きまぐれな日々」ブログ主宰者のkojitaken氏が本日付けで「魚住昭、遅ればせながら孫崎享を痛烈に批判」という以下のような記事を書いています。
 
この件についてはkojitakenさんが指摘されるとおりだと思いますのでつけ加えることはありませんが、昨日、私は、いまの共産党の政治的スタンスを批判したばかりということもあって、そうそう、この件では共産党はどのようなスタンスをとっているのだろうか、と少し調べてみました。私はまさか共産党まで岸信介を対米自立派と持ち上げる孫崎享氏の論を評価することなどあるまいと、当時は調べもしなかったのですが、あにはからんや、共産党まで孫崎享氏を評価していました。そのことを「vanacoralの日記」ブログの筆者が当時の赤旗(2012年10月28日付)の記事を引用して批判しています。赤旗記事には孫崎享氏と並んでデモ行進する笠井亮衆院議員や吉良よし子参院東京選挙区予定候補(当時)の写真も掲載されています。同記事には群馬県平和委員会会長の声なども掲載されていますから、この頃には共産党系シンパ組織の中での孫崎享評価はある程度既成事実のようになっていたものと見られます。
 
共産党、「反米保守」孫崎享とデモ行進(vanacoralの日記 2012-10-28)
 
この次期はすでに私はさまざまな論者の孫崎批判を紹介する論を10本以上書いていました。上記の赤旗の記事が掲載されたほぼ同時期の11月4日には佐高信氏の孫崎享『戦後史の正体』批判も紹介しています。
 
共産党の右への凋落傾向は理論面においてもこの頃にはすでにはっきりしすぎるほどはっきりしていたのですね。共産党系の団体が主催する集会などに参加するたびに少し首を傾げたくなる右派的言動に触れ、右傾化傾向が強くなっていることはうすうす感じていましたが、明確には(まさかこれほどまでにとは)そのことを認識しえていませんでした。
 
寄る辺とする「革新」さえいなくなっていくこの国の現状には暗澹とせざるをえません。
 
以下、kojitakenの日記の「魚住昭、遅ればせながら孫崎享を痛烈に批判」。
 
魚住昭、遅ればせながら孫崎享を痛烈に批判
(kojitakenの日記 2014-05-28)


魚住昭といえば元共同通信の記者で、ナベツネ(渡邉恒雄)の評伝を書いたり、安倍晋三と故中川(酒)がやらかした「NHK番組改変事件」で、安倍晋三が実際にNHKに圧力をかけていたことを証明するなど、ひところもっとも注目していたジャーナリストだった。
 
だが魚住昭はその後、佐藤優とつるんだあたりからおかしくなり、村上正邦の評伝を書いたり、小沢一郎を擁護したりするなど、評価できない仕事が増えていた。それで最近ではほとんど関心を持たなくなっていたのだが、久々にクリーンヒットを放ってくれた。
 
あの孫崎享のトンデモ本『戦後史の正体』を痛烈に批判したのである。
 
第八十一回 陰謀論という妖怪 | わき道をゆく--魚住昭の誌上デモ | 現代ビジネス [講談社](2014年5月25日)
 
読まなくちゃ、と思いながらつい読む機会を逃してしまう。そんな本ってありませんか。
  
私の場合、元外務省国際情報局長の孫崎享さんが書いた『戦後史の正体』(創元社刊)がそうだった。2年前のベストセラーである。
 
先日、少し暇ができたので遅まきながら読んでみた。なるほど着眼点が面白くてわかりやすい。
 
だけど危うい。事実誤認による陰謀論が闊歩している。間違いが一人歩きせぬよう、はばかりながら苦言を呈させていただく。
 
まず本の中身を紹介しよう。孫崎さんは戦後史を「米国からの圧力」を軸に読み解いていく。その圧力に対し、日本の国益を主張する「自主」路線と、言いなりになる「対米追随」路線のせめぎ合いが戦後の日本外交だったと語る。
 
そのふたつの路線のシンボルとして敗戦時の外相・重光葵と、後に首相になる吉田茂が登場する。
 
孫崎さんによると当初、米国は日本を直接軍事支配しようとした。それをマッカーサーに断念させたのは重光だった。だが、彼は外相を辞任させられた。米国にとって彼のような「自主派」は不要だったからだ。
 
代わって外相になった吉田は、米国にすりよる「対米追随派」の代表だった。「日本の最大の悲劇」は、彼が首相として独立後も居座り「占領期と同じ姿勢で米国に接したこと」だと孫崎さんは言う。
 
吉田はGHQの参謀第2部(G2=諜報などを担当)部長ウィロビーを頼った。彼は反共主義者で、GHQ民政局(GS=政治改革担当)と対立した。G2は共産主義との対決を最優先し、GSは日本の民主化を最優先したからである。
 
昭和23年3月、芦田均内閣が発足する。孫崎さんは芦田を「重光と並んで自主路線をとった代表的政治家」だと高く評価する。
 
しかし、芦田内閣は発足後まもなく起きた昭和電工事件に巻き込まれ、同年10月に総辞職、後に芦田自身も東京地検に逮捕される。
 
ここまでの記述に、特に異論はない。政治家の好き嫌いは人それぞれだ。問題はこれからである。
 
昭電事件は、農業復興のための政府融資に絡み、大手化学肥料会社の昭和電工が巨額の賄賂をばらまいた戦後最大級の疑獄だった。
 
孫崎さんはこう解説する。
 
(1)事件はウィロビーのG2が検察を使ってしかけたもので「G2-吉田」と「GS-芦田」の戦いだったが、賄賂がGSに渡っていたことがわかり、G2勝利で終わる。
 
(2)芦田は事件に関与していなかったのに「進駐軍関連経費の支払いを遅らせる件」で収賄したとして逮捕される。おかしな話だ。誰がGHQへの支払いを遅らせる件に関し贈賄するのか。容疑を無理に作ったとしか思えない。芦田を追い出した後、ウィロビーと親しい吉田が当然のように首相になった。
 
そして孫崎さんは「米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させるというパターンが存在することは、昭電事件からもあきらか」と言う。
 
さらにロッキード、リクルート、陸山会などの事件に触れ、検察は米国と結んで「正統な自主路線の指導者」を排斥してきたのではないかという議論を展開する。
 
昭電事件はその出発点だから『戦後史の正体』の核心と言っていいだろうが、孫崎さんの解説には誤りが多い。国会図書館のGHQ文書が語る真相をご説明しよう。
 
まずは占領統治の基礎知識から。GHQで検察の指揮権を握ったのは参謀第2部(G2)でなく民政局(GS)だ。だから孫崎説のようにG2が検察を使ってしかけることはあり得ない。
 
次に、事件の捜査は初め警視庁が主導した。G2は警視庁と関係が深かったので、G2の差し金で警視庁が動いた可能性は大だ。ウィロビーはGSやESS(経済科学局=財閥解体や経済安定化計画などを担当)の幹部を「アカの手先」と忌み嫌い、事件を利用して彼らを排斥しようとしたらしい。
 
しかし警視庁はやりすぎた。GS次長ケーディスの女性関係まで洗い、米人記者らに捜査情報を漏らした。彼らはそれをもとに「GHQ高官が事件のもみ消しに暗躍している」などと書き立てた。
 
放置すれば本国からの風当たりが強くなる。GSはそう判断したらしい。東京地検に警視庁を外した単独捜査を指示した。当時の捜査二課長・秦野章は自著『逆境に克つ』に書いている。
 
「私が担当したのは、赤坂の昭和電工本社の捜索と贈収賄両者合せた十数人の逮捕だけである。余勢をかってメスを入れようとした矢先、警視庁の捜査二課は、事件の摘発役から突然おろされた」
 
それが昭和23年9月のことだ。東京地検は警視庁抜きの片肺飛行を強いられた。だが辣腕検事の河井信太郎が昭電社長を追及し、元農林次官や前蔵相、大蔵省主計局長らへの贈賄を自供させた。
 
昭電のGHQ贈賄工作はESSに集中していた。ESSは東京地検の捜査を妨害したが、地検はGSの支援を受けて捜査を続け、ESS幹部ら7人が数十万円~100万円を受け取っていたとの極秘報告をGHQ上層部に上げた(むろん公表されず、闇に葬られた)。
 
こうした経緯を総合すると、事件が「G2-吉田ライン」対「GS-芦田ライン」の戦いだったという孫崎さんの図式はまったく成り立たない。G2は本丸の捜査に関与しておらず、GSも芦田をかばっていない。芦田逮捕に向けゴーサインを出したのはGSである。
 
ちなみに芦田は「昭電事件には関与していません」という孫崎さんの記述も不正確だ。芦田自身、進駐軍兵舎の建設資材の納入業者(昭電事件の捜査の過程で贈賄企業として浮上)から100万円もらったことを認めている。
 
また芦田は「進駐軍関連経費の支払いを遅らせる件」に関して賄賂を受け取った容疑で逮捕されたというのも孫崎さんの誤解である。
 
正しくは、進駐軍兵舎の資材納入に対する政府支払金を早く受け取れるよう業者に便宜を図ったのが主な容疑だった。ただ芦田は職務権限がなかったとして無罪判決を受けており、地検の法解釈に粗さがあったことだけは間違いない。
 
こうして孫崎さんの見解を検証してみて分かったことがある。それは、陰謀論は不正確な事実の断片を推理でつなぎ合わせて作られるということだ。ロッキード事件は「自主派」の田中角栄元首相を潰すため米国が仕組んだというのも同じように作られた話である。
 
さらに詳しく知りたいと思われる方には『角栄失脚 歪められた真実』(徳本栄一郎著・光文社刊)をお薦めしたい。綿密な取材で真相に肉迫した労作だ。本の終盤での著者の述懐に私は深く共感したので、それを最後に紹介したい。
 
「客観的物証のない陰謀説は日本人の深層心理に恐怖を植えつけ、いびつな国民性を産み出す危険もある。卑屈なまでの米国追従と、歴史を無視した偏狭なナショナリズムである」
 
『週刊現代』2014年5月31日号より
 
具体的な事実に基づいて、孫崎の妄論の誤りを暴いていく手法はさすがである。魚住昭が久々に本領を発揮したとの印象だ。
 
惜しむらくは、批判のタイミングがあまりに遅過ぎた。孫崎のトンデモ本を信じ込んだ「小沢信者」らは、孫崎ご推奨の岸信介や佐藤栄作を信奉するようになったためかどうか、岸の孫・安倍晋三の暴政をまともに批判することすらできなくなっている。しかし、この期に及んでなお「小沢信者」たちは孫崎を批判できないていたらくなのである。
「小沢氏は保守系ではあるが、資質的には驚くほどリベラルな政治家」、あるいは「小沢氏は『対米独立派』であることからアメリカの圧力によって逮捕された」、「西松建設事件と陸山会事件は、この国の中枢に巣くう従米派の謀略組織が企画し、実行した歴史的な大冤罪事件である」、また「小沢氏は『集団的自衛権行使』否定論者である」などいまだに根拠もなく、また誤った根拠で小沢氏擁護論を展開する人たち(それも左翼系小沢擁護論者とでもいうべき人たち)がいます。

「小沢氏は『対米独立派』である」という左翼系
小沢擁護論者の主張についてはあるメーリングリストで憲法研究者の上脇博之さんが十分必要的にその主張の破綻を衝いていましたので近いうちに同氏のブログなどでその論破の内容は公開されることがあるかもしれません。

私はやはりあるメーリングリストでその左翼系小沢擁護論者の主張のうち「小沢氏は『集団的自衛権行使』否定論者である」という主張のみそうした主張は成り立たない旨を質しました。以下、その私のある左翼系小沢擁護論者に向けた反論のみご紹介させていただこうと思います。ある左翼系小沢擁護論者の名義は便宜上Aさんとしておきます。

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  日米合同訓練(2010年)後の自衛隊艦と米海軍との「連合艦隊」。ジョージ
    ・ワシントンを中心に日米のイージス艦などが整然と南大東島西方沖の
  荒波を蹴っている(
NAVY News Service 」(2010.12.10)より。艦名は一
  部推定
)。

 
Aさん wrote:
小沢氏は、「集団的自衛権行使」肯定論者ではないはずです。小沢氏のこの問題についての立場は少し複雑で・・・ 小沢氏は、国連決議が無い軍事行動を「集団的自衛権行使」と考えるのです。

Aさん。小沢氏が「集団的自衛権行使」肯定論者であるかどうかについて一点だけ介入しておきます(その他の問題は論点を錯綜させないためにも控えておきます)。

小沢氏が代表を務めていた「国民の生活が第一」が2012年9月に発表した「基本政策 検討案」の「外交安全保障に係わる政策」のⅥの3「自衛権の行使に係る原理原則の制定」には次にように記されています。
 
「我が国の平和と安全を直接的に脅かす急迫不正の侵害を受けた場合には、憲法9条に則り武力を行使する。国連憲章上の自然権とされ我が国が国際法上も保有している集団的自衛権については、国民の意思に基づき立法府においてその行使の是非に係る原理原則を広く議論し制定する。原理原則の制定なくして、その行使はしない。原理原則は安全保障基本法に定める。」

上記は、安全保障基本法で原理原則を決めれば、集団的自衛権の行使を容認していいという立場の表明です。小沢氏は「生活が第一」の代表なのですから上記の「生活が第一」の立場はすなわち小沢氏の集団的自衛権に関する立場の表明とみなしてさしつかえないでしょう。小沢氏は「集団的自衛権行使」肯定論者です。

さらに小沢氏は2009年の衆院選前に行われた毎日新聞の「えらぼーと」(注)に対する回答でも「集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈を見直すべきだと考えますか。」という問いに対して「見直すべきだ」と回答しています。小沢氏が「集団的自衛権行使」肯定論者であることはここでも明らかです。

注:上記の毎日新聞の「えらぼーと」の回答はリンク切れになっていいますので、「きまぐれな日々」の記事から小沢氏の回答を示しておきます。下記記事は小沢一郎の回答を菅直人と対比させて掲載しているものですが、もちろん、小沢氏の「えらぼーと」の回答をそのまま掲載しています。

Aさんの「小沢氏は、『集団的自衛権行使』肯定論者ではないはずです」というご主張は、国連決議と「集団的自衛権行使」に関する小沢氏の見解を検討するまでもなく誤まっています。このことは上記の例示だけでも十分に判断できるものです。

以上の私の反論に対してAさんは小沢一郎氏のウェブサイトに掲載されている「永田町を驚愕させる『原則四項目』 小沢一郎×横路孝弘 民主党の両極、ここに安全保障論で合意する」(「月刊現代」2月号 2003.12.17) という対談記事と「小沢一郎さんと安全保障などについて合意」という横路孝弘氏の文章を紹介した上で左記の「小沢氏と横路氏の対談を読んで頂ければ、誤解が解けると思います」という反論をしてきました。

以下はそのAさんの反論に対する私の再反論です。

私のメールに対するあなたの返信で一番の問題点は私が前回のメールで提示したふたつの例示を完全に無視した上で相変わらず独自の「小沢氏『集団的自衛権行使』否定論者」論を展開していることです。

小沢氏は前回例示しているよう2009年の衆院選前に行われた毎日新聞の「えらぼーと」に対する回答で自らの言葉ではっきりと「(集団的自衛権の行使を禁じた政府の憲法解釈は)見直すべきだ」と述べています。左記は「集団的自衛権行使」肯定論以外のなにものでもありません。あなたはその事実をどうして無視するのでしょう? あるいは無視できるのでしょう? 本人が「白」と言い、証拠も「白」とあるものをあなたがいくら「黒」と力説してもまったく意味のないことです。あなたにはこの当然の道理がわかりませんか?

上記で私の反論は言い尽くされており、私の反論はこれで終わりとしていいのですが、つけたしとして以下のことを少し述べておきます。

まず第一にあなたは「小沢氏と横路氏の対談を読んで頂ければ、誤解が解けると思います」と述べて、集団的自衛権の問題に関して横路氏と小沢氏との間で「合意」が成立しているから小沢氏は「集団的自衛権行使」否定論者であるという奇妙な三段論法を展開していますが、その三段論法の前提になっているのは無条件に横路氏を「集団的自衛権行使」否定論者としていることです。しかし、あなたが紹介されている横路氏の「小沢一郎さんと安全保障などについて合意」という文章を読むかぎり、横路氏は「集団的自衛権行使」否定論者ではありえません。すなわちあなたは前提を誤った上で三段論法を展開しているのです。前提を誤った三段論法が誤りであることは明らかです。

すなわちこういうことです。横路氏は「小沢一郎さんと安全保障などについて合意」という文章で「国連憲章2条4項は、日本国憲法9条と全く同じ精神です」と述べていますが、国連憲章2条4項と日本国憲法9条はまったく精神と性質を異にします。

日本国憲法9条
には次のように書かれています。

第九条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

一方、国連憲章2条4項には次のように書かれています。

第二条
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。

見られるとおり、日本国憲法9条には「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明確に書かれていますが、国連憲章2条4項には「武力による威嚇又は武力の行使を(略)慎まなければならない」と書かれているのみです。「慎まなければならない」とは「武力による威嚇又は武力の行使」そのものは認めるという意です。日本国憲法9条と国連憲章2条4項が「同じ精神」であるはずがありません。横路孝弘氏の前職は弁護士かもしれませんが、横路氏のこの条文解釈は誤っています。その誤った条文解釈を基にして横路氏と小沢氏との間で合意が成立したとしても、その合意が「集団的自衛権行使」否定論の論拠になりえるはずもありません。

第二にこのことについて、すなわち日本国憲法9条と国連憲章2条4項が「異質」のものであることについては元外交官で政治学者の浅井基文さんの次のような論究もあります。少し長いですが引用してみます。

問題は、「個々の国が行使する自衛権と、国際社会の平和維持のための国連の活動は全く異質のものだ。日本が憲法9条に則りつつ国連の活動に積極的に参加することは、成立可能」とする主張が成り立つか、ということです。特に問題となっているISAFについて見てみましょう。

アフガニスタンの和平プロセスを定めたボン合意(2001年12月5日)の附属Ⅰでは、「アフガニスタンの治安及び軍の部隊が完全に構成され、機能するまでには一定の時間がかかることを認識し、国連アフガニスタン討議の参加者は、国連安保理に対し、国連に委任された部隊の早期配備の権限を与えることを考慮するよう要請する。この部隊は、カブール及びその隣接地帯の安全維持を支援する。この部隊は、適当な場合には、他の都市部及びその他の地域に段階的に拡大することもあり得る。」(3項)と定めています。

つまり、国連の軍事能力では事態に対応できないことを見越して、NATO主体のISAFの派遣を予定し、国連安保理に「お墨付け」を与えることを促しているのです。そして国連安保理は、その筋書き通りに、決議1386(2001年12月20日)を採択し、次のように決定しました。

