「共産党(中国共産党)ってなんだろう?」の第3回目も阿部治平さん(元高校・中国外国語学校教師)の論攷から。「テロと焼身自殺が終わらないもう一つの理由」。その「もう一つの理由」は中国共産党の組織内部に伏在する根深い「汚職蓄財」体質。おのれの野心と蓄財のために「中国の高級官僚が対立と緊張をわざわざ製造し、それを利用」する、とはどういうことか。中国・チベットの語学学校の教師として長年月を重ねてきた阿部治平さんの体験と見聞に耳を傾けたいと思います。

ラサのポタラ宮殿 
ラサのポタラ宮殿
 
 
現代中国では、地方政府に対する抗議(暴動)が毎年20万件くらいあるとみられている。これはいまに始まったことではない。
 
清国の最盛期、康熙・雍正・乾隆の時代にも多くの民衆叛乱や盗賊集団があった。もちろん放ってはおかない。だがいくら討伐しても叛乱や盗賊は減ることがなかった。減らないわけを清代史家の増井経夫先生はこう書いている。
 
「討伐軍の諸将が軍費を着服して軍隊を動かさず、官兵は給与の不渡りから略奪を働き、民衆は叛乱軍よりも官兵を恐れ、将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした。中には反乱軍を避けてその後尾だけを追撃し、(乾隆帝の寵臣)和伸の一族で、河南巡撫の景安などは、尾追(ママ)ばかりで迎撃しないので迎送伯と呼ばれた。そのうえ、降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした……(『大清帝国』第三章)」
 
ここで重要なのは「将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした」というところと、「降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした」というところである。現状は清朝最盛期にびっくりするほど似ているのに、私はテロや焼身自殺のこの側面を書いてこなかった。
 
新疆の特攻的テロが頻繁になる前は、チベット人地域は新疆よりも緊張していた。中央政府は「安定(「穏定」)がすべてを圧倒する」として、チベット自治区の反政府勢力を抑えるためなら、カネに糸目はつけなかった。統計によれば、1965年から2005年までの40年間にチベット自治区への財政投資は累計で968.72億元に達した。1993年から今日まで中央財政はチベット自治区歳入の90%を負担してきた。
 
いうまでもなく今日その「不穏定」の程度は、チベットと新疆が入れ替わっているが、新疆を考えるときの参考までにチベットの様子を語ることにする。
 
中国政府による「チベット支援」の事業がある。内地東部の比較的豊かな省や市がチベット自治区のあれこれの分野や地域を分担して人員・資金の援助をする。こういえば経済的援助が重視されているように見えるかもしれないがそうではない。「蔵独」勢力を抑えることが第一だ。「蔵独」とは、チベット人地域の独立ないしは高度自治を目指す勢力をいう。ついでにいえば「疆独」は新疆のチュルク系民族勢力で、ウイグルが主力である。
 
1959年のダライ・ラマのインド亡命以後、チベットはとんでもない「落後」地域で、暗黒野蛮腐敗の人間地獄の社会だったと宣伝されていた。だから、援助だといっても喜んで行く人はいなかった。そこで当局は「援蔵幹部(チベット支援者)」を優遇することにした。最初のころ、率先して行った人は表彰もの、現地で亡くなったりしたら英雄扱いされた。
 
優遇措置の内容は、「援蔵幹部」の出身の省・市、あるいは職場の条件と財力によって多少のでこぼこがあるが、まず「援蔵幹部」の官僚の位がワンランク上がる。8年から10年で一階級上に行くのがようやくの人でも、チベットで3年我慢すれば手っとりばやく昇進できた。中央官庁のある「援蔵幹部」は、チベットに行く前には「副処長(日本でいえば課長補佐かな)」だったが「処長」になり、さらに任期延長によって「副局長」レベルの幹部になった。
 
賃金は2ランク上がる。任期が終わってもこのレベルに変りはない。電話設置・電話代は公費負担がふつうだ。なかには「援蔵幹部」に30万元を支給した省があるが、これは1980年代から90年代にかけての一般労働者の30年分の賃金に相当した。
 
