キョウ しょうがいしゃさっしょうじけん

Blog「みずき」:「今日の言葉」は毎日新聞記者の野沢和弘さん(論説室)の「記者の目」から。この記事を書いた記者自身も「重度の自閉症の子の親である」と言います。「あわれみや、やっかいなものを見るような視線を容赦なく浴びてきた。ストレスで心身を病んで仕事を失い、家族が崩壊するのを嫌というほど見てきた」とも書いています。 そうした記者の「真の被害者は誰なのだろうか」という問い。

【真の被害者は誰なのだろうか】
どうにも腑に落ちない。いったい真の被害者は誰なのだろうか。相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で重度の障害者19人が殺害され、27人が負傷した
事件から2カ月あまりが過ぎた。神奈川県は保護者と施設の要望を受けて施設の建て替えをするという。神奈川県警は「知的障害者の支援施設であり、遺族のプライバシーの保護等の必要性が高い」と被害者を匿名で発表した。マスコミの報道も差別や偏見に苦しむ保護者に同情的なものが多い。しかし、植松聖容疑者は「通り魔」ではない。事件の5カ月前まで「やまゆり園」で働いていた元職員である。勤務中には障害者に対する虐待行為や暴言もあった。なぜこんな人物を雇ったのか、どうして指導や改善ができなかったのか、なぜ犯行予告をされながら守れなかったのか……。被害者の家族がそう思ったとしても不思議ではない。もしも保育所で同じ事件が起きたら、施設は管理責任を追及されるはずだ。なぜ知的障害者施設ではそうならないのか。(略)認めたくはないが、親の安心と子の幸せは時に背中合わせになることがある。「保護者の疲れ切った表情」を見て容疑者は「障害者は不幸を作ることしかできない」と考え「安楽死させる」という考えに至る。あきれた倒錯ぶりだが、保護者への同情が着想の根幹の一つには違いない。県警が被害者を匿名発表した理由も保護者への配慮である。マスコミの報道も保護者への共感である。

しかし、被害にあったのは保護者ではない。障害のある子の存在を社会的に覆い隠すことが、本質的な保護者の救済になるとも思えない。保護者に同情するのであれば、そのベクトルは差別や偏見をなくし、保護者の負担を軽減し、障害のある子に幸せな地域生活を実現していくことへ向けなければならない。神奈川県は施設の建て替えを決める前に、障害者本人の意向を確かめるべきではないか。言葉を解せなくても、時間をかけてさまざまな場面を経験し、気持ちを共有していくと、言葉以外の表現手段で思いが伝わってきたりするものだ。容易ではないが、障害者本人の意思決定支援にこそ福祉職の専門性を発揮しなくてどうするのだと思う。横浜市には医療ケアの必要な最重度の障害者が家庭的なグループホームで暮らしている社会福祉法人「
訪問の家」がある。どんな重い障害者も住み慣れた地域で暮らせることを実証した先駆的な取り組みから学んではどうだろう。障害者福祉の現場は着実に変わっているのに、<障害者=不幸>というステレオタイプの磁場の中に彼らを封じ込めようとしているように思えてならない。真の被害者が何も言わないから、許されているだけだ。(野沢和弘(論説室)「毎日新聞」2016年10月12日

【山中人間話目次】
・翁長知事、世論に追い込まれて、「歓迎したい」発言撤回-NHK沖縄放送局
・沖縄のメディアよ。その指摘はそのとおりだ。しかし、まだまだ歯に衣が挟まっている。さらに奮い立て。
・「オバマ氏に三期やらせてみたくなり」気持ちはわかります。が、もちろん、オバマも駄目です。
・第2回大統領候補テレビ討論会(日本語訳・英文全文)
・ホワイト・ヘルメット」を無視するノーベル平和賞の大罪- ニューズウィーク日本版
・オランド大統領よ。あなたにロシアのアレッポ空爆を非難する資格はあるか?
キョウ さがみはらじけん7

Blog「みずき」:辺見庸相模原事件考。誰も言わないこと、見ていないところに光を当てて、そのの下の鋭角、あるいは鈍角の面をあぶり出していくというのが辺見の論の特徴ですが、今回は辺見も同事件の相をつかみかねているようです。「のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ」、と。辺見に限らず私たちに残された人間の方途としては「夜中に思わず嗚咽」してしまうことくらいでしょうか。それくらい今回の事件の性質は語り難く、語り得難い諸相を持っています。私たちは沈思して、いまはしばらく辺見の語るところ、語り得難いところに耳を澄ましてみることにしたいと思います。辺見の「すべての人間は障害者である。」というD.cultureのインタビュー記事もよろしければご参照ください。


【誰が誰をなぜ殺したのか(下) ――痙攣する世界のなかで 】
目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい!」。先だっての都知事選の街頭演説で、外国人排斥をうったえる候補者が、なにはばからず声をはりあげ、聴衆から拍手がわいたという。
かれは11万4千票以上を得票している。わたしの予想の倍以上だ。これと相模原の殺傷事件の背景を直線的にむすびつけるのは早計にすぎるだろう。けれども、動乱期の世界がいま、各所で原因不明のはげしい痙れん症状をおこしているのは否定できない。あの青年が衆院議長にあてた手紙には、愛と人類についての考えが、こなごなに割れた鏡のかけらのように跳びはねている。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意……」の文面が、ガラス片となって目を射る。「全人類が心の隅に隠した想い」とは、ぜんたいの文脈からして、重度障がい者の「抹殺」なのである。障がい者 は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのだろうか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。凶行のあったその日も、その後も、世界はポケモンGOの狂騒がつづき、テレビは「真夏のホラー(映画)強化月間」に、リオ五輪中継。リアルとアンリアルのつなぎ目がはっきりしない。そう言えば、善意と悪意の境界もずいぶんあいまいになってきた。障がい者19人を手ずから殺めた青年に、犯行の発条(ばね)となる持続的な悪意や憎悪があったか、いぶかしい。戦慄すべきは、殺傷者の数であるよりも、これが「善行」や「正義」や「使命」としてなされた可能性である。

