キョウ うつみのぶひこ

Blog「みずき」:Anno Kazukiさんは詩人のようだ。昨日まで東京・銀座の画廊香月で開かれていた「飯島千恵展」に以下のような美しい言葉を寄せている。

『わたしたちはひとつのレンズしかもたないので、現実にはいくつものレイヤー(層)が重なっていることに気づかない。ただ、音楽や文学・絵画など、すぐれた藝術作品に触れたとき、それらの作品がフィルターとなって、いくつかのレイヤーが目の前に忽然とあらわれるときがある。わたしたちが「いま」としてとらえている現実は過去と未来のレイヤーをふくむ。この現実には、幻想や神話や理想のレイヤーがうち重なる。楽園も地獄もいまここに存在する。藝術家の眼はさまざまなレイヤーを透視し、三千世界を行き来する。』(Anno KazukiFB 2017年10月1日)

次のような言葉もある。  

『妻は香港人だが英語圏での生活がながく母国語は英語だとみなしていい。事実、ひどく怒ると英語しか出てこなくなる。英語をはなすのなら、妻のほうが遥かにうまい。英文を書くことなら、わたしは訓練をうけているし、日本語でつちかった技術もあるので、妻よりもうまいだろう。だが、妻は新しい英語表現を編み出す能力をもっている。これにはたびたび驚かされる。わたしにはこんなまねはできない。たとえば、 

"Don't contaminate your wife!"
あなたの妻を汚染しないで。 

きれいずきの妻にくらべれば、わたしは汚い。でもいっしょに暮らしているのだから、わたしの汚染は妻にもおよぶ。この英語表現をググってみてください。出て来ません。また、 

"Please support my sleep."
わたしの睡眠を支援してください。 

日本語にしてみると、英文の斬新さがよくわかる。妻はわたしがとなりで寝ていないと、寝つけないからだ。そして新作。 

"I forgot to wake up."
起きるのわすれた。 

寝坊したんです。かくして、ふたりの静かな生活は秋をむかえる。』(同上 2017年9月27日)


【山中人間話目次】
・Anno Kazukiさんは詩人のようだ。昨日まで東京・銀座の画廊香月で開かれていた「飯島千恵展」に以下のような美しい言葉を寄せている
・中島岳志(政治学者)の新著『親鸞と日本主義』の前評判がいい。私の目に触れたものだけでも少なくないリベラル系の(それもどちらかといえば良質の)人たちが彼の新著に期待感を寄せている。しかし・・・・
・『親鸞と日本主義』 中島岳志〈著〉――原武史(放送大学教授・政治思想史)書評
・ファシズムと宗教 五木寛之×中島岳志対談――親鸞思想の危うさをめぐって
・小池百合子氏の過去のツイートで「うっ」というものがこちらにまとまっていました――弁護士 太田啓子Twitter
・小池百合子という人物は極右政治家というだけでなく、悪徳高利貸しのアントーニオ(ヴェニスの商人)も顔負けの品性と道徳観の持ち主だということですね
キョウ そびえと3

Blog「みずき」:木村剛久さん(元編集者)の昨年ジャーナリストとして初めてノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの新作『セカンドハンドの時代』評。本書は日本でも評判になった前作『チェルノブイリの祈り』から16年を経てようやく刊行されました。ソヴィエト時代を生き延びた人びとについて書かれた5部作の最後の作品にあたるといいます。「ここに記録されているのは、迫害や時の流れによって魂を引き裂かれ、孤独に苦しみながらも、それでも救済と愛と幸福を求めようとする人びとの物語である」。「見ざる、聞かざる、言わざるが、人の魂のさけびやささやきが伝わってくるのを遮断する。魂は見えないし、聞こえない。その声が表にでるまでには、長い時間を要する。人は世界につらぬかれ、歴史につらぬかれる。そのとき、魂が声を発するのだ。だが、その声が表にでるときは、かぎられている。むしろ封印は永遠に解けないのが通例かもしれない」。「しかし、人類に可能性があるとすれば、文学の照明によって、魂が呼び覚まされ、新たな共同主観の地平が開けるときでしかない。そうでなければ、人はいつまでも自同律の不快を経験することになるだろう」。木村さんは60年代後半に青春を生きた当時の青年らしく埴谷雄高の有名な「自同律の不快」という言葉を用いて本書を評しています。


【どんよりした重苦しい時代がカネの威力をともないつつふたたびはじまる】
執筆におよそ20年の歳月がかけられた。著者のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチは、ベラルーシ(それともロシアというのがいいか)のジャーナリスト。2013年に本書が出版されてから2年後にノーベル文学賞を受賞した。原著は日本でも評判になった前作『チェルノブイリの祈り』から16年をへて、ようやく刊行された。ソヴィエト時代を生き延びた人びとについて書かれた5部作の最後の作品にあたるという。これらの作品は、どれも翻訳されていて、幸いにも日本語で読むことができる。(略)〈わたしは、「家庭の」……「内面の」社会主義の歴史をほんの少しずつ、ちょっとずつ、拾い集めようとしながら書いている。人の心のなかで社会主義がどう生きていたかを。人間というこの小さな空間に……ひとりの人間に……わたしはいつもひかれている。実際に、すべてのことが起きているのは、そのなかなのだから。〉ここには、本書の方法のすべてが示されているといってよい。著者は、魂を開示してくれる人をさがしていた。「わたしがさがしていたのは、思想と強く一体化し、はぎとれないほどに自分の思想を入らせてしまった人で、国家が彼らの宇宙になり、彼らのあらゆるものの代わりになり、彼ら自身の人生の代わりになった、そういう人びと」ソヴィエト人は、戦争人間で、いつも戦争に備え、自分が奴隷であることにずっと気づかず、自分が奴隷であることを愛してさえいたという。ペレストロイカは、そうしたソヴィエト人の虚妄を白日のもとにさらした。国家はすでに人の心を支配できなくなりつつあった。そして、あらゆる価値が崩れ、待ちに待っていた自由の日々がはじまる。ドストエフスキイは、かつてこう言ったとか。「人間は弱くて浅ましいものだ。……あのようなおそろしい賜物を自分のなかに受け入れることができないからといって、弱い魂になんの罪があろうか」ソ連崩壊から20年、ロシアでは、またソ連時代のものがはやっている、と著者はいう。ソロフキやマガダンなど、かつての収容所をめぐるツアーに人気が集まっている。共産党をコピーした権力政党が復活し、大統領の権力は昔の書記長並みになっている。いったい未来はどこに行ってしまったのか。時代はまた元に戻ってしまったのか、と著者はいぶかる。セカンドハンドの時代というタイトルには、また同じどんよりした重苦しい時代が、しかし、こんどはカネの威力をともないつつ、ふたたびはじまるのではないかという不安が隠されている。(
木村剛久「海神日和」2016-11-01

【山中人間話目次】
・『セカンドハンドの時代』を読む(1) -木村剛久「海神日和」
・2016年のいまだってなんにも、1ミリも進歩していないこと。どころか、目下劇的に退歩中――辺見庸「日録」(2016年11月1日)
・常岡浩介さんのクルド地域政府警察の不当拘束、中田考さんのリサイクルショップへの家宅捜索と自民党と民進党のTPP承認案11月4日採決合意と。
キョウ さくらたい  
Blog「みずき」:ここに描かれている挿話は私もこの何十年かの間に切れ切れに聞いてきたことです。宇野重吉の弟子の米倉斉加年さん(はそう自称していました)と一度会食したことがありましたが、そのときにも彼の口から宇野重吉の戦時中の苦難の断片を聞いたことも思い出しました。私の中のその切れ切れの記憶が今回の醍醐聰さんの文章によって一軸の絵のつらなりになったような気がします。私はまだ「さくら隊散る」は未見なのですが今度一度観てみようと思います。私もかつて演劇を志したこともあるのです。

【目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71年 桜隊原爆忌」】
昨日、目黒の五百羅漢寺で開かれた「被爆71年
桜隊原爆忌」に参加した。(略)「桜隊原爆忌」の第1回は1975年10月19日。参加者52名。1981年以降、毎年8月6日と定着したという。9名全員が命を奪われたというが、約半数が宿舎でほぼ即死と見られ、生き延びた人々のその後の消息はバラバラだった。(略)今年の「桜隊原爆忌」の特徴は、碑前祭のあと、桜隊の記録映画「さくら隊散る」(新藤兼人監督、1988年作品)が上映されたことだった。生き延びた丸山定夫園井恵子高山象三仲みどりの被爆後の消息と最期の姿を再現するとともに、彼らにゆかりの人々の生前の証言が随所に織り込まれ、緊迫感がみなぎる作品だった。丸山定夫の名優ぶりと剛毅な中にも繊細な人柄を語った千田是也滝沢修ら、園井恵子の魅力を語る宝塚歌劇団の同僚、2ヶ月後に結婚しようという言葉を残して高山象三と別れたという当時の恋人、遠路上京して母の実家に着いた仲みどりを診察した東京帝国大学の医師・医学生などの証言は誠に生々しく、貴重な原爆受難記録にもなっていた。また、長椅子に横たわった宇野重吉が戦時中、大政翼賛会文化部に呼び出され、国策への忠誠を誓う誓約書に署名をさせられた屈辱を何度も語る姿が痛々しくも、表情に悔しさがにじみ出ていた。と同時に、そうした戦時中の屈辱的体験について、今なお口をつむぐ文化人がいかにおびただしいことかと想像もした。

