キョウ しょとう44
くじゅう連山・由布岳

正月元旦。

さえざえと雪後の天の怒濤かな 加藤楸邨
                       『雪後の天』

鬼門超す骸を花の見送れり
ひそやかに骨の泣く音や春の霜 大道寺将司
                        『残の月』

キョウ ぼぶでぃらん

【山中人間話目次】
・ボブ・ディランのノーベル文学賞授賞に疑問を呈する数少ない問題提起
・醍醐聰さんの上村達男氏(前NHK経営委員)批判と赤旗批判 ――上村達男氏のNHKガバナンス論の真贋~赤旗編集局への書簡(1-7)
・毎日新聞の「NHK次期会長の資格要件」という記事を読んでのtoriiyoshikiさん(ETVディレクター・ハーフリタイア)の感想
・「日本の新聞は、団結してユネスコを非難した」とするイギリス・ガーディアン紙の記事
・蓮舫氏は戸籍を公開すべきではない 安倍氏らによる戸籍を示せとは、「15円50銭と言ってみろ」と同じ 日本の民主主義の劣化の象徴だ- 弁護士 猪野 亨のブログ
・違和感のある中野晃一さん(上智大学教授。共産党シンパ)のリツイート

【山中人間話】







キョウ たかはしげんいちろう
高橋源一郎さん

金平茂紀さんがご自身のフェイスブック高橋源一郎の評価に関して以下の記事を書いています。
 
「今日で終わる2つのこと。高橋源一郎さんの論壇時評は、朝日を購読し続けてきた理由のひとつだった。報ステが疾走していた姿を僕らは知っている。さようなら。そして、お疲れ様でした。」
 
金平さんは私の好きな(評価している)記者ですが、私も最近(昨日から)フェイスブックをはじめてそのラインに以下のような若干の反論めいた記事を書きました。本ブログにも掲載しておきたいと思います。
 
高橋源一郎の評価については私は金平茂紀さんと見解を異にします。
 
高橋源一郎は私と同世代の作家ですから彼がデビューしたときから彼の作品には注目してきました。とりわけ彼の同時代に流行する世上の思想や言葉への感受性は鋭いものがあり、そこに私は彼の時代と切り結ぼうとする健全な批評精神のありようを見てきました。
 
しかし、30年近く彼の作品を読まないうちに彼は俗世間の言葉を批判的に読みとる力をどうやら喪失してしまったようです。そのことに私が気がついたのは例のISILによる日本人殺害事件の際の高橋の湯川さんと後藤さんに対する微妙な評価の違いを感じとったときです。また、高橋の朴裕河著『帝国の慰安婦』の評価についても到底納得しがたい論理の蹉跌を見ました。
 
そのことについて簡単に以下に書いています。ご参照ください。
 
・Blog「みずき」2015.02.04 「今日の言葉」に関して ――私が高橋源一郎を「ほんものではない」と思う理由
・Blog「みずき」2015.02.27 高橋源一郎の作家としての姿勢について――現実と切り結ばない批評に批評性は見出せない
・Blog「みずき」2015.10.06 日本のメディアとことの本質を理解しないエセ知識人、批評家の愚かな批評眼について ――朴裕河の『帝国の慰安婦』が第27回アジア・太平洋賞特別賞(毎日新聞主催)を受賞
キョウ 志賀高原

【この世の中に、無駄なものなど、何ひとつない】
落ち葉を見ていると、「葉っぱアーティスト」群馬直美さんを思い出す。その辺に落ちている葉っぱや木の実を写生した作品で知られる。個展に行ったのは、手元のサイン本に2008年10月19日とあるからもう7年前になる。葉脈の一本一本、虫食いの穴まで精密に描かれた葉っぱが、不思議な癒しを与えてくれる。「小さな木の葉の中に 限りなく大きな宇宙が広がっています/小さくても大きくても 同じくらい密度の濃い物語があります/初々しい若葉のころ 虫に食われてたり/傷ついてたり 病気になったり 枯れちゃったり/葉っぱは何も語りはしないけど/一枚一枚の葉っぱたちは確かにそれぞれ物語っています」(
群馬 直美公式HPより)
本日付け(6月29日)で削除した標題記事について松尾匡さんから以下のようなコメントがありました。

松尾匡 2015/06/11
「心痛む右傾化の中、心強い言論活動に敬意を表します。/すみません。この「ディストピア」の管理者の方は、「金融緩和」と「金融の規制緩和」とを混同されています。/「金融緩和」は中央銀行がおカネをたくさん出すこと。「金融の規制緩和」は銀行などの民間の金融機関に対する規制や金融取引への規制を緩和することです。/もし連絡がつくかたでしたら、こっそりと教えて上げて下さい。/私はもちろん、「金融規制緩和」には反対で、拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』でも書いています。/なお、欧州左翼が金融緩和を志向していることは、最近月曜日に出た「週刊エコノミスト」誌にも書きましたので、ご覧いただけましたら幸いです。」
サンダーソニア サンダーソニア

【6月6日】 【6月4日】 【6月3日】
テイカカヅラ 
テイカカヅラ

【日弁連問題が勃発していることに気づかなかった不明】
武本夕香子弁護士の論考で初めて日弁連会長の会務執行方針の「基本姿勢」を読んだ。これほどひどいとは正直、思わなかった。人権の砦であるべき日弁連は、すでに過去のものになりつつある。「基本姿勢」中、とくに強い違和感を覚えるのは、「すべての判断基準は、市民の利益に叶い(略)」「日弁連の主張を最大限実現するためには、孤立を回避することが不可欠であり、独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません(略)」との部分であり、現実迎合の姿勢があらわである。(略)一体、ここにいう理解を得、利益を叶えるべき「市民」とはだれなのか。「孤立を回避することが不可欠」で「独りよがりや原理主義」と批判されてはならない」相手は誰を想定しているのか。(略)「日弁連の主張を最大限実現するためには、孤立を回避することが不可欠であり、独りよがりや原理主義と批判されるような言動は排さなければなりません。司法と日弁連の歴史に思いをいたし、経緯と情勢そして現実を冷静に見極め、説得力のある最善の主張を展開することにより多くの人々の理解を得、力を合わせて改革を着実に前進させることが大切です。」との基本姿勢を適用すると、猛毒を含んだ法改正の「早期成立を強く望みます」となるのだ。(略)この延長には、幅広く臣民の理解が得られるよう心がけ、孤立を恐れる、戦前の日弁連の姿が待っている(略)ポツダム宣言の受諾を受け、おそらく占領軍が憲法改正案を所望していることを聞きつけて、大日本弁護士会連合会は、臣民の理解を広く得るべく天皇大権は存続させて(結果、天皇は国会の制定した法律の拒否権を持つ)、臣民の自由は原則として、法律の範囲内についてのみ認めるのを原則とする改憲案を立案したのだ。かかる微温的な改正しか提言する能力がなかったのが、時局迎合した戦前の大日本弁護士会連合会のなれの果てである。日弁連は今、その道に踏み込んでいる。マスコミや、大学の批判をしていて足下の日弁連がむちゃくちゃにされていることに気づかなかった。日弁連問題が勃発していることに気づかなかった不明を恥じる。(街の弁護士日記 2015年5月28日

【山中人間話】
タニウツギ3
タニウツギ

【日弁連執行部の弁護士窮乏化路線について】
憲法が目指す理想通りにはいかないことは周知のところであり、日本の裁判所は憲法問題に踏み込むのを極端に嫌う。お上の意向を窺う「
ヒラメ裁判官」との謂いが一時期はやったゆえんである。しかし、中には、国家の方針に反してでも、憲法を擁護しようとし、裁判官の良心」に忠実であろうとする裁判官も少数ではあっても存在したし、現在も存在し続けている。激変しているこの時代ほど、「裁判官の良心」や司法の独立が果たすべき役割は大きい。(略)かつて、食えない弁護士というのは、想像もつかなかった。裁判官が職を賭して良心を貫こうと決意する場合、裁判官を辞しても、弁護士として少なくとも最低限の安定した生活は保障されていた。いかに良心的であろうとも、裁判官も人である以上、生活は先立つ。裁判官を辞した後の生活の保障が何もないとしたら、勇気を振り絞った判決が書けるだろうか。良心をかけて歴史に残る違憲判決を出した末、組織で冷遇され、昨今の政治情勢では、国会の弾劾裁判にかけられる可能性すら否定できないのである。繰り返すが裁判官も人であり、家族もあり、子どももある。裁判官を辞した後の長い人生が日々の生活にあえぐ、貧困弁護士でしかないとしたなら、どうやって「裁判官としての良心」に忠実であろうとする、勇気ある決断ができるというのか。「司法の独立」あるいは「裁判官の独立」という理念は、実は、弁護士になれば少なくとも食べていくことはできるという、実に現世的な経済基盤に支えられていたのである。今、日弁連執行部がやっているのは、政府と結託して「裁判官の独立」、「司法の独立」の現実的な基盤を掘り崩し、これを文字通り「画に描いた餅」にする策動である。日弁連執行部が、基本的人権の擁護を弁護士の使命とし、憲法の擁護を叫ぶのであれば、直ちに、弁護士窮乏化路線を転換し、司法試験合格者1000人以下の目標を掲げなければならない。司法試験合格者1000人以下としても、この10年余で倍増して全国3万5000人に及んだ弁護士人口は、なお当分の間、増加し続けるのである。国民は、弁護士が事件を漁るような、トラブルが多発する社会は望んでいない。基本的人権と平和を基本的価値とする憲法の実現をこそ望んでいるのだ。はき違えてはいけない。(街の弁護士日記 2015年5月26日