「ボン合意附属Ⅰ・3項における国際治安部隊のアフガニスタンへの早期配備の権限を与えることを安保理が考慮する旨の要請及び事務総長特使のアフガニスタン当局との接触(当局側は国連の権限を受けた国際治安部隊のアフガニスタンへの配備を歓迎)に留意し」
「アフガニスタン情勢はなお国際の平和と安全に対する脅威を構成していると決定し」
「ISAFが、ボン合意で設立されたアフガニスタン暫定当局と協議しつつ、その権限を完全に行使することを確保することを決意し」
「これらの理由により、国連憲章第7章のもとで行動し」(以上前文)
「1 ボン合意附属Ⅰに規定するように、カブール及び隣接地帯でアフガニスタン暫定当局を支援するISAFを6ヶ月間(注:その後随時安保理決議で今日まで延長)設立することを認める。」
「2 加盟国に対して人員、設備その他の資源をISAFに対して貢献することを要請する。」
「3 ISAFに参加している加盟国がその権限を果たすためにすべての必要な措置をとることを認める。」

分かりやすくいえば、正規の警察(国連の集団的措置)では無法状態のアフガニスタンの治安を取り締まる能力はないので、暴力団(NATO主体のISAF)に取り締まりを白紙委任するということなのです。このことがどういうことを意味するかということを身近な例で考えれば、「国際社会のいうことを聞かない無法者」の北朝鮮をやっつけるためにアメリカと日本が軍事行動を起こそうとするとき、その任に堪えない国連(安保理)に日米軍事同盟に基づいて組織される米日主体の軍隊に白紙委任の安保理決議を出させる、ということです。国際社会の名の下で大国間の足並みがそろうと、安保理決議をでっち上げさえすれば何でもできるということなのです。小沢党首の主張は要するにそういうことです。(「民主党・小沢党首のアフガニスタンISAF参加合憲発言」 浅井基文 2007年10月10日)

第三に上記の浅井基文さんの考察とほぼ同様の観点に立っての「平和への結集」をめざす市民の風の次のような論究もあります(下記のアピール文はほかならないAさんあなた自身も討議に参加して作成されたものです。そして、このアピール文は、あなたのほかには私(東本)、太田光征さん(現「風」代表)、河内謙策さん(弁護士)が中心的に関わって作成されたものでした。

憲法9条を高く掲げた「国際協力」の道を探求しよう 私たちは自衛隊のISAF参加に反対します

そのアピール文作成の討議の過程であなたは次のような意見を述べていました(上記URL参照)。

A Says:
12月 13th, 2007 at 0:15:01

東本さん、ほとんど異論はありませんが、いくつかの懸念です。

>第1。「ISAF参加合憲」をいう小沢氏の依拠する前提は「国連=正義」論(注5)です。

たぶん、民主小沢派は、安保理の非民主制については、認識しているのではないかと思います。つまり、民主主義理念からは、現在の国連、つまり安保理は不完全ではあるが、国連しか安全保障を守る世界的な仕組み、システムがないので、という現実論からの判断でしょう。

そこで、正義論だと批判すると、正義論ではない、現実論だという反論が出てきそうです。この反論にどのように反撃するか考えておかないとなりません。その前に、本当に単純な正義論なのか、もう一度確かめる必要がありますが。

TVで小沢の発言を聞きましたが、必ずしも正義論ではない印象でした。本当に単純な正義論であれば批判は簡単ですが、現実論だと少し批判は、やっかいです。根本的な問題から、説明して批判しなければなりませんから。

>2003年のアメリカの一方的なイラク侵攻も安保理決議によってそれが可能になったのです。

「安保理決議によってそれが可能になった」というよりも、ロシア、中国、フランスは、イラク侵攻に対して明確に反対していたので、「安保理決議1441」の文言を恣意的に解釈して、と言った方が正確でしょう。

東本さんが指摘した大国の同士のボス交=恣意的な安保理決議の問題だけでなく、だいたい、安保理決議は、ほとんどが大国の妥協の産物。どうにでも解釈できる玉虫色ですから、決議そのものが常任理事国により恣意的に解釈をされる場合もありますね。

小沢派のように国連を重視すると言っても、安保理決議さえ、当の安保理の常任理事国自身が恣意的に解釈して行動し、しかも、誰もその行動を阻止できないのが国連の現状ですね。国連を重視を唱える小沢派は、こうした安保理決議の恣意的な解釈から一部の常任理事国(たとえば米国)に派兵を要請された場合、どうする気でしょうかね(笑)。

今回のあなたの意見とずいぶん様変わりの感があります。

注記:小沢一郎氏の評価と小沢氏が代表を務める生活の党の評価は必ずしもイコールの関係ではありません。生活の党が小沢氏の政治的理念を体現している政党であることは明らかというべきですが、政党は公表されている政策(公約)に縛られるという性格を持っています。「2022年までの原発の全廃」「消費税増税の廃止」「TPP反対」「中学卒業まで子ども一人当たり年間31万2000円の手当を支給」などの同党の政策はそれが公約である限り同党はその公約に縛られます。そういう意味で小沢氏の評価=生活の党の評価とすることは適当ではありません。同党を評価するに当たっては政党同士の院内外の共闘、共同の課題もあることから慎重を期する必要があるでしょう。

モーニングバード『そもそも総研たまペディア』放送中止の謎」という言説がその言説の信憑性や信実性の確度を検討することもなく、無条件、無批判、安易にいくつかのメーリングリストや阿修羅掲示板などに流されていますが(阿修羅掲示板では「総合アクセス数ランキング」第2位(2013年3月26日現在)にもなっています)、私にはこの言説の信憑性と信実性の確度については少なくない疑問があります。

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この言説の元になっている記事は以下です。

圧力に屈したテレビ朝日、モーニングバード「そもそも総研たまペディア」放送中止の謎(いかりや爆氏の毒独日記 2013-03-22)

その元記事には次のようにあります。

昨日(3/21、木曜日)は、いつもの時間になっても、「そもそも総研たまペディア」は放送されなかった。「そもそも総研たまペディア」は、何故放送されなかったのか。何かひっかかるものを感じた・・・司会の赤江珠緒アナの本日の顔付きが、なにかしらオドオドしていた。/そこで、本朝9時頃、テレ朝「そもそも総研たまペディア」に、下記を投稿しました。(略)昨日(3/21)は、何故放送されなかったのか、教えてください。まさか、安倍政権もしくは自民党からの圧力があったということではないでしょうね?/ところが、筆者の懸念が見事的中していることがわかった。(略)昨日の大西議員の質問時間帯は午後(13時 41分から約8分間)だから、 事前にテレ朝へ何らかの圧力がかかって、「そもそも総研たまペディア」は放送を取りやめたものと言わざるを得ない。

このブログの筆者が「事前にテレ朝へ何らかの圧力がかかって、『そもそも総研たまペディア』は放送を取りやめたものと言わざるを得ない」「筆者の懸念が見事的中していることがわかった」と断言している根拠は(1)「昨日(3/21、木曜日)は、いつもの時間になっても、『そもそも総研たまペディア』は放送されなかった」という事実があったこと。(2)「(「そもそも総研たまペディア」放送日の)昨日の大西議員の質問時間帯は午後(13時 41分から約8分間)」だったこと。(3)「司会の赤江珠緒アナの本日の顔付きが、なにかしらオドオドしていた」ことの3点です。

しかし、(1)と(2)に挙げられている事実だけでは(1)と(2)には客観的な因果関係は成立しません。あるいはそうかもしれない、という蓋然性が推測されるだけのことです。まったく偶然の結果だったという可能性も否定できません。すなわち(1)と(2)だけでは「事前にテレ朝へ何らかの圧力がかかっ」た証拠にはならない、ということです。(3)に至っては主観の問題にすぎません。これもまったく証拠にならないことは明らかです。

上記の元記事情報を見てテレビ朝日の「モーニング・バード」の担当者に電話で直接問い合わせた人の話によると、その担当者は玉川氏は21日は「冬休みだった」と応えたそうです(注)が、その証言がウソであるという根拠もありません。逆に「政局報道の方程式」というブログに掲載されているツイット(03-24 14:57)には「冒頭で「冬休み」と言ってたけど…。自民党贔屓が露骨な小松アナも休みだったし 」という証言もあります。そうなるとテレビ朝日の「モーニング・バード」担当者の「玉川氏は21日は冬休みだった」という応答の方が信憑性が高くなってくるように見受けられます。

注:阿修羅掲示板の「圧力に屈したテレビ朝日、モーニングバード『そもそも総研たまペディア』放送中止の謎 (いかりや爆氏の毒独日記)」の記事のコメント欄の19には「同番組中に「玉川さんは「冬休みです」と司会者が言った」という証言になっています。

いずれにしても真実性の確かではない言説を無批判、無検証に信じ込んで「安倍政権の権力主義、言論弾圧はここまできている」などと断言する行為はナンセンスきわまる行為というほかありません。デマ(元記事の情報は確証のないものを確証があるかのように断じている点で「デマ」に近いものです)はこのようにしてつくられていくのだということを私たちは肝に銘じるべきだと思います。

ところで少なくない人たちがこのような真実性の確かではない言説を無批判、無検証に信じ込んでしまったのは、上記の記事で問題になっている自民党の大西議員の質問がテレビ朝日のモーニングバード『そもそも総研たまペディア』における孫崎享氏のTPP批判発言を問題にしたものだったせいが大きいでしょう。テレビ朝日における孫崎氏のTPP批判発言は私も正しいものだと支持しますが、その発言が真に正しいものであるか否かにかかわらず孫崎氏が『戦後史の正体』という著作を発表して以来、同氏の発言のすべてが正しいものであるかのように前提して信じこむ人たちが増えています。私は孫崎氏の戦後史史観は岸元首相など対米従属派の首相経験者を対米独立派に位置づけるなど大きな歴史認識の誤りを犯していると思っていますが、その孫崎氏の戦後史史観(あるいは陰謀史史観)をいたずらに支持する人たちが少なくありません。そうした人たちが(もちろん、そうした人たちがすべてではありませんが)孫崎氏を擁護したいあまりに犯している勇み足のように私には見えます。

情報戦と現代史――日本国憲法へのもうひとつの道』(花伝社 2007年)や「戦後米国の情報戦と60年安保――ウィロビーから岸信介まで」(『年報 日本現代史』所収 現代史料出版 2010年)などの著書や著作もあり、インテリジェンス(諜報・情報分析)という新しい学の分野にも造詣の深い政治学者の加藤哲郎さん(一橋大学名誉教授、現早稲田大学客員教授)が先日の12月22日に明治大学リバティタワーであった現代史研究会の例会で最近よい意味でも悪い意味でも「評判」になっている元外務官僚(国際情報局長)で元防衛大学校教授の孫崎享氏の著書『戦後史の正体』(創元社 2012年)について論評しています。同著についてはこれまでジャーナリストや政治評論家、ブロガーなどなどによる好悪両価の評価が錯綜していましたが、学者による、その意味で専門的な同著評価は管見の限りおそらくはじめてのことです(「学者」らしき人の評価は目にしたことはありますが)。

加藤さんは上記の現代史研究会での講演についてご自身のホームページ「加藤哲郎のネチズンカレッジ」(2012年12月17日付)で前もって次のような予告をしていました。

 
・・・・アメリカ国内にも、「ジャパメリカからチャイメリカへ」の大きな流れのなかで、さまざまな日本観の分岐があります。この点は、孫崎享さん『戦後史の正体』(創元社)(引用者注1評価にも関係しますので、22日明治大学での現代史研究会でも触れるつもりです。/(略)孫崎さん『戦後史の正体』(引用者注2)の、日本におけるアメリカ研究への奨学金・留学機会提供への着目は慧眼です。それが「対米追随」の土壌になるとすれば、直接的な外交交渉での「自主」度ばかりでなく、こうした留学経験・勤務体験・認識枠組・思考パターンを通じてのソフトパワーが、日本政治に浸透する効果にも注目すべきでしょう。次回、新年更改で、じっくり考えてみます。

加藤さんの上記の孫崎氏評価には「慧眼」という言葉が出てきます。「慧眼」とはいかに、と私は加藤さんの孫崎氏評価に一瞬疑問を持ちましたが、加藤さんは「孫崎享さん『戦後史の正体』」(引用者注1)では孫崎氏自身のtogetter(Tweetまとめ)をリンクし、「孫崎さん『戦後史の正体』」(引用者注2)では「『改憲、はたまた護憲』カメレオンのような孫崎享」(「kojitakenの日記」2012-10-11)と「過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む」(「Valdegamas侯日常」2012-08-11)をリンクしています。つまり加藤さんは『戦後史の正体』評価に関する好悪両価の評価を公正に参照した上で自身の意見を構築したい旨言明しているのだな、と私は読みとりました。私は加藤さんの明治大学における22日の現代史研究会での講演を待つことにしました。

その加藤さんの22日の現代史研究会での講演の要旨がある聴講者によってこちらにアップされています。

そのある聴講者によると、22日の加藤さんの講演は以下のような内容だったようです。

1.政治史は外交史のみから語ることはできない。もっと広い視野からの問題を考える必要がある。経済史や社会内部の様々な動向、政権内部の勢力図、諸外国との関係などが考慮されなければならない。その意味では、孫崎さんの本は「外務省外交官中心史観」になっているのではないだろうか

2.それゆえに、議論が「自主か対米追随か」という単純な図式主義に陥ってしまっているように思う

3.しかしそういう図式では片付けられない問題点が多々残っている。ニクソンの中国直接訪問外交や71年のニクソン・ショック(ドルと金の交換の停止)などを、この図式にあてはめることは無理なのではないか。また、日本国内の「下からの圧力」(戦後革新や護憲派など)は全く考慮されていないのではないだろうか

4.佐藤内閣が「自主派」という側(対米追随ではないという意味で積極的な評価を与えられている)で位置づけられているが、果たしてそれでよいのだろうか。佐藤内閣の時代に、「非核三原則」の裏側で、秘かに日、独間で核兵器製造の策動があったという点、などはどう考えるべきなのか、…等々

おおよそ妥当な評価だと私は思います。同講演の詳細については加藤さん自身の手によって加藤さんがこれも予告しているとおり次回更新時(2013年元旦)の「加藤哲郎のネチズンカレッジ」紙上で論文として掲載されることになるでしょう。次回更新に注目したいと思います。

なお、同現代史研究会での講演では加藤さんと同じく日米外交とインテリジェンスを専門分野とする元共同通信社特別編集委員で現名古屋大学特任教授の春名幹男さんも孫崎享著『戦後史の正体』についての評価を述べているようです。先のある聴講者によると、春名さんの『戦後史の正体』評は次のようなものであったようです。

孫崎さんの本については、対米追随では整理できない点が多々あることや、吉田茂の評価についても違和感があること、といった印象が述べられた。

春名さんの本格的な『戦後史の正体』評も読みたいものです。

安倍「極右」暴走政権の誕生による「改憲」の嵐の前夜のような状況の中にあってはなおさらです。いたずらな『戦後史の正体』評価は改憲状況に結果としてさらに掉さすことにしかならないでしょう。それが私の評価です。

これまでの私の『戦後史の正体』批判(一部)については下記をご参照ください。

佐高信氏の孫崎享『戦後史の正体』評と福島瑞穂氏(社民党委員長)及び社民党の右傾化・右転落を端的に示す同著評(弊ブログ 2012.11.04)
朝日新聞「孫崎享『戦後史の正体』書評」(9月30日付)訂正事件雑感(弊ブログ 2012.10.26)
「孫崎享『戦後史の正体』にかぶれる読者の見識を疑う」 ――古寺多見氏の孫崎氏批判は正論だと私は思う(弊ブログ 2012.09.28)
「孫崎享『戦後史の正体』にかぶれる読者の見識を疑う」 ――古寺多見氏の孫崎氏批判は正論だと私は思う(2)(弊ブログ 2012.10.14)
孫崎享『戦後史の正体』をオーソドックスに読み解くひとつの書評――「過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む」(弊ブログ 2012.08.23)
孫崎享氏(元外務官僚・元防衛大学校教授)の新著『戦後史の正体』の小沢派評論家たちの「前評判」への違和感(弊ブログ 2012.07.08)
有名人、あるいは著名人がなにかを発言したからと言ってその発言が特段に優れているということにもちろんなるわけではありませんが、有名相当のインパクトはあるでしょう。そういう意味でお伝えしておきたいのですが、佐高信氏が『サンデー毎日』(2012年11月11日号)の「佐高信の政経外科」(連載665)に孫崎享氏の『戦後史の正体』を批判する文章を書いています。

*すでに『kojitakenの日記』などで指摘されていることの二番煎じでしかありませんが、その点はご容赦ください。

そして、この佐高氏の発言内容は妥当だと思いますし、私はこの佐高氏の孫崎享『戦後史の正体』評価を支持します(最近の佐高氏の論調には支持できないところが多いのですが)。

佐高氏の孫崎享『戦後史の正体』評は以下のようなものです。

ベストセラー『戦後史の正体』に載る歴代首相の「色分け」に
                             抱いた違和感

 遅まきながら、ベストセラーの孫崎享著『戦後史の正体』(創元
社)を読み、その評価の軸にのけぞるような違和感を持った。こ
れは、外務省の国際情報局長だった孫崎が「米国からの圧力」
をポイントに戦後史を読み解いたものである。

 その最大のタブーに挑戦したかどうかで日本の戦後の首相を
「自主派」と「対米追従派」に分け、前者に石橋湛山、岸信介、
鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一らを挙げ、
後者に吉田茂、池田勇人、三木武夫、中曽根康弘、小泉純一郎
らを挙げている。

 特におかしいと思うのは、岸、佐藤、福田が「自主派」で、三木
が「対米追従派」であることである。

 孫崎によれば、岸は「従属色の強い旧安保条約を改定。さらに
米軍基地の治外法権を認めた行政協定の見直しを行おうと試み」
た点が評価され、佐藤は「ベトナム戦争で沖縄の米軍基地の価
値が高まる中、沖縄返還を実現」したとして、こちらに入れられて
いる。さらに福田も「ASEAN外交を批准するなど、米国一辺倒っ
でない外交を展開」したのだという。多分、孫崎から見れば、佐藤
のノーベル平和賞受賞もメデタシメデタシなのだろう。

 しかし、日本国憲法を護(まも)ろうとするかどうかというモノサシ
を当てればどうなるか?

 岸、佐藤、福田はいずれも改憲派であり、逆に「対米追従派」に
入れられている三木が護憲派である。

 改憲派は現憲法をアメリカから押し付けられたと主張するから、
それに抵抗して変えようとする岸たちは“自主派”となるのかもし
れない。

 けれどもアメリカはいまは日本に集団的自衛権も認めて改憲せ
よと迫っているのだから、護憲派の方が「自主派」となる。つまり
は三木が自主派で、岸、佐藤、福田が対米追従派なのである。
現首相の野田佳彦も追従派であることは言うまでもない。

(中略)

 『操守(そうしゅ)ある保守政治家三木武夫』(たちばな出版)の
著者、國弘正雄が指摘する如く、「日中国交正常化の井戸を掘
ったのは田中角栄ではなく三木武夫」だった。三木が井戸を掘り、
田中が最初の水を飲んだのである。中国との関係を重視する三
木や田中が護憲派で、むしろ敵対した岸、佐藤、福田が改憲派
というのも偶然ではない。私から見ると、孫崎の見取り図はいさ
さかならず有害である。

対して、社民党委員長の福島瑞穂氏は孫崎享『戦後史の正体』評を次のように述べています(2012年10月8日)。

@magosaki_ukeru 戦後史の正体」は、本当に面白く、有益でした。
いろんな資料や歴代首相の見方など参考になりました。私は辺
野古沖に基地を作ることに反対し、大臣を罷免になったので、外
務省、防衛省などの役所を変えることができず、悔しかったです。
これからもがんばります!

