罪の改正について、「虚偽事項の内容として『その者の政党その他の政治団体への所属又はその者に対する政党その他の政治団体の推薦若しくは支持』が規定されたが、これは従来は、身分に含まれると解釈されていたものを明文化したものである」との記述がある。この記述は、「身分」は相当程度広い概念であったとの解釈を示すものである。
以上より、「身分」に関する検察官の解釈は誤りであり、森田氏は「身分」に関し虚偽の事項を公表したといえる。
 
8 おわりに
 選挙において、候補者についての誤った情報が流されれば、有権者は公正な判断をすることができない。そこで、公職選挙法は、選挙の公正を確保するために、買収行為、選挙の自由妨害とともに、虚偽事項の公表を禁止している。
 このことは、選挙に関する基本的なルールであって、森田氏も当然知っていたはずである。ところが、森田氏はこの基本的なルールをあえて無視して、自らを「完全無所属」と称するビラをまき、政党への所属、政党とのしがらみの有無という有権者の関心の高い事項について誤った情報を流した。森田氏ほどの知名度の高い人物が、わざわざこのような違法行為を行ったのは、当時それだけ不利な情勢にあると判断したためなのか、あるいは違法行為をおこなっても当選しさえすれば見逃してもらえるとたかをくくったのか。
 いずれにしても、森田氏が行ったのは、一種の情報操作である。選挙において情報操作がまかりとおるのでは、もはや民主主義国家とはいえない。このような危機感をもって、告発人らは千葉検察庁に対し告発を行った。しかし、検察庁は森田氏を不起訴とし、結果的に森田氏の行為を見逃す判断をした。
 そこで、申立人らは、権力としがらみのない市民の方々に、今回の知事選が公正に行われたかどうか、また、森田氏の行為について裁判所の司法判断が必要ではないか、判断して戴きたく、この申立を行うものである。

第2 政治資金規正法違反
 告発人らは、ドン・キホーテから第二支部に対しなされた寄付のうち、平成18年12月法改正以前の寄付について告発したが、このうち最後の寄付がなされたのが平成18年11月24日であり、審査申立の時点で3年の公訴時効が完成している。
 したがって、申立人らは、検察官が「森田氏側には違法な献金であることの認識がなかった」として不起訴処分をしたことについては不服があるが、この点についての審査申立は行わないこととする。
以上

添付書類

1、委任状             通


 3 「完全無所属」候補をうたった森田氏の狙い
(1)すでにみたとおり、2号ビラには、「政党より県民第一」「総選挙や政党間の争いにまきこまれ(ない)」など、森田氏が政党とのつながりのないことを印象付ける言葉が並べられ、その上で森田氏が「完全無所属候補」と表示されているから、このビラを読んだ人が「完全無所属」の意味について、「自民党を辞めた」「政党とのつながりがない人物だ」と判断する可能性があることは明らかである。
 ところが、森田氏は、取材記者から「『完全無所属』と聞くと『自民党を辞めたのか』と思う。かなりの人が誤解したのでは」「誤解を与えてしまった点についてはどうか」と追及されたのに対し「もし、そういうことがあったならば、もうちょっと何だろうな。残念だなあという気がします」と答えている(甲21・毎日新聞記事)。
 「自民党を辞めた」とか「自民党の支部長ではない」ということを示すためにわざと「完全無所属」という言葉をつかったのではない、というのが森田氏の説明である。
 しかし、森田氏が有権者に「自民党を辞めた」「自民党の支部長ではない」という「誤解」をさせる狙いで「完全無所属」という言葉を使ったことは、当時の政治状況、及び「政党隠し」を徹底した森田氏の選挙運動から明らかである。
(2)知事選当時の社会状況
 本件知事選に先立つ平成21年3月3日、小沢一郎・民主党代表(当時)が、大手ゼネコン西松建設の「関連団体」から献金を受け取っていたことに関連して、同氏の公設第一秘書が逮捕された。同時期に、二階俊博経済産業大臣など自民党の大物政治家も、同「関連団体」から献金を受領していたことも報じられた。
 小沢一郎氏は、平成20年11月末の世論調査では、麻生太郎自民党総裁(当時)より「首相にふさわしい」とされ、翌年に予定されていた総選挙で政権交代が実現すれば、その後の国政を担うことが期待されていた。ところが、本件知事選直前に前記西松建設関連団体から献金をうけとっていたのをそのまま政治資金収支報告書に記載していたことが「民主党代表」のカネをめぐるスキャンダルとして報じられたことで、状況は一変した。民主党代表、自民党大物政治家のカネをめぐるスキャンダルが相次いて報じられたことで、本件知事選当時は、自民党も民主党も、政党はどこも信用できない、といった「有権者の政党不信が渦巻く」(甲25・日本経済新聞記事)状況であった。
 このような状況において、特に自民党の政治家にとって、選挙戦を有利にたたかうためには、政党とのつながりを否定することが効果的であることは明らかであった。
(3)「政党隠し」を徹底した森田氏の選挙運動
 森田氏が選挙ポスターに掲げた「政党より県民第一」というキャッチフレーズは、投票日(3月29日)の約1か月前に、予定されていた「元気モリモリ」から変更されたものである。「有権者は政党のゴタゴタに嫌気をさしている。特に無党派層は敏感だ」との見方にもとづく変更であった(甲12・読売新聞記事)。
 森田氏は選挙期間初日、応援にかけつけた約20人の自民党県議の名前を紹介することなく「知事は政党の支援を受けては駄目だ」と演説するなど、「政党隠し」を徹底して知事選をたたかった(甲12・読売新聞記事)。森田氏自身を「完全無所属」と称した2号ビラは、「政党隠し」の極めつけといえる。このビラを、運動員が「政党のしがらみのない完全無所属候補」と連呼しながら森田氏の横でまく、という選挙戦を森田氏は展開した(甲13・週刊朝日記事)。
 森田氏の「政党隠し」は成功し、森田氏は無党派層の43%(候補者中最高率)の支持を得た(甲14・朝日新聞記事)。
(4)森田氏も、森田氏の対立候補であった吉田たいら氏も、立候補届の際に政党公認の届け出をしていない「無所属」候補であった。
 ただし、吉田氏は民主党の推薦を受けていたことから、森田氏は「政党推薦のない」無所属候補であることを示すために「完全」無所属候補と名乗ったという。しかし、「政党推薦のない」無所属候補であることを示すならばそのまま「政党推薦のない」無所属候補と名乗ればよかった。そうはせずに、森田氏はあえて「完全」無所属候補という言葉を使った。その理由は、森田氏に、政党とのつながりを否定して選挙戦を有利にすすめるという狙いがあった、と考える以外に、説明がつかない。
 4 森田氏の説明は常識に反する
 「2号ビラは、『完全無所属』と『政党推薦無所属候補』とを並べて比較する体裁となっている。2号ビラに書かれた『完全無所属』の意味は、対立候補(吉田たいら候補)が政党の推薦を受けた『政党推薦』無所属であるのとは異なり、当方が政党推薦を受けていない候補であることをあらわすものにすぎず、自民党員であることなどを否定する狙いはなかった」というのが、森田氏の説明であった。
この森田氏の説明を聞いてから2号ビラを見ると、なるほど、森田氏の説明通りの内容が書かれているようにも読める。
 しかし、問題は、森田氏の説明を聞かずにこのビラを見た人が、「完全無所属」の言葉の意味をどのように判断するかである。「完全に無い」といえば全くないという意味であるから、例えば、下の表のようなX氏、Y氏、Z氏の3人の政治家がいたとして、一般の人は、「完全無所属候補」ときくと以下の表の「Y」氏のように、政党の党員でもないし、政党支部長でもない、政党とは一切つながりがない人をイメージするのではないだろうか。
                      X    Y    Z
政党の推薦を受けているか     ×    ×    ○
政党の党員か             ○    ×    ×
政党支部の代表か          ○    ×    ×
選挙において、政党所属議員の
支援を受けたか            ○    ×    ×

 じっさいに、「自民党でも民主党でもない人にと考え、森田さんに入れた。実は自民党支部の代表でしたというなら、その1票を返してほしい」という有権者の声も報じられている(甲21・毎日新聞記事)。
 しかし、森田氏の説明によれば、完全無所属候補=政党推薦を受けていない候補であるから、X氏もY氏も同じく完全無所属候補であり、X候補が「完全無所属候補」と称するのは虚偽ではないことになる。
このような説明は、一般の人の感覚とはかけ離れたもので、とうてい理屈に合わない、といえないだろうか。
 申立人らが参加する「森田健作氏を告発する会」は、本件知事選後の4月25日には千葉駅頭で、5月10日には船橋駅頭で、それぞれ2号ビラの看板を示して「モリタ氏はウソつきか」というシール投票をよびかけた。千葉駅頭では投票者全体の84%(215名)、船橋駅頭では88%(311名)が「そう思う」に投票した(甲47,48・写真)。これが、一般の人の常識的な感覚ではないか。
 5 森田氏の不合理な説明の数々
(1)森田氏が理屈に合わない説明を押し通すのは、「完全無所属」についてだけではない。
 森田氏をめぐって、知事当選後、様々な疑惑、問題が報道されている。それらの疑惑、問題に関する森田氏の回答、説明をみると、森田氏が法律を軽視する人物であること、また、平気で理屈に合わない説明をする人物であることがわかる。
(2)森田氏が本件知事選に当選した後の4月11日、森田氏の資金管理団体「森田健作政経懇話会」が平成17年に自民党山崎派の団体「近未来研究会」から300万円の寄付を受けながら、政治資金収支報告書に記載していなかったことが報じられた(甲49・朝日新聞記事)。この記載漏れについて、森田氏の事務所は「寄付を受けた後、会計担当者が退職し、交代したことから事務ミスで記載漏れになった」と説明した。ここでいう「会計担当者」が政治資金規正法にいう「会計責任者」にあたるのかどうか不明であるが、同法は、「引き継ぎミス」という言い訳ができないように、わざわざ罰則付きで会計責任者の引き継ぎ義務を定めている(同法第15条、第24条)。政治資金規正法は政治家にとってはもっとも基本的な法律であるが、その法律にてらして通らない言い訳が、森田氏側からなされたといえる。
(3)森田氏は、4月16日に、森田氏が支部長をつとめる政党支部が、政治資金規正法(平成18年改正前)の禁止する外資からの出資が50%を超える企業(ドン・キホーテ)からの献金を受け取っていた問題に関し、「ドン・キホーテが(外資からの出資が)50%超えてるかどうか分かんないでしょう?私もわからなかった。全然そんな意識もなかった」と説明している(甲3・毎日新聞記事)。
 企業の出資割合は、毎年公表される有価証券報告書を見れば誰にでもわかることである(甲26?29参照)。
 政治資金規正法は、政治家にとって基本的かつ重要な法律であるから、献金元の企業の有価証券報告書をチェックすべきは当然であって、「全然そんな意識もなかった」ということではすまされない。
 なお、週刊文春の記事(甲32)では、ドン・キホーテの幹部の話として「二年前にも『赤旗』から同じ指摘を受け、森田さんへの献金は違法だと指摘されました。当社は森田さん側に『大丈夫なのか』と質したところ、適切に処理しますといわれたのです」という事実が報じられている。
(4)森田氏は、5月14日、福岡県の公立高校から平成19年に森田氏がおこなった講演料として支払われた50万円を、自身の資金管理団体「森田健作政経懇話会」に入金させて政治資金として処理していた問題に関し、「(学校での講演は)政治活動だと思っているが、教育基本法に触れる政治活動はしていない」と説明した(甲50・朝日新聞記事)。教育基本法は学校が政治的活動をすることを禁じているから、森田氏の講演が政治活動ならば、教育基本法に触れる政治活動がされたことになり、森田氏の説明は説明になっていない。

下に続く) 
審査申立書

千葉検察審査会 御中
                 2009(平成21)年12月16日

申立人ら代理人  弁護士 坂 本 博 之

同        弁護士 及 川 智 志

同        弁護士 廣 田 次 男

同        弁護士 中 丸 素 明

同        弁護士 菅  野  泰

同        弁護士 大 木 一 俊

同        弁護士 谷 萩 陽 一

同        弁護士 植 竹 和 弘

同        弁護士 廣 瀬 理 夫

同        弁護士 西  島  和

申立人の表示       別紙申立人目録記載のとおり  
     
代理人の表示       別紙代理人目録記載のとおり

罪名及び罰条       公職選挙法違反
公職選挙法第235条第1項

不起訴処分年月日     平成21年9月30日
             (平成21年検第104060号)

不起訴処分をした検察官  千葉地方検察庁
検察官 検事 竹 内 寛 志

被  疑  者      住所不詳
氏 名  森田健作こと鈴木栄治 
 
被疑事実の要旨

 被疑者森田健作は、平成21年3月29日施行の千葉県知事選挙(以下「本件知事選」という)に際し、立候補して当選したものであるが、自己に当選を得る目的で、本件知事選において、公職選挙法第142条第1項第3号所定のビラ(以下「法定ビラ」という)を配布するにあたり、被告発人が本件知事選当時自由民主党東京都衆議院選挙区第二支部(以下「本件政党支部」という)の代表者の地位を有し、本件知事選に先立つ平成16年から平成19年までに、本件政党支部が企業・団体等から寄附金として受領した合計約1億6185万円を含む本件政党支部の収入約2億0409万円のうち合計1億5030万円を、被告発人が代表者を務める資金管理団体「森田健作政経懇話会」において寄附金として受領していた状態であったのに、法定ビラのうち1種類のビラに、「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」等の記載とともに、被告発人を「完全無所属候補」と表示して被告発人が政党とは人的・資金的なつながりがないことを記載したビラ(以下「本件2号ビラ」という)を相当枚数作成し、本件2号ビラを平成21年3月12日から同月28日までの選挙期間中に相当枚数配布し、もって公職の候補者の身分または所属に関し虚偽の事項を公にしたものである。

不起訴処分を不当とする理由

第1 公職選挙法違反告発事件
(はじめに 引用証拠について)
告発にあたり提出した甲1?42号証は、そのまま本申立に引用し、本申立において新たに提出する証拠には甲43号証以下の証拠番号を付して引用する。
 1 告発と不起訴処分
申立人らを含む告発人らは、平成21年4月15日、森田健作氏(以下「森田氏」という)が、平成21年3月29日に投開票された千葉県知事選(以下「本件知事選」という)当時、自由民主党(以下「自民党」という)の党員であったばかりか自民党支部代表(支部長)の地位にあって政党と強いつながりがあったのに、自らを「完全無所属」と表示した法定ビラ(甲11号証、以下「2号ビラ」といい、写しを末尾に添付する)を配布して政党とのつながりを否定したのは、公職選挙法が禁止する虚偽事実の公表にあたるとして、千葉地方検察庁に対し森田氏を告発した。
告発から約半年後の平成21年9月30日、告発人ら代理人は、千葉地方検察庁検察官より告発人らの告発については不起訴処分がなされたことを知らされた。
 検察官は、森田氏を不起訴処分とした主な理由について、以下のように説明した。「森田氏は、2号ビラに書かれた『完全』無所属の意味は、対立候補が政党の推薦を受けた『政党推薦』無所属であるのとは異なり、政党推薦を受けていないことをあらわすものにすぎず、自民党員であることなどを否定したものではない、と説明している。この説明に対する反論の決め手がない。」