【山中人間話】
ユキノシタ
ユキノシタ 

【邦人殺害テロ事件の検証報告書について】
平成27年5月21日、邦人殺害テロ事件の対応に関する検証委員会が
検証報告書を公表した。(略)この報告書には最も重要な問いが抜けている。ふたりの命を守ることができたか、という問いだ。第1段階の(1)で、邦人の渡航を防ぐことはできなかったかという問題設定をしているが、これとはちがう。渡航してしまったふたり命を守ることはできなかったかという問いは、別問題だ。常岡浩介氏と中田考・元同志社大学客員教授が、イスラム国から連絡を受けて、湯川遙菜氏の命を救うためにイスラム国へ行こうとしていたときに、警視庁公安部外事三課が渡航を妨害したことに全く言及していない。したがって、この点の評価もない。この報告書は、政府の主体的行動に焦点をあてて検討している構成になっているので、常岡氏や中田氏の行動は登場する余地がないのだろう。しかし、ふたりの命を守ることが出来たかという問いについて、主語は政府だけである必要はない。報告書では、情報収集についてではあるが、「本事件のように非国家主体が主として関わる事案については、政府による外国政府諸機関との関係を中心とした情報収集によって得られる情報には自ずと限界があることから、日本側の民間の個人や団体の有する情報をより積極的に聴取し対処策に活かす手法も、今後検討されるべきであるとの意見も示された。」(8頁)と指摘している。本件のように政府間交渉ができない事案では、「日本側の民間の個人や団体の有する情報をより積極的に聴取し対処策に活かす手法」が重要なのである。これを常岡氏や中田氏に当てはめるなら、彼らの協力を得ることによってこそ、政府は湯川氏の命を守ることができたかもしれない。彼らがイスラム国で生命の危険に晒されるおそれが小さければ、彼らがイスラム国に渡航して湯川氏の処刑を回避できたかもしれない。そういう形の協力もあったのではないか。報告書では、後藤氏の渡航目的は不明のようである。湯川氏救出が目的であれば、常岡氏や中田氏が行動することで、後藤氏はイスラム国へ行く必要がなくなり、命を奪われることにはならなかった。(弁護士清水勉のブログ 2015-05-23

【山中人間話】

【任俠の世界に属する人の匂い】
修行僧のような風情と言われることもあるが、失礼ながら筆者は任俠の世界に属する人の匂いを感じてしまった。作家の
車谷長吉さんが文壇に登場した時に受けた印象である。ごく短い髪、鋭い目、こけた頰に、どこか捨て身な気配が漂っていた。30代の大半、関西を転々として過ごした。料理場の下働きなどをしたが、極貧だった。「泥の粥」をすすって生きるような「世捨て」の時代だ。この経験がなければ「物書きという無能(ならず)者」にはなっていなかったと振り返っている。金貸し一族の物語「鹽壺の匙」を表題作とする作品集で三島由紀夫賞を受けた。時に47歳。自分自身の骨身に染みたことを、骨身に染みた言葉だけで書く。反時代的と言われようが、私(わたくし)小説でおのれの存在の根源を問い、代表作の『赤目四十八瀧心中未遂』に結実させた。変人といっていいのだろう。「私は原則としてズボンの前を閉めない」と書いている。原則、の2文字がなんともおかしい。48歳の時に結婚した詩人の高橋順子さんから「卦(け)ッ体(たい)な人」と呼ばれたのも無理もない。本紙「悩みのるつぼ」の回答者としても異彩を放った。小説を書きたいという相談に、善人には書けないと答えた。作家は、人に備わる「偽、悪、醜」を考えなければいけないのだから、と。それは車谷さんの自負だったろう。5年ほど前に書いたエッセーに「あと数年で死のときが来るので、その日が待ち遠しい」とある。予感があったのだろうか。69歳での旅立ちだった。(天声人語 2015年5月20日

車谷長吉2 
2010年8月、自宅の庭で

この世の苦を書き続けて
(NHK教育テレビ「こころの時代」2007年4月22日放送)
 
作家:車谷長吉 
一九四五年兵庫県姫路市生まれ。姫路市立飾磨高等学校出身、本当は姫路市の公立トップ高を目指していたが受験で失敗する。その事が後の強烈な上昇志向の源のひとつになった。高校三年で文学に目覚め、慶應義塾大学文学部独文科では目が潰れるほど本を読もうと決意していた。広告代理店、出版社勤務の傍ら小説家を目指すも、一度は挫折して故郷の料理屋で働く。住所不定の九年間は、神戸、西宮、曽根崎、尼崎、三宮などのたこ部屋を転々と漂流していた。しかし再び東京へ行き作家デビューを果たす。名門大学卒のインテリジェントでありながら、播州地方の方言を使った民衆言語で書く下層庶民的な生活実感は、近代と自己に疑問を投げかけている。「反時代的毒虫」としての「私小説家」を標榜する異色の作家。著書に、『鹽壺の匙』『漂流物』『赤目四十八瀧心中未遂』『武蔵丸』他。夫人は詩人の高橋順子。
 
ききて:山田誠浩
                         
ナレーター:     東京・文京区向丘(むこうがおか)。古い家が建ち並ぶ狭い路地裏に、作家車谷長吉さんは暮らしています。午前四時、修行僧のように早朝に起きるのが車谷さんの日課です。二時間ほど瞑想して小説の構想を考えます。二十五歳から小説を書き始めた車谷さん、自らを私(わたくし)小説作家と称し、実生活で起きた出来事を赤裸々に描いてきました。人の世の苦しみを見据え、書き続けることで救いを見出したい。その作品は、人の愚かさ、醜さを容赦なくえぐり出しています。追い詰められた男女の道行きを描いた『赤目四十八瀧心中未遂』は直木賞を受賞しました。
 
山田:  「詩や小説を書くことは救済だ」というふうに書いていらっしゃいますね。それはどういうことですか?
 
車谷:  人間はやっぱり四苦八苦(しくはっく)というものを抱えているわけですよ。「四苦」四つの苦しみというのは「生・老・病・死」ですよね。生というのは生きることそのものが苦しみだ、悪だ、と。老は老人になること。病気になること。死ぬこと。この四つは避けがたいわけですよ。だからこの「生・老・病・死」ということが、お釈迦様から言わせれば、「人間の悪であり苦しみである」ということをおっしゃるわけですね。だから僕はお釈迦様というのは凄い慧眼(けいがん)な人だと思いますね。
 
山田:  「四苦八苦」とおっしゃいますけど、それをとにかくテーマにして書いていく。
 
車谷:  そうですね。だから私も病気したことがあるけども、病院に二ヶ月ぐらい入院して、二回大手術をやりましたね。この頭蓋骨の中に膿が溜まる病気だったから、そうすると、顔の上唇と上顎をメスで切り離して、脳の中の腐った部分をメスで削り取るという手術を二回やりましたね。病気も苦しみですね。だから苦しみと結局闘うのが人間の一生じゃないでしょうかね。だから人生全体の中では、嬉しいということは非常に少ないですね。八割ぐらいが苦しみじゃないかな。例えば学校に入れば試験というのがあるわけだし、学校を卒業する時には就職試験というのがあるわけだし、僕はたまたま慶應義塾大学というのに入学したんだけど十一倍の競争率だったですよ。そうすると、十人落ちているんだね。そうすると、十人の人に悪いな、という気がありますよ。悪いなと思いながら、同時に自分は受かって良かったなあというなんか非常に利己的な考えもあるわけですね。自分は受かって良かったなあと考えているのは一体何だろうというふうに、なんか不可解なものが、嫌なものが自分の中にあるな、と十八歳頃思いましたね。この世の中で人間ほど悪いものいないんだから。魚なんか殺して平気で食っている。牛を殺して牛肉なんかも平気で食っているんだから、豚とか蟹とかも。私も牛肉も食べるし、魚も殺して食べますけども、なんか罪悪感感じるなあ。僕は、人間性の中の悪を書いて、それを活字にすることによって、多くの人に人間性の中の悪を知ってほしい、目覚めてほしい、と。例えば魚や蟹を殺して食うことだって悪なんだよ、ということを知ってほしい、自覚を持ってほしいな、と。そのうえで生きてほしいなという気持、願いを持っていますね。
 
ナレーター:     人間の悪やどうしようもない苦しみを描いてきた車谷さん。作家としての眼差しには、幼少期の原体験が深く関わっています。代表作『鹽壺(しおつぼ)の匙(さじ)』は、少年時代に体験した叔父の自殺を描いた小説です。
 
宏之(ひろゆき)叔父は昭和三十二年五月二十二日の午前、古い納屋の梁(はり)に荒縄を掛けて自殺した。享年二十一。私が小学校六年生の時のことだった。平生は何の変もない村の中に、戦慄(せんりつ)が走った。
 
長い時間がその当時の狂瀾(きょうらん)を沈めてくれた今、宏之の死が私に一つの静謐(せいひつ)をもたらしてくれたと思わないわけには行かない。この死の光は、その後の私の生の有り様を照らし出す透明な鏡として作用して来た。あるいはそれは呪われた天の恵みであったかも知れない。(『鹽壺の匙』より)
 
作家の車谷長吉さんは、昭和二十年終戦の年に、兵庫県飾磨市(しかまし)、現在の姫路市に生まれました。生家は代々地主で、昭和二十二年の農地改革で大部分の土地を無くしました。そのため経済的な基盤を失い、父親は呉服店を営みますが上手くいかず、生活は苦しかったといいます。母方の祖母は同じ町内で高利貸しを営んでいました。車谷さんはしばしばお金を借りに行ったことが今も忘れられないといいます。
 
山田:  育っていた家庭の環境の中で、やっぱり原体験として、人間というのは悪だというふうに思ったり、人間のどうしようもない側面というふうにみることになった、幼い時の体験をちょっと話して頂きたいと思いますけど。
 
車谷:  そうですね。私の祖母は、それから曾お爺さんも同じ村の中で、いわゆる金貸しをしていましたね。関西の言葉で「銭売(ぜにう)り」ですね。だからそこへ僕の親父は呉服屋という商売をしていたんですけれども、戦後は呉服というのはほとんど売れないで洋服に変わっていたわけですね。商売不振だから、結局金を借りにいくことがしばしばあったんですよ。親父は商売をやっているんだけど、自分では行かないんですよ。自分の嫁である、つまり私の母親に頼んで、「おばあさんに頼んで金を借りてほしい」と頼むわけですよ。そうすると、昼間行くのは差し障りがあるから、晩飯食って、夜の八時ぐらいになってから幼い私を連れて金を借りにいくわけですよ。おばあさんも簡単に金貸してくれないですよ。だから金を借りに行く時に、道々、「私がお尻を抓(つね)ったら、わぁっと泣くんやで」と、こういう具合にいわれるわけです。そうするとおばあさんからすれば、〈あ、孫が泣いているか。可哀想だな。じゃ、お金貸してやろうか〉と、こういう具合になるわけですよ。それが芝居なんですね、一種の。だから金というのはなんか大変なもんだな、というのは小学校あがる前から思っていたな。
 
山田:  そういう中から人間の何を感じておられた、ということなんですかね。
 
車谷:  一つは金というものが有り難いな、と。一つはお金というのは人を泣かせるものだ、苦しい思いをさせるものだから罪深いな、と。それはもう幼稚園ぐらいの頃から思っていましたね。ただ「罪深い」なんていう言葉は大人の言葉だから、そういう気分を持っていたということですね。言語化されない、言葉にはならないんだけど。だからお金の二つの側面である「有り難い、嬉しいな」というのと、それから「恐いな」というのはありましたね。
 