すでにご紹介していることですが、社民党委員長の福島瑞穂氏が「本当に面白く、有益でした」という『戦後史の正体』には「日本国憲法は、米国が作成した草案を日本語に訳し、少し修正を加えた」(p80)だけのものにすぎないという「押しつけ憲法論」が展開されています。「押しつけ憲法論」のゆきつくところは自主憲法制定論(前憲法破棄)あるいは復古的改憲論であることはいうまでもありません(wiki『自主憲法論』)。福島氏はいつから「改憲派」に鞍替えしたのでしょう? 彼女の言う「憲法改正や新自由主義的な傾向が拍手を浴びている状況に危機感を持っている」(中国新聞 2012年9月2日)という言質と「(『戦後史の正体』は)本当に面白く、有益でした」という言質の間にはどのような整合性があるというのでしょう? 社民党及び福島瑞穂氏は右傾化の坂を急速度に転がり落ちていると評価するほかありません。「もはや社民党は歴史的使命を終えた。社民党を解散して新しい社民主義政党を結成する必要があるのではないか」(『kojitakenの日記』「やはり! 小沢新党「国民の生活が第一」は集団的自衛権の行使に賛成」 2012年9月16日)という声が出るのも当然のことと言わなければならないでしょう。
私もその著書の大の批判者のひとりである『戦後史の正体』(注1)は孫崎享氏著者自らの解説によれば「発刊2月にして二〇万部の増刷」になるほど売れているそうです。しかし先日、共同通信が地方紙各紙に配信した岡留安則氏(元『噂の眞相』編集長)の同著書評(同氏の書評は次のようなもののようです。「これこそ、歴史の正体を暴いた新しい『日本戦後史』教科書であり、同時に消費税増税、原発再稼働、オスプレイ配備、TPPに至るすべての謎が解ける絶好の文献といえる一冊である」。「絶賛」といってよいでしょう。『噂の眞相』時代からの「タブーなきジャーナリスト」を自称するこの人物の見る目のなさ、あるいは「読む」目のなさ、あるいは世間に伝説されている彼の「思想性」なるものの無根拠、あるいは暗愚性、あるいは虚仮威し、を物語っている一文というべきでしょう。注2)など一、二の例外を除けば概して大手紙メディアからは「完全に無視」されているようです。
 
しかし、大手紙メディアから「完全に無視」されているのはおそらく孫崎氏が上述ツイッタ―で憤っているような理由からではないでしょう。 北大教授の山口二郎氏がツイッタ―で『戦後史の正体』について「孫崎さんの本はおおざっぱな断定があると思う。陰謀論と科学主義の中間的リアリズムの言説を提供するのが政治学者の仕事だと痛感した次第」と中庸の徳なる精神でもって(すなわち、中途半端にということですが)批判していますが、大手紙メディア(の書評欄担当記者)も山口氏とほぼ同様の判断から書評以前の著作とみなしていた、というのが実情だったでしょう(このあたりの私の判断は「kojitakenの日記」の情報によるところが大です)。
 
そういう中でもう1か月前のことになりますが、朝日新聞が9月30日付けの「売れてる本」という書評欄に「自立への一助にできるか」という佐々木俊尚氏(ジャーナリスト)の『戦後史の正体』評を掲載しました。朝日の「売れてる本」欄というのは『Valdegamas侯日常』ブログの筆者によれば「イキのいい評論家やライターの類に書店に平積みされるベストセラーを読ませては酷評させ、亜インテリの溜飲を下げせしめるという中々趣味の悪い欄」らしいのですが、たしかに佐々木氏の『戦後史の正体』評は酷評そのものでした。同書評の書き出しは次のようなものでした。

ロッキード事件から郵政民営化、TPPまで、すべては米国の陰謀だったという本。米が気にいらなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという。著者の元外務省国際情報局長という立派な肩書きも後押ししているのか、たいへん売れている。しかし本書は典型的な謀略史観でしかない。
http://toracyan53.blog60.fc2.com/blog-entry-3083.html

標題の「朝日新聞『孫崎享『戦後史の正体』書評』訂正事件」とはこの佐々木氏の酷評に著者の孫崎氏が噛みつき、朝日がその孫崎氏の抗議を受け容れ、訂正記事を出したことを指します。孫崎氏の抗議は次のようなものでした。
 
戦後史の正体・朝日新聞書評:30日朝日新聞が「戦後史の正体」の書評を出した。目を疑う位低レベルの書評だ。朝日新聞は「この書評は適切でなかった」とお詫びの文書を掲載すべきだ。余りに馬鹿馬鹿しいから、全体を論ずることなく、最初の数行をみてみたい。冒頭「ロッキード事件から郵政民営化、
https://twitter.com/magosaki_ukeru/status/252197854033113088

上記の孫崎氏の抗議文だけではその抗議の内容がいまいち掴みきれないので孫崎氏を擁護する立場から佐々木氏の『戦後史の正体』評を批判する郷原信郎氏の「孫崎亨著『戦後史の正体』への朝日書評の不可解」という論を下記に援用してみます。郷原氏は佐々木氏の書評を次のように批判しています。

孫崎氏自身もツイッターで批判しているように、同書では、「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などとは書いていない。同書が取り上げている、アメリカの意図によるとする検察による政界捜査は、昭電疑獄とロッキード事件だけであり、検察問題を専門にしている私にとっても、従来から指摘されている範囲を出ておらず、特に目新しいものではない。
 
要するに郷原氏は、孫崎氏は「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などとは書いていない」。それを佐々木氏は「すべては米国の陰謀だった」「米が気にいらなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などと書いている。佐々木氏の書評はウソの論で成り立っている、と佐々木氏の書評を批判しているわけです。
 
この郷原氏の指摘は正しい、と私も思います。佐々木氏の書評がウソ、あるいは誇張の論で成り立っているのであれば、同書評の著者の佐々木氏も同書評を掲載した朝日新聞もその不明を詫びて謝罪するのは当然だろうと私は思います。この点について「きまぐれな日々」ブログ主宰者の古寺多見氏は彼の第二ブログである「kojitakenの日記」で「ヘタレ朝日、橋下の次には孫崎享のトンデモ本への酷評も訂正(呆)」「朝日は橋下徹に謝罪して恥をさらしたばかりなのに、今度は孫崎享にも屈服した。ヘタレにもほどがある」などと朝日新聞を批判していますが、私とは日頃政治認識を同じくすることの多い古寺多見氏ですが、私はこの古寺氏の批判には与しません。今回の朝日新聞の孫崎氏に対する謝罪は真実を追求するべき言論人、あるいはメディアとして当然の謝罪というべきものであるだろうと私は思います。
 
とはいうものの、上記の郷原氏の指摘も一面的にすぎるところがあり、私は郷原氏の指摘にも賛成しません。郷原氏の指摘が一面的にすぎるとは、『戦後史の正体』において孫崎氏はたしかに「米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきた」などとは書いていませんが、同書には佐々木氏のような読解を許す「ほのめかしのレトリック」(「Valdegamas侯日常」ブログ)が同著の全編にわたって採用されているからです。そのレトリックを通じて孫崎氏は明らかに意図的な「アメリカ謀略」論を展開しています。孫崎氏は謀略史観流布の責を免れることはできない、というのが私の決定的な判断です。ただし、この辺りの批判は「Valdegamas侯日常」の「郷原・佐々木双方のある種の正しさ―孫崎享『戦後史の正体』を読む・補遺」の論に詳しいので、あとは同論の説得的な主張の展開に譲りたいと思います。私のこれまでの論は単なる雑感にすぎません。

追記:
石原慎太郎が東京都知事を辞職して国政に再度進出するというニュースが大きく流れています。なにがこの石原慎太郎の増長を許しているのか。また、許してきたのか。私は日本の「サヨク」と「左翼」の右傾化が大きくこのことと関係しているだろう、と嘆息、慨歎していますが、孫崎享『戦後史の正体』出版の「サヨク」と「左翼」の歓迎事件はその日本の右方向への急激な斜傾化を端的かつ強烈に示す格好の事例というべきものだろうと見ています。このことについては今後さらに論を深めていくつもりです。いや、深めていかなければならない、と思っています。

注1
孫崎享氏(元外務官僚・元防衛大学校教授)の新著『戦後史の正体』の小沢派評論家たちの「前評判」への違和感(弊ブログ 2012.07.08)
孫崎享『戦後史の正体』の対米自主・自立の〈正体〉について――孫崎享氏の『戦後史の正体』についての講演ビデオを観る―― (弊ブログ 2012.08.04)
古寺多見(kojitaken)氏の孫崎享『戦後史の正体』批判に共感する(弊ブログ 2012.08.23)
孫崎享『戦後史の正体』をオーソドックスに読み解くひとつの書評――「過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む」(弊ブログ 2012.08.23)
「孫崎享『戦後史の正体』にかぶれる読者の見識を疑う」 ――古寺多見氏の孫崎氏批判は正論だと私は思う(弊ブログ 2012.09.28)
「孫崎享『戦後史の正体』にかぶれる読者の見識を疑う」 ――古寺多見氏の孫崎氏批判は正論だと私は思う(2)(弊ブログ 2012.10.14)

注2:岡留安則氏については私は彼の思想性のお粗末さについて次のような批判記事を書いたことがあります。「ジャーナリスト? 岡留安則氏(「噂の真相」元編集長)の軽口と喜納昌吉氏のこと ――喜納氏の県知事選出馬騒動とも関連して」(弊ブログ 2010.10.16)
*下記は孫崎享著『日本の国境問題』(ちくま新書 2011年5月)を紹介して孫崎享は「まっとうな人」だと印象づけようとした人への返信として認めたものです。もちろん、近頃流行りの「孫崎享ブーム」とやらへの異議申し立てとして、です。今回も古寺多見氏の「まっとうな」孫崎氏批判を援用させていただくことにします。なお、強調及び注はすべて引用者。

先に私は「孫崎享『戦後史の正体』にかぶれる読者の見識を疑う」という古寺多見氏の孫崎批判の論攷をご紹介しましたが、その古寺さんが孫崎氏の『日本の国境問題』は「穏当至極の主張の本である」と評価しています。

「同じ著者による下記の本(引用者注:『日本の国境問題』)を読んだ(略)。こちらは穏当至極の主張の本である(ネトウヨは怒り狂うに違いない内容だが)。思うのは、孫崎享は本書のように自分の守備範囲に著作をとどめておけば良いのに、ということだ。それを、鳩山一郎岸信介といった、改憲派の「保守傍流」政治家たちに肩入れしつつ、妙な思い込みに固執するあまり、イデオロギー的かつ米国陰謀論に凝り固まったトンデモ本を出すから批判される*2。日本近代史の研究者が書いた本(坂野潤治著『日本近代史』)を読んだ直後に孫崎のトンデモ本を読んだ日には、あまりの落差の大きさに目が眩んでしまう。困ったものである(笑)」(「孫崎享の穏当な本『日本の国境問題』」2012-10-08)

しかし、上記の古寺さんのコメントを読めば一目瞭然ですが、古寺さんの『戦後史の正体』批判には変わりがありません。彼のその後の『戦後史の正体』批判の要点を3本ほどご紹介させていただこうと思います。

ひとつ目。

孫崎享は日本国憲法を「押しつけ憲法」論で一蹴してるわけだが(笑)(kojitakenの日記 2012-10-05)

「某所で教えてもらったのだが、孫崎享の『戦後史の正体』は最初の100頁が創元社のサイトでpdf化されたものを読める。
http://www.sogensha.co.jp/pdf/preview_sengoshi_ust.pdf

(略)この100頁で一番目についたのは、日本国憲法を「押しつけ憲法論」で軽く片付けてしまっていることかな(孫崎本68~71頁。pdfファイルの80~83頁)。/なにやら『中国新聞』で岡留安則(注1)が『戦後史の正体』を絶賛したらしいけど、世の「リベラル・左派(サハッ?)」の皆さん、そんなことで良いの?/蛇足だけど、孫崎享ってたぶん鳩山一郎びいきなんだと思うけど、1930年に野党・政友会の政治家だった鳩山一郎が「ロンドン海軍軍縮条約は、軍令部が要求していた補助艦の対米比7割には満たない」、「軍令部の反対意見を無視した条約調印は統帥権の干犯である」と政府を攻撃して自ら政党政治をぶっ壊したことにはたぶん孫崎のトンデモ本には触れられてないんだろうねえ。なんたって『戦後史の正体』だもんね。/で、鳩山一郎はアメリカの「虎の尾を踏んだ」から公職追放されたわけだ。そんな「歴史観」で本当に良いの? 教えて風太さん、教えて岡留さん(笑)

ふたつ目。

「改憲、はたまた護憲」カメレオンのような孫崎享(kojitakenの日記  2012-10-11)

「護憲 孫崎」でググってみた。筆頭に表示されたのは「きまぐれな日々」の下記記事。/きまぐれな日々 安倍晋三「長期政権」の悪寒/左派内から崩れる「護憲論」/3番目に はこんなTwitterが。7月29日の発信で、これは『戦後史の正体』の発売5日後。発信者は改憲派と思われる。

https://twitter.com/khiikiat/statuses/229709454487212032

孫崎享『戦後史の正体』:護憲派にとってはビミョーな内容含む。現行憲法は押し付けそのものの指摘。コレに怒らないなら国民ではない。米軍=解放軍規定の滑稽さはイラク・アフガニスタン侵略目撃の日本人には通じない

「ビミョー」も何も、孫崎享は『戦後史の正体』で堂々と「押しつけ憲法論」を開陳している。/ところが、同じ人間(孫崎)が、『週刊朝日』ではこんなことを言っている。

週刊朝日EX DIGITAL
橋下氏も自民党総裁選 も「右」の人ばかり どうなる日本

先日旗揚げされた「日本維新の会」の「維新八策」の中には、「憲法9条」に関する記述があるという。これについて元外務省国際情報局長の孫崎亨氏は「橋下徹氏は9条を変えたいのだろう」と指摘。「右」の人間が増える政界の現状についても話した。

* * *

憲法改正の分野には「憲法9条を変えるか否かの国民投票」という項目があります。もちろん橋下さんは9条を変えたいんでしょう。維新八策には書かれていませんが、集団的自衛権に触れたところで、「日本の主権と領土を自力で守る防衛力と政策の整備」という表現もあります。中国の大国化に対しては、中国の強大な軍事力に対抗できるようなものは築きえない以上、平和的な手段を目指さないといけない。なのに、対抗できるという形で動こうとしている。これは米国が日本、韓国、フィリピン、ベトナム、豪州などを使って中国に対抗するという、その流れをくんだものです。/折しも尖閣問題のさなかですが、橋下さんが日本のトップに立てば、対中強硬路線を突っ走るでしょう。中国との摩擦、緊張感を高めて、その中で日本の防衛力を高め、米国との協調を進める。こういうシナリオではないでしょうか。/自民党の総裁選の主な候補はもう、極端に右の人ばかりですよね。石破(茂)さん、安倍(晋三)さんは確実。石原(伸晃)さんも、お父さんと同じ路線だと推定すると、右ですね。もう選択肢がなくなってしまったんですね。かつてはこういう人々は、「おもしろいかもしれないけど本流じゃない」という位置づけだった。いまや、本来あるべき選択肢がなくなってしまった。橋下さんも右、野田さんも右、本当に選択肢がない。/※週刊朝日  2012年9月28日号

孫崎享に聞きたいが、それでは岸信介は「右」ではないのか。何度も書くが、孫崎、高橋洋一長谷川幸洋(注2)の鼎談では、高橋が橋下徹(注3)を持ち上げたり、安倍政権時代の思い出話に花を咲かせたりしている。これは『週刊ポスト』に掲載された。孫崎の態度は『週刊朝日』と『週刊ポスト』で違う。/メディアによって言うことをコロコロ変える孫崎享は、私には「劣化版佐藤優(注4)」に見える。/そして、昨今の「孫崎享ブーム」は「<佐藤優現象>」そのものだ。孫崎享を批判できない「リベラル・左派」は、劣化もきわまれりとしか言いようがない。

三つ目。

孫崎享が書かなかった鳩山一郎の「統帥権の干犯」論(kojitakenの日記  2012-10-13)

「私が孫崎享の著書を2冊読んで感じたのは、孫崎はネトウヨの言うような「親中派」では全くないということだ。それどころか、孫崎は中国を「したたかな敵」と見ていて、そんな中国に日本はどう対応していくか、というのが孫崎が持っている問題意識だと思った。

反面、私が感じたのは孫崎のかつての勤務地であったソ連(当時)に対する一種の親近感である。鳩山一郎は「反米・親ソ」の政治家としても知られ、クレムリンは鳩山政権が長続きするよう応援したいと考えていたという。岸信介はもちろん「親米・反ソ」の政治家であるが、孫崎は鳩山由紀夫内閣のブレーンとして近年名を上げた人だ。その孫崎は岩上安身(注5)らのグループに入り、小沢一郎(注6)の擁護にも熱心に見えるが、私には孫崎の小沢擁護は「商売上の必要性からやむを得ず行っている」ものに過ぎず*7、本音は「鳩山由紀夫(注7)シンパ」なのだろうと思う。著書を読んでも、最近の政治家で孫崎がもっとも熱烈に擁護しているのは鳩山由紀夫であり、小沢一郎擁護に関しては鳩山由紀夫に対するほどには熱が入っていないように思われる。そして、岸信介に対する肯定的評価については、やはり安倍晋三の近い将来の首相就任を視野に入れているとしか思えない。『戦後史の正体』においては、(第1次)安倍晋三内閣に関する記述を省略したり、「おわりに」に書かれた分類でも安倍晋三を「対米追随派」として「他、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、安倍晋三、麻生太郎、菅直人、野田佳彦」として、十把一絡げで切り捨てられている。しかし、そんなものは第2次安倍内閣成立後に「安倍首相は変わった。第1次内閣時代の安倍さんとは違う」と言ってしまえばおしまいである。それだけで、過去の主張などなかったことになる。孫崎のトンデモ本第2弾における鼎談の相手である高橋洋一や長谷川幸洋は安倍晋三のシンパだし、岩上安身らのグループに以前から入っている植草一秀(注8)は、『知られざる真実』を読んでみればよくわかるが、もともと安倍晋三のシンパだったのである(もちろん最近の植草は、そんな本音を隠しているが)。

何より危険なのは、nesskoさんのコメント*8にもあった通り、「アメリカ陰謀説は容易にユダヤ陰謀説とつなが」るのであって、それはネトウヨの「反韓・反中」と何も変わらないということだ。私は、「孫崎享に関してはネトウヨが正しい!」とまでは思わないけれども、「孫崎享はある意味ネトウヨより危険だ!」とは思う。なぜなら、いわゆる「リベラル・左派」は、ネトウヨの主張にいまさら影響されることなどないけれども、孫崎享の主張に影響されて自らの歴史観を改めるというのは、現に今起きている現象だからだ。だから私は毎日のように孫崎享を批判する記事を書き続けるのだ。」