チベット赴任によって、住宅問題・配偶者の就職・戸籍の農村から都市への異動・子供の進学就職など「中国の特徴のある」各種の問題はたいてい解決できた。
 
「援蔵幹部」の任期はだいたい3年。規定では1年半ごとに5ヶ月以上の休暇がある。これは官僚のレベルによって長くなる。1ヶ月の往復期間が加わる。往復旅費は公費負担。だから2年目は大半を勤務しなくても怒られない。3年目は早々に内地に戻る準備で心はチベットにはない。
 
2013年に至ってもこの優遇措置は変らない。ただ賃金増額は月1000元にとどまっているようだ。あいかわらず大量の建設資金と人材が必要だということになっていて、毎年1000人の大卒者をチベットに送っている。
 
彼らはみな党と政府系統の実権を掌握する。上は自治区の一級官僚で、各庁・局の枢要の地位を占める。その下は各地区と県の責任者で、党書記・副県長などになる(ここで副県長というのは、「自治区」のたてまえから県長職にチベット人をすえるからである)。それより下もいるだろうが私は知らない。
 
彼らは内地にいた時より権限は大きく影響の及ぶ範囲も広くなる。たとえば銀行関係の「援蔵幹部」は、ある内地の金庫製造会社と特約し、チベットの各銀行(支店)の金庫を全部指定の金庫にとりかえさせたという。
 
1980年代半ばまで、胡耀邦という人が中共中央総書記だった。今の習近平の地位である。チベットを視察したとき、彼はチベット人のあまりの貧しさに驚き涙を流した。幹部を集めて「君たちは、中央からの多額の援助をどう使ったのか、ヤルンザンボ川に流したのか」と怒った。中央からのカネは川には流れず、「援蔵幹部」とそのとりまきのポケットに流れ込んだのである。
 
もちろん、いいことばかりではない。第一、チベットでは高地順応ができないと病人になるか死に至る。賃金は高いが、2013年で物価が内地の2倍以上ともいう。ラサでは塩卵1個1元、トイレットペーパーはひとつ6,7元、入浴料は1回60元である。
 
だが、権力欲と物欲を適度に満足させることができた人々にとっては、こんな快適な境遇は内地では得られない。この状況を長期に維持し蓄財するためにはなにが必要か。
 
まず「蔵独」が攻勢に出て、政治情勢が緊張していなければならない。さもなくば予算は回ってこない。これは現地だけではない。中央の民族委員会なんかも同じだろう。ダライ・ラマの国内外への影響力が大きくなればなるほど、チベットの「不穏定」を中央に訴えやすくなる。乾隆帝時代の「将軍は叛乱の鎮圧より叛乱の継続の方が自分の仕事が続くものとした」のと同じである。治安の乱れはカネのなる木であり、これによって「援蔵幹部」の栄華、富貴も永続するのである。
 
もし中共中央がダライ・ラマや亡命政府との関係を改善する方向に動いたら、反「蔵独」で飯を食っている連中は、上は上なり下は下なりに失業を恐れてびくびくしなければならない。だからこの方面の高級幹部は、おおげさに「ダライ分裂勢力」の拡大を訴え、これとの妥協なき戦いを叫ぶのである。現在ただいま少数民族政策が文化大革命時代とあまり違わないのは理由のないことではない。(以上、主に中国政府高官だったチベット人マルクス主義者プンツォク・ワンギェルと、王力雄著『天葬・西蔵的命運』による) 
 
昨日のチベットは今日の新疆である。
 
特攻テロがあればあるほど、カネは新疆に流れる。テロがなければ「降服者を皆殺しにして賊を殲滅したと報告して軍功とした」状況を作るまでだ。
 
ウイグル人がジープや刀や鉄砲で政府機関や市場に突入するなどは、いうまでもなくテロであろう。だが小さな事件でも、まわりにいる無辜の民を大量に逮捕、投獄、あるいは射殺して、これを「疆独」を鎮圧したとすれば、「不穏定」状態が維持されるうえに、めざましい業績をあげたことにもなる。
 