ナレーター:     車谷さんにとって生涯忘れることのできない悲しい出来事。それは小学生の時に起こった叔父の自殺です。地元の進学校に進んだ叔父の姿は、車谷さんの憧れでもありました。
 
車谷:  僕が小学校六年生の時の五月二十日だったけど、昼過ぎに学校から帰って来ると、家におばあさんが居て、それで「宏之(ひろゆき)さんが亡くなったんだそうだ」と言うんで、僕も同じ村の中だからすぐ母親の里へ飛んで行ったんですよ。そうすると玄関の戸を開けたら、そこに土間があるんですけども、母親が土間に転げ回って泣いていた。号泣というか、大声をあげてね。私は物心ついてから母親が泣いている姿なんか見たことないし、転げ回って泣いているというのは。普通ちょっと立って、あるいは坐って涙を流しているというんじゃないんですよね。その姿を見て、なんか胸にグッときたな。母親が転げ回って泣くなんて思って。それで死というものがまだよく理解できなかったけども、母親が転げ回って泣くということが、つまり死なんだ、ということはわかったですね。それでとにかく立ち上がって僕の顔を見ると、「宏(ひろ)ちゃんが死んだんだ! 宏之叔父さんが死んだよ!」とこう僕にいうわけですよ。それがその時に、人生最初に感じた死というものだったですね。それから宏之叔父の死というのは何だったんだろう、何で死んだんだろうな、ということを考えるようになりましたね。
 
ナレーター:     小説『鹽壺の匙』には当時の模様が書かれています。
 
叔父は大学受験に失敗し東京の予備校に通いますが、ある日故郷に戻ってきます。
 
勉強が思うように進まなくなったことに加えて、さらにそれに追い討ちを掛ける形で、自分を尊敬できなくなるような何かが東京であったのではないか。宏之本人は、何もあらへん、自分に負けただけや、と言うだけであったが、明らかに魂の打ち摧(くだ)かれた人であった。あるいは自分を軽蔑せざるを得ない何かを心に抱え、その苦痛にうめいている人であった。
 
叔父が抱えていた深い挫折感。車谷さん自身もその苦しみを体験することになります。高校受験の失敗です。
 
車谷:  十五歳で高等学校の入学受験を落ちた時に、まず頭に浮かんだのは、僕も自殺ということが頭に浮かびましたね。姫路西校を受けて落第したから自殺しようと思ったんだけど、お袋がすぐわかっていて、「宏(ひろ)ちゃんは死んだんだけど、お前は生きてくれ」と。宏之叔父は大学受験に失敗して死んだんだ。僕は高等学校受験失敗で、死のうと思ったけど、お袋はもうすぐわかったんだな。僕が何を考えているか、というのは。だから、「お前、宏ちゃんみたいに死なないでくれ。生きてくれ」と。
 
山田:  やっぱり高校入試に失敗したということは、大きな挫折という感じだったんですか?
 
車谷:  もうすべてを失ったような気がしましたね。生きていく手掛かりのすべてをね。だから姫路西高等学校に入れなかったということは、生きていく手掛かりが何もないというふうに思いましたね。勉強する気がないし、何も目標がないから、毎日とにかく昆虫採集ですね。蝶、カブトムシですよ。それ二年間やっていたですね。それで教科書、ノートは全部学校の下駄箱に突っ込んでおいて、学校でも授業をあんまり出ない。ところが高校学校の三年生の六月、十七歳の時に、夏目漱石と森鴎外を読んだことによって、自分もとにかく無茶苦茶文学が好きになっちゃって、それで宏之叔父さんの死について考えるきっかけを与えられたような気がしたね。
 
山田:  それはたまたま読んだんですか?
 
車谷:  高等学校の同級生が―ある男の人と女の人の数人のグループが、森鴎外の『高瀬舟』の主人公の喜助(きすけ)の死について議論しているのをたまたま耳にしたんですね。それで自分も読んでみようと思って、学校の図書館で鴎外の本を借りて『高瀬舟』を読んだんですね。そうしたら非常に興味を覚えたですね。
 
山田:  何に興味を覚えられたんですか?
 
車谷:  『高瀬舟』の主人公の喜助の自殺について。それから同じ本の中に入っていた『阿部一族』も読みましたね。これも『阿部一族』の人が最後自殺するわけですよ。これも非常に興味を覚えました。
 
山田:  興味というのはどういう意味でしょうか?
 
車谷:  〈あ、自殺する人が宏之叔父以外にもたくさんいるんだ、それぞれに理由があるんだ〉ということですよね。その後夏目漱石の『心』というのを学校の図書館で借りて読んだら、これも主人公の先生が自殺するわけですよ。先生の友だちのKというのも自殺するわけですよ。それぞれに理由があるわけですね。そうすると、〈宏之叔父の場合はどういう理由だったんだろう〉ということを考えるようになりましたね。僕も小説家になって、宏之の死について、それまでいろいろわけのわからなかったことを、なんかわけのわかるようにしようと思って、それで十七歳の時から、宏之の死について書くことだけが人生の目標になりましたね。
 
ナレーター:     作家になろうという志を抱き、車谷さんは慶應義塾大学文学部に進学します。毎日のように図書館に通い、閉館になるまで小説を読み耽りました。その時一人の作家と出会い、私(わたくし)小説という分野に目を開かれます。昭和の初めに活躍した嘉村礒多(かむらいそた)(1897-1933)。自己暴露的な私小説で知られています。二十あまりの作品を残し三十七歳という若さで亡くなっています。代表作『業苦(ごうく)』。結婚に失望し、妻子を捨て、東京に駆け落ちした波乱の人生をもとに書いています。自らの業を隠さず、あからさまに書くことで、人の苦しみを描ききった嘉村礒多の作品。車谷さんはそこに文学の可能性を見出します。
 
車谷:  嘉村礒多というのは山口県の田舎の地主の息子なんですね。僕の家も昭和二十二年まで播州の地主だったから。だから自分と地主の家の長男ということでお互いになんか共通点があるということで、それだけで関心をもって。『嘉村礒多全集』が戦前に小林秀雄の編集で白水社から全三巻で出ていたのが―昭和十七年ぐらいじゃないかと思いますけれども―学校の図書館に置いてあったので、それを全部読んだんですね。そうすると嘉村礒多は自分の人生を素材にして小説を書いているんですね。そういうのは、いわゆる「私小説というのだ」ということをはじめて知ったわけですね。それで、そうすると〈私も自分の私小説として、自分の叔父さんの死について書けば、小説が可能じゃないか〉というふうに思いましたね。大学の二年生終わった時だから、二十歳の時ですね。
 
山田:  嘉村礒多の作品のどういうところが非常に車谷さんに響いたんでしょうか?
 
車谷:  一言でいえば、テーマというか題材は、「業苦(ごうく)」というんです。人間の業の苦しみという。だから人生の闘いの仕方が嘉村礒多さんの場合は凄まじいですよ。親兄弟で、嫁との闘いが徹底している。親兄弟、嫁との闘いが徹底していて、それをありのまま書いているわけですよ。それで凄いな、と思いましたね。漱石、鴎外に劣らないと思ったね。作品の数が少ないだけで。人間の業の苦しみの極限を書いたな、と思いましたね。もうとにかくこれ以上凄い作品はない、と思ったな。
 
山田:  そうですか。
 
車谷:  悲しみ、なんか業の深さ、そういうふうなものを、嘉村礒多よりはより深く書くという決心をしたな。
 
ナレーター:     小説を書くことを志した車谷さんでしたが、生活の糧を得るため、大学卒業後広告代理店に就職しました。サラリーマンと作家という二足の草鞋。しかし小説を書くこととは相容れない自分の職場にいつしか疑問を抱くようになります。
 
車谷:  東京日本橋の中どころの広告代理店に勤めたんですけれども、社長がとにかく繰り返していうことは、「人を騙せ。人を欺け。で、仕事を取ってこい。金儲けとはそういうものなんだ」と。入社の時の挨拶から始まって、とにかく「人を欺け、人を騙せ」。それに嫌になって、反感というか嫌な気持を毎日持ち続けたな。人間の業そのものだとは思ったけどね。文章を書く人間の立場とはちょっと違うんだなと思ったな。だから自分は文章を書く立場になりたいからあんまり業を背負いたくないというふな虫の良いことを考えましたね。広告代理店で、その広告取りの仕事を毎日毎日して、人を欺いて、人を騙して、ということが嫌になったということですね。そうすると、自分はもっと貧乏でもいいから人を欺かない生活をしたい。騙さなくてすむ、と。自分の同僚たちはより多くの収入を得て、より良い生活をしたい、というのが大体みんな希望だったけど、僕はより最低の生活ができれば。だから食事は普通一日三回するんだけど、一日に一回でいいとかね、そういうふうに思っていた。それから美味しいものを食べたいとは思わない。だから大体インスタントラーメンをワンパック買ってきて、それを包丁で三等分して、それでお湯を注いだら膨れあがってしまうから生の固いのをポリポリ囓(かじ)って、三等分して食べていた。
 
山田:  それはそうしてでも作家になりたいという思いですか?
 
車谷:  そうですね。だから貧乏は厭わない、と。
 
ナレーター:     昭和四十七年、投稿した小説『なんまんだあ絵』が文芸誌の新人賞候補に選ばれます。それを機に会社を辞めた車谷さん。二十八歳で小説家として生きようと決心します。
 
車谷:  これは僕の田舎の家のおばあさんが死んだ前後のことを書いて、それで『なんまんだあ絵』という小説を投稿したんですよ。それで新潮に投稿すると―投稿者の数が年間千二百篇ぐらい投稿するわけですね、世の中の人が―その中で一つ選ばれるんだけど、それに選ばれるとは思わないで投稿したんだな。そうしたら五、六編の中には選ばれて、五、六編の作品が新潮新人賞候補作として、『なんまんだあ絵』が新潮に載ったんですよ。僕としては、極端に言えば、初めて書いた小説が新潮に載ったから、いずれ叔父さんのことを書くつもりでいたから、作家になれるんじゃないかなあという錯覚を持ちましたね。それでその時当選されたのが山本道子さんのなんだけど、僕は第二席だったんですよ。そうすると、「次は車谷だ」というんで、今度は新潮社の方がアパートに訪ねてくるようになりますね。それである作品を書いて渡したらボツになって、「これじゃダメだから」というんで、十九回書き直しをさせられたですね、二年間ぐらい。
 
山田:  書き直しを十九回?
 