私もほぼ全面的に古寺多見氏の見方に賛同します。

注1:岡留安則氏については私も次のような批判記事を書いています。
注2:長谷川幸洋氏については私は知るところは少ないのですが、彼の論については下記弊論中のような疑問を呈示しています。
注3:橋下徹氏については私もたくさんの批判記事を書いていますが、下記にその初期批判の一例を挙げておきます。
注4:佐藤優氏についても私はたくさんの批判記事を書いていますが、下記にその一例を呈示しておきます。
注5:岩上安身氏についても私は相応の批判記事を書いていますが、下記にその一例を呈示しておきます。
注6:小沢一郎氏についても私はたくさんの批判記事を書いていますが、下記に最近の小沢氏批判の一例を呈示しておきます。
注7:鳩山由紀夫氏についても私はたくさんの批判記事を書いていますが、下記にその初期批判の一例を呈示しておきます。
注8:植草一秀氏についても私は相応の批判記事を書いていますが、下記にその一例を呈示しておきます。
古寺多見氏の孫崎氏批判は左記のようなものです。一部に情緒過多(通俗を批判する自らがその通俗の言葉の発する負のナルシスに十分に反省的ではない、ということです)のスラング風の言葉遣いがあって、その点に難点を感じるところがあるものの、有馬哲夫『原発と原爆「日・米・英」核武装の暗闘』と対比的に孫崎氏批判を述べる論の中身は正論だと私は思いますし、その論からも当然導き出されることになるわけですが、古寺多見氏の政治の現状に対する認識(★)にも私はおおいに共感します。

★孫崎氏の論の一番の問題点は、彼が日本の「対米追従」からの脱皮をその論の中核的課題として措きながら、その「対米追従」を推し進めてきた当の政党(主に自民党)の領袖(すべてではないにしても)を「対米自立派」として位置づけし(その根拠とするところも一面的、すなわち彼の主観を超えるものではありません)、評価していることです(たとえば「過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む」参照)。彼の政治の現状への関わり方を見ても、その「対米追従」の姿勢において多くの識者からしばしば「第2自民党」と酷評される民主党を評価し(たとえば「2012/07/24 政権公約を実現する会(鳩山グループ)勉強会 講師 孫崎享氏」の講演ビデオの冒頭部分参照)、なかんずく決して「対米自立派」とは言えない小沢一郎氏を「対米自立派」と位置づけ、評価していることからも彼の「対米追従」からの脱皮の主張(それがほんものの「対米追従」からの脱皮の主張だとして)と彼の実際の行動との間には大きな矛盾と破綻があることは明らかです(小沢氏が「対米自立派」の人では決してありえないということはたとえば「小沢氏の強制起訴と鈴木氏の逮捕・有罪・収監を「問題あり」とするある論への反駁(1)」参照)。同じ外務省出身者でやはり日本の「対米従属」の姿勢を問題視する浅井基文さんの「民主党評価」などとは180度の違いがあります(たとえば浅井基文さんの「日米安保体制から日米軍事同盟派の変質・強化――オバマ/民主党政権下の三つのSCC共同文書を読み解く――」<「第二自民党政権」である民主党政権>参照)。

★★なお、「対米従属」の日米関係に関して、民主党にその「従属」性を改善する意志も力量もないことは、すなわち決して「対米自立」の道を歩むことのできない民主党政治の限界性については武藤一羊さん(ピープルズ・プラン研究所運営委員)の以下のような指摘を参照。

「鳩山政権(引用者注:「民主党政権」と読み替えても大過ありません)のふるまいで特徴的なのは、この政権が自民党がこれまで積み上げてきた政治的悪行についてきわめて寛大であることである。新政権は、自民党レジームからどれほど膨大な負の政治的財産を引き継いだのかを明らかにし、それの清算という困難な仕事に挑戦する決意を示し、その仕事を支持するよう広く人びとに訴えるのが当然と思われるのに、政官癒着や天下りなど特定の分野を除いては(★★★)、それをしようとしないのである。世論を政権に引きつける上でも得策であろうと思われるのに、肝心の問題でそれをしないのである」。「それをしないのは、自民党政権時代につくられた日米関係を変更するつもりがないからである」(「鳩山政権とは何か、どこに立っているのか ――自民党レジームの崩壊と民主党の浮遊」 2010年2月16日)

★★★この点についてはさらに注が必要です。いまの民主党は当初マニフェストに掲げていた「政官癒着」の打破や「天下り」廃止の公約もかなぐり捨ててかつての自公政権顔負けの超「財界癒着」政党、「政官癒着」政党と化しています。再び浅井基文さんの説を引用させていただこうと思いますが、浅井さんはこの点について次のように言っています。

残念ながら、民主党政権の政治は、自公政治の時よりもさらに悪質になってしまっています。私は、自公政治は最悪で、これ以上悪い政治はあり得ないだろうと思っていたのですが、それは間違っていました。民主党政治は、自公政治がやりたくても世論をまだ気にして手をつけ得なかった領域においても、まったく傍若無人にブルドーザー式に破壊を進めています。消費税増税、政財官学・大マスコミ一体・グルで推し進める原発温存、日米軍事同盟の限りない侵略同盟への変質強化、非核三原則・武器輸出三原則の骨抜き化、宇宙の軍事利用への踏み込み、中韓露を領土問題で強硬姿勢に追いやる見境のない、狭隘なナショナリズムの鼓吹、等々。民主党政権には何の幻想ももっていなかった私ですが、谷底へ転げ落ちていくこの猛スピードまでは予想し得ませんでした。しかも、この加速するスピードにブレーキをかける手がかりも頭に浮かんでこないというのが今の私の焦燥感さらには絶望感を生んでいます。「自分は長生きしすぎた」というのが正直なホンネです。(「全国障害者問題研究会(全障研)全国大会・広島」 2012年8月14日)

さて、先に私は「孫崎享『戦後史の正体』をオーソドックスに読み解くひとつの書評――『過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む』」(弊ブログ 2012.08.23)をご紹介しましたが、その孫崎享『戦後史の正体』批判第2弾のご紹介ということになります。

なお、孫崎享氏の『戦後史の正体』の序章と第一章(100頁)はこちらで読むことができます。

私は孫崎享『戦後史の正体』は古寺多見さんと一緒で「駄本」だと思っていますので、買ってまで「読むつもりは全く」ありません(最下段の「補足」参照)。これも先にご紹介している下記の孫崎享氏の講演ビデオ(「2012/07/24 政権公約を実現する会(鳩山グループ)勉強会 講師 孫崎享氏」)を観れば十分です。

以下、古寺多見氏の孫崎享『戦後史の正体』批判の文。

「キッシンジャーの『寵児』」だった大の親米政治家・田中角栄は
なぜロッキード事件で失脚したか

kojitakenの日記 2012-09-25

昨今は、孫崎享のトンデモ本『戦後史の正体』によって、歴代の総理
大臣を「自主派」と「対米追随派」に分類し、前者に高い評価を与え
て後者をこき下ろすという粗雑なステレオタイプ的歴史観が蔓延して
いる。孫崎本の歴史観は噴飯ものの一語に尽きる。何度も書くけれ
ども、そんな孫崎のバカ本にかぶれる読者の見識を疑う。

そんな人たちに読んでもらいたいのがこの本。

原発と原爆 「日・米・英」核武装の暗闘(文春新書)

作者: 有馬哲夫
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2012/08/20

著者の有馬哲夫は、孫崎享と同様「保守」の人だと思うが*1、孫崎
のステレオタイプ的な歴史観とは大違いで、資料に当たって歴史的
事実を浮き彫りにしていく研究者である。

たとえば、孫崎享が称揚する岸信介が、「日本が戦術核を保有(さ
らには使用)することは違憲でない」と述べたことは、岸信介の孫
にして明日自民党総裁に返り咲くであろう安倍晋三が2002年5月
13日に早稲田大学における講演会で述べたことによって最近でも
よく知られているが、岸は現実にアメリカとの外交において、この
「核カード」でアメリカと交渉した。この本のタイトルが示しているよう
に、原発を持つことは核兵器を作る能力を持つことを意味する。

著者は、「日本はアメリカの陰謀で原子力発電を導入し、そのアメ
リカ製の原子炉に欠陥があったために、爆発事故と放射能漏れが
起きた」という「陰謀論」を厳しく批判する。現実にはアメリカは日本
に核兵器製造能力を持たせまいとしたから、正力松太郎はそれに
対抗する意味でイギリスの原子炉を導入したのである。正力松太
郎と岸信介がともに夢見たのは日本の核武装だった。その意味で、
岸信介は確かにアメリカの言いなりになるのをよしとしない「自主
派」の保守(というより右翼)政治家だった。なにしろ、単なる軍備
増強にとどまらず、核武装まで視野に入れていたのだから。

さらに著者は「田中角栄は独自のエネルギー政策(ウラン供給源の
多様化)を進めようとしてとしてアメリカの虎の尾を踏み、CIAに失
脚させられた」という俗説にも厳しい批判を加える。事実は、田中の
エネルギー政策はアメリカの「言いなり」だった。著者は田中のエネ
ルギー政策は田中の創作ではなく、官僚が時間をかけて研究して
用意したものを実行したに過ぎないと指摘する*2。

そもそもニクソン政権の国務長官だったキッシンジャーは、孫崎享
が「自主派」に分類した、日本の立場を強く主張するタイプの福田
赳夫*3よりもアメリカの言うことをよく聞く田中角栄を好み、「ポスト
佐藤」の自民党総裁選(1972年)では田中の勝利を望んだとのこと
だ。

ロッキード事件にしても、1972年当時懸案だった日米貿易不均衡
是正において、日本がアメリカの航空機を買わされたことに端を
発しているが、この時の交渉で首相・田中角栄と通産相・中曽根
康弘がアメリカから購入する品目として最重視したのは濃縮ウラン
であり、次いで自衛隊の武器の購入だった。航空機の優先順位は
それらよりも下だった。

この日米貿易不均衡是正のための日米協議で、田中と中曽根は
アメリカに言われるまま、濃縮ウラン、エアバス、武器と輸入品目
と金額を次々と積み増していったというが*4、著者はそれを田中
内閣の懸案だった日中国交回復を成し遂げるための障害となら
ないよう、アメリカをなだめる必要があったためではないかと推測
しているようだ。

著者は、この日米協議でアメリカから購入させられた品目のうち、
田中がもっとも乗り気でなかった航空機の購入をめぐって田中が
収賄事件を起こしてしまったとする。よくある「田中角栄は『自主
派』だったためにアメリカの怒りを買ってロッキード事件で陥れら
れた」という「陰謀論」には根拠など全くなく、事実は田中がアメリ
カの言いなりになった航空機の購入で田中は汚職事件で自滅し
たのだった。著者は、必死にアメリカの機嫌をとろうとしていたも
のわかりのよい彼ら(田中角栄と中曽根康弘)をアメリカ側が失
脚させようと思うだろうか、と痛烈な皮肉を放っている*5。孫崎享
は田中角栄を「対米追随派」に分類し直すべきではなかろうか
(笑)

なお、1970年代の日本で「ロッキード事件はアメリカの陰謀」など
というトンデモ言説を開陳したのは、近年稲田朋美の応援団長を
買って出、今行われている自民党総裁選では安倍晋三を応援し
ている極右の渡部昇一くらいのものだった。そんなトンデモ陰謀
論を、今では少なからぬ「リベラル・左派」が信奉している。嘆か
わしい限りだ。

重ねて書くが、このような悪しき風潮を助長する、現在では「小沢
信者」に成り果てた老元外交官・孫崎享に「洗脳」されてしまった
人には、是非この本の一読をおすすめする。

最後に書いておくと、正力松太郎と並んで日本に原発を導入した
張本人である中曽根康弘を通産相に任命したのは田中角栄で
ある。あの「電源三法」は、田中曽根(第2次田中内閣)時代の19
74年に制定された世紀の悪法であることはいうまでもない。(後
略)

*1:この本を読めばわかるが、有馬哲夫は原発を決して否定し
ていないし、日本の核武装についても態度を保留している。

*2:同様のことは小沢一郎についてもいえ、『日本改造計画』で
小沢が打ち出した新自由主義的な諸政策は、小沢のブレーン
だった官僚が作ったものだといわれている。もちろんそんなこと
はこの本には書かれていないが。

*3:有馬哲夫も福田赳夫に対して同様の評価を下している。
「自主派」とは保守のタカ派政治家を表す言葉ともいえるだろう。

*4:1990年の日米構造協議における小沢一郎のアメリカへの
徹底的な譲歩を思い出させる。小沢は師の角栄に倣ったのだ
ろうか。

*5:本書176頁

【補足】『戦後史の正体』を買ってまで「読むつもりは全く」ない、という
私の言説に関して

上記の言説に関して起こりえる反論を予測して(実際に反論があったわけですが)以下をあらかじめ補足しておきます。

上記の私の言説に関して「本を読まないで本の批評をするのはケシカラン」というたぐいの批判があることは先刻承知ずみのことです。

しかし、こうした批判は誤っていると思います。

第1。あるものの価値評価、あるモノを買うか買わないかの選択はまったく「私」の自由権に属することがらです。その私の選択権について人さまからとやかく言われるスジ合いはまったくありません。明らかに不良品とわかっている品物を誰も買わないでしょう。そういうことです。

第2。本を読まないで批判(批評)するのはケシカランというのも俗論にすぎません。本を読まなくても本の中身がわかっている場合は十分に批評できます。

たとえば政府は先日(19日)原発ゼロ目標を盛り込んだ「革新的エネルギー・環境戦略」を参考文書に留めるという閣議決定をしましたが、この閣議決定については多くの人が批判しています。しかし、閣議決定そのもの(原文)は管見の限りどのマスメディアにも紹介されておらず、首相官邸のホームページにもいまだアップされていません。原文を読まなければ批判できないというのであれば、官僚やメディアの関係者などの一部の例外を除いて一般の人は誰もこの閣議決定の原文を読むことはできないということになるわけですが、しかし、上記のとおりこの閣議決定については多くのメディア及び人が批判しています。メディアは閣議決定そのものの原文は紹介していませんが、そのアウトラインは示しており、そのアウトラインを読めば原文を読むことはできなくとも批判は十分に可能だからです。

そして、孫崎享『戦後史の正体』の場合、著者その人である孫崎氏が同著の核心について自身で解説をしています。


上記を観るだけで『戦後史の正体』の中身は十分に理解することができます。したがって、上記を観ただけでも同書の批判、批評は十分に可能です。もう一度繰り返しておきます。本を読まないで批判(批評)するのはケシカランというのは、一般のこととして「読む」という行為の多様性について理解することができない人の俗論にすぎません。
以下はぜひご紹介させていただきたいブログ記事です。中国の反日デモのニュースが連日流れていますが、その中国の反日デモの本質を読み応えのある筆致で、かつ、わかりやすく解説しています。転載させていただこうと思います。
 
中国・反日デモ暴徒化の背景と、日中関係の今後
~~最も基礎から解説!

西端真矢 2012年9月18日
 
長文ですので全文引用は控えますが、 記事の最下段にあるひとりの若い中国人女性の掲げているプラカードのスローガンとそのプラカードを掲げている若い中国人女性の写真が素敵です。 いや、感動的というべきでしょうか。そういう意味で素敵なのです。この一枚の写真とプラカードのスローガンにはたしかな中国の庶民的レベルでの良心と理知、そして希望を見出すことができるように思います。以下、その写真とスローガンの訳。


デモ写~1
 

私たちは戦争を、地震を、水害を乗り越えて来た。
ここはファシストの土地ではなく、私たちの土地。
暴力によって築き上げたのではない。

そう、ここはもう文革を行う場所ではない。
この土地で開かれた平和の祭典・オリンピックを全世界が見つめた、
その場所ではないか。
暴力を停止しよう。
私は知っている。私たちの祖国はかつて愛にあふれていたことを

主情的な孫崎享『戦後史の正体』評価が多い中で同書をオーソドックスに、あるいはスタンダードに読み解いているひとつの書評があります。といっても、私はこれがふつうの「読み」というものだろう、と思っているのですが、あまりに主情的な批評が多い。

ご紹介させていただこうと思います。

同書評は孫崎享『戦後史の正体』の論の非論理、論理の不整合のゆえんを見事に言い当てています。一読に値すると思います。

過剰に大きな星条旗―孫崎享『戦後史の正体』を読む
(Valdegamas侯日常
2012-08-11)

 感心できない本である。

 本書出版の動機は、著者が出版社から「高校生でも読めるよう
な冷戦後の日米関係」を書くように希望され、構想を考えるうち、
冷戦後に限らず、戦後の日米関係の通史として描くとを決めたそ
うである。とはいえ、本書は日米関係史としてははなはだ中途半
端なものである。その内容からして、日米関係というファクターを
(ママ)要因を重視した、戦後史(つまりタイトルどおり)とする方が
妥当だろう。

 本書はまず細部の不用意さが目を引くが、本書のような本はま
ずその示すアウトラインについて批判的検討をするべきだろう。
本書の概略をまとめたうえで、アウトラインの検討を行ないたい。

本書の概要

 著者は戦後日本の外交は、常に存在する強力な米国の圧力
の中で、どのような選択をしたかで語ることができるとする(p.6)。
 そして終戦以来続くその選択の軸は「対米追随路線」と「自主
路線」の二つである。

 「自主路線」は「日本には独自の価値があり、米国と日本が不
一致の局面では自らの価値を追求する」路線である。「対米追
随路線」とは、「強い米国に抵抗することはやめ、米国の方向性
に従いつつ、その渦中で利益を得る」路線であり、著者は前者
の「自主路線」の立場をとると明言している(vii頁)。

 また「自主路線」を唱えた政治指導者たちは、何らかの形で米
国政府(の謀略を担うCIA)や「対米追随路線」をよしとする日本
国内の検察特捜部(著者はその起源以来、この組織が米国と
深い関係にあるとする)、マスコミ、外務省・防衛庁/防衛省と
いった組織によって形成された「システム*1」によって排除され
てきたと著者は主張する(pp.368-371)。その渦中で著者は米国
の圧力や裏工作といった「謀略」が駆使されてきたと推測する。
(pp.8-13)

 著者は本文で終戦から21世紀まで、彼のいう「自主」の政治家
―重光葵、石橋湛山、芦田均、岸信介、鳩山一郎、佐藤栄作、
田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一、細川護煕、鳩山由紀夫―と、
「対米追随」の政治家―吉田茂、池田勇人、三木武夫、中曽根
康弘、小泉純一郎…その他諸々(鈴木善幸、竹下登、橋本龍太
郎、福田康夫といった一部の人々について、筆者は「一部抵抗
派(特定問題について米国の圧力に抵抗した人たち)」というカテ
ゴリを「おわりに」で唐突に設けている)―の政治家たちが、米国
の圧力にいかに翻弄されたか、また「自主」の政治家がいかに
排除されたのかを述べたうえで、下記のようなポイントを強調す
る。
1) 米国の対日政策はあくまで米国の国益を追及するものである
2) 米国の対日政策は、その環境変化によって変わる
3) 米国の圧力が大きかろうと、日本のゆずれない国益は主張す
るべきである
(p.366)

 そしてカナダのピアソン政権のように、米国に容易に屈しない、
毅然とした自主外交を行なうべきことを再度強調するのである。

本書の評価

 本書は「対米自立」「対米追随」で一切の政治指導者を区分け
し、さらに米国(および親米派「システム」)の意向「のみ」がその
生殺与奪を握ったという議論を展開した結果、少なからず困惑
する議論を展開している。三点に整理して考えたい。