それにしても、映画を見終えて脳裏に刻まれたのは、丸山定夫、高山象三、園井恵子、仲みどりの最期の姿の共通性である。日を追うごとに髪の毛がごそっと抜け落ち、布団、ベッドの上で水を求めてのたうちまわる姿、吐血とともに息を引き取る姿・・・・どれも被爆死のむごたらしさを赤裸々に伝えるシーンだった。こうしたシーンをみて私は、
オバマ大統領の広島訪問を実現するための譲歩かのように「広島の被爆者は謝罪を求めない」という物言いが広まったことを思い起こした。しかし、それが被爆者の今となってはの一面の心情ではあっても、本心であろうはずがない、いわんや、無念の死を強制された被爆者の本意を代弁するかのように語り広めるのは死者に対する冒涜であるという思いを再認識した。核なき世界を求める未来志向? 自らが犯した人道に対する罪と向き合わず、不都合な過去から顔をそむけて何が未来志向か! むごたらしい被爆死、無念の被爆死のリアルな実態を直視し、そこからこみ上げる恨み、憤怒に突き動かされ、それらを昇華した平和へのエネルギーこそ、この先、1人の被爆者も生まないための運動に向かう本物の未来志向ではないのか? 過去と未来を身勝手に切り分けるな! 貴重な記録映画を残した関係者、桜隊の被爆死を慰霊し、その実相を伝える活動に務めておられる方々の尽力に深い敬意を覚えた。(醍醐聰のブログ 2016年8月7日

【山中人間話目次】
・Blog「みずき」の現代日本のフェミニストへの疑問
・Blog「みずき」の小池百合子を「リベラル」と評価する江川紹子批判
・kojitakenさんの小池当選を示したテレビ画面に拍手を送った楊逸(ヤンイー。芥川賞作家)批判
・ZEDさんの田中宏氏(一橋大名誉教授)批判
・浅井基文さん(政治学者、元広島平和研究所所長)の広島平和式典批判
・内藤正典さん(同志社大教授)のルモンド紙記事「日本政府、ナショナリストを防衛相に任命」評
キョウ きんこう2
錦江 

【地中からにじみ出す/言葉少ない眼の色】
申東曄『錦江』の中の、第3章を、翻訳作業の途中ではあるが(略)お目にかけたい。申東曄は1930年に、百済の古都・扶余で生まれた。建国大学大学院で国文学を専攻、高校の国語教師をしながら詩作し、1963年、詩集『阿斯女』で世に出て、参与派の詩人として、大きな足跡を残した。『錦江』は朴正熙軍事独裁政権下の1967年に書かれたが、1969年に詩人が病死して六年後の全集が、「緊急措置9号」違反として発売禁止となったため、やっと1985年になって日の目を見た。1894年の甲午農民戦争という民衆蜂起を描きながら、強権を振るう国家権力への民衆の生と闘いの歴史を、民衆のエネルギーに全幅の信頼を置いて書き切っている。とはいえ、前に見たように独裁政権下に表現は自由ではなく、「イソップの言葉」が至る所に散りばめられている。

ついでながら書いておかなければならないのは、朝鮮において民衆のための社会を開く闘いであった、甲午農民戦争を、つまりは、民主的社会の芽を、無慈悲に踏みつぶしてしまったのは、
日清戦争に勝って驕りに火照った、日本の暴力装置だったということである。

ある日/夏の錦江の川辺を散歩していて/私は空を見た。

輝かしい瞳。

君の瞳は/夜深い顔に向って/輝いていた。

その輝かしい眼を/私はまだ/忘れたことがない。

黒い風は/先だった人々の/寂しい魂を/ずたずたに破り/花をふいごのように打って

波は、/きみの顔/君の肩の上に、そうして君の胸の上に/ひたすら激しく寄せた。

君は言葉もなく、/耳もなく、見ることもなしに/ただ億千万の降りかかる一揆をくぐり抜けて/たった一人で/目を見開いて/歩いていた。

その輝かしい眼を/私はまだ/忘れたことがない。

その暗い夜/君の眼は/世紀の待合室の中に立って/輝いていた。

ビルごとに豪雨が/吹き付け煽られ/君を憶えている人は/当世に一人もいなかった。

その美しく、/輝かしい眼を/私はまだ忘れたことがない。

静かな、/なにも言うことのない、/ただ愛しいと/思う、その眼は/その夜の街角を/歩いていた。

君の輝かしい/その眼が子の刻の、夜明けだ、/日の出だ。

きのうの/あがきは/数千百万の悲鳴をのせ/川の水が/悲しくも流してしまう。

世の中に抵抗することもなく、/むしろ世の中が/君の威厳の前に抵抗しようとするように/輝かしい瞳。/君は世の中を踏みしめて歩く/ぶどうの実を噛むように世の中を噛みながら/こつこつとひたすら/歩いていた。

その美しい瞳。/君のその眼を見るのは/世に出た私の、ただ一つ/至上のやりがいだった。

その眼は/私の生と一緒に/私の魂の中に生き残った。

そんな光を得るために/人類はさまよっていたのだ。

精神が/輝いていた。/体は痩せているが/ただ精神は/輝いていた。

涙ぐましい歴史に呑み込まれるのに耐え/いつかまたしても/波に沈むのも忘れ/みすみす、自覚している人の。

世俗になった顔つきを/さっぱりとこき落とす、/昇華された高い意思のうちに/輝いている人の、/精神の/眼/深く。高く。/地中からにじみ出す/言葉少ない眼の色。この世を容れ/そうしてこの世をすっかり破ってしまった/おお、人間精神美の/至高の光。


備仲臣道 2016年5月25日
キョウ かるめんまき 

Blog「みずき」:久しぶりにカルメン・マキさんの動向を知る。カルメン・マキさんの年齢の重なりとほぼ重なり合うようにして私も生きてきた。マキさんはいまでもジャズバーで歌っているのですね。「時には−−」は、まさしく時代の気分だった。そんな時代を私も生きてきたのだ。

【ねぇ わたし こわいの。何処(どこ)へ向かうの わたしたち】
17歳だった1969年、「
時には母のない子のように」で歌手デビューを飾ってから間もなく半世紀。(略)高校中退後の68年、小劇場ブームを巻き起こした、故・寺山修司氏主宰の劇団「天井桟敷」に飛び込む。寺山氏が作詞した「時には−−」は、重い旋律が時代の気分と合致して累計100万枚を超える売り上げを記録。その年の紅白歌合戦にジーンズ姿で出場し、型破りな新人という強烈な印象を残した。(略)アイルランド人とユダヤ系ポーランド人の血を引くアメリカ人の父、日本人の母との間に生まれた。父が米国に帰る際、体の弱かった母と、生後間もない一人娘はついて行けなかった。太平洋戦争の記憶がまだ生々しく残っていた50年代。大きな瞳の、彫りの深い顔立ちの少女は、日本社会でさまざまないじめを受けた。前日まで一緒に遊んでいた子が、急によそよそしくなる。友だちの親が、好奇の目でなめ回すように見てきたり、憎しみのこもった視線を向けたりしたことも覚えている。「そのころの差別のトラウマみたいなものはいまだにあります。でも、大人になって、差別というのはどこに行ってもある、とわかった」。(略)

38歳で、娘を授かる。10代で顔も名前も知れ渡ってしまった自分にも「歌手じゃない人生」「平凡な幸せ」が手に入ると感じ、子育てと家事に専念しようと決断した。「その時は本当に歌手をやめよう、と思った。それなのに、気がつくと歌っている。それは人間の業、運命なんですね。神様がいるとすれば、『お前にはこれしかない』と言われているんだと思った」 4年後、請われて子守歌をテーマにしたアルバムを 制作することになった。「その出来に納得できなかったから、結局、復帰したんです」 (略)「今のバンドのメンバーがロック時代の私の演奏を見て『かっこいい』って。息子ぐらいの年の子が、ビックリしていた」。笑みがこぼれた。

5年前の東日本大震災と、福島第1原発事故。この経験を経て、この国はいい方向へ行くと思ったが、すぐに失望に変わった。「モノばかり追い求めてきた末にこうなった。もうお金を得ることや技術の発展は達成して、豊かさを考える時なのに。まだ、原発を造って輸出したり、東京五輪に何兆円もかけたりして。どうして?」違和感を、根無し草を意味するフランス語「デラシネ」という言葉に込めて、作詞した。最近の演奏活動も「デラシネライブ」と呼ぶ。絶望的な時代に抗したいという思いだ。 <ねぇ わたし こわいの/何処(どこ)へ向かうの わたしたち/日々の暮らしに流されて/瞬きひとつで10年が過ぎてゆく>「私はデラシネ。でも、今の日本にはたくさんデラシネがいると思う」。ある日のライブで客席にそう語りかけた。 震災では多くの人が故郷を追われた。不安を抱えながらも、自由に生きようともがく人たちに向けて、歌い続けようと決めている。(
毎日新聞 井田純 2016年5月6日


Blog「みずき」:ちあきなおみは私も大好きな歌手です。前田武彦芳村真理がコンビで司会をしていた『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)でちあきなおみは当時のマエタケさんから「ビックリ美人」という愛称を賜るほどの美人でした。それよりもなによりもちあきは歌がとてもうまい。ほれぼれとする。有名な「喝采」や「四つのお願い」もさることながら、私としては「紅とんぼ」が好きでした。あれもちあきなおみならではの歌でしたね。下記でtoriiyoshikiさんのあげる番組は、私もこどもであったとき、あるいは若者であったときにリアルタイムで観ています。だから、toriiyoshikiさんのおっしゃることはよくわかるのです。そのとおりだとも思います。おそらく同世代の共通する感想というべきものでしょう。そういうわけでちあきなおみとテレビドラマ・ヴァラエティ・ドキュメンタリーの黄金時代、それに私たちの「若き日」に今日は乾杯したいと思います。

