キョウ きょうぼうざい8

Blog「みずき」:小倉利丸さん(富山大学名誉教授。ピープルズ・プラン研究所共同代表)の「共謀罪」論断簡。「共謀罪」に関して、小倉さんの欧米の歴史を振り返ってみての「近代という時代の精神の本質」という指摘はよくよく考えてみなければならないことだと思います。

「BBCは、ロンドンのウェストミンター国会議事堂付近で起きた自動車テロの報道にほとんど全ての時間を費やしてる。テレサ・メイ首相は英国議会は「民主主義、自由、人権、法の支配という我々の価値を代表している」として、テロがこうした英国の価値観への挑戦だと批判した。テロが起きるたびに欧米の(そして日本の)政府首脳らが繰り返すこの自己讃美の言説を、私は納得して聞いたことがない。むしろ非常に不愉快な気分になる。英国が誇る民主主義や自由はまた同時に、英国の植民地主義と表裏一体だったのではないか?イラク戦争以降の対テロ戦争は、英国の民主主義、自由、人権にもとづいて広汎なイスラーム圏を武力紛争という民主主義も自由も人権も奪うような環境に追いこんだのではないか。民主主義、自由、人権を口にしながら、実際にはそのいずれもが奪われる。どうしてこのような欺瞞を繰り返す「先進国」の価値観に、こうした欧米500年の欺瞞に心情的にも共感できるだろうか。米国もフランスも有志連合の諸国だけでなく全ての対テロ戦争に加担している自称「自由と民主主義」の国に共通する欺瞞の言説が、むしろ敵意と憎悪を再生産しているのではないか。

言うまでもなく、日本が戦前戦中に繰り返してきたこともこれと同質であったし、戦後もまた日本の侵略と戦争責任への反省がないという意味でいえば、欧米先進国と同罪である。欧米帝国主義批判と民族解放戦争としての大東亜戦争なる言説とは裏腹に、日本の行為は明かな侵略であり虐殺であった。一方に口当たりのよい普遍的な理念を掲げ、この普遍的な理念を口実に、他方で残虐の限りを尽しながらこの暴力を正当化してきた。それが近代という時代の精神の本質ではないか。
 
テロ対策に厳罰主義や警察による捜査権限の拡大が役にたたないのは、この欺瞞を正当化するための国家による暴力の行使でしかないからだ。今問われているのは、価値観を裏切ることを平然と繰り返す権力の偽善そのものである。主権者たちもまた、こうした政府の偽善と腐敗を民主主義という舞台装置によって下支えしているのではないか。」

【山中人間話目次】
・小倉利丸さん(富山大学名誉教授。ピープルズ・プラン研究所共同代表)の「共謀罪」論断簡――近代という時代の精神の本質と共謀罪
・報道各社の22日の社説を通じて今日の「共謀罪法案」問題を考える――澤藤統一郎の憲法日記
・トランプ支持率のさらなる低下と「イスラム教徒の入国禁止を目的とした大統領の2回目の試みの2カ所の裁判所での敗北-坂井定雄さん
・米議会にトランプ大統領の「核先制攻撃」制限法案:「核戦略論議」沸騰へ- 春名幹男さん
・こういう騒ぎがあってもいい。パンツの話- 常岡浩介twitter

<こころの時代>
「父を問う」~いまと未来を知るために~
出演:作家・辺見庸&小さな犬



『友人各位 いかがおすごしでしょうか。小生は花粉症、麻痺悪化、右目硝子体出血、歩行困難、視床痛、慢性うつetc.でヘロヘロですが、犬とともに冗談を言いあい、なんとか生きております。さて、2017年3月18日 (土)午後1時から「こころの時代」がNHK教育テレビで再放送されます。12日の放送をみのがしたかたはぜひご高覧ください。テーマは拙著『完全版1★9★3★7』に直接かさなるものです。初回の放送は非常に好評でしたが、一部視聴者から「抗議」もあったと聞いております。再放送をご覧になり、お感じになったことやご意見を、NHKあてにメールや電話でお寄せいただければさいわいです。番組は終始静謐にてんかいされますが、きわめて重大な歴史の断面をうめこんでおります。げんざいと近未来のできごとをイメージするための参照点としても一見の価値ありとおもいます。が、きょうび、たったこれだけのことを放送するのにも、目にはみえない重圧があるようです。みなさんの応援だけが支えです。勇敢なディレクターたちへの声援をよろしくおねがいします!』(辺見庸ブログ 2017年03月19日)

『作家・辺見庸さんが生まれ育った宮城県石巻市は東日本大震災で壊滅的な被害を受けた。剣呑(けんのん)な予感を抱き続ける辺見さんの、今と未来を知るための思索の道程。これから何が起きるのか。それを予感するために、辺見さんは過去を振り返る。近著では、日中戦争が本格化した1937年をテーマに、資料を渉猟して、日本の戦争の実相を浮き彫りにした。その中で辺見さんは、中国に出征した父のことを書いた。戦場で父は何を見聞きし、どう振る舞ったのか。戦後をどんな思いで生きたのか。父に問い、同時に自らをも問い詰める。時代の奔流のただ中で「実時間」を知り、自分が自分であるために。』(NHK番組案内)
キョウ とうほくしはんだいがく4
東北師範大学構内Ⅰ

Blog「みずき」:大田英昭さん(日本近代思想史研究者。長春市在住)は矢内原忠雄の『満洲問題』(岩波書店、1934年)を授業で学生たちと精読していくにあたっての講義の際の中国の学生たちの反応を「かつて関東軍の軍靴の下に蹂躙された『現場』においてのみ共有されうる皮膚感覚」と表現しています。70年もの歳月を経ても風化せず、「共有されうる皮膚感覚」とはどういうものか。私はそこに忘却することをある意味よしとする日本人の精神性(それは日本人の「大勢順応主義」と表裏一体の関係にある)と中国人の歴史内在的な精神性(それはときとして権威なるものに翻弄されやすい性質ということもできるでしょう)との差異のようなものを思わざるをえません。ともあれ大田さんの講義初日の風景。

「今日、「日本思想文化史」の今学期の授業を開講した。授業で扱うテキストは、矢内原忠雄(1893~1961年、元東大総長、植民政策学者、無教会キリスト教徒)の『満洲問題』(岩波書店、1934年)。(略)授業をはじめるにあたり、矢内原の植民政策理論の最重要点として、主著『植民及植民政策』(1926年)の「実質的植民」の概念を説明した。ある社会群が新たな地域に移住し、社会的・経済的活動を行うことを、矢内原が「実質的植民」として概念づけ、政治的支配・従属関係をめぐる「形式的植民」から区別したこと、植民研究の主対象はそうした意味での「実質的植民」であるとされ、政治的支配・従属関係の問題を矢内原が植民概念の本質規定から除外したこと、などを説明したとき、学生たちの顔には明らかに疑念の色が浮かんだ。矢内原の植民理論ではいわゆる「植民」と「移民」の本質的区別が否定されていることを指摘すると、学生たちの間に苦笑すら漏れた。それは日本の教室ではまず起こり得ないことだろう。かつて関東軍の軍靴の下に蹂躙された「現場」においてのみ共有されうる皮膚感覚なのだ。」(大田英昭FB 2017年3月8日)


【山中人間話目次】
・大田英昭さん(日本近代思想史研究者。長春市在住)の矢内原忠雄『満洲問題』(岩波書店、1934年)講義初日の風景
・金光翔さん(岩波書店社員・元「世界」編集者)の「在日として生きていくためにウリハッキョ(私たちの学校)は必要」ということへの懐疑
・安倍晋三の「末期の道化」を嗤う-3選(1)――水島朝穂さん(早大教授・憲法学)の「第96代内閣総理大臣の「恥ずかしい」政治言語」
・安倍晋三の「末期の道化」を嗤う-3選(2)から附記:安倍首相夫人の終焉まで
・山城博治さんたちの即時釈放を求める決議の「週刊 法律新聞」掲載と辺野古埋め立ての現実
キョウ たなかみつ

Blog「みずき」:鄭玹汀さん(日本キリスト教史研究者)の田中美津論(「山中人間話」参照)。フェミニズムというとただそれだけで頭を垂れてしまう女性や男性がいます。ウーマンリブ(女性解放運動)についても同様のことが言えるでしょう。田中美津はそうしたウーマンリブ運動家たちの宣教師としてこの40、50年ほど君臨してきました。上野千鶴子はウーマンリブの出自ではありませんが、私は、やはり田中美津とほぼ同様のことがいえるだろうと思っています。彼女もセンチメントなフェミニストの教組としてこの40年ほどフェミニズム学ないしはジェンダー学の周辺で君臨してきました。

ところで、私は田中美津と言う人にずっと違和感を抱き続けてきました。しかし、私は、嫌いになるとその人の著書も読まない性質なので(それでも田中美津の著書は何冊か読んでいますが)、違和感は違和感のままにそのまま私の中で居座り続けています。鄭玹汀さんはその私の違和感をずばりと言い当ててくれました。そのとおりです。感謝申し上げます。田中美津評価はその人がほんものかどうかを私が見極めるよい尺度になっていると思っています。

さて、田中美津さんの毎日新聞インタビュー発言については、私にはいがいでしたが、お仲間の作家の北原みのりさんも批判しています。「いやーん、これひどいわー! AV出演強要問題は、人権派VS楽しく仕事したい人たちの対立、と美津さん。被害を訴えた女性は「心の問題」があり、「人権」を訴えるだけでは被害者は癒やされない、と。まじか・・・そしてこのインタビューを、AVANの川奈まり子氏が「神回」と絶賛中。AV強制出演問題は、経済成長と表現の自由への盲信から性売買(AVを含む)を世界一発展させてきた日本の闇、根深い暴力問題。「ポリコレ」VS「本音」みたいな分かりやすい陳腐な対立枠組みつくって被害者の声を塞ぐなんて、これじゃ美津さん、上野さんと同じじゃないのよ。」(北原みのりTwitter 2月22日)、と。