 2 「完全無所属候補」と「自民党員」であること、「自民党支部代表(支部長)」であることは矛盾する
(1)確かに、2号ビラには、「私は自民党をやめました」とか、「私は自民党支部の代表ではありません」など、自民党員であることなどを直接否定する言葉は書かれていない。
 この点について、森田氏は、本件知事選後の4月16日、取材記者から「自民党員であり、一部の自民党県議や国会議員の支援を受けて選挙戦に臨んだことと、『完全無所属』とは矛盾しないという考えか」と尋ねられて「矛盾しない」と答えている。
 しかし、はたして自民党員であること、政党支部代表(支部長)であることと、「完全無所属」とは矛盾しないのだろうか。
(2)完全無所属とはどういうことか
2号ビラをみると、「政党より県民第一」「中央の政党間の争い・政局を県政に持ち込まず、持ち込ませず、県民ひとすじ、県民本位、県民第一の千葉県政をつくろう!」などと書かれ、森田氏が政党の政策や政局とは一線を画して「県民第一」の政治を目指すことが強調されている。その上で、森田氏は、「完全無所属候補」であって、「総選挙や政党間の争いに巻き込まれず、県民第一の県政に専念」できるが、対立候補である吉田たいら氏は、「政党推薦無所属候補」であって、「もし当選できたら総選挙時に(推薦してくれた)政党公認候補の応援に駆り出される可能性大」であると説明されている。
つまり、2号ビラでは、「完全無所属」とは政党とはしがらみのない、自由な立場の候補者であると説明されているのである。
(3)自民党員であるということはどういうことか
 森田氏は、本件知事選当時、自由民主党(以下「自民党」という)の党員であった(知事当選後の7月1に離党届を提出。甲43・朝日新聞記事)。
自民党員は、「党の理念、綱領、政策及び党則を守ること。」「各級選挙において党の決定した候補者を支持すること。」(甲44・自由民主党党則、第3条の3第1号及び同第2号)等の義務を負っている。自民党員であるということは、党の政策、決定にしばられるということであり、政党から自由な立場にはないということである。
 したがって、自民党員である森田氏は、政党間で政策の対立があれば自民党の政策にそった言動をしなければならないから、「政党間の争いに巻き込まれず、県民第一の県政に専念」できる「完全無所属候補」ではありえなかった。
 また、自民党員である森田氏は、総選挙時には自民党が決定した候補者を支持しなければならない立場にあったから、「もし当選できたら総選挙時に政党公認候補の応援に駆り出される可能性大」どころか、応援に駆り出されることが確実だったのであり、「総選挙や政党間の争いに巻き込まれ」ない「完全無所属候補」ではありえなかったのである。
(4)自民党支部長であるということはどういうことか
 森田氏は、本件知事選当時、自由民主党東京都衆議院議員選挙区第二支部の代表(支部長)であった。
 前記第二支部は、政治家個人が受け取ることのできない企業・団体献金を受け取ることができる「政党の支部」(政治資金規正法第21条)であり、政党支部長は、政党支部を受け皿として企業団体献金を得ることができる。支部長という役職は、活動資金の必要な政治家にとって、メリットの大きい特別な地位であるといえる。じっさい、落選中の政治家が党に対し、小選挙区支部長のポストをめぐって「早く決めてほしい。先の選挙で資金も底をついた」と要請する様子も報道されている(甲45・朝日新聞記事)。このような特別の地位を政党から与えてもらった政治家には、当然、政党との「しがらみ」がうまれる。
 自民党は森田氏が衆議院議員でなくなった平成16年以降に森田氏を政党支部長としていることについて、「自民党の党勢拡大のために支部長に選任した」と説明している。
 森田氏は政党としがらみのない「完全無所属候補」ではありえなかった。
   
中に続く

 (3)被告発人の行為は「虚偽事項の公表」にあたる
 以上のとおり、被告発人は、本件知事選当時、政党から政党支部長という地位を与えられていたことにより、多額の企業・団体献金を含む資金を政治活動に利用し、または利用しうる状態にあったのであり、前回知事選当時、被告発人が本件知事選での当選を期していたこともあわせ考慮すると、政党とつながりがなかったとは到底言えない状態であったから、政党とつながりがないことを意味する文言として用いられた「完全無所属」が虚偽事項の公表罪の「虚偽の事項」にあたること、また、このような事項を記載した本件2号ビラを配布した被告発人の行為が「虚偽事項の公表」にあたることは明らかである。

 (4)虚偽事項の公表罪に関する総務省の答弁(甲2号証)
 なお、総務省は、虚偽事項の公表罪に関する富田茂之衆議院議員の法務委員会での質問に対し、「立候補届けにおきます無所属という記載は、…所定の所属党派証明書がない、添付されていないという場合に記載すべき、かなり広い意味の呼称であるというふうに解されておりまして、一般に、政党に所属する者が無所属として立候補届けをし、無所属として選挙活動を行うことは、当該規定には抵触しない」「一方、政党に所属する者がいかなる政党にも所属しないということを公にして選挙活動をするということにつきましては、…一般論でございますけれども、それが立候補届における無所属ということではなく、実際の政党への所属関係について、当選を得または得させる目的をもって公職の候補者の政党その他の団体への所属に関し虚偽の事項を公にした、そういうふうに認められる場合には、公職選挙法第235条第1項に抵触するおそれがあるということは考えられる」(下線は代理人)との答弁をしている。
本件ビラの「完全無所属」等の記載は、前記(3)記載のとおり、立候補届けにおける無所属ということにとどまらず、実際の政党への所属関係を含め、被告発人の地位・状態について、政党とのつながりがないことを記載したものであって、公職選挙法第235条第1項に違反する。
 2 虚偽性の認識
 公職選挙法第142条所定の、いわゆる法定ビラは、公職の候補者が選挙において当選を得るために利用するもっとも重要な道具の一つであって、同法で頒布可能な枚数の上限が定められている。
 被告発人が政党支部長として政治資金を集めていたことは被告発人自身がよく知っている事情である以上、特段の事情がない限り、本件ビラを配布した被告発人には虚偽性の認識に欠けるところはない。
なお、被告発人は、「選挙が終わったら(本件政党支部を)解散しようと(思っていた)」等と釈明している(甲5・朝日新聞)が、被告発人が本件知事選後に本件政党支部を解散したという客観的事実はない。
 3 「完全無所属」は公職選挙法235条1項にいう「身分」に含まれる
 「完全無所属」であるとの事項は、「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」として政党とのつながり・しがらみがないことを訴える被告発人の地位・状態を誤って強く印象付け、選挙人の公正な判断に影響を及ぼすおそれがあるものであるから、公職選挙法235条1項にいう「身分」に含まれる。
 4 当選を得る目的
 本件県知事選当時、選挙人の間に政党に対する不信感が広がっていた状況下で、政党と完全に無関係であるという事項は、選挙人の支持を集めて当選を得るのに有利な事項であり、とりわけいわゆる無党派の選挙人の支持を集める要因となる事項であること(実際に、無党派の投票先は、被告発人が最も多く、43%が被告発人に投票している、甲14・朝日新聞記事)、被告発人もそのように考えたからこそ「完全無所属候補」という虚偽の事項を公表したと判断される。
そうすると、被告発人は、当選を得る目的で虚偽事項を公表したといえる。
 5 付言
 有権者の政党不信が著しい昨今、政党と人的・資金的につながりのある公職の候補者が、あえて「無所属」候補として立候補し、無党派をとりこむなどして選挙を有利にすすめようとすることは、広く行われていることである。
 しかし、本件県知事選において「完全無所属」を公称した被告発人の行為は、前回知事選後、今回知事選での当選を期していた被告発人が、前回知事選以前から本件知事選までの間、政党の支部長という地位にあったことによって、個人では受領できない多額の企業・団体献金を含む資金を政治活動に利用し、または利用しうる立場にあったのに、政党とは一切しがらみ、つながりがないかのように偽装したものであって、悪質といわざるを得ない。
 今回の被告発人の行為が見過ごされるならば、民主主義の重要な要素である選挙の公正を実現しようとした公職選挙法の趣旨は没却され、世の中に対し、「当選さえすれば公職選挙法に違反しても処罰されることはない」との誤ったメッセージを発信することとなる。選挙という公共性の高いイベントで行われたルール違反が放置されることは、犯罪の一般予防の点からも問題が大きい。
 よって、御庁に対し、被告発人について厳正な捜査を求めるものである。

第3 告発の事情(被告発人氏名不詳関係)
 1 前記告発事実1の被告発人である森田健作こと鈴木栄治(以下「森田健作」という)が代表を務める本件政党支部は、前記告発事実2記載のとおり、平成17年に外国法人・外国人の発行済み株式の保有率が50.62%、平成18年に外国法人・外国人の発行済み株式の保有率が51.82%であった株式会社ドン・キホーテ(代表取締役安田隆夫、以下「告発外会社」という)より、平成17年に合計650万円、平成18年1月から11月までに合計330万円の寄附を受領し、もって主たる構成員が外国人若しくは外国法人である会社からの寄付の受領を禁止する政治資金規正法(平成18年12月改正前)第22条の5の規定に違反して寄附を受領した(甲15・朝日新聞記事)。
 2 告発外会社から本件政党支部に対して寄附がなされた際、寄附金を誰が、どのような方法で受領したのか、現時点では不明であるが、本件政党支部の誰かが何らかの方法で受領したことは確実である。
 3 よって、御庁に対し、告発事実2記載の犯罪事実について、厳正な捜査を求めるものである。
 4 なお、本件政党支部の代表者である森田健作は、「寄付当時、(問題の外国出資企業の)株主構成は知らなかった」としている(甲・週刊朝日記事)。
 しかし、政治資金規正法第22条の3第6項及び同法第22条の4第2項が、一定の団体から「知りながら、これを受けてはならない」と規定しているのに対し、同法第22条の5が単に「寄附を受けてはならない」と規定しているから、法は、会社から政治活動に関する寄附を受ける者は当該会社の株主構成を調査すべきことを要求しているといえる。
 「株主構成は知らなかった」とする森田健作の弁解が、株主構成に関する誰の認識について述べたものか、必ずしも明らかでないが、法が、会社から政治活動に関する寄附を受ける者に対し、当該会社の株主構成を調査すべきことを要求している以上、告発外会社から寄附を受けた本件政党支部の構成員は告発外会社の株主構成を知っていたことが推認される。
以上

証拠資料

甲第1号証  自由民主党東京都衆議院選挙区第二支部の収支報告書
甲第2号証  衆議院法務委員会議事録
甲第3号証  毎日新聞記事
甲第4号証  森田健作政経懇話会の平成19年収支報告書
甲第5号証  朝日新聞記事
甲第6号証  森田健作政経懇話会の平成17年収支報告書
甲第7号証  毎日新聞記事
甲第8号証  東京新聞記事
甲第9号証  千葉日報記事
甲第10号証 読売新聞記事
甲第11号証 2号ビラ
甲第12号証 読売新聞記事
甲第13号証 週刊朝日記事
甲第14号証 朝日新聞記事
甲第15号証 朝日新聞記事

添付書類

1、委任状           通
告 発 状

千葉地方検察庁検察官 殿
                  平成21年4月15日
告発人ら代理人  弁護士 西  島  和

告発人ら復代理人 弁護士 坂 本 博 之

同        弁護士 及 川 智 志

同        弁護士 廣 田 次 男

同        弁護士 中 丸 素 明

同        弁護士 菅  野  泰

同        弁護士 大 木 一 俊

同        弁護士 谷 萩 陽 一

告発人の表示    別紙告発人目録記載のとおり  
     
代理人の表示    別紙代理人目録記載のとおり

被告発人の表示   住所不詳
被告発人  森田健作こと鈴木栄治 

住所不詳
被告発人  氏名不詳

公職選挙法違反等告発事件
 
告発の趣旨

被告発人森田健作の次の告発事実に記載の行為は公職選挙法第235条第1項の罪に該当し、被告発人氏名不詳の次の告発事実に記載の行為は政治資金規正法(平成18年12月改正前、以下同)第26条の2により処罰の対象とされる同法第22条の5に違反しますので、捜査の上、厳重に処罰されたく告発します。

告発事実及び告発の事情

第1 告発事実
 1 被告発人森田健作関係
 被告発人は、平成21年3月29日施行の千葉県知事選挙(以下「本件知事選」という)に際し、立候補して当選したものであるが、自己に当選を得る目的で、本件知事選において、公職選挙法第142条第1項第3号所定のビラ(以下「法定ビラ」という)を配布するにあたり、被告発人が本件知事選当時自由民主党東京都衆議院選挙区第二支部(以下「本件政党支部」という)の代表者の地位を有し、本件知事選に先立つ平成16年から平成19年までに、本件政党支部が企業・団体等から寄附金として受領した合計約1億6185万円を含む本件政党支部の収入約2億0409万円のうち合計1億5030万円を、被告発人が代表者を務める資金管理団体「森田健作政経懇話会」において寄附金として受領していた状態であったのに、法定ビラのうち1種類のビラに、「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」等の記載とともに、被告発人を「完全無所属候補」と表示して被告発人が政党とは人的・資金的なつながりがないことを記載したビラ(以下「本件2号ビラ」という)を相当枚数作成し、本件2号ビラを平成21年3月12日から同月28日までの選挙期間中に相当枚数配布し、もって公職の候補者の身分に関し虚偽の事項を公にしたものである。
 2 被告発人氏名不詳関係
 被告発人は、自由民主党東京都衆議院選挙区第2支部の役職員又は構成員であるが、同第2支部において、平成17年に外国法人・外国人の発行済み株式の保有率が50.62%、平成18年に外国法人・外国人の発行済み株式の保有率が51.82%であった株式会社ドン・キホーテ(代表取締役安田隆夫)より、平成17年に合計650万円、平成18年1月から11月までに合計330万円の寄附を受領し、もって主たる構成員が外国人若しくは外国法人である会社からの寄付の受領を禁止する政治資金規正法(平成18年12月改正前)第22条の5の規定に、団体の役職員又は構成員として違反したものである。