この記事を記したもうひとつの理由についても記しておきます。永田浩三さんの本日付けの記事に以下のようなコメントを投稿しました。同投稿とのバランスをとっておきたい、というのがもうひとつの執筆動機ということになるでしょうか。

この問題については永田さんの元同僚ではないかと思うのですが、元NHKディレクターのtoriiyoshikiさんの「「籾井会長がどういう意味で言ったのかは本人でないのでよくワカラナイ。しかし、少なくとも字面を見る限りは原則を大きく逸脱する話ではない。だから、現場は聞き流せばいい話。それを忖度して自主規制しようという幹部が現れるなら、情けない話である」という発言があります。 この発言については私も違和感をもっているのですが、「公共放送として、報道にあたってベースとするものは、取材してわかった事実であり、判明した事実関係である。もちろん、震災被害のような状況下で国や地方自治体など行政が果たすべき役割はきわめて大きく、そうした行政の公式発表を「行政はこのように発表しています」という事実として多くの視聴者に伝えるのは放送の役割からして当然のことである。同時に、私たちは行政とは別にさまざまな取材をおこない、そこで判明した事実や事実関係をもとにして行政に対し、質すべきことがあれば質問し、それに対する回答も伝えて、視聴者に行政がどういう考えをもとに活動しているかも伝えなければならない。もし行政の判断や活動に問題がある場合には批判をするのも当然の役割である。NHKや取材者の名誉や利益のためではなく、民主主義社会において、国を、社会を強靭にしていくために必要なことだ」というご紹介の日放労のメッセージがよき反論になっているように思います。長くなりました。ご容赦ください。

【たとえば「俺が愛したちあきなおみ」のドラマ美について】
現職時代はテレビドラマをほとんど見なかった。興味がなかったわけではない。毎週見ることがほぼ不可能だったから。…退職して時間に余裕ができて、「
真田丸」とBS11で再放送されている「大都会〜闘いの日々」は欠かさず見ている。特に40年前の「大都会」は初回から一回も欠かさず見続けてきた。今夜の「大都会」は題名の鮮烈さでいまも忘れられない「俺が愛したちあきなおみ」…いやぁ、よかったなあ。「喝采」が流れるクライマックスはほとんど泣き出しそうになって見ていた。
キョウ のさか2

Blog「みずき」:作家の丸谷才一は「バカなヤツだ」と言って野坂昭如をこよなく愛していました。その丸谷は石川淳からやはり「バカなところがいい」と言われてこよなく愛されていました。石川淳の主宰する歌仙連句の興行(共同制作)の常連客でもありました。そのまた夷齋先生石川淳の酔狂も有名で、ケンカを覚悟で宴会に出席したが下駄を懐に忍ばせていて一目散に逃げ出したなどの逸話もたくさんあります。みなさん無頼派の系譜といえばそういうことなのでしょうが、こうして人生(人の世)は循環していくもののように私などは思います。

【日記には実は飾らない生の声が隠されている】
本書の冒頭に置かれた編集部の注記によると、野坂昭如は2003年5月26日、72歳のときに脳梗塞で倒れたあと、陽子夫人の手を借りて、口述筆記により作家活動をつづけていた。急逝したのは2015年12月9日夜。享年85歳だった。本書は2004年から2015年にかけ、「新潮」や「新潮45」に掲載された公開日記を収録したものだが、その日記は亡くなる当日のほんの数時間までつづいていたという。
キョウ 霧氷

【敗戦後のニッポンは朝野あげて記憶の無記憶化にはげんだ】
 1937年末から38年1月にかけ、芥川賞作家の
石川達三は、中国の戦場を見て回り、帰国後すぐ、『中央公論』に『生きている兵隊』というルポを発表しました。しかし、雑誌はすぐ発禁処分をくらいます。『生きている兵隊』は、日本軍の伍長が、放火の疑いのある中国人青年の首を刎ねる場面からはじまります。作品には、兵たちが「生肉の徴発」と称して、若い女をあさりにいくところもえがかれています。中国戦線では、捕虜や邪魔者を殺戮するのが日常茶飯事となっていました。
キョウ ススキ3

【「ゆきゆきて、神軍」撮影余滴】
元帰還兵の
奥崎謙三を追ったドキュメンタリー映画「ゆきゆきて、神軍」は1987年に公開されました。彼は「神軍平等兵」を名乗り、昭和天皇の戦争責任を過激に追及していました。常識の通じない言動には、多くの観客が違和感や反発を覚えたと思います。しかし80年代は風変わりな人や物を無理やり面白がる傾向があった。そんな時流に乗り、映画はヒットしました。
キョウ 1937  

【「1★9★3★7」(辺見庸)を読む】
「なにかとてつもない内的力にかられて」、
著者は、本書を書いたといいます。なにか恐るべきことが、わが身に迫っているという予感、それが「内的力」となって、噴きあがったのでしょう。(略)1937年の風景もまた、日本人が忘れたがっている記憶のひとつといえるでしょう。著者は共同通信の北京特派員時代に、堀田善衛の『時間』(1955年刊)という小説を読みました。
どらやき 
京都の和菓子専門店笹屋伊織の筒状のどら焼を輪切りにしたもの

内田樹さんが自身のツイッターに朝日新聞3月26日付掲載の高橋源一郎の論壇時評を評価するある人のツイートをリツイート(2015年3月26日)しています。

以下は、その内田樹さんのリツイートを読んでの「今日の言葉」としての私の感想。

高橋源一郎が「菅原文太の知性」を取り上げようとして書いた朝日新聞論壇時評の冒頭に置いたのは「高校2年の夏休み、8月6日を広島で過ごそうと友人と神戸からヒッチハイクをした」高橋を「なにしとんじゃ?」と誰何した若いヤクザは本人の弁では親の稼業を継ぐため慶応の大学院を中退したスタンダールを研究していたインテリだった、というエピソード。高橋は菅原文太の出世作となった「仁義なき戦い」と「知性」を関連づけようとして冒頭に上記のエピソードを置いたのでしょうが、冒頭のエピソードはヤクザについても「知性」についてもなにも象徴していないという意味で陳腐です。安物の三文小説の書き出しそのもの。「知性」のない書き出しで「知性」を関連づけようとしても無理というものでしょう。第一、「仁義なき戦い」にほとばしる知性は監督深作欣二の才能。菅原文太の「知性」ではありません。この程度のこともわからずに高橋源一郎の論壇時評の論を誉めるツイートをリツイートする内田樹の「知性」も残念ながらたかが知れているということにならざるをえないでしょう。天皇の言葉を「天皇陛下のお言葉」と呼ぶツイートを違和感もなくリツイートする人にふさわしい「知性」というべきか。

なお、内田樹さんは、この3月に晶文社から『日本の反知性主義』という本を出版していますが、以下、「内田樹の研究室」ブログと晶文社のホームページから同書の目次兼共著者一覧と前書き部分を引用しておきます。
 
反知性主義者たちの肖像 内田樹
反知性主義、その世界的文脈と日本的特徴 白井聡
「反知性主義」について書くことが、なんだか「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと 高橋源一郎
どんな兵器よりも破壊的なもの 赤坂真理
戦後70年の自虐と自慢 平川克美
いま日本で進行している階級的分断について 小田嶋隆
身体を通した直観知を 名越康文×内田樹
体験的「反知性主義」論 想田和弘
科学の進歩にともなう「反知性主義」 仲野徹
「摩擦」の意味──知性的であるということについて 鷲田清一
 
 
『日本の反知性主義』は3月刊行予定。編者として「まえがき」を書いたので、それを掲載しておきます。

どういう趣旨の本なのか、その緊急性は何か、それをぜひご理解ください。
 
編者のまえがき
 
みなさん、こんにちは。内田樹です。
 
本書、『日本の反知性主義』は昨年の『街場の憂国会議』に続いて、私がその見識を高く評価する書き手の方々に寄稿を依頼して編んだアンソロジーです。本書の企図が何であるかは昨夏に発送した寄稿依頼の書面に明らかにされております。それを再掲して、本書編纂の意図を示しておきたいと思います。まずそれをお読みください。
 
私たちは先に晶文社から『街場の憂国会議』を刊行しました。これは特定秘密保護法の国会審議においてあらわになった立憲政治、民主制の危機について、できるだけ多様な視点からその文脈と意味を考察しようとした試みでした。不肖内田がその編著者を拝命いたしましたが、多くのすぐれた書き手の方に集まって頂き、発行部数も予想以上の数字に達しました(ほんとうはこういう「危機に警鐘を」的な書物が売れるというのは、市民にとっては少しもうれしいことではないのですが・・・)
 
しかし、さまざまな市民レベルからの抵抗や批判の甲斐もなく、安倍政権による民主制空洞化の動きはその後も着実に進行しており、集団的自衛権の行使容認、学校教育法の改定など、次々と「成果」を挙げています。
 
しかし、あきらかに国民主権を蝕み、平和国家を危機に導くはずのこれらの政策に国民の40%以上が今でも「支持」を与えています。長期的に見れば自己利益を損なうことが確実な政策を国民がどうして支持することができるのか、正直に言って私にはその理由がよく理解できません。
 
これは先の戦争のとき、知性的にも倫理的にも信頼しがたい戦争指導部に人々が国の運命を託したのと同じく、国民の知性が(とりわけ歴史的なものの見方が)総体として不調になっているからでしょうか。それとも、私たちには理解しがたい、私たちがまだ見たことのない種類の構造的な変化が起りつつあることの徴候なのでしょうか。私たちにはこの問題を精査する責任があると思います。そして、この作業を、かつての京都学派に倣って、共同研究というかたちで進めることができれば、読者のみならず、私たち自身にとっても裨益するところが大きいのではないかと思いました。
 
