2017.02.18 追悼 船村徹
キョウ ふなむらとおる

フェイスブックの記事を訂正を含めてそのまま転載しておきます。

作曲家の船村徹が昨日亡くなったことについて元ETVディレクターのtoriiyoshikiさんが
ツイッターに「あろうことか、船村御大自らのピアノ伴奏で「風雪ながれ旅」を歌ったこともある(氏に歌わされたのだが…)。船村さんはいつも、自分の作る歌にはわざと難しい、歌いにくいところを作ってある、歌手に対する宿題なんだとおっしゃっていた」と書いている。船村徹には私も別府の鉄輪温泉の近くの場末のスナックで一度会った。安酒場という以外になんの変哲もない客が10人も入れば満員になるような店だった。たまたま隣り合わせに座ったので私は船村に北島三郎のデビュー曲の「ギター仁義」が好きだというようなことをたぶん話した。船村は北島三郎の師匠だった。「ギター仁義」も船村が北島のために作曲したものだ。船村は私に「歌ってみないか」と水を向けた。そして、船村のギターの弾き語りで「ギター仁義」の一番を私が二番を船村が歌った。船村の歌は渋く、味があった。船村は自分もはじめは流しのギター弾きだったというようなことを話した。もう、40年ほど前のことだ。昨日、日本の各地で春一番が吹いた。船村は作曲家と言うよりも最後の流しのギター弾きと言った方が私には似つかわしい。

訂正:北島三郎のデビューした当時のヒット曲は「なみだ船」(作詞:星野哲郎、作編曲:船村徹)でした。「ギター仁義」を作曲したのは遠藤実でデビューの翌年にヒットしたものです。「『ギター仁義』も船村が北島のために作曲したもの」というのは私の思い違いでした。しかし、船村徹が弾き語りをしてくれたのは「ギター仁義」でした。私が「ギター仁義」が好きだと言ったので船村は私に合わせてくれたのでしょう。天国の船村さん、ごめんなさい。そして、ありがとうございました。
キョウ にながわゆきお

Blog「みずき」:女性史研究者の米田佐代子さんの蜷川幸雄さんを送る言葉。愛情のこもった送る言葉です。こういう言葉こそ弔辞(といってよいのでしょうね)にふさわしい。美辞麗句で飾った弔辞などあれは死者を鞭打つ音にしか私には聞こえない。

【まあ、その前に生きてる間は走らなくちゃ】
5月12日、演出家
蜷川幸雄氏逝く。享年80。それほど彼の芝居を見ているわけではないわたしが感慨深いのは、彼が「65歳以上の老人1万人」を公募して芝居をやるというのに応募しようかと思っていたから。今年初めにそのニュースを聞いたとき、わたしは電話をかけて「81歳でも応募できますか」と聞いてしまったのです。蜷川さんはすでにシニアばかりの劇団を立ち上げ、公演もしておられました。そこには80歳の方もおられたようですが、応募の時点で80歳を過ぎているというのはいなかったかもしれない。向こうは一瞬沈黙し、でも「いやどうぞトライしてみてください」と言ってくれました。

そのとき、わたしは、
らいてうの会の会長を辞めて役者になろう、と思ったのです。発声トレーニングもしてなければ、歌も踊りもできず、体を動かすこともろくにできない年寄りなのに、きっと試験で落ちるだろうな。でもトライしてみるだけでも、やりたいことをやればいいじゃん…。と思っているうちに今年はらいてう生誕130年とあって、「今なぜらいてうか」を問う行事や出版準備などに追われ、「会長辞めたい」は、封印されてしまいました。でもまだ5月末が締切とあって、心が揺れていなかったと言えばウソです。そこへ蜷川さんの訃報。「老人1万人劇団」の企画が継続するかどうかはわかりませんが、わたしとしてはあきらめる引き金になりました。

蜷川さん、いつかあの世でお会いしたら、「老人劇団」ならぬ「ユーレイ劇団」をやりませんか?時どき現世に出没して、「人間をないがしろにして戦争したがるやから」をキョーハクしようではありませんか。まあ、その前に生きてる間は走らなくちゃならないけど…。合掌。(
米田佐代子の「森のやまんば日記」 2016/05/12
キョウ つしまゆうこ