車谷:  十九回。
 
山田:  その十九回も書き直しをしておられた頃というのは、書くことというのは、何を書こうとしていらっしゃったんですか?
 
車谷:  それがいまだにわからないわ。いまだにわからない、というのは、結局テーマがはっきりしていないわけですね、自分で。小説にとって一番大事なのはテーマなんですよ。テーマ(主題)が一番大事なんだけど、何を書こうとしていたのかということが、いまだに―二十九歳頃のことを振り返ってみてわからない。一番最初の『なんまんだあ絵』は、お婆さんが亡くなったから、祖母追悼の気持を書くということがはっきりしていたんですね、私小説ですけど。でも二つ目は何を書こうとしていたのか、自分でも未だにわからない。
 
ナレーター:     サラリーマンを辞め、小説の執筆に専念する生活が始まりました。しかし書けない自分に苦しみ、煩悶する日々が三年間続きます。
 
山田:  このノートは何なんですか?
 
車谷:  これ創作ノート。
 
山田:  あ、かつての?
 
ナレーター:     小説の題材を書いた創作ノートには、当時の苦しい思いが日記のように認(したた)められています。作家を志す出発点となった叔父の自殺。書きたいという気持がありながらも書けません。
 
他人の過去を暴(あば)き出すことの疚(やま)しさ、叔父であってみれば尚更だ。
 
お前、こんなことを書いて、というかも知れないという虞(おそ)れ。
 
車谷さんは書くことへの怖れがありました。
 
車谷:  これが古いノートですよね。昭和四十九年、「自己についての小さなメモ」と書いてある。
 
僕は行き詰まった。こうなることは、あらかじめわかっていた。それに対して精いっぱい抵抗もこころみたように思えるが、併し、甘えがあった。何とかなるだろう。何とかしてくれるだろう。そういう気持があった。逃げ道をふさいで、自分の進みたい方向に進んだために余計現在の僕を息苦しくしている
 
とかなんて書いているなあ。
 
ナレーター:     小説を生み出すことのできない車谷さん。その生活は経済的にも追い詰められていきました。
 
僕にとって自分の「生」は「苦痛」と「不安」だ。
 
車谷:  その時は、自分を支えていくだけの作家的才能がないんだと思いましたね。だから一応書くのを止めよう、と。自分には才能がないんだからね。だから新潮に二回小説が載って、エッセイが一回載って、三回活字になったんだけど、それで自分の作家生活は終わり、と。それでまあ先のことを考える余裕はまったくなかったですね。アパート代が払えなくなったら、居るところがないから。売るものも全部売ってしまったし、だからほとんど自分の着ているものと、身ぐるみ全部剥がされちゃったような状態になって。お金もないし、とにかく寝るところがないから、あとは江戸川の川原へ行って寝る以外はないんだ。上野の森の公園か。とにかく親のところへ逃げ帰ろう、と。逃げて帰った後どうなるかということは全然考えていなかったな。
 
ナレーター:     車谷さんは、三十歳の時、東京での生活に見切りをつけて、故郷の兵庫県飾磨に戻ります。実家に戻った息子に、母は言いました。
 
「小説書くいうようなことは、馬に狐乗せて走らせるようなことや。ええい。まだ目ェがさめへんか。さめへんやろ。あんたの上に狐が馬乗りになっとうが。あの人らがあんたの背中に馬乗りになっとうが。あんたは競馬馬のように走らされて、脚の骨が折れて、倒れたんやがな。
脚の折れた馬なんかに、もう用はないで。
 
そやさかい、あんたはこないして逃げて帰って来たんやがな。むごたらしい、まだ生きとうがな。よう帰って来たわ。魂はくたばって。腑抜けになって。
 
その後八年間、旅館や料理場の下働きをしながら、京都、西宮、尼崎などを転々とします。
 
車谷:  まあ母は凄く怒鳴ったわねぇ。「お前のような極道者は―親が考える意味で―世の中の一番下の職業について飯を食っていけばいいんだ。お前はものを書くことが原因で会社を辞めちゃったんだけども、そういうことはもう考えるな」とも言ったですね。それでとにかく料理の下働きの仕事を一生やろうと思ったんだね。
 
山田:  一生?それはどういうことですか?
 
車谷:  いや、普通、会社員になると定年退職まで会社に勤めるじゃないですか。それと同じで料理の下っ端の仕事を一生続ける、と。親方にはならないで。料理の下働きをしようと。
 
山田:  下働きとは具体的にどういうことですか?
 
車谷:  例えば、ネギの皮を剥いたりするわけ。そうするとネギを切るのは料理長なんだ。米を洗うのは下働き。米を炊くのは親方。だから要するに全部下拵えですよ。で、汚れた物を洗うとかね。
 
山田:  ということは、料理の下働きをしていると。一緒に働いている若い人たちはやがて料理の板前さんになろうとか思っていますよね。そういうこと全然思わない?
 
車谷:  全然思わなかった。料理長になろう、板前になろう、というふうには思わなかった。下働きでいいと。そうすると料理場にいると、親方は当然自分の下につく人はみんな自分のように親方になりたいということを目指してくるんだと思っているわけですよ。そうすると、料理長になりたいという色気を一切示さないで、下働きだけやらしてくださいというのが不気味でしょうがないんですね。で、「お前は何を考えているんだ」と。「何を考えとるんや」と、関西弁で言えばこうなるわけですね。そうすると、三十四歳ぐらいの頃に、当時の親方が、「何考えとるんや」と、喫茶店に呼ばれて言われたから、「何も考えていないんです」と。僕は作家になれなかったら料理場の下働きを一生やって、それで暮らせばいいな、とぐらいに思っていた。だから上昇志向というのはゼロだった、その時は。でもなんか文学が好きだという気持は捨てる気はなかったし、それから休憩時間には自由に時間を過ごしていいんだと思っていたから、だから野呂邦暢(のろくにのぶ)さんとか、島尾敏雄(しまおとしお)さんとか、司馬遼太郎(しばりょうたろう)さんの本なんかよく読みましたね、休憩時間にね。
 
山田:  こう料理の下働きなんかをして長い間過ごされた、そのことはものを書くことにはどう影響したというふうに思っていらっしゃいますか?
 
車谷:  一つはサラリーマンの世界と違って、生きた言葉がこの世界にある、と思いましたね。サラリーマンというのは儀礼的な言葉で、死んだ言葉なんですよ。言葉というのは、生命のある言葉と生命のない言葉がありまして、会社員をやっていた時に、会社で使っていた言葉というのは生命のない言葉なんですよ、僕の感じでは。料理人の時はなんか「大根取って来い」とか言われたら「はい!」と言って取りに行くわけですよ。そういうのはなんか言葉が生きているな、と思っていたの。包丁というのは、ちょっと使い方を間違うとすぐ指を切るわけですよ。切ったら血が出るわけですね。だから包丁で大根を剥いて、かつらむきをして刺身のけんなんか作るんだけど、一つ間違えばすぐ血が出る世界だから、ある意味では真剣な生活だったですね。だからちょっと間違えば血が出るというのは僕のサラリーマン時代にはなかったですね。
 
山田:  料理の下働きで過ごされた期間のまやかしのない言葉と言いますか、生きている言葉というのが。
 
車谷:  だからサラリーマン時代は、おべんちゃらを言ったり、胡麻擂りを言ったりして仕事を貰うわけですよ、余所の会社から広告代理店の時は。そういうのはないわけですね、料理人の世界は。だから料理人生活九年がなかったら、三十八歳以後の作家生活は一切ない、存在しないと思いますね。その九年間の間に皮膚呼吸したというか、見たり聞いたり肌で感じたりしたことが、現在の私に生きていると思いますね。
 
ナレーター:     当時のノートには、小説を書くことから離れざるを得なかった車谷さんの孤独が綴られています。
 
逃げ道のない世界。古里へ帰ればいい。併しそこには私の居場所はなかった。
 
自分の力以外に頼るもののない世界。誰にも助けを求めることは出来ない。
 
そんなある日車谷さんの仕事場を親しかった編集者の前田速夫(はやお)さんが訪れます。前田さんは、車谷さんに、「もう一度書いてみろ」と、小説家に戻ることを強く勧めます。
 
車谷:  「この人はね、ここの、こんな店の下働きをしているような男じゃないんだ」と、前田さんが言ったんですよ。そうしたら安藤という料理長が、「こんな店とは何だ!」と言ってもの凄く怒ったの。そうしたら、「失礼いたしました」と言ってさ。「この人は本来東京で作家生活をやる人だ」と言った。だから僕は、親方が怒っているから割って入って、「前田さん、帰ってくれ。私、もう東京へ帰る気はないんだ。あんたのいうこんな生活でいいんだ」と。それが三十四歳ぐらいかな、帰ってもらったわけ。前田さんとしては不本意な気持で帰ったんじゃないですかね。それから二年ぐらい経って、今度は神戸で働いていたら―神戸市内に須磨というところがありまして、須磨離宮の隣になんとかという旅館がありまして、「そこの宿屋にいるから来い」と電話が掛かってきたんだ、僕の勤めている料理屋へ。それで急遽休暇を取って行ったんですよ。「二年前、尼崎へ行った時は説得に失敗したけど、今日は何が何でも東京へもう一遍帰って来て、作家を始めるということをお前に約束して貰わないと帰らない」と。「何日でも此処に連泊する」というんですよ、須磨の旅館に。それが午後の明るい時間だったね。それで朝四時まで話して、「じゃ、私が必死になって小説書くから、今すぐ原稿渡せないから東京へ帰って待っていてくれ」と言ったんですよ。それで前田さんは、「待っている」と言って。それで「最低四ヶ月、あるいは半年以内に原稿を送ってくれよ」と。それで「とにかく芥川賞が受賞できるレベルのものを送ってくれよ」と。それで須磨の駅で別れたんですよ。
 
ナレーター:     編集者との再会。車谷さんは再び小説家を目指す覚悟を決めました。
 
小説を書くことは地獄を通過することだ。地獄の火で焼かれることだ。私はこれから小説と命の遣り取りをする。生涯この業火に焼かれ続ける。これが私の決心だ。
 
車谷さんは、半年をかけて、『萬蔵(まんぞう)の場合』を書き上げ、編集者との約束を果たします。渾身の力を込めた作品が芥川賞候補になりました。作家としての再起をかけた作品。しかし落選します。
 
期待感を抱いていた。それがだめになった。「萬蔵の場合」で落選したということは、あれ以上の作品を書かなければだめだ。けれども、あれで精いっぱいかも知れない。ということは、私はいつ迄たっても幕下ということだ。それでも小説を書くのか。命懸けで書いたのに。さみしい。さみしい。
 