今回の主題は「日本の反知性主義」です。ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』は植民地時代から説き起こして、アメリカ人の国民感情の底に絶えず伏流する、アメリカ人であることのアイデンティティとしての反知性主義を摘抉した名著でした。現代日本の反知性主義はそれとはかなり異質なもののような気がしますが、それでも為政者からメディアまで、ビジネスから大学まで、社会の根幹部分に反知性主義・反教養主義が深く食い入っていることは間違いありません。それはどのような歴史的要因によってもたらされたものなのか? 人々が知性の活動を停止させることによって得られる疾病利得があるとすればそれは何なのか? これについてのラディカルな分析には残念ながらまだほとんど手が着けられておりません。
 
今回も複数の書き手にそれぞれのお立場からの知見を伺いたいと思います。「日本の反知性主義」というトピックにどこかでかかわるものであれば、どのような書き方をされても結構です。どうぞ微志ご諒察の上、ご協力賜りますよう拝してお願い申し上げます。
  
依頼書は以上です。私が寄稿をお願いしたのは11名でしたが、うち9名がご寄稿下さいました(残念ながらご事情により寄稿して頂けなかったお二人も刊行の趣旨にはご賛同して下さいました)。寄稿者の職業は、ビジネスマン、哲学者、政治学者、コラムニスト、作家、ドキュメンタリー映画作家、生命科学者、精神科医、武道家と職種職能はさまざまです。どなたも政治について語ることや政治活動に従事することを主務としている方ではありませんし、特定の政治的党派や政治的立場をあきらかにしている方でもありません。それでも、全員がそれぞれの現場に毒性のつよい「反知性主義・反教養主義」がしみ込んできていることに警戒心を感じている点で変わりはないと思います。
 
この共同研究は、別に統一的な「解」をとりまとめることをめざすものではありません。ひとつの論件をできるだけ多面的に、多層的に、多声的に論じてみたいというのが編者の願いです。寄稿者のおひとり鷲田清一先生が引いてくれたエリオットの言葉にあるように、このアンソロジーのうちに「(相違が)多ければ多いほど(・・・)はじめて単に一種の闘争、嫉妬、恐怖のみが他のすべてを支配するという危険から脱却することが可能となる」という「摩擦」の原理に私も賛同の一票を投じたいと思うからです。
 
寄稿して下さったすべての書き手の方々と編集の労をとって下さった晶文社の安藤聡さんに編集者として心からの謝意と敬意を表したいと思います。ありがとうございました。
 
「そういえば、ずいぶん危機感をもって、『あんな本』を出したことがあったね」という思い出話をみんなで笑いながら話せる日が来ることを切望しております。
 
2015年2月 内田樹 
高橋源一郎の今月の論壇時評「寛容への祈り 『怪物』は日常の中にいる」(朝日新聞、2015年2月26日付)の冒頭の一節。「『人質問題』をめぐり、いくつかのことを考えた。一つは、湯川遥菜さんについて語られることが少ないということだった。確かに、彼の行動の多くは、理解に苦しむものだった。だが、わたしたちはそうではない、彼は特殊なのだ、といえるだろうか。その、人間的な弱さ(と見えるもの)も含めて、実は、彼は『ふつうの人」だったように思える。そのことが、わたしには、とても悲しかった」。
 
ここで高橋の言いたいことは、同時期にISにもうひとりの人質として殺された後藤健二さんの死が「英雄」的に語られることに対比して湯川さんの死への追悼のつれなさ。人の「命の値段」は同等であってしかるべきなのに、ということでしょう(同じ日の同紙には酒井啓子さん(中東政治)の「『命の値段』が異なる理不尽」という論考も掲載されています)。しかし、それがそうではなかった。だから、悲しかった、と。
 
そうであれば、高橋は、次の小節で後藤さんの死に触れるとき、人の「命の値段」の同等性という観点から後藤さんの死についても語らなければならなかったでしょう。しかし、高橋は、「後藤さんが死線を超えて見つめた風景」の凛々しさについて語ります。これでは高世仁さんのいう「後藤さんの死の神格化」を補強しても、人の「命の値段」の同等性について述べたことにはならないでしょう。高橋の論理は冒頭から小さく破綻しているように私には見えます。
 
さらに「後藤さんが死線を超えて見つめた風景」の話は、後藤さんをはじめとするフリージャーナリストの「戦場」での紙一重の生と死の問題、「それにもかかわらず、彼らはまた『戦場』に」なぜ赴くのか、という問題につなげられていきます。彼らはまたなぜ戦場に赴くのか。「それは、『戦場』が、わたしたちにとって『遠い』出来事ではなく、わたしたちが享受している平和が実はか弱い基盤に載っているからだ」、と。そして、その「か弱い基盤」の問題は、「私たちの世界がはらんでいる病巣」の問題に帰着します。「彼らをまったくの異物と見なす視点には、自らの社会が陥った“狂気”の歴史に対する無自覚が透けている」(田原牧)という病巣。「だとするなら、わたしたちは、この『他者への共感』を一切排除する心性をよく知っているはずだ。『怪物』は遠くにではなく、わたしたちの近くに、いま日常的に存在している」。だけでなく、「自分と異なった考え方を持つ者は、『知性』を欠いた愚か者にすぎず、それ故、いくら攻撃してもかまわない、という空気が広がる中で、日々『怪物』は成長し続けている」。
 
私は、高橋の上記の視点には賛同します。しかし、抽象論を述べることが批評ではないでしょう。「自分と異なった考え方を持つ者は、(略)いくら攻撃してもかまわない、という空気が広がる中で、日々『怪物』は成長し続けている」。明らかにその「怪物」のひとりは私たちの国の「総理」の座にいる。そのあまりにも明白なことを高橋はなぜ指摘しないのか。ここでも高橋は真の批評を避けています。そういう批評を批評と言いうるのか。私は現実と切り結ぶことない批評に批評性を見出せません。そうした高橋の姿勢は冒頭の段落で「湯川遥菜さんについて語られることが少ない」とまっとうなことを語りながら、結局は「後藤さんの死の神格化」に加担する姿勢とも相似の関係にある、と私は見ます。
 
附記:
本エントリは「今日の言葉」に関して ――私が高橋源一郎を「ほんものではない」と思う理由(2015.02.04)の続きということになります。
 
(論壇時評)寛容への祈り 「怪物」は日常の中にいる 作家・高橋源一郎
(朝日新聞 2015年2月26日)
 
「人質問題」をめぐり、いくつかのことを考えた。一つは、湯川遥菜さんについて語られることが少ないということだった。確かに、彼の行動の多くは、理解に苦しむものだった。だが、わたしたちはそうではない、彼は特殊なのだ、といえるだろうか。その、人間的な弱さ(と見えるもの)も含めて、実は、彼は「ふつうの人」だったように思える。そのことが、わたしには、とても悲しかった。(続く)

追記:
高橋源一郎が自身のツイッターに上記の朝日新聞掲載の「論壇時評」の大要をアップしています。同ツイットには「後藤健二さんのことといわゆる「イスラム国」のことを中心に書きました」と記されていますが朝日の冒頭の書き出しと矛盾しないか。それでは「論壇時評」の「湯川遥菜さんについて語られることが少ない」云々という書き出しはなんだったのか? 彼の文章作法におおいに疑問を呈しておかなければならないように思います。

高橋源一郎Twitter(2015年2月26日) 
①もう遅くなりましたが、今日は月に一度の論壇時評の日でした。今日は、「人質事件」で亡くなった後藤健二さんのことといわゆる「イスラム国」のことを中心に書きました。お読みになった方、ありがとうございます。/②後藤さんの本を読みました。家族を虐殺されたのに、虐殺した人たちと共に暮らしてゆくしかない国に生きる人々、麻薬をうたれて敵を殺し続けた少年兵、そんな過酷な、戦時下の物語を、後藤さんはあえて少年・少女向けに易しく書いていました。大人たちは見向きもしないと感じていたからかもしれません/③いわゆる「イスラム国」についての論評が溢れました。多くは、彼らを「狂信的テロ集団」と呼び「非人間的」と糾弾しています。けれど、ほんとうに彼らは「怪物」なのでしょうか。田原牧さんは「彼らは決して怪物ではなく、私たちの世界がはらんでいる病巣の表出ではないか」と書いています。そして、/④「彼らがサディストならば、ましだ。しかし、そうではない。人としての共感を唾棄し、教義の断片を無慈悲に現実に貼り付ける「コピペ」。この乾いたゲーム感覚ともいえるバーチャル性が彼らの真髄だ。この感覚は宗教より、現代社会の病的な一面に根ざす」とも。ぼくもこの田原さんの意見に同意します/⑤「他者への共感」の排除が、彼らの特徴なら、「怪物」は、遠くにではなく、わたしたちの近くに、日常的に存在しています。自分と異なった考え方の持ち主は、いくら攻撃してもかまわない、という非寛容な気分や空気の中で、「怪物」は、日々成長しているように思えるのです。/⑥いまから250年前、フランスでひとりの新教徒が冤罪で処刑されました。宗教的な狂信が産んだこの事件を知ったヴォルテールが「人間をより憐れみ深く、より柔和にしたい」と願って書いたのが「寛容論」でした。いま読むと、ヴォルテールが見ていた世界は、驚くほどわたしたちの世界に似ています。/⑦「寛容論」の最後、ヴォルテールは、どんな宗教の神にでもなく、世界を創造したと彼が信じる「神」に祈りを捧げています。その祈りは、残念ながら、いまもかなえられてはいません。ヴォルテールの祈りを、ここに書き写します。/⑧「あなたはお互いに憎み合えとして、心を、またお互いに殺し合えとて、手をわれわれにお授けになったのではございません。苦しい、つかの間の人生の重荷に耐えられるように、われわれがお互い同士助け合うようにお計らいください…」/⑨「われわれの虚弱な肉体を包む衣装、どれをとっても完全ではないわれわれの言語、すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように見えても、あなたの目から見ればなんら変わるところない、われわれ各人の状態」/⑩「それらのあいだにあるささやかな相違が、また「人間」と呼ばれる微小な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」
本ブログは私の政治的意見を述べることを本旨としています。が、私は、世に流通する大勢、多勢の意見を述べようとは思いません。大勢、多勢の意見の中では見過ごされている、しかし、この問題こそ看過してはならないと思われる論点について意見を述べることを私は心がけています。
 