結婚式の準備に集まった人びとを「疆独」とみなして女性を含む十数人を射殺したり、ウイグル人女子中学生ら25人をスカーフを外すことを拒否したとして拘束したのは、意図的につくられた「不穏定」状況のわかりやすい例である。
 
最近の大きな事件では、5月のヤルカンドのテロで37人が死亡、テロ分子59人射殺、数百人を逮捕。8月ホータン事件では暴徒9人を射殺、1人拘束という。報道が厳しく統制されているから真実はわからない。習近平総書記の激励に応えたのか、警察と武警と兵隊がやたらとウイグル人を射殺するのが特徴だ。死人に口なしというが、こうしてことを大きくしているのではないかという疑いは晴れない。

今日中国の高級官僚が対立と緊張をわざわざ製造し、それを利用して上下を問わず汚職蓄財を繰返すのは、決していまに始まったことではない。またその腐敗は少数民族地域だけで行われるものではない。国民党時代にもあった。清朝時代にもあった。いや千年を数える昔からあった。これは専制政治が必然的に生み出したものである。したがって専制政治が終わるまでゆるぎなく続く。
「共産党(中国共産党)ってなんだろう?」の第2回目は阿部治平さんの論攷「チベットはどうやって中国領となったか」の問いから。「左翼はここまで衰弱したのか? ――『いまから県立大学を作る愚かしさ』という論攷と阿部治平さんの悲嘆」の問いにつながる問いということにもなるでしょう。
 
チベットの少女 
チベット人の少女
 
1949年の中国革命から65年を経た今日、中国共産党の政治・経済・
社会政策とりわけ少数民族政策を見ると、あの広野を血に染めた革
命戦争はいったい何のためだったか、いま原点にかえって冷静に見
なおす時期が来たことを感じる。
革命をやったのは本当に労農人民
の利益を代表する集団だったのか、中共はプロレタリアートの利益を
   いまも代表しているのかと。
 
チベットはどうやって中国領となったか
(阿部治平「リベラル21」2014.10.15)
 
早逝したチベット共産党
 
少数民族地域の革命は、少数民族ではなく人民解放軍によってなされた。この内容を少し検討したい。チベット人地域についていえば、青海・四川・甘粛・雲南などの国民党系軍閥に支配された地域は1949年までの内戦に中共が勝利することによって、ラサ政府支配地域は51年の解放軍の進駐によって革命なるものが完成する。ではチベット人の革命運動はなかったかというとそうではない。
 
チベット共産党は1943年第二次大戦中にプンツォク・ワンギェル(プンワン1922~2014)ら十数人によってラサで地下に結成された。彼らはダライ・ラマを至高の存在とする立憲君主制をめざし、カム(チベット高原東南部)では劉文輝、アムド(チベット高原東北部)では馬歩芳という軍閥の排除、ラサ政府地域では土地改革と民衆負担の軽減を求めた。また軍備を強化しなければイギリス・インド軍か国民党にやられるとし、第二次世界大戦に関しては、ラサ政府に中立政策をやめて連合国側に立つよう要求した。なかなか立派なものだが、残念ながらどの要求も無視された。
 
そのうちに彼らはいくら身分を隠しても、政府から危険分子として睨まれるようになった。1949年7月国民党ラサ代表部が出国を迫られると、プンワンらもインドへ追放された(「駆漢事件」)。彼らはインドから雲南北部に入りこみ、国共内戦中の解放軍と接触した。
 
彼らが解放軍将校にチベット共産党の身分を打ち明けて革命への協力を求めると、かえって党の解消と中共への組織替えを要求された。中共が天下を取ったら民主チベット国が生まれる、それは当然中国連邦の構成部分となる、「だからいいじゃないか」ということだった。この解放軍幹部はかなりの理論家だったらしい。
 