全てを日米関係で語ることは可能か

 第一に、日米関係で語りえないであろう事例への強引な日米
関係要因の発見・あてはめである。たとえば竹下政権を崩壊さ
せたリクルート事件を、軍事的貢献に消極的な竹下政権に不
満だった米国の(意を受けた検察の)謀略であることを示唆し
(pp.304-307)、福田康夫の辞任を、陸上自衛隊イラク増派、サ
ブプライム危機の時期大きな問題となった米国金融機関ファニ
ーメイへの融資要求といった米国の圧力への「抗議の辞任だっ
た」とする著者の議論(pp.350-554)は、どれだけの人間が説得
されるだろうか。日米関係という要因がその政権の存続に作用
したであろう事例も後述のとおり苦しい解釈が目立つが、その
前にこれらの無理やりな事例があることは指摘したい。

米国の圧力とは何か

 第二に、日本政治の生殺与奪を握る「米国の圧力」はどのよ
うな形で展開されるのかについての、議論の不十分さである。
米国の意向こそが日本の政治を左右した(左右できた)という
著者の主張は、確かに占領期、および独立初期に適用される
ならば理解できる。なぜならばこの時代、米国は多くの対日政
策におけるオプションを有していたからである。占領期はいわ
ずもがなであるし、独立初期は在日米軍経費の一部を日本が
財政負担する「防衛分担金」の扱いなどを典型として、米国は
日本政治に影響を及ぼしえた。
 米国が当初強硬な反対を行なったことで、一時は鳩山一郎
内閣を崩壊寸前まで追い込んだ1956年度の防衛分担金削減
交渉で、最終局面における米国の「譲歩」が米国の望む保守
勢力結集への努力とのバーター取引であったことを提示する
佐藤晋・中北浩爾などの研究は、そのような米国の「圧力」の
実在を大きく感じさせるだろう*2
 しかし、それ以降となると話は変わる。米国が日本に行使し
うる「圧力」は、防衛分担金のように日本政治を内部から制度
的に操作しうるものではなく(たとえば先述の防衛分担金は、
これは1952年の日米行政協定に基づくものであったため、19
60年の日米地位協定へ改定で消滅した)、日本の政治・経済
システムに対する純然たる「外圧」へと変わっていく。はたして
「外圧」はそこまで有効に機能しえたのだろうか。
 もちろん著者は序章でも掲げた「謀略」の存在をここぞとば
かりとりあげるのだろう。しかし著者のいう謀略の担い手とは、
あの、(著者も引用する)ティム・ワイナーが『CIA秘録』でその
実績が余すところなく描かれている、謀略の成功経験に乏し
いCIAである。
 キューバの指導者カストロの暗殺計画を数十回と立案して
は、一回も成功しなかったCIAである。政権の転覆工作では、
イランのモサデク、グアテマラのアルベンス、南ベトナムのゴ
・ジン・ジェム、チリのアジェンデといった、途上国でのわずか
な成功体験ばかりしかもたないCIAである。そのCIAが著者
の言うとおり、継続的に日本の政権を崩壊させてきたという
のなら、これは間違いなくCIA史を書き換える壮挙といえるだ
ろうが、そのようなことがありえるのだろうか。

 そもそも本書の構成そのものが、このような「米国の圧力」
を証明し論じることの困難さを示しているように思われる。
本書は「序章」を除く本文約340ページを、占領期(100ペー
ジ)、独立から安保改定まで(100ページ)、ポスト安保改定か
ら冷戦終結期(90ページ)、冷戦終結後(約50ページ)で分割
している。六十数年という期間に比して、最初の十五年(つ
まり「米国の圧力」が制度的にも鮮明に存在した時代)に割
いたページ数が大きすぎることが見てとれよう。

親米「システム」は論じられたか

 著者のこれまでの議論が指摘するように、このような直接
の「米国の圧力」を補完し、自発的にその意向を察知して行
動するものが、日本国内に埋め込まれた官庁・マスコミ・財
界の親米「システム」である。このような「システム」は確か
に存在するのだろう。しかし、この「システム」についての議
論は曖昧な人脈論に留まっている。検察ではロッキード事
件を担当した堀田力、陸山会事件(西松建設事件)を担当
した佐久間達哉が駐米大使館の勤務経験(一等書記官)が
あること(pp.85-86)、朝日新聞の論説主幹を務めた笠信太
郎が戦後CIA長官を務めるアレン・ダレスと終戦工作に関
わった経験などを著者は指摘してはいるが(pp.208-209)、
それはただ「米国と接触があった」という指摘にとどまって
いる。米国と何らかの関わりがある人間は「システム」に埋
め込まれたとでも言いたげな著者の記述を見ると、外交官
時代にハーバード大学研究員を経験しているのだから、著
者もまた「システム」の一員なのではないかと邪推すらして
しまう。
 私的な関心にひきつけていえば、評者は、「なぜ現代日本
は(過剰に)親米的なのか」という著者と少なからず重なる
問題意識を有している。CIAの謀略はともかくとして、とにか
く米国の意向に異常なほど注意を払う日本人が少なからず
存在することは事実であるし、その解明は評者自身の関心
事である(評者はそれが「システム」といえるほど横の連携
を持っているとは思わないし、ましてCIAと結託したり、疑獄
事件を何度も起こすとも思わないが)。しかし先述のように、
このような親米的な日本人の解明を、「米国と何か直接的
な関係があったか」で識別する著者の視角は貧弱なように
思われる。彼らの動機について、より踏み込んだ検討が不
可欠であろうが、本書はそのような問いには答えていない。

米国はいつ、日本の政治指導者を失脚させるのか

 第三に、日本における米国の利益を、米国にとっての日
本がどのような存在であるか、という点である。「自主路線」
が米国の国益と真っ向勝負する路線であるとするならば、
この点を明らかにすることは必要だろう。本書を読む限り、
著者は様々な要素のなかでも、「在日米軍の撤退(及び日
米行政協定の改定)」と「中国との関係改善」が、米国の
「虎の尾」であったと指摘しているように見える(pp.161-162、
p.218、pp274-275)。そしてこれに反したがゆえに、岸信介
(「在日米軍撤退」「行政協定改定」「中国との関係改善」を
追及)、田中角栄(「中国との関係改善」、資源外交を追求)、
そして時期を経るが鳩山由紀夫(「在日米軍撤退(県外移
転)」「行政協定改定(地位協定見直し)」を追求)は引きず
りおろされたのだという。しかし、これらは本当に米国の
「虎の尾」だったのであろうか。あるいは未来永劫そうであ
るのか。

「在日米軍の撤退」は虎の尾か

 重要と思われるのは、これらの「虎の尾」が本書の中で
バズワードと化していることだろう。著者は文中で「在日米
軍の(全面)撤退」を米国に求めた重光葵、同じく「可能な
限りの在日米軍撤退」を求めた岸信介らと、鳩山由紀夫
を並べて論じている。特に重光の構想を説明したあと、
「これにはみなさん、驚かれたのではないでしょうか。まだ
本当に弱小国だった1955年の日本が、米国に対して『12
年以内の米軍完全撤退』を主張しているのです。普天間
基地ひとつ動かすことさえ『非現実的だ』としてまったく検
討しない現在の官僚や評論家たちは、こういう歴史を知
っているのでしょうか」と鳩山政権の動きをあるべきもの
と賞賛している(p.161)。
 しかしながら、50年前と現在の在日米軍の状況は大き
く異なる。1950年代末の在日米軍は日本本土だけで892,
562千平方メートルの土地を利用し、8万7千人が展開し
ていた*3 。これと50年後、本土80,863千平方メートル・沖
縄228,076平方メートル、5万人が展開している*4現在の
在日米軍は単純な比較が可能だろうか 。
 50年代の広大な米軍基地は当時から米兵と日本国民
とのトラブルの温床、日本のナショナリズムを刺激する日
米間の難題となっており、1955年4月に米国家安全保障
会議で承認された対日政策文書NSC5516/1も、地上軍
戦力については撤退を勧告し、軍部も政治的理由から
1957年6月にはこれを承認するに至っている*5
 そのような「在日米軍の撤退」について一定のコンセン
サスが日米間に存在していた時代と、鳩山由紀夫政権
の時代に提起されたそれを同一線上に語ることは、バズ
ワード化の悪影響と思われてならない。「在日米軍の撤
退」が岸の「虎の尾」だったという説は、どうにも首肯しか
ねるのである*6

 加えていうならば、著者が重視する「行政協定の改定」
もバズワードと化している。著者は行政協定の全面的改
定を志向していたと論じている(p.198)。確かに、岸は19
83年の回顧録で「もともと全面改定派だった」という議論
をしているが、彼自身が同時代的にそのような動き、発
言をした記録は見受けられない*7。せいぜい岸が望ん
でいた行政協定の改定とは部分改定であり、しかもそ
れは著者が重視する施設返還条件(第2条)の改定で
はなく、予算編成に関して米国に拒否権を与えてしまう
防衛分担金条項の削除(第25条)であった*8 。全面改
定は関してはむしろ著者の批判する(反岸派の倒閣運
動としての)河野や池田派がその推進力となったのであ
*9 。著者は岸が安保条約を改定し、続いて行政協定
を改定する「二段階構想」を有していたと主張しているが、
この主張に何らかの根拠はあるのだろうか(p.198)*10

「中国との関係改善」は虎の尾か

 「中国との関係改善」もまた曖昧な概念である。岸は
政経分離原則を掲げつつ、中国との貿易拡大を求め、
米国に日本の行動を説得した。これは事実である(pp.
214-217)。著者はこれが在日米軍撤退と並ぶ「虎の
尾」であったとする(p.218)。
 しかし、第一に1950年代後半のチンコムによる対中
貿易統制緩和問題(チャイナ・ディファレンシャル問題)
において、米国は(著者が好んで引用するシャラーも
指摘するように)日本のみならず、西欧の主要同盟国
とも対立していた。そしてアイゼンハワー政権内部でも、
アイゼンハワー個人に限らず、チャイナ・ディファレン
シャルを維持することは困難であるという認識が広が
っていた。1957年5月にはイギリスは日本に先駆けて、
統制離脱を宣言している*11。日本はこれに追随した
だけであった 。
 また、著者はアイゼンハワーがこれを認め、ダレス
は反対していたかのように語っているが、この頃には
ダレスも留保つきではあるが日本の中国貿易拡大を
容認するまでに至っていたことを指摘すべきであろう
*12
 第二に、「政経分離」原則を掲げ、中国との民間貿
易拡大を図ったのは岸だけではなかったことが指摘
できる。著者が「対米追随派」とする池田勇人である。
 池田政権は岸政権と同じく「政経分離」を掲げなが
ら(そして米国の反発を受けながら!)LT貿易協定の
成立を支援している*13。このような動きをとった池田
はなぜ「自主路線」の指導者でないのか、なぜ米国に
消されなかったのか。著者の見解を聞きたいところで
ある 。
 また、田中角栄失脚と「中国との関係改善」も不明
瞭である。著者の引用する、田中の急速な日中接近
がキッシンジャーを苛立たせたというエピソードはよく
知られたものであるが、その怒りがなぜ、どのような
理由で、田中を失脚させるまでに至るのか、本書で
は不十分にして語られない*14。1976年に発表された
田原総一朗の「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」
を引用する形で、著者は身の程知らずの同盟国に制
裁が加えられたという解釈を採用している。素朴な疑
問であるが、身の程知らずな同盟国がお気に召さな
いニクソンとキッシンジャーは、同じく彼らを苛出せた
「東方外交」を推進したヴィリー・ブラントを、なぜ抹殺
しなかったのだろうか*15

 非常に長くなってしまったが、米国にとっての日本の
価値を考えるとき、「在日米軍の撤退」と「中国との関
係改善」を著者が重視している以上、これらの点を精
査せざるを得なかった。しかしながら、既に論じたとお
り、「在日米軍の撤退」も「中国との関係改善」もその
内実には複雑なものがあるし、岸にとっても田中にと
ってもそれらが日米関係において実際は大きな課題
でなかった。鳩山政権については別途検討が必要で
あるとここでは留保したいが、少なくともこれらを一様
に語ることができないことは間違いないだろう。

「戦後史の正体」は見えたか

 つらつらと疑問点を連ねていったが、本書は「自主
路線」「対米追随」という枠組みにすべてを押し込み、
説明をしようとしたことで無残な失敗をしているという
のが実態の本である。既にまとめたとおり、①とても
対米関係のみで失脚が語りえない政権への強引な
解釈、②不明瞭な「米国の圧力」、③不明瞭な米国
の国益、など、著者の枠組みはいたるところで破綻
を生じている(細かな事実理解の問題については機
会があれば別項を設けたい)。著者の掲げる前提
(米国は自国の戦略のままに動く、日本も国益を守
るべきだ)は正しいかもしれないが、その前提になっ
ているのがこの「全能の米国」を相手取った倒錯し
たマゾヒズムのような戦後史認識では救われない。

 本書を一読したとき思い出したのは、森田朗がカレ
ル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎』に言
及した一文である*16。日本異質論の一冊としてベス
トセラーとなった同書について、多くの批判がなされ
たのにもかかわらず、その主張が支持されている理
由を、森田は次のように論じている。

というのは、本書における著者の論法は、
著者が主張しようとすることをラフな枠組
で示したあとは、その枠組について詳細
な説明を加えその主張を論理的に証明
していくのでなく、もっぱら具体的な事例
を次々に挙げることによって読者を納得
させてしまうというスタイルをとっているか
らである。いうなれば読者を事実で圧倒
して説得する方法であって、このような
スタイルで叙述されているかぎり、著者
の主張が必ずしも一定の事実を根拠と
して展開されているわけではないので、
個々の事例について反証しても有効な
反論にはならない。(略)事実はまだ多
数見つけ出すことができるからである。

 『戦後史の正体』についてもこのような指摘は当て
はまるであろう。「対米追随」「自主路線」というラフ
な枠組みを通じて、ひたすらエピソードをちりばめる
ことで本書は構成されている。評者は今回、森田の
議論を意識して、個々の事実の指摘というよりも、
この枠組みやその前提となるものを検討してみた。
 また、森田は同じ書評で、下記のような反論がこ
のような書籍に有効ではないかと指摘している。

このような論法の本書に対し、反論を
試みることは容易ではないが、その
一つの方法は、著者が豊富な例をあ
げて主張しようとしたことについて、
事例を一々吟味して反論を試みるの
ではなく、むしろ著者が幅広く論じて
いるにも関わらず、あえて論点として
取り上げなかった点に注目してみる
ことであろう。

 このような指摘は極めて重要であろう。本書が
何を語っていないのか―あまりに語っていないこ
とが多すぎるように思われるが―を合わせて検
討することで、本当の「戦後史の正体」が明らか
になるであろう。

引用文献
・『一九五五年体制の成立』 中北浩爾/東京大
学出版会 2002年
・『戦後日本の防衛政策―「吉田路線」をめぐる
政治・外交・軍事』 中島信吾/慶應義塾大学
出版会 2006年
・『「日米関係」とは何だったのか―占領期から
冷戦終結後まで』 マイケルシャラー・市川洋一
/ 草思社 2004年
・『歴史としての日米安保条約――機密外交記
録が明かす「密約」の虚実』 波多野澄雄/岩
波書店 2010年
・『日米関係の構図―安保改定を検証する』 原
彬久/日本放送出版協会(NHKブックス) 1991
・『日米同盟の絆―安保条約と相互性の模索』
坂元一哉・有斐閣 2000年
・『日中国交正常化の政治史』 井上正也/名
古屋大学出版会 2010年
・『日中国交正常化 - 田中角栄、大平正芳、官
僚たちの挑戦』 服部龍二/中央公論新社(中
公新書) 2011年

*1:特に著者はこのような表現を明確につかっ
ているわけではないが、便宜的に使用する。
*2:佐藤晋「鳩山内閣と日米関係―防衛分担
金削減問題と大蔵省」『法学政治学論究(慶應
義塾大学)』33号(1997年);中北浩爾『1955年
体制の成立』(東京大学出版会、2002年)、第
4章。
*3:『外交青書(1957年9月)』
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1957/s32-2-1-2.htm
*4:防衛省・自衛隊ホームページ「在日米軍施
設・区域(専用施設)面積 (平成24年3月31日
現在)」
http://www.mod.go.jp/j/approach/zaibeigun/us_sisetsu/sennyousisetumennseki.html
*5:NSC 5516/1 “Policy toward Japan”
(April 9, 1955)
http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/d28
;中島信吾『戦後日本の防衛政策―「吉田路
線」をめぐる政治・外交・軍事』(慶應義塾大
学出版会、2006年)、第5章。
*6:いささか意地の悪い指摘となるが、在日
米軍の撤退があらゆる時期にゆずれない
米国益の一線であるならば、米軍の「常時
駐留」の否定(つまり在日米軍撤退)を掲げ、
「有事駐留」を政策方針とした民社党をCIA
が資金援助していたことを、著者はどのよう
に説明するのだろうか。民社党へのCIAの
資金供与はマイケル・シャラー(市川洋一訳)
『「日米関係」とは何だったのか―占領期か
ら冷戦終結後まで』(草思社、2004年)、第9
章。
*7:岸信介『岸信介回顧録―保守合同と安
保改定』(広済堂出版、1983年)第9章。岸
の回顧録は『岸信介回顧録』の他に『岸信
介の回想』『岸信介証言録』などもあるが、
いずれも東南アジア外交の意図等、後付
け的な説明(同時代的に全く違うことを言っ
ている、あるいはそもそもそういった発言が
ない)が多く、証言のみで何かを語るのはリ
スキーであると思われる。この辺は岸のソツ
のなさを感じなくもない。
*8:波多野澄雄『歴史としての日米安保条
約―機密外交記録が明かす「密約」の虚
実』(岩波書店、2010年)、第4章;アメリカ
局安全保障課長(東郷文彦)「日米相互協
力及び安全保障条約交渉経緯(昭和35年
6月)」『1960年1月の安保条約改定時の核
持込みに関する「密約」問題関連』
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/mitsuyaku/taisho_bunsho.html
*9:原彬久『日米関係の構図―安保改定
を検証する』(日本放送出版協会、1991年)、
第5章;波多野『歴史としての日米安保条約』
第4章;前掲「日米相互協力及び安全保障条
約交渉経緯」。
*10:岸の「二段階」構想としては、むしろ坂
元一哉などが論じる①旧安保条約の修正
による不平等関係の是正、②憲法改正と
本格的な相互防衛条約への発展が指摘さ
れるが、「二段階」として安保と行政協定が
語られるのは前代未聞であろう。坂元の指
摘する「二段階」構想については、『日米同
盟の絆―安保条約と相互性の模索』(有斐
閣、2000年)、第4章。
*11:シャラー『「日米関係」とは何だったの
か』、第5章;高松基之「チャイナ・ディファレ
ンシャル緩和問題をめぐってのアイゼンハ
ワー政権の対応」『国際政治』105号(1994
年)。
*12:Memorandum of a Conversation Bet
ween Secretary of State Dulles and
Prime Minister Kishi (June 20, 1957)
http://history.state.gov/historicaldocuments/frus1955-57v23p1/d189
*13:池田政権期の日中関係と米国の反応
については、井上正也『日中国交正常化の
政治史』(名古屋大学出版会、2010年)、第
4章;シャラー『「日米関係」とは何だったのか』、
第9章。
*14:一般的には、ニクソン政権は田中に不
満を持ちながらも、それを追認するほかな
かったと言われる。井上『日中国交正常化
の政治史』第8章; 服部龍二『日中国交正常
化―田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑
戦』(中公新書、2011年)、第4章。
*15:ニクソン政権のブラント観については、
ヘンリー・キッシンジャー(岡崎久彦監訳)
『外交(下)』(日本経済新聞社、1994年)第
29章。もっともギョーム事件がCIAの陰謀で
あったと著者がするならば、このような見解
はつじつまがあうだろう。
*16:森田朗「書評『日本/権力構造の謎』」
『法学論集(千葉大学)』5巻2号(1991年)
相も変わらず孫崎享『戦後史の正体』を肯定評価する向きが少なくない。
 