惨劇の原因を、たんに「狂気」に求めるのは、一見わかりやすい分だけ、安直にすぎるだろう。「誰が誰をなぜ殺したのか」の冷静な探問こそがなされなければならない。世界中であいつぐテロもまた「誰が誰をなぜ殺したのか」が、じっさいには不分明な、俯瞰するならば、人倫の錯乱した状況下でおきている痙れんである。そうした症状はなにも貧者のテロのみの異常ではない。米軍特殊部隊は2011年、パキスタンでアルカイダ指導者
ウサマ・ビンラディンを暗殺したが、その前段で、中央情報局(CIA)のスパイがポリオ・ワクチンの予防接種をよそおってビンラディン家族のDNAを採取していたことはよく知られている。ワクチン接種がポリオ絶滅のためではなく、暗殺のために利用されたのだ。結果、パキスタンでポリオの予防接種にあたる善意の医療従事者への不信感がつのり、反米ゲリラの標的となって殺される事件がことしもつづいている。ポリオ絶滅は遅れている。それでも米政府はビンラディン殺害を誇る。「米国の正義」を守ったとして。正義と善意と憎悪と "異物" 浄化(クレンジング)の欲動が、民主的で平和的な意匠をこらし、世界中で錯綜し痙れんしている。7月26日のできごとはそのただなかでおきた、別種のテロであるとわたしは思う。あの青年は "姿なき賛同者" たちを背中に感じつつ、目をかがやかせて返り血を浴びたのかもしれない。かれが純粋な「単独犯」であったかどうかは、究極的にかくていできはしない。石原慎太郎元東京都知事は、前世紀末に障がい者施設を訪れたときに、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ってのけた。新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している――なにを物語るのか。「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月12日

【山中人間話目次】
・【記事写真】辺見庸の「相模原・津久井やまゆり園事件」誰が誰をなぜ殺したのか(下)
・内野光子さんの「私の歌壇時評」~歌人は、沖縄とどう向き合うのか
キョウ さがみはらじけん6  
Blog「みずき」:辺見庸相模原事件考。誰も言わないこと、見ていないところに光を当てて、そのの下の鋭角、あるいは鈍角の面をあぶり出していくというのが辺見の論の特徴ですが、今回は辺見も同事件の相をつかみかねているようです。「のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ」、と。辺見に限らず私たちに残された人間の方途としては「夜中に思わず嗚咽」してしまうことくらいでしょうか。それくらい今回の事件の性質は語り難く、語り得難い諸相を持っています。私たちは沈思して、いまはしばらく辺見の語るところ、語り得難いところに耳を澄ましてみることにしたいと思います。辺見の「すべての人間は障害者である。」というD.cultureのインタビュー記事もよろしければご参照ください。

【誰が誰をなぜ殺したのか(上)――惨劇がてりかえす現在】
わたしらは体に大きな穴を暗々(くらぐら)とかかえて生きている。その空しさにうすうす気づいてはいる。しかし突きとめようとはしない。穴の、底なしの深さを。かがみこんで覗きでもしたら、だいいち、なにがあるかわかったものではない。だから、アナなどないふりをする。空しさは空しさのままに。穴は穴のままに、ほうっておく。いくつもの穴を開けたまま笑う。うたう。さかんにしゃべる。穴ではなく愛について。ひきつったように笑い、愛をうたい、空しくしゃべる。黒い穴の底に、愛がころがり落ちていく。
相模原の障がい者殺傷事件の容疑者はとっくにつかまっている。だが、誰が、誰を、なぜ殺したのか―― この肝心なことが正直よくわからない。のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。白状すると、わたしは夜中に思わず嗚咽してしまった。闇にただよう痛ましい血のにおいにむせたのではない。人間にとってこれほどの重大事なのに、その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ。それで泣けてきた。惨劇からほのかに見えてくるのは、人には①「生きるに値する存在」②「生きるに値しない存在」―― の2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。生きるに値する命か否か―― という存在論的設問は、じつのところ古典的なそれであり、論議と煩悶は、哲学でも文学でも宗教でもくりかえされ、ありとある戦争の隠れたテーマでもあったのだ。

たぶん、勘違いだったのだろう。自他の命が生きるにあたいするかどうか、という論議と苦悩には、これまでにおびただしい代償を支払い、とうに決着がついた、もう卒業したと思っていたのは。それは決着せず、われわれはまだ卒業もしていなかったのである。あらゆる命が生きるに値する―― この理念は自明ではなかった。深い穴があったのだ。考えてもみてほしい。あらゆる命が生きるに値すると無意識に思ってきた人々でも、おおかたはあの青年への来たるべき死刑判決・執行はやむをえないと首肯するのではなかろうか。つまり「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の種別と選別を、間接的に受けいれ、究極的には後者の「抹殺」をみんなで黙過することになりはしないか。だとしたら......と、わたしは惑う。だとすれば、死刑という主体の「抹殺」をなんとなく黙過するひとびとと、「抹殺」をひとりで実行した彼との距離は、じつのところ、たがいの存在が見えないほどに遠いわけではないのではないか。少なくとも、われわれは地つづきの曠野にいま、たがいに見当識をなくして、ぼうっとたたずんでいると言えはしないか。


ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消え失せた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか? ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。7月26日の朝まだきに流された赤い血は、決して昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角から吹きでた現在の血である。それは近未来の、さらに大量の血を徴してはいないか。あの青年はいま、なにを考えているのだろうか。悪夢からさめて、ふるえているのだろうか。かれにはヒトゴロシをしたという実感的記憶があるだろうか、「除草」のような仕事を終えたとでも思っているだろうか。生きる術(すべ)さえない徹底的な弱者こそが、かえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかもしれない―― そんな思念の光が、穴に落ちた彼の脳裡に一閃することはないのだろうか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月11日

【山中人間話目次】
・【記事写真】辺見庸の「相模原・津久井やまゆり園事件」誰が誰をなぜ殺したのか(上)
・太田昌国さんの言う毎日新聞の鈴木琢磨記者像
・ニッポンのメディアはこの国をどこに誘おうとしているのか ――朝日新聞とNHKの「天皇」報道への危惧
キョウ へんみ6

Blog「みずき」:相模原事件が起きたいま、改めて辺見庸の「すべての人間は障害者である」を読み直してみる。「他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。しかし、想像力という武器によってそこに橋をかけようとすることはできる」と編者は言う。いま、私たちに必要なのは「他者の痛みを自分の痛みとして感じる」想像力かも知れない。犯罪者を病者に追いやるだけではなにも、何事も解決しない。

【すべての人間は障害者である】
人は誰も他者の痛みを自分の痛みとして感じることはできない。しかし、自─他の感覚が絶対的に断絶されているとしても、私たちはせめてそこに橋をかけようとすることはできる。想像力という武器によってである。辺見庸氏は、他者の痛みにまで想像力の射程を届かせることのできる稀有な作家だ。そして、その透徹したまなざしは、常に痛みをともなう生を生きる者たちに向けられている。では、そんな氏のまなざしに、存在そのものが痛みともいえる障害者たちはどう映るのか。お話をうかがってみた。(聞き手:桐谷匠 D.culture編集部)

聞き手 健常が幻想であるという意味は、何となく理解することができた。では、それがほとんど暴力と同義であるとはどういうことか。ここでヒントになるのが、やはり辺見氏が記した次のような言葉だ。「病院という閉域は、刑務所や拘置所、学校同様に、人と人の関係性がいわば制度的に偏方向的になりやすい。患者と医師、囚人と看守というように<見る>と<見られる>が不当にはっきりします」(「
自分自身への審問」)。たとえば障害者福祉の現場でも「見守り」という言葉があるように、障害者は健常者に一方的に<見られる>存在でしかない。この双方向性を欠いた一方的な視線こそが、健常幻想の暴力の根なのではないか