プンワンらは、独立した党の地位を簡単に捨てることはできなかった。激しい討論と躊躇ののちに、プンワンの決意でチベット共産党は中共のカムの一組織となったのである。
 
解放軍のカムとラサへの進撃
 
中共は建党以来民族国家を構成員とする中国連邦構想をもち、1947年10月の「解放軍宣言」まではこの政策を維持してきた。ところが49年9月新中国建国宣言の前夜、人民政治協商会議の「共同綱領」で突然連邦構想を放棄し、少数民族の独立から「自治」に転換した。
 
なぜ突如「独立」が否定されたか。1949年初めスターリンがミコヤンを派遣して中共にこれを忠告し、毛沢東が受入れたからだという説がある(胡岩「西蔵問題中的蘇聯因素」『西蔵大学学報』2006年第3期)。以後チベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの独立要求は、祖国の分裂をまねく「反革命」となった。
 
建国宣言の直後には西南を担当した第二野戦軍に対し「民族政策は共同綱領にもとづいて貫徹せよ。少数民族の『自決権』に関しては今日ふたたび強調してはならない」という指示を出した。それまで「独立」をチベット人に宣伝していたのは、内戦を有利に展開するためだったというのである。これはペテンを自ら告白するものだ。
 
ところが、チベット人が民族政策の変更を知るのは、この3年後である。独立の夢がついえたことも、「危険分子」と見られているのも知らないで、彼らは解放軍のラサ進撃に協力する一方、おおらかに独立の夢を語り中国連邦への参加を議論していた。このため数年後、独立を企む「地方民族主義者」として弾圧される。哀れというほかない。
 
1951年解放軍18軍はチベット人の援助のもと、チャムドで装備の貧弱なチベット軍を一蹴し、ラサ政府は「17条協定」を結ばざるを得なくなった。ラサに人民解放軍が進駐し、プンワンには「赤い軍隊をチベットに引き入れた赤いチベット人」という悪意をこめたあだ名が付けられた。こうしてチベットは英印軍や国民党軍ではなく、人民解放軍に屈服し「祖国の神聖な不可分の領土の一部」となったのである。
 
アムドの革命
 
解放軍が国民党軍とほとんど同じ蛮行を働いた記録がある。
 
中国西北の革命を担当した第一野戦軍の王震部隊は、1949年9月回族ムスリムの聖地甘粛省臨夏(河州)からラブラン(現甘粛省甘南蔵族自治州夏河県)に進撃しこれを占領した。まもなく地域の実力者ロサン・ツェワンを拘束し蘭州に連行した。彼は軍閥馬歩芳軍と戦った英雄であり、ラブラン大僧院寺主の5世ジャムヤンの兄だったから、ラブランのチベット人は非常なショックを受けた。
 
ここで行政に当ったのは陝西省北部解放区から来た漢人である。彼らはチベット人をぶん殴り、買春、収賄、裁判抜きの銃殺、没収した黄金・アヘン・銃などの私蔵、隠匿、横流しをやり、さらには有夫の婦人を横取りするなどやりたい放題をやってのけた。チベット人はこれに反発して食料供出などを拒否し、解放軍側通訳や工作員を殺す挙に出た(『中共夏河県党史資料』)。
 
1950年2月ラブランの解放軍は臨夏に引き返した。回族叛乱鎮圧のためである。叛乱は参加者1万人近く、死傷した漢回大衆千人余、住居を失って流浪したもの十万余、被害大衆30~40万人という大きなものだった。原因は解放軍にある。王震部隊は進駐するや、臨夏の金持に過大な食料の供出を命じ、国民党系のムスリムが「帰順」しようとするのを拒否して無条件降伏を求め、民衆の銃を強制的に取り上げた。捕虜を肉刑(手足の指を切るなど)に処し、回族の「犯罪者」を多数拘束、殺害した。さらに解放軍が組織した民兵は実に悪事を働いた(『甘粛統戦史要』)。
 