Blog「みずき」:あわせて太田昌国さんの津島佑子評もご参照ください。

【私にとって、津島佑子はいつも中上健次と結びついていた】
私が
中上健次に紹介されて、津島佑子に会ったのは、1970年代の末ごろである。彼らはかつて同人雑誌「文芸首都」の仲間であった。私が知って驚いたのは、彼女が母親に小説を書いていることを秘していたことである。だから、同人誌の郵送をことわって、自分で取りに行ったという。さらに、彼女は同人たちにも、太宰治が父親であることを隠していた。つまり、彼女は普通なら作家となるのに有利と見えるような条件を打ち消して、ただの人として出発するためにただならぬ苦労をしていたのである。むしろ、それが彼女の文学を形成したといえる。とはいえ、私は、彼女の物語を作る能力は、父親譲りの天分ではないかと常々感じていた。私にとって、津島佑子はいつも中上健次と結びついていた。中上が私の弟なら、津島は妹であった。91年、湾岸戦争に反対する文学者の集会で、私は彼らと一緒に行動した。しかし、その翌年に中上は死んだ。以来、私は中上の全集を編む仕事をのぞいて、文学の現場から遠ざかった。津島佑子が私にとって特別の存在となったのは、むしろそれからである。彼女は私にとって、中上の代理であったのかもしれない。実際、彼女は、私生児や孤児、障害者、少数民族、動物のようなマージナル(周縁的)な存在について書く作家であった。虐げられたものへの共感と深い愛情をもつ作家であった

そして、そのために世界各地で活動した。たとえば、フランスの大学でアイヌ文学について講義したこともある。しかし、津島佑子は中上健次の代理以上であった。私が瞠目したのは、彼女がむしろ近年になって、それまでとは違ったスタイルを、次々と開発したことである。特に私が驚嘆したのは『
黄金の夢の歌』(2010年)である。それは、私の『世界史の構造』(10年)と完璧に符合するものであったから。そして、昨年の「ジャッカ・ドフニ」(雑誌「すばる」連載)となると、世界文学史において類を見ないような作品である。この勢いでは、この先、一体何を書くだろうか、と思ったほどだ。日本では知られていないが、津島佑子はノーベル文学賞の有力な候補者であった。それに最もふさわしい多様な作品を書き、国際的な活動をしていた。もう少し長生きすれば、受賞したであろうから残念である。また、私は反原発デモで、何度か、彼女と一緒に国会周辺を歩いた。そういうことが二度とできないのかと思うと悲しい。(柄谷行人「朝日新聞」2016年2月23日
キンシバイ キンシバイ

吉川勇一さんの生前、私は、吉川勇一さんのホームページをしばしば訪ねました。私と吉川さんとの関係はただそれだけのことです。しかし、吉川さんはずいぶん風来坊の私に付きあってくれたような気がしています。吉川さんの発する一字一句に私が魅かれることが多かったからでしょう。吉川さんとはずいぶん対話したような気もしています。そういうことどもが私に「吉川さんはずいぶん付き合ってくれた」という思いを抱かせるのでしょう。

それはやや難しく言えば「思想の共有」ということなのでしょうが、吉川さんは盟友小田実との思い出について弔辞で次のように述べています。

「一九六五年、ベ平連の運動のなかで知り合ってから半世紀近く、私は、さまざまな市民運動で、あなたとともに活動してきました。ベ平連の運動のときには、「小田と吉川の二人の組み合わせで、この運動は進められた」というようなことが、よく言われました。しかし、振り返ってみて、私の代わりとなるような人は、私の周囲にいくらでもいました。私よりも若い世代の人びとの中から、私をはるかに超えるような能力を持った人びとはつぎつぎと生まれていました。しかし、あなたに代われるような人はついに現われませんでした。運動に加わった知識人のなかで、あなたは稀有な存在でした。

正直言って、個々の細かい点や局面では、あなたの言うことに矛盾があったり、私に賛成できないことも少なくはありませんでした。よく喧嘩もしました。しかし、状況を骨太に捉えて、判断を述べ、進む大きな方向を示す、その点ではあなたは少しもブレルことなく、常に運動の中軸にあって信頼の置ける人でした。」

「個人的な思いを述べる時間がなくなりました。私のこれまでの人生の道筋を定める上で、ベ平連運動でのあなたと鶴見俊輔さんとのお付き合いが決定的な位置を占めております。ありがとうございました。二〇〇七年八月四日  吉川勇一」