たとえば、昨年末の総選挙。共産党が躍進したと欣喜雀躍して論じるたぐいの論説が少なからずあります。そういう場合、私は、自・公両党が衆院で3分の2を超える状況はちっとも変わっていない。共産党は、そうした状況を変えることができなかった自党の力不足をまず国民に詫びるべきではないか、と論じます。また、私は、反原発市民なる人びとは脱原発々々と口々に言うけれども、その脱原発についてデマを撒き散らしてはばからないたぐいについて証拠をあげて論証してもその手合いを批判することなど一切しない。そうした「脱原発」運動は市民運動を誤誘導するものでしかないのではないか、と疑問を投げかけます。そういうこともあって、私の意見は、大概において少数派です。しかし、私は、大勢に与することをよしとしません。「自分の理性が自分の思考の主人」というカント的認識を私もまた所有したいと思っているからです。

また、本ブログは、私の政治的意見を述べることを本旨としていますが、それは必ずしも自己の意見である必要はないとも私は思っています。必要なのは正しい見方、正しい政治的意見、正しい政治的認識であって、私の意見、認識ではないとも私は思っているからです。それは私の「創作」を否定することを意味しません。あくまでも本ブログの性質はそういうものだということです。
 
さて、以下は、保立道久さんの「藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』」という書評記事。この書評によって私は保立道久さんに多くのことを学びました。「今日の歴史学を考える上で重要」。その第1の論点は「日本における『奴隷』の問題」、第2の論点は「日本史において飢餓などという問題は存在しないという歴史認識」の問題 ――私にとっては意表を突かれる問題提起でした。荘園形成以来、「農奴」といってよい状況がわが国の貴族制、封建制時代下の農村社会を支配していたという認識は私にもありました。しかし、「日本における『奴隷』の問題」として私は考えたことはありませんでした。また、飢餓の民が大名の足軽・傭兵と化していたという事実、戦国時代のムラが自分自身で武装していたという事実それ自体は私は知っていました。しかし、「日本史における飢餓の問題」という認識も私にはありませんでした。そうしたもろもろが保立道久さんに学んだことです。
 
また、保立道久さんの論述によって私の受け止めた「奴隷」の問題とは、「一人ひとりが個人として行動する能力、即ち自らの責任において意思決定を行う能力を我がものとする」(浅井基文)という問題、「われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由」(辺見庸)という問題でもありました。また、「個人の尊厳から出発するかぎり、どうしても抵抗権をみとめないわけにはいかない。抵抗権をみとめないことは国家権力に対する、絶対的服従を求めることであり、奴隷の人民を作ろうとすることである」(宮沢俊義『憲法Ⅱ』「抵抗権」)という問題でもあります。
 
藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書、2001年)
(「保立道久の研究雑記」2014年12月30日
 
いろいろな意味で、今日の歴史学を考える上で重要な本である。(略)第一には、日本における「奴隷」の問題である。奴隷というものへの認識が必要であるということは、歴史認識において基礎的な問題であるが、「日本人」は自分の問題として奴隷ということを考えることがない。日本の歴史のなかには「奴隷」などという問題が存在しないという、まったくの無知(というのがきついとすれば、錯誤)が、この国の歴史認識をおおっている。第二には、飢餓という問題である。同じく日本史において飢餓などという問題は存在しないという歴史認識である。これは飽食の文化にふさわしい。第三には朝鮮との関係についての認識である。戦国時代が、おそらくもっとも朝鮮半島と日本が近い時代であった。戦争と奴隷ということを通じて。これらは、現代日本の歴史意識の問題の中枢にかかわっている。(略)「七度の餓死に遇うとも、一度の戦いに遇うな」。本書は、戦国時代の「戦争」のベースには飢餓があったことを明らかにしている。右にかかげた江戸時代のことわざは、ベースにある飢餓の上に、さらに戦争が重なってきたときの恐ろしさを表現したものということになる。そして、藤木は、その惨酷さを「内戦」という言葉で表現する。現在も世界各地で戦われているような泥沼の「内戦」が日本にも存在したのだという感じ方を読者に要求するのである。
 
戦国時代は1467年(応仁1)の応仁の乱からはじまるが、その底流には京都が難民の滞留する飢餓の都となっていた事実がある。そしてその飢えは、応仁の乱の四六年前、1420年にはじまった大飢饉、元号でいえば応永の大飢饉から蓄積されたものであるという。本書をうけついで問題を追究した清水克行が述べているように、この年は京都大徳寺の真珠庵をひらいた一休宗純の大悟の年である。一休は、琵琶湖のほとり堅田の寺で師につかえて五年目。夏にはすでに西国の路上に飢えた人々の姿がみられるようになっていた。一休は、その夏の夜、湖岸になく烏の声をきき大悟したという。その大悟の深さは飢饉にむかう世相の暗さを突き抜ける鋭さをもっていたのであろう。続いて1443年、1447年、1460年と大飢饉が続き、その度ごとに京都は、飢民が群がる凄惨な様相をみせる。食いつめた人々は街道にでて、最後は首都京都に集まっていく。経済的な発展期にあったはずの室町期の経済社会は、気候条件の変動に対して、意外な脆弱性を露出することになった。
そして、この飢饉にほぼ重なって徳政一揆が何度も何度も首都にせまる。しかも、一揆勢は時の流れとともに、大名たちの足軽軍団の中枢に入りこみ、大名たち相互の矛盾を拡大し、その流れのなかで内戦が激発し、室町幕府の中枢が壊滅することになった。普通、応仁の乱というと、第八代の足利将軍、義政の継嗣争いのなかで、室町幕府の管領家の細川勝元と山名持豊らの有力大名が争い、その長期化のなかで大名たちは国元にくだっていって戦国大名となっていったと説明される。しかし、そのような政治史の表面の説明では、この応仁の乱が、なぜ首都壊滅という結果となったかはわからない。それに対して、藤木の描いた応仁の乱の実像は、首都が人々の最後のサバイバルの場という役割を果たすことができず、流餓の民が、生き残りのために大名の足軽・傭兵と化して首都の機能を麻痺させたというものである。このような内戦によって、幕府の経済基盤であった土倉・酒屋その他の商工・運送資本が機能不全におちいり、中央都市から地方を支配する荘園制的な経済構造が大きく転換していった。著者は「歴史の大きな転換のナゾを解くには、やはり政界の内紛やお家騒動を追うだけでは十分ではないとおわかりいただけたでしょうか」とのべるが、たしかにその説明は泥沼の内戦の構造をいいあてている。
 
次の問題は、飢餓の民が流出してきた地域の村落の様相である。そこで藤木が明らかにしたのは、戦国時代のムラが自分自身で武装をしているという重大な事実であった。これはいわば黒沢明の映画『七人の侍』の世界である。しかし、決定的に違っているのは、歴史史料による復元では、武装しているのは雇われた浪人ー「侍」たちではなく、村人自身であったということである。彼らは、全国各地で同じように、小さな「ムラの城」、山城を構えて、ムラを防衛していたという。藤木は現地の地理や記録にもとづいて、その実態を論じていく。ここまでの防衛体制をムラが取るのは、ひとたび戦場となれば、そこは容赦ない略奪の場となり、女・子どもはを奴隷として売り払われる運命になるからである。しかも、問題は、村人の武装は、彼らが状況によってはぎゃくに大名・領主の傭兵となって活動したことによっていたことである。つまり、村人自身が、野盗・野伏の風習を身につけていたのであって、彼らは立場がかわれば奴隷狩りを行うことに躊躇しないということになる。このような民衆の傭兵化と奴隷狩りの実態は、本書の6年ほど前に刊行された『雑兵たちの戦場』で藤木がはじめて注目した問題である。この『雑兵たちの戦場』は、「中世の傭兵と奴隷狩り」という副題をもつもので、そこで、すでにこの時代の内戦の底流に飢饉があったことが注目されているが、本書は、その飢饉状況を精査し、それにもとづいて戦国時代の内戦を全面的に描きなおしたものということになる。
 
実は私は、藤木から、このような飢饉の研究をはじめたきっかけを聞いたことがある。それによると、藤木は1993年の東北の大凶作の厳しさをみて、自分がかっておくった農村の生活の厳しさのことをほとんど忘れかけていたことに大きなショックをうけたという。藤木は、新潟県の出身であって、その農村での経験は痛切で貴重なものであたが、けっして愉快とはいえないものであったともきいたことがある。藤木は、それを一つの動因として研究に取り組んできただけに、1993年の大凶作のきびしい様子を前にして、自分の研究対象とする時代の飢饉についてまったく知らないということにいわば震撼されたという。その後、藤木は、八年の歳月をかけて自己の研究を鍛え直すために、一〇世紀から一六世紀までの災害・飢饉史料、約14000件の史料を一覧表にまとめた『日本中世気象災害史年表稿』の編纂に取り組む。そのうえで、2001年に、本書を刊行したのである。私などにとって注目されるのは、藤木の盟友・峰岸純夫が、やはり長期にわたる研究をまとめて、『中世 災害・戦乱の社会史』を刊行したのも同じ年であったことである。中世史における災害史研究は、この二冊によって本格的に開始された。そして、その一〇年後、2011年に3・11東日本大震災が発生したのである。私事となるが、私は、それまで災害史研究に取り組んだことはなかったが、しかし、それは歴史学にとって必須の問題であることをはじめて認識し、藤木・峰岸などの仕事のあとを追うことになった。私のような、いわゆる戦後生まれで、生活の体験のなかからの歴史への衝迫をもたないものにとって、これは自己の地盤の脆弱さを痛感させることであった。しかし、中世史研究全体としていえば、藤木・峰岸などの仕事によって東日本大震災の前に災害史研究の枠組をもつことができ、どうにか歴史の現実を追尾する姿勢の筋を通すことができたのである。
 