孫崎本は「対米従属」の元凶ともいうべき日米安保条約を戦後60年以上も肯定、擁護し続けてきたこれまでの自民党政権の約3分の1ほどの歴代首相経験者を「自主・自立」派と呼んでいる。噴飯ものである。これ以上のこけおどしはない。
 
孫崎氏が「自主・自立」派と分類している「岸信介、福田赳夫はアメリカの軍用機売り込み工作、いわゆるダグラス・グラマン事件で賄賂を受け取った政治家として当のアメリカ側の証券取引委員会(SEC)から名前を明らかにされるとともに告発された人たちです。こういう人たちを「対米自主・自立」の人と言えるのか?」(「孫崎享『戦後史の正体』の対米自主・自立の〈正体〉について――孫崎享氏の『戦後史の正体』についての講演ビデオを観る―― 」弊ブログ 2012.08.04)

岸信介はさらに正力松太郎などとともに中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる人物です。こういう人をも「対米自主・自立」の人と言えるのか?」(同上)
 
「鳩山由紀夫氏についてはまだ記憶も新しい。「『最低でも県外』と首相自ら公約しながら県民の心を8カ月間ももてあそび、『辺野古現行案』に回帰するという公約違反の裏切り行為」(琉球新報社説、2010年6月1日付)に及んだ人物です。こういう人をも「対米自主・自立」の人と言えるのか?」(同上)
 
あまりにも愚かしい政治認識といわなければならない
 
以下、私とは別の観点から書いた古寺多見(kojitaken)氏の孫崎享『戦後史の正体』批判をご紹介します。

「橋下・安倍・小沢大連合」の可能性と孫崎享の「珍書」(後半)(きまぐれな日々 2012.08.20)

ところで、「小沢信者」の総本山ともいえる植草一秀は、間接的な表現ながら橋下とは距離を置くスタンスをとっているようだ。それには異論はなく、むしろ「小沢信者」の中ではマシな部類といえるのだが、その植草が「『対米隷属』派と『自主独立』派のせめぎ合い」と題したエントリで、孫崎享の著書『戦後史の正体』を好意的に取り上げていることに引っかかり、Amazonのカスタマーレビューをざっと眺めてみた。そして呆れた。

孫崎は、歴代内閣総理大臣を「対米従属派」と「自主派」に分類する。これだけでも植草一秀を筆頭とする「反米愛国」系の「小沢信者」が大喜びしそうな、その実態は陳腐きわまりない「善悪二元論」だが、目新しいのは岸信介と佐藤栄作を「自主派」に分類していることだ(70年代に日本政治の右傾化のきっかけを作った福田赳夫も「自主派」に分類している)。

孫崎によると、地位協定の改定を意図していた岸内閣を早期に退陣させる目的で、安保闘争の全学連にまでアメリカの資金が流れていたという。つまり、60年安保闘争も実はアメリカの陰謀だったという「9.11自作自演説」も真っ青な「陰謀論」を孫崎はかましている。そうして岸信介はアメリカによって権力から引きずり下ろされたというのだが、それならなぜ岸信介と佐藤栄作はCIAから資金援助を受けていたのかを孫崎が説明しているのかどうかは、読んでいないので知らない。私はカスタマーレビューだけでお腹いっぱいになってしまって、こんな駄本を読むつもりは全くないので、上記についてご存じの方がおられればコメント欄でお知らせいただけると幸いである。

蛇足ながら、岸信介が「安倍晋三の敬愛する祖父」である点も気になる。可能性としては低いけれども、もっとも極端なケースとして、安倍晋三・橋下徹・小沢一郎の三者の連携もあり得ると私は考えているからだ。不幸にしてこれが実現した場合、「自公民大連立政権」よりもずっと性質の悪いな政権が成立することになる。

孫崎の著書の話に戻ると、この本には既に48件のカスタマーレビューがついていて、うち35件が5つ星である一方、星1つが8件ある。しかし、後者の多くはネット右翼からの異論である。中には本文ではこき下ろしていながら5つ星をつけているレビューもあるが、概して高評価で、「目からうろこが落ちた」的な感想を述べている人も多い。一水会の機関紙、『日刊ゲンダイ』、『噂の真相』元編集長の岡留安則、『週刊金曜日』などでも好意的なレビューがなされていたとのことで、要するに「小沢信者」及びその周辺で大人気を博しているようである。

そして、これまで「護憲」のスタンスを取っていた「小沢左派」のうち、この本に感化されてか「改憲」、つまり「自主憲法の制定」を肯定する立場に転向した人間が少なからずいると聞いた。

リアルの政治において、安倍晋三・橋下徹・小沢一郎の三者連合ができる可能性は実のところきわめて低いと私は思っている。小沢一郎は「国民的不人気」だからである。世論調査で小沢新党「国民の生活が第一」の支持率が出始めているが、同党の支持率は概ね1%前後であり、社民党よりは高いが共産党より低い。小選挙区で勝ち抜ける候補は小沢一郎以外には思いつかないから、同党がどことも提携せずに衆議院選挙を戦った場合、同党の獲得議席は1桁に落ち込むだろうと私は予想している。

だが、それとは別に、「安倍・橋下・小沢」連立政権ができてもそれを支持する下地ができつつあることは、孫崎本が大人気を博していることからもうかがわれるのである。

いや、上記から「小沢」を抜いた「安倍・橋下」政権でも受け入れられるかもしれない。岸信介を「自主独立派」の政治家とみなして肯定するのであれば、「安倍・橋下」政権を否定する理由など何もなくなる。

現在、民自公の一部にある「大連立」志向はよく「大政翼賛会」になぞらえられる。その指摘自体は間違っていないと思うし、私も民自公大連立には反対だ。しかし、1940年の「大政翼賛会」は決して無批判に受け入れられたわけではない。当時も「右」からの強烈な批判があった。その急先鋒が平沼騏一郎だったから、時の近衛文麿首相は平沼を閣内に取り込んだ。それでも、「大政翼賛会は『赤』だ」という「右」からの批判は一定の支持を受けた。

岸信介を肯定的に評価して陰謀論をかます孫崎享に代表されるような「反米愛国」の人たちは、言ってみれば「大政翼賛会」を「右」から批判した勢力に対応するのではないか。彼らは、大政翼賛会ともども戦後否定されることになり、大政翼賛会でも右からの批判でもない「デモクラシー」が占領軍(アメリカ)によって導入された。

現在も似たような状況で、消費税増税を3党合意で導入した民自公「大政翼賛会」やそれに対する右からの批判勢力である「維新」(橋下)は、いつになるかわからない「戦」後、ともに否定されることになるだろう。

しかし、現状の延長戦を突き進むのであれば、残念ながら必ずや一度は破局的局面を経由せざるを得ないのではないだろうか。
先に、私は、孫崎享氏(元外務官僚・元防衛大学校教授)の『戦後史の正体』という新著が一部で高く評価されている現象について、その現象の非なること、私として肯んじえない理由を「 孫崎享氏(元外務官僚・元防衛大学校教授)の新著『戦後史の正体』の小沢派評論家たちの『前評判』への違和感」という記事を書いて述べました。

戦後史の正体

上記記事は『戦後史の正体』という著書そのものの批評ではなく、あくまでも同著書の「前評判」なるものに関して私の違和感を述べたものでしたが、同著書そのものについて孫崎氏自身が自己解説している講演ビデオを下記で観ることができます。

2012/07/24 政権公約を実現する会(鳩山グループ)勉強会 講師 孫崎享氏

私はまだ『戦後史の正体』という本そのものは読んでいませんが、同ビデオは同著書の著者による自己解説になっているわけですから、このビデオを観ただけでもある程度は同著の中身は判断できるし、その批評も可能、ということができるでしょう。

以下、同講演ビデオを観て、その講演を孫崎享著『戦後史の正体』の自己解説とみなして私の同著評を簡単に述べておきます。

孫崎氏は同ビデオの冒頭で民主党という政党が誕生したときのことを振り返って
「ほんとうに期待した」と述べています。「私はひとりの国民として民主党ができたときにほんとうに期待した。これで日本は変わる、そう思っていました」、と。これがいわゆる「政権交代」選挙(2009年衆院選)時のときの民主党政権への期待であれば、この「政権交代」への期待はこの時点で多くの国民が共有していたふつうの政治感覚というべきものですから、孫崎氏が民主党政権の実現に「ほんとうに期待した」としてもちっともおかしくはありません。しかし、そのときでも、「これで日本は変わる」とまではふつうの市民は思っていなかったでしょう。 この時点でのふつうの市民の政治感覚は、民主党政権の誕生に半面期待を抱きながらも、もう半面で戦後、長年にわたって日本の政治を壟断、支配してきた自民党政治の負の遺産を民主党政権はほんとうに払拭することができるのかという疑心暗鬼を抱えていた、というアンビバレントなものだったでしょう。自民党政権時代、民主党はしばしば「第2自民党」(自民党の補完勢力)の役割を担ってきたという政治実態があったからです。だから、ふつうの市民にはそういう不安も少なくなかった。

しかし、孫崎氏はそうではなく、民主党という政党が誕生した時点で「これで日本は変わる、そう思っていました」とまで評価しています。ここには孫崎氏の民主党政権への肩入れがふつうの市民の感覚に照らしても並々のものではなかったことが示されているように思います。すなわち、孫崎氏の思想を支える核の部分は本質的にいわゆる保守のそれとほぼ同等の質のものである、とみなすことができるように思います()。そのことは、彼が彼の人生の大半をときの政府を支える優秀な外務官僚として大過なく過ごしてきたという事実とも符合するでしょう。孫崎氏はその思想の背骨において基本的にときの政権の思想と一致する、そういう意味での保守思想を持ち続けて大過なくその人生を歩き続けてきた人なのです。その孫崎氏を一部の人が言うように「革新」思想の持ち主のように言うのはまったく当たらないことだといわなければなりません。

★孫崎氏は戦前の日本のアジア諸国への侵略戦争性を否定し、現行の社会科教科書を「自虐史観」に基づく教科書だとして攻撃する右翼思想団体の新い歴史教科書をつくる会の賛同者として著名な岡崎久彦氏の後輩、直接の部下だった人で、自身の著作でも「岡崎氏と情勢の認識においてはほとんど違わない」ということを書いているという指摘もあります。

しかし、その孫崎氏を「体を張って対米従属と闘っている人」と一部で評価する向きがあります。冒頭で述べたエントリでとりあげた天木直人氏の論のたぐいのような論を指しています。

しかし、孫崎氏の言う「対米自主・自立」とはなにか。孫崎氏は上記のビデオで次のように言います。「この本を書いて気がついたことはいわゆる日本の自主を唱える人たちはわれわれが思っているよりも多い」。そして、その具体例として次のような首相経験者の名前を挙げていきます。「重光葵、石橋湛山、芦田均、岸信介、鳩山一郎、佐藤栄作、田中角栄、福田赳夫、宮沢喜一、細川護熙、鳩山由紀夫」。孫崎氏の言う「対米自主・自立」を主張する人たちとは左記のような人たちを指しているのです。しかし、彼らは果たして「対米自主・自立」を主張する人たちと言えるのか?

たとえば上記で孫崎氏によって「対米自主・自立」の人として挙げられている人たちのうち岸信介、福田赳夫はアメリカの軍用機売り込み工作、いわゆるダグラス・グラマン事件で賄賂を受け取った政治家として当のアメリカ側の証券取引委員会(SEC)から名前を明らかにされるとともに告発された人たちです。こういう人たちを「対米自主・自立」の人と言えるのか? 

岸信介はさらに正力松太郎などとともに中央情報局(CIA)から資金提供を受けていたとされる人物です。こういう人をも「対米自主・自立」の人と言えるのか?

鳩山由紀夫氏についてはまだ記憶も新しい。「『最低でも県外』と首相自ら公約しながら県民の心を8カ月間ももてあそび、『辺野古現行案』に回帰するという公約違反の裏切り行為」(琉球新報社説、2010年6月1日付)に及んだ人物です。こういう人をも「対米自主・自立」の人と言えるのか?

すべてノーと言わなければならないでしょう。孫崎享氏の政治認識はあまりにも愚かしい、というのが私の孫崎氏評価です。

さて、上記のような人物観、政治情勢認識、政党観、歴史認識によって支えられた『戦後史の正体』の記述を「日本の戦後史は、アメリカからの圧力を前提に考察しなければ、その本質が見えてこない。元外務省・国際情報局長という日本のインテリジェンス(諜報)部門のトップで、「日本の外務省が生んだ唯一の国家戦略家」と呼ばれる著者が、これまでのタブーを破り、日米関係と戦後70年の真実について語る」(同著キャッチコピー)ものとして評価できるか?

私はこの点についても断じてノーと言っておきたいと思います。

そして、孫崎氏の新著の「前評判」は主に小沢派評論家、小沢派ジャーナリストと呼んでよい人たちによって創られた〈小沢賛美〉(鳩山グループも広義の〈小沢派〉とみなしてよい存在だと私は見ています)というきな臭い政治臭のふんぷんとする意図的な「前評判」でしかない、という疑念を再度表明しておきたいと思います。
孫崎享氏(元外務官僚・元防衛大学校教授)の新著『戦後史の正体』が一部で評判になっているようです。

戦後史の正体

たとえば次のような具合です。

「出版社の担当者から私のところへその後の経過報告が入った。/ついに「戦後史の正体」(創元社)がアマゾンの売り上げ首位に躍り 出たという。/私が一週間ほどまえにインターネットで宣伝した時は80位ぐらい だったが、あっという間に一位に急上昇したのだ。/驚異的な前評判だ。」
 
「孫崎享という元外交官がそのような本を世に出した事自体が大事件である。/そしてその孫崎氏が真っ先にこの本を読んで欲しいと指名したのが三年後輩の私であった。/この本を一番正しく評価できる者は私において他にないというわけだ。/そして私はその期待に見事に応えたようだ。/私の書評がこの本の凄さに点火してしまった。/政局とからんでこの本は全国国民に爆発的に読まれることになるだろう。」(前代未聞の「戦後史の正体」(創元社)の前評判」天木直人のブログ 2012年07月03日

この「前代未聞の『戦後史の正体』(創元社)の前評判」には経済評論家の植草一秀氏やフリージャーナリストの岩上安身氏も一枚噛んでいるようです。天木氏を含めていずれも小沢一郎氏支持を熱烈に公言している小沢派評論家、小沢派ジャーナリストと呼んでよい人たちです。

私は孫崎氏の新著の『戦後史の正体』はまだ読んでいませんので(7月末発売予定)その著書自体の評価をすることはできませんが、孫崎氏の新著の「前評判」のありようについては大きな違和があります。その違和はひとことで言ってこの「前評判」なるものは主に小沢派評論家、小沢派ジャーナリストと呼んでよい人たちによって創られた〈小沢賛美〉というきな臭い政治臭のふんぷんとする意図的な「前評判」でしかないのではないか、という拭いがたい疑念をともなう違和です。

孫崎氏の新著『戦後史の正体』の「前評判」はたとえば次のようなものです。

「国民の大多数が反対する消費税増税がなぜ強行されるのか。/福島原発事故の収束さえも出来ない中で原発再稼動がなぜ強行されるのか。/沖縄住民を危険にさらす米海兵隊の輸送機オスプレイが住民の反対を押し切ってまでなぜ強行配備されるのか。/野田佳彦という凡庸な政治家がなぜ首相策を強行できるのか。/そんな野田首相を財界やメディアはなぜ支持し続けるのか。/そんな野田首相の間違った政治を真っ向から批判する政治家がなぜ小沢一郎一人しかいないのか。/正しい事を主張する小沢一郎がなぜこれほどまでに人格攻撃されるのか。/不当起訴されるのか。/なぜメディアがこぞって小沢一郎を叩くのか。/まともな日本国民であれば、どう考えてもおかしいと思うはずだ。/その疑問に見事に答えてくれる本が7月30日に発売される。『戦後史の正体』(孫崎享著 創元社)がそれだ。/物凄い本が出たものだ。」

上記の本の帯によくあるようなキャッチコピー風の小沢氏評価は、ネオリベ自民党別働隊政党のみんなの党思想極右の稲田朋美を支持し、かつ、小沢一郎を支持する思想はちゃめちゃ自称「革新」の天木直人氏の筆によるものです。

上記で天木氏は次のように書いています。

①「そんな野田首相の間違った政治を真っ向から批判する政治家がなぜ小沢一郎一人しかいないのか」②「正しい事を主張する小沢一郎がなぜこれほどまでに人格攻撃されるのか」、と。

しかし、①の天木氏の論は小沢ひいきのゆえの事実を捻じ曲げた誇張にすぎません。先の衆院での消費税増税法案採決では共産党も、社民党も、そしてみんなの党の渡辺喜美氏も「野田首相の間違った政治を真っ向から批判」しています。

②については上記の思想極右の稲田朋美を支持で引用しているkojitaken氏も、そして私も、さまざまな場面で「事実」に基づいた小沢批判をしています。たとえば私の小沢批判の最近の論は次のようなものです。

小沢氏の民主党離党にあたって~「小沢は脱原発派」という虚構を創ってまで小沢氏をあくまでも支持しようとする脱原発派の人たちに謂う(弊ブログ 2012.07.02 )

この「人格攻撃」云々という天木氏の小沢批判者批判も著しく事実を捻じ曲げた小沢ひいきゆえの誇張にすぎません。

さらに「前代未聞の『戦後史の正体』(創元社)の前評判」というブログ記事では孫崎亨氏の『戦後史の正体』という新著に関連して天木氏は次のようにも書いています。

「そしてその孫崎氏が真っ先にこの本を読んで欲しいと指名したのが三年後輩の私であった。/この本を一番正しく評価できる者は私において他にないというわけだ。/そして私はその期待に見事に応えたようだ。/私の書評がこの本の凄さに点火してしまった」

と。

天木氏は自身で自分のことを「私の書評がこの本の凄さに点火してしまった」とか「孫崎氏が真っ先にこの本を読んで欲しいと指名したのが三年後輩の私であった」などと恥じらいも衒いもなく書く。恐ろしいほどの「天真爛漫」ぶりです。