どうしたら『萬蔵の場合』を超える作品を生み出すことができるのか。その後車谷さんは、創作ノートの中でひたすら物語の構想を練り続けます。そして辿り着いたのが作家としての原点でもある叔父の死でした。これを書き上げたら小説家を止めてもいいとまで思い詰めたテーマでした。
 
小説とは結局遺書だ。遺書を書くことだ。
 
車谷:  自殺した宏之叔父のことをモデルにして小説を書きたいという気持はずーっと強く持っていた。それを書き上げたら自分はこの世に用はないと思っていた。自分は作家としてなんか派手派手しくやりたいという気持はゼロだったのね。京都へ帰って、それで大徳寺僧堂に入って、後は世捨て人として生きていこうと思っていたんですよ。
 
ナレーター:     四十七歳の時、最後の一作ということで書いた『鹽壺の匙』。叔父の死を描いたこの作品で三島賞を受賞します。あとがきには、車谷さんの思いが綴られています。
 
詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。
 
私はこの二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづけて来た。併(しか)しにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ一つの救いであったからである。
 
小説が高く評価される一方で、自分の叔父や一族のことを書いたことで、車谷さんは近親者から非難を受けます。
 
車谷:  家の母親を除けば、書くことを「良いことだ」というふうに言った人はいないね。「悪いことだ」と。要するに文章を書くことは悪いことだ、止めなさい、と。お前は人間の楽しみよりは、人間の苦しみばっかり書いている、と。だから例えば三島賞とか、賞をもらっても喜んでくれる人は少数ですよ、自分の周辺ではね。
 
山田:  小説家というのは、人の悪を見るという意味では、やっぱり自分自身も悪人でなくちゃいけないということになるんですか?
 
車谷:  僕はその通りだと思いますね。だから自分のことを善人と考えたことないですね。悪人だと思いますね。私以外の小説家も、例えば夏目漱石とか森鴎外なんか読むとやっぱり悪人だなと思いますね。
 
山田:  それはどういうことですか?
 
車谷:  人間性の真実を書いているからですよ。真実というのは悪なんですよ。悪を書いているからやっぱり凄いなと思いますね。人間性の中の悪を書ききるということは、自分自身が自分自身の悪に耐えるということですから。耐えられない人はたくさんいますよね。小説書くことほど辛いことはないと思いますね。それは人間性の中の悪を見つめて、とにかくすべての人間は―極論ですけれども、すべての人間は悪人なんだ、と。
 
ナレーター:     自分が生涯を懸けて書きたいと思っていた叔父の死。それは人間の業苦をえぐり出すことでした。車谷さんは、それを書くことが悪であるという現実を突き付けられます。
 
もう小説を書きたくない、という気持。書けば、必ず引き裂かれる。
 
その頃出会ったのが詩人の高橋順子さんです。当時私小説を書く車谷さんの痛みを唯一理解してくれた女性です。平成五年、二人は結婚します。車谷さん四十八歳、高橋さん四十九歳の時のことです。車谷さんは東京の百貨店に勤めながら小説を書く道を選びます。
 
車谷:  『鹽壺の匙』という小説なんですけども、それが済んだ時には、なんか僕は京都へ行って出家しようと思ったんですね。ところが出家をとめたのが家の今の嫁さんです。嫁さんはまだ結婚していない、知り合いの女だったんだけど、「私、一緒に生きていってあげるから、あなた、小説を書きなさい」と言われた。「一緒に生きていってあげますから」というのは、「結婚してあげるから」ということだけど、それで「私があなたの嫁さんになってあげるから書き続けなさい」ということになった。そうすると、書き続けるということは、要するに職業作家になるということなんだなあ、ということはわかりました。
 
ナレーター:     こうしたなか、五十一歳で書いた『漂流物』が再び芥川賞候補に選ばれます。しかし落選。さらに追い打ちをかけるように勤めていた百貨店の経営が悪化、リストラの対象となり、自宅待機を言い渡されます。
 
山田:  『漂流物』が芥川賞候補になるわけですね。
 
車谷:  ええ。それで僕は賞を貰えると思っていたんですよ。それで文芸春秋で下銓衡(したせんこう)する人がいるわけですよ。二十人いるわけです。二十票入ったわけです。それで普通は十三票ぐらい入ると当選するんですよ、下銓衡で。ところが二十票入ったにも拘わらず本銓衡で落ちた。それでガクッときちゃってね。なんとなく私の考えが甘かったんだけど、貰えるもんだと思っていたら、なんかガクッときちゃって、強迫神経症という病気になったわけ。
 
山田:  それはどういうふうになったんですか?
 
車谷:  例えば家が揺れているとか、あらゆる植物から毒素が発散されて、自分の身体が毒素を身に浴びるとか。それから人の話し声が―傍にいないのに、一部屋に一人だけいるのに―ある人が、「あなたなんかダメですよ!あんたなんかダメですよ!」というのが、ぱぁっと聞こえるわけですよ。ただ汚いことをやっているという感じはあったね。だから絶えず手を一日に六百回も七百回も洗うということですよ。
 
山田:  汚いことをやっているというのはどういうふうに?
 
車谷:  汚れたことをやっている。要するに人が嫌がることをやっている、と。それは小説の作法だと思いますけども。だから相当自分が冷酷にならないといい作品は書けないですね。だから、「車谷さん、冷酷ですね」と言われることもしばしばありますけども、まあそれは職業病だなあと思っているな。
 
山田:  そうするとご自身の生活としては?
 
車谷:  だから事実上会社にも行けないし、飯も食えないし、嫁さんが家の中を動くことが恐いわけですよ。「動くな!」と、私が怒鳴るでしょう。嫁さん、こんな格好したままで、十時間ぐらいこうやっている。だからもう生活は完全崩壊ですよ。
 
ナレーター:     当時の暮らしを、妻の高橋さんはこんなふうに書いています。
 
その危機とは結婚二年四ヵ月めの春、連れ合いの強迫神経症の発病であった。因業(いんごう)が表看板になっている男だが、因業であることを持続させる意志の力は、しばしばこの人の肉体の力を凌駕(りょうが)するほどである。因業の刃(やいば)がただ空(くう)を斬るということはなくて、さまざまな抵抗にあう。それに堪えようとすることで、心身を擦り減らし、消耗する。自分をもてあます。
 
幻覚と幻聴、幻視に悩まされ、一日に何十回も手を洗い清め、私の立ち居振る舞いを規制するようになった。
 
すると、この暮らしは虚構なんだ、嘘なんだ、というめまいのような感覚がやってきた。
 
山田:  奥さまもこれは一緒に生活されるだけで大変だったと思いますけど、
 
車谷:  凄く大きかったですね。だから〈嫁さん、よく逃げて行かなかったな〉というふうに、あとでよく思いますね。ただ病気がある程度よくなってから聞いたら「やっぱり離婚も考えた」と言っていました。「逃げ出したいと思った、ということを思わなかったら嘘になる」と言っていましたね。それで強迫神経症の中で、嫁さんが自分の知り合いの編集者から仕事を貰ってきて、二人で毎日校正の仕事をして、余った時間で小説を書くということをやっていたですね。それが直木賞を貰ったその日まで続いたですね。だから五十三歳まで続いたですね。直木賞を貰った日も、夕方に賞が発表されるんですけど、夕方四時ぐらいまで校正の仕事を家でやっていましたね。
 
ナレーター:     平成十年、病を患いながらも書き上げた『赤目四十八瀧心中未遂』。車谷さんは長年の夢だった直木賞を受賞します。主人公は作家を目指しながら挫折し、すべてを捨てて無一物となった男。兄の借金を背負った女、綾(あや)は「うちを連れて逃げて」と言います。この世の果てへの道行き。男女の情念の世界を見事に描いた作品です。車谷さんは受賞直後に自らの胸のうちを語っています。
 
『赤目四十八瀧心中未遂』を書くのには六年費やしました。死に物狂いで書きました。それだけに受賞できて男子の本懐です。これからのことはただ恐ろしいだけです。
 
車谷:  小説を書く場合は、登場人物を突き回すわけですよね。つまり悪意に満ちた自分になるということですよね。それで主人公たちが、困れば困るほど、具合がよくなるわけですね。だから登場人物を追い込んでいくのは非常に苦しいですよ。人を追い込んでいくことだから。だから、それは赤目(赤目四十八瀧心中未遂)においてもより苦しいところへ追い込んでいくにはやっぱりある苦しみはありましたね。文学で一番苦しいのは登場人物をより苦しいところへ追い詰めていくということですね。追い詰めることができるかどうかに、その作家の才能のすべてがかかっていると思いますね。だからいわゆるお人好しの人は小説書けないと思いますね。より苦しいところへ登場人物を追い詰めていくというのは。そのうえで救済を与えなければいけないから。
 
山田:  特に車谷さんのように人間の業なり、そういうものを描いていく作家にとってはそういうふうに言えるということなんでしょうね。
 
車谷:  私以外の作家の方もそうだと思いますよ。より苦しいところへ追い詰めていくというのは。歴史小説を書いていらっしゃった司馬遼太郎さんなんかでもそうだったと思いますよ。織田信長が死ななざるを得ない方向へ書いていくわけですね。私が書くならば作り話か、あるいは無名人だけの話であってね。より困った方向へ追い詰めていくわけですよ。だから人をどの程度追い詰めて、徹底的に追い詰めることができるかどうかが作家の才能、あるいは覚悟だと思いますよ。だから人を追い詰めることが出来ない人は小説家になれないと思いますね。
 
山田:  一方で、「書くことを救済だ」というふうにおっしゃっていますけど、それはどういうふうに自分の救済であったというふうに思われますか?
 
車谷:  やっぱり自分の心の中でモヤモヤしていた形のつかないものに形を与えた、ということですよ。これからも与えていきたいということですね。モヤモヤした、なんかある気分のようなものがありましたね。気分というのはこういう形しているものが気分だと、人に見せることができないわけですね。それにまあ文字を通じて形を与えるということでしょうね。だから淋しいとかということは、言葉でいうことは可能なんですけれども、淋しいということが具体的にどういう形なんだ―具体性を持たせるというか、それが文章を書くことだなあと思いますね。だからそれをある程度の人には理解して貰えるように公共性を持たせないといけないということです。独りよがりではダメですね。
 
山田:  ただそこに登場する人物の姿なり関係を描くことによって、そこに人間の淋しさなり悲しさなりを描いて形にしていくということ、それがどうして救いになっていくんですか?
 