だから、私も、吉川さんにただ「ありがとうございました」とだけ伝えたいと思います。

以下、「今日の言葉」として。

【巨きな足跡を遺した「生涯平和運動家」吉川勇一さんを悼む】
吉川勇一さんが慢性心不全で5月28日に亡くなった。84歳だった。戦後平和運動における傑出したリーダーの1人で、まさに「巨星墜つ」の感を禁じ得ない。根っからの大衆運動家だった。(略)ベ平連の発足集会には加わらなかったが、1965年の暮れから、その事務局長を務めたのが吉川さんだった。当時、ベ平連に詳しい者の間では「ベ平連は小田実代表のアイデアと吉川事務局長の官僚性でもっている」と言われたものだ。確かに、小田氏の自由奔放な発想と、吉川さんの卓越した事務能力がベ平連の活動を支えていたとする見方は間違いではないだろう。しかし、ベ平連の極めてユニークが活動が、すべて小田個人の発想によると見るのは当を得ないのではないか。むしろ、小田氏を含む文化人のほか、ベ平連に結集してきた無数の市民たちの創造的な知恵が、ベ平連のユニークな活動を生みだしたのではないか、と私は思う。そう見た場合、さまざまなアイデアや提案をうまくまとめ、プロモートする人物が必要になる。そのような役割を果たす人物として、吉川さんはうってつけの人物だったのではないか。だから、私は1970年代にある雑誌から吉川さんの人物評を頼まれた時、彼を「天性のオルガナイザー」として紹介した。事務局長というポストにありながら、吉川さんは一段高いところから他人に号令をかけるというタイプではなかった。むしろ、率先して自ら行動を起こすというタイプだった。つまり、「口舌の徒」でなく、あくまでも実践家であった。しかも、「運動にとって大切なことは、組織の維持でなく、目的を達成することだ」という信念の持ち主だったから、組織の維持にきゅうきゅうとしなかった。ベ平連も、ベトナム停戦が1973年に実現すると、翌74年に解散してしまった。(略)突然の悲報。いまわの際に吉川さんの脳裏を横切ったのはどんな思いだったのだろうか。おそらく、自分が生涯をかけて守り通そうとした憲法9条の改変が目前に迫っていることへの憂慮だったのではないか。昨年6月15日に東京・池袋で開かれた「声なき声の会」の記念集会で、吉川さんはこう発言した。「私たちは、改定された日本国憲法に反対せざるをえなくなるかもしれない。政府や自治体の命令に従わなけれ処分されるだろう。でも、自分が正しいと思ったことをやらなければならないとしたら、市民的不服従、非暴力直接行動という道がある」。9条改定後に市民がとるべき行動にまで言及せざるを得なかったほど、吉川さんには、安倍政権が推し進める改憲作業に対する危機感、切迫感が強かったのではないか。(岩垂弘「リベラル21」2015.06.04
川辺川ダム問題を追いかけ続けた環境ジャーナリストの高橋ユリカさんが一昨日の8月21日に死去、という報に接しました。享年58歳(1956年生)。若すぎる死です。ユリカさんは長い間がんという病と闘っていたということですが(ユリカさんの死後知ったことです)、その長年の病魔との闘いにとうとう弓折れ矢尽きてしまったということでしょうか。

高橋ユリカ 
高橋ユリカさん(左) 2013年6月(坂手洋二さんのブログから)
 
高橋ユリカさんには三つの顔があったようです。ひとつは「下北沢再開発問題の闘士」という市民運動ジャーナリストとしての顔。もうひとつは「熊本・川辺川ダムの問題を追いかけ続けた」環境ジャーナリストとしての顔。さらにもうひとつは「ホスピス緩和ケア問題にとりくんできた」医療ジャーナリストとしての顔。ユリカさんの代表作のひとつといってよい『川辺川ダムはいらない~宝を守る公共事業へ』という本が出版される前に書かれたプロフィールだと思いますが、同プロフィールにはユリカさんの経歴について次のような紹介があります。
 
「たかはし・ゆりか、1956年東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。婦人誌などの編集を経てフリーライターに。主な著書に「病院からはなれて自由になる」(新潮社)「誰のための公共事業か」(岩波ブックレット)「医療はよみがえるか~ホスピスと緩和ケア病棟」(岩波書店)など。また雑誌「世界」「読売ウィークリー」「AERA」などに記事を多数執筆している。スウェーデン、イギリス、ブラジルなど海外取材も重ね、“暮らし”に根ざした取材ルポを続けてきた。在住の東京・下北沢の街づくり問題にも関わり現在は「下北沢フォーラム」世話人。11年前から川辺川ダム問題取材のため人吉球磨を頻発に訪問、地元関係者との交流を深めている。」
 