しかし、根底的なというか、日本でのフェミニズムの定着の歴史を振り返っての批判になりえていませんね。おそらく北原さんにはそうした問題意識はないのでしょう。同じ過ちが繰り返されるおそれを私は感じます。


【山中人間話目次】
・鄭玹汀さん(日本キリスト教史研究者)の田中美津論――田中美津の毎日新聞インタビュー発言をめぐって
・最高裁の裁判官は権力に屈服する裁判官ほど最低なものはないということをよくよく知るべきだ
・瑞穂の國記念小學院の大阪府による不認可確実の情勢に満足してはいけない
・メディアよ。安倍をいま叩かないで、いつ叩くというのだ。一点集中して攻撃(報道)せよ。それが「メディア=ウォッチ・ドッグ(権力の監視者)」の謂いのはずだ
・瑞穂の國記念小學院問題のバックには陰にせよ陽にせよ必ず安倍の存在がある。そこを叩け
・安倍晋三のトランプ同様のALT‐FACT(もうひとつの事実)。すなわち、安倍のデマについて
キョウ とうだい

Blog「みずき」:台湾出身で現在はおそらく中国籍だと思われる東大3年生の張婉瑜(チャン・ワンユー)という女子留学生が次のような指摘をしています。「東大に複数あるテニスクラブのうち、いくつかは女子が入部するには男性メンバーに対してお弁当を作ることが条件となっていることを知って驚愕した」、と。東大の学生たちの運動サークルではまだそんな旧態依然の悪習がまかりとおっているのか、と私も驚きました。張さんという女子留学生が怒るのは当然のことです。もちろん、張さんは東大のテニスクラブには入部しなかったのだろうと思います。

しかし、私は、この件については張さんの怒りはそのとおりだと思うものの、彼女の全体としてエリート臭が強く匂う発言には辟易させられます。張さんは上記の「男女差別」糾弾発言に続けて次のように言います。

『しかし、場所が変ると考えも変るものだ。昨年の夏、私はハーバード大学でサマースクールを受けたのだが、あるとき、男子学生と男女関係の話になった。そのとき彼は、「昔は米国でも、デキる、成功している男性は美人な『秘書タイプ』と結婚するのがつねだった。が、最近は違う。僕の場合、彼女はともかく、結婚する相手はハーバード出身か少なくともアイビーリーグ出身者がいい」と言ったのだ。要するに強くて、頭のいい女性がいいというわけだ。』

ここには若者特有のエリート志向への反抗精神とでもいうべきものは微塵も見られません。それどころか「結婚する相手はハーバード出身か少なくともアイビーリーグ出身者がいい」と言ってのける男子学生の人の格差=格差社会を前提にした発言に彼女は同調する姿勢さえ見せています。この女子留学生は「男女差別」を糾弾する姿勢と「格差社会」から結果として生じる差別を肯定する自身の思想のアンチノミーになんらの矛盾も感じていないようです。

彼女はヒラリー・クリントンを評して次のようにも言います。

『あと20日もすると、米国にドナルド・トランプ大統領が誕生する。ヒラリー・クリントンを支持していた人たちにとっては、辛い瞬間となる。それだけ近かったのだ。女性が米国初の大統領になるまで、本当にあと一歩だった。ヒラリーは敗北宣言でこう語った。「私たちはいまだに、最も高くにあって最も堅い『ガラスの天井』を打ち破れていません。それでも、誰かがいつか、願わくばすぐに、成し遂げてくれるでしょう。そして、すべての小さな女の子たち。あなたたちには、自分の夢を追って、そして叶える世界のどんなチャンスも機会も、手に入れるだけの価値とパワーがあるということを疑わないで」。敗北のショックは大きかったに違いないが、それでも彼女は私たち女性に、「女性には男性と同じだけを求める権利がある」ということを教えてくれたのだ。』

要するにヒラリー・クリントンは女性だから支持するというわけです。この女子留学生は「男女差別」には敏感のようですが、その「男女差別」の問題をも含む「民主主義」という人の権利の問題=人間尊重の精神の問題には鈍感なようです。1日の記事で
醍醐聰さん(東京大学名誉教授)の上野千鶴子(同)批判をご紹介しましたが、日本のフェミニストにはこうした人間尊重の精神を欠如した、そのくせ権力志向はきわめて強い志向の持ち主を多く見かけます。

彼女は次のようにも言います。この女子留学生もこうしたフェミニストたちの仲間入りをめざしているようです。

『もっとも、私の周りの東大生を見ている限り、女子学生のほとんどは自立しており、将来的なキャリアでの成功のために頑張っているように見える。彼女たちは、東大におけるさまざまなイベントでイニシアチブやリーダーシップをとっているし、国内外のコンクールやコンペなどにも参加している。彼女たちは、つねに今より上を目指そうとしている。これは、私が知っている多くの日本のトップ大学に通う女子生徒たちにも言えることで、こうした女性たちが日本の未来を引っ張って行ってくれることを期待したい。』

私は「こうした女性たちが日本の未来を引っ張って行ってくれる」未来には期待しえない。というよりも、ご免こうむる。

【山中人間話目次】
・東大3年生の女子留学生の権力志向に違和を持つ
・アレクシェーヴィッチが福島訪問後の東京外大の講演で「日本社会に“抵抗”がないことに驚いた」
・世界の悲鳴は2017年も続く。その悲鳴の中にいま辺野古の海を再び埋め立てられようとしている沖縄の悲鳴もある
キョウ しんじゅわん

Blog「みずき」:山崎正和(劇作家・評論家)は日米間の戦争観のズレについて次のようにいう。「真珠湾攻撃は、米国の日本への敵愾心を高揚させました。「卑怯な不意打ちで多数の米国人が死んだ」と。大統領ルーズベルトが対日戦に踏み切れたのは日本の真珠湾攻撃があったからです。米国内では日本罪悪視と敵意が盛り上がり、無差別攻撃すなわち都市部への大規模空襲、そして原爆投下へとつながった。米国の戦争の仕方を以前から大きく変えました。一方、日本側には真珠湾攻撃に罪悪感はありません。それどころか、米軍の空襲で焼け出され、国内は焦土と化した。あの戦争に日本の一般の人たちは、もっぱら被害者としての意識しかありませんでした。「悪い日本をやっつける」米国と「ひどい目にあった」日本。両者にはずっとズレがありました。」(朝日新聞「耕論」 2016年12月29日)山崎のこの指摘は正しい、と私は思う。しかし、その認識から導き出される山崎の日本の首相の安倍晋三の真珠湾訪問の評価は次のようなものだ。「今回の安倍晋三首相の真珠湾訪問は、日本は被害者だけでなく加害者の面もあった、それを自覚している、という表明になります。日米間の戦争観のズレを埋め、日本への親近感を強めるでしょう。私は高い評価を与えたい」。山崎のこの安倍の真珠湾訪問評価は正しいか。私は正しくないと思う。山崎の目は真珠湾という海を眺める視点から動かない。あるいは米国と日本という海でつながる地平線とはまた別の角度にはまた別の地平線があるということには山崎のフォーカスの視点は及ばない。日米を軸にしてしか世界を見ることができない日本という国のメディア、日本という国に棲む文化人一般の陥穽に山崎も落ちている。山崎はなぜ問いかけないのか。「あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか」(オリバー・ストーンら53人の知識人の「真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状」)、と。

【山中人間話目次】
・山崎正和(劇作家・評論家)の論は真珠湾という海を眺める視点から動かない
・「名前を書けば入れる」福岡・立花高の教育論――多くの元不登校生が通う私立高校のやり方
・春日記者(朝日新聞)によるアンカラで、包囲攻撃下のアレッポからツイートし続けたバナさんと母ファテマさんとのインタビュー記事
・仲宗根勇さんの「翁長知事よ、田舎芝居はもうやめろ!」
・辺見庸「死刑も皇室も新聞記事も、ほんとうはすぐれて身体的、肉体的なことだ。危機的なまでに身体的だ」
・田中利幸さんの「『真珠湾訪問にあたっての安倍首相への公開質問状』に私が署名しなかった理由
キョウ にいたかやま

Blog「みずき」:「今日の言葉」は内容的には昨日の「今日の言葉」の焼き直しのようなものです。しかし、今日がアジア太平洋戦争の発端となった日本陸軍のマレー半島上陸と日米開戦の発端となった日本海軍の真珠湾攻撃の日である12月8日(ヒトフタマルハチ)であるということ。そのことを肝に銘ずるための今日の言葉です。


【「ヒノデハヤマガタ」の日と「ニイタカヤマノボレ」の日のヒトフタマルハチ】
日本が真珠湾に「ニイタカヤマノボレ1208(ヒトフタマルハチ)」の合図とともに奇襲攻撃(このいわゆる「奇襲」はアメリカ側が事前に察知していたことがいまでは明らかになっている)をかけ、それを契機にして日米戦争が勃発したとされる日。東大教授の
加藤陽子さんはこの12月8日(ヒトフタマルハチ)の日について次のように言う。「太平洋戦争の奇襲攻撃という側面については、国民はやはり関与できてなかった。国民の多くは対英米強硬論に与しつつ、同時に「戦争はぎりぎりのところで回避されるのでは」との希望的観測をも抱いていたのではないでしょうか。そのような意味で12月8日は、「国民が国家の行く末に十全に関われなかった」ことを噛み締める日だと思います。「軍部の失敗」という総括は、現在、戦前期の軍部と同様の組織がない以上、実のところ痛くもかゆくもない総括です。そうではなく、社会に溢れている見せかけの選択肢を「本当の選択肢は何だったか」と置き換えて考える癖、言い換えれば「歴史に立ち会う際の作法」というもの」ではないか(ハフィンポスト 2016年12月07日) 。重要な視点だと思う。