革命をどうみるか
 
少数民族地域に進撃した解放軍について、わが国の権威ある研究者は総じて中共寄りの記述をしている。
 
たとえば神戸大教授の王柯先生(新疆出身の漢人。この夏不幸にも中国でしばらく拘束された人)は、「新政権はチベット仏教の活仏とラマ僧、チベット政権の官僚、イスラームの宗教指導者であるアホン、モンゴルの王公、各地の土司土官や部族首領など旧来の社会上層部に対し、政治上においては適当な地位を与え」、また解放軍に抵抗をつづけた首長を十数回説得して帰順させたとか、果洛や玉樹では首長らに忍耐強い説得工作をしたなどという(『多民族国家中国』岩波新書)。
 
文化功労者で現代中国学の権威毛里和子先生も、「緩やかな社会改革によって、辺境の住民を新政権にひきつけ、民族融和をある程度実現することができた。非漢民族たちは旧社会とは違う『何か』を感じとったにちがいない」という(『周縁からの中国』東大出版会)。私の考えではいずれもほとんど間違いである。
 
王柯先生がいう、解放軍に執拗に抵抗したのは、チェンザ(青海省黄南蔵族自治州尖扎県)の首長ナンチェンである。説得にあたったチベット人「老紅軍(長征参加の中共党員)」タシ・ワンチュクは、ナンチェンをいくら説得してもらちが明かないものだから、最後は砲撃でけりをつけた。ナンチェン砦の中庭には砲弾が破裂した跡がある。果洛や玉樹でも、タシは解放軍の武力を背景に首長らを屈服させたのである。
 
王柯・毛里両先生のいう好ましい状況の記録もあるにはある。
 
たとえばニャロン(四川省甘孜蔵族自治州新龍県)の住民アテンは、初めて見る解放軍の友好的でおだやかな態度に感激し、新政権に加わった。略奪、強姦にはしることがあった国民党の兵隊とは雲泥の差があったからだ。ところが、中共に心酔したアテンも、やがてそのやり方に反発して叛乱に参加し、インドに亡命したのである(『中国と戦ったチベット人』日中出版)。
 
チベット人が「旧社会とは違う何かを感じ」取った時間はごくわずかで、しかも限られた地域であった。1956年に「民主改革(土地改革や寺院の特権剥奪)」と反右派(反地方民族主義)闘争が始まると、チベットの旧社会上層部はもちろん、知識人や活動家も逮捕、長期の投獄、拷問、銃殺という目に遭った。
 
革命見直しの時期
 
1949年の中国革命から65年を経た今日、中国共産党の政治・経済・社会政策とりわけ少数民族政策を見ると、あの広野を血に染めた革命戦争はいったい何のためだったか、いま原点にかえって冷静に見なおす時期が来たことを感じる。
 
革命をやったのは本当に労農人民の利益を代表する集団だったのか、中共はプロレタリアートの利益をいまも代表しているのかと。

想田和弘Twitter(2014年10月21日)

本音なんだろうけど、信じがたい 言。共産主義ってなんだっけ?→香港行政長官「選挙を民主化すれば貧困層に決定権」「住民が代表者を選ぶようになれば、香港の住民の半分を占める月収1800ドル以下の所得層が決めることになる」
http://on.wsj.com/1rZO7UX

引用者注
これで社会主義の国、共産主義をめざす国、などとよく言えるものだ。マルクス的に言えば、彼ら(共産党中央政府の幹部の面々。ここで言う「彼ら」の意はもちろん「彼女たち」をも含む)は「国際共産主義運動の破壊者」、「反革命の人」ということになるだろう。なお、香港問題の最終決定権を握っているのは北京の共産党中央政府。「首長である行政長官は職域組織や業界団体の代表による間接・制限選挙で選出されることになっており、その任命は中華人民共和国国務院が行う」(wikipedia『香港』)。

報道
香港行政長官「選挙を民主化すれば貧困層に決定権」(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2014 年10月21日)

【香港】香港の梁振英行政長官は20日外国メディアとの会見で、行政長官の選挙制度改革をめぐり、抗議行動を続ける民主派学生らの要求に応じ、住民が立候補者を指名できるようになれば、貧困層や労働者が選挙を左右することになるとの認識を示し、要求に応じることはできないとの立場を繰り返した。中国政府は、行政長官選に当たっては各界代表からなる「指名委員会」が立候補者を選定することを決めている。