そのうち私が直接知っている高橋ユリカさんの顔は「川辺川ダムの問題を追いかけ続けた」環境ジャーナリストとしての顔です。ユリカさんが活躍の場のひとつとされていた川辺川メーリングリストに私は以下のようなささやかともいえないほどのちっぽけなさらにちっぽけな記事を書きました。
 
それを高橋ユリカさんへの私の追悼の言葉とさせていただこうと思います。人は「それぞれにひっそりと小さな個人の死を死ぬ」(池澤夏樹「夏のかたみに」)ほかない死をユリカさんもひっそりと死んだ、ということなのですね。川辺川から見える五家庄一帯の名もない山の谷間に沈む落日のように・・・
 
高橋ユリカさんのご逝去について劇作家の坂手洋二さんが本日の23日づけでご自身のブログに追悼の言葉を書かれています。
 
高橋さんはがんで亡くなられたのですね。
 
同ブログには昨年の6月に撮影したという高橋ユリカさんの近影も掲載されています(左側が高橋さんで右側がおそらく坂手さん)。
 
ありがとう 高橋ユリカさん(Blog of SAKATE 2014-08-23)
 
私は蒲島郁夫さん(当時、東大教授)が潮谷義子前熊本県知事の引退をうけて同県知事選に出馬した当時、高橋ユリカさんとは蒲島さんの評価についてずいぶんと議論を戦わせました。しかし、ユリカさんの川辺川への愛情はほんものであることは理解していました。
 
高橋ユリカさんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
以下、「遅れた追悼 ――伊藤律(日本の被占領期の日本共産党政治局員)について(私の「覚え書き」)」の附記として記しておきます。

この東京新聞の記事(2013年5月28日)を筆写しながらふつふつとした怒りが込み上げてくるのを押さえることができませんでした。誰に対してか? 人は人を売ってまで生き延びようとする。ここにその実例がある。そうした人の生は生という名に値するのか? 善人も悪人もない。人として存在すること自体への悲しみ。人というものの罪深さに対する怒り。一個の、一瞬の、おのれの誤解にすぎないことが人をとりかえしようもなくを死にまで追いつめることもある。そうしたことどもへの怒り。しかし、形而上的な怒りとは言いたくない。「世間虚仮唯仏是真」とも言いたくない。あくまでも現実として起こっていることへの怒り。人として誤りは避けがたい。錯誤も避けがたい。であるならば、私どもにできうることは「過ちては則ち改むるに憚ること勿れ」(論語・学而第一)ということに尽きるのであろうか。理としてはそのとおりでしょうが、なにかしら悲しさとやるせなさだけが遺ります。

伊藤律という人は私にとっては長い間、日本の被占領期の日本共産党政治局員というよりも、「革命を売る男」(松本清張)、「生きているユダ」(尾崎秀樹)というものでした。また、GHQによる追放令で1951年に中国に密出国し一時北京機関の一員となった後、同地で消息不明、非業の死を遂げた人ということでしかありませんでした。

Ritsu_Ito_19500113-2.jpg 
野坂参三理論の欠陥を認める所感を発表する
伊藤律(1950年1月12日 「wikipedia」より)

だから、伊藤律の「生きている」ことを伝える1980年7月31日の時事通信の報道には驚きました。そして、同年9月3日、伊藤律は新聞の報道のとおり29年ぶりに「生きて」成田空港に帰国しました。帰国時は伊藤は67歳で車椅子に乗っていました。
dscn7626_2.jpg


吉本隆明を追悼する文が各紙誌に掲載されていますのでご紹介させていただこうと思います。

私は図書新聞と週刊読書人の記事はいまだ未読ですが、文芸誌掲載の追悼文は概ね読みました。

その中で私としては蓮實重彦の「『握力』の人」(「文学界」5月号)という一文にもっとも共感しました。

同じく「文学界」5月号の芹沢俊介さんの「吉本さんとの縁」という一文には吉本の晩年、芹沢さんと吉本が袂別れするいきさつが描かれていて、吉本の晩年はさもありなん、と思わせるものがありました。