第2 告発の事情(被告発人森田健作関係)
 1 虚偽事項の公表
(1)「不完全無所属」(被告発人が政党とつながりがないといえないこと)
  ア 被告発人は、平成16年ころから少なくとも本件知事選当時まで自由民主党東京都衆議院選挙区第二支部(以下「本件政党支部」という)の代表者であった(甲1・本件政党支部の収支報告書、甲2・衆議院法務委員会議事録)。
 本件政党支部は、政治家個人では受け取ることのできない企業団体からの政治活動に関する寄附を受け取ることができる政治資金規正法第21条の「政党の支部」であるところ、合計約1億6185万円の企業・団体献金を含む本件政党支部の収入約2億0409万円のうち、合計約1億5030万円が、「森田健作政経懇話会」に寄附されている(甲2・衆議院法務委員会議事録、甲3・毎日新聞記事)。
 「森田健作政経懇話会」は、被告発人が代表を務める資金管理団体であり、本件政党支部と同一の住所に事務所がおかれている(甲1・本件政党支部の収支報告書、甲4・森田健作政経懇話会の平成19年収支報告書)。
 すなわち、被告発人は、平成16年から本件知事選当時まで、政党から本件政党支部の支部長という特別な地位を与えられていたことによって、被告発人個人では受領できない多額の企業・団体からの寄附を含む資金を被告発人の政治活動に利用し、または利用しうる立場にあったのであるから、本件知事選当時、被告発人と政党との間に相当強いつながりがあった。
  イ なお、被告発人は、被告発人と政党とのつながりについて、「支部の資金を今回の知事選の選挙活動にはあてていない」等と釈明している(甲5・朝日新聞記事)。 
 しかし、
?平成17年の森田健作政経懇話会の収入は8658万円余であり、うち8061万円余が本件政党支部からの寄附であること
?平成17年2月に森田健作政経懇話会から「鈴木栄治」へ4000万円が、平成17年3月に森田健作政経懇話会から「元気モリモリ千葉を日本一にしよう会」へ4500万円が、それぞれ寄附されていること(以上甲6・森田健作政経懇話会平成17年収支報告書)
?前記「元気モリモリ千葉を日本一にしよう会」が公職選挙法に基づく知事選の確認団体であること(甲3・毎日新聞記事)等の事実から、平成17年に実施された千葉県知事選挙(以下「前回知事選」という)に本件政党支部の資金が利用されていることが確認できる。そして、被告発人が前回知事選から引き続き本件政党支部の支部長であったことからすると、本件県知事選の選挙活動にも本件政党支部の資金が利用されたことが強く推認される。
 また、仮に、前記被告発人の釈明のとおり、被告発人が本件県知事選に支部の資金を利用していないとしても、被告発人は、平成17年に施行された千葉県知事選挙で落選した後、本件知事選での当選を期することを表明し(甲7・毎日新聞記事、甲8・東京新聞記事、甲9・千葉日報記事、甲10・読売新聞記事)、政治活動を行っているのであり、本件政党支部の資金を利用して本件知事選での当選を期した政治活動を行い、また行うことができる状態であったといえるから、被告発人が本件知事選当時政党とつながりがなかったとは到底いえない。
 (2)「完全無所属」
 被告発人は、被告発人が配布した本件2号ビラに、自らについて「完全無所属」「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」等と表示し、政党とのしがらみがないことをセールスポイントして訴えた(甲11・2号ビラ)。
 本件2号ビラにおいて、「完全無所属」とならんで「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」との文言が用いられていることから、「完全無所属」という文言は、単に立候補の届出や、政党への所属のみならず、政党とつながりがないことを意味する表示として用いられているといえる。
すなわち、「完全無所属」とは、その文言自体、または少なくとも本件2号ビラの他の文言(「政党より県民第一」「候補者力だけが頼り」等)とあいまって、候補者が、政党と人的つながりも、資金的つながりもないことを表示する事項といえる。
被告発人は、本件知事選の選挙期間中に「知事は政党の支援を受けては駄目だ」と訴えていること(甲12・読売新聞記事)、「運動員が『政党のしがらみのない完全無所属候補』と連呼しながら候補者の横でビラをまく選挙戦を展開した」こと(甲13・週刊朝日記事)からは、被告発人自身、政党と人的・資金的つながりのないことを表示する言葉として「完全無所属」という言葉を用いているといえる。

その3から続く)

政党的なもののモノローグ

 わが郷党の人びとは、権威あるもの、慣習的にすでにあるもの、を疑わない。ただし、そうした傾向は、わが郷だけのことではない。アメリカの社会学者、ラザースフェルドによれば、一般に人びとは、自分の意見や態度と一致あるいは近似した内容のコミュニケーションに接したがり、そうした内容だけを受容する傾向にある。しかしまた、そうした傾向は、血縁的なもの、地縁的なもののつながりを基調とする「前近代」的な社会においてきわだっている(「ピープルズ・チョイス」)。

 わが郷党の人びとの多くは、「革新系」と報道されている以上、その候補者の革新性を疑わない。メディアは、労働組合が推し、いわゆる革新政党がその候補者を推しているから、慣習的にそういっているにすぎない。しかし、人びとは、それを追認する。「お上」的なものへの絶対服従的不感症シンドロームは、こういうところにも現れているのである。 私たちは、そうした古い意味での「ムラ社会」的な構造をなんとしても変えなければならない、と思った。

 私たちがまずとりかかったのは、第5の選択肢としての無党派候補の擁立である。私たちのメンバーの中には、共産党の女性市議会議員がいた。柔軟で、気さくで、人の話をよく聞く人である。私たちは、この人を無党派候補として擁立したい、と思った。無党派候補ということならば、私たちも推せる。また、彼女が無党派候補として出馬したならば、必ず台風の目になる。無党派の風もきっと吹くに違いない。彼女は政党の枠を超えて、「普通の市民」として魅力的であった。

 しかし、共産党の答は、結局のところノーであった。彼女を立候補させることは、現在、市議会で同党の持っている議案提案権を失うことにつながる。それは、市民にとっても大きな損失である、というのである。だが、そうしたことあげは、敗北を前提にしている。「無党派の風」をスローガン程度に思いなしているのは、彼らも例外ではない。この土地に棲む人びとは、ひとしく、かのシンドロームの重篤な患者となっているのである。

 人それぞれに、あるいは組織が異なれば、その考え方や思惑も違ってくるだろう。当然なことであり、それぞれの違いは尊重されてしかるべきだ。そうした当たり前のことを前提としていうのだが、仮に、その市長選に敗れたとしてもよいではないか。一時的に議案提案権を失うことと、市民の深い共感をかちえることと、どちらが重要なのか。天秤にかけるわけではないが、天秤の量り方ぐらいは知っておくべきだろう。彼らの度量衡のとりかたは、あまりに近視眼的なのである。

 私たちは視点を変えてみよう、と思った。すでに出馬を表明している4人の候補者は、革新系といわれる候補者を含めて、実質的にすべて保守系の人たちである。だが、鳥取の片山知事、宮城の浅野知事の例のように、全国的に改革派首長として注目されている人たちの多くもまた、いわゆる保守系の人たちである。保守系候補者でも十分に「市民派」たりえるのではないか。保守とか革新とかいう古いレッテルにとらわれる必要はない。重要なのは、この郷の「ムラ社会」的な構造に1ミリの変化があること、その候補者が、市民の望んでいる施策を実行しうるかどうか、である。

 私たちは、1人の保守系候補者に注目した。その候補者は、あくまで相対的な評価としていうのだが、市民参加、公共事業、環境・原発問題、あるいは地方自治そのものについて、他の候補者の誰よりも民主的、具体的なビジョンを示しえていた。しかし同時に、選挙基盤ももっとも脆弱であった。他の保守系候補者との差異化をはかり、無党派の風が吹かなければ勝算はないだろう。

 われ=われ・ネットもその無党派の風の一端には違いないが、こちらもあまりに無力である。私たちは、先の女性市議会議員擁立構想の延長線上のこととして、共産党との連携を考えた。もとより、その他の革新政党が「保守よりも保守らしい人」を支持、または推薦しているということが前提としてある。保守系候補と共産党、無党派市民グループの組み合わせは、わが郷党の人びとの耳目を驚かすに違いない。その驚きは無党派の風の必要十分条件である。

 しかし、ここでも共産党の答はノーであった。同党としては、私たちの推す候補者が前市政で果たした「保守」の役割を帳消しにはできない、と思ったことだろう。また、その候補者の今後の市政運営について危ういものを感じる、ということでもあっただろう。しかし、そういうことであるならば、「保守」との連携などそもそもありえない。また、同党が独自候補を擁して戦ったとしても(現実にそうなったのだが)、勝利は覚束ないことは、ほかでもない彼ら自身によってよく自覚されていたはずだ。「市民との連携を重視する」というのであれば、もっと広い視野にたって、政治の「革新」を考えることはできなかったのか。結果として、現市政が誕生することになったのである。

汚れた父もまた父である

 私がこれまで追究してきたのは、最近の流行のことばを使えば、庶民性を超えた市民的(パブリック)な政治意識を構築していく上でのコラボレーション(共同/協同)の問題である。その政治的な共同性のありようについて、文芸評論家の加藤典洋氏は、私たち市民に向けて、これまで「だれも語ったことがない、だれにも似ていない」(赤坂憲雄「敗戦後論」評)根源的な問いを発している。

 私は先に、私たちの国が、70年代以後、急速に保守化していったこと、また、それ以後のこの国の精神の惰弱について述べた。しかしそれは、「敗戦」の受容のしかた、という形で、戦後日本の初発において、すでに始まっていたのではないか、と加藤氏はいう。彼はその論攷において、私たちがこれまで保守的と思っていたもの、あるいは革新的と思っていたものの相似性を剔抉し、その「深い自己欺瞞」を衝く。

 たとえば、戦死者の問題について。第2次世界大戦は、日本人にとって、はじめての負けいくさだったというばかりでなく、道義的にも「正義」のない悪い戦争だった。これまで戦争の死者といえば、どのようないくさの場合でも、彼らを厚く弔うのを常としてきた。しかし、この戦争は、自国の死者が無意味な死者となるほかない、はじめての戦争を意味した(原爆の死者があったことは、戦争の死者を弔いやすくするための外的な偶然だった)。

 護憲派(革新)は、戦争の死者を弔うというとき、「無辜の死者」(肉親、原爆の死者、2000万のアジアの死者)を「清い」ものとして立てる。そこに、侵略者である「汚れ」た死者(300万の自国の死者)は位置を与えられていない。一方、改憲派(保守)は、その正確な陰画として、300万人の自国の死者(特に兵士として逝った死者)を「清い」存在(英霊)として弔おうとする(靖国神社問題)。両者に欠けているのは、汚れている死者を汚れたままに、自分たちの死者として深く弔おうとする態度である。そういう意味では、保守も革新も相似的な存在である。

 平和憲法の問題にしてもそうだ。あの憲法は、強大な武力、「アトミック・サンシャイン(原子力的な日光)」を背景にして押しつけられた(マーク・ゲイン「ニッポン日記」)。「護憲」をいうにしても、そうした「汚れ」た事実を引き受けた上で論じなければならない、と彼はいうのである。

 加藤氏の思索には、いわゆる保守と革新の「これまで」の不毛な対立を乗り越え、「これから」の共同のあり方を考える上での重要な鍵が示されている。郷土愛が尊ばれるならば、「汚れ」た自国の死者を深く弔うという、ナショナルな共感から出発して悪いはずがない。その共同の感情のフロンティアは、地方自治にとっても重要なものである。

 いろいろな問題点を抱え持っていたとしても、大分にも無党派の風が吹いた。それは、一過性のものではない。市民の底力を示すものだ。しかし一方で、いま、ある意味で戦後的な価値観を身につけ、「普通の市民」の感覚を持った「新しい歴史教科書をつくる会」の会員が静かに増えているという。彼らはナショナリスティックに天皇万歳を叫ぶわけではない。が、左翼、市民運動、人権主義など「アンチ左翼」の共通意識で結ばれている(小熊英二・上野陽子「〈癒し〉のナショナリズム」)。こうした「草の根保守」の拡がりは、地方自治、あるいは私たちの国の危うさでもあり、「草の根民主主義」のいまある危うさでもある。われ=われ・ネットの活動は終った。が、それは、新たな第一歩を踏み出す始まりでもなければならないだろう。(了)

注:この原稿の最終の項「汚れた父もまた父である」を書き終えた後、高橋哲哉氏などの加藤典洋著『敗戦後論』批判があること、また高橋・加藤論争などがあったことを知り、高橋氏などの論に説得力を感じました。私の上記の加藤評価は少し以上に訂正する必要を感じます。が、資料として当時の原稿のまま、また当時の考え方のまま再録しておきます。
その2から続く)

「保守」的なもの、「革新」的なもの

 実は、私たちは、県知事候補者への公開質問状の発表に先だって、大分市長選挙に立候補を表明している4人の候補者に公開質問状を出している。この場合のわれ=われ・ネットは、大分市在住者によるものとなった。私たちは、その設立主旨において「政治を市民の手にとり戻そう」といったが、それをいう以上、この市長選の問題をもなおざりにすることはできなかった。

 当初、大分市長選挙は、同選挙に出馬を表明している4人の候補者の内、3人が保守系、1人が革新系という構図で進んでいた。大分は、全国的な退潮傾向にもかかわらず、社民党や民主党が例外的に強い土地柄である。その上に保守の分裂である。いやが上にも、革新系断然有利というのが大方の予想になっていた。

 しかし、革新系とはいうものの、この候補者は、いわゆる保守よりも保守らしい人であった。その人は、私たちの公開質問状に答えて、有事法制の重要性を強調した。また、その安全性について、さまざまに疑義のある原発推進の立場も明確にした。上記4人の候補者で行われた公開討論会では、わが国だけでなく、世界的に経済の低成長時代に入って、発想の転換が真剣に求められているときに「中央の人脈をいかして企業誘致を進める」、と経済成長優先の姿勢を堅持してゆるぎない。あざやかに保守(ことばの文字どおりの意味での)の人である。この土地では、こういう人をも「革新」というのである。

 断っておきたい。私は、いわゆる保守と革新という2項対立の図式による見方はとらない。何人かがそういうとき、なんらかの基準軸が設定されているはずである。しかし、どのような基準軸であれ、相対的なものでしかない。絶対的な価値基準など存在しないからである。しかし、いつのまにかその基準軸は、あいまいなままに独歩する。そうして自ら主体となって、人びとを支配する。人びとによる「右だ。左だ」というレッテル貼りがはじまる。60年代には、「総資本対総労働」ということばも流行った。こうした2項対立的な見方、考え方が、わが国の戦後の思想をいかに貧しいものにしてきたか。そうした見方、考え方は、政治の可能性を押し潰すだけでなく、人間の品性さえ不毛なものにしてしまう。

 しかし、そうした前提の上でいうのだが、保守と革新という区分けがまったく意味をなさない、というわけでもない。保守、あるいは革新と判断するときの、一定の共通了解というものはありえる。その共通了解の基準は、それを判断しようとする主体にとって、その人が市民サイドに立っているかどうか、正当な歴史感覚を持ちえているかどうか(たとえば、有事法制に反対の態度をとるというような)、である。私は、上記の基準によって評価できるものを、便宜的に「革新」と呼ぶ。

 この候補者を「革新」と評価できない理由はほかにもある。先の県知事選で、大分の連合が、前知事後継候補者の推薦を機関決定したこと、しかし、6期24年に及ぶ平松県政的なものに多くの県民がノーをいったこと、ははじめに書いた。そのふたつのことには、ポリフォニック(多重人格的)なねじれがある。労働者とは、市民のことではなかったか。労働者によって構成されているはずの連合が、市民から遊離しているのである。

 私たちの活動は、住民不在の自民党主導による候補者選考について異議を申したてるところから始まった。連合にもそうした申し入れをした。にもかかわらず、彼らは、異議を申したてられる側についた。彼らのとった態度は、労働組合としての理念にかなったものだろうか。私たちには、そのようには見えないのである。そうしたことへの反省、批判は一切行われないまま、その組織といわゆる「政策協定」(別の見方では「談合」という)をとりかわし、かの候補者は出馬表明した。それをしも「革新」と呼べるだろうか。

その4止に続く)
その1から続く)

卑怯、惰弱の精神について

 現代においては、一揆は市民運動的なものを、長は市民運動的なものをリードする活動家をさしてもいよう。われ=われ・ネットワークもひとつの市民運動体であった。嘉永から時代はおよそ150年を過ぎている。風俗も変わった。しかし、本質的に「民(たみ)の聲」は変わらないだろう。民はいつもぼそぼそとものをいう。私たちは、その聲をしかと受けとめえたか。私たちは、平松県政ノーをいった。しかし、6期24年に及ぶ平松県政的なものに人びとが倦み、その思いがいまにも溢れださんばかりになっていたことをしかと受けとめえたか。そうではなかった。逆に、私たちは、筑紫氏という超有名人の出馬に期待する以外、前知事後継の候補者の圧勝を信じて疑わなかった。

 「お上」的なものへの絶対服従的不感症シンドロームは、保守も革新もない、わが土地の人びとを一様に根腐れにしている。私たちも例外ではない。そのありようは、変革を求める市民の声を聴きとることができないという意味で惰弱、不遜の精神といわなければならず、志を歪め、事をあいまいに処するという意味で、卑怯ともいわなければならない。これでは山は動かないだろう。