梁長官は、住民が立候補者を指名するならば、平均月収1800米ドル(約19万2600円)以下の住民が選挙プロセスを支配する恐れがあると警告した。同長官は「住民が代表者を選ぶようになれば、香港の住民の半分を占める月収1800ドル以下の所得層が決めることになる」と述べた。香港は、所得格差が世界で最も大きい地域のうちの1つで、また不動産価格も世界最高クラスで、若者の間では不満が高まっている。

梁長官はまた、指名のプロセスがどのようなものでも中国政府は選挙の勝者を行政長官に任命するかどうかの権限を握っていると指摘し、「中国政府が勝者を受け入れられないとして、選挙をやり直すよう命じれば、香港基本法上の危機が生じる」と訴えた。

21日には香港政府と民主派学生団体の大学生連合会(学連)が、行政長官の選挙制度改革をめぐって初の対話を行う。梁長官は同対話への期待の高まりを抑えようと、政府は対話で直接指名が不可能との立場を繰り返すことを明らかにした。その一方で、「指名委を学生らに受け入れられるようにすることで妥協は可能だ」とし、指名委員会のメンバーをもっと幅広い層から選ぶ案で双方の一致点を見つけることができるとの考えを示した。現在は、指名委は親中国派や親ビジネス派で占められている。

梁長官は、中国政府はこれまでのところ香港政府が独自にデモに対応するのを認めているが、デモ隊が政府と衝突を続ければ、中国政府の姿勢は変わる可能性があると警告した。また、香港の経済格差や住宅価格の高騰に対する学生らの不満は理解しているとし、こうした問題に対処する政策を講じ続けると表明した。同長官は「住宅の不足問題は、若い夫婦が別々に暮らさざるを得ないほど悪化しており、これは容認できない」と語った。
政治学者の浅井基文さんがご自身のホームページの今年最初のコラム記事として『丸山眞男手帖』に収められている丸山の社会主義に関する認識を抜き書きされています。(「新年のご挨拶」)

その丸山の社会主義に関する認識について、浅井さんは次のように言っています。

「『手帖』に収められている丸山の発言において今ひとつ私が大きな関心を覚えたのは、その社会主義に関する認識です。「ソ連崩壊=社会主義破産」とする通俗的な理解に対して、丸山は極めて厳しい批判を行っており、社会主義こそがデモクラシー(略)と親和性(略)があるという認識を表明していることです。」

新しい年を迎えるにあたって、昨年古希の年齢に達した浅井さんは、「儲けること=利潤原理」を動機とする資本主義制度の根底的な制度的歪みと限界性を自身として再確認され、改めて民主主義としての社会主義の可能性に希望を託されているようです。

そのためには「ソ連崩壊=社会主義破産」とするがごとき世俗の通俗的な理解は主体的に払拭されなければならない課題というべきなのです。そのための丸山眞男の社会主義に関する認識の抜き書きだと思います。

以下、浅井さんが抜き書きする丸山の社会主義に関する認識のことばです。

「本来、言葉からいうと一九世紀の終わりまでは民主主義と社会主義という言葉は同義なんです。むしろ、自由民主主義、リベラル・デモクラシーという言葉は、非常に後からできた。立憲主義が社会主義の勃興に直面して、ウェルフェア・ステート、福祉国家の原理を取り入れた後にはじめて自由民主主義、リベラル・デモクラシーという言葉ができたのです。/冷戦で忘れられてしまったのですね。冷戦でアメリカとソ連の対立になっちゃったでしょう。そこで、今度はナチに対して用いられていた全体主義という言葉を、ソ連に対して用いるわけです。その場合の民主主義というのは、西側の民主主義です。西側の民主主義対全体主義。全体主義の中に共産主義体制はみんな入ってしまったのです。これは歴史的にいうと違うのですね、実際は。民主主義と社会主義が同義だった、むしろ。それがそうではなくなったというのは、やはりロシア革命なのです。だから、ロシア革命は歴史に残る偉大な成果なんだけれども、歴史の皮肉なんですね。いちばん立憲主義の伝統、自由主義の伝統、民主主義の伝統がなかったところに社会主義が行われた、そういう意味で。

