衆院の安保法制論議の際の安倍首相の「早く質問しろよ!」や「大げさなんだよ!」という下品なヤジは、その下品さのゆえにメディア的には「絵」になる格好のネタとして注目され、何度も大きく取り上げられることになりました。その安倍首相の下劣なヤジが飛び出したのは民主党の辻元清美議員の質問の際のことでしたから、必然のなりゆきとして辻元議員へのメディアの注目度も高まり、辻元議員のメディアへの露出度も高まることになりました。

さらにその際の辻元議員の質問は自衛隊の中東における後方支援の問題、「人の生き死にに関わる問題」(辻元発言)でしたから安倍首相の下劣さへの反発に比例するように辻元議員の人権感覚と民主度の株は高まることになりました。かつての辻元清美人気の復活というところまでは届きませんが、かなりの復活のきざしを見せたのはたしかです。一部のリベラルを自称する人たちの間で辻元議員に期待する声が再び高まることにもなりました。
 
しかし、辻元議員やその所属政党としての民主党に期待を寄せるのは早計というべきでしょう。辻元人気はメディアによってつくられた側面もあります。辻元議員のテレビ露出度が高かったのはもちろん上記のようないきさつがあったからですが、辻元議員はニュースメディアにとっては扱いやすい存在であるという側面も少なくないでしょう。辻元議員は一見保守とは相対する立場にいるように見えますが、以下に見るように実は保守に対立する存在ではありません。ですから、ニュースメディアにとっては、辻元議員は安倍政権からクレームがつくことはまず心配しなくてすむリスク保険のような存在でもあるのです。
 
辻元議員は先の安倍首相から「大げさなんだよ!」というヤジが飛んだ後の中谷防衛相との質疑において「安保法案は憲法学者から疑義が出たのだからいったん撤回された方がいい」などと発言しています(5月28日、衆院平和安全法制特別委員会)。この「安保法案は憲法学者から疑義が出た」違憲法案であることは明らかなのですから「いったん撤回」するのではなく、廃案にするのが法制上のスジというものです。そのことが辻元議員にはわかっていない。だから「いったん撤回」などというスジ違いのことを言ってその誤りに自身では気がつかない。
 
同様の誤りは民主党の長妻昭代表代行にもあって、6月14日の「国会包囲行動」」の際、長妻議員は「法案を出し直させる」とスピーチして集会参加者から「ダメだよ!!民主党!!」「廃案だよ!!」という抗議のヤジを受けてたじたじの体だったそうです(vanacoralの日記、2015年6月14日)。6月6日のテレビ東京の番組で辻元議員(民主党政調会長代理)は「集団的自衛権行使を容認した安倍政権の憲法解釈変更に関し、民主党が将来、政権を獲得した場合は行使を禁じる従来の解釈に戻す考えを示した」上で「戻さなくても済むよう、法案の廃案に全力を挙げる」と強調したということですが(東京新聞、2015年6月7日)、その1週間後の14日の集会で長妻昭代表代行は「法案を出し直させる」とスピーチしています。当然、テレビ東京の番組での辻元議員の発言にも長妻昭代表代行発言にも信を置くことはできません。その場限りの言い放しというのがこの党と所属議員の発言の実態だからです。辻元人気は同議員の実際の政治行動に基づかない辻元幻想がつくり出したものといえるでしょう。同じように民主党人気も(仮にそういうものがあるとして)実際の同党の政治実体に基づかない民主党への革新期待幻想がつくり出した虚構の産物といえるでしょう。
 
以下、辻元議員の実際の政治行動の一端を過去記事から示しておきます。また、民主党については、私も繰り返し述べていることですが、「今の戦後最悪の民主主義破壊政権を固定させた立役者は民主党」(Afternoon Cafe、2015/02/28)であるという事実を私たちは決して忘れてはならないことのように思います。
 
辻元氏自身の問題性は大きくいって次の2点にある、というのが私の見方です。第1点。辻元氏は自身のブログで「これからは無所属議員として活動を始めます」と述べていますが、しかし、これは井原勝介氏(前岩国市長)が指摘していることですが、辻元氏は社民党の公認を得て議員当選を果たしている。「公認を得て選挙を戦うということは、政党の看板を背負うことであり、その看板に対しても責任を持つ必要がある。」「一つの理念を掲げて政党に集い、政党を通じてその理念と政策の実現を図るというのが、政党政治の本来のあり方である。その政治の基盤となるべき政党と袂を分かつというのであれば、議員辞職する覚悟を持つべきである」ということです(「辻元清美の離党」 井原勝介ー草と風のノートー 2010年7月28日付)。「私は社民党を離党します。これからは無所属議員として活動を始めます」では済まないのだ、と私は思います。辻元氏は自らの行動に筋を通そうとするのであれば一旦議員辞職するべきでしょう。
 