われ=われの共感者たち

 私たちが県知事候補として擁立しようとした人たちは結果的に10人を超えている。前述の筑紫哲也氏、ほかに3人の弁護士、1人の代議士、1人の医師、1人の旅館経営者、1人のキャリアを含む4人の有名無名の女性。その中には、田畑を耕すことを生業とする人も、無党派市議会議員もいた。そのうちの半数は、筑紫氏と同時期に名前のあがった人たちで、われ=われの候補者として筑紫氏に収斂されていく際に、そのまま立ち消えとなった。しかし、そういう人たちを含めて、そのほとんどが県内在住者である。それぞれにゆえあって候補者として擁立することはできなかったものの、彼ら、彼女たちは、われ=われ・ネットにとって強力な人材であったことに変わりはない。しかし、私たちは、彼ら、彼女たちをわれ=われのネットワークにくみ入れようとしなかった。また、実のところ、彼ら、彼女たちのどれだけが「民の聲」をよく聴きえていたかも疑わしい。少なくないわれ=われの候補者が二の足を踏んだのだった。

 筑紫氏が出馬しないことが明らかになると、もう勝ち目はないと見たのだろう、われ=われ・ネットを離れようとするものも出た。しかし、筑紫氏は、その返信にこう書いていた。「お申し越しの趣旨はよく理解できます。/地方自治、市民、個と個が手をつなぐ『われ=われ』の考え方にも共感する部分が大です。/にもかかわらず、今回もお断りしなくてはならないのは、以下の理由からです。(略)/今年(注:02年)に入ってからの県庁所在地の市長選挙や尼崎市の例を見ても、状況は動いていると思います。政党や官僚は今や、ネガティブ・ワードと化しています。無名の新人に十分、チャンスはあると思います」。偏狭で狭小な私たちは、筑紫氏の指摘を外交辞令ぐらいに思いなした。

 地元でわれ=われの活動に共感し、協力、支援をしてくれる人も少なくなかった。古くからの「ムラおこし」の名プロデューサー、小鹿田の里の窯元、いくたりかの中小企業家。医師も弁護士も大学教授もいた。彼らは、それぞれの持ち分で協力を約束してくれた。もちろん、われ=われ・ネットに名を連ねてはいないが、私たちと同じような思いで各様の市民運動をしている仲間も各地にいた。それらの人びとは「無党派の風」の先駆けといってよかった。しかし、私たちは、そのことの意味を理解せず、またそれをいかすこともできなかった。

市民運動的(シビル=ムーブメント)なもののモノローグ

 市民運動をする者に往々に見られる傾向がある。「仲間内のやりとりに終始し、そのやりとりだけで自足している」(逢坂誠二「福岡県知事選フォーラムでの発言」)。彼ら(もちろん、私たちと言い換えてもよい)の多くは「拡げる」という観点、あるいは外への目配りを欠いている。なにごとも仲間内の視点でやりすごそうとするのだ。しかし、そのことを指摘されると反発する。彼らは、自らのキャパシティーの狭さを自覚していない。その傾向は当然、無党派市民の集まり(政党人や市民グループの代表もいたが)としての私たちの側にもあった。「仲間じゃない人、苦手な人にこそ勇気と情熱を持って働きかける」(同前)べきところ、彼らは、その行動に距離をおくのだ。われ=われ・ネットへの個人としての参加を呼びかけた他の市民グループの多くもまた例外ではなかった。彼ら、あるいは彼女たちの対応は概して冷たいのである。関心を示さない。動こうとしない。無党派の風は、不思議なことにここだけは凪いでいるのである。

 先年の阪神・淡路大震災の直後、何十万人というボランティアが被災地に駆けつけ、瓦礫の片づけを手伝った。被災者には炊き出しをし、豚汁や握り飯をふるまった。お年寄りたちの世話もした。私たちは、それを映像や新聞で見て、世の中も捨てたものではないな、とひとしきり感慨を催した。しかし、彼らの多くは被災者に公的な救済を求めようとする運動には背を向けた。

 大阪在住のジャーナリスト、今井一氏は、その重要性にもかかわらず「ボランティアは政治的な活動を避け」てしまう、とその体験談をいう。そして彼は、米軍のイラク攻撃への「『戦争反対』のアクションについても同じ匂いを嗅いでしまう」と嘆息する。「本当に反対するつもりなら、政治的に動く必要がある」というのである(「“NOWAR!”をファッションで終らせるな」)。

 私も今回の選挙(大分市長選挙)で、有事法制反対をいう労働組合が、有事法制賛成の候補者を担いで平然としているさまを見た。その組合員の少なくない人たちが、市民運動の活動家でもあることを私は知っている。

失われた世代(ロスト・ジェネレーション)

 ひとつ気づいたことがある。われ=われの活動に協力、支援してくれようとした人たちには60代、70代の人が多かった。彼らは50年代、60年代の政治の季節に若者であった人たちである。彼らの世代は、象徴的にいって、あるときは政治に期待し、またあるときに政治に絶望した。そのようにして生きてきた。スターリンを知り、人民戦線を知り、毛沢東を知っていた。私は、いわゆる全共闘世代である。私も、それらについて、いくばくかのことは知っている。しかし同時に、これらの世代が雪崩をうつがごとく自滅していることも知っている。私たちの世代はバブルを謳歌した。70年代以降、私たちの国は急速に保守化していった。

 わが国の風俗、人びとの感性(生活スタイル、思想までも含む)は、70年(昭和45年)前後を分水嶺として決定的といってよいほど変容した。そのように見る批評家は多い。その中のひとり、小浜逸郎氏は、平成4年版の国民生活白書を根拠に、適切な指標をあげて説得的である。

 彼の引く「白書」によれば、たとえば都市人口の割合は、戦前の1930年から70年までの40年間に24%から71%へと47%も急上昇したが、その後の20年間はわずか5.8%増。洗濯機、冷蔵庫、掃除機のすべての普及率が9割を超えるのが、70年から75年の間。高校進学率は55年から75年にかけて急上昇し、9割を超えたが、それ以後は横ばい。大学進学率は、男子の場合、逆に75年を境にして下降しはじめる(『人生と向き合うための思想・入門』)。

 小浜氏の以後の論証は措(お)く。その結果、なにが変容したのか。現代について「単独発言」を続ける、作家の辺見庸氏はいう。「まっとうな怒りをせせら笑い、まあまあととりなして、なんにもなかったように見せかける(略)。記憶するかぎり、老いも若きもこんなにも理念をこばかにし、かつまた、弱きを痛めつけ強きを支える時代ってかつてなかった。これほど事の軽重をとりちがえながら賢し顔を気取っている時代もなかった」。彼は、そこに「鵺(ぬえ)のような全体主義化」を感じとる(『眼の探索』)。ひとことで「保守化」というが(現に私もそのようにいったが)、その様相は「鵺」のようにまがまがしく、うす気味悪く、為体(えたい)がしれない。30年の後、時代はここまできた。

 けれどもいま、私たちの国には、これまで見たこともない、思いがけないほど新鮮で、ピュアな新しい感性も育っていることもたしかだ。今年のゆふいん文化・記録映画祭で見た『由布院源流太鼓』(呉美保監督)は、20代前半の作者が、当地で出会った彼に密着取材して、その「恋」をドキュメントにしたもの。距離感覚の優れた描写力は、新しい感性そのものだ。

 また、市民運動のフロンティアもかつてない拡がりを見せている。「かつて社会の動き方を批判するのは知識人の役割だったかもしれないけども、いまは大衆のなかからそういう人たちが出てきている。(略)おそらく日本みたいにたくさんの(市民の)小さなグループのある社会は少ない」。それは「大変意味のある変化」である。しかしまた、現にある私たちの国の市民運動は、そうした長所をいかしきれていない。無力である。「なぜ無力かというと、横の連絡がない」からである(加藤周一「戦後思想を語る(下)」論座4月号)。

 私たちは、無党派の風をいかすことはできなかった。そういうことと、70年以後のわが国の変容とは決して無関係ではない、と私は思っている。60代、70代の人たちにあって、それ以後の世代に欠落しているものは、よくも悪しくも「政治」への思い入れであろう。70年以後に青春を迎えた世代の多くは政治を「こばか」にするだけだ。そこにはピュアな精神が欠けている。

風蕭蕭(しょうしょう)として、復(ま)た還(かえ)らず

 あのPTA騒動の前後、実のところ、私たちの運動は、死体(しにたい)寸前の様相を呈していた。この時期、運動をもうやめようという者と、続けようという者のせめぎあいが続いていたのである。結局のところ、私たちは、全体の意志として、筑紫氏以後の候補者の擁立を模索した。前知事後継候補への多党(組織)相乗りを批判する「緊急アピール」も発表した。同候補への推薦を決定していない政党への働きかけもした。いま、県政にとってなにが問題なのか。世論を喚起しておくことの重要性を考えてのことだった。その動きをメディアはフォローした。しかし、肝心のわれ=われのメンバーは、1人去り、2人去っていった。私たちには、候補者の擁立、あるいはその支持に関しても意見の対立があった。その人の履歴に自民党的、保守的なものを見て、それを許しがたいとする立場と、6期24年続いた平松県政的なものをともあれ終らせるべきだとする立場に分かれたのである。結局、後者の意見が優った。私たちは、保守的とされる女性弁護士の子育て政策や女性政策を重んじようと思った。その政策を遂行するには、民主主義の扉を必要とするからである。私たちは、その女性弁護士への支持を表明した。が、その段になって、その候補者は不出馬を決めた。そうして、東大出の元商社マンが立候補を表明し、共産党も独自の候補者を擁立した。私たちはもう候補者擁立に関してなすすべをもたない。最後の試みとして、県知事選出馬の各候補者に公開質問状を出すことにした。

その3に続く)
資料として下記の原稿をアップしておきます。2003年6月13日脱稿。

無党派の風(ノン・セクト=ウィンド)は吹いたか?

 大分県知事選挙は、自民党、公明党、連合大分など600を超える団体からの推薦をとりつけて圧勝と思われていた前知事後継の候補者が、元商社マンの無名の新人候補者に約26,000票差の僅差まで追い上げられるという結果を残して終わった。大分市や別府市などの都市部では無名の新人候補者が逆に優位に立った。投票日の翌日、マスコミはこぞって「草の根の力証明」「大分にも無党派の風」などと論評した。私も、大分に無党派の風が吹いた、と思っている。事実である以上、その見方に変わりようはない。そして、喜んでよいことだとも思っている。

 私たちは、その設立主旨に次のように書いた。「時代の流れは、明らかに『長野の乱』に象徴される方向にシフトしつつある。市民の手によって政治は変えられる。/『長いものにまかれろ』という風土の中でわれわれは育ってきた。しかし、そうした無力感からそろそろ脱皮しよう。そうした時代にわれ=われは生きているのだ、ということを誇りをもって見つめ直そう」。そもそも、われ=われ・ネットワークは、「民(たみ)の力」「無党派の力」を恃(たの)んで結成されているのだ。しかし一方で、私は、喪失感のようなものから逃れられないでいる。私たちは、無党派の風をいかすことはできなかった。その思いがしこりとなっていまもある。

市民的な風(パブリック=ウィンド)と庶民的な風(ポピュラー=ウィンド)

 選挙の結果のことをいっているのではない。大分ではじめて政治的なレベルで「民(たみ)の力」を主題にした無党派市民のばらばらな集まり=連帯としてのわれ=われの活動は、ジャーナリストの筑紫哲也氏に出馬要請の手紙を書くことから始まった。マスコミの注目を浴び、あれこれのメディアにとりあげられもした。あっちこっちからの反響も少なくなかった。期待されもした。しかし、理念の問題がいっさい不問にふされたまま、いわば遅れて来た無名の新人候補がその期待を「無党派の風」に乗せてさらっていった。その無念さをいっているのだ。

 東大出の元商社マンという肩書きを持つ無名の新人候補は、われ=われ・ネットワークの立ち上げにいちはやく反応し、われ=われに接触を求めてきた。しかし、つまるところ彼は、「新しい歴史教科書をつくる会」の理念に共鳴する危うい思想の持ち主であった。私たちはその設立主旨に「多様な立場の人々、多様な組織に常に開かれたネットワークであること」という一か条を掲げており、結果として、共産党の市議会議員も個人としてネットワークに参加していたのであるが、彼は、そのことを許容することのできない人であった。

 どのような主張や価値観を持っていようと、そのことをもって私たちはその人を非難しようとは思わない。私たちが良心をもって自らの思想を信じているならば、その人も良心をもって自らの思想を信じているに違いない。そこに道徳的な優劣は存在しない。そうであるならば、同じようにその人も、異なる思想を持つ他者を尊重しなければならないだろう。私たちは、民主主義はそこから始まる、と思っている。

 むろん、政策や理念の違いは、共闘ないしは共同を拒む理由にはなりえる。しかし、私たちが無党派候補を担ぎ出す上で市民に合意を求めているのは、「一握りの人たちによる県政運営ノー」と「政党や組織の候補者の上からの押しつけノー」の二点につきている。その他の違いは認め合おう、といっているのだ。無名の新人候補は、それを拒否する。もはや政策や理念の相違とはいえないだろう。彼は、民主主義よりも反共主義を上位概念とするのだが、私たちは、民主主義を上位概念とする。民主主義を理解しないものに、どうして住民自治を託せよう。私たちに彼を推す選択はなかった。

 しかし、多くの県民は、彼に県政の未来を託した。その証左が、26,000票差の僅差なのである。無党派の風は吹くには吹いた。が、パブリック(市民的なもの)の風が吹いたわけではない。それは、流行歌のようにはかなくしぶとい、ポピュリズムの風であった。しかしやはり、無党派の風であったというべきであろう。県民は、6期24年に及ぶ平松県政的なものにノーという意思表示をはっきりと示したのだ。その庶民的なるものは、愛すべきものか、唾棄すべきものか。

「官尊民卑」の土地の赤ネコ根性

 県知事選を2か月後に控えた1月の下旬、中学に通っている私の娘が「21世紀の大分を創る会」という表書きのある1通の封書を学校から持ち帰った。教室の机の上に置かれていたという。当時、私は、この学校のPTA会長をしていたのだが、学校や地域からの連絡手段としてこういうことはよくある。しかし、学校や地域からの連絡文書ではなかった。私の住んでいる地域の連合自治会長4名の連名による前知事後継の候補者を励ます会の案内状であった。

 もちろん、自治会長らは、励ます会の「○○校区支部長」なるものに化けおおせている。多くの都市、郡部でもそうであるように、自治会長は地方公務員特別職である。肩書きを変えているのは、地方公務員法違反を逃れるための便法であることはだれにでもすぐにわかる体のものである。特別職とはいっても、地方公務員には違いない自治会長らが、自らの地位とその地域のネットワークを利用して特定の候補者を推すこと自体、法的、行政的、道義的な大きな問題性をはらんでいる。しかし、真に問題なのは、ひとり自治会長らの資質の問題に帰するよりも、ひたすら官に従うことをよしとし、官に対する従順度が高いほどよき住民、果てはよき地域リーダーとする大分県に根強い「官尊民卑」ないしは「赤ネコ根性」と呼ばれる封建的な土壌にあるというべきかもしれない。

 そうした問題性をもった文書が、学校を通じて公然と配信されているのである。元小学校校長の自治会長のひとりからそのレターを預かった教頭は、いつもの連絡文書と思ってさしたる注意も払わなかったというのだが、そして、それはそのとおりであろう、と私は疑っていないのだが、それほどまでに「お上」的なものに対する絶対服従的不感症、思考停止、はこの地を蝕んでいる。