…本当は違うのだけれど、プロレタリアートの独裁イコール共産党独裁。共産党独裁イコールスターリンの独裁。こういうふうに全部等式になってしまった。プロレタリアート独裁そのものは僕は多義的だと思うけれど、共産党独裁と同視されたというのはソビエトなんです、レーニンなんです。…

いかに資本主義が古典的資本主義と違っているか。つまり、労働者階級の運動とか社会主義運動があって、資本主義がものすごく変貌したんです。社会主義は学んでいないの、資本主義から。逆に資本主義は学び過ぎるほど学んじゃって、自分を変えたわけです。‥しかし、それでも僕は問題が残ると思いますね。

というのは、第一、社会保障というのは資本の原理からは出てこないわけです。儲けることを動機とするという生産の考えから、どうして社会保障をする必要があるのですか。あれは全部、労働者階級の運動を抑えるという動機で出てきた。資本家が、ブルジョアジーが、善意で社会保障をやったのでも何でもないんです。社会保障政策を-揺りかごから墓場まで-先進資本主義国でやっている。それは余裕があるということもありますけれど、実は社会主義から学んでいる。社会主義になると困るから、ということなんですね。‥それでもって資本主義が問題ないかというと、やはり利潤原理に立っている以上、生産というのは、要するに利潤のあるところ、儲かれば生産する。いまでも不必要な生産はものすごく多いんです、どこの国でも。社会的に必要がなのに生産されるものが、ものすごく多い。購買力さえあれば、生産されるわけです。資本主義の受給供給関係-需要というのは社会的必要ではないのです、購買力のある需要なのです。これを持っているものの需要なんです。…

世界的に見たら資本主義ですから、何十万人の幼児が一方では餓死している。他方では、余剰米を焼いているわけです。それは資本主義原理だからです。こんな矛盾はないじゃないですか。どうしてその余った米を飢えている子供にやれないのですか。これは資本主義だから、やれないんです。こういう体制がどうしていいと言えますか。僕は根本的な矛盾をはらんでいると思いますね。‥原理的に考えてご覧なさい。利潤原理と市場原理だけで、OKなのか。」(手帖33 「中国人留学生の質問に答える(下)」1989.6.26.)

「社会主義といわれると、広い意味では賛成でしたね。それは今でもそうです。だから、このごろ腹が立ってしょうがない、社会主義崩壊とかいわれると。「どこが資本主義万万歳なのか」ってね‥。日本というのはひどいね、極端で。二重三重のおかしさですね。第一にソ連的共産主義だけが社会主義じゃないということ。第二にマルクス・レーニン主義は社会主義思想のうちの一つだということ、それからたとえマルクス・レーニン主義が正しいとしても、それを基準にしてソ連の現実を批判できるわけでしょ、それもしていない。ソ連や東欧の現実が崩壊したことが、即、マルクス・レーニン主義全部がダメになったということ、それから今度はそれとも違う社会主義まで全部ダメになったことっていう短絡ぶり、ひどいな。日本だけですよ、こんなの。」(集⑮ 「同人結成のころのこぼれ話」1992.6.)

浅井さんは上記の丸山のことばを抜き書きした後、次のように結びます。

「丸山の社会主義(及び資本主義)に関する認識は、私が『ヒロシマと広島』で示した認識と共通するものです。今年のコラムでは、人類史の方向性を考えるという視点に立って、この問題についても注意を向けていきたいと思います。やはり、今の私たちに必要なことは、様々な問題について批判するだけではなく、日本、世界そして人類にとっての確かな進路を見極めることにあると思うからです。人類史の方向性について確信を持ちながら、この1年を希望を失わずに過ごしていきたいと思います。」