最後にインターネット上の吉本追悼文も少しばかり付記しておきます。もちろん、私の気づいたものに限られます。

読んでみて、私とほぼ同年の五十嵐仁さんの吉本論にはあまり賛成できませんでした。五十嵐さんは学生時代にいわゆる新左翼系の学生集団に襲われて片目を喪失していますが、そのルサンチマンが五十嵐さんのこの問題を論じる上での思想の傷跡になっているのかな、と少し残念に思ったものです。失礼ながら五十嵐さんは政治の人ではあるけれども、思想の人ではないな、というのが私の読後感です。

図書新聞(第3058号 2012年04月14日) 追悼特集 さらば! 吉本隆明
橋爪大三郎  日本の思想家・吉本隆明――権力について考え続け、最長不
          倒距離を刻んだ
山城むつみ  大人の論理と子供の感受性と――吉本氏には「子供たちが感
          受する異空間の世界」への感性が並外れてあった
最首悟     思想も実践もわかっちゃいない――繭玉のように表現を紡ぐ
          には、蚕のように静止しなければならない
丹生谷貴志  大河小説としての吉本隆明――この稀代の作家を、疑似原生
          林のようなものとして、遠く崇敬する
栗原幸夫    半世紀の時の向こうに――国を覆っていた党派性の支配にた
          たかいを挑む力業に、声援をおくっていた
月村敏行    「転位」、転向を続けた生涯――吉本さんの死を悼む
長崎浩     思想の自立を妨げた思想家吉本氏の思想の態度が、思想と
          いう言葉を自立させるとともに、思想は魔語となってその後の
         若い人たちの言説を縛る罠となった
三上治     吉本隆明さんを悼む――とても〈さようなら〉なんて言えない
粟津則雄   巨木、ついに倒る――生き生きした好奇心と、長年にわたり積
          み上げ練り上げてきた思考
野村喜和夫  詩人吉本隆明――吉本隆明の「死後の名声」のために
合田正人   壮絶な孤独――吉本が身を置き続けた「境目」は「底なしの深
         淵」にほかならない
金森修     〈疎外〉としての心――吉本隆明追悼
平川克美   世界に単独で対峙する文体――吉本隆明は、近くておよびが
         たい思想家だった
宇野邦一   孤独と母型――ある種の強固なナショナリストでもあった吉本
          隆明
川村邦光   隆明(リュウメイ)先生を弔う――東日本大震災を契機として
          試されている“自立化”
神山睦美   「死の思想家」吉本隆明――吉本隆明追悼
高橋順一   幻想論の最後の堺位――吉本隆明の『共同幻想論』と『最後
         の親鸞』
足立正生   三度現れた大衆主義原像――60年安保闘争が最も高揚して
         いるのに、寒そうにしていた吉本隆明
松本昌次   長いお訣れ――「吉本・花田論争」に対するわたしの選択

週刊読書人(2012年4月6日号) 大塚英志・宮台真司対談 「追悼 吉本隆
                      明」
週刊読書人(2012年4月13日号) 大西巨人氏に聞く 「吉本隆明君のこと」

群像5月号 〈追悼〉吉本隆明
三浦雅士   吉本隆明の悲哀
竹田青嗣   正しさから見放される体験
大澤真幸   「四回戦ボーイ」の原像
山城むつみ   ごく単純なこと一点だけ

文学界5月号 追悼 吉本隆明
蓮實重彦   「握力」の人
芹沢俊介   吉本さんとの縁
大井浩一   最後の取材

■新潮5月号 追悼 吉本隆明
中沢新一   「自然史過程」について
加藤典洋   森が賑わう前に
松浦寿輝   疲労と憤怒
福嶋亮大   ごわごわしたものの手触り