辺見 それはそうです。見る側は健常で、見られる側をいわば健常ではない人間、つまりなんらかの故障や異常がある人間と断定しているわけですから。しかも、見ることによって相手を類化してしまうわけです。しかし、見られる側も実は見ています。それこそ思考を奪われたような状態にある人間でも、じーっと相手を見ていますよ。この双方向性に気づくことぐらい大きな発見はありません。一方的に見られる関係ということを少し敷衍すると、相手を障害という言葉で代表される表象と見なす視線というのは、実は中世や近世より現代の方がずっと強くなっているのです。障害者か健常者か、病者か健康者か、あるいは加害者か被害者か──そうした本質的には存在しない境界を設定し、すべてを二項対立的に見る視線というのは、かつてより21世紀現在の方が圧倒的に強くなってきている。勝者と敗者とかね。そういう社会に、いまはなってしまっている。(
D.culture 2016年2月29日

【山中人間話目次】
・醍醐聰さんの「都知事選:自省なくして革新候補への支持は広がらない」という問い
・ふたたび澤藤統一郎、徳岡宏一郎、猪野亨弁護士の揃い踏み小池百合子大批判
・日経の世論調査は「有力3候補の差が序盤より縮まり接戦を展開している」と見ている。鳥越氏支持層にとっては展望のもてる調査結果だ
・夷斎先生ならいまの事態をどう見るか
・内野光子さん(歌人)の目取真俊『平和通りと名付けられた街を歩いて』評
・相模原事件 26歳の青年の「僕らの社会」・社民党が公認し、小林節センせーがほめた増山麗奈のヘイトクライム
キョウ かいご
中村淳彦さん(左)と藤田孝典さん(右)

Blog「みずき」:下記に引用されている竹中平蔵の言葉のフレーズの全文をそのまま引用しておきます。「そもそも日本人は、社会保障に対して誤解をもっています。自分が90歳まで生きると思ったら、90歳まで生きる分のお金を自分で貯めておかないとダメなんですよ。保険は不測の事態に備えるものなんですから。今の日本の問題は、年を取ったら国が支えてくれると思い込んでいることです。そんなことあり得ないんですよ。90歳、100歳まで生きたいんだったら、自分で貯めておく。それがイヤで、国に面倒をみて欲しいんだったら、スウェーデンみたいに若い時に自分の稼ぎの3分の2を国に渡すことです」。こういう人がつい最近まで私たちの国の経済財政政策担当大臣であり、金融担当大臣でした。

【18歳過ぎた美人は売春、認知症は線路】
中村淳彦 僕もかかわっている介護関係の媒体で、竹中平蔵氏が「
老後を普通に生きたかったら何千万かお金を貯めなさい。それができない人は、幸せな老後は諦めなさい」みたいなことをはっきりと言っていて驚きました。
藤田孝典 竹中さんに限らず、そういった論調は広がっています。
中村 そうなると順調に認知症高齢者が増えたら、列車の線路にゾロゾロと認知症高齢者の方々が…みたいなことになりますよね。
藤田 誰もケアしないので、自殺も多発するし、窃盗も多発します。好き勝手やって儲かるならば良しとなると、社会を構成する意味が分からなくなる。
中村 すでに貧困はヒドイ状態なのに、それでもそんな調子となると、本当に荒れに荒れてからでないと上には気づいてもらえないんですかね。本当に、キツいです。18歳過ぎた美人は売春、認知症は線路…そんな社会は嫌だなぁ。まだまだ社会は荒れるでしょうし、藤田さんの仕事は続きますね。
藤田 官僚、政治家、市民が何も気づいてないのです。市民もまだ経済成長に頼っていますし、社会保障を増やすことに思い切れない。知識人の意見は一致して、誰が見てもヨーロッパ型に転換するしか選択肢はないのですが。そうしないと、米国や韓国のように焼け野原になってしまいます。
中村
新自由主義がいかに生き地獄を生み、人間を壊すかは、介護の現場で身に染みました。ヨーロッパ型にして生涯売春とは無縁に生きて普通の老後を送るか、このまま新自由主義を継続してカラダを売り、高齢になったら絶望の姥捨て山に行くか。市民が選択するわけですね。
藤田 そういうことです。福祉関係者は市民に対して、それぐらいの強力な言葉で迫っていく必要があります。やはり現状をもっと可視化して、危機感をもってどちらの道を選ぶのか、国民一人ひとりが真剣に考えて選択するべきなのです。(
中村淳彦藤田孝典「ダイヤモンド・オンライン」2016年6月17日
キョウ あさひそしょう

【どのようにして憲法25条に「日本人が魂入れた」のか】
憲法
25条は「生存権」と呼ばれ、生活保護など社会保障の憲法上の根拠となる条文である。日本国憲法はGHQ案が「下書き」になっていることはよく知られているが、実はそこに25条の「健康で文化的な最低限度の生活」という文言はない。この趣旨の文言を憲法改正草案として初めて盛り込んだのは、戦後すぐに立ち上がった民間団体「憲法研究会」だった。1945(昭和20)年12月に彼らが公表した「憲法草案要綱」にこうある。《一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス》この条文を付け加えることを提唱したのは、経済学者の森戸辰男であった。
ロンドン・コベントガーデン

Blog「みずき」:18歳選挙権に「私は反対です」という斎藤環さんの論は意表を突かれる論です。しかし、斎藤さんは必ずしも「18歳選挙権」そのものに反対しているわけではなさそうです。斉藤さんは次のようにも言っています。「やたら自己責任論がいわれ、生活保護はたたかれる。こんなに個人がないがしろにされている国で、18歳で自立しろなんてちゃんちゃらおかしい。権利を与えるというなら、まず徹底して個人を尊重することです。それなしに公共の利益とか言いだすからうさんくさいんです」。あえて「現実」論に立脚することによって日本の現代社会に蔓延る「ファンタジー」をあぶり出す、というのが斉藤さん流の「啓蒙」でもあり、「戦略」でもあるのでしょう。しかし、意表を突かれる論でした。

【18歳選挙権「私は反対です」】
選挙権年齢の18歳への引き下げに伴い、民法上の成人年齢などほかの基準も18歳に、という議論が出ている。だが、引き下げていい理由は何一つない、むしろ上げるべきだ、と若者たちを多く診てきた精神科医の
斎藤環さんは主張する。なぜなのか。何歳ならいいのか。そもそも大人になるとは、どういうことなのか。――選挙権年齢が18歳に引き下げられます。若者が政治に参加するいい機会になりそうです。「私は反対です」
Blog「みずき」:大分県の杵築市の山里に住んでいた友人が捨てるというから貰ってきたテレビですが15年ほど持ちました。そのテレビもとうとう命脈が尽きて今年の夏にはまったく映らなくなりました。それ以来、私はテレビなしの生活をしています。テレビを買い替えようとしないのはテレビにはもうまったく関心がないからです。いまは面白い、あるいは必要と思われるドラマやドキュメンタリーはインターネットで探して観ることにしています。それで十分に用は足ります。
 