もうひとつ重要な視点がある。「日本による「真珠湾攻撃」は「日米開戦の発端」ではあっても、けっしてアジア太平洋戦争の発端では」ない、という「アリの一言」ブログ主宰者の鬼原悟さんが指摘する視点である。鬼原さんは次のように言う。「日本海軍による「真珠湾攻撃」は1941年12月8日午前3時20分(日本時間)」だが、「その約1時間前の午前2時15分、日本陸軍はマレー半島東北部(コタバル)に上陸し、イギリス軍と戦闘を開始して」いる。「これがアジア太平洋戦争の口火」。「真珠湾」が「日米開戦の発端」だと強調することは、アジア太平洋戦争の発端である「マレー半島上陸」の歴史的事実から目をそらすことに」なる
アリの一言 2016年12月06日)。日本のアジア諸国、諸地域への侵略の歴史と事実、ニッポン人のアジア諸国民への無意識下の差別意識の構造を忘れないためにもこの指摘も重要である。(東本高志FB 2016年12月8日

【山中人間話目次】
・12月8日(ヒトフタマルハチ)はアジア太平洋戦争の発端となった日本陸軍のマレー半島上陸と日米開戦の発端となった日本海軍の真珠湾攻撃の日
・阿部治平さん(もと高校教師)の日本共産党批判
・「リベラル」「左派」運動の右傾化、というよりも右翼化の実態(1)
・「リベラル」「左派」運動の右傾化、というよりも右翼化の実態(2)
・目取真俊さん(沖縄在住芥川賞作家)も翁長知事、オール沖縄批判
キョウ りっとんちょうさだん
日独伊三国同盟の調印式

Blog「みずき」:私は今日のフェイスブック記事で安倍首相の真珠湾訪問に関して鬼原悟さん(「アリの一言」主宰者)と田畑光永さん(元TBS解説者)の2人の論者の鋭利な見方とそれに対比する形で共産党シンパの五十嵐仁さん(法政大学名誉教授)の愚鈍な見方を紹介しました。さて、「今日の言葉」で紹介する加藤陽子さん(東京大学教授)はその日本の真珠湾攻撃に端を発するいわゆる太平洋戦争は同戦争を回避することのできる3つの岐路があったと指摘します。その3つの岐路を解きほぐす加藤さんの論を聞いてみたいと思います。この3つの岐路になぞらえて言えば、今回の安倍首相の真珠湾訪問は4つ目の岐路の私たちの選択肢だということもできます。ここで私たちの選択肢と言うのは、安倍首相の真珠湾訪問を日米軍事同盟の一層の強化と見るか歓迎の目で見るかという私たちの選択視点の問題という意味です。その私たちの選択視点のありようはまさに戦争の道を選ぶか平和の道を選ぶかの第4の岐路を形成することになるでしょう。

【「歴史に立ち会う際の作法」というものについて】
太平洋戦争の開戦から12月8日で75年を迎える。改めて、なぜ日本は戦争へと至ったのだろうか。日本近現代史が専門の加藤陽子・東京大学教授は近著『
戦争まで』で、1941年の太平洋戦争の前に、世界が日本に「どちらを選ぶのか」と真剣に問いかけてきた交渉事は3度あったと指摘する。「満州事変(1931年)とリットン報告書(1932年)」「日独伊三国同盟(1940年)」そして「日米交渉(1941年)」だ。日本は、真に問われていた選択肢が何であったのかをつかめず、本来はあり得た可能性や回避可能な選択肢をみすみす逃した。ただ、「世界」の側が常に正しかったとも言えない。「世界」から選択を問われた日本がどんな対応をとったのか、それを正確に描くことは「未来を予測するのに役立つ」と加藤氏は語る。「太平洋戦争は軍部の暴走といった単純な話の帰結ではない」と言う加藤氏に、その意味するところを聞いた。(略)

――こうして3つの失敗を見ると、日本側の見通しの甘さというか、目算の甘さというのが如実に目立つ気がします。

見通しが甘いということではアメリカ側も同様で、日本側に強硬に出た理由は「資源に乏しく劣勢の海軍力しか持たない日本が、英米に対する戦争を始めるはずがない」と考えていました。アメリカ側の抑止の失敗が、日本の開戦決意でもあった訳です。日本側の失敗を反省するのは大事なのですが、ここで正しい反省の仕方をしないと、また同じ失敗を繰り返すだけです。私がこの3つの岐路に関して詳しく分析した理由は、「国や個人が選択を求められる場合に重要なのは、問題の本質が正しいかたちで選択肢に反映されているのか」という点をチェックすることだと思うからです。当時の軍部やジャーナリズムが誘導した見せかけの選択肢ではなく、世界が日本に示した本当の選択肢の形と内容を明らかにしつつ、日本側が対置した選択肢の形と内容について正確に再現することです。実のところ、太平洋戦争への道を回避する選択肢はたくさんありました。

――かつて加藤さんは「8月15日というのは、日本人が戦後歩んできた平和を噛み締める日だ」と定義していました。では、開戦の日となった12月8日は、国民にとってどんな意義がある日でしょうか。

「太平洋戦争の奇襲攻撃という側面については、国民はやはり関与できてなかった。国民の多くは対英米強硬論に与しつつ、同時に「戦争はぎりぎりのところで回避されるのでは」との希望的観測をも抱いていたのではないでしょうか。そのような意味で12月8日は、「国民が国家の行く末に十全に関われなかった」ことを噛み締める日だと思います。「軍部の失敗」という総括は、現在、戦前期の軍部と同様の組織がない以上、実のところ痛くもかゆくもない総括です。そうではなく、社会に溢れている見せかけの選択肢を「本当の選択肢は何だったか」と置き換えて考える癖、言い換えれば「歴史に立ち会う際の作法」というもの、これが3つの失敗の事例から学べるものだと思います。(
ハフィンポスト(話し手:加藤陽子、聞き手:吉川慧) 2016年12月07日

【山中人間話目次】
・安倍首相の真珠湾訪問に関する鬼原悟さん(「アリの一言」主宰者)と田畑光永さん(元TBS解説者)の2人の論者の鋭利な見方
・安倍首相の真珠湾訪問は歓迎すべきことか――五十嵐仁の転成仁語の倒錯
・醍醐聰さんと内野光子さんの安倍首相の真珠湾訪問に関するこのNHKの提灯報道批判
・toriiyoshikiさん(ETVディレクター・ハーフリタイア)の上田良一NHK新会長評価
・これがニッポンの報道の現実――安倍・トランプ会談に関して
・辺見庸の戦後最大の恥辱としての大手メディア記者批判
・高江ヘリパッド基地建設問題についてアメリカで粘り強い反対の闘いを続けている沖縄人(アメリカ市民)がいる
・またしてもこの国の裁判のお粗末さを示す判決――東京高裁、タイ人少年の控訴棄却
キョウ こうあんけいさつ
公安警察を告訴した記者会見の模様

Blog「みずき」:「今日の言葉」は横浜事件国家賠償事件弁護団の森川文人弁護士の「横浜事件と公安刑事の全学連暴行を繋ぐもの、隔てるもの」という論から。下記の論中に警視庁公安課の刑事たちの全学連大会襲撃事件(言論の自由の暴力的抑圧)の証拠ビデオをリンクしています。森川弁護士が同刑事たちを特別公務員暴行陵虐罪で告訴し、さらに損害賠償請求を提訴した(せざるをえなかった)理由のなによりもの説明になりえていると思います。これが21世紀の思想差別の現実なのです。

【横浜事件と公安刑事の全学連暴行を繋ぐもの、隔てるもの】
本日、本年9月1日、2日に警視庁公安課の刑事らが行った
全学連大会襲撃事件につき、特別公務員暴行陵虐罪での告訴、さらに国家賠償法及び共同不法行為による損害賠償請求を提訴しました。学生たちの行う集会を国家権力が・暴力で・妨害するという集会の自由(憲法21条)に対する前代未聞のあからさまな侵害です。これに憤らない方がおかしいでしょう。また、今週の金曜(12/2)には、横浜事件国賠控訴審の第1回期日が控えています。横浜事件の泊事件とは、出版記念の温泉旅行での一枚の記念写真から、それを「共産党再建会議」とでっち上げ、拷問により自白を得て有罪判決を裁判所は下し、それを証拠隠滅した国家犯罪です。いずれも、思想・集会に対する弾圧であり、本質的に同じです。私はそう思います。思想や表現の自由に対する暴力による侵害です。許せません。そこで攻撃されているのは「共産主義・社会主義」思想です。でっち上げにせよ、その弾圧の対象は、国家制度=資本主義・帝国主義体制に対する革命思想としての共産主義・社会主義思想です。未だ、というか、これらの思想には偏見が蔓延しています。ある意味、ロシア革命のあったちょうど100年前、1917年頃の方が、今より思想は自由だったかもしれません。世界中の多くの人々がマルクス・レーニンの革命思想に魅了され、学習し、体得していたのです。今は、そのような選択肢は100年前より閉ざされているかもしれません。いずれにせよ、偏見がたっぷりで溢れているので「一般論」として思想だとか表現の自由とか言っている人でも、平気で「過激派とは関わりたくない」と陰ではいう始末・・・それが21世紀の思想差別の現実です。木村亨さんたち横浜事件の元被告人らは、1947年に拷問を行った元特攻刑事らは特別公務員暴行傷害罪で告訴しました。海野晋吉弁護士らが代理人だったようです。たまたま思い出したのですが、すべてのわざには時がある・・・という言葉を「主体的に」捉えれば時は、私たちは時に選び取る必要があり、やるべき時に、やるべきことをやれ、という意味だと思います。歴史と今の現実を結びつける・・・簡単なようで、難しい。この二つの事件を対比して扱う人はなかなかいません。昔のことは昔のことだから「触れら」れても、今のことはホットで、「触れない」ということでしょうか? 今生きている私たちが歴史を知る意味・・・それはくだらないことは繰り返させない、ということにも一つ意味があると思います。心の声、ではなく、具体的に・声を・あげるべき時です。今がその時だと思います。(森川文人のブログ 2016-11-29