このような恐ろしいほどの自惚とその自惚を自惚とも自覚しない無恥極まる御仁の論を私は信用しませんし、展開されている論も上記のとおりデタラメです。このような人が自作、推奨する「前評判」への違和が〈小沢賛美〉自作自演劇ではないかという拭いがたい疑念をともなう違和の第一です。

さらに孫崎氏の発信するツイッターによれば、同氏の『戦後史の正体』を推奨する人はほかにも植草一秀氏や岩上安身氏、長谷川幸洋氏(東京新聞・論説副主幹)などの面々もいるようです。

この人たちの思想、論についても、私には次のような違和があります。この違和もこの「前評判」は〈小沢賛美〉の自作自演劇(★)ではないかという拭いがたい私の疑念を補強するものです。

★ここで私のいう自作自演劇とはおのれの行動が結果として組み込まれてしまった自作自演劇ということを意味し、必ずしも実態的、意図的な自作自演劇ということを意味しません。

植草一秀氏の思想については私は次のような批判を書いています。

NPJシンポ植草報告「普天間基地移設問題の行方」を読んで ―間接的NPJシンポ感想とでもいうべきもの(弊ブログ 2010.04.23)

参考として小沢氏及び小沢氏支持者批判者として鋭い論を展開しているkojitaken氏の植草氏批判も下記に掲げておきます。(ただし、下記の文章はkojitaken氏の植草氏批判初期のもので、年月を追うごとにkojitaken氏の植草氏批判のその批判の度合いは強くなっていきます)。

「植草一秀さんを中心にした反自民の結集」には応じられない(きまぐれな日々 2008.06.25)
植草一秀さんへの注文(きまぐれな日々 2008.06.27)

岩上安身氏及び同氏の所属する自由報道協会についても私は次のような批判記事を書いています。

「小沢裁判」という旅のくぎりに ――上杉隆や岩上安身をはじめとする「小沢派」ジャーナリストの自壊と瓦解について(弊ブログ 2012.04.28)

長谷川幸洋氏(東京新聞・論説副主幹)の論については私も学ぶところは多々あるのですが、下記の記事で批判している半田滋氏(東京新聞編集委員)の思想的ひ弱さに通じる危うさを感じています。

普天間問題 マス・メディアに勤める記者の限界というべきなのか ―半田滋さん(東京新聞編集委員)の立ち位置について(弊ブログ 2010.04.11)

また、直接の孫崎享氏批判ということではありませんが、一般に「インテリジェンス」(諜報・情報分析)というものについて、また「インテリジェンス」を受容する際に私たちが陥りやすい危うさについて以下のような記事も書いています。

山崎康彦さんの論文への反論3 ―「インテリジェンス」(諜報・情報分析)というとことごとしいけれども、要するに不確かな裏情報のひとつにすぎないのではありませんか?(弊ブログ    2010.08.09)

以上の論、あるいは論の紹介はあくまでも孫崎享氏の新著『戦後史の正体』の小沢評論家、小沢ジャーナリストたちの「前評判」への私の違和感であって、孫崎氏の新著『戦後史の正体』そのものへの批判ではありません。孫崎氏の新著『戦後史の正体』そのものの評価は別の機会にでも書くことになると思います。
いわゆる陸山会(政治資金収支報告書虚偽記載)事件で小沢一郎元民主党代表に無罪判決が出ました。しかし、同判決で小沢氏の「無実」が証明されたというわけではありません。

一般に無罪とは「犯罪の証明が認められない」という司法判断以上のものではない上に、同判決は同裁判の公訴事実のひとつである政治資金収支報告書の虚偽記載について「元秘書らによる報告書への虚偽記載があったと認定し」ており、また、「4億円を記載しないことについて元代表への『報告・了承』があったのかについては『秘書らは自ら判断できるはずはない』と指摘し、元代表の了承を認定」しています(毎日新聞社説 2012年4月27日)。その裁判所の認定が正であることを前提にして以下述べますが、そうした虚偽記載の事実がある以上、たとえ小沢氏と秘書との間に「共謀」が認められなかったとしても小沢氏には政治家、また一般に上司としてもその秘書の虚偽記載を質す責任があることは社会常識として明白で、その政治家としての小沢氏の監督責任、道義的責任まで「無実」ということはできないからです。同判決も無罪判決を出す一方で「共謀共同正犯が成立するとの指定弁護士の主張には相応の根拠があると考えられなくはない」とも指摘しています(産経新聞社説 2012年4月27日)。さらに虚偽記載の4億円の原資の出所についても依然明らかではありません。

しかし、この小沢氏の無罪判決を受けて小沢氏は「復権」し、かつ、小沢派、小沢氏サイドも九死に一生を得たかのような、それだけに従前にも増して強い勢いを取り戻す、あるいは取り戻そうとすることは自明というべきで、それゆえにいわゆる小沢氏信者の信者ゆえの盲信の勢いもいや増していくことになるでしょう。それゆえに私もなおさら注意を喚起しておきたいことがあります。それは小沢氏信者、小沢氏擁護論者周辺のいま現在の醜悪のさまについてです。以下、その一例としてのいまや小沢氏擁護イエロー・ジャーナリズム団体として勇名をはせる自由報道協会とその協会の代表の上杉隆というフリー・ジャーナリストの今日的な醜悪のさまの一報告です。

私は先に自由報道協会が設立1周年を機に今年の1月に創設した「自由報道協会賞」の部門賞に記者会見賞なる「報道」とはまったく異質のアワードをあえて設け、報道する側ではなく、報道される側の政治家としての小沢一郎氏に賞を授与しようとしたことについて(多くの人の批判を受けてその賞の授与は結局断念した模様ですが)、上杉隆氏をはじめとする「自由報道協会賞運営委員会の面々のジャーナリストとしてのセンスと見識を疑」う旨の厳しい批判をしておきました。いや、その自由報道協会の行為はジャーナリズム精神のかけらも見られないおよそジャーナリズムを標榜する団体としてはあるまじき行為というべきものですからあまりにも優しすぎる批判であった、といっておいた方がより適切な表現というべきかもしれません(「『糞バエ』の意地を見せた高田昌幸氏(元北海道新聞記者)の「自由報道協会賞」受賞辞退の弁」弊ブログ 2012年1月28日)。
 
また、自由報道協会代表の上杉隆氏についても、彼の書く記事の信憑性について、もっと端的に言えば、その記事の引用が恣意的に改ざんされていることについて重大な疑義を提示してもいます(「陸山会事件判決 小沢氏擁護論の論理ならぬ『論理』が抱える脆弱性について」弊ブログ 2011年10月11日)。
 
その上杉氏の記事中の引用の改ざんがいっそう決定的に明らかになりました。まず以下の情報をご覧ください。上杉隆氏の夕刊フジの短期連載記事「福島の真実 原発崩壊」の捏造に関する情報です。

上杉隆、夕刊フジで捏造記事か?!(togetter.com 2012年3月27日現在)
 
上記についてbuveryさんが「( →_→) 『捏造なう』」(buveryの日記 2012年4月18日)という記事で上杉氏のその捏造の実態を完膚なきまでに証明しています。
「先日、私が、『福島のプルトニウムは無視して良い』と考えるわけという記事の中で、『プルトニウムフェチ』の人がいると書きましたが、その人の本名は上杉隆と言います。彼の書く放射線関連の記事は、ほとんど間違っていると私は評価していて、それは、別に驚く事ではありません。/しかし、今度ドブレイユさんが引用されているzakzakの記事は、『間違い』ではなく、捏造であると私は思います。(略)私は、上杉隆は、放射能の人体に対する影響について、単に無知であると思っていましたが、コメントを捏造するとなると、話は違う。これは、意図しないとできないことです。だから、放射能についても無知なのではなくて、意図して嘘をついているのではないか、と疑い始めました。(以下、略。全文は上記URL)」

同様の認識は以下でも述べられています。

上杉隆さんの捏造話が洒落にならなくなってきている(BLOGOS やまもといちろう 2012年4月19日)
朝日新聞、NHK、上杉隆氏、岩上安身氏のデマ報道が風評被害を拡大して2次災害を作り出している
岩上安身「お待たせしました!福島の奇形児についてスクープです!」(フェー速 2011年12月4日)
自由報道協会の自壊 (池田信夫blog 2012年1月31日)

少し違った角度からは次のような指摘もあります。

「ウェブ上での原発危機関連の発言で、一つ不思議なのは、小沢派と目されるジャーナリスト(上杉隆ら)や無名のブロガーたちが、危機意識を煽りまくっている(略)、というのが率直な印象なのである。様々な情報・見解を提供してくれている原子力資料情報室(CNIC)のような、それ自体としては有益であろう機関も、青木理や岩上安身のような小沢派ジャーナリストが積極的に関与しているのを見ると、いささか距離を置いて考える必要性を感じざるを得ない。」(「佐藤優の原発問題関連の発言について(4)」金光翔 2011年4月2日付)

「いささか距離を置いて考える必要性を感じざるを得ない」機関、またはメディアとして私は NPJ(News for the Peaple in Japan)、マガジン9、さらには週刊金曜日、世界などの媒体も挙げておきたいと思います。

上出のやまもといちろうさんは言います。「ここまできて擁護できる人はどのくらいいらっしゃるのでしょうかねえ…」、と。

いずれにしても早晩、「小沢派」系ジャーナリストたちは自壊と瓦解をせざるをえないでしょう。いや、一日も早く瓦解させなければ、エセ脱原発とエセ民主主義はこの国の市民運動に否応なく蔓延し、そして、この国の市民運動を決定的に根腐れさせてしまうことになるでしょう。私が強く警告しておきたいことです。
政治批評に常に鋭い視点を提起する金光翔さん(元『世界』編集部、現岩波書店社員)が民主党の「民主党革命」(政権交代)とその後の「反革命」(失政というも愚かな失政)、それと軌を一にする「小沢派左派」の成立について、これもやはり鋭い視点を提起しています。
 
■2010年秋の情勢について(2):言論界における「小沢派」の成立(上)(私にも話させて 金光翔 2010年12月9日)
 
金光翔さんの上記の論は2年前の論になりますが一向に古びていません。CML(市民のML)においては先に「小沢信者批判」に関してそれぞれの肯定、否定のやりとりがありましたが(下記参照)、その「小沢信者」なるものの成立のゆえんについても重要な考えるヒントを与えてくれる論攷になっているように思えます。ご紹介させていただこうと思います。
 
金光翔さんは上記の論の中で「小沢派」の成立について次のように書いています。

 
「「民主党革命」(東本注:2009年の衆院選における「政権交代」劇)を支持したリベラル・左派の多くは、それが失敗であったことを認めるよりも、むしろ、小沢一郎の権力の再奪取により真の「民主党革命」(「小沢革命」)を実現する、ということに期待している。後者の人々にとっては、現状は確かにどうしようもないが、「民主党革命」はまだまだ終わっていないのである。」

 
「佐藤や『月刊日本』周辺の人物あたりが「小沢派右派」である岡本編集長や『金曜日』その他が「小沢派左派」で、必ずしも小沢を明示的に支持していなくても、その政治的主張の論理的帰結が小沢への期待ということになっていたり、人脈が「小沢派」と骨がらみになったりしていれば、広義の「小沢派」と見なすことができよう。その意味で、社民党は典型的な「小沢派左派」であり、『金曜日』の執筆陣なども「小沢派左派」と見なして差し支えないと思う。共産党系の一部の学者や、渡辺治なども広義の「小沢派左派」と見なさざるを得ない地点に来ている。」

 
「リベラル・左派は、今や「国益」志向型に完全に再編されており、今さら「民主党革命」支持は間違っていた、とも言えない(言う勇気がない)。とすると、小沢への期待・親和性をますます強めて、「剛腕」小沢の下で、「民主党革命」をやり直し、自分たちの主張を実現する、という形にならざるを得ない。小沢も、自らの政治的復権のために、マスコミを徹底的に利用しようとしている。そのためには言論界におけるリベラル・左派はまだそれなりの利用価値があるのである。」(太字は引用者)

 
下記のエントリ記事で指摘している「必ずしも事実に基づかない小沢氏評価」と「事実誤認の小沢氏評価」。すなわち「小沢信者」現象といってもよい現象がなぜかくも易々と生じるのか。なぜかくも再生産され続けるのか、という私たち(「小沢信者」ではない人たち)の疑問のひとつの解が上記の論攷には示されているように思います。重要な指摘だと私は思います。
 
「小沢信者批判について」という文章をめぐる市民のML(CML)上のやりとりについて(弊ブログ 2012年4月22日)
 
「さようなら原発」というのであれば、原発推進政党である民主党とも「さようなら」しなければ(「小沢派」も民主党グループである以上その例外ではありえません)決して「さようなら原発」は実現しないことはあまりにも当然すぎる論理の帰結というべきものです。もちろん、同じくこれまで原発を推進してきた旧政権政党としての自民党、公明党などの保守勢力、イデオロギー的には同質のみんなの党、維新の会などなどとも「さようなら」しなければ。改憲問題についても、新自由主義という名の所得格差拡大のポピュリズム政策と「さようなら」するためにも。そうであれば、「民主党革命」(「小沢革命」)に期待することにどんな有意があるというのか。そのことに私たちはいくらなんでもそろそろ気がつきたいものです。手遅れにならないうちに。
市民のML(CML)というメーリングリストに萩谷良氏の小沢信者批判についてという投稿がありました。その投稿をめぐって萩谷氏から批判された山崎康彦氏が同メーリングリストからの退会を表明するということがあり(萩谷氏は「「小沢信者批判」をしたのであって、山崎氏を批判したわけではない旨弁明していますが)、この問題をめぐってCML上で少しばかりの論争のようなものがありました。

 
私はこの論争のようなものの直接の当事者ではありませんが、同メーリングリストで私が用いた「小沢信者」という言葉が同論争のようなもののキーワードとなっており、かつ、その異論・反論の中で陳述されている「小沢氏評価」は事実に基づかないもの(すなわち主観的なもの)も多く、その「小沢氏評価」をそのまま放置しておくことは政治革新の課題を後退させることにもつながりかねないという大きな危惧もあり、私として傍観者的立場を保持することはできないものでした。

 
以下、私として傍観者的立場を保持することはできないものとして書いたものを記録としてアップしておきます。

 
萩谷さんの「小沢信者批判について」というご投稿をめぐってさまざまな異論・反論、あるいは肯定、否定の論が交わされていますが、その中には必ずしも事実に基づかない小沢氏評価もあるように見受けられます。その事実の誤認は事実の誤認自体の問題として正されておく必要があるように思います。それは小沢氏評価以前の問題というべきものだろうと思います。以下、私の気づいた事実誤認(及びその周辺の問題)のいくつかの諸点をピックアップして、なにゆえに私はそれを事実誤認というのか? その所以を明らかにしておきたいと思います。

 
その前に関口さんの指摘される「小沢信者」と「小沢信奉」という語のCMLにおける「初出」の問題に触れておきます。私が調べた限り「小沢信者」の初出はCML 005457(2010年8月31日)、「小沢信奉」の初出はCML 004846(2010年7月6日)です。ただし、CML 005457で用いられている「小沢信者」の語はきまぐれな日々ブログからの引用ですから、私自身の言葉として用いている「小沢信者」の初出はCML 005738(2010年9月26日)ということになります(関口さんの指摘されるCML 009925には「小沢崇拝」という言葉は出てきますが「小沢信者」の初出ではありません)。以下、その用例を摘示しておきますと次のとおりです(2012年3月末まで)。

 
【小沢信者】
■[CML 005457] (higashimoto takashi 2010年8月31日) 終りのはじまりとしての菅VS小沢の対決と妥協 民主党代表選をどう見るか
■[CML 005738](higashimoto takashi 2010年9月26日) 山崎康彦氏の「『小沢幹事長起訴相当』議決は検察審査会法違反」というJanJanBlog記事の誤りを指摘する
■[CML 006166](higashimoto takashi 2010年10月27日) Re: 相も変らぬ、そしてなぜかしら小沢礼賛を続ける市民たちのやりきれない無見識と非論理性
■[CML 006288](higashimoto takashi 2010年11月2日) Re: 最高検へ告発...ユーストリーム
■[CML 009453](higashimoto takashi 2011年5月8日) 福島第一原発事故以後 〈反原発〉の国民的怒りの波に便乗しようとする「研究者」なる者と著名人なる者の正味の正体(2) トンデモ学者武田邦彦の正味の正体
■[CML 015640] (higashimoto takashi 2012年3月12日)古寺多見氏(「きまぐれな日々」主宰者)の論攷「東日本大震災・東電原発事故1周年。原発再稼働の足音迫る」のご紹介(2-2)

 
注:そのほか前田朗さんと山崎康彦さんの論にそれぞれ1回ずつ「小沢信者」という語が出てきますが、私の論の引用としてのそれですから上記の用例の摘示からは省略しています。

 
【小沢信奉】
■[CML 004846] (higashimoto takashi 2010年7月6日)Re: 霞ヶ関の既得権は強固であり、事業仕分けでも小さなものしか出来なかった。
■[CML 005457] (higashimoto takashi 2010年8月31日) 終りのはじまりとしての菅VS小沢の対決と妥協 民主党代表選をどう見るか
■[CML 007023](higashimoto takashi 2010年12月23日) Re: そういえば東本氏、最近とんと音沙汰無し
■[CML 007528] (higashimoto takashi 2011年2月8日)名古屋市長選、愛知県知事選。そして東京都知事選―ポピュリズム政治にサヨナラするために―
■[CML 009925](higashimoto takashi 2011年5月29日) 「小沢一郎民主党元代表が語る『恐ろしい真実』!」という小沢信者の大ボラ

上記の用例の一覧を見れば一目瞭然ですが、「小沢信者」にせよ「小沢信奉」にせよ、あるいは「小沢崇拝」にせよ、その用例のすべては私の論が出自です。しかし、上記の用例を見ればこれも明らかなように私は意味もなく「小沢信者」、あるいは「小沢信奉」という語を使用しているわけではありません。上記のすべての用例には「小沢信者」、あるいは「小沢信奉」というほかない理由が示されています。したがって私はその用法が誤っているとは寸毫も思っていません。そのことを第一に明白しておきたいと思います。

第二に上記第一の問題と関連して石垣さんの山崎氏への「小沢信者」呼ばわり(萩谷氏は山崎氏を「小沢信者」呼ばわりしたわけではない旨述べておられますが、ここで述べることはそのこととは別様のことです)は「名誉毀損」「人権侵害発言」(CML 016507)というご批判はまったく当たらないご批判である、ということを申し述べておきます。

名誉毀損にしても人権侵害にしても、その摘示した事実が「公共の利害に関する事実であること」、また、「真実に合致」する場合は一般に名誉毀損や人権侵害は認められません(たとえばウィキペディア「名誉毀損」参照)。したがって、上記摘示の例に見るように私の論は「事実」に基づく「小沢信者」「小沢信奉」批判というべきものですから、その論を名誉毀損及び人権侵害ということはできません。石垣さんのご批判はまったく当たらない、ということです。一般に「意見には意見をもって対抗すべきである」というのがこういう問題の解決の原則です(同上)。