下記に筑紫哲也さんの最後の「多事争論」の動画を貼りつけておきましたが、私がテレビをまったくといってよいほど観なくなったのは筑紫さんの「NEWS23」が終わってからです。以前は一杯やりながら筑紫さんの「NEWS23」を観るのが日課でもあり、好きだったのですが、その楽しみも疾うになくなってしまいました。

【筑紫哲也さんの最後の多事争論】

「この国のガン」(2008.8.1放送)

【番組を見終わって心に残るのはこの国の残酷さだ】
今夜のNスペ「
調査報告“無届け介護ハウス”」は大変な力作だった。よくあそこまで(顔出しで)撮影できたものだと思う。そして、番組を見終わって心に残るのは、この国の残酷さだ。福祉の基本は社会的共助にあるはずだが、そこが完全に忘れ去られている。
人間の生存権に関わる重要問題です。

人間らしい生活を返せ 
人間らしい生活を返せ
 
下記のような大阪府警による不当捜査は人権を重んじる、重んじようとする社会において決して許されるものではありません。
 
「人はすべて生まれながらにして生きる権利を有する。この権利は法によって守られるべきである。誰もこの権利をみだりに奪ってはならない」
国際人権規約第6条1項
 
参照1:「生活保護法」改悪法案が衆院で賛成多数で可決 自民、民主、日本維新、公明、みんな、生活各党の暴挙を弾劾する
(弊ブログ 2013.06.04)
参照2:現在の「生活保護バッシング」とチャールズ・チャップリンの幼年時代の新救貧法との類似性 ――「福祉のパラドックス」を打破するために(3)                         (弊ブログ 2013.02.24)

参照3:大阪府警による生存権への弾圧 - 貧困を自己責任とする懲罰は貧困を犯罪とみなす刑罰国家へつながる  
(すくらむ 2013-10-13)
 
以下は、淀川生活と健康を守る会全大阪生活と健康を守る会連合会全国生活と健康を守る会の「お願い」と「抗議声明」のご紹介です。

人間らしい生活を返せ2
 
お願い:大阪府警による不当捜査に抗議の集中を
 
淀川生活と健康を守る会
全大阪生活と健康を守る会連合会
全国生活と健康を守る会連合会
 
大阪府警は不当にも、大阪市淀川区での生活保護「不正受給」を口実にして、淀川生活と健康を守る会に3回、全大阪生活と健康を守る会連合会に2回、さらに10月10日には全国生活と健康を守る会連合会・本部事務所にも家宅慢査を強行しました。
 
翌11日には不服審査請求が全国で1万件を超えた記者会見を準備中の家宅捜索であり、生活保護大改悪への反対運動のひろがりのなかでの弾圧事件であることは明白です。
 
厳しく抗議するとともに、別添の全生連の要請に基づき、大阪府警への抗議電報(または抗議文の郵送)の集中にご協力いただきますようお願いいたします。
 
 
1.抗議先
〒540-0008
大阪市中央区大手前三丁目1番11号
大阪府警本部長 様
 
2.抗議文案
全生連・大生連・淀川生健会への捜査に強く抗議し、違法撞査を直ちに中止することを求めます。
 
3.注意事項
今後の影響を考慮し、全生連は別添のとおり、「今回は組織からの抗議」としていることを申し添えます。
以上 
きまぐれな日々」ブログの標題記事をご紹介したいのですが、私は同ブログ主宰者の古寺多見(kojitaken)さんが標題記事で指摘されている以下の部分が特に重要な指摘であるように思います。
 
安倍晋三の政策で明らかに誤りなのは、生活保護の水準切り下げなどに典型的に見られる政府支出の切り下げを図っていることだ(強調は引用者。以下同じ)。(略)私は、自民党の財政政策が『国土強靱化』に偏重して、生活保護の水準切り下げに端的に表れているような福祉・社会保障切り捨てを目指していることが最大の問題だと思う。」
 
安倍政権の経済政策に対する批判はこの点に集中させるべきだと以前からずっと主張しているのだが、どういうわけか左翼政党や民主党リベラル派(や生活の党w)はまず安倍政権の金融政策への批判から入りたがる傾向が強く、この点に強い不満を持っている。そこを議論しても『神学論争』にしかならないと思っているからだ。しかし左翼政党や民主党リベラル派や生活の党は、金融緩和やインフレターゲットの批判から入りたがる。これは、安倍政権の「福祉・社会保障切り捨て」批判を自ら論点からそらす愚行だと私は考えている。」
 
私も上記の古寺多見さんのご意見にまったく賛成です。安倍内閣の経済政策について論じる「経済」論争はあれこれのネット記事やブログ記事、メーリングリスト記事などでもよく見かけるのですがまったくといってよいほど食指が動きません。だから、読み飛ばすことが多いのですが、その理由は上記で古寺多見さんが「左翼政党や民主党リベラル派」への「不満」として述べている理由とほぼ同様のものです。

*具体的には日経BP日経ビジネスBLOGOS日経ニュースメール、Japan Business PressJMMWEBRONZAなどなどのネット記事を指しています。
 
いま、国民の(「庶民」の、と言い換えてもよいのですが)の大多数は「潜在的」な意味で(といわなければならないところが悲しいところであり、この記事を書いている眼目でもあるのですが)安倍内閣の「生活保護の水準切り下げ」に象徴される政治の現状(「福祉・社会保障」切り捨て政策)に強い不満と大きな危機感を抱いています(いるはずです。「社会福祉」に縁のない人などほんの一握りの富裕層にしかすぎません)。しかし、その大多数の国民の「不満」や「危機感」を拾い上げないで、もっぱら金融緩和やインフレターゲット批判の議論に終始する。こういうことでは国民各層が持っているそれこそ「潜在的」なエネルギーを分散、拡散(薄め散らせる)させることには役立っても、そのエネルギーを結集させて「状況」を「大状況」に転換して大衆の側に有利に展開させることなどとても覚束ないでしょう。このことについて古寺多見さんは「安倍政権は左派&リベラルの無策と堕落に助けられている」とまで批判しています。この批判はまっとうすぎるほどまっとうな批判だと思います。
 
私にもこの「左派&リベラル」の「愚行」は「社会変革」という大義を忘れてしまった「炭鉱のカナリア」の愚行としか思えません。

炭鉱のカナリア  
炭鉱のカナリア(画・長谷川雅治)
 
「生活保護法」改悪法案が今日の4日、衆議院本会議で自民党、民主党、日本維新の会、公明党、みんなの党、生活の党などの賛成多数で可決されました。

活保護関連2法案が衆院通過  
 生活保護関連2法案が可決された衆院本会議=4日午後(共同
 
生活保護法改正案 衆院本会議で可決(NHK 2013年6月4日)