庶民的(ポピュリズム)なるものについて

 私は、この問題をわれ=われ・ネットの会議でとりあげた。そして、それが翌日の新聞に載った。私は善意の人である教頭を窮地に陥れたくなかった。学校名を匿名にすることを記者諸氏にお願いしたのだが、若き女性記者にはその訴えが届かなかった。学校名とPTA会長としての私の名前が実名で載って大騒ぎになった。「学校を守るべき立場のPTA会長が学校を売った」と、私はPTAの淑女諸氏から総攻撃をうけた。彼女たちはまたたくまに連絡網を張り巡らし、私への包囲網をつくった。私は臨時拡大理事会なるものを招集して、問題の本質について説明をした。私の説明は彼女たちに受け容れられなかった。いくら理(ことわり)をつくして説明しても「わかりませ?ん」というのである。「受験間近の子どもが不安定になった」「部活の大会で、子どもたちが他の学校の生徒から指を差された」などと涙ながらに私を糾弾し、他の者に同意を促すのである。PTA役員の男たちは泣きはいれないものの、彼女たちと連合を組んだ。私を擁護するものはひとりもいなかった。

 彼女たち(彼ら)は理を聞く耳を持たないのである。あるいは理を理解できないのである。彼女たちはどこかの時点で、おそらく中学生か高校生かの時分、民主主義ということだけではなく、なにかについて思考するという習慣を放棄してしまっている。瞋恚(しんい)や時代の狂気に彼女たち(彼ら)はなす術を知らない。庶民的なるものの負の側面、少なくともそのひとつがここにある。私は暗然とせざるをえなかった。

 しかし、その庶民的なものは、私たちの内面の一部であり、父であり、母である。そのバイタリティー(生命力)は、しばしば歴史のダイナミズム(変革)の主体ともなりえた。そのとき、なにがどのように変容したのか。

「山が動く」とき

 変容の条件は、庶民性そのものの中にある。かつてユダヤ人精神分析学者のE.フロムは、その庶民性を「社会的性格」と名づけた。ドイツの労働者階級や下層中産階級の人びと、いわゆる庶民が、なぜナチズムのイデオロギーを支持し、自発的に服従したのかを問う中で、彼は「社会的性格」という概念に想到したのである。フロムによれば、社会的性格はひとつの集団の大部分の成員がもっている性格構造の本質的な中核であり、それが社会制度の期待と矛盾するとき、社会制度に対する反発と対立を引き起こし、社会変動の起爆剤となる(『自由からの逃走』)。庶民性はいつの場合も両刃の剣なのである。

 ひとつの例。ペリー浦賀来航の年嘉永6年(1853)、わが国の内側からも徳川封建支配の終焉を予兆させるできごとがあった。南部領農民3万人が「小○(困る)」の旗を立ててお上に昂然と(むろん、困窮の極みの果てに、ということでもある)逆らった百姓一揆がそれである。そのときの指導者が遠近の農民たちから「小本の祖父」と呼ばれていた64、5歳の老人小本村の弥五兵衛、栗橋村の三浦命助、安家村の俊作、同村の忠兵衛。「彼らは秩序ある統制をもってついに弘化4年の御用金の重課をはねのけ、一揆の目的を貫いた」(大佛次郎『天皇の世紀』)。

 嘉永6年の事件は、「山が動く」にはまた、庶民そのもの、あるいは庶民の側に立って、痩せさらばえた心骨から発せられる聲によく堪えうる長(おさ)の存在も不可欠であったことを示している。その長のひとり弥五兵衛は「冬の長い国の寒冷な牢内で、命を果て」た。そして、配流地から逃亡して村に帰った俊作、忠兵衛らが遺志を継いだ(同前)。

その2に続く)

 民主党大敗 落ち込む菅首相=読売新聞

あるメーリングリストで今回の参院選での「民主党大敗」を菅首相の消費税発言をめぐってマスメディアの政治部が大騒ぎした結果、すなわち「民主党大敗」はマスメディアに責任がある、と見る意見がありました。以下は、その意見に対する私の反論的応答です。これもエントリしておきます。

マスメディアの報道が「今回の民主党大敗」に大きく影響していること自体は否定しませんが、○○さんのご認識は少し違うのではないか、と思います。

マスメディアが菅首相の「消費税発言をめぐって大騒ぎ」したことは確かですが、その「大騒ぎ」の中心は同首相の「発言のブレ」を問題にするものでした(マスメディアの報道の大勢は消費税増税やむなし=賛成の立場からのものでしたので、消費税増税自体についてのマスメディアの菅批判はありませんでした)。そして、その菅首相の「発言のブレ」を問題にするメディアの姿勢は、メディアの大きな役割のひとつが“ウォッチ・ドッグ(権力に対する監視者)”の役割である以上、私は当然のことにように思います。そのメディアの報道が原因で民主党が仮に「大敗」したのであれば、それはメディアの責任というべきではなく、菅内閣及び菅首相の自業自得というべきものだろう、と私は思います。

ところで、今回の参院選に関してマスメディアはすでに問題は終わってしまったかのように「普天間基地
問題」を一切報じませんでした。

「参議院選挙のまっただ中だ。しかし、鳩山退陣、菅内閣誕生によって、普天間基地問題は選挙の争点から消された。一ヶ月前までのヤマトゥの大手メディアの報道は、しょせんは鳩山首相を追い詰めて『県外移設』を潰すためのものでしかなかった(大半は)。(略)普天間基地問題を参議院選挙の争点から消すことで、政府も大手メディアも無関心なヤマトゥの国民も、沖縄の『怒り』から目をそらし、『日本問題』『ヤマトゥ問題』から逃げている。なんと卑怯なことか。」(「消された争点 目取真俊 海鳴りの島から 2010年7月1日付

「普天間基地問題」をメディアが継続して報道していたならば、私は「今回の民主党大敗」はさらに大きなものになっていただろうと思います。そういう意味では民主党はメディアに救われているのです。そうした視点が失礼ながら○○さんには欠けている、と私は思います。

あなたは「マスメディアが日本の政治を壊している」、また「しかし、政治家の側も弱すぎる」とも言われます。

お尋ねしたいのですが、「マスメディアが日本の政治を壊している」とは民主党政権の政治のことを指しているのでしょうか? そうであるのならば、私は、民主党政権の政治=日本の政治というのは少し以上にミスリーディングな等値式というべきであり、かつ「『最低でも県外』と首相自ら公約しながら県民の心を8カ月間ももてあそび、『辺野古現行案』に回帰するという公約違反の裏切り行為」(琉球新報社説、2010年6月1日付)に及んだ民主党政権は「壊」れて当然だった、まだまだ「壊れる」べきだったとも思います。

また、「政治家」という表現もミスリーディングな表現というべきだと私は思います。この場合は文脈から民主党の政治家という意味になるのでしょうが、そう書かずにあえて単に「政治家」というとき、民主党の政治家の非を他の政党の政治家の非に転化することにもなりかねません。一般論ではほんとうの批判にはなりえないように思います。

雨宮処凛さんと堤末果さん(右)

以下は、あるMLで堤未果さんという少壮のジャーナリストを評価する向きの発言がありましたので、その発言に否を唱えた私の応答です。

堤未果さんについては彼女が若くして日本ジャーナリスト会議黒田清新人賞を受賞したことや一昨年『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)を著わし、同著書が30万部を超えるベストセラーになったことなどから、いわゆる革新・護憲陣営の中にも彼女を「革新勢力の旗手」として評価する向きが少なくありません。しかし、その評価は私は少し以上に誤っていると思います(このようにやわらかく表現しておくのは彼女はまだ若く、これからよい方向に変化する可能性もないわけではないからです)。以下、警鐘の意味を込めて同文をエントリしておこうと思います。

○○さん。あなたは間接的な表現ではありますが堤未果さんを評価されているようですが、堤未果さんは評価に値するような人でしょうか? 私には疑問です。

堤未果さんは一昨年の国会での国籍法改正審議の際に同法改正に反対する「アホウヨ」まがいの実にくだらない意見を東京新聞に発表しています。彼女の左記の発言の全文とその意見のあまりの「ばかばかしさ」についてはmacskaさんのブログに適切な指摘があります。

「参議院議員の川田龍平さんのパートナーで『ジャーナリスト』の堤未果さんが、11月30日付けの東京新聞に国籍法改正についてのコラムを掲載している。全体を読まないとそのばかばかしさが十分に分からないと思うので、以下に全文引用する。」
http://d.hatena.ne.jp/macska/mobile?date=20081209&section=p1
http://d.hatena.ne.jp/macska/20081201/p1

さて、あなたが好尚するネット上では堤未果さんの人物評について次のような意見も散見されます。

「堤未果っていう人の考えていることがよく分からない。アメリカでの貧困の告発をする彼女と、日本のネトウヨまがいの連中に賛同してしまう彼女が、同じ人格の中で同居しているのが、よく分からない」(雲さんTwilog  2010年7月15日付)。また、左記のTwilogによれば堤未果女史はどうやら「夫婦別姓合法化」にも反対している様子でもあります(ウラはとれていません)。

川田龍平氏が新自由主義とポピュリズムの政党であるところのみんなの党に鞍替えしたことにはかつての仲間内からも批判は多いのですが、その批判の中には堤未果さんの川田氏に対する負の影響を指摘する人も少なくありません。私としてはプライベートにわたる点もあり、事実を根掘り葉掘り確かめるのも気が引ける話なのでうわさ話の程度に聞き置いていますが、上記の東京新聞上の彼女の論を読むにつけそのうわさ話(ほんとうは川田夫妻をよく知る確かな人の話でもあるのですが)にかなりの信憑性を感じているしだいです。

それにしても堤未果さんが『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書。同著は30万部を超えるベストセラーになりました)など何冊かの本を出しただけで、確かな批評眼もなく一部に彼女を持て囃す風潮がありますが、正直なところ私はうんざりさせられています。

私は先のエントリで次のような意見を述べておきました。

本来「革新」の言説を発信する媒体であるべきメディアが逆に大マスコミの論調に巻き込まれた「論」を展開し、その「論」のまやかしに気づかない読者を拡大しているという逆説が横行しているというのが残念ながらいまの護憲・革新陣営の現状です。

上記の現象もその一例のように私には見えます。

 

講演する寺島実郎氏

最近加入したばかりの小選挙区制関連のあるメーリングリストを通してフリージャーナリストの林克明さんから寺島実郎が「国会議員の定数削減という、とんでもない暴論を主張し続けている」というメールが発信されてきました。
http://kusanomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-3e07.html

以下は、林メールに対する私の応答です。寺島実郎という流行評論家(似非「革新」の徒)の正体を広くご認識していただくためにも本MLにも同文を転載させていただこうと思います。


林さん、ご論拝見しました。

おっしゃるとおり寺島実郎は国会議員定数削減のプロパガンダの徒と化していますね。

というよりも、寺島実郎という人はもともとそうした保守的な思想を持つ人なのでしょう。私は彼の存在を認識したのは筑紫哲也の「NEWS 23」にたまに出ていたあたりからですが、彼の発言を聞いて、私はついぞ寺島実郎を「革新」の徒などと思ったことはありません。林さんのおっしゃる寺島の「テレビを見ていても落ち着いた態度とその口ぶり、冷静に見える説明の仕方」は、私にはすべて「ような」というカッコウつけにしか見えません。すなわち、一見「落ち着いた」ように見えるが実はそうではない。一見「冷静」のように見えるがこれも実はそうではない。筑紫哲也存命中は、番組で筑紫も寺島実郎の発言を相対化していたように思います。すなわち、寺島にそれほどの存在感はありませんでした(筑紫には眼識力がありましたし、筑紫のほうが寺島より「革新」的でしたから、当然そういうことになります)。

寺島が「言論界の重鎮のような感」を帯びてきたのは筑紫の死以後のことのように思えます。寺島は朝日新聞や同紙系列のテレビ朝日の「報道ステーション」などでも重用され「重鎮」的様相を帯びてきました。しかし、それは、朝日新聞や報道ステーションの中身のなさに相応して彼の発言が相対的に「重み」を帯びて見えた、ということでしかなかった、あるいはないだろうと思います。対手がエンタメ出身の(政治的には無教養な)古舘伊知郎程度の人ですからこれも当然そういうことになるでしょう。

上記のことなどと相俟って雑誌『世界』などのいわゆる進歩・リベラル系の雑誌、また護憲系のマガジンが彼を重用してきたことも寺島を「重鎮」ぶらせている、さらには国会議員定数削減のプロパガンダの徒たらしめている大きな一因になっているようにも思えます。私は『朝日新聞』『世界』などの世間から進歩・リベラル系と見られているメディアが寺島実郎を重用することに同紙誌の反動性(もちろん、相対的な)と見識のなさを見て不快感と(『世界』が輝いていた時代に知的恩恵を受けた者として)痛恨の思いを拭えません。

雑誌『世界』が寺島実郎を重用している実例を挙げておきます。下記の寺島の発言は『世界』(2007年10月号)に掲載されているものです。

「ともあれ、日本の政治状況は『二院制の意味』と『二大政党制の意味』が問われる局面に入った。数の論理だけが議論を封殺して押し切るのではなく、政策論の妥当性が吟味される時代なのである。代議制民主主義にとって試練の時である」(「何故、自民党は大敗したのか―2007年夏、見えてきたもの」)。
http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0710.php

これだけの引用では上記で寺島の言う「二大政党制の意味」とはなんのことかよくわかりませんが、よく読めば、下記の山口二郎氏と宮本太郎氏の共同論文に言う「二大政党制の意味」と相呼応するものであることがおわかりいただけるものと思います。山口・宮本論文は結論部分で次のような「二大政党制」への期待感を述べています。「九〇年代から始まった政治改革や政党再編の試行錯誤は、最終段階に入った。右側に新自由主義路線を取る保守政党、左側に福祉国家路線をとる社会民主主義・リベラル政党が対置するという世界標準の二大政党制の姿がようやく現れつつある」。両者とも「2大政党制」論の枠内の中での論というべきものです。そしてこの山口・宮本論文が掲載されたのも雑誌『世界』(2008年3月号)です。いまや雑誌『世界』がどのような役割を果たしているかがわかろうというものです。
http://www.csdemocracy.com/ronkou/yamaguchi080301.html

注:山口二郎氏らの上記の考え方の基調にあるのは「創憲論=改憲論」という考え方です。この「創憲論=改憲論」の考え方の危険性については「<佐藤優現象>批判」の筆者の金光翔さんの明確な批判があります(『<佐藤優現象>批判』(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)【下】の「9.『平和基本法』から〈佐藤優現象〉へ」の項)。ご参照ください。また、その中で金さんが紹介していることでもありますが、共産党の上田耕一郎氏も「『立法改憲』めざす『創憲』論」(『世界』1993年8月号)という論稿で山口二郎氏らの考え方を批判しています(同上の注(60)。詳細は煩瑣になるため省略)。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-25.html

そういうわけで寺島実郎が現在のメディア界で「重鎮」的立場にいるのならばなおさら同氏の論の実質としての保守性を明らかにしていくことが私たちにとって今後の重要な課題のひとつになろうか、と思います。以下、その寺島実郎批判の手がかりになる論稿を紹介しておきます。内容は煩瑣になるため、これも省きます。各自ご参照ください。

■寺島実郎氏のグローバリズム批判(上)(水野杏介 2002年6月15日)
http://www.jlp.net/syasetu/020615b.html
■寺島実郎氏のグローバリズム批判(下)(水野杏介 2002年6月25日)
http://www.jlp.net/syasetu/020625b.html
憲法研究者の上脇博之さんが今回の参院選の比例選挙区での各党得票数と得票率を比較考証して、「民主党の比例代表選挙での得票率は31.56%で、自民党のそれは24.07%であり、合計しても55.63%にとどまるのであるから、民意は二大政党制化していない」こと、「むしろ多党化している」ことを実証的に明らかにしています。


 上脇博之氏


そもそも議会制民主主義といえるためには、民意を正確・公正に反映する選挙制度が採用されているべきであるから、この原点に立ち返り、参議院の選挙区選挙だけではなく、衆議院の小選挙区選挙も総定数を維持した上で廃止すべきである!