車谷:  人間はお釈迦様がおっしゃったように、四苦八苦というものを背負っているわけですよ。「生・老・病・死は、全部苦だ」と、お釈迦様はおっしゃるわけですね。だから生・老・病・死にやっぱり形を与えることじゃないでしょうか。それが救済だと思いますね。仏への道だと思いますね。
 
山田:  ということは、車谷さんはそういうことを実際に形にしながら、自分がどこかで癒されていたり、救われたりしているところがあるんですか?
 
車谷:  ありますね、形を与えると。生・老・病・死に形を与えるとなんか救われたような気持になられるということですね。その作品を読んで下さって、「共感を覚えた」という数多(あまた)の手紙を頂くから、〈あ、やっぱりそうなんだな〉ということはある程度は思いますね。
 
山田:  なるほど。じゃ、これからもさまざまなテーマで小説をお書きになるかも知れませんけど、それはそういう作業をこれからも続けていくということですね。
 
車谷:  一つは無一物ですね。もう一つは淋しいということですね。それは嫁さんがいても淋しいですね。それは何故淋しいかというのは、いずれやっぱり一人で死んでいかなければいけないということが、すべての人の人生には待っているからですね。     
シャクヤク 
シャクヤク

【産経新聞論説委員・古森義久のあらたなデマゴギー】
先週発表された、北米をはじめとする各国の日本研究者ら187人による「
日本の歴史家を支持する声明」について、産経新聞ワシントン特派員の古森義久氏がアクロバティックな解釈を公言している。かれによると、あの声明は米国の歴史家たちが三月に公開した声明文に比べて「反日的」な主張が大幅に後退させられており、実質的に「反日勢力の『白旗』」なのだ、というのだ。三月の声明とは、「日本の歴史学者たちに連帯する」と題された二十人の歴史学者による連名の声明で、アメリカ歴史学会のニューズレターとウェブサイトに掲載された。(小山エミのブログ「古森義久氏『歴史学者187人の声明は反日勢力の『白旗』だった』を検証する」2015年5月12日
 
全文:
 
先週発表された、北米をはじめとする各国の日本研究者ら187人による「日本の歴史家を支持する声明」について、産経新聞ワシントン特派員の古森義久氏がアクロバティックな解釈を公言している。かれによると、あの声明は米国の歴史家たちが三月に公開した声明文に比べて「反日的」な主張が大幅に後退させられており、実質的に「反日勢力の『白旗』」なのだ、というのだ。
 
三月の声明とは、「日本の歴史学者たちに連帯する」と題された二十人の歴史学者による連名の声明で、アメリカ歴史学会のニューズレターとウェブサイトに掲載された。内容は、日本政府が米国の教科書出版社・マグロウヒル社と著者に対して、世界史教科書における「慰安婦」問題についての記述を削除もしくは改訂せよと圧力をかけたことに抗議し、日本で「慰安婦」の歴史を研究する学者たちとの連帯を表明するものだった。今回の声明(五月声明と呼ぶことにする)には、三月声明に署名した歴史学者二十人のうち十二人が賛同している。
 
古森氏は、記事を次のようにはじめる。
 
慰安婦問題で日本を長年糾弾してきた米国の日本研究者たちが、「日本軍が20万人の女性を強制連行して性奴隷にした」という年来の主張を一気に撤回した。
この主張には本来根拠がなかったのだが、ここにきてやっと日本側の主張を間接的にせよ認めたのである。日本側にとっては、歴史問題ではやはり相手の不当な攻撃に屈せず、正しい主張を表明し続けることの必要性が証明されたことになる。
 
古森氏は「慰安婦」の人数、強制連行の有無、「性奴隷」だったかどうか、の三点において、歴史学者たちの主張が三月声明と五月声明のあいだで大きく変化していると主張している。そのうえで、「こういう人たちは自分自身を学者と呼ぶのなら、その良心に従って非を認めるか、あるいは少なくともこの3月と5月の声明の大きな矛盾について説明すべきだろう」と訴える。
 
実際のところはどうだったのか。
 
古森氏は、三月声明は「マグロウヒル社の教科書の記述はすべて正しい」と「断定」していた、と主張するが、実際にその声明文を読めばわかる通り、マグロウヒル社の記述が正しいか正しくないかという断定は行っていない。学問的な議論に任せるべきところに日本政府が圧力をかけてきた(ジャパンタイムズに掲載されたインタビューによると、日本の外交官がアポイントメントも取らずにいきなり歴史学者のオフィスにあらわれ、勝手に椅子に座ると、一方的に「教科書の記述は間違いだから削除しろ」と迫ってきたという)ことに抗議するのが声明の趣旨だ。
 
「慰安婦」の人数について、五月声明では次のように書かれている。
 
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、 永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
 
また、強制連行の有無について、古森氏は五月声明の次の部分を引用する。
 
歴史家の中には、日本軍が直接関与していた度合いについて、女性が『強制的』に『慰安婦』になったのかどうかという問題について、異論を唱える方もいます。しかし、大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされたことは、既に資料と証言が明らかにしている通りです。
 
古森氏は、これらをもって「反日勢力」が「慰安婦問題についての主張を驚くほど後退」させている証拠である、と主張する。ところが実際に三月声明を読んでみると、上記とまったく同じ認識が書かれていることに気づくだろう。
 
Historians continue to debate whether the numbers of women exploited were in the tens of thousands or the hundreds of thousands and what precise role the military played in their procurement.
(歴史学者たちは、搾取された女性たちの数が数万だったのか数十万だったのか、軍が募集に際して具体的にどのような役割を果たしたのか、いまだに議論を続けている:訳は引用者による)
 
これを読み比べると分かるとおり、「慰安婦の人数」「軍による強制連行の有無」という古森氏が「慰安婦問題認識の核心」として重視する論点において、三月声明と五月声明はほぼ同じ認識を示している。また、いずれの声明も、人数や軍が具体的に果たした役割については議論が分かれるとしながらも、大勢の女性が暴力の被害を受け、それに日本軍が関わっていたことを直視せよ、と訴えている点も共通している。これのどこに「矛盾」があるというのだろうか。
 
古森氏の主張のなかで、唯一妥当性があると思えるのは、三月の声明において使われていた「性奴隷」という言葉が五月の声明には見られない点だ。しかし上で引用した通り、五月声明においても「大勢の女性が自己の意思に反して拘束され、恐ろしい暴力にさらされた」ことが疑いようのない歴史的事実として指摘されている。それを性奴隷と描写するかどうかはともかくとして、実態として性奴隷と呼んでもおかしくないような状態であった、という認識は変わっていない。
 
もちろん、古森氏が「性奴隷という言葉が使われなくなったことは前進だ」と考えるのであれば、それは個々の解釈の問題であり、なんの問題もない。しかしそれ以外の面でかれが「前進」と受け取っているものは、すべて事実に基づかない虚言だ。三月声明と五月声明のあいだに、説明しなければいけないような「矛盾」は存在しない。
 
もしわたしがここで書いたことに少しでも疑問があれば、ぜひ両方の声明を読みくらべて、各自検証してください。あなたが保守でもリベラルでも、古森氏の長年のファンであったとしても、少なくともこの問題に関しては古森氏の解釈が誤りであることがわかるはずです。
 
【山中人間話】
カルミア 
カルミア

【「国民的生存権」の危機について】
昨日閣議決定された法案には、集団的自衛権の行使を可能にする法改正を一括した「
平和安全法制整備法案」、外国軍支援を恒常化する「国際平和支援法案」と、どちらも「平和」の名を冠しています。しかし、内実は「戦争法案」です。ジョージ・オーウェル『1984』のニュースピーク、「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」を想起させます。「存立危機事態」とか「重要影響事態」とか、「事態」が頻出しますが、「事態」への軍事対処が「事変」です。かつて日中戦争を「満州事変」とか「日華事変」とか呼んで、本当は戦争なのに「事変」の名で拡大していった歴史の、性懲りもない繰り返しです。自分の言説・外交で近隣諸国との紛争を拡大しておきながら、「抑止力」と称して、軍事力に頼ろうとしています。(略)安倍首相の狙う本丸は、憲法第9条の改定(引用者注:この論の致命的な欠陥を指摘するこちらの論もご参照ください)です。「お試し改憲」とか「加憲」に惑わされてはなりません。これまで曲がりなりにも70年の「平和」を作ってきた軍事化への歯止めが、丸ごと取り払われようとしています。丸山眞男「憲法第9条をめぐる若干の考察」(『後衛の位置から』未来社、所収)がいう通り、「政府の行為によってふたたび戦争の惨禍がおこらぬよう、それを保障することと、人民主権の原則とは密接不可分」であり、「国民的生存権」が危機にさらされようとしています。60年安保の時のような、国民の抵抗運動が必要です。(加藤哲郎のネチズン・カレッジ 2015.5.15

【山中人間話】
【安倍米国議会演説の「請求書」】
米国両院で演説した安倍総理にさっそく「請求書」が届いた。MV22オスプレイ17機と関連装備を推計30億ドル(約3600億円)で売りつけようという商談である。一機当たり、211億円になる。オスプレイは機関砲もない単なる輸送機で通常は一機あたり30億から50億円が相場。日本は米国に高額で押し売りされた形だ。ドヤ顔で演説した安倍総理だが、英文の下書き原稿にト書までつけて読み上げただけ。米紙にその演説原稿が掲載され、顰蹙を買ったばかり。ここまで来ると、安倍総理は単なるバカではなく、国益を害する売国奴ではないのか。引用者注:「
『貧相な男』がお店から大歓迎されて調子に乗っていると大体あとから法外な代金を請求される」の続きとして(岡留安則の「東京-沖縄-アジア」幻視行日記 2015.05.12

【余録】
オスプレイ3600億円は序章…安倍首相「隷属演説」の高い代償
(日刊ゲンダイ 2015年5月9日)
 
安倍首相が米連邦議会で行った「隷属演説」の“代償”は極めて高くつきそうだ。米国防安全保障協力局(DSCA)が5日、垂直離着陸輸送機V22オスプレイ17機と関連装備を推計30億ドル(約3600億円)で日本に売却する方針を米議会に通知した。米国がオスプレイを他国に売却した例はなく、日本側は「初の輸出先」なんて浮かれているが冗談じゃない。オスプレイは米国内でも“お荷物”の存在で、日本は単に高値で押し付けられただけだからだ。日本政府は14年度から5年間の目標を示す「中期防衛力整備計画」で、18年度までにオスプレイ17機を陸上自衛隊に配備する計画を示している。DSCAの売却方針は、この日本の“要望”に沿った形を取っているが、とにかく驚くのは売却価格だ。1機当たり、実に211億円。いくら何でも高過ぎやしないか。
 