生活保護の不正受給の罰則を強化することなどを盛り込んだ生活保護法の改正案と、仕事と住まいを失った人に対し家賃を補助する制度を恒久化するなどとした生活困窮者自立支援法案が、4日の衆議院本会議で賛成多数で可決され、参議院に送られました。
 
生活保護法の改正案は、受給者の増加に歯止めをかけようと、受給者が保護から脱却した場合に新たな給付金を支給するなどの自立支援策や、不正受給に対する罰則を「3年以下の懲役または100万円以下の罰金」に引き上げることなどが盛り込まれています。
 
改正案には当初、生活保護を申請する際に資産や収入などを記した書類を提出することが定められていましたが、「申請が門前払いされるおそれがある」という指摘を踏まえ、衆議院厚生労働委員会で「特別の事情があるときは提出しなくてもよい」などとする修正が加えられました。

そして、修正された改正案は4日の衆議院本会議で採決が行われ、自民党、民主党、日本維新の会、公明党、みんなの党、生活の党などの賛成多数で可決されました。また、4日の本会議では、仕事と住まいを失った人に対し家賃を補助する制度を恒久化することなどを盛り込んだ「生活困窮者自立支援法案」が賛成多数で可決されたほか、与野党の協議を経て、厚生労働委員会の委員長提案の形で提出された「子どもの貧困対策を推進するための法案」が全会一致で可決されました。

これらの法案は参議院に送られ、いずれも今の国会で成立する見通しです。
 
日本ジャーナリスト会議会員の小鷲順造さんはDaily JCJのブログ記事で、
 
「人間として、人間らしい生活をおくる権利を、土足で踏みにじろうとしてやまない自民党。近代・現代社会の歩みも解さず、平和主義、民主主義、人権尊重の基本理念をかなぐり捨てて、日本社会が自ら大国の属国化の道を歩み、自分たちはその領事か何かにおさまって勢力の「安泰」を図ろうとする自民党。自ら対米従属(それも一部の勢力に偏して)の道を突き進み、もはや時代遅れもはなはだしい「弱肉強食」の路線を模索してやまない自民党。」
 
「現在でも不備や、受給制限が露呈しており十分ではない生活保護制度を、さらに改悪しようとすることは、そのまま日本の未来への投資、未来への可能性を断ち切ろうとする自殺行為に他ならない。」

「この動きは自民党の「改憲」=「壊憲」(水島朝穂)に直結した「壊国」の策動以外の何物でもない。「壊国」を先行させて「壊憲」への足場とするような目論見を、断じて許すわけにはいかないのである。」(「生活保護法」改悪に象徴される「壊国」は、「壊憲」への足場づくり(Daily JCJ 小鷲順造 2013年6月2日))

と「弱肉強食」の路線を突き進む自民党政府を厳しく批判していますが、「弱肉強食」の路線を突き進んでいるのはただ自民党一党だけではありません。民主党、日本維新の会、公明党、みんなの党、生活の党もこの「弱肉強食」路線の「生活保護法」改悪法案に賛成しているのですから、これらの政党もこぞって「弱肉強食」路線の党として強く批判されなければなりません。

和光大学教授でジャーナリスト(元朝日新聞記者)の竹信三恵子さんがWEBRONZAに「AKB48丸刈り謝罪、ブラック企業論からの検証を」という論攷を発表されています。

先の記事で「ブラック企業」の問題に触れたついでに竹信三恵子さんのAKB48丸刈り謝罪に関連しての「ブラック企業」考もご紹介させていただこうと思います。

img_1598063_49561747_0.jpg

AKB48丸刈り謝罪、ブラック企業論からの検証を
(竹信三恵子 WEBRONZA 2013/02/06)

AKB48の峰岸みなみさんの丸刈り謝罪に、AKBよ、お前もか、という思いにとらわれている。この事件についてはさまざまな疑問の声も上がっているが、特に気になるのは、今回の事件に、日本のブラック企業文化の影が色濃く感じられことだ。

「ブラック企業」は、社員に過剰な労働を強いたり無理なノルマを課したりして、うつなどの深刻な健康障害や、過労死を引き起こすとして問題化している。今回の丸刈り謝罪は、これらの企業を生む文化的土壌と、次の3点で共通している。

まず、働き手が、仕事のためとして、自傷行為にまで及んでいることだ。ブラック企業についての相談では、社員への罰として社長が社員の髪を切ったり、ノルマを達成できないなら死んでわびろとどなったりするなど、仕事の失敗を社員が体の損傷であがなうことを当然視する例がしばしば見受けられる。今回の丸刈り謝罪でも、「仕事の責任をとるために体を傷つけてもしかたない」という主張が映像を通じて大々的に流され、AKB側もこれを阻止しなかった。

しかも、そうした自傷行為が、「商品だからしかたない」と受け手から「評価」される異様な事態も生まれている。たとえば、朝日新聞2月2日付記事では、この事件にからんで、「事務所にとってアイドルは商品。ブランドコントロールは何よりも重要」として正当化する広報コンサルタントの談話が紹介されている。ここには、体を傷つけずに働ける職場環境を目指す安全衛生の思想や、「労働は商品ではない」という国際労働機関(ILO)の人権の基本はかけらも見えない。

次の共通点は、「組織が命令したわけではなく、当人が勝手に決めたこと」として、組織の責任が不問に付されていることだ。2月1日付朝日新聞朝刊「働く」の欄では、2006年、27歳で亡くなったシステムエンジニア、西垣和哉さんの事例(リンク引用は引用者。以下同じ)を取り上げている。この業界では、人件費節減の中、一人が休むと周囲の仕事が過重になってみなが連鎖的に倒れる「デスマーチ(死の行進)」が頻発し、西垣さんはこれを心配して休めず働き続けたという。熊沢誠・甲南大名誉教授は、このような日本企業の労務管理を「強制された自発性」と呼ぶ。過労死するような働き方を働き手が自発的に行うよう強制することだ。

AKBでは昨年、異性との交際が発覚したメンバーが九州に「左遷」されたとして話題になったが、こうしたみせしめ人事が横行する中で、丸刈りにでもならなければ追い出されるという「強制された自発性」が働いた可能性は否定できない。だが、そうした組織の無言の圧力は「責任感の強いメンバーの自己責任」の言説に、隠されてしまっている。

最後の共通点は、20歳にもなった女性に「恋愛禁止」を言い渡す子ども扱いや、そうした個人の私生活への強い介入の中身の妥当性は問われることないまま、「事前に約束したはず」として、絶対服従を求めていく組織のあり方だ。