【山中人間話目次】
・小倉利丸さんの「米国大統領選挙でトランプは、失業と貧困から脱却できない主として白人労働者階級の票を獲得した」とされている問題の本質的な考察
・郷原信郎さん(美濃加茂市長事件主任弁護士)の道理も理路もある不当きわまる控訴審逆転有罪判決批判
・内野光子さん(歌人)の天皇の「生前退位」報道に関してメディアは「天皇制の本質については語らない」というメディア批判
・太田昌国さんのチェ・ゲバラ評、カストロ評、また、キューバ革命評
・高林敏之さんのこの安積明子批判もとても説得的です
キョウ うよく
「もう一つの右翼」("Alt Right")運動

Blog「みずき」:「今日の言葉」は水島朝穂さん(早大教授・憲法学)のトランプ新政権人事考。水島さんは関連して欧州の7つ目の右翼ポピュリズム政権の誕生の可能性についても言及しています。その部分も抜出しておきます。世界的に恐るべき事態が進行しています。「前回の直言で、ドイツの週刊誌Der Spiegelの欧州右翼ポピュリズム政権地図を紹介したが、いよいよ来週12月4日にオーストリア大統領選挙の再投票が行われる。「トランプ」後の最初の重要選挙である。ホーファーが当選すれば、欧州の7つ目の右翼ポピュリズム政権となる。Brexit(英国のEU離脱)に続く、Öxit(オーストリア〔Österreich〕のEU離脱)になるか。米国の状況をみて、ポピュリズムの方向に傾いていた有権者が踏みとどまる可能性もある。そうしたなか、ドイツのメルケル首相が11月20日、来年の総選挙にCDU首相候補として出馬することを表明した。「トランプ当選」が背中を押したことは明らかである。ヨーロッパとドイツを背負ってトランプと向き合う覚悟だろう。しかし、与党内は複雑である。常にメルケルと対立する副首相で、姉妹党のキリスト教社会同盟(CSU)党首のホルスト・ゼーホーファーは、「トランプ次期大統領をいつでもバイエルン州は歓迎するだろう」と述べ、具体的には来年2月17~19日にミュンヘンで開かれる「安全保障会議」に、トランプ次期大統領を招待する意向を示した(Die Welt vom 24.11)。難民問題でも地球温暖化問題でも、ゼーホーファーの意見はトランプのそれに近い。ベルリンの連邦政府の頭越しに、バイエルン州首相が単独でトランプを招くというのは、明らかにメルケル首相へのあてつけである」。

【安倍首相もさらなる「お友だち」人事を逆輸入】
マスコミはいま、そのトランプ新政権の人事に注目している。(略)すでに内定している顔ぶれをみても、この政権の危なさは並みではない。国家安全保障担当補佐官のマイケル・フリン(退役陸軍中将、元国防情報局長)はイスラム教徒排斥の急先鋒といわれ、国防長官に名前が出ているジェームズ・マティス(退役海兵隊大将、元中央軍司令官)は「狂犬」と呼ばれている。そして、司法長官のジェフ・セッションズ(上院議員)は不法移民への強硬策で知られ、CIA長官のマイク・ポンペオ(上院議員)はイランとの核合意破棄を主張している。保守派のティーパーティー運動に関わっている。商務長官のウィルバー・ロス(著名投資家)は知日派だけに、日本の「骨までしゃぶる」政策をとってくるかれしれない。メディアはあまり注目しないが、国土安全保障省(ホームランド・セキュリティ)長官に、
クリス・コーバッハ(カンザス州内相)があてられる予定である。彼は司法省の役人時代、NSEERSという、出入国管理に関わる手続を厳格化するシステムの創設に関わり、その再導入・強化をトランプに提言したようである(Süddeutsche Zeitung vom 22.11)。なお、合衆国最高裁のアントニン・スカリア判事が今年2月に急死したことに伴い、最高裁判事の1名もトランプ次期大統領が任命する。2015年6月26日の同性婚「合憲」判決は5対4の僅差だった。トランプが極右の判事を任命すれば、憲法をめぐるさまざまな分野で大きな後退が起こる可能性がある。(略)

「もう一つの右翼」("Alt Right")運動というのがある。白人至上主義、移民排斥、人種主義、孤立主義をとり、米国のネオナチともいうべき存在である。その幹部の
リチャード・スペンサーの演説を見つけた。38歳の若さで、極右のシンクタンク、国家政策研究所 (NPS)理事長である。11月22日にワシントンD.C.で行われた 集会での演説で、米国が今後、白人国家として創造され、繁栄し、継承されていくべきだ、と明らかにオバマ大統領を意識した演説をしている。「十字軍」や人種的「純粋さ」などを強調し、最後は「ハイル トランプ」「ハイルピープル」「ハイル ヴィクトリィ(勝利)」と叫んで右手(グラスをもっているが)を斜め前に掲げるのが確認できる(YouTube映像の29分18秒あたりから )。会場の参加者のなかには、「ハイル ヒトラー」の敬礼でこたえる姿も写っている。スペンサーとも関係のある保守系サイト「ブライト バート・ニュース」会長、スティーブン・バノンがトランプ政権の戦略担当顧問に就任する。当初は大統領首席補佐官の声もあったが、さすがのトランプもこのポストは避けたようだ。しかし、トランプ政権は極右団体の強い影響が確認できる。選挙戦でこれらの団体の支持を受けて当選した以上、人事でも配慮を加えざるを得ないわけである。日本会議と安倍政権の関係によく似ている。(略)トランプはいま家族とともにフロリダの別荘にこもって政権人事を進めているという。まさに権力の私物化(家族化)であり、米国は「家産国家」(Patorimonialstaat)になるのか。安倍首相もそれに学んで、さらなる「お友だち」人事を進めていくのだろう。2017年は悪い冗談で開けるのだろうか。(水島朝穂「今週の直言」2016年11月28日

【山中人間話目次】
・朴氏辞任求め5週連続集会――英雄譚にはいくつもの落とし穴がある
・豊洲市場・盛り土問題。「小池劇場」は“行き詰まっている”という郷原信郎さん(弁護士)の見方
・美濃加茂市長に逆転有罪の名古屋高裁判決に暗然とする
・NHKスペシャル 追跡 パナマ文書衝撃の“日本人700人”(動画)
・ETV特集「路地の声 父の声~中上健次を探して~」
キョウ さわふじとういちろう3

Blog「みずき」:澤藤統一郎さん(弁護士)の宮中で旧新嘗祭の行事が執り行われる日(勤労感謝の日)の本日付けの記事に引用されている「神聖国家日本とアジア――占領下の反日の原像」(勁草書房1984年)の「あとがき」(鈴木静夫)の文章が私の心にも残りました(澤藤さんはこの「あとがき」が心に残ったから今日の記事を書いているのでしょう)。澤藤さんは同著の「あとがき」で紹介されている「東南アジア『懺悔』行」を書いた新日本宗教団体連合会に所属する二十六人の青年たちの思想と行動は「靖国の思想と真っ向から対立する」と書いています。「靖国は死者を、敵と味方、軍人と民間人に、徹底して差別する思想に立っている」とも。その「靖国の思想と真っ向から対立する」二十六人の青年たちの思想と行動を紹介した「あとがき」の文章自体は澤藤さんのブログで読んでいただくことにして、ここでは同著を読んだ澤藤さんの感想を「今日の言葉」としてとりあげておきたいと思います。

【新日本宗教団体連合会の二十六人の青年たちの思想と行動】
晩秋。雲の厚い陰鬱な勤労感謝の日である。晴天に恵まれた文化の日に神保町の「神田古本まつり」の露店で購入した本をひろげている。「神聖国家日本とアジアー占領下の反日の原像」(鈴木静夫・横山真佳編著、勁草書房1984年8月の刊)。(略)この本の惹句は、「第二次大戦下,日本はアジアの占領地域で何をしたか,相手側はどのように受けとめたか。現地調査と綿密なデータ収集で掘り起こし,現在も深い影を落している事を明かにした。」というもの。現地をよく知る6人の毎日新聞(元)記者が精力的な調査結果をまとめている。3年掛かりの作業だったそうだ。この書のキーワードは、アジアの人びとがもつ「対日不信の原像」である。帯には「これはすぐれた日本人論でもある。現地調査と研究が浮彫りにした日本の原像。この水準を越えるものは当分出ないだろう」と記されている。この書に記された独善と狂気と残酷を「日本の原像」というのか。アジアの占領地に「呪縛と支配の思想」を押しつけた、私より一世代前が「日本人の原像」だというのか。ますます陰鬱な一日となってしまった。私がこの本を買う気になったのは、以下の「あとがき」(鈴木静夫)に目が行ってのこと。大切な視点だと自分に言い聞かせるつもりで、引用しておきたい。「「東南アジアの対日不信」の調査、研究は一つの衝撃的な新聞記事との出会いから始まった。その記事は「東南アジア『懺悔』行」と題された一九八〇年五月十九日付の毎日新聞夕刊の記事である。新日本宗教団体連合会に所属する二十六人の青年たちが、三度目の東南アジアの戦跡めぐりをしたという囲みものの報告記であった。東南アジアの戦跡めぐりをする旧軍人やその家族はたくさんおり、そのこと自体は珍しくはないが、この記事が伝える内容は私を激しく揺り動かした。彼らは古戦場や軍人墓地を訪問したのだが、その訪問の仕方がまるで違っていたからである。(略)」ここで指摘されているのは、「戦争を被害者としての視点からだけではなく、自らを加害者として見つめ直すこと」、「侵略戦争を被侵略国の民衆の立場からありのままに見るべきこと」、そして「戦争がもたらした長く癒えぬ傷跡をあるがままにとらえること」である。この基礎作業なくして、対話も謝罪も、関係の修復も、真の友好と将来に向かっての平和の構築もあり得ない。このような考え方は、靖国の思想と真っ向から対立する。靖国は死者を、敵と味方、軍人と民間人に、徹底して差別する思想に立っている。天皇や国家のための忠死故に「英霊」と顕彰するとき、既に戦争が美化されている。その戦争が醜い侵略戦争であったこと、皇軍は加害軍であったことが隠蔽される。靖国の思想とは、戦争を美化して次の戦争を準備する思想といってよい。靖国史観に、侵略された国々の民衆の歴史を対峙させることの意味は大きい。(
澤藤統一郎の憲法日記 2016年11月23日