そして労働問題研究者の五十嵐仁さんは、菅内閣の支持率の急落と追い込まれ解散の可能性を考究して結論として次のように述べています


 五十嵐仁氏

こうして、近い将来、解散・総選挙となる可能性が高まっています。もしそうなっても、政界再編がなければ、民主党中心の政権に代わることができるのは自民党中心の政権でしかありません。何という不毛な……(略)結局、政権をめぐって、民主と自民とのキャッチ・ボールが始まるということでしょうか。これが「政治改革」によって理想とされた「二大政党制」の現実の姿なのです。(略)こうなってしまった最大の元凶は、「政治改革」によって導入された小選挙区制にあります。まことに「政治改革」の罪は重いと、今更ながら思わざるを得ません。

上記のおふたりの研究者の見解にまったく賛成です。参院選の「結果」を云々するのであれば、まずこの正論をしっかりと押さえた上でのものでなければならないでしょう。

先の「私として参院選の結果を読む 底なしに保守化する『大衆』の現状を憂える」というエントリは、もちろん上記の正論を前提にした上での論のつもりではあったのですが(つもりはあっても、言及しないことには相手には伝わりませんね)、今回の参院選の結果について私として感じる「最大の特徴」点をあぶりだそうとして、いささかマイナーの側面を強調しすぎた感がなきにしもあらずです。先のエントリの補足として僭越ながらおふたりの研究者の所論を紹介させていただきました。

当確後に支援者らとバンザイをする片山さつき氏=11日 産経新聞

女性議員の増加は、一般に重要視されることは少ないのですが、ジェンダー・イコーリティーの観点、またポジティブ・アクションの観点からみてもきわめて重要な政治的事件のひとつとして注視するべきものだろうと私は思います。

しかし、単に性が女性であるところの議員の当落を問題にするだけでは見えてこないものがあります。いうまでもなく女性であっても男性と同様にその思想は千差万別とまではいわないまでもそれぞれであって、その思想にフラッシュを当てない限り、その女性の政治姿勢のほんとうのところは見えてこないのはあたり前のことだといわなければなりません。すなわち、当選した女性国会議員が真にジェンダー・イコーリティーの観点に立ちえているのか、また女性の人権を真に擁護する立場に立ちえているのか、などのその女性議員のいわゆる「政治スタンス」、また理念や思想の問題もあわせて検討しない限りほんとうのところは見えません。反動的な理念や思想の持ち主はたとえ性として女性であっても、必ずしも女性の味方とはいえないでしょうし、そればかりかかえってジェンダー・イコーリティー社会の建設を阻害する役割を果たす場合さえあることは山谷えり子(自民)の反動的ふるまいの例を見ても明らかというべきです。

そういう意味で今回の女性当選議員17人について、その民主度、人権感覚をメディアのアンケート回答からチェックしてみました。私のチェックによれば、その反動的ふるまいの強弱にはもちろん違いはあるにせよ、今後、反動的ふるまいに及ぶ可能性を持つ女性議員は17人中14人。実に82パーセント。恐るべき数字といわなければなりません。この恐るべき数字をいかに過小化させることができるか。それはジェンダー問題であると同時にもうひとつの政治問題ともいえると思います。

アンケートチェックに当たっては、「無回答」「未回答」「非該当」という回答については否定的に解釈しました。否定的ななにかを隠そうとするから「無回答」「未回答」「非該当」という回答をすることは、私はこれまで何度かアンケート分析をしてきましたが以後の追跡調査からも明白なことだ、というの
が私の確証です。

なお、民主党新人の西村正美氏については「全問未回答」という回答のしかた自体が怪しげで、民主主義と相容れないところがありますが、念のため彼女のサイトを調べたところ、西村氏は歯科医師出身で、東京都歯科医師連盟等々→日本歯科医師連盟の推薦を受けて当選を果たしています。日歯連闇献金事件はまだみなさんの記憶に新しいところだと思いますが、同連盟が自民党の有力な支持母体のひとつであったこと(いまは民主党支持に鞍替えしているようではありますが)はあまりにも有名です。彼女を「反動派もしくは反動の可能性あり」に分類するゆえんです。

【全国比例】
〔反動派もしくは反動の可能性あり〕
・谷亮子(民主・新人)          〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 無回答
                       選択的夫婦別姓 無回答
                       永住外国人地方選挙権 無回答
                       取り調べの可視化 賛成
・山谷えり子(自民・現職)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       全問未回答
・高階恵美子(自民・新人)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 非該当
                       永住外国人地方選挙権 非該当
                       取り調べの可視化 反対
・佐藤ゆかり(自民・新人)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 賛成
・片山さつき(自民・新人)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 反対
・三原じゅん子(自民・新人)       〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 賛成
・西村正美(民主・新人)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       全問未回答

〔民主派〕
・福島瑞穂(社民・現職)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 賛成
                       永住外国人地方選挙権 賛成
                       取り調べの可視化 賛成
・田村智子(共産・新人)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 賛成
                       永住外国人地方選挙権 賛成
                       取り調べの可視化 賛成

【選挙区】
〔反動派もしくは反動の可能性あり〕
・蓮舫(民主・現職・東京)        〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 無回答
                       選択的夫婦別姓 賛成
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 賛成
・安井美沙子(民主・新人・愛知) 〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 非該当
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 反対
・島尻安伊子(自民・現職・沖縄)    〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 賛成
・猪口邦子(自民・新人・千葉)      〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 反対
・上野通子(自民・新人・栃木)      〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 賛成
                       選択的夫婦別姓 反対
                       永住外国人地方選挙権 反対
                       取り調べの可視化 反対
・竹谷とし子(公明・新人・東京)    〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 非該当
                       選択的夫婦別姓 賛成
                       永住外国人地方選挙権 賛成
                       取り調べの可視化 賛成
・徳永エリ(民主・新人・北海道)    〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 無回答
                       永住外国人地方選挙権 賛成
                       取り調べの可視化 賛成

〔民主派〕
・林久美子(民主・現職・滋賀)      〔毎日新聞アンケート回答〕
                       憲法9条改正 反対
                       選択的夫婦別姓 賛成
                       永住外国人地方選挙権 賛成
                       取り調べの可視化 賛成

 改めて言う。沖縄の民意を無視することが「元気な日本を復活させる」ということか?

一昨日あった参院選の投票結果について私感を述べておこうと思います。

今度の参院選の結果の最大の特徴は、民主党が大敗し、過半数割れしたことでもなく、自民党が改選第1党に復調したことでもなく、みんなの党が改選議席数0から10議席に躍進したことにある、というのが私の見方です。私がそのような見方をするのは、「みんなの党躍進」という事象がこの国の「世論」なるものを構成する私を含む「大衆」というものの、その大約の思想が根底的、あるいは底なしに保守化していること、また、現在のこの国の「世論」なるものの政治への失望感が保守・中道・革新(便宜的な区分以上のものではありませんが)という政治ポジションのどの地平に向かっているのかを端的に示す象徴的な表象になりえているように思えるからです。

みんなの党は多くの人が共通して指摘するように新自由主義者の政党、また、ポピュリズムの政党とみなしてよい政党です。同党代表の渡辺喜美は、父渡辺美智雄の地盤を継承して14年前に自民党衆院議員となり、その後一貫して同党の要職を歴任してきた根っからの自民党員、新自由主義者であったという彼の政治的出自から見てもそのことは明らかというべきですが、同党の参院選選挙公約にも「国会議員の大幅削減、給与のカット」「国と地方の公務員人件費削減」「官から民へ」「独立行政法人の廃止・民営化」などの新自由主義的な政策が列記されており、同党が新自由主義者の政党であることは明瞭です。

また、同党がポピュリズムの政党であるというのは、上記の新自由主義的な政策をさらに具体化して「国家公務員の10万人削減」や「公務員給与の2割カット、ボーナスの3割カット」などの政策を掲げ、「恵まれた」給与体系を持つ公務員などに対して怨嗟の感情を募らせている「大衆の中にある差別感情」「ねたみやそねみの感情」(辛淑玉「ウケ狙いの政治の果て」)、さらにはルサンチマンを扇動するウケ狙いの政治手法を弄していることからもそのことは明らかです。この「ウケ狙いの政治」手法は、東京・石原都政、大阪・橋下府政、果ては鹿児島・阿久根市政のポピュリズム政治、さらにその果てには戦前のナチス・ドイツのヒトラーのポピュリズムの政治手法にもつらなる暗愚も極まるきわめて危険な政治手法といわなければならないでしょう。

こうしたみんなの党の掲げる政策に一定の支持が集まったというのは、現象的には前回の衆院選では民主党を選択した自民党に失望し、さらには民主党にも失望した保守票がみんなの党に移動した結果といえるでしょうが(注)、本質的にはこの国の「世論」(有権者といっても同じことですが)なるものの大約の思想が根底的に、あるいは底なしに保守化していることを示す端的な表象とみなすべきものだろう、と私は思います。

注:たとえば読売新聞社と日本テレビ・同系列局が11日に共同実施した参院選の出口調査では、支持政党を持たない無党派層のうち、比例選で民主党に投票した人は09年衆院選では52%あったのが今回の参院選では29%にとどまっており、その大部分の票がみんなの党に流れたものと推測されています。また、NHKなど他のメディアの出口調査でも同様の結果が出ています。

この私たちの国の「大衆」の根こそぎ的ともいってもいい保守化現象はなんに起因するのか。私はここ10年から20年にかけて、すなわち1991年の海部内閣時の小選挙区制導入以来進んで「2大政党制=民主主義社会の成熟」論、実のところ「民意の多様性否定=少数政党実質無用」論を掲げ、この20年の歳月をかけて徐々にかつ急激にジャーナリズム精神と権力への批判精神を喪失していった大メディアの責任とその総白痴化の影響が大きいと思います。活字メディアでさえ総白痴化していく中でテレビメディアひとり白痴化しないわけはありません。実際テレビメディアは活字メディアに輪をかけて総白痴化していきました。言われて久しいのですが「報道番組のワイドショー(娯楽)化」という言葉が誕生したこと自体がなによりもそのことを如実に示しています。

今回の参院選の総括もメディアはこぞって「菅首相の消費税増税発言が民主党敗因の最大の原因」などというまことしやかで実体のないご託宣を述べ合っています。

参院選 菅民主大敗 厳しい試練が始まった(毎日新聞社説 2010年7月12日)
「やはり、選挙戦で消費税率の引き上げを持ち出すのはタブーだったのだろうか。(略)民主党内では消費税を持ち出した菅首相の責任論が出ており、9月の党代表選に向け『反小沢対親小沢』の対立が再燃しそうだ。」
参院選 民主敗北―2大政党にさらなる責任(朝日新聞社説 2010年7月12日)
「鳩山前政権の度重なる失政が影を落とし、消費増税での菅首相の説明不足や発言の揺れが大きく響いた。」
参院選民主敗北 バラマキと迷走に厳しい審判(読売新聞社説 2010年7月12日)
「民主党の最大の敗因は、菅首相の消費税問題への対応だ。(略)首相の方針に対して、民主党内から公然と批判が出るなど、党内不一致も露呈した。」

しかし、「民主党が惨敗した理由は、各メディアが報じるような『消費税』にあるとは思えない。もしそうなら、先に『10%』を打ち出している自民党が勝つことはありえない」(週刊金曜日編集長ブログ 2010年7月12日)でしょう。しかし、昨日のテレビメディアの参院選の感想を聞く街頭インタビューなるものを少し見てみましたが、待ち行く人はほとんど「消費税がどうのこうの」と民主党の敗因を語るのです。わが国の「大衆」なるものがいかにマスメディアのウソにたぶらかされて、その土俵の上で踊らされているか。ここにも残念ながらマスメディア、殊にテレビメディアの負の大きな影響力を見ないわけにはいきません。

こうした分析から導き出される護憲・革新陣営(便宜的にとりあえず左記のように表現しているだけのことですが)の対抗戦略は上記のようなマスメディアの負の大きな影響力に負けない「革新」の発信力を構築していくことがなによりも今後の大きな課題になると思われるのですが、参院選投票日前日のエントリなどでも述べているように本来「革新」の言説を発信する媒体であるべきメディアが逆に大マスコミの論調に巻き込まれた「論」を展開し、その「論」のまやかしに気づかない読者を拡大しているという逆説が横行しているというのが残念ながらいまの護憲・革新陣営の現状だというのが私の見立てです。

注:上記の件については、下記の小文もご参照いただければ幸いです。


これでは非民主的な(と、私たちがいくら口を酸っぱくして言っても)マスメディアを総動員した「2大政党制」論にとうてい打ち勝つことはできません。マスメディアの論調を少しでも正常に戻すためにも、護憲・革新陣営の論調が逆に大マスコミの論調に巻き込まれている体のものであるという現状、為体(ていたらく)をまず立て直す必要があるだろう、と私は思います。そのことを抜きにして「大衆」の大約の思想が根底的、あるいは底なしに保守化しているという現状も変革することはできないでしょう。

それが今回の参院選の投票結果についての私の感想の結論ということになります。

経済評論家の森永卓郎氏の「どこに投票すればよいのか分からない参議院選挙」(マガジン9(条)2010年7月7日付)という小文が一部の人たちにもてはやされています。この〈一部の人たち〉とはいまの『マガジン9(条)』の(少なくない)読者と言い換えてもよいかもしれません(私自身も『マガジン9(条)』講読登録者のひとりですが、『マガジン9』という媒体(メディア)の「政治を見る」視力の鈍化と低下は目を覆わんばかりのものがあります。それに輪をかけた読者の視力の低下・・・。もはやなにをかいわんや、というのが同誌の陥っている現今のありさまでしょう)。

どこに投票すればよいのか分からない参議院選挙(森永卓郎 マガジン9 2010年7月7日)

この一部の人たちにもてはやされている森永氏の「どこに投票すればよいのか分からない参議院選挙」という文章はどういう手合いの文章か? ひとことで言って「『思想的な2大政党制』といってもよいフレームの中でしか政治という事象を把捉することができない陥穽」に陥っているものの見方による文章、といってよいだろうと思います(「鳩山内閣の19%?21%の内閣支持率はどういう声に支えられているか・・・・・」(下) 「草の根通信」の志を継いで 2010年5月16日付参照)。

上記の私の指摘については、森永氏の文章自体が何よりもその雄弁な証左になっています。同氏は冒頭で次のように言います。

「『参議院選挙で、どの党を支持すればよいのかよく分からない』。そういう話を私の周囲で頻繁に聞くようになった。昨年8月の総選挙で、あれだけ明確だった民主と自民党の政策が、同じようなものになってしまったので、判断がつかないというのだ」。同氏にとって「民主と自民党」以外の政党は視野の外なのです。この森永氏の視力は「思想的な2大政党制」フレーム、そして視野狭窄、というほかのなにものでもないでしょう。同氏はこの「思想的な2大政党制」フレームの中で民主党をさらに仕分けして同党を「左派」と「右派」に分けます。

同氏の仕分けによれば、「米軍の普天間基地を辺野古に移転することには反対」する人、また「逆進的な消費税を増税することには反対であり、高額所得者や資産家、あるいは大企業の税負担を重くすべきだと考える」人は左派。「辺野古への移設はやむを得ないと考える」人、また「法人税を減税せねばならず、消費税の大幅な増税を求める」人は右派。そして、その比率は、「私の目に映る範囲では、民主党の国会議員は左派が6割で、右派が4割」と分析します。そしてなお、「小沢前幹事長の時代には、民主党は左派が大きな力を持っていたが、菅総理・枝野幹事長の政権に変わってから、民主党の政策は完全に右派が握るようになってしまった」という分析をつけ加えます。