ブラック企業では、寝袋を職場に持参させ、仕事が終わるまで返さないといった私生活への極端な介入・管理がしばしば起きている。そんな職場に疲れ果て、退職したいと言うと「正社員として無期雇用で働くと約束したはず」として、やめさせない例が聞かれる。契約の妥当性は問わず「約束したんだから」の一点張りで服従を強いて行く手法だ。「約束したはず」によって公序良俗にもとるような管理が横行するブラック企業の内部に通じる。

ブラック企業は、一部の特異な業界の現象ではない。働き手の暮らしより会社を優先し、「自発的な貢献」を強要する日本企業の労務管理の特質が、市場環境の過酷化や経営者・管理者の力不足の下で極端な形をとって噴き出したものだ。今回の丸刈り謝罪事件は、こうしたブラック企業文化が、エンターテイメント業界という職場で、いびつな花を咲かせたといえそうだ。これを単なるアイドル論としてはやしている限り、目的達成のためには人間の体を傷つけても(ときには死んでも)かまわないという体罰肯定文化と、そうした文化的土壌を背景にしたブラック企業的な働かせ方から脱却することは難しい。その意味で、今回の事件について、ブラック企業文化論からの再検証と論議を期待したい。

 注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。


「『福祉のパラドックス』を打破するために」の第3弾(注)としてブログ「すくらむ」紙の「生活保護改悪は福祉のパラドックスで『本当に困っている人』さえ救えずブラック企業を増大させる」(2013-02-22)という記事の中で紹介されている唐鎌直義氏(立命館大学教授)の「福祉のパラドックス」に関する講演(要旨)記録を転載させていただこうと思います。唐鎌氏のチャールズ・チャップリンの幼年時代の新救貧法(英国)と現在の「生活保護バッシング」(日本)の類似性の指摘についてはとりわけ感銘を受けました。

200px-Chaplin_The_Kid.jpg
貧しくとも逞しく- 『キッド』のワン
シーン。
ジャッキー・クーガンと。
(『チャールズ・チャップリン』より)


「福祉のパラドックス」とは、唐鎌氏によれば、「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるという意味のようです。私の問題意識とも重なりますのでこのネーミングを私の今回の随時連載記事の標題としても活用させていただくことにしました。


なお、記事中の注(リンク)は読者の参考用として引用者が任意につけました。

注:(1)「福祉のパラドックス」を打破するために(1) ――日本共産党の安倍
   内閣の「インフレターゲット(物価上昇目標)」論への対抗政策としての「賃
  上げターゲット」論(賃上げ・雇用アピール)の提起
(弊ブログ 2013.02.16)

    (2)「福祉のパラドックス」を打破するために(2) ――ある農学生命科学研
   究者の「『ロスジェネ』の味方となる政党待望論」もしくは「『非正規雇用全
   面的禁止』規制論」
(弊ブログ 2013.02.16)

生活保護改悪は福祉のパラドックスで『本当に困っている人』
さえ救えずブラック企業を増大させる

唐鎌直義 すくらむ 2013-02-22)

 いまの日本における生活保護バッシングは、1830年代のイギリスの産業革命期の社会保障にまで後退させかねない危険性を持つものです。

 1834年にイギリスで成立した新救貧法の特徴は次の4つです。

 1つは、労働可能な人間に対する救済はすべて拒否。結果、どんなに悪い労働条件でも労働者は受け入れるほかないという惨状が広がりました。今で言えばブラック企業天国のような労働市場になってしまったのです。

 2つは、被救済者の地位は、働いている人間の中の最下層の生活水準以下にする「劣等処遇原則」を貫くこと。

 3つは、「本当に困っている人」のみを救済するため、劣悪な環境の救貧院に入ること=ワークハウス・テストを実施すること。

 4つは、全国で統一基準の救貧法運営が行われるよう救貧教区の合併、中央集権化をはかること。

 この新救貧法によって、貧困は犯罪と同列とみなされ(強調は引用者。以下同じ)バスティーユ監獄にもたとえられた貧民収容所の惨状をもたらすことになりました。

 チャールズ・チャップリンは、ロンドンの母子家庭で育ち6歳のときに救貧院に収容されています。2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続けた母親は精神を病み、それでも新救貧法の適用を受けることを拒み続けましたが、家賃の滞納が続いたため大家が警察に通報し、母子別々に収容され、母親は救貧院で亡くなります。

 チャップリンの母親は、なぜ2人の息子に食べ物を与えるために、自分は食べずに我慢し続け精神を病んでまで、新救貧法の適用を受けることを拒み続けたのでしょうか?

 それは、「本当に困っている人」だけを選別して救済しようとする新救貧法で、誰しもが「国家公認の貧民」になって辱めをうけることだけは避けたいと思ったからです。

 「本当に困っている人」だけに新救貧法が限定されたとき、人間としての尊厳を大切にする人ほど、どんなに困窮しても新救貧法を受けたくない、「国家公認の貧民」というレッテルを貼られたくないと強く思うことになってしまうのです。

 こうして新救貧法は、絶望的な困窮に陥っている人でさえ二の足を踏む、できる限り回避すべきものとならざるをえません。これを「福祉のパラドックス」と呼びます。「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるということです。

 それでは、なぜいま生活保護バッシングが日本社会で吹き荒れているのでしょうか? それは健康で一定頑張って働くことができる人たちが生活保護の受給を自分とは永遠に関係のない他人事と考えているからではないでしょうか。しかし、自分が本当に困ったときのことを考えてみる必要があります。困窮し、生活保護の受け手になるほかないような自分を真剣に想像してみてください。

 そもそも、日本には生活保護を受給することに対する根強いスティグマがあります。ヨーロッパでは、このスティグマをなくすために、福祉を「選別主義」から「普遍主義」へと転換してきました。「普遍主義」の福祉というのは誰もが当たり前のように受けられる公的サービスです。たとえば日本ならば「義務教育」を受けることは当たり前の「普遍主義」になっていますから誰もスティグマを感じたりしないわけです。逆に貧困を救済できなかったイギリスの新救貧法はまさに「選別主義」だったわけです。

 フランスにはRMIという「参入最低限所得制度」があります。「参入」というのは、労働市場への「参入」を意味していて、劣悪な労働条件の仕事には就かないことを選択可能にする国が最低生活を保障する福祉制度です。とりわけ、若者の労働市場への「参入」を支える所得保障制度は、雇用の劣化をストップさせる効果を持つと同時に、「失業者」も、所得保障による「保護受給者」も、いま働いている労働者の雇用劣化をストップさせるという一つの社会的地位として受け容れる社会をつくっているわけです。

 いまの日本は、非正規雇用とワーキングプアの増大、そして正規雇用でもブラック企業の横行などによって「働いたら普通に暮らせる社会」になっていません。こうした雇用の劣化を放置したままで、生活保護バッシングをして、「働けるのならば、働け」と、国民に「自立」を求めるこの国の社会保障制度では、孤独死・餓死・自殺などの悲惨な多くの事件を未然に防ぐことはできないのです。
先のエントリでは共産党の「賃上げターゲット」論をご紹介しましたが、その論とも関連して今度はある農学生命科学研究者の「『ロスジェネ』の味方となる政党待望論」もしくは「『非正規雇用全面的禁止』規制論」をご紹介させていただこうと思います。この研究者の底冷えするような雇用不安と非正規雇用の拡大への怒りはほんものです。ほんものだからこその「非正規雇用全面的禁止」規制論です。
 