■ユリイカ5月号 追悼 吉本隆明
辻井喬
北川透
瀬尾育生
水無田気流

■現代思想5月号
磯崎新
高橋順一

■インターネット記事から
五十嵐仁の転成仁語(2012年3月17日)  なぜ、誰も吉本隆明の責任を追及
                          しないのか
五十嵐仁の転成仁語(2012年4月9日)    なぜ、誰も吉本隆明の責任を追及
                          しないのか
松岡正剛(千夜千冊 2012年3月16日)    緊急再録吉本隆明さん追悼 『藝術
                          的抵抗と挫折』(吉本隆明)
糸井重里(ほぼ日刊イトイ新聞 2012年3月16日) 糸井重里が3月16日の午
                               後、書いたこと。
宮台真司( ビデオニュース・ドットコム 2012年3月17日) 故吉本隆明氏に贈る
                                   言葉
東本高志(弊ブログ 2012年3月16日) 吉本隆明 死す
東本高志(弊ブログ 2012年3月30日  (続)吉本隆明 死す
先の記事を書いた後、メーリングリスト上の吉本隆明に関する問答を幾許か見てきました。私の参加しているメーリングリスト上ではおおむね吉本の原発推進論と「有名文化人・知識人」の立場への安住が問題になっていました。そうした批判をする人たちには吉本の著作を一冊も読んでいないという人も少なくありませんでした。以下、そうした見方、考え方への違和について述べた一、二のメールを追記としてエントリしておこうと思います。もちろん、たいしたものではありません。落書きのようなものです。


吉本4  

追記1:

原発推進勢力に与する『「反核」異論』(1982年)以来の晩年(というにはあれから30年以上も経っているのですが)の吉本の姿勢を批判するのは当然のことだと思います。そのような考え方の萌芽はもともと吉本の初期の理念そのものに伏在していた、と批判するのも当然のことだと思います。

先にご紹介した太田昌国さんの吉本批判もおそらく同様の批判の思いが含まれていたでしょう。

3・11から一年、忘れ得ぬ言動 ――岡井隆と吉本隆明の場合(太田昌国 現代企画室 状況20~21 2012年3月5日)

しかし、戦後初期の吉本の戦中戦後の文学者らの戦争責任の追及及び「転向」論を抜きにして、そして、吉本の『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』の思想の論を抜きにして、その後の戦後文学と戦後思想の形成は一言たりとも語ることはできないでしょう。それほど吉本の戦後文学、戦後思想界への影響力は大きかったのです(私もいわゆる戦後文学、戦後思想に影響を受けて育った口ですからこのように断言できます)。これは私の評価ではありません。一般的な文学史、思想史的な評価といってよいものです。

吉本の晩年の思想(それもすべてというわけではない思想)を批判するあまり、たとえば吉本の『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』、また『最後の親鸞』などなどを読みも、検討もせずに、吉本の生涯にわたっての思想のすべてまで否定するかのような論には私は賛成できません。

追記2:

吉本の死についてはおそらくこれからほんとうの論評がはじまるのだろうと私は思っています。

吉本の死が月半ばだったということもあって、吉本の多くの言説の発表の場であった文芸誌・思想誌はいまのところまだ沈黙したままです。群像、文学界、文藝、すばる、新潮、早稲田文学、三田文学、現代詩手帳、民主文学・・・、現代思想、ユリイカ、へるめす、世界・・・

吉本の死を語るにふさわしい人の論評をまだ読んでいないような気が私はします。戦後期の吉本を語れる適切な人はすでにあの世に旅立っている人も多く、生存している人で適切な人の名前を私はすぐに思いつきませんが、戦後期ということではなく、吉本を語れる適切な人の中には、吉本と晩年になってつき合いはじめた梅原猛や60年代以降の吉本のよき理解者であった蓮實重彦や辺見庸、60年代以後の吉本のよき批判者であった柄谷行人などなどもきっと含まれているでしょう。

それらの人たちの論評が出てくることを私は楽しみにしています。吉本を知らない人にとっては、上記の人たちの論評を読むことは吉本という人物を理解する入口に立つことを意味するでしょう。吉本は肯定的であっても、批判的であっても、思想家として理解されるべき人であって、原発問題に局限して理解されるべき人ではないように思います。彼の原発問題への言説は原発問題への言説としてではなく彼の高度消費社会論、サブカルチャー論の延長にある思想の問題として読み解くべきものだろうと私は思っています。負としてであれ、正としてであれ。

ある人の「吉本は「大家」になった。有名文化人・知識人としてあつかわれるようになった。そのことに、どうやら、彼は違和を感じないどころか、安住しさえしていたのではあるまいか?」というご感想には私も同意します。私が彼の姿勢になにやら腐臭らしきものを感じ出したのは『海燕』誌上で埴谷との「コム・デ・ギャルソン」論争があった少し前あたりからだったでしょうか。70年代の終わり頃。だから、埴谷の吉本批判は私にはよく理解できました。そして、ある人の吉本批判もよく理解できるのです。