第2点。もう1点は辻元氏が27日の大阪での離党表明記者会見で述べた「政権交代を逆戻りさせてはならない」「政権の外に出ると、あらゆる政策実現が遠のく」(読売新聞 2010年7月27日)という発言の問題性です。辻元氏は自民党政権から民主党政権へと変わった昨年夏の衆院選での「政権交代」を絶対視しているようですが、政権交代で重要なのはいうまでもなく政権交代という形ではなく、その政権交代の結果として政治変革、政治の中身が変化したかどうか、ということです。自民党政治の延長に過ぎない政権交代は政権交代の名に値しないのです。民主党政権は自民党政治に決別しえたか。普天間基地問題に象徴される民主党政権の対米従属、民意無視の政治姿勢を見る限り、民主党政権の政治は自民党政治の延長であり、というよりもさらに悪質化しており(たとえばSCC共同声明参照)、自民党政治に決別しえたとはとてもいえません。それを単純に「政権交代を逆戻りさせてはならない」などと言ってしまう。ここに辻元氏の信念に基づく「理念」の実現よりも「権力」によるまやかしの「理念」の実現(すなわち「理念」の非実現)の方を重要視する権力志向の姿勢がよくあらわれていると見るべきでしょう。(Blog「みずき」2010.07.30から抜粋)

 

講演する寺島実郎氏

最近加入したばかりの小選挙区制関連のあるメーリングリストを通してフリージャーナリストの林克明さんから寺島実郎が「国会議員の定数削減という、とんでもない暴論を主張し続けている」というメールが発信されてきました。
http://kusanomi.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-3e07.html

以下は、林メールに対する私の応答です。寺島実郎という流行評論家(似非「革新」の徒)の正体を広くご認識していただくためにも本MLにも同文を転載させていただこうと思います。


林さん、ご論拝見しました。

おっしゃるとおり寺島実郎は国会議員定数削減のプロパガンダの徒と化していますね。

というよりも、寺島実郎という人はもともとそうした保守的な思想を持つ人なのでしょう。私は彼の存在を認識したのは筑紫哲也の「NEWS 23」にたまに出ていたあたりからですが、彼の発言を聞いて、私はついぞ寺島実郎を「革新」の徒などと思ったことはありません。林さんのおっしゃる寺島の「テレビを見ていても落ち着いた態度とその口ぶり、冷静に見える説明の仕方」は、私にはすべて「ような」というカッコウつけにしか見えません。すなわち、一見「落ち着いた」ように見えるが実はそうではない。一見「冷静」のように見えるがこれも実はそうではない。筑紫哲也存命中は、番組で筑紫も寺島実郎の発言を相対化していたように思います。すなわち、寺島にそれほどの存在感はありませんでした(筑紫には眼識力がありましたし、筑紫のほうが寺島より「革新」的でしたから、当然そういうことになります)。

寺島が「言論界の重鎮のような感」を帯びてきたのは筑紫の死以後のことのように思えます。寺島は朝日新聞や同紙系列のテレビ朝日の「報道ステーション」などでも重用され「重鎮」的様相を帯びてきました。しかし、それは、朝日新聞や報道ステーションの中身のなさに相応して彼の発言が相対的に「重み」を帯びて見えた、ということでしかなかった、あるいはないだろうと思います。対手がエンタメ出身の(政治的には無教養な)古舘伊知郎程度の人ですからこれも当然そういうことになるでしょう。

上記のことなどと相俟って雑誌『世界』などのいわゆる進歩・リベラル系の雑誌、また護憲系のマガジンが彼を重用してきたことも寺島を「重鎮」ぶらせている、さらには国会議員定数削減のプロパガンダの徒たらしめている大きな一因になっているようにも思えます。私は『朝日新聞』『世界』などの世間から進歩・リベラル系と見られているメディアが寺島実郎を重用することに同紙誌の反動性(もちろん、相対的な)と見識のなさを見て不快感と(『世界』が輝いていた時代に知的恩恵を受けた者として)痛恨の思いを拭えません。

雑誌『世界』が寺島実郎を重用している実例を挙げておきます。下記の寺島の発言は『世界』(2007年10月号)に掲載されているものです。

「ともあれ、日本の政治状況は『二院制の意味』と『二大政党制の意味』が問われる局面に入った。数の論理だけが議論を封殺して押し切るのではなく、政策論の妥当性が吟味される時代なのである。代議制民主主義にとって試練の時である」(「何故、自民党は大敗したのか―2007年夏、見えてきたもの」)。
http://mitsui.mgssi.com/terashima/nouriki0710.php