【山中人間話目次】
・小倉利丸さん(富山大学名誉教授。ピープルズ・プラン研究所共同代表)の武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義』書評
・木村剛久さん(元編集者。「海神日和」ブログ主宰者)の『宇沢弘文傑作論文全ファイル』を読む(1)
・郷原信郎弁護士の『「小池劇場」で演じられる「コンプライアンス都政」の危うさ』という小池都政批判
・スティグリッツ氏(2001年ノーベル経済学賞を受賞、米国を代表する経済学者)のトランプの経済政策批判
・共産・志位委員長は「問題解決に向けての前進と評価」談話(2015/12/28)を撤回せよ!!という主張に強く同意する
キョウ さんだーす22 

Blog「みずき」:「トランプ当選の衝撃」と題したさまざまな人たちのさまざまん視点からの論、あるいは情報の紹介はこれで最後にしようと思います。最後に「現代世界の構造的問題を百年単位の時間軸で分析した社会学の泰斗」(朝日新聞)とされるニューヨーク州立大名誉教授の社会学者イマニュエル・ウォーラーステインさんの論を掲げることにします(色平哲郎FB 2016年11月13日より)。しかし、ウォーラーステインさんの論に限ったことではないのですが、また、商業ジャーナリズムに登場する「識者」の論評に多いのですが、いわゆる左派と右派、バーニー・サンダースジェレミー・コービンなどを支持する集団とフランス極右のマリーヌ・ル・ペンなどを支持する集団を十把一絡げにしてポピュリスト集団と同一に論じる姿勢には私は強い違和感を持ちます。大衆を扇動することと大衆に訴えかけることとはもちろん同じことではありません。その違いが商業ジャーナリズムご用達の「識者」には見えていない、とは私の思うところです。

【全く新しいシステムに向かう分岐点に私たちはいる】
(トランプ当選の)背景には多くの人が職業を失い、経済的に苦しんでいるという事情があります。でも、米国はもはや世界の製造業の中心地ではなく、何もない中から雇用は作り出せないし、(苦しむ人を支えるために)社会保障を拡充するには税収を上げる必要がある。今は高揚感が広がっていますが、トランプ氏の支持者も1年後には、「雇用の約束はどうなったのか」と思うのではないのでしょうか(略)実際にTPP(環太平洋経済連携協定)やNAFTA(北米自由貿易協定)など、グローバリゼーションの成果とされていた構造は崩れています。TPPは今回の選挙結果で終わりを迎えるでしょう。さらにこうした協定は、実は開放的ではありません。当事者間では障壁をなくしますが、参加していない国との壁は逆に高くなる。むしろ、保護主義的な仕組みだととらえています(略)中国、韓国、日本の3カ国は言葉はそれぞれ違いますが、バラバラにする力よりも統合する力の方が強いように思える。確かに日本の現政権は、中国や韓国との関係を深めることに熱心には見えません。過去についての謝罪が必要な一方で、自尊心がそれを困難にしているのでしょうが、地政学的に考えると、一つにまとまる方向に動くと私は考えています(略)

現在の近代世界システムは構造的な危機にあります。はっきりしていることは、現行のシステムを今後も長期にわたって続けることはできず、全く新しいシステムに向かう分岐点に私たちはいる、ということです(略)15世紀半ばから17世紀半ばまで、約200年間にわたるシステムの構造的危機の時代がありました。結局、資本主義経済からなる現在の世界システムが作り出されましたが、当時の人がテーブルを囲んで話し合ったとして、1900年代の世界を予測することができたでしょうか。それと同じで、西暦2150年の世界を現在、予想することはできません。搾取がはびこる階層社会的な負の資本主義にもなり得るし、過去に存在しなかったような平等で民主主義的な世界システムができる可能性もある(略)一方で、バタフライ効果という言葉があります。世界のどこかでチョウが羽ばたくと、地球の反対側で気候に影響を与えるという理論です。それと同じで、どんなに小さな行動も未来に影響を与えることができます。私たちはみんな、小さなチョウなのだと考えましょう。つまり、誰もが未来を変える力を持つのです。良い未来になるか、悪い未来になるかは五分五分だと思います。これは楽観的でしょうか、それとも悲観的でしょうか(略)大切なのは、決して諦めないことです。諦めてしまえば、負の未来が勝つでしょう。民主的で平等なシステムを願うならば、どんなに不透明な社会状況が続くとしても、あなたは絶えず、前向きに未来を求め続けなければいけません。(
朝日新聞 2016年11月11日

【山中人間話目次】
・ZEDさんの韓国の作家・金甲洙さんの「韓国100万人デモへの危惧」の論の翻訳
・ドナルド・トランプの発言・暴言・迷言まとめ

キョウ めどるましゅん2

Blog「みずき」:「今日の言葉」は小倉利丸さんの「戦争法(安保法制)下の共謀罪 -なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか-」という論のうち最終章の「最大の課題は、正義のためにやむをえず法を逸脱することをどのように考えるのか、にある」という論のみピックアップして取り上げています。ここでの問題提起は、現在の運動のあり方に対する小倉さんの根底的な違和感の表明とそれを払拭するための小倉さん流の根底的な問題提起となっていると考えるからです。小倉さんは次のようにも私たちに問いかけています。「(共謀罪)法案反対運動のなかでは、往々にして、運動の側は常に憲法が保障する言論・表現の自由の権利に守られており、違法な行為は一切行なっていないのに、権力が法を濫用して不当な弾圧をしかけてくる、という前提がとられる。しかし、現在の状況は、こうした遵法精神を前提とするだけで運動が正当化されるという狭い世界に運動を閉じこめていいのかどうかが問われている。いやむしろ現実の運動は、警察や政府にとっては「違法」、わたしたちにとっては正当な権利行使、としてその判断・評価が別れる広範囲の「グレーゾーン」のなかで、民衆の抵抗権の確立のために戦ってきたのではないだろうか」。

【法を執行する権力が同時に合法・違法の判断を下す権限を独占する「正義」とは】
法案反対運動のなかでは、往々にして、運動の側は常に憲法が保障する言論・表現の自由の権利に守られており、違法な行為は一切行なっていないのに、権力が法を濫用して不当な弾圧をしかけてくる、という前提がとられる。しかし、現在の状況は、こうした遵法精神を前提とするだけで運動が正当化されるという狭い世界に運動を閉じこめていいのかどうかが問われている。いやむしろ現実の運動は、警察や政府にとっては「違法」、わたしたちにとっては正当な権利行使、としてその判断・評価が別れる広範囲の「グレーゾーン」のなかで、民衆の抵抗権の確立のために戦ってきたのではないだろうか。例えば、エドワード・スノーデンによる米国の国家機密の意図的な漏洩や、ジュリアン・アサンジウィキリークスなどによる組織的な国家機密の開示運動は、いずれも違法行為である可能性が高い。彼らとその支援者の活動は、新共謀罪の適用もありうるような行為といえるかもしれない。彼らは敢て法を犯してでも、実現されるべき正義があると考えて行動し、この行動に賛同し支援する人びとが世界中にいるのだ。私たちは、彼らが違法な行為を行なったからという理由で、その行為を否定したり、法の範囲内で行動すべきだ、と主張すべきだろうか?私はそうは思わない。(略)私は、こうした警察の介入を法と秩序を維持する上で正しく、法を逸脱した反政府運動が間違っているということにはならないと考えている。むしろ、法を執行する権力が、同時に合法・違法の判断を下す権限を独占し、法を口実に、民衆的な自由の権利を「犯罪化」しようとすることが世界中で起き、こうした法を隠れ蓑に民衆の権利を「犯罪化」するやりかたへの大きな抵抗運動が起きているということではないだろうか。(略)日本も例外ではない。沖縄の辺野古や高江での米軍基地建設反対運動では多くの逮捕者を出している。阻止のための実力行使も行なわれている。私は、そのような行為を「言論」による闘いに限定すべきだとして否定すべきだとは思わない。(略)権力は過去の教訓や経験の蓄積から多くのことを学び、現状において利用可能な手法を再生したり復活させようとする。この権力の構造的な記憶装置をあなどることはできない。新共謀罪法案はこの典型的な例ではないかと思う。これに対して、反政府運動の側は、歴史の過ちを引き合いに出すだけでは十分ではないだろう。むしろ、歴史を踏まえつつ、民衆的自由を実現できる社会を新たに創造することを視野に入れた運動を生み出すことがなければならないと思う。(小倉利丸ブログ 2016年10月30日