さて、藤木の仕事は、さらに多様なものである。まず逸してはならないのは小学館の『日本の歴史』シリーズの『織田・豊臣政権』(一九七五年)である。これはその後の各出版社の『日本の歴史』シリーズの安土桃山時代の巻の範型となったといってよい名著であり、戦国時代の戦争が終結する様相を筋として織田・豊臣時代の全体を論ずるという姿勢が明瞭な通史である。すでに四〇年のむかしのことであるが、私は、この本を読んで、一向宗の僧侶たちが朝鮮出兵に参加したという重たい事実をはじめて知った。織田信長によって「なで切り」といわれるような抑圧をうけた一向宗の僧侶たちが、秀吉の朝鮮出兵の従軍僧となるということは、戦国時代から信長、そして秀吉にいたる歴史の流れを一貫したものとして考えるべき必要を明示したといってよい。そして次の著書としては、やはり『豊臣平和令と戦国社会』をあげるべきであろう。本書は秀吉論であって、戦国内戦の終結にあたって秀吉が関白の地位を利用しつつ、「国郡境目」の裁定者としてあらわれ、「惣無事」という平和令を貫徹させたことを明らかにした。これは、現在では、中学・高校の歴史教科書にものせられる著名な事実である。最近、この惣無事という平和の調整方式は織田政権末期にすでに芽生えていることが明らかにされているとはいえ、藤木の仕事が戦国内戦の終了と江戸幕府体制の形成の基本の筋道を明らかにしたものであることはゆるがないところである。
 
これらの藤木の著書は「中世社会」について考えるうえで不可欠のものであるといえよう。それを確認したうえで、最後にふれておきたいのは、『織田・豊臣政権』『豊臣平和令と戦国社会』の二冊をだした後、藤木が『戦国の作法』『村と領主の戦国世界』『戦国史をみる目』などの著書をだして、つねにその成果をきびしく自己点検してきたことである。ここで紹介した『飢餓と戦争の戦国を行く』は、その自己自身を乗り越える作業の現在の到達点である。たとえば『織田・豊臣政権』は、秀吉の朝鮮出兵軍が、朝鮮において奴隷狩りを行い、その奴隷を売り払うことを生業とする奴隷商人をともなっていたことを論じている。しかし、藤木は、この最近著において、その視野がいかに狭隘であったかを告白する。「かって私など、外国の戦場の奴隷狩りのひどさを知ってはいても、まさか日本国内の戦場で同じことが起きていたなどと、想像さえもしなかったのでした」、(しかし)「日本中世の戦場でも、女性や子どもたちが、人さらい・人買い・レイプ・略奪結婚の対象とされ、つねに深く内戦に巻きこまれていました」というのである。説明を省略せざるをえなかったが、藤木は本書において、朝鮮出兵とはいわば戦国の戦争のエネルギーが輸出されたものと説明することができるとしている。そして、それと同時に、戦国時代の日本は、人さらい・人買い・レイプなどを朝鮮において実行したという訳である。このように藤木の議論は、きわめて体系的にできており、『飢餓と戦争の戦国を行く』を最新の仕事として確認したうえで、それより前の著作にさかのぼっていくことができる。
26日のエントリで『南京!南京!』の日本語字幕版をご紹介させていただきましたが、同映画を観たという人から『南京!南京!』を基本的に評価しながらもラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というレスポンスがありました。この批評者は陸川(ルー・チューアン)監督と同世代の人のようです。だから、同世代の者として『南京!南京!』という作品の出来具合について同世代的感覚で批判的にコメントする気になったのかもしれません。それはそれでよいのですが、同批評は少し的が外れています。批評者はおそらくドキュメンタリーを「取材対象に演出を加えることなくありのままに記録された」(wikipedia『ドキュメンタリー』)記録映画と解釈して、ドキュメンタリーにフィクションを持ち込む陸川監督の手法を批判しているのでしょうが、批評者は、報道のありかたとドキュメンタリーの違いについて認識が不十分であるといわなければならないでしょう。
 
左記のウィキペディアの記事は、「社会問題を取り上げるという点においてはドキュメンタリーも報道も同じだが、ドキュメンタリーは制作者の主観や世界観を表出することが最優先順位にあるのに対して報道は可能な限り客観性や中立性を常に意識に置かなければならないという違いがある」という森達也監督の言葉を紹介して両者を混同しないよう説いています。批評者にはドキュメンタリーと報道の違い、さらにはドキュメンタリーとフィクションの違いについて改めて認識を深めていただきたいものだと思います。
 
以下、陸川監督と同世代の批評者に宛てた私のリプライとドキュメンタリーとはなにか。日本の代表的なドキュメンタリー作家として著名な土本典昭監督(故人)がかつて山形国際ドキュメンタリー映画祭スタッフのインタビューに応じて語った『戦ふ兵隊』(亀井文夫監督、1939年)のあるエピソードを巡っての挿話を書き留めておきたいと思います。土本監督が語る以下のエピソードは、私は、同監督のいう「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」ということと同じことを言っているように思います。
 
ある批評者への私のリプライ
 
『南京!南京!』のご感想を拝読しました。その中で『南京!南京!』を全体として評価しながらも映画のラストシーンで主人公格の日本兵が自殺する場面について「このような行いをした日本兵が実際にいたのかと私はいぶかしげにみています」というご感想を述べられていますが、私はこの場面は陸川監督のフィクションだろうと思っています。
 
陸川監督はやはりラストシーンの南京「攻略」を祝う日本軍の祝賀パレードのシーンについて「ここで表現したかったのは戦争がいかに人の魂をコントロールするかということ」だと述べた上で、「異なる民族の文化を被侵略者の廃墟の上で踊らせる」構想をうとうとしながら夢で見たと語っていますが、もちろんこのラストシーンもフィクションですね。
 
ただし、ここで私のいうフィクションとは「事実とは反事実をふくむ」「事実とはしたがって異同そのものである」(辺見庸「日録27」2014/07/24)という意味でのフィクションです。
 
たしかゆふいん文化・記録映画祭の折に、いまはもう故人になられたドキュメントの大御所の『水俣』の映画監督の土本典昭さんが「ドキュメンタリーの核心はフィクションである」という趣旨のことをおっしゃっておられたように記憶しているのですが、そういう意味でのフィクションです。
 
事実としては私も良心の呵責に苛まされて日本兵が自殺したという例は知りません。
 
土本典昭監督インタビュー(山形国際ドキュメンタリー映画祭 1995年10月3日)抜粋:
 
映画の文体とキャメラワークについて(見出しは引用者)
 
つい最近、病床の瀬川さん(引用者注:瀬川順一さん。『戦ふ兵隊』のカメラ助手)をお見舞いにいったんですが、本当にドキュメンタリーにとって一番大事なことを話して頂いたんです。そこでも何十回と聞いた、『戦ふ兵隊』のあるエピソードを巡っての話です。多分、瀬川さんの五十年前からの一貫した自問自答があるんです。
 
具体的に話しましょう。『戦ふ兵隊』の撮影にこういう出来事があったというんです。撮らなかったシーンの話ですから、映画には勿論ないんです。あくまで瀬川さんのロケ現場での忘れ難い記憶ですが。
 
彼の話はこうです。日本軍がひとびとを苦しめ、家を焼き払ったりした村を通り過ぎたあと、たまたま亀井さんが畑にいた子供を見つけて掴まえ、抱いて、「三木君、コレを撮ってよ」と言ったんだね。かれは助手だったからキャメラの脇で、いつでもクランクを回せるようにしていた。しかし、三木さんはどうしても撮ろうとしなかった。その撮れない理由に「だって亀井君、きみの手が入るじゃないか」と言い、亀井さんは「手が出てもいいから撮れ」。瀬川さんによれば三木さんは臆病で"有名"だったそうですが、顔をこわばらせて撮ることを拒否したというんですね。
 
その晩に激怒のおさまらない亀井さんと三木さんの抗弁のやりとりが果てしなく続いて言葉では三木さんがやりこめられた。けれども納得してはいない、三木さんは。亀井さんは「僕が編集すれば、戦争の恐ろしさをあの子の表情からだせるんだ」 「あの顔は使えるんだから、僕の言う通り撮ってくれればいい」ということだったらしい。
 