軍事ジャーナリストの神浦元彰氏はこう言う。「オスプレイは機関砲もない単なる輸送機で、通常は輸送機なら1機30億~50億円ほどが相場です。それに大型の輸送ヘリが必要なら、警視庁や海上自衛隊も使っている国産の『CH-101』(約20億円)で十分ですよ。メンテナンス費用も安く、使い勝手もいい。オスプレイ購入は日本にとってかなり高い買い物です」やっぱりだ。そもそも、オスプレイは、米国の陸海空の3軍と海兵隊の合同で開発に着手したが、コスト高や安全性の問題から「海軍が早々と降りた」(神浦氏=前出)といういわく付きのシロモノ。防衛省は垂直離着陸ができ、離島への部隊展開が可能――などと説明しているらしいが、それほど性能が優れたヘリなら、なぜ、他国はこれまでに1機も買っていないのか。6機購入を計画していたイスラエルだって、昨年10月に計画を中止している。つまり、米国でも世界でも“お荷物扱い”の「バカ高いヘリ」を日本は売りつけられたワケだ。
 
「米国にとって高値でオスプレイを日本に売ることができれば、これまでの開発コストを回収できる上、東アジアや西太平洋なども日本がカバーすることになり、国防費も抑えられる。くしくも安倍首相は連邦議会演説で『隷属化』を強調していました。米国側は『それなら誠意を見せてもらおうじゃないか』というところでしょう」(神浦氏=前出)確かにDSCAが安倍の帰国直後を狙ったかのようなタイミングでオスプレイ売却方針を公表したのも偶然とは思えない。売却理由に挙げた「米国と同盟国との負担の分担を進め、米軍と自衛隊の相互運用性を高める」なんて言葉は、安倍の連邦議会演説と内容がソックリではないか。米国が「日米同盟」を「錦の御旗」にこの先、どれだけ無理難題を突き付けてくるのか。オスプレイの“押し売り”はその始まりと覚悟した方がいい。
 
【今日の「山中人間話」】 

カキツバタ かきつばた

【完全無虚飾人】
きょうび、「である」よりは、「でない」ほうがよっぽどむずかしい。
船戸与一は「でない」男だった。ある日、ボソッと言った。「ぼくは善悪でものをかんがえないし、ニッポン賛歌をうたう余地がない。その気もない」。死ぬまでそれをとおした。正史と燦爛たる光にはかんしんをしめさなかった。外史と影と惨憺たる敗者に、ことのほか敏感だった。いっしょに酒をのんでいるとずいぶん楽だった。しゃべらなくてすむから。黙ってじっくりとのめた。おたがいに敗戦直前の一九四四年生まれであることを、話はしなかったが、たしょう意識はしていた。ろくでもない年に生まれたものは、かっこうをつけてもしょうがないことを知っていた。かれは、これみよがしではなかった。ことさらに「正義」をかたりはしなかった。はったりがなかった。知るかぎり、かれはこの世でもっともわざとらしくないひとだった。わざとらしさには堪えられなかったのだろう。わざとらしくすまいという、わざとらしささえなかった。おそらくかれは、ひとという恥の根茎に感づいていた。船戸与一は身まかった。時宜にかなっているのかもしれぬ。わたしはこれみよがしの、ただわざとらしいだけの夜にとりのこされた。[引用者:原文の傍点箇所はかぎかっこで括りました。](辺見庸「日経朝刊文化面」2015/04/25

引用者注:私は船戸与一という名前すら彼が身罷るまで知らなかった。当然、彼の本も読んだことがない。「冒険小説」という彼の創作の分野(初期)に私が関心がなかったということが大きい。だから、船戸与一について語ることは私には何もない。ただ、上記で辺見庸は船戸の人物評を述べているだけだが、その人物評が深い追悼になっている、と私は思う。辺見庸についても彼はおそらく1996年(あるいは7年)に朝日新聞に『目の探索』を連載していたが、その連載の一節を読むまで私は知らなかった。なお、辺見は、2015年4月22日付けの日録に「船戸与一さん逝く。あわてる。こちらのほうが先のはずだったのに。いのこっている根拠がますますなくなる」と記している。なおまた、辺見は、船戸与一の代表作『砂のクロニクル』の解説の冒頭に以下のようにも記している。
 
「本文からではなく、解説から読む癖のある読者諸兄姉のために、ひとこと申し上げる。あなたの身は間違いなく本書の放つ劫火(ごうか)に焼かれ、その力に薙ぎ倒されるであろう。勝利者たちのこしらえる『正史』に激しく抗う者たちの瞋恚(しんに)の炎が、頁という頁にめらめらと燃えているからだ。真実の『外史』が、虚偽の正史を力ずくで覆しているからである。しっかりと心の準備をしておいたほうがいい。備えが済んだら、ひとつ深呼吸をして『飾り棚のうえの暦に関する舌足らずな注釈』から、目を凝らして、ゆっくりと読み進むがいい。熱くたぎる中東の坩堝に(るつぼ)に足もとから徐々に呑みこまれてゆくだろう。そして、読破した時、あなたの見る世界はそら恐ろしいほどに色合いを変えているはずだ。以上のみを言いたい。以下は蛇足である。」(『砂のクロニクル』解説
今日の言葉は2本です。
 
トチノキ 
トチノキ

【国会はまるで「学級崩壊」 目を覆う国会議員の振る舞い】
今日のNHKの番組で、
保阪正康氏は「国民の『知る権利』とメディアの関係」について、国民の一人一人が自分で調査や取材、権力の監視などできないから「メディアが代行」する(それによって報酬を得る)、メディアはそのような「社会的使命を負っている」と指摘されていた。現役記者も観ただろうか。国会はまるで「学級崩壊」…離席、読書、スマホ、居眠り…目を覆う国会議員の振る舞い(産経この「政治部 酒井充」という産経記者は、ジャーナリズムの仕事をされていると思う。「最初から最後まで『席を立たない』『議事と関係のない本を読まない』『携帯電話・タブレットをいじらない』といった当たり前の規則を守った人は、どうみても全体の1割(47人)以下だった。無法者の集まりかと見まごうほどだ」「学校でさえ出欠を確認するのは当たり前だ。授業中に勝手に席を立ってしゃべったり、教室を出ていったり、授業と関係ない本を読んだり、携帯電話をいじったりしている生徒を国会議員はよしとするようだ。ましてや国会議員には、税金で年間3000万円以上の歳費が支給される」「後方支援に参加する自衛隊の海外派遣には国会の事前承認が必要だといった議論が行われているが、その肝心の国会の実態は目を覆うばかりだ」(山崎雅弘Twitter 2015年5月10日
 
引用者注:山崎雅弘さん(戦史・現代史研究家)は酒井充産経新聞記者の「国会はまるで『学級崩壊』…」という記事を紹介して「この産経記者は、ジャーナリズムの仕事をされている」という感想を述べています。しかし、その感想は過誉というべきではないか。「ジャーナリズムの仕事」をしているというのであれば、そのジャーナリストは、「離席、読書、スマホ、居眠り…目を覆う振る舞い」をする9割以上の国会議員はどの党に所属するか? また、「当たり前の規則を守った人は、どうみても全体の1割(47人)以下だった」という国会議員はどの会派の所属議員だったか? 目視して勘定しているのですからおおよそのことはわかるはずで、その目視で確認できた限りのことは書くべきです。同記事で酒井記者が「離席、読書、スマホ、居眠り…」と具体的に指摘している会派は自民党と民主党、というところから判断すると、真面目な(と言っても、「世間」という尺度で測ればふつうの)「全体の1割以下」の国会議員の所属する会派は共産党や革新系無所属などの会派だろうと推察できますが、酒井記者はそういうことは書かない。あるいは書けない。そういう記者をして「この記者は、ジャーナリズムの仕事を」しているなどと評価しうるか? 山崎さんを例とするいわゆる「リベラリスト」一般の特徴のよく出ている見る目の中途半端さ、あるいは不確かさを私は思います。

【「大阪都」構想? 眉につばをつけてよく見定めた方がいい】
いよいよ、5月17日は「大阪都構想」の住民投票ですね。しかし、そもそもネーミングが変で、今回の住民投票で「大阪都」ができることは断言しますがありません。今回の住民投票は大阪市を廃止して5つの「特別区」の設置をすることに賛成か、反対か、を問う住民投票であって、大阪湾岸に未来都市を造るかどうかなど、何も問われていません。これらはすべて
根拠となった法律を読めばすぐに分かることです。(略)行政の枠組みを変えただけで経済が発展する訳はないですね。そこに住む人も、そこにある企業も、何も変わらないのですから。行政の枠組みが変わるだけで産業が発展し、経済が好転するのなら、全国の自治体がこぞってそうするでしょう。(略)「大阪都になればこんなに~~が」という議論はすべて、眉につばをつけてよく見定めた方がいいでしょう。(略)橋下式行政の総括というのはあまりちゃんとされていません。橋下府政により「倒産寸前」から「優良企業」に生まれ変わったはずの大阪府は、なぜか橋下府政の前後一貫して借金が増え続けています。大阪市でも、橋下氏の肝いりで始まった大阪市の「公募区長」「公募校長」などの不祥事の数々(略)についてどう総括されるのかいまだ不明です。橋下氏が自らの後援会会長の子息を「特別秘書」として採用したのにほとんど仕事をさせずに給与だけ払っている疑惑(略)、労働組合に対する不必要な攻撃で大阪市が裁判に負けまくっていること(略)など、まだケリのついていない問題も沢山あります。そもそも、大阪維新の会は「大阪市をバラバラにしません。」「大阪市を潰しません。」が公約だったはずなのですが、これに至っては一体どこへ行ってしまったのでしょうか。こういう橋下式行政の運営上の問題点や疑惑に白黒つけないまま大阪市を無くしてしまうのは、どこぞの国で脱線して多数の死傷者を出す事故を起こした新幹線を穴を掘って埋めてしまったのと大差ないように思えます。(渡辺輝人(弁護士) 2015年5月9日