この研究者にあるのは経済学者の視点ではなく、マクロもミクロも関係のない生活者としての視点です。それで十分ではないでしょうか。生活者としての視点こそが真に経済学的な視点、といえなくもないのです。いや、そういうべきでしょう。日本の太平洋戦争後、すなわち敗戦後初(1946年)の東京の宮城前広場に50万人が集まったいわゆる食料メーデ(戦後第1回目)のスローガンも働けるだけ喰わせろ」「米よこせというものでした。考えてみれば(いや、考えるまでもなく)「日本の歴史上最大の民衆運動」といってよいあの1918年の米騒動も文字どおり米よこせという大衆の運動でした。

ゆふいん文化記録映画祭 
「米騒動」と「白虹事件」(1918年)とのかかわりについて熱を
込めて語る筑紫哲也さん(後ろ向き)。左隣は『水俣』の映画
監督の土本典昭さん。ゆふいん文化・記録映画祭(2006年)。
       (撮影/由布院・亀の井別荘 中谷健太郎さん)

「経済」というのは私たちの生活のことなのです。

以下、東京大学大学院農学生命科学研究科准教授の川島博之さんの「『ロスジェネ』の味方となる政党は現れないのか 規制緩和では豊かになれない」という論攷のご紹介です(ところどころに私の注を入れています)。

「ロスジェネ」の味方となる政党は現れないのか
規制緩和では豊かになれない

(川島博之 JBpress 2013.02.12)

1月31日、厚生労働省は2012年の給料(残業代やボーナスを含む額)が月額にして31万4236円になり(引用者注:「へぇ、平均給料がこんなにもあるの」と思った人も多いでしょう。ここになんらの注もないのはこの記事の筆者が東京大学大学院准教授という恵まれた地位にあることと関係なくはないでしょう)、これは1990年以降の最低であると発表した。ここまで賃金が低下した理由として、賃金が安いパートの割合が増えたことを挙げている。パート労働者が全体に占める割合は28.75%にもなっている。

一方、2月1日、総務省は製造業就労者人口が1000万人を割り込んで998万人になったと発表した。製造業就労者が全労働者に占める割合は16%でしかない。この厚生労働者と総務省の発表は無関係のようにも思えるが、実は深く関係している。

日本の産業構造は大きく変化している。高度経済成長を支えた製造業はアジア諸国の追い上げに苦しんでいる。韓国、台湾、中国をライバルだと思っていたが、昨今はASEAN諸国の製造業も急速に発展している。もはや、よほどのハイテク製品でない限り、日本製が安価なアジア製に太刀打ちすることは難しい。そのことは、パナソニックやシャープの苦境がよく表している。

製造業はリストラに忙しい。その結果、職を求める人々はサービス業に流れている。バブル崩壊以降に就職した、いわゆる「ロストジェネレーション」(ロスジェネ)(引用者注:私の息子、娘たちも「ロスジェネ」世代です。長男はいわゆる某一流国立大学を一応卒業しましたが、職がなくいまはお菓子屋の店長をしています(もちろん、お菓子屋が悪いというわけではありませんし、このお菓子屋で出会いがあっていまは夫婦になっていますからそれはそれでいいのですが)。末の娘も大学を出て3年になりますがいまだに就職浪人の身の上です。長女だけは一応新聞社に受かっていまは新聞記者をしています。子どもたちの中では一番高給取りです)の多くはサービス業で働いている。

そのサービス業には非正規雇用が多い。チェーン店化した飲食業やコンビニはバイトによって成り立っている。そしてサービス業でパート労働が一般化したことによって、平均給与が下がり続けている。これが、厚生労働者や総務省の発表したデータの根底にある現象である。

規制緩和で非正規雇用が増え、給与が下がり続ける

そんな日本で、アベノミクスが進行している。アベノミクスでは第1の矢が大胆な金融緩和、第2の矢が大幅な財政支出、そして第3の矢が新しい産業の創出である。

ここで気になるのが第3の矢だ。安倍政権は大胆な規制緩和によって新たな産業を作り出そうとしているが、それはできるのであろうか。

規制緩和による産業の創出は小泉政権でも言われたことであるが、いまさら言うまでもないが、小泉改革によって新たな雇用が生み出されることはなかった。おそらく、規制緩和によってハイテクを用いた未来産業が作り出されることを夢見ていたのだろうが、そのようなことはなかったし、今後もないだろう。

それにもかかわらず、新自由主義が金科玉条に掲げる規制緩和を政策の中心に置いていると、多くの労働が正規から非正規に換わってしまう。そして非正規雇用が増えるために、給与が下がり続ける。

そのような状況を見るにつけて、非正規雇用を全面的に禁止する強い規制を導入する必要がある(強調は引用者)と思う。

もちろん、そんな規制を行えば、経営者は雇用を減らすから、失業率を一気に高めることになる。それは、経済学を知らない者の暴論だとの批判があることは十分承知している。だが、政治は経済学とは異なる。学問的には間違っていると言われても(引用者注:私は「学問的」にも間違っているとは思いませんが)、自己の利害を強く主張することが政治である。

ロスジェネが低賃金で働くのは老人のため?

既にロスジェネは4000万人にもなっている。そして、今後ますます増え続ける。彼らの多くはパートで働き、また、たとえ正規社員になっても、中高年に比べて安い給料で、こき使われている。

本来、そのようなロスジェネの意見を汲み上げて、過激と言われようが、パートの禁止や同一労働同一賃金を党の綱領に掲げる政党が出現してもおかしくない時期に来ている。しかし、ロスジェネが政治に関心が薄く投票に行かないことを背景にして、これまで、ロスジェネの利害を代弁する政党が生まれることはなかった。

自民党は経団連や農民を支持基盤の中核に据えている。一方、民主党は連合に代表される労組を支持基盤にしている。自民党は保守党であるから、経営者の立場に立って規制緩和を推し進めることは理解できる。しかし、本来、社会民主主義的な政党であるはずの民主党が公務員労組や大企業の労組の立場に立ってしまい、 ロスジェネの待遇改善に興味を示さなかったことは、まことに残念なことであった。

どちらの政党の支持者も老人が多いから、ロスジェネをパートとしてこき使うことによって、自分たちが利用するファミレスやコンビニの物価が安くなればよいと思っている。老人が年金を使い切ることなく、その多くを貯蓄に回すことができるのは、低賃金で働くロスジェネがいればこそである。