これだけの引用では上記で寺島の言う「二大政党制の意味」とはなんのことかよくわかりませんが、よく読めば、下記の山口二郎氏と宮本太郎氏の共同論文に言う「二大政党制の意味」と相呼応するものであることがおわかりいただけるものと思います。山口・宮本論文は結論部分で次のような「二大政党制」への期待感を述べています。「九〇年代から始まった政治改革や政党再編の試行錯誤は、最終段階に入った。右側に新自由主義路線を取る保守政党、左側に福祉国家路線をとる社会民主主義・リベラル政党が対置するという世界標準の二大政党制の姿がようやく現れつつある」。両者とも「2大政党制」論の枠内の中での論というべきものです。そしてこの山口・宮本論文が掲載されたのも雑誌『世界』(2008年3月号)です。いまや雑誌『世界』がどのような役割を果たしているかがわかろうというものです。
http://www.csdemocracy.com/ronkou/yamaguchi080301.html

注:山口二郎氏らの上記の考え方の基調にあるのは「創憲論=改憲論」という考え方です。この「創憲論=改憲論」の考え方の危険性については「<佐藤優現象>批判」の筆者の金光翔さんの明確な批判があります(『<佐藤優現象>批判』(『インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載)【下】の「9.『平和基本法』から〈佐藤優現象〉へ」の項)。ご参照ください。また、その中で金さんが紹介していることでもありますが、共産党の上田耕一郎氏も「『立法改憲』めざす『創憲』論」(『世界』1993年8月号)という論稿で山口二郎氏らの考え方を批判しています(同上の注(60)。詳細は煩瑣になるため省略)。
http://gskim.blog102.fc2.com/blog-entry-25.html

そういうわけで寺島実郎が現在のメディア界で「重鎮」的立場にいるのならばなおさら同氏の論の実質としての保守性を明らかにしていくことが私たちにとって今後の重要な課題のひとつになろうか、と思います。以下、その寺島実郎批判の手がかりになる論稿を紹介しておきます。内容は煩瑣になるため、これも省きます。各自ご参照ください。

■寺島実郎氏のグローバリズム批判(上)(水野杏介 2002年6月15日)
http://www.jlp.net/syasetu/020615b.html
■寺島実郎氏のグローバリズム批判(下)(水野杏介 2002年6月25日)
http://www.jlp.net/syasetu/020625b.html
憲法研究者の上脇博之さんが今回の参院選の比例選挙区での各党得票数と得票率を比較考証して、「民主党の比例代表選挙での得票率は31.56%で、自民党のそれは24.07%であり、合計しても55.63%にとどまるのであるから、民意は二大政党制化していない」こと、「むしろ多党化している」ことを実証的に明らかにしています。


 上脇博之氏


そもそも議会制民主主義といえるためには、民意を正確・公正に反映する選挙制度が採用されているべきであるから、この原点に立ち返り、参議院の選挙区選挙だけではなく、衆議院の小選挙区選挙も総定数を維持した上で廃止すべきである!

そして労働問題研究者の五十嵐仁さんは、菅内閣の支持率の急落と追い込まれ解散の可能性を考究して結論として次のように述べています


 五十嵐仁氏

こうして、近い将来、解散・総選挙となる可能性が高まっています。もしそうなっても、政界再編がなければ、民主党中心の政権に代わることができるのは自民党中心の政権でしかありません。何という不毛な……(略)結局、政権をめぐって、民主と自民とのキャッチ・ボールが始まるということでしょうか。これが「政治改革」によって理想とされた「二大政党制」の現実の姿なのです。(略)こうなってしまった最大の元凶は、「政治改革」によって導入された小選挙区制にあります。まことに「政治改革」の罪は重いと、今更ながら思わざるを得ません。

上記のおふたりの研究者の見解にまったく賛成です。参院選の「結果」を云々するのであれば、まずこの正論をしっかりと押さえた上でのものでなければならないでしょう。

先の「私として参院選の結果を読む 底なしに保守化する『大衆』の現状を憂える」というエントリは、もちろん上記の正論を前提にした上での論のつもりではあったのですが(つもりはあっても、言及しないことには相手には伝わりませんね)、今回の参院選の結果について私として感じる「最大の特徴」点をあぶりだそうとして、いささかマイナーの側面を強調しすぎた感がなきにしもあらずです。先のエントリの補足として僭越ながらおふたりの研究者の所論を紹介させていただきました。