【山中人間話目次】
・戦争法(安保法制)下の共謀罪 -なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか- -小倉利丸ブログ
・高田昌幸さんのコメントへの返信 ――リベラルとジャーナリストと糞バエについて
・朴槿恵(パク・クネ)政権は終焉の様相。各国のメディアはいまの韓国の事態をどう見ているのか?
・Love Letter(監督:岩井俊二。1995年)所感 ――熱いものがこみあげてくる映画だった
キョウ あうしゅびっつ

Blog「みずき」:この「今週の風考計」の筆者はペレス前イスラエル大統領について「ポーランド移民からイスラエルにわたり、パレスチナ和平に尽力し94年にノーベル平和賞を受賞した」とだけ述べています。それは、すなわち、同筆者のペレス評価とみなせるものでしょう。しかし、そのペレス評価はあまりに世俗の評価に寄りかかりすぎた評価というべきではないか。ペレスは1950年代にフランスからの武器調達に成功。イスラエルに中東最強の軍事国家を構築し、中東戦争勃発の原因をつくった歴史的責任があります。さらにフランスからミサイルや最新鋭戦闘機をも獲得。それが67年、第3次中東戦争でイスラエル勝利を決定づけ、中東の地政を激変させた原因ともされています。極秘裏に進められてきたイスラエルの核開発計画の責任者も当時のベングリオン首相から任命されたペレスでした。ペレスの政治信条は「軍事力の裏づけがあってこそ、和平を構築できる」というものでした(以上、
産経新聞三井美奈記者の2016.10.1づけ記事による)。ペレスがシオニストであったこともいうまでもありません。そうしたことどもを度外視したペレス評価は群盲象を評すようなもので肯定できません。

【ポーランドの旅で見たこと、考えたこと】
先月末、行きたかったポーランドを旅し、
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を訪ねた。ガイドの中谷剛さんから、ナチス・ドイツ軍によって、130万人が虐殺された収容所内の遺品の数々、拷問部屋、ガス室、死体焼却炉などについて丁寧な解説をいただいた。単に過去の「負の遺産」として捉えるのでなく、いま世界に広がる不寛容、難民排斥、「イスラム国」のテロ、さらにはイスラエルのガザ地区侵攻やパレスチナ問題にまで、ひいては日本の憲法論議や国会運営など、傍観していればホロコーストの根につながっていくと指摘する。自分のありようが重く問いかけられ、身が引き締まった。9月28日、イスラエル前大統領ペレス氏が93歳で逝去した。ポーランド移民からイスラエルにわたり、パレスチナ和平に尽力し94年にノーベル平和賞を受賞した。ワルシャワに戻ると、ドイツ軍に戦いを挑んだ<ワルシャワ蜂起>の敗北の日、1944年10月2日、その日を忘れるなと、年配の人たちと青年がプラカードなどを掲げ市街をパレードしている。タイミングの良い出会い。通訳の説明がありがたかった。さらに翌日3日、「中絶禁止法案」に反対する、黒い服に身を包んだ若い女性らが、「ブラックマンデー」と名付けるデモをしている。現場の熱気たるや、ものすごい。「ジェンドブリー」(こんにちは)しか言えないもどかしさ。いまポーランドは、若い世代が立ち上がっている。頼もしい。(Daily JCJ「今週の風考計」2016.10.9

【山中人間話目次】
・ヒラリー・クリントンとドナルド・トランプの対決は論評するに値しない
・【電通過労死事件】被害者のツイートから浮かび上がる電通の体質
・尾崎咢堂の「われわれの私有財産は、天皇陛下といえども、法律によらずしては一指も触れさせたもうことはできない」という自然権思想
キョウ しこくごろう
四國五郎の絵画」から

Blog「みずき」:「今日の言葉」は本日づけの澤藤統一郎さんの「憲法日記」ブログで紹介されている画家、四國五郎のご長男の四國光さんの「福竜丸だより」の寄稿文から。澤藤さんは「これはまた見事な、亡き父へのオマージュでもある」と光さんの寄稿文を敬誉していますが、あわせて次のような感想も記しています。「表現の自由が抑圧された時代にも、表現者は黙ってはおれない。『この時代、沈黙してはいけない』という四國の言葉は重い。今の時代、意欲さえあれば、書ける、話せる、出版も、掲示も、メールも、ブログも、ほぼ自由に表現できる。この貴重な自由を、精一杯行使し続けなければならない。表現の萎縮によって自らこれを放棄する愚を犯してはならない。峠や四國の活動を知って、痛切にそう思う」、と。

【四國五郎の原点としての「辻詩」】
父の作品としては「
絵本おこりじぞう」の絵や、峠三吉と作った「原爆詩集」の表紙面や挿画が最も知られたものだと思うが、今回の展示の目玉のひとつは、父が峠と作った手描きの反戦反核ポスターだ。父たちはこの表現形式を「辻説法」になぞらえ「辻詩」と呼んだ。1950年の朝鮮戦争の始まる少し前から、峠が入院する53年頃まで、父は100枚から150枚描いたというが、現存するのは父のアトリエにあった8枚のみ。今回の展覧会では初めてこの8枚全てが展示された。当時はGHQによる言論統制のため、戦争や原爆に関する表現は厳しく規制されていた。「辻詩」はそのような状況下で作られた、逮捕覚悟の反戦活動であった。「辻詩」が出来上がると、峠が始めた詩のサークルである「われらの詩の会」のメンバーが手分けしてゲリラのように街中に貼り出し、警察が来ると大急ぎで剥して逃げた。「辻詩」の四隅に残る画鋲の穴を数えると、何回逃げたかがわかる。多いもので40個の穴が開いていたそうだ。

どのようにして「辻詩」を作ったか、父のメモが残されている。それを読むと、ジャズの即興を連想させる。峠と父とでアイデアを持ち寄る。お互いに意見をぶつけ合いその場で「辻詩」の原案をどんどん作っていく。父がそれを自宅に持ち帰り、絵と、絵に相応しい字体で詩を書き入れる。出来上がると街に貼り出し道行く人に訴える。混沌の現実から今もぎ取ってきたような「生の表現」。それこそが人の心に訴え人を動かす、という信念が父たちにはあった。父は自分たちで書くだけでなく、多くの方が参加可能な「表現のプラットフォーム」として、「辻詩」に大きな可能性を見出していた。沈黙から言葉を引き出そうとした。仲間たちの中には、父や峠の、あまりに前のめりな姿勢に対して、危険すぎるので止めるべきだ、という反対も多かったと言う。しかし、父の日記を読む限り、この運動を減速したり止めたりする気持ちは微塵もなかったようだ。「辻詩」によって、詩と絵が社会に対してどれだけの働きかけができるのか、そのチヤレンジに全身全霊をかけて没頭していた様子が伺われる。「この時代、沈黙してはいけない」。

日記を読むと、一連の表現活動による逮捕の可能性も仄めかしており、恐らく覚悟の上だったようだ。「戦争とシペリアを経験したので、それに比べればどんな事でも乗り越えられると思った」と晩年語っていた。「辻詩」とは廃棄あるいは押収される事が運命づけられた「使い捨て」の表現物だ。自分が丹精込めた「表現」の痕跡は一切残らない。3年近く、父は「辻詩」の作成に情熱を注いだ。作品として残る可能性の無いものに対して、そこまでのエネルギーを費やし続けることの、執念のような腹の括り方に、 私は改めて驚きを禁じ得ない。峠の死後も、父は生涯、戦争と平和のメッセージを伝える事を自分の使命と課し、絵や詩など膨大な作品を残した。その中で、最も父の心を熱く燃やしたものが、若き日の「辻詩」であったと思う。「辻詩」は表現者・四國五郎の原点であった。(
澤藤統一郎の憲法日記 2016年9月9日

【山中人間話目次】
・ヘイトスピーチとそれに対抗する「カウンター」について-OCHLOS(オクロス) 2016年9月9日
キョウ はぎわらさくたろう

Blog「みずき」:以下の朝鮮人虐殺に関する萩原朔太郎の三行詩を紹介する文芸評論家の卞宰洙(ピョン・ジェス)さんの文章のほかに朔太郎の「ある野戦病院に於ての出来事」(大正十三年二月『新興』)を紹介する坂根俊英さん(県立広島大学教授)の「萩原朔太郎論」の一節もご紹介しておきます。坂根さんは朔太郎論を次のように書いています。「詩人の鋭い直観はしばしば見事に歴史の証言として価値を持っているのである。例えば、大正十三年二月『新興』に載った「ある野戦病院に於ての出来事」には次のように述べられている。<戦場に於ける「名誉の犠牲者」等は、彼の瀕死の寝台をとりかこむあの充満した特殊の気分。――戦友や、上官や、軍医やによって絶えず語られる激励の言葉、過度に誇張された名誉の頌讃、一種の緊張された厳粛の空気――によってすっかり酔はされてしまふ。彼の魂は高翔して、あたかも舞台における英雄のごとく、悲壮劇の高潮に於て絶叫する。「最後に言ふ。皇帝陛下万歳!」と。かくの如き悲惨事は見るに堪へない。青年を強制して死地に入れながら、最後の貴重な一瞬間に於てすら、なほ彼を麻痺さすべく阿片の強烈な一片を与へるというのは! さればある勇敢な犠牲者等は、彼の野戦病院の一室に於て、しばしば次の如く叫んだであらう。「この驚くべき企まれたる国家的奸計を見破るべく、今、最後に臨んで、私は始めて素気(しらふ)であった」と。併しながらこの美談は、後世に伝はらなかったのである。>戦死を「悲惨事」とみて美化せず、戦争を「企まれたる国家的奸計」と看破した朔太郎が、その後、「阿与」的国家主義に「麻痺」して「よろしく萬歳」を叫んだとしても、このアフォリズムそのもののもつ洞察力はこの時点において褪せない強さをもっている。」(「萩原朔太郎論――啄木の影響と社会性――」坂根俊英より)