上記の森永氏の主張は、「官僚が『集合的無意識』により小沢や民主党政権を潰そうとしている、また、菅直人首相は外務官僚に包囲されている」などなどと主張する佐藤優や副島隆彦らの官僚陰謀論を説く者の主張(『小沢革命政権で日本を救え』佐藤優・副島隆彦共著)のバリエーションといってよいものです。その主張になんら新味はなく、独創性もありません。両者の主張に共通しているのは民主党を意図的に「官僚派」「反官僚派」、あるいは「左派」と「右派」などと仕分けし、小沢・民主党をあくまでも擁護しようとする姿勢です(小沢・民主党を擁護しようとする思想的意図は異なるように思えますが)。

その小沢・民主党擁護者の認識について、「<佐藤優現象>批判」の著者の金光翔さんは次のように指摘しています。

「ここにおいては、鳩山政権や民主党の政治家たちが自民党の政治家たちと似たり寄ったりであるというごく当たり前の認識は、その可能性すら考慮されておらず、彼ら・彼女らが政権政党の利権にありつくことに何ら躊躇しないなどという認識など思いもよらず、民主党の政治家たちはあたかも市民運動や左派言論人の『仲間』であるかのように表象されている。問題は『未熟さ』や『力量不足』や『リーダーシップの欠如』であって、民主党の政治家たちが、折込済みで公約を反故にした可能性など、全く考慮されていない。」(「佐藤優の官僚陰謀論を需要するリベラル・左派」 私にも話させて 2010年7月9日付)

「別に小沢と菅や枝野との政策の違いなど大してない(同じ党なのだから当たり前であるが)。」(「『小沢派』とか『反小沢派』とか」 私にも話させて  2010年7月9日付)

「それにしても、喧伝されている、あの『小沢派』対『反小沢派』などという図式は一体なんなのだろうか。民主党は小沢一郎の国会への証人喚問すらしていないのに、いつの間にか小沢をめぐる「政治とカネ」の話はなかったことになっている。証人喚問をしようとすらしない『反小沢派』、そして『小沢派』対『反小沢派』とは一体何なのだろうか。」(同上)

注:少し下世話になりますが、上記の金光翔さんの指摘のうち、「小沢の金権問題が争点化した後に民主党の『脱小沢』の必要性を主張していた山口二郎や、小沢批判を繰り返している森田実は『反小沢』なのだろうか。よく知られているように、彼らは小沢から多額の講演料を貰っている」という指摘も「小沢派」対「反小沢派」などという図式の無効性を示しているように私には思えます。


ところで池田香代子さんがご自身のブログ記事で私として評価できない上記の森永論文を「大学紛争」(60年代後半?70年代初頭)以来の思想の「成熟のひとつの態度」だとして評価しています。

成熟過程のもやもや選挙(池田香代子ブログ 2010年7月10日)

しかし、私には、上記で述べたとおり、森永氏の論は70年代以降の「『革新思想の退嬰』を象徴するひとつの態度」としか見えません。

池田さん

参院選も明日が投票ですのでいまは長い文章を書くのは避けます。しかし、明日の投票日を前にひとことだけどうしても述べておきたいことがあります。

あなたの上記ブログでの所論は、「民主党には『右派』と『左派』(小沢派)がいるから、その民主党内の『左派』(小沢派)に期待して一票を投じよう、とあなたの意志をせん明していることにほかなりません。しかし、上記で金光翔さんも言うように「小沢(左派)と菅や枝野(右派)との政策の違いなど大してない」「同じ党なのだから当たり前」なのです。それをことさらに右派と左派に分けて「成熟」した投票を促しておられる。それは結局のところ沖縄の民意を無視した、また「『最低でも県外』と首相自ら公約しながら県民の心を8カ月間ももてあそび、『辺野古現行案』に回帰するという公約違反の裏切り行為」(琉球新報社説、2010年6月1日付)に及んだ民主党政権を許すことになります。池田さん。あなたは沖縄県民を裏切った民主党政権を許すおつもりですか? 私には同意できません。

池田さん。私も池田さんと同じく「大学紛争」の世代ですが、私の場合は高校生の頃から政治に関わっていましたので、翻訳の分野では池田さんにもちろん完全に遅れをとりますが(というよりも、翻訳の分野はまったく私は無知ですが)、政治の分野では私の方が先輩株といってよいかもしれません。その先輩として私は池田さんに言いたい。私は70年代以来40年間保守反動政権に怒りをくすぶらせてきました。だからなおさら似非「革新」政権(もちろん、民主党政権のことをいっていますが)を許しがたい思いがするのです。その私の無念が私の2大政党制批判であり、また思想としての2大政党制論批判、さらにまた民主党批判です。

そういう意味で私は森永論考について次のように結論しておきます。

あなたの引用する森永氏の論は結局のところ2大政党制の枠内でしかものを見ることができない本人は「革新」のつもりでも思想としては保守中間層的インテリの意見でしかない、と。

(写真:森永卓郎氏)

 いま三度言う。沖縄の民意を無視することが「元気な日本を復活させる」ということか?

(JR甲府駅前の街頭演説で有権者らに手を振る菅首相=3日午前【共同】)

私は一昨日に「2010参院選:『民主党は自民党より少しはマシ』論、また『死に票』論に対する私見」という小文を書きましたが、その拙論に何通かのコメントをいただきました。その返信コメントのうちの1通を下記に紹介させていただきたいと思います。この返信コメントには私の問題提起に連なる、しかし、別の角度からの大切な指摘があるように私は思います。ご参照いただければ幸いです。

私も民主党「マシ論」は危険だと思います。

核密約の存在が明らかになった、これが政権交代の果実だから当分民主党に、という意見を先日聞きました。でも実際には岡田外相は野党時代に約束した、密約追求をごく一部しか行いませんでした。

東郷氏が作成した58の赤ファイル文書のうち3つしか外務省の調査チームは確認しなかったため、つまりあと55の文書は、おそらくはもう二度と追求されないまま、見過ごされてしまうことになります。誰かが処分したのなら、そこを追求すべきですが、外務大臣には、そうする意図もなさそうです。

これは密約をごく一部だけ認め、大半は隠匿したままにする、悪質な官僚的やり方だと私は思います。文書の処分などしておらず、どこかに隠している可能性もあるでしょう。

地位協定についても、改善する気もないです。米軍が基地外で訓練をするという、地位協定違反を現に沖縄で行っていても、岡田外相は「ケースバイケース」で対応する、と主権国家の法治主義を明確に放棄しました。

「沖縄海兵隊 世界各地で軍事行動 赤峰議員が「抑止力」論批判」(2010/5/14)
http://www.jcp.or.jp/movie/10mov/20100515/index01.html

民主党がこのように保守反動化したように見える、その理由は、鳩山政権の誕生以来、米国がこれでもかと、その筋の論客を送り込み、それらの論客と日本の官僚とマスコミ、そしてオバマ自身により、民主党のリーダーたちを威嚇・洗脳してしまったからであるのは明らかですが、それ以前にやはり民主党の中核部分のカラーが、党内のいわゆるタカ派、とくに「松下政経塾OB」のそれであるからでしょう。

つまり民主党の今のリーダーたちや、その後継者たちの誰が党首になっても改憲派であるのですから、選挙後に起こることとしては、消費税がメインになるのではなく、実は非核三原則・武器輸出三原則の緩和、そしてその後の改憲手続きのはずです。だから「マシ」ではなく、(自民の政策に)「増し」なのでしょう。

それを考えれば平和市民にとっては、今度の選挙で風を起こす必要がありましたが、どこも風など起こっていないようです。でも民主は伸び悩むと、なぜか思います。その理由は、菅直人政権誕生直後の内閣支持率50数パーセントに現れている、鳩山政権誕生時との「温度差」です。菅内閣誕生直後の政権への支持率回復は、沖縄問題のことではないと思います。小沢さんを切ったからでしょう。

一方で、あの9万人を集めた沖縄集会にも関わらず「日米基軸」と言い切った今の首相が、沖縄県民はむろん日本国民を幸福にできるわけがない、と醒めた見方がどこかにあるはずです。
(グアム移転費用+辺野古基地建設費用が、日本国民の不幸を増大させるわけですから。)

つまり市民運動(というより学生運動のようですが)の出自を自負しながら、あのように「変節」できる現実主義者を、市民はどう信用できるでしょう? その変節を認めれば、今後出現するかもしれない市民運動出身の政治家は、政権をとれば変節するものだ、との諦観を、平和市民は受け入れざるを得なくなります。

対米従属に変節した菅さんの裏切りに対し、昔市川房枝を担いだ東京の市民運動は、今ひそかにリベンジを考えているでしょう。むろんこの選挙区でもリベンジが必要です。(未だに社民と民主が共闘していそうですが、そうであればどういうことでしょう。)選挙のときしかそれができないので是非、その力を使いたいところです。

だから参院選挙では微妙な議席数になるのではないか、と私は思っていますがどうでしょう。

 もう一度言う。沖縄の民意を無視することが「元気な日本を復活させる」ということか?

「平和への結集」をめざす市民の風の代表の太田光征さんがこの参院選投票日に向けたメッセージとして参院選複数定数区での「民主への過剰投票は自公を利する」という論攷を発表されています。同論攷は数学(算数)的計算に基づいて「民主への過剰投票は自公を利する」という理論的結論を導き出した文字どおり論攷というべきものであって主張ではありません。私たちは太田さんの理論的結論を肯うならば有権者として理論的にふるまうべきだと思います。太田さんの呼びかけも有権者にそうした理論的対応を呼びかけることを意図しているものと思います。

2010参院選:民主への過剰投票は自公を利する(太田光征 平和への結集第2ブログ 2010年7月3日)

とはいえ、太田さんが呼びかけの対象にしているのは、もちろん、前自・公政権に否定的な有権者、また「自民党より民主党の方が少しはマシ」論をとる有権者だろうと思います。特に「民主党マシ」論の立場をとる有権者に対して。

また、今回の呼びかけは、その呼びかけの前提として、この10か月ほどの間に鳩山・菅の民主党政権が行ってきた民意無視の負の政策の連鎖というべきもの、普天間基地「移転」問題についての沖縄県民に対する「裏切り行為」」(琉球新報社説、2010年6月1日付)、派遣労働者の悲惨な現状を固定化するものだとして批判の多い労働者派遣法「改正」法案の国会提出、高校授業料無償化からの朝鮮人学校排除エトセトラ、さらにまた議会制民主主義のもとにおける有権者の多様な意思の表明を困難にすると批判の多い議員定数削減法案を参院選後の次期臨時国会で民主と保守の大連立で「ぜひ実現したい」((毎日新聞 2010年7月1日)などと民意とは逆向きの意欲を示している問題、大衆課税として批判の多い消費税増税に意欲を示している問題などなどがあって、民主党政権にはもはや市民本位の政治革新を原則的レベルで期待できない、という判断もあってのことだと思います。

さて、太田さんの呼びかけは、彼の参院選複数定数区の分析からみても同複数定数区の有権者に対する呼びかけと見るべきものだろう、と思います。そうであるならば、私としては、参院選1人区(全国29区)の有権者のみなさんに次のように訴えたいと思います。

同1人区では「当選」を基準にして考えると実質的に民主党vs自民党の争いということになるでしょうから、どうしても「死に票」論というのがでてきやすくなります。「死に票」論とは、民主党の政策にも自民党の政策にも反対でも「自民党より民主党の方が少しはマシ」だから、「死に票」を投じるよりも「少しマシ」な民主党に投票しよう、という考え方のことです。

私にはここに民主党が今回の参院選でももしかしたら相応に「躍進」しかねない危険な陥穽が潜んでいるように思えます。私は民主党は「自民党より少しはマシ」な政党だとは思いません。

沖縄在住の芥川賞作家の目取真俊さんは民主党の沖縄政策について次のように論評しています。

「今回のSCC(日米安全保障協議委員会(東本))の共同声明は、自公政権下で進められていた現行計画に単純回帰するものではない。自衛隊の共同使用を盛り込むことによって、基地機能、演習量、内容ともに強化拡大しようとするものであり、仮に将来海兵隊が撤退することがあっても、自衛隊が継続して居座ることを狙った、現行計画以上に悪質な内容である。」(「日米共同声明に反対する」 海鳴りの島から 2010年5月28日)

また、ピープルズ・プラン研究所運営委員の武藤一羊さんは民主党・鳩山政権時代を次のように論評しています。

「鳩山政権のふるまいで特徴的なのは、この政権が自民党がこれまで積み上げてきた政治的悪行についてきわめて寛大であることである。新政権は、自民党レジームからどれほど膨大な負の政治的財産を引き継いだのかを明らかにし、それの清算という困難な仕事に挑戦する決意を示し、その仕事を支持するよう広く人びとに訴えるのが当然と思われるのに、政官癒着や天下りなど特定の分野を除いては、それをしようとしないのである。(略)それをしないのは、自民党政権時代につくられた日米関係を変更するつもりがないからである。」(「鳩山政権とは何か、どこに立っているのか ――自民党レジームの崩壊と民主党の浮遊」 2010年2月16日)

上記で武藤さんは「政官癒着や天下りなど特定の分野を除いては」という留保をつけています。そういう意味では民主党は「自民党より少しはマシ」な政党と言いえるかもしれません。しかし、その民主党の「1丁目1番地」である「特定の分野」においても民主党は後退に後退を続けています。

ダム問題をライフワークとするフリージャーナリストのまさのあつこさんは民主党のダム問題における「後退につぐ後退」をご自身のブログで次のように証言しています。 

「皆さん、ご存じのように政権交代後すぐに前原国土交通大臣が八ツ場ダム中止を宣言して大騒ぎになりました。ところが現在に至るまで、『中止』に向けた法的手続に入っていません。それどころか、大臣はまだ『法的手続には入らない』というスタンスです。現地の人から言えば、『生殺し状態』。」(「ダム見直しの失敗(その2)」 ダム日記2 2010年6月27日。注:現在「ダム見直しの失敗(その12)」まで執筆中)

また、刑法学者の中山研一さんも民主党政権の「司法改革」の後退についてご自身のブログで次のように証言しています。

「民主党政権への政権交代に期待が集まりましたが、その『改革』の旗印と方向が次第に鮮明性をなくしていくおそれを感じざるを得なくなっています。私自身が関わっている「司法改革」の点についても、冤罪の温床となってきた捜査段階の取調べの「可視化」さえ早急な実現の見込みはなく、かえって慎重であるべき重大犯罪の『時効の廃止と延長』がすぐに通ってしまうという『公約違反』が目立つのです。(「まず「隗(菅)より始めよ」 中山研一の刑法学ブログ 2010年7月2日)

上記の各論評、証言からも民主党政権の方が自民党政権より「少しはマシ」などとは「原則」的には決して言えない、と少なくとも私は思います。

それと私には「『最低でも県外』と首相自ら公約しながら県民の心を8カ月間ももてあそび、『辺野古現行案』に回帰するという公約違反の裏切り行為」(琉球新報社説、2010年6月1日付)に及んだ民主党・鳩山政権、その鳩山前政権の沖縄県民を愚弄することも甚だしい最悪の置き土産ともいうべき「辺野古回帰」の日米合意を踏襲する考えを民主党代表選の前日の3日の段階で早々に表明したこれも民意を無視すること甚だしい民主党・菅政権を今度の参院選で決して許してなるものか、という思いがあります。この点についてもう少し詳しくは愚生ブログの「ヤマトゥは沖縄を捨てた 菅新内閣支持率を憤りをもって読む」(2010年6月16日付)をご参照いただければ幸いです。

今度の参院選の投票では参院選1人区(全国29区)においても民主党には決して投票しないという態度を有権者として保持することはとても重要だと私は思います。民主党にも自民党にも投票しないということになれば、自民党でも民主党でもない共産党、もしくは社民党に投票するということになりますが、それがどうしてもイヤな場合でも、棄権してでも民主党には決して投票しないようにしよう。私の呼びかけはそういうものです。政権交代の酔いから私たちはそろそろ醒める必要があるのではないでしょうか。
一昨日の6月30日は沖縄県石川市(現・うるま市)の宮森小学校に米軍ジェット戦闘機が墜落して51年目という日でした。