そして、老人の貯蓄が銀行預金を通じて国債を買い支えているのであるから、ロスジェネが低賃金でこき使われていることは、財政が破綻しない理由にもなっている。

新自由主義を掲げるみんなの党はパートの立場に立つ政党ではない。それはパートを使って事業を立ち上げることができる頭のよい強者のための政党である。日本維新のイデオロギーもみんなの党に近い。

規制緩和が日本社会に与える負の側面

規制緩和を進めて、新たなサービス業が起きると、英雄になれるほんの一握りの経営者と、多数の非正規雇用が生まれることになる。それによって、ますます低賃金でこき使われる若者の数が増えるから、消費が伸びることはない。出生率も改善されない。多くの人は、規制緩和が日本社会に与えている負の側面を軽視しすぎている。

そもそも政治運動とは非理性的なものである。資本主義に追い込まれて、どうしようもなくなった労働者が社会主義政党を作った。当初、社会主義政党は非合法とされて弾圧されたのだが、それは20世紀の歴史を大きく動かすことになった。

そろそろ、ロスジェネを支持基盤にした政党ができてもよい頃だと思う。その政党は、全ての労働者を正規雇用にしなければならないと主張する。すぐに正規雇用にできないのなら、パートにも失業保険を、健康保険を、大企業や公務員並みの退職金や年金を、同一労働同一賃金は先進国の常識だ、と強く主張する。

労働条件に関しては、徹底的に規制強化だ。そして、20世紀の革新政党が掲げていた護憲や反原発、反米にはこだわらない。

21世紀の日本には、そのような政党が絶対に必要である。ロスジェネを支持基盤にした政党がないために、昨今、政治に関する議論が空を切っているのだと思う。

注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。

共産党の志位委員長は昨日の14日に国会内で記者会見し、同党独自の「賃上げターゲット」論(賃上げ・雇用アピール)を発表しましたが、多くの金融経済のスペシャリストからも批判の頻出している行き先危うい自民党・安倍内閣の「インフレターゲット(物価上昇目標)」論が闊歩する一方で、底冷えするような賃下げと雇用不安、非正規雇用の拡大という勤労者サイドにとって二重、三重の経済的苦境が吹き荒ぶ日本社会の現状の中できわめて時宜と道理に適った雇用・経済政策のオブジェクションの提起だと思います。      

     2007122901_02_0.jpg
(しんぶん赤旗 2007年12月29日付)

20121125190545.jpg 
(しんぶん赤旗 2012年11月25日付)


下記の産経新聞と朝日新聞の記事は珍しくまさに要点をついたショート記事だといえるでしょう(「賃下げ」への危機感はマスメディアで働く記者、サラリー(ウ)マン諸氏にも及んでいるということでしょうか?)。 
  
“賃上げターゲット”論を提言 共産党、企業内部留保切り崩し求め(産経新聞 2013.2.14)

共産党の志位和夫委員長は14日の記者会見で、デフレ不況からの脱却には賃上げによる内需拡大が不可欠だとして、政府に月額1万円程度の「賃上げ目標」を設定するよう求めた。/志位氏は「大企業が内部留保のわずか1%を取り崩せば、約8割の企業で月額で1万円の賃上げが可能だ。内部留保の一部活用を経済を好循環に乗せる突破口にすべきだ」と強調した。/「賃上げ目標」を掲げ、企業に内部留保の活用を強く要請するとともに、(1)正社員化の促進(2)最低賃金の引き上げ(3)地方公務員給与引き下げの中止-などの政策を実施するよう政府に促した。

賃上げ要請、志位氏「欧州ではどの国でもしている」(朝日新聞 2013年2月15日)

■志位和夫共産党委員長

安倍晋三首相が経団連に賃上げを要請したのは「利益が出た企業は、賃金に多少回してくださいよ」と腰を引いて言っただけ。「(労働者の賃金に回すことは)もっと出来るはずじゃないですか」と言うべきだった。「それは共産主義の国でなければ出来ない」と言った人もいるようだが、ヨーロッパではどの国でもしていることだ。財界がひどいリストラや首切りをするようなら、政府が介入してやめさせている。(記者会見で)

賃上げと安定した雇用の拡大で暮らしと経済を立て直そう
志位委員長が記者会見 共産党が「働くみなさんへのアピール」

(しんぶん赤旗 2013年2月15日)

日本共産党の志位和夫委員長は14日、国会内で記者会見し、「働くみなさんへのアピール 賃上げと安定した雇用の拡大で、暮らしと経済を立て直そう」と題した党の“賃上げ・雇用アピール”(全文)を発表しました。山下芳生(よしき)書記局長代行が同席しました。


志位氏は、賃下げが続き雇用不安が広がり続ける日本社会の現状が世界の流れからみていかに異常かを紹介。賃金が連続的に減り続け、最低賃金が最低水準で、非正規雇用の割合が異常に高いなど、世界の流れからみて二重三重に異常だと指摘し、労働者の生活実態からみても賃上げは当然の要求だと述べました。

賃下げと非正規雇用の拡大はデフレ不況の悪循環の元凶となっていると述べ、働く人の「使い捨て」は産業の競争力さえも脅かしていると批判。大企業がため込んでいる内部留保の多くは有価証券など換金可能な資産の形で保有されており、その1%程度で大きな賃上げを実施できることを表(別掲)で具体的に示して、賃上げと雇用の安定がデフレ不況打開の一番のカギだと述べました。

企業の経営者には、目先の利益や株主への配当だけでなく、「日本経済の成長の中で業績の回復をはかる」視点が必要ではないかと提起しました。

志位氏は、政府が「企業まかせ」にせず、「インフレターゲット(物価上昇目標)」ではなく「賃上げターゲット(目標)」をもち、それを実現する政策を実行するときだと主張。▽賃下げなど財界の間違った行動をただす▽違法・脱法の退職強要・解雇・雇い止めを根絶する▽賃上げを促進する政策をすすめる―ことを提言しました。

そして、日本経済後退と所得減少の根底には国民の暮らしを守るルールがないか、あっても弱いという問題があるとして、人間らしい暮らしと働き方を保障する「ルールある経済社会」への転換が日本経済を土台から強くする道だと強調しました。

志位氏は、「このアピールをもって労働者、労働組合、経済団体に働きかけていきたい。もちろん政府にも提起していきたい」と述べました。「消費税や社会保障では立場の異なる人々もふくめて、賃上げの“一点共闘”を広げようという思いでつくりました」と紹介しました。

衆院予算委員会での笠井亮議員の質問に対し、麻生太郎財務相が「内部留保をためこんでいるマインドが一番問題」と応じた(強調は引用者)ことも紹介し、「そこまで認識が一致するなら、内部留保の活用でデフレ不況から脱却することを、経済界に対して本腰を入れて要請すべきです」と強調しました。
(以下、略)

注:「福祉のパラドックス」とは「本当に困っている人」だけを救済しようとする福祉は、「本当に困っている人」さえも救済できなくなるというパラドックスのことをいいます。