三木さんは「僕には撮れない」と譲らない。「僕にはできない」ってね。この論争が瀬川さんの一生のこだわり、自分のキャメラマン論の根底にあったというんですね。
 
瀬川さん自身、四十歳台くらいまでは、「亀井さんの言う通り撮ってもよかったんじゃないか」 「撮れと監督に言われたものは撮って、そのラッシュで決めればいいじゃないか」と思ってきたけれども、人生後半になって三木さんの理屈にならない拒否感覚みたいなものが理解できるようになったと言われる。やはりキャメラマンには「撮れといわれても、どうしても撮れない事がある、三木さんはどうも正しかったと思うようになった」と。さらに最近、瀬川さんの記憶が鮮明に蘇ってきたことがある。それは自分が招集されて兵士だった時、占領地でバッタリ元の職場の映画監督とキャメラマンに会った時のことらしい。瀬川さんは「もうその人たちも亡くなったから言うが」といって、あるシーンのために中国兵をわざと逃がして、機関銃で撃ちまくったという話を彼等から聞かされたというんです。「機関銃って撃ってもなかなか命中しないものなんだね。バタバタ倒れる敵兵という風にはいかなんだ」と。瀬川さんは先輩キャメラマンが中国兵捕虜を映画のために殺したのか!と慄然とされたそうだ。しかも、それを平然と自分に話しをする神経はなんだ。「これが映画人か、恐ろしい、恥ずかしい」と思ったが、また、忘れようともしてきたと。瀬川さんもほとんど忘れかけていたが、三木さんの理屈にならない理屈の先を突き詰めていく内に、その記憶は蘇ってきたそうです。これははじめて聞く話でした。
 
二年か三年の兵役を終えて、瀬川さんが三木さんについた仕事が『戦ふ兵隊』だったんでしょう。「亀井さんと三木さんの論争をふりかえって見ると、こっちが加害者、侵略者側というのが三木さんの根底にあったんだ」。つまり、瀬川さんの言ですが、「戦場の記録映画班はみな従軍服、軍服に似たものを着せられているし、キャメラはレンズは光るし、鉄砲みたいな武器に似ている。それを三脚につけた前で、抱きすくめられたら誰でも怖い。中国の子供にとって、きっと僕らも日本兵に見えた。殺されると思った顔だった」。
 
三木さんには、被害者を写すのに加害者側からは撮れなかったのだと。その点、亀井さんに、あの時、自分らは加害者側だという意識があったろうか、無意識にせよ、その演出には差別 があったのではないか、二つの記憶が結びついて恐ろしい輪になってしまった。つまり、「キャメラマンとして、どうしても撮れないという肉体がある」ということを言いたいんですね。いわば遺言ですよ。キャメラマン歴六十有余年の瀬川さんの。
 
劇映画の世界はよく知らないんですけど、瀬川さんの若い時代、監督は"天皇"っていわれてる人もいたよね。その監督の指示は命令と同じだった。だけど「身体が言うことを聞かなくなる」というのは、実は深い本質的な知性なのではないか。体のなかに染み込んだ知性というか。
 
キャメラマンが一旦撮ったカットは、人にどう使われても文句が言えない、撮ったのは自分だから。瀬川さんが後輩に言いたいのは、キャメラマンは「カメラ番」じゃないという言葉の実質、精神を言われたと。五十年前に及ぶ亀井・三木論争へのこだわりを突き抜けて、自分の答をだされた。戦場でのいわば耳打ちされた同輩の話の記憶まで引き摺り出して、正当に三木さんに敬意を表し、同時に、いわゆる厭戦作家と言われる「亀井神話」まで突き刺してしまった。そういう気がして、瀬川さんからキャメラマン論の仕上げをして頂いた感じ…。僕は粛然としましたね。
youtubeの日本語字幕版で『南京!南京!』(監督:陸川(ルー・チューアン)、2:14:50、2009年)を観ました。はじめは意図がわからず、なかなか観通すのに難儀したのですが、それでもこの映画の映像の美しさは私にもわかるものでした。私は久しぶりに「硬質のリリシズム」という言葉を思い出しました。特に被「攻略」側(中国側)の情念を内向させた寡黙な男性を演じるリウ・イエの描き方に私はそれを感じました。そのことがはっきりとわかるようになった頃には作品の意図も見えてきて、私は一層この作品に魅かれていきました。ラストにすでに遺影となった登場人物の写真がクローズアップされて映し出されるのですが、時間にすればほんの数十秒のことでしょうが、私は長いことその遺影に見入っていたような気がします。
 
辺見庸はこの『南京!南京!』について次のように書いています。
 
『南京!南京!』。1937年12月から翌年1月までの出来事が、1971年生まれの中国人監督によって、このように映像化された。まずそのことに、言いしれないおどろきをおぼえる。歴史、経験、記憶、映像、忘却、視圏、写角……。見ることと、見られること。記憶すること、記憶されること。曝すことと、曝されること。死者の山のざわめき。(略)事実とは反事実をふくむ、糸のきれて散らばった数珠玉である。事実とはしたがって異同そのものである。陸川監督が資料と証言というおびただしい数珠玉を、かれの歴史観、人間観、想像力という糸でつないでみたら、こんな全景になったということだろう。(略)
 
『南京!南京!』は、中国製というより、陸川監督の手になる南京大虐殺にかんする映像テクストである。日本ではこれに比肩しうる映像テクストがない。みずからの非を飾ることのさもしさもさることながら、日本というクニには、かかわってきた戦争と戦争犯罪のテクストがほとんどないこと――それは「学ばない」という習性のあわれをこえた不可思議であり、それこそが恐怖のみなもとだ。南京攻略祝賀式典のシーン。うち鳴らされる大太鼓。ドンドコドンドコ。多数の兵士たちの、なにやらドジョウすくいのような、異様なダンスと行進。神輿のようなもの。はためく各師団の幟。必見である。思い切ってデフォルメされた、このありえそうもないシーンこそ、わたしにはもっともリアルで、卓抜な映像とかんじられた。シュールである。シュールであったのだ。リーベン(日本)の素振りと律動が、こうみられたのだ。(「日録27」)

上記で辺見が「必見である」と言い、「シュール」と言い、「卓抜な映像」と言う『南京!南京!』のラストシーン(南京「攻略」を祝う日本軍の祝賀パレードのシーン)について陸川監督はインタビューに答えて次のように言っています。
 
ここで表現したかったのは戦争がいかに人の魂をコントロールするかということ。戦争が起こる前には必ず文化によって戦争の執行者への洗脳が行われる。精神の絶対的なコントロールと占領こそが戦争の本質です。戦争の核心的結果は、異なる民族の文化を被侵略者の廃墟の上で踊らせることです。これは私が夢の中で思いついたことです。2007年8、9月に脚本と葛藤しているときにうたた寝をして、うとうとしながらこの場面を夢見ました。

以下は、映画『南京!南京!』と陸川監督に関するウィキペディア記事。
 
南京!南京!
 
『南京!南京!』(なんきん!なんきん!)(英題 City of Life and Death)は、陸川監督によって製作された中国映画。日中戦争の南京戦とその後に起こったとされる南京事件を題材にした作品。モノクロで制作されており、南京戦の一連の様子が一日本兵の視点から描かれている。
 
概要
4年以上の歳月をかけて脚本を練り、製作がおこなわれた。陸川監督は脚本を書くために膨大な数の日本兵の日記を読み、友人が日本で収集した2000冊以上のモノクロ写真集を参考にしたという。そうした史実資料から構想のヒントを得ているものの、陸川監督は「これは記録映画ではない。戦争での人々の感情を描いた」と述べている。慰安婦のシーンも大きな割合を占めており、監督はこれらのエピソードは大量の歴史的資料の裏づけがあって設定されたと述べている。
 
反響
2009年4月25日より中国にて、2010年4月28日より欧州にてロードショーが開始される。戦争の狂気と悲惨さを製作側は意図したため、中国国内では映画中に登場する日本兵の姿に激しい賛否両論を呼んだ。杭州で催された試写会では、日本人俳優に対し、「日本帝国主義打倒!」や「バカ!」といったののしり声が客席の一部から飛ばされる場面があったが、「彼らは尊敬すべき人たちだ!」という声がはるかに多くの観客から上がり、会場は拍手でいっぱいになり、日本人俳優もこれに深い感動をおぼえたという。さらに出演した日本人俳優に対して、「(帰国後の日本からの弾圧を避けるために)今後保護するために中国で暮らしてはどうか」との申し出もあった。人民網日本語版は「全ての中国人は、南京大虐殺から70数年が経った今こそ、民族史上に受けた苦難をしっかりと心に刻まなければならない」と評論した。
 
本作は日本では公開されていないが、陸川監督は日本国内での上映を強く希望しており、2009年9月21日、スペインで開催された第57回サンセバスチャン国際映画祭における公式会見の席上で、配給会社が決まり日本公開されることが監督によって明らかにされた。だが、劇中で使用している楽曲の著作権問題で配給会社との交渉は決裂し、2011年8月21日に、史実を守る映画祭により一日限りの上映が行われた。
 
受賞
第57回サンセバスチャン国際映画祭(2009年):コンペティション部門 ゴールデン・シェル賞(最優秀作品賞)・審査員賞(最優秀監督賞)・カトリック映画賞(シグニス賞)
第46回金馬奨(2009年): 最優秀撮影賞(曹郁)
 
陸川
 
陸川(ルー・チューアン、1971年2月8日 - )は、中華人民共和国新疆出身の映画監督・脚本家。いわゆる第6世代の監督の1人として知られる。
 
経歴
6歳のときに北京に移住。
出身校:
解放軍国際関係学院 英語科(1993年卒)
北京電影学院 導演科 修士課程終了(1998年卒)
 
主な作品
『ミッシング・ガン』(尋槍)(2002)
ココシリ』(可可西里)(2004)
『南京!南京!』[3](南京!南京!)(2009)史実を守る映画祭で上映
『項羽と劉邦 鴻門の会』(王的盛宴)(2012)
 
受賞歴
『ミッシング・ガン』で台湾優良シナリオ大賞を受賞。(2001)
『ココシリ』で第17回 東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞。(2004)
『ココシリ』で台湾金馬奨最優秀作品賞と撮影賞を受賞。(2004)
『ココシリ』で中国華表奨の劇映画賞を受賞。(2005)
『ココシリ』で中国金鶏奨最優秀劇映画賞を受賞。(2005)
『ココシリ』で香港電影金像奨最優秀アジア映画賞を受賞。(2006)
『南京!南京!』で第57回サンセバスチャン国際映画祭コンペティション部門で、ゴールデン・シェル賞(最優秀作品賞)、審査員賞(最優秀監督賞)、カトリック映画賞(シグニス賞)を受賞。(2009)
 