宮森小学校 慰霊碑「仲よし地蔵」


「仲よし地蔵』の台座に刻まれた犠牲者の刻銘板


今朝のNHKラジオのラジオ深夜便で50年前の沖縄の米軍機墜落事故宮森事件の証言者である元宮森小学校の教師の話を感動を持って聞いた。/平良嘉男さんの50年経っても親御さんから『先生だけ生き延びて』と言われたトラウマを引きずっていると言う話にはうるうるときた。/沖縄の歴史を我々はまだよく知らない。
大津留公彦のブログ2 2010年6月20日

大津留さんのおっしゃるNHKラジオのラジオ深夜便は以下のような内容でした。

関西発 ラジオ深夜便
こころの時代『50年たっても・・・』

ゲスト: 沖縄県うるま市立宮森小学校校長 平良嘉男さん
元・宮森小学校教員 新里律子さん

1959年6月30日、沖縄県石川市(現・うるま市)の住宅地に米軍機が墜落し、17人が亡くなりました。住宅地に墜落したあと、隣接する宮森小学校に激突し炎上したことにより、死者のうち11人は宮森小学校で学んでいた子どもたちでした。/平良嘉男さんは、事故当時7歳、宮森小学校の2年生でした。2008年から母校の校長を務めています。/『地域の歴史のなかで起こった事故です。50年たっても、その時の心の傷に苦しんでいる人々がいます。わたし自身、卒業後は長い間学校に足を踏み入れることが出来ませんでした』と、平良さんは語ります。/新里律子さんは、事故当時28歳、宮森小学校の教員でした。4年生の担任として、生徒を守れなかったことに苦しみ続けてきました。/お二人は、その体験を全国の人々に知ってほしいと証言を続けています。いま、なぜ全国の人々にこの事実を知ってほしいと願うのかを伺います。

私は宮森小米軍機墜落事故から51年目のニュースを見ながら、報道写真家の嬉野京子さんの証言のことを思っていました。そして、その証言に関わる一枚の写真のことを。


踏みにじられた沖縄=1965年 嬉野京子さん撮影

4月20日、宜野座村に入りました。小学校で休憩に入ったとたん、『子どもがひき殺された!』。なんと行進団の目の前で、小さな女の子が米軍のトラックにひき殺されたのです。手に通園用のバッグを持ったまま。死んだ女の子の側に突っ立っているだけのアメリカ兵。しかし驚いたのは、駆けつけた日本の警察でした。米兵を逮捕するでもなく、軍用車がスムーズに走れるように交通整理をはじめたのです。/これを目の前にして何もしないわけにはいきません。『撮らせてほしい』と懇願しました。『生きて帰れないよ』と言われましたが、引きさがれませんでした。『わかった、見つからないようにぼくの肩越しに撮ってくれ』、一人の男性が肩を貸してくれ、たった一度押したシャッターがこの写真です。
「1965年沖縄 「少女轢殺」 報道写真家の証言」池田香代子ブログ 2010年6月14日付より)

沖縄在住の作家、目取真俊さんはこの宮森小米軍機墜落事故に触れて次のように書いています。

6月30日は、旧石川市の宮森小学校に米軍ジェット機が墜落してから51年目であった。同小学校では遺族や児童生徒、職員が参加して毎年追悼集会が開かれている。今年は、亡くなった児童11人の名前が刻まれた『仲よし地蔵』の台座に、一般市民の犠牲者7人の刻銘板も埋め込まれたことが報道されていた。/事故から半世紀余が過ぎた今、嘉手納基地は政府がいう『沖縄の負担軽減』という言葉の虚妄性を証明するかのように外来機の飛来が増加し、爆音被害も拡大している。(略)宮森小学校で開かれる追悼集会の参加者の思いは、51年間踏みにじられたままだ。(略)

参議院選挙のまっただ中だ。しかし、鳩山退陣、菅内閣誕生によって、普天間基地問題は選挙の争点から消された。一ヶ月前までのヤマトゥの大手メディアの報道は、しょせんは鳩山首相を追い詰めて『県外移設』を潰すためのものでしかなかった(大半は)。政治家やメディア関係者に限らず、『沖縄問題』を語るヤマトゥンチューのうち、それが実際には日米安保の負担を沖縄に集中させている『日本問題』『ヤマトゥ問題』であることを自覚し、その解決のために取り組んでいる人はどれだけいるか。(略)案の定、鳩山退陣とともに関心も一気に減少し、元に戻った。だが、問題は何も解決しないままだ。むしろ先送りして当面をしのぐことで問題はさらに悪化する。普天間基地問題を参議院選挙の争点から消すことで、政府も大手メディアも無関心なヤマトゥの国民も、沖縄の『怒り』から目をそらし、『日本問題』『ヤマトゥ問題』から逃げている。なんと卑怯なことか。
「消された争点」海鳴りの島から 2010年7月1日)

普天間基地問題を参議院選挙の争点から消すことで、政府も大手メディアも無関心なヤマトゥの国民も、沖縄の『怒り』から目をそらし、『日本問題』『ヤマトゥ問題』から逃げている。なんと卑怯なことか。――目取真さんのこの指弾から私は目をそらすことはできません。私は私の言葉として発したいと思います。沖縄県民を踏みにじり続けている民主党政権をこの参院選で決して許してはならない、と。


追記(2010年7月3日):
琉球朝日放送(QAB)は沖縄・「宮森小」事件から50年の昨年の7月22日深夜0時35分からテレメンタリー2009「忘れたい 忘れてほしくない?宮森小 米軍機墜落事故から50年?」を放送しましたが、本エントリーアップ後、そのビデオ映像をYou Tubeで観ることができることを知りました。以下に同映像のURLを追記しておきます。とてもよいドキュメンタリーだと思います。


参考:
Qリポート 宮森事故・精一杯生きた息子へ(琉球朝日放送 報道部 2009年7月22日)
朝鮮高級学校に通う子どもたちを高校無償化の対象から排除しないことを求める会長声明

1 本年3月31日、「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律」(以下「高校無償化法」といいます)が成立し、本年4月から施行されています。

 高校無償化法は、高等学校等における教育に係る経済的負担の軽減を図り、もって教育の機会均等に寄与することを目的として制定されました(第1条)。このような制度の趣旨から、外国人学校に通う子どもたちについても、「高等学校の課程に類する課程を置くものとして文部科学省令で定める」「各種学校」に通う場合には、日本の私立学校に通う子どもたちと同様に、就学支援金が支給されます(第2条1項5号)。

 ところが、政府は、朝鮮高級学校がこの各種学校に該当するか否かに関する結論を留保し、最終的には第三者による評価組織を設けて決定することとして、当面朝鮮高級学校に通う子どもたちを無償化の対象から除外しました。

2 しかしながら、朝鮮高級学校は、各都道府県知事から各種学校としての認可を受け、長年にわたって安定した教育を実施しており、実際にも、日本全国のほぼすべての大学が、同校卒業生に対し、「高等学校を卒業した者と同等以上の学力がある」と認めて受験資格を認定しています。朝鮮高級学校が「高等学校の課程に類する課程を置くもの」に該当することは明らかであり、朝鮮高級学校に通う子どもたちが無償化から排除されるべき理由はどこにもありません。

3 そもそも、子どもたちには、日本国憲法第26条1項、同第14条、国際人権規約A規約第13条、子どもの権利条約第28条、同第30条、人種差別撤廃条約第5条などにより、普通教育及びマイノリティ教育を受ける学習権が保障され、その保障に関しては平等原則に違反してはならないとされています。国公立及び私立学校、専修学校、インターナショナルスクールや中華学校等の各種学校に通う子どもたちが無償化の対象となる中、朝鮮高級学校に通う子どもたちが無償化の対象から排除されることは、平等原則に違反するものであることはもちろん、高校無償化法の趣旨とも全く相容れないものです。

 現に、国連の人種差別撤廃委員会は、本年3月16日に発表した「対日審査報告書」の中で、「子どもの教育に差別的な影響を与える行為」として懸念を表明しています。
 
4 なお、今回の「先送り決定」がとられたのは、朝鮮民主主義人民共和国の拉致問題に対する制裁措置の実施等を理由として、政府内で朝鮮高級学校を除外すべきとの主張が出されたためとの新聞報道等があります。しかし、朝鮮半島にルーツを持つ子どもたちの学ぶ権利を、このような政治的理由により左右することは許されません。

5 現在日本には10校の朝鮮高級学校があり、そのうちの1校が愛知県にあります。

 当会では、今回の「先送り決定」を受けて、同校で学ぶ子どもたちの授業の様子を参観し、子どもたちと懇談をしました。子どもたちそれぞれが家庭の厳しい経済状態のもとで不安を抱きながらも真剣に学ぶ姿に直接触れ、子どもたちの学ぶ権利が不当に差別されることがあってはならないという思いを強くしました。

 偏見と差別は、すべからく無知と無理解から生じるものです。民族や文化の違いを超え、それぞれの違いを認め合った上で、相互理解と友好を深め合うためにこそ、人間にとって学問の自由、学ぶ権利は必要です。それが平和的な関係を築いていく基礎にもなるのです。

 同校に通う子どもたちが高校無償化から排除されることは、県内における人権侵害であり、当会として決して容認することはできません。

 よって、当会は、内閣総理大臣及び文部科学大臣に対し、朝鮮高級学校を高校無償化制度から排除せず、速やかに高校無償化法第2条1項の指定をするように強く求めます。


2010年(平成22年)6月30日

会 長  齋 藤   勉

参考記事:
高校無償化:「朝鮮学校も無償化を」県弁護士会が会長声明/愛知(毎日新聞 2010年7月1日 地方版)
 4月に施行された高校無償化法の対象に朝鮮学校を含めるかについての結論が8月ごろに先送りされている問題で、県弁護士会(斎藤勉会長)は30日、朝鮮学校を無償化の対象から排除しないよう求める会長声明を発表した。同日、声明文を菅直人首相らに送り、同弁護士会子どもの権利特別委員会メンバー6人が愛知朝鮮中高級学校(豊明市栄町)を訪問、声明内容を伝えた。

 同委員会の有志メンバーは4月に同校で授業見学や生徒たちと懇談している。声明文は「子どもたちには憲法などにより普通教育及びマイノリティー教育を受ける学習権が保障されている。無償化対象からの排除は平等原則に違反する。人権侵害で容認できない」と指摘している。

 会見で女子生徒が「授業料は高く、母は仕事をしながらバイトを掛け持ちしている。この問題が残念で、悲しくなってきた」と話した。また男子生徒は「平等に適用することは差別のない平等な日本社会にするためにも必要」と訴えた。

 文部科学省が4月に告示した無償化対象の外国人学校は、インターナショナルスクール17校などで、朝鮮学校は入らなかった。朝鮮学校が対象となるかは、文科省が設けた専門家らによる検討会議の結果をふまえるとされている。【岡村恵子】
意見書案第4号  平成22年(2010年)6月10日 可決

朝鮮学校も対象にした高校無償化実施を求める意見書

「高校授業料無償化法」が今年4月1日から施行された。同法の趣旨は、高校等における教育の経済的負担の軽減を図り、教育の機会均等に寄与することである。しかし、国公立・私立高校、専修学校や外国人学校等、高校に類する課程を置く各種学校は無償化の対象となっているが、朝鮮学校は、国交がないことなどを理由に、対象からの除外を含めた検討がされている。

朝鮮学校に在籍する生徒は、各都道府県の高校が加盟する高体連や高文連の大会にも参加し、他校生徒との交流は年を追うごとに深まりを見せている。また、校内の授業内容は、日本の生徒が日本史を学ぶのと同様に、民族教育として朝鮮史を学ぶほか、わが国で生活する上で必要な知識を学ぶことを主眼に、日本の学校に準じたカリキュラムになっており、朝鮮学校には、わが国と国交を樹立している韓国籍の生徒も多数通学しているのが実態である。

さらに、朝鮮学校を除外することに対しては、3月16日、国連の人種差別撤廃委員会が「人種差別に当たる」と警告するなど、国際的にも問題とされていることから極めて遺憾であると言わざるを得ない。

日本国憲法では、「ひとしく教育を受ける権利」(第26条)、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない権利」(第14条)をうたっており、また、日本が批准した国際人権規約や子どもの権利条約においても、すべての人に対する教育の機会均等の保障を義務付けている。

よって、政府においては、高校授業料無償化制度を朝鮮学校(高級部)にも適用するよう強く要望する。

以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

平成22年(2010年)6月10日

札 幌 市 議 会

(提出先)内閣総理大臣、総務大臣、文部科学大臣

(提出者)民主党・市民連合、公明党、日本共産党、市民ネットワーク北海道及び改革維新の会所属議員全員
一昨日ののエントリーで東京・小平市議会で「朝鮮学校を高校無償化から排除しないことを求める意見書」が可決、採択されたことをお伝えしましたが、同市議会での意見書可決にともなって改めて全国の地方自治体議会の同趣意見書の可決状況をメーリングリスト情報をもとに調べてみました。6月29日現在で「意見書」を採択した自治体議会は6自治体、「要望書」採択は1自治体ということになります。以下のとおりです。

【意見書採択】
小金井市議会「高校無償化」制度の朝鮮学校への適用を求める意見書 2010年3月3日可決
(賛成会派:共産党、民主・社民、市民会議、みどり・市民ネット。反対会派:自民党系。退席:公明党)
八王子市議会 朝鮮学校を「高校無償化」から排除しないよう求める意見書 2010年.3月26日可決
三鷹市議会 「高校無償化」に関する意見書 平成22年3月29日可決
(賛成会派:民主党、共産党、公明党(一部)、にじ色のつばさ。反対会派:政新クラブ、公明党(一部))
宇治市議会 高校授業料無償化制度から朝鮮学校を排除しないことを求める意見書 2010年3月31日可決
(賛成会派:共産党、公明党、社会党、新世、無会派。反対会派:民主党、自民党)
札幌市議会 朝鮮学校も対象にした高校無償化実施を求める意見書 2010年6月10日可決
(賛成会派:民主党・市民連合、公明党、共産党、市民ネットワーク北海道、改革維新の会。反対会派:自民党)
小平市議会 朝鮮学校を高校無償化から排除しないことを求める意見書 2010年6月29日可決
(賛成会派:公明党、フォーラム小平、生活者ネットワーク、共産党、市民自治こだいら。反対会派:政和会)

【要望書採択】
国立市議会 朝鮮学校への「高校授業料無償化」の適用を求める要望書 2010年3月4日

上記の各自治体の「意見書」可決の状況についてに少し注をいれますと、上記の「意見書」のうち三鷹市議会の意見書の標題は「『高校無償化』に関する意見書」、本文も「何らの除外もせずに」という形になっていて、明確に高校授業料無償化からの「朝鮮学校排除に反対する」という形になっていません。残念なことといわなければならないのですが、このことを逆にいえば反対勢力を説得するなどして本意見書をとにもかくにも議会採択にまでこぎつけてくださった議員のみなさんのご苦労が思い遣られるということにもなりそうです。おそらく「要望書」採択の折の議員のみなさんのご苦労もほぼ同様のものであったのだろう、と推察されます。

改めて関係議員諸氏のみなさんに心からの敬意を表したいと思います。

しかし、要望書を含めて7自治体議会での高校授業料無償化からの「朝鮮学校排除」反対の意見書の採択というレベルはまだまだ小さなものといわなければならないように思います。「朝鮮学校排除」反対の声を市民のレベルでもっともっと大きくして、その声をそれぞれの地元自治体議会に反映させていきたいものです。