また、「小沢信者」「小沢信奉」という表現は、たとえば「コミュニスト」「トロツキースト」「自由主義者」「新自由主義者」「小泉ポピュリズム」「石原ポピュリズム」「ハシズム」などなど世に限りなくある政治的なレッテル貼りのひとつというべきものであってそれは表現の自由として認めらているものです(左記の例はマスメディアなどにおいても頻出する用法であることからもそのことは明らかです)。「小沢信者」という用法もそのひとつというべきものです。その表現の自由としての用法を批判されるいわれはないように思われます。なお、「小沢信者」という語をウェブ検索すると約3,030,000件もヒットします。いまや「小沢信者」という語は政治的な普通名詞とみなされるべきものです。その語の使用をもって名誉毀損、人権侵害などと批判するのはそういう意味でもまったく当たらない批判といわなければならないでしょう。

第三に山梨の佐藤袿子さんが「山崎康彦さまへ」(CML 016551)というご投稿で山崎氏について「あなたのように客観的に物事をとらえて発信してくださる方の貴重さを改めて認識しなおしました」と評価されていますが、この佐藤さんのご認識が決して「客観的」ではないことは上記に摘示している2つの例からも明らかだろうと私は思っています。ご検証ください。

■[CML 005738](higashimoto takashi 2010年9月26日) 山崎康彦氏の「『小沢幹事長起訴相当』議決は検察審査会法違反」というJanJanBlog記事の誤りを指摘する
■[CML 009925](higashimoto takashi 2011年5月29日) 「小沢一郎民主党元代表が語る『恐ろしい真実』!」という小沢信者の大ボラ

第四に櫻井智志さん(CML 016521)、豊間根香津子さん(CML 016530)、石垣敏夫さんCML 016532)の小沢氏を「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」(CML 016521)の人とみなす小沢氏評価も事実とは遠くかけ離れた主観的な小沢氏評価でしかないことも指摘しておかなければならないでしょう。

この点について2点論拠を示しておきます。

ひとつ目の論拠として菅氏と小沢氏の一騎打ちとなった2010年9月の民主党代表選の告示にともなう菅氏との共同記者会見の席上での小沢氏の発言を例としてあげます。この記者会見の席上で小沢氏は「今、自分の頭にあることを申し上げるわけにいかないが、沖縄も米国も納得できる案は、知恵を出せば必ずできると確信している」と普天間移設問題に関して県外移設の「腹案」があるかのような発言をしました。が、翌日に開かれた日本記者クラブ主催の公開討論会の席では「日米合意を尊重することに変わりはない」という前提を述べた上で「今、具体的にこうするとかという案を持っているわけではない」とあっさりと前日の発言をひるがえしました。このことは前日の普天間の県外移設に関して「腹案」があるかのような発言は小沢氏のハッタリでしかなかったことを如実に示しています。
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/435592/(リンク切れ)

さらに上記で小沢氏の言う「日米合意を尊重することに変わりはない」とは、同合意が米国のアジア戦略を優先させた不平等合意であることが明らかである以上、これまでの対米従属路線堅持の姿勢となんら変わるところはないわけですから、その小沢氏の認識を「対等な日米関係」をめざしているとか「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」をめざしているなどと評価することも適切とはいえないでしょう。

もうひとつの論拠として政治学者の浅井基文さんの次のような指摘をご紹介しておきます。浅井さんは下記の論攷で2007年の『世界』11月号論文における小沢氏の「ISAF参加合憲」発言は日米軍事同盟体制の堅持を前提にした自衛隊の海外派兵容認発言というべきものであり、同発言は自民党幹事長時代からの小沢氏の持論の焼き直しでしかなく、小沢氏の日米同盟堅持、対米従属路線堅持の思想と姿勢は自民党幹事長「当時とまったく変わって」いないことを論証しています。小沢氏の日米同盟堅持、対米従属路線堅持の思想と姿勢は現在も続いている思想であり、姿勢とみなすべきものでしょう。小沢氏の認識を「対米従属でなく、アジア、中国、アメリカと等距離外交路線」をめざしているなどという評価は事実に基づかない評価というべきです。

民主党・小沢党首のアフガニスタンISAF参加合憲発言(浅井基文 2007年10月10日)
■『新保守主義-小沢新党は日本をどこへ導くのか-』(浅井基文 1993年、pp.110-136)

以上はとりあえずの「小沢信者批判について」をめぐるやりとりについての私の異論・反論です。

先の小沢公判(2011年12月15日)の証人尋問で小沢一郎氏元秘書の石川知裕衆議院議員の取り調べを担当した田代政弘という東京地検特捜部検事(当時)が同議員が実際には供述していない内容を捜査報告書に書いていたことが明らかになりましたが、この捜査報告書の虚偽記載という検察(検事)の犯罪を受けてネット上ではいつもの「小沢一郎センセ」礼賛グループのメンバーを中心に再び小沢冤罪論が賑々しく騒がれています。

その一例がこちらのような「論」でしょう。この「論」ではその捜査報告書を検察審査会に証拠として提出したのかどうかを裁判所が検察に回答するよう求める方針を決めたことをもって小沢冤罪の証明であるかのように「論」じているわけですが、相変わらずの誤解、無知、勘違いによる「論」の繰り返しでしかありません。

以下
は、その「誤解、無知、勘違い」の論者へのサジェスチョンです(聴く耳はお持ちでないでしょうが)。

小沢一郎氏元秘書の石川知裕衆議院議員の取り調べを担当した検事が実際には供述していない内容を捜査報告書に書いていたことが先の小沢公判で明らかになりましたが、その捜査報告書を検察審査会に証拠として提出したのかどうか裁判所が検察に回答するよう求める方針を決めたことは裁判の公正を担保するためにも当然のことだと思います。

しかし、検事がうその内容を含む捜査報告書を書き、そのうそ捜査報告書を検察審査会に証拠として提出していたからといって、そのうその内容を含む捜査報告書の検察審査会への提出=小沢氏冤罪となるわけではありません。

すでにこちらでも述べていることですが(憲法研究者の上脇博之氏の論の引用)、小沢氏が強制起訴されるのには強制起訴されるに足る数々の事実が存在します。

すなわち、

(1)「西松建設」自身が自社のHPでOBらでダミーの政治団体をつくる等してその「政治団体からの献金を装って政治家個人の政治団体等に献金することを画策した」ことや同社が「一部の社員に対して特別賞与の名目で金銭を交付し、その代わりに当該社員から年に2回、政治団体への寄附をさせていた」ことを明確に認めているという証拠があること

(2)小沢氏側と二階氏側にそれぞれ他人名義で寄付をした西松建設の前社長は、有罪の判決が下され、それを受けた二階氏の秘書は他人名義での寄付を受けたとして有罪になっているという明白な事実も存在すること(すなわち、証拠もあること)

(3)両政治団体の献金は全て西松建設が決定し、同社代表取締役社長(前掲の前社長)らの指示・了承の下、同社総務部長兼経営企画部長らが同社のOBで新政研の名目上の代表者に指示して献金の振込手続きを行わせていた、という証拠があること

(4)小沢事務所の秘書らは2つの政治団体の寄付を西松建設からの寄付であるとして取り扱っていたという証拠もあること


などなどです。

上記の事実に小沢氏が何らかの形で関わっていたという合理的な疑いが常識的に見てあるのです。だから、強制起訴されるまでに至った。ということを抜きにして、うその内容を含む捜査報告書の検察審査会への提出=小沢氏冤罪、とすることはできません。

弁護士の坂口徳雄氏が「陸山会事件のネットにおけるガセネタの検討と題して面白いことを書いています。

「このようなガセネタがネットではびこる条件がどのような場合にあるのか思いつくままに指摘したい」と述べた上で、その「条件3『自分が信じたい情報』である」に次のように書いています。

最初に「意図的」にガセネタを発する人は別として、その情報を調べもせず、盲信し「誤解、無知、勘違い」のもとで間違った情報を発信する人達は情報が混乱しているときにはどうしても『自分が信じたい情報』をつい信じてしまうという心理が働く。/今回の事件にあてはめれば、小沢フアンは当然として、小沢は好きでなくても、モトモト特捜部の権力的な捜査などに批判的な人達はつい検察は間違っているという固い信念があり、つい『自分が信じたい情報』に傾く傾向に陥りやすい。小沢フアンでない人や、検察批判を持たない人達はおよそ信用しない。小沢フアンであっても慎重に物事を検討する人達も賛同しない。

ただし、上記のコメントには「検察批判を持つ人達であっても慎重に物事を検討する人達も賛同しない」というフレーズもつけ足しておきたい気がします。
先月26日にあった東京地裁の陸山会事件判決について、「裁判官が自分の推測と推断で事実を認定し、それに基づいて判決を下す。前代未聞のことであり、司法の自殺に等しい」(6日夕の衆院議員会館における小沢氏記者会見発言。産経新聞、2011年10月6日)とする小沢氏の同判決批判の主張とほぼ同値といってよい東京地裁判決批判が小沢氏に親和的なフリージャーナリストやシンパサイザーを中心にしてこのところ連日のように繰り広げられています。

その判決批判の中には耳を澄まして聞くべき批判もなくはないのですが、その判決批判の「論理」の実体はつけたしのようなものでしかなく、おおむね小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない、ためにする判決批判がおおよそのところのように私には見えます。ここでは私のいう論理的ではない小沢氏擁護のための擁護論と、耳を澄まして聞くべき論理的な(後に論証しますが、一見論理的に見えるということでしかありませんが)判決批判を一例づつとりあげて小沢氏を擁護する論の恣意性、主観性の一端を明らめてみたいと思います。

その前に前提として次のことを述べておきます。

それは、今回の小沢氏VS検察・マスメディアの構図に関して、私は検察やマスメディアの姿勢に肯定的ではない、批判的であるということです。検察はおそらく今回の事件でははじめの段階では小沢氏の収賄容疑での逮捕をめざしていたと思います。その収賄容疑での立件が難しくなって途中から政治資金収支報告書の未記載、虚偽記載違反容疑に切り替えて捜査を進めていった。その今回の検察の捜査の手法は別件逮捕の手法というべきであって決して認めることはできません。また、自らの立件案件を有利にするために操作した検察サイドの情報を意図的にマスメディアにリークし恥じない今回の検察のやり口の不法・不当性も厳しく白日の下にさらされなければならないものだ、と思っています。

また、そのことに関連して、マスメディアが検察の下請け機関化してジャーナリズム本来の独自の検証の姿勢を忘却して検察のリーク情報を無批判に垂れ流し続けた姿勢も犯罪的ともいえるほどの重大問題だとも考えています。このことを上智大学教授の田島康彦氏は外国メディアに「ニュース・メディアはウォッチ・ドッグ(権力の監視者)であるべきだが、彼らはガード・ドッグ(権力の番犬)のように振舞っている」(注1。ニューヨーク・タイムズ「日本のメディアは検察庁が流す情報を丸投げ」 2009年5月29日)と語っていますが、まさにそのとおりです。私はこの点において検察もマスメディアも塵ひとつも擁護するつもりはありません。

注1:原文は“The news media should be watchdogs on authority,” said Yasuhiko Tajima, a journalism professor at Sophia University in Tokyo,“but they act more like authority’s guard dogs.”

さて、上記を前提にして、先に論理的ではない論、小沢氏擁護のための擁護論のひとつの例としてフリージャーナリストの上杉隆氏の「もはや関係修復は不可能 小沢一郎氏vs記者クラブメディアの戦い」(ダイヤモンド・オンライン 2011年10月7日)という論をとりあげてみます。先頃CML(市民のML)にも好意的に紹介されていた田中龍作氏(フリージャーナリスト)の「『小沢記者会見』報道のウソを暴く―TBSキャスターの掟破り」(田中龍作ジャーナル 2011年10月8日)という記事とも呼応する論となっているからです。

上杉氏はこの論で「小沢氏のマスコミとの戦いを検証する意味でも、きょうの会見を振り返ってみよう」と言います。しかし、そう言うわりには、その検証の材料としてあげているのは小沢氏の6日夕の記者会見発言を除けば、TBSのNews23のキャスターの松原耕二氏が同記者会見の司会者が「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」と言っているにもかかわらず「フリーやネット記者を装」うという「姑息」な手段を用いて「質問を始めた」(田中龍作記者)という一件のみです。

そして、この上杉氏の論で問題なのは、そのたった一件の検証材料としての逸話を改ざんしていることです。上杉氏はこの論の前振りで次のように言っていました。「筆者も会見には出席したが、小沢氏の発言の引用については、より公平性を期すため、すべて産経新聞のウェブ版に拠った。さらに、文意のまとまったパラグラフについては省略をしないことにする。(略)それでは、小沢一郎氏と記者クラブメディアの戦いをノーカットで見てみよう」、と。いかにも公平性を装いながら肝心の「検証」の部分では司会者の「フリーの方も含めて質問を受けたいと思います」(17分34秒頃)という発言を「フリーランスの記者の質問を2問ほど受けます」という発言であったかのように改ざん(意図的であろうとなかろうと)した上であたかも記者クラブメディアの一員としての松原氏の発言がアンフェアであったかのように上杉氏の好む言葉で表現すれば「印象操作」しています。

しかし、司会者の発言が「フリーの方も含めて」というものである以上、マスメディア記者の発言は禁止されているわけではありませんので、松原氏が挙手して発言(しようと)したことにはなんの落ち度もありません。それを記者クラブメディアの記者の横やりやアンフェアであるかのように「印象操作」するのはそれこそアンフェアな態度だといわなければならないでしょう。事実、松原氏は司会者が「質問はフリーの人を優先してということなんで」と釈明すると、それ以上発言することは控えています。ここでも松原氏は小沢氏が叱責する「ルール違反」などしていません(注2)。

注2:田中龍作記者は上述の記事で松原氏を「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた。フリーやネット記者を装ったのである。姑息と言わざるを得ない」と批判していますが、司会者から「フリーの方も含めて」と許可されての発言である以上、松原氏は「フリーやネット記者を装」うような「姑息」な手段を弄する必要などありません。また「社名も氏名も名乗らずに質問を始めた」のは事実ですが、発言後すぐに司会者の指摘を受けて「ごめんなさい。TBSの松原でございます」と陳謝した上で社名と氏名を名乗っています。私たちも氏名や所属をはじめに名乗るのを忘れていきなり発言をはじめるということはときどきあります。そうした名乗り忘れを記者クラブメディアの記者に限って「姑息」などと臆断して批判するのはこれもまったくアンフェアなことです。批判のための批判、ためにする批判というほかないでしょう。

この件に関する上杉氏のこの記事の最後の言葉は次のようなものです。「フェアな議論はフェアな舞台にしか宿らない。/小沢一郎氏がマスコミを人物破壊を行う『敵』のひとりとみなしている理由はここにある」、と。まったくご都合主義の手前勝手な言い草としか私には見えません。上杉氏の論を小沢氏擁護のための擁護を第一義にする、すなわち論理的ではない論とする私の「理由はここにあ」ります。

次に耳を澄まして聞くべき論理的な側面を持つ東京地裁判決批判の論としてビデオジャーナリストの神保哲生氏と首都大学東京教授の宮台真司氏のビデオニュース・ドットコムのニュース・コメンタリー(2011年10月08日)での対談をとりあげてみます。

神保氏と宮台氏のここでの論の特徴は、法的責任と政治的責任とを峻別して小沢氏の法的責任は推定無罪の原則や法の平等の観点から問われるべき筋のものではないとするものの、小沢氏の政治的責任は決して免罪していないことです。

この点について宮台氏は次のように言っています。

ただある種の一部の国民感情や一部のマスコミの報じ方をあえて擁護することもできないわけではない。つまり、小沢さんは相変わらず4億円の出元については昨日も記者会見で聞かれて「それを知っているのは検察だから、検察に聞いてくれ」見たいな話(をしていますが)(略)この裁判がデタラメで小沢さんが明らかに無罪であるとしても、それとは別にこの4億円について多くの人が知りたいと思っているので、それについての合理的な説明をしてほしいな、と思う人たちがいて不思議はない。(略)小沢さん自身の政治家としての印象操作を首尾よくやるためには「それは検察に聞いてくれ」みたいな言い方で切り抜けようとするのはあまり得策ではないという気がします。4分24秒頃~

そうして神保氏と宮台氏は法的責任と政治的責任とを峻別しているのですが、神保氏は「今回の裁判ではこの事件の中心的な争点となった悪質性については、検察が『合理的な疑いが介在する余地がない』までに証明ができているとはとても言えない。にもかかわらず、『推認』や『合理的』との理由で、裁判所はその主張をほぼ全面的に認め、結果的に推定無罪の原則を逸脱してしまった」と言い、宮台氏は「状況証拠だけで『推認』『推認』『推認』(で成り立っている判決で)ありえない判決」などとして小沢氏の法的責任は問えないとしています。

しかし、神保氏と宮台氏の両氏が小沢氏の法的責任は問えないとするキーワードは「『推認』だけで証拠はない」というものですが、憲法研究者の上脇博之氏は今回の東京地裁判決は「推認」だけでなく証拠に基づいた有罪判決であることを下記の論攷で必要十分的に論証しています。

■「陸山会」裁判の東京地裁判決について(2):「西松建設」違法献金事件(2011年09月29日)
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51618618.html

上脇氏の証拠を挙げた上での論究は以下のようなものです。

(1)「西松建設」自身が自社のHPでOBらでダミーの政治団体をつくる等してその「政治団体からの献金を装って政治家個人の政治団体等に献金することを画策した」ことや同社が「一部の社員に対して特別賞与の名目で金銭を交付し、その代わりに当該社員から年に2回、政治団体への寄附をさせていた」ことを明確に認めているという証拠があること。

(2)小沢氏側と二階氏側にそれぞれ他人名義で寄付をした西松建設の前社長は、有罪の判決が下され、それを受けた二階氏の秘書は他人名義での寄付を受けたとして有罪になっているという明白な事実も存在すること(すなわち、証拠もあること)。

(3)両政治団体の献金は全て西松建設が決定し、同社代表取締役社長(前掲の前社長)らの指示・了承の下、同社総務部長兼経営企画部長らが同社のOBで新政研の名目上の代表者に指示して献金の振込手続きを行わせていたという証拠があること。

(4)小沢事務所の秘書らは2つの政治団体の寄付を西松建設からの寄付であるとして取り扱っていたという証拠もあること。

この「証拠」の問題については、フリージャーナリストの岩上安身氏の「あの水谷建設のヤミ献金を事実認定、推認していく、その辺りがとてつもないと?」という質問に対して、小沢派のジャーナリスト、ブロガー、議員などから神様のように頼りにされている郷原信郎弁護士も「水谷建設のヤミ献金は推認じゃないですよ」「あれは水谷建設のあれ(関係者)が証言しているわけですから。直接証拠があるじゃないですか」と岩上氏の「推認」論をたしなめています(郷原信郎弁護士インタビュー IWJ 2011年10月9日)。

東京地裁判決は「推測と推断で事実を認定」しており、「司法の自殺に等しい」などという小沢派流の俗論は自分の目で判決要旨、判決文の論理の流れをよく読んで、それこそ「検証」してみる必要があるだろう、と私は思います。いたずらな判決批判、小沢氏擁護の論には、今回の政治資金規正法違反事件ではいったい何が問われているのか(もちろん、金権政治というわが国の政治の根幹に深く巣食う暗い闇が問われているわけですが)。その視点が見事に欠落しているものが多い、という印象を私は強く持ちます。