【朝鮮人あまた殺され その血百里の間に連なれり われ怒りて視る、何の惨虐ぞ】
朝鮮人あまた殺され/その血百里の間に連なれり/われ怒りて視る、何の惨虐ぞ 「近日所感」と題された、萩原朔太郎の三行詩である。
関東大震災のあった1924年2月に雑誌「現代」の第5巻第2号に発表された。震災の当日、朔太郎は郷里の群馬県前橋の自宅にいた。震災のあまりにも大きな被害に驚愕して、米と食料品をリュックで背負い東京に向かった。幼少のころから慕っていた母方の叔母と従兄を見舞うためで、汽車と荷車をのりつぎ、大宮からは歩いたという。朔太郎は、1917年に処女詩集「月に吠える」をもって口語自由詩を完成させた、日本近代詩の巨匠である。その詩人が、朝鮮人虐殺にいち早く反応して怒りを噴出させたことは記憶にとどめてもよい。「あまた殺され」「その血百里」という直截で簡潔な表現をもって、犠牲者のあまりにも多数であったことをリアルに表現している。朔太郎の怒りは、無抵抗の朝鮮人をふつうの民間人も軍警と一緒になって虐殺したことに、日本人の自分が許せなかったことに起因している。「惨虐」という詩語については、この言葉は現在、「広辞苑」にも「大辞林」にものっていない。当時は「残虐」と同じ意味で使われていたことばである。朔太郎が、あまりにもむごたらしい惨状を、臨場感をもってあらわすために使った「惨虐」という詩語が、80年以上経っても胸に迫ってくる。無こなる朝鮮人惨殺に対する、この詩人の沸々とした憤怒が、あえて「惨虐」を詩語たらしめたのであろう。この詩がいく種もの版のある単行本の「萩原朔太郎詩集」にはおさめられていないのは残念であるが、筑摩書房版全集の第3巻「拾遺詩篇」には収録されている。(卞宰洙(ピョン・ジェス)・文芸評論家 「朝鮮新報」2006.09.01

【山中人間話目次】
・オリンピック批判, 資本主義批判, 文化批判 資本主義的身体からの訣別のために—近代スポーツと身体搾取-小倉利丸
・証拠映像:NHKが「オリンピックの目的は国威発揚」と仰天解説 - YouTube
・ドイツ映画「民族の祭典」 Olympia 開会式 - YouTube
・東京オリンピック開会式(1964年) - YouTube
・辺野古・高江、目覆う無法状態 「傍観」が助長 司法機能せず-金平茂紀の新・ワジワジー通信(18)
・危険な水域にはまる政府交渉を安慶田副知事任せにする翁長県政の自招危難(仲宗根勇さん)
キョウ ちょうせんじんぎゃくさつ

Blog「みずき」:関東大震災時における朝鮮人虐殺と植民地朝鮮の抵抗運動を結びつける視点からの著作に私はまだ触れたことがありません。単に私が知らないだけのことかもしれませんが、おそらくそうした視点からの論攷はこれまで日本では発表されたことがないのではないか? 2003年に『関東大震災時の朝鮮人虐殺―その国家責任と民衆責任』(創史社)を著した山田昭次さんの著作にもそのことの指摘はないようです。そうであれば、鄭玹汀さんの今回の指摘は重要です。鄭さんのこの問題提起を契機に朝鮮人虐殺と植民地朝鮮の抵抗運動を統一的に把捉する日本近現代史の見直しに関わる研究者による新しい論が現れることを私は期待したいと思います。

【日本近現代史における「朝鮮人虐殺」の意味】
9月1日になると、1923年の
関東大震災とともに朝鮮の白い服の人々が、目の前に浮かんでくる。当時、国家権力は"不逞朝鮮人・過激主義者"という仮想の敵を作り上げ、民衆の不安や恐怖心を煽ることに必死になっていた。日本近現代史における「朝鮮人虐殺」を問いつづけていきたい。コーヒーを飲みながら、少し書いてみた。朝鮮人虐殺は、主に国内の問題として捉えられてきた。その限りでの国家責任・民衆責任が議論された。しかし植民地朝鮮の抵抗運動への弾圧が朝鮮人虐殺の最終的な狙いだったことを考えれば、従来の研究ではまだ十分に解明されていないところがある。視野を広げて朝鮮の植民地解放運動に注目してみたい。1920年の尼港事件間島事件青山里戦闘など、満州東部の間島における独立軍 (朝鮮) の抗日武装闘争と日本軍との衝突と、その後の日本国内における朝鮮人虐殺との関連性について考察を深めていく必要がある。また、関東大震災の時、亀戸事件甘粕事件はなぜ起きたのか。それらの事件と朝鮮人虐殺は一つの根源から発生した事件だったにもかかわらず、従来の研究においてはその関連性の解明が十分とはいえない。当時の思想界・文学界の論者たちはこの事件を注目して、数多くの評論、感想、証言、文学作品を残しているが、この問題を総体的に捉える視点の欠如のため、従来は断片的にしか扱われてこなかった。たとえば、〈国家責任〉という時、具体的に何を指すのか、〈民衆責任〉という時、その民衆は主に誰のことなのか、そして事件の根底にある思想的背景を、日本国外との関連という視点で捉え直す必要がある。その関係を確認した上で、国内の思想弾圧の問題などを検討し、立体的に問題をつかみとっていくことが求められる。日本国家は軍主導の帝国主義の拡張によって支えられてきた。日本国内での在郷軍人会の組織化、学校教育における国家主義思想、軍と天皇制国家との関係などの諸矛盾が集約して爆発したのが、朝鮮人虐殺といえる。さらに朝鮮人虐殺事件をアメリカやドイツなどは、どう向き合い、どう捉えていたのか、それについても検討を要する点があると考える。(鄭玹汀フェイスブック 2016年9月1日

【山中人間話目次】
・元朝日記者家族へのツイート脅迫で賠償が確定
・この国にはジャーナリズムを自称するイエロー・ジャーナリズムがなんと蔓延っていることか
・「NHK 貧困女子高生報道を捏造」という捏造記事を書いたビジネスジャーナルもリベラル系ネットメディアといわれるリテラもサイゾー系のメディアである
・この国のテレビメディアはとことん腐れきっている――長谷川豊という自称ジャーナリストについて
・辺野古から「抗議活動に日当」というデマ記事について
キョウ るいぼなばると

【わかったようでわからない論の行方について】
 
内田樹がツイッターでマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考をつぶやいている。

『マルクスの『
ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』はルイ・ボナパルトというどこから見ても二流の政治家がそれにもかかわらず政財官、メディア、ブルジョワ、ルンペンプロレタリアートからの圧倒的な支持を集めて20年にわたって「革命の祖国」に皇帝として君臨した歴史的事実を論じたものです。』(8月21日)

『マルクスがそれについて長い考察(実にすぐれた書物です)を書いたのは、マルクスの知性をもってしても「どうしてあんな二流の政治家が大きな顔ができるのか・・・」が十分には解明できなかったからです。』(同上)

『「ルンペン・プロレタリアート」というのは「プロレタリアでありながら、みずからの階級的利益を損なう政治的立場を熱狂的に支持する」人たちがどうして「そんなこと」をするのかマルクスにもうまく理解できなかったという消息を伝えております。』(同上)

内田樹の上記の「ルンペン・プロレタリアート」考の前提には、

『「金以外の
インセンティブ」で動く政治家しかスケールの大きな事業はできません。でも、それって「イデオロギー」か「宗教」しかないんですよね。安倍政権は「金」で財界を巻き込み、「イデオロギー」で右派を集め、「宗教」で日常運動を作っているのになんであんなにスケールが小さいんだろう。』(同上)

という認識がある。

しかし、内田は、
安倍晋三の評価を誤っている。安倍は「金以外のインセンティブ」で動く政治家ではない。彼のインセンティブは金であり、名誉であり、権力である。その欲は総べてカネに帰結する。彼が「スケールが小さい」のはカネで動く政治家でしかないからである。内田は、そんな明白なことを、わざわざマルクスの「ルンペン・プロレタリアート」考を持ち出し、わかったようでわからない論を展開する。

わかったようでわからない論は
ペダンチックな装いを外せば結局わからない=論理不明瞭の論ということでしかない。そして、論理不明瞭の論は人の態度を保留にさせる。すなわち、そこからなにごとの行動の観念も発生しない。人畜無害の論になるほかない。人を煙に巻くのがうまい内田樹らしい論だ。人畜無害だから、日和見を旨とする学者らしき人々は安心して少し辛口に見えるのを幸いにしてその論をリツイートする。どうやらフェミニストらしい20世紀イギリス文学を研究する女性の研究者もこの内田の論をリツイートしている。いまの学者と言われる人たちの水準をよく示している。いまの大学では正統なマルクス論は論じられることはなく、内田的なわけのわからないマルクス論だけが流通していく。これがいまの大学の水準だ。こうした大学の学者たちが昨年、「安全保障関連法に反対する学者の会」なるものを結成した。なにごとが起こることも、なにごとも生まれるはずもない。これがいまの学者近辺の学問と称するもの=思想と称するものの状況ということである。(東本高志 2016年8月28日