最後に陸川監督の言葉をもうひとこと引用しておきます。
 
まず偏見を捨てて、平常心になってください。これは単なる方法論であって私の世界観を代表するものでも、私の感情でもない。戦争を反省している日本人がいるのかと聞かれれば、「いる」と答えます。その資料をお見せしよう。この点を認めても中国人が損するわけではない。反対に世界からより尊重を受けることになる。これまでの私たちの映画はすべて自分たちの角度から語ったものだった。自己満足に浸っても永遠に外には出られない。
 
昨日の1月19日、沖縄県名護市長選挙の投開票があり、米軍普天間基地の名護市辺野古移設に反対する現職の稲嶺進氏が、辺野古移設推進を掲げ、 安倍自民党内閣と同党本部の全面的な支援を受けて出馬した前自民党県議の末松文信氏に4000票余の大差をつけ再選されました。
 
昨年の11月には沖縄県選出の自民党国会議員、同党県連を辺野古移設反対から容認に強引に転じさせ、さらに昨年末の12月には仲井真沖縄県知事の国の辺野古埋め立て申請承認という沖縄県民への裏切り行為を共謀、画策し、その上さらに投票日を間近にひかえて突然、 500億円の「名護振興基金」を打ち出し、名護を金で買おうとした自民党政府と自民党候補に名護市民が「金で心は売らない」という良識の鉄槌を下した「沖縄の心」の勝利といってよいでしょう。
 
しかし、この「沖縄の心」を支えたのは名護市民だけでなく、「沖縄の心」をともにしようとする米国の知識人ら29人もいました。その米国の知識人ら29人は連名で同市長選が本番に入る直前の1月8日に沖縄と世界に向けて「辺野古移設中止を」求める抗議声明を発表しました。声明連帯者の氏名はノーム・チョムスキー、ジョン・W・ダワー、マイケル・ムーア、ナオミ・クライン、ダニエル・エルズバーグ、ピーター・カズニック、オリバー・ストーン、アン・ライトなど。この声明の発表が名護市民を励まし、名護市長選勝利に大きな役割を果たしたこともまた確かなことといってよいだろうと思います。
 
さて、「世に倦む日日」というブログがその「米国知識人29名の署名による辺野古埋め立てへの抗議声明」に焦点を当てて、対比して現代の日本人知識人の不甲斐なさを論じた記事を書いています(世に倦む日日 2014-01-14)。
 
この「世に倦む日日」は、ある側面をフォーカスしてそれを焦点化するという点でしばしば手腕を発揮します。しばしば慧眼といってもよい視点を提起することもあります。その「世に倦む日日」の筆者は上記の日本人知識人の不甲斐なさについて次のように言います。
 
「もし、これが30年ほど前なら、きっとこんなことはなく、すぐに抗議文書が発信され、マスコミの記事になって紹介されたことだろう。加藤周一、丸山真男、鶴見俊輔、久野収、小田実、日高六郎、藤田省三、家永三郎、木下順二、掘(堀)田善衛、こういった面々が動いたに違いないのだ。」
 
「オリバー・ストーンやマイケル・ムーアやチョムスキーなど、今の米国の知識人たちは、この上に並べた戦後民主主義の知識人と重ね合わせて存在を見ることができる。同じ知識人範疇と認められる。だが、その知識人範疇に入る日本の現在の人物がいない。名前を挙げて並べることができず、リストにすることができない。無理もないと言うか、「憲法とは何か」を岩波新書から出している学閥の憲法学の権威が、秘密保護法は必要だと言い、国会で安倍晋三の代弁をやって正当化しているのだ。岩波の「世界」に記事を書いている者も、似たり寄ったりで長谷部恭男と大差なく、学閥官僚かアカデミー・サラリーマンだ。」
 
しかし、「世に倦む日日」氏の作家の辺見庸評価は少し違うようです。同氏は辺見庸について次のように言います。
一昨日の12月14日はあの『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士の討ち入りの日でした。ただし、討ち入りは、現在の時刻では12月15日の未明午前4時頃のことであったらしいので310年前(1703年)の12月15日、すなわち昨日のことだったといえなくもありません。
 
そういうことはともかく、弁護士の澤藤統一郎さんが自身のブログ『澤藤統一郎の憲法日記』に12月14日付けで「赤穂浪士討ち入りと福沢諭吉」という記事を書いていて、そのなかに次のようなくだりがあります。

福翁自伝 
 
「このことに関して、「福翁自伝」の一節を思い出す。緒方洪庵塾の熟生時代の叙述として次のくだりがある。
 
「例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私は『どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない』と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何(どう)あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。」
 
辺見庸が彼の日記によく出てくるコビト(もしかしたらコビトはコイビトの隠喩なのかもしれません。もちろん、虚構上の)のクララに叱られたと言います。

カワラサイコ 
カワラサイコ(小人の花序)
 
「こんなことあまり言いたくはないんだけど、あなたの書くことが最近、なんて言うか、すこし品位にかけてきてるとおもうの・・・」。
 
「品位とはなにか、なんてあたしにはよくわからないけど・・・」「あれを読んだら女性差別的とかんじるひともいるんじゃないかしら。不快におもったひとはすくなくないはずよ」
 
「ひとの身体的なケッカン・・・じゃないわよね、そう、特徴を執拗かつ露骨にあげつらうって、どうかしらね、いけないことじゃないかしら。口にせよ耳にせよ××××(4字伏せ字)にせよ」。
 
「『いかに現在の世論が反対しようと、差別は社会的領域の構成要因なのであり、それは平等が政治的領域の構成要因であるのと同様である』って、もちろん、だれが、どんな女性が書いたか、あなた、知ってるわよね?」
 
「重要なことは・・・。『あらゆるひとびとが社会のなかでじぶんがなんであるか――自分がだれであるかとは性質の異なるものとして――自分の役割と自分の職分とはなんであるかという問いに答えなければならない』ということなのよ。でしょ?」
 
「(〈社会の共同性〉をそもそも根本から否定するかのようなわたしの表現は)まるで全世界からの『追放』をじぶんから願いでているかのようだわ」
 
と。
 
辺見は次のように自省します。
 
「なにを言われているか、わたしはわかっている。」
 
「わたしはギクリとしつつ、「『世界』という名の口実」という言葉を深いあきらめのなかでおもいだしていた。コビトに裏切られた、という感情もしょうじきなくはなかった。」

【後編】

辺見庸4
 
 長いこと、一時間以上かけて、この黒塗りの手紙についてお話ししました。けれども、ぼくはまだ、手紙を塗りつぶした「真犯人」については言及してはいません。その究極の真犯人のことを考えながら、次の話をしたいと思います。
 
 みなさんはいかがですか、最近、ときどき、鳥肌が立つようなことはないでしょうか?  総毛立つということがないでしょうか。いま、歴史がガラガラと音をたてて崩れていると感じることはないでしょうか。ぼくは鳥肌が立ちます。このところ毎日が、毎日の時々刻々、一刻一刻が、「歴史的な瞬間」だと感じることがあります。かつてはありえなかった、ありえようもなかったことが、いま、普通の風景として、われわれの眼前に立ち上がってきている。ごく普通にすーっと、そら恐ろしい歴史的風景が立ちあらわれる。しかし、日常の風景には切れ目や境目がない。何気なく歴史が、流砂のように移りかわり転換してゆく。だが、大変なことが立ち上がっているという実感をわれわれはもたず、もたされていない。つまり、「よく注意しなさい! これは歴史的瞬間ですよ」と叫ぶ人間がどこにもいないか、いてもごくごく少ない。しかし、思えば、毎日の一刻一刻が歴史的な瞬間ではありませんか。東京電力福島原発の汚染水拡大はいま現在も世界史的瞬間を刻んでいます。しかし、われわれは未曾有の歴史的な瞬間に見あう日常を送ってはいません。未曾有の歴史的な瞬間に見あう内省をしてはいません。3.11は、私がそのときに予感したとおり、深刻に、痛烈に反省されはしなかった。人の世のありようを根本から考え直してみるきっかけにはなりえていない。生きるに値する、存在するに値する社会とはなにかについて、立ち止まって考えをめぐらす契機にはかならずしもなりえていない。私たちはもう痛さを忘れている。歴史の流砂の上で、それと知らず、人びとは浮かれはじめている。
 
【「社会の内面」が変化】
 
 政治は、予想どおり、はげしく反動化しています。それにともない、「社会の内面」がおかしくなりつつある。社会の内面というと何のことかと言われそうですが、たとえば、高校の教科書の問題、みなさんよくご存知だと思いますけれども、高校の日本史の教科書をめぐる神奈川県の話。あれだって歴史的な瞬間だと私は思っております。実教出版からの「高校日本史A」「高校日本史B」。それには国旗・国歌法に関する説明で、「政府は国旗の掲揚、国家の斉唱を強制しないということを国会審議のなかで明らかにした」「しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある」という、誰もが知っている事実、むしろちょっと食い足りないくらいな記述があるのですけれども、実際には記述どおり、あるいはそれ以上のでたらめな監視、それから強制、処分があります。たとえば「君が代」をうたっているかどうか、口パクだけじゃないかどうかということを、わざわざ教育委員会とか、あるいは極右の新聞記者が監視しにきてそれをメモっていく。わざわざ学校や教育委員会に電話をかけて告げ口したり記事化したりする。極右というのも、非常に懐かしいことばですけれども、しかしいまや日常の風景になってしまっている。