しかし、吉本には私は多くのことを学びました。彼の「マチウ書試論」、「最後の親鸞」にはほんとうに多くのことを教えられました。しかしまた、その彼がどうして? と私は思います。その70年代後半から80年代以後の彼の変節ぶりが。おそらく身辺によき友人がいなかったのでしょうね。あるいはそうした友人を拒否する体質のようなものが吉本にはあったのでしょうね。それは彼のデリカシーの裏返しともいえるものだったろうと私は思うのですが、デリカシーはおうおうにして我に逆襲してくるのですね。私にも心当たりがないわけではありませんのでよくわかるのです。

とりとめもなく書きました。吉本の死についてのほんとうの論評を読んで感じるものがあったらまた書くことがあるかもしれません。

附記:
60年代終わりの若者の吉本受容を理解するためには宮台真司氏の以下の吉本受容の言葉が平均的ではないでしょうか。参考までに添付しておきます。もちろん、宮台氏の言説のすべてに賛成というわけではありませんが、吉本評価に関する大部分の言説は共有できるものです。

故吉本隆明氏に贈る言葉(宮台真司 ビデオニュース・ドットコム 2012年3月17日)

■【吉本隆明氏死去】 戦後思想に圧倒的な影響 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想(共同通信 2012年3月16日 10:29

2012032300002_1.jpg
 
2002年7月、東京都文京区の自宅で


吉本3 
ありし日の吉本隆明と奥野健男(左)

 文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。 喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子=よいこ)さん。

 今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。 次女は作家よしもとばななさん。  1947年東京工大卒。中小企業に
勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで時代を捉える骨太の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らがそれまでの主張を変えた転向の問題で評論家花田清輝(はなだ・きよてる)氏と論争した。

 既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争や全共闘運動で若
者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁(たにがわ・がん)氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を本質的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。

(以下、略)

以下、吉本隆明死す、の報を聞いて、ある人に宛てた雑駁な感想。

吉本隆明さんが亡くなられたのですね。享年87歳。

わが家にも吉本隆明の本はたくさんあります。

なかでも『言語にとって美とはなにか』と『共同幻想論』は繰り返し、繰り返し読みました。わかったようでわからなか
ったからです。しかし、わからないなりに吉本の思想性の「核」は正しい、と思ってきました。批判すべき点もたくさんあるのですが・・・

『海燕』誌上で、だったでしょうか? 吉本隆明と埴谷雄高の「コム・デ・ギャルソン」論争が最近では(といっても、もう20年ほど前?)もっとも記憶に残ってい
ます。

この頃から埴谷と大岡昇平の交友も深まっていくのですね。逆に吉本は若い人はともかくとしてかつての知識人、
文学者の仲間からは孤立していったように見えます。

文芸評論家の加藤典洋は吉本に肩入れしていましたが、私は埴谷の指摘の方に正しさを感じていました。

下記のような追悼講演会の案内が私のもとにとどきました。

━━━━━━━━━━━
増本亨 追悼講演会
 ?あなたを忘れない 一周忌によせて?

講師  西尾 漠 (原子力情報資料室 共同代表)
 「始まってしまったプルサーマル、何が危険なのか?」

3月28日(日曜) 午後 2時 から 4時まで
唐津市民会館 (四階大会議室)
 佐賀県唐津市、唐津駅から北へ徒歩8分、曳山展示場となり
 電話 0955?72?8278
入場無料 (当日カンパをお願いします)

主催  増本亨 追悼講演会実行委員会
後援  NO!プルサーマル佐賀ん会
問合わせ電話  090?6779?7522 (村山さん)
━━━━━━━━━━━

増本亨さん(当時、佐賀県議会議員)とは5年ほど前の大分県佐伯市にある大入島埋立反対闘争のときに現地でお会いしたことがあります。増本さんは三浦正之さん(当時、唐津市議会議員)、阪本登さん(唐津市)、荒木龍昇さん(当時、福岡市議会議員)、足立力也さん(コスタリカ研究家)とともにご一緒に来られて、同埋立反対闘争のために佐伯市議会議員選挙に出馬した大入島在住の女性の応援をしてくれました。増本さんはその後もおひとりでこの選挙期間中に3度ほど応援に駆けつけてくれました(このとき私は同選対の事務局長なるものを引き受けていました)。

私が増本さんの早すぎる死を知ったのはずっと後のことで、葬儀に出席することはかないませんでした。

最後まで市民運動家として活動された増本亨さんの心からのご冥福をこのブログという場を借りて祈らせていただきたいと存じます。

増本さんのお人柄を知る者のひとりとして。

不一