【山中人間話目次】
・象徴天皇制論議の基礎のひとつとしての毎日新聞朝刊文化欄の「原武史・北田暁大対談」の全文
・25年間務めた北海道新聞社「セクハラ自殺」問題が法廷の場へ 問われる人権への姿勢
・TBSテレビ「報道特集」の「反テロ戦争」特集での米国人インストラクターの忘れられない言葉-太田昌国
キョウ こうしつ

Blog「みずき」:本日づけ(8月27日)の毎日新聞に天皇の「生前退位発言」に関する「本格的論評の代表格というべき」(澤藤統一郎さん評)原武史さんと北田暁大さんの対談が掲載されているようです。私はネットでしか毎日新聞を読んでおらず、かつ、「無料で読める今月の上限10本」制限を超えているので、澤藤統一郎さんの論評を通して同対談の要旨をご紹介させていただくことにしようと思います。

【「平成天皇制」――これはむき出しの権力だ】
8月も終わりに近い。8月は戦争を語り継ぐときだが、同時に天皇制を論ずべきときでもある。71年前の敗戦は、軍国主義と戦争の時代の終焉であったが、同時に野蛮な神権天皇制の終焉でもあった。しかし、軍国主義と臣民支配の道具であった天皇制が廃絶されたわけではない。日本国憲法下、象徴として残された天皇制は、はたして平和や人権や国民の主権者意識に有害ではないのだろうか。今年(2016年)の7月から8月にかけて、天皇の「生前退位発言」が象徴天皇制の問題性をあぶり出した。歯の浮くような、あるいは腰の引けた俗論が続く中、8月も終わりに近くなって、ようやく本格的な論評に接するようになった。本日(8月26日)の毎日新聞朝刊文化欄の「原武史・北田暁大対談」は、そのような本格的論評の代表格というべきだろう。ネットでは、下記URL(
)()で読める。これは、必見と言ってよい。この時期、この二人に対談させた毎日の企画に敬意を表するが、見出しはいただけない。「中核は宮中祭祀と行幸 象徴を完成させた陛下」「踏み込んだ『お気持ち』 天皇制を再考する時期」。この見出しでは読者を惹きつけられない。しかも、対談の真意を外すものだ。もとより、原も北田も「陛下」などと言うはずもないのだ。見出しは、対談の毒を抜いて砂糖をまぶして、読者へのメニューとした。しかし、対談の中身はそんな甘いものではない。歯ごたえ十分だ。全文を読んでいただくとして、私なりに要約して抜粋を紹介したい。

対談者の関心は、まずは今回の天皇発言の政治性にある。このような政治的発言を許してしまう、象徴天皇制というものの危うさと、これに的確な批判をしない時代の危うさに、警鐘を鳴らすものとなっている。冒頭の北田発言がその要約となっている。北田「天皇の『お言葉』で皇室典範改正につながるかもしれません。実質的に天皇が法を動かすということは日本国憲法の規定に反する明確な政治的行為でしょう。しかし右も左もマスコミも、心情をくみ取らないわけにはいかないという論調。立憲主義の根幹にかかわることなので、もっと慎重に議論が進むと思っていたのですが……。」さらに、中心的なテーマは、象徴天皇制がもはや憲法をはみ出すものになっているという批判である。原は、今回の天皇発言を「玉音放送」に擬してこう言う。原「今回のお言葉の放送は、いろんな意味で1945年8月15日の『玉音放送』と似ています。玉音放送は臣民という言葉が7回出てくる。今回も国民という言葉が11回出てきた。…昭和天皇が強調したのは、ポツダム宣言を受諾しても、天皇と臣民が常に共にある『君民一体』の国体は護持されるということ。今回も『常に国民と共にある自覚』という言葉が出てきます。玉音放送の終わり方は「爾(なんじ)臣民其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)カ意ヲ体(たい)セヨ」、つまり臣民に向かって自分の気持ちを理解してもらいたい、と。今回も「(私の気持ちが)国民の理解を得られることを、切に願っています」で終わっています。」これに、北田が共鳴し、さらに原が敷衍する。北田「政治・立法過程を吹っ飛ばして国民との一体性を表明する。今、天皇が憲法の規定する国事行為を超えた行動ができることについて、世の中が何も言わないというのは、象徴天皇制の完成を見た思いがします。」原「今回衝撃的だったのは、憲法で規定された国事行為よりも、憲法で規定されていない宮中祭祀と行幸こそが『象徴』の中核なのだ、ということを天皇自身が雄弁に語ったことです。」北田「憲法に書かれていないことが私の使命なんだ、と。相当に踏み込んだな、よく宮内庁は止めなかったなと驚きました。止められなかったのか。天皇の記号としての機能は今、より純化され、強固になっています。多くの国民が政治的な存在と思っていないことが最も政治的なわけで……。」 北田「天皇の政治的な力を見せつけられました。『空虚な中心』どころではない。」原「より能動的な主体として立ち上がってきた。」

対談者の批判は、左派・リベラルにもおよぶ。北田「左派リベラル系の人の中にも、天皇制への視点が抜け落ち『この人なら大丈夫』と属人化されている。それほど見事に自らを記号化してきた成果が今回の肯定的な世論に表れているのでは。」原「実は国体が継承されているんじゃないか。昭和との連続性を感じます。イデオロギッシュだった国体の姿が、より一人一人の身体感覚として染み渡っていくというか、強化されているのではないか。こうした行幸啓を続けることで、いつの間にかそれが皇室の本来の姿のように映るようになった。北田「すごい発明ですよね。平成天皇制。自戒を込めていえば、私も天皇について断片的に本を読むくらいで、強い関心を持っていませんでした。しかし今回のお言葉で目が覚めました。『これはむき出しの権力だ』と。天皇家、天皇制とは何なのかを徹底的に再考する時期だと思います。」若い北田の「すごい発明。平成天皇制」「これはむき出しの権力だ」という感性を私も共有したい。そして、原にも北田にも、世論を覚醒せしめる本格的な論稿を期待する。(
澤藤統一郎の憲法日記 2016年8月27日

【山中人間話目次】
・永原純さんの東京新聞天皇賛美社説批判
・高江の機動隊投入問題。アリの一言氏の翁長知事と沖縄地元紙琉球新報、沖縄タイムス批判。
・崔勝久さん(OCHLOS)の「慰安婦問題に対する、ある韓国人のコラム」紹介
・会長への立候補は認めないー岩手県海区漁業調整委員会の暴挙-澤藤統一郎の憲法日記
・非常勤医師逮捕の不当性について――柳原病院[東京都足立区]の訴え

キョウ どくさい

Blog「みずき」:「民主主義が独裁への道を開くことになりかねない」という藤原帰一さんの危惧については、「『喝采』による『民主主義的な感情』による独裁の民主的正統性による権威付け」の過程を考察したドイツの法学者、カール・シュミットを引いた弁護士の森川文人さんの短評もあります。合わせて参照されれば「民主主義と独裁」がなにゆえに関係するのか。その関係性についての理解も深まるものと思われます。

【民主主義は独裁への道を開くことになりかねない】
小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった。ほんとうに多数決がいちばんよい制度なのか、その頃から疑問だった私は、どうして多数決がいいんでしょうと先生に質問したことを覚えている。先生は質問に答える代わりに、どこがいけませんかと私に質問を返した。民主主義と多数決を同じものにすればどんな問題が発生するのか、小学校五年生の私は答えることができなかった。半世紀経ったいまも自信はない。でもあえて答えるなら、多数決だけの民主主義から取り残されるのはマイノリティーの問題だと思う。多数決によって選挙や議会の投票結果が決まったとしても、負けた側がその決定に従わなければ制度は成り立たない。今度は負けても次の機会には自分が勝つことが期待できるのであれば、自分に不利な決定を受け入れることもできるだろう。だれが多数派で誰が少数派かが固定していない場合、多数決は必ずしも不合理な制度ではない。それでは、国民の一部に過ぎない少数民族とか宗教など、人口が少ないために国内社会の多数となることができない人についてはどうだろう。民族や宗教によって差別されることがなく、それが政治の争点となっていなければともかく、民族や宗教の違いによる差別が厳しい場合には紛争の発生は免れない。政治社会の決定が多数決によって行われ、その多数決が多数派の考えばかりを反映するなら、少数派が迫害の排除を求めても成果は期待できない。制度によって解決ができないのであれば、力に訴える人も生まれてしまう。多数決だけに頼る民主主義だけでは多数派と少数派が共存する社会をつくることは難しい。欧米諸国における民主主義は、決して多数決だけを指すものではなかった。森政稔氏が「
変貌する民主主義」(ちくま新書)で触れているように、現代の民主主義は自由主義を源流として、そこに民主政治という統治の仕組みが加わったものとして捉えることができる。もし民主主義が政治権力を多数派の手に委ねるだけのものであるなら、民主主義が独裁への道を開くことになりかねない。民主政治の前提は多数派と少数派の別を問わない自由な公共社会である。(略)既に自由主義は、自分の自由とともに他者の自由を認める制度ではなく、国家が市場から出て行けば自由な社会が保たれるという観念となって久しい。いま民主主義は、自由な公共社会における統治の仕組みではなく、多数派が少数派を排除する制度の別名に変わろうとしている。(藤原帰一「朝日新聞 時事小言」2016年8月24日

【山中人間話目次】
・国民の自信と誇りを高めるオリンピック報道?~NHKの国策翼賛体質はここにも~ 醍醐聰のブログ
・自称「民主主義者」の呆れるばかりの目の不確かさについて 
・WPはトランプ支持を表明したジュリアーニ元NY市長の言動がおかしく、陰謀論満載の話ばかりをするので「お医者さんに行くべきだ」と諭している
・サンダースが「私たちの革命」という新しい組織を立ち上げた