【今日の「山中人間話」】
カーネイション カーネーション

【安倍首相が米国で歓迎された意味】
安倍首相が連休中に訪米した。日本の首相として初めて米議会の両院合同会議で演説し、自衛隊が米軍のお供(家来)として世界中に出ていけるようにする日米安保の
新ガイドライン(日米防衛協力の指針)が合意された。安倍訪米時に締結されるかと思われたTPPの日米合意は実現しなかったが、外交安保面では、安倍政権や自民党、外務省など日本の官僚機構が以前から切望していた日米同盟の強化が大きく進んだ。安倍自身と自民党、外務省は、訪米の成功に大喜びしている。外務省など日本政府は冷戦後、米国が日本との関係を重視しなくなること、米国が日本を飛び越えて巨大市場となった中国と結束してしまうこと(略)を、一貫して懸念してきた。日本が米国に見捨てられないようにするには、米国が外交軍事戦略の面で中国敵視を強め、日本が外交軍事的に米国と一体化する(外交軍事面で米国のいうことを何でも聞く)のが良いと日本外務省などは考えてきた。日本政府にとって、今回の安倍訪米で実現した日米同盟の強化は早ければ早いほど良かった。(略)今回の安倍の訪米が実現したのは、米国が不満げな姿勢を引っ込め、対米従属の日本を賞賛する姿勢に転じたからだ。これまで「A級戦犯合祀の靖国神社に参拝するようなやつはお断りだ」と不機嫌だった米議会は今回、安倍に両院合同会議での演説という大きな栄誉を与えた。米議会は、翻心の理由を何も説明していない。安倍は、かねてから追いつきたいと思っていた小泉純一郎(訪米時に議会演説を断られた)どころか、祖父の岸信介(日米安保条約を改訂したご褒美に1960年に米議会上院で演説させてもらった)を超えてしまった。昨春の女性セブンの調査で日本女性に嫌われる男の第1位に輝いた、あの貧相な安倍晋三が、だ。貧相な男が、お店で「さすがシャチョー」とか「お兄さんイケメンね」などと賞賛されてうかつに喜んでいると、大体あとから法外な代金を請求される。安倍さんはすでに嬉々としてお店に入り、オバマや米議会のもてなしを受けてしまった。その対価は何なのか、これから何が起きそうか考える必要がある。(田中宇の国際ニュース解説 2015年5月10日

【今日の「山中人間話」】
※全編はこちらで観ることができます。→http://bit.ly/1KUKJqo引用者注:しかし、以下のような翁長知事批判の声もあります。翁長知事には翁長知事のこれまで培ってきた保守の政治家としての信条と方法論があるのでしょうが、以下は「革新」の声としてはまっとうな意見だと思います。私たちは翁長知事の行動を見守る立場ですが、その私たちの立ち位置は「アリの一言」ブログ主宰者の立ち位置から遠いものであってはならないでしょう。

「撤回可能」意見書を翁長知事はなぜ棚上げするのか
(アリの一言 (「私の沖縄日記」改め)2015年05月09日) 

5月1日、沖縄の法律家・学者グループが、翁長雄志知事に対し、画期的な意見書を提出しました。
琉球新報沖縄タイムスは大きく取り上げましたが、本土メディアをほとんど報じていません。しかしこれは辺野古新基地を阻止するうえで、きわめて重要な提言です。意見書を提出したのは、「撤回問題法的検討会」。メンバーは沖縄弁護士会の新垣勉氏ら弁護士3人と、仲地博沖縄大学学長ら学者2人の計5人。ことし1月に結成され、検討を続けてきました。「長く在沖米軍基地問題を研究してきた第一人者らが作成した意見書の有効性は極めて高い」(琉球新報、同)とみられています。(略)安倍政権が民意を無視して辺野古新基地を強行しようとしている唯一の「法的根拠」は、公有水面埋立法に基づいて仲井真弘多前知事が行った「埋め立て承認」です。翁長氏はその「承認」に法的に瑕疵があれば「取り消し」できるとして、「第三者委員会」に検討させています。その結論は7月に出る予定とされています。それに対し、今回の識者らの意見書は、「取り消し」と「撤回」は「別々の行政行為」だから、委員会の結論を待つまでもなく、「撤回」はただちに行うことができる、というものです。この結論自体は目新しいことではありません。翁長氏自身も知事選の公約では、自分が当選することが新たな公益となって「撤回できる」と言っていたのですから。今回の意見書の意味は、それを法律の専門家が時間をかけて検討し、たとえ裁判になっても大丈夫なほど法的に確かであると証明したことです。そして、それを翁長知事宛ての意見書として公式に示したことです。翁長氏が直ちに埋め立て承認を撤回することは可能であり、必要であることが、あらためて浮き彫りになりました。

ところが翁長氏は、意見書を受けとって8日間、それについて一言も言及していません。意見は事実上棚上げされているのです。なぜ翁長氏は意見書に応えようとしないのでしょうか。翁長氏は7月までに自ら訪米して米議会関係者らに訴えるとしています。しかし、翁長氏の「親書」を携えて先行訪米した玉城デニー衆院議員(生活)は、こう述べています。「米国の政治家の関心は、翁長雄志知事が承認の取り消しや撤回をするかどうか。移設(の是非)は過去の問題という扱いだ」「知事訪米には具体的な提示が重要だ」(9日付沖縄タイムス)「撤回」という法的具体策を行使しないまま訪米しても、問題にされない、という警鐘です。辺野古では一昨日も市民にケガ人が出ました。翁長氏が承認を撤回すれば、辺野古の事態は止まるのです。ケガ人も出なくてすむのです。それなのになぜ翁長氏は頑として撤回しようとしないのでしょうか。不可解といえば、沖縄・辺野古の動きをいつも克明に報じている日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」が、この注目すべき意見書について、一行も報じていないのは、いったいなぜなのでしょうか。
タニウツギ2 タニウツギ

【「新常態」は世界覇権国家をめざす習・李政権の青写真】
日本で社会主義をめざす人々は中国の『
新常態(ニューノーマル)』についてどう考えているか。これを気にしていたところ、日本共産党機関紙がとりあげた(「しんぶん赤旗日曜版」「経済―これって何?」欄2015・4・15)。書き手は長崎大学名誉教授井出啓二先生である。(略)だが井手氏は李克強報告の紹介に終始して、重要な課題についてご自身の見かたを明確なことばで示さない。したがって疑問だらけである。(略)井手氏は「社会主義市場経済の全面構築」が中国の目標だとしているが、(略)社会主義市場経済なるものがあるとお考えだろうか。そして「公正と『共同富裕』をめざす社会主義市場経済力の全面構築」の可能性があるとお考えだろうか。国有企業の独占状態によって市場競争が阻害され、官僚の民間企業への過干渉があり、イデオロギー優先の統制的な教育があるなかで、自由な競争が保証され、中国独自のアイディアと技術が生まれ、それをものしたベンチャー企業が育つのはかなり困難だ。(略)習近平政権による反汚職反腐敗闘争が習近平の個人権力強化の結果をもたらしている現状、さらにいえば中共中央が香港の「一国二制度」に干渉している状況をごらんなさい。5年なり10年先に中国が多党制、国政における一人一票の普通選挙制度を導入すると考えられるだろうか。その見通しが得られないで、「先進国に見劣りしない法治・民主主義の実現」があると考えるのは滑稽ではなかろうか。(略)また井手氏は「一帯一路(陸と海のシルクロード)」の開発政策、米国主導の国際経済秩序に対抗するBRICS銀行・AIIB銀行・シルクロード基金設立などの動きがあり、世界の工場から資本輸出国への転換を図っているとみている。ことのよしあしとは関係なく、これこそまさに中国がレーニンのいう「帝国主義」段階に達したことを示している。井手氏は、「2020年前後にはアメリカを抜き、世界最大となる。そのとき一人当り国内総生産は1.5万ドル(180万円)前後。近代化・成熟化は道半ば」という留保意見を付けている。自民党安倍晋三路線が着々と成果を上げつづければ、日本は数年後に非の打ちどころない対米従属型軍国主義国家となるだろう。それと同様に中国が「近代化・成熟化」したときは、アジアの盟主であることもちろん、アメリカを越えた覇権国家になるだろう。李克強総理の報告は世界覇権国家へ進む青写真にほかならないのである。(阿部治平「リベラル21」2015.05.07

引用者注:私は中国での教員生活の長い阿部治平さんの論攷と元外交官で政治学者の浅井基文さんの論攷を比較して考えてみることがしばしばあります。もちろん、どちらも中国問題のエキスパートですが、阿部さんの目は中国の庶民にそそがれているのに対して、浅井さんの目は中国の政権サイドや同国では主流の学者や編集者が発した公的・私的見解にそそがれているように見えます。中国情勢を判断するに際してどちらも重要な視点には違いありませんが、当然ながら政権サイドの論は自己の弱点をさらしてまで真実を述べることはまずありませんので浅井さんの目の確かさは信頼しながらも、その浅井さんの視点の欠けているところを思ってどうしても不満が残ります。一度、安倍さんの論と浅井さんの論の比較をしてみる必要性を感じています。

【山中人間話】
バラ 
バ ラ

【日米新ガイドラインの本質】
4月26日から5月3日までアメリカを訪問した安倍首相は、4月27日の日米安全保障協議委員会(「2+2」)による共同発表「
変化する安全保障環境のためのより力強い同盟―新たな日米防衛協力のための指針―」による日米新ガイドラインの決定を踏まえて日米首脳会談に臨み、その後の共同記者会見では、「今日、我々は米日同盟の歴史に新しいページを開いた。それは、世界における日米同盟である」と、新ガイドラインの本質を自ら誇示しました。これほどアケスケに日米軍事同盟の変質を語った首相はこれまでにいません。昨年8月に集団的自衛権行使を「合憲」とする閣議決定を強行した安倍政権は、今や公然と、アメリカの軍事戦略に緊密に寄り添う(浅井注:終戦詔書史観に染まった安倍首相にとってはおそらく唯一不本意な、しかしこの方法以外に自らが目指す日本の軍事大国への道は現実的にあり得ないと見極めた上での妥協)という形で、軍事大国への道を邁進することを宣言したのです。この高ぶった表現からは、日米安保条約改定を「成し遂げた」祖父・岸信介に匹敵する「偉業」を成し遂げたという自負、昂揚感すら漂います。世界的に影響力低下が進む中で、今や経済財政的に身の丈に余ることが明らかなアジア・リバランス戦略にあくまでしがみつこうとするオバマ大統領にとっても、日本を全面的に自らの戦略の中に取り込むことができることは、2期にわたる政権運営を通じて最大の成果の一つであることは間違いなく、安倍首相訪米を手放しで歓迎したのも無理はありません。アメリカ国内では、安倍訪米を前にして、議会、メディア、専門家を中心にして、いわゆる従軍慰安婦問題ひいては安倍首相の歴史修正主義に対する批判の声が高まっていましたし、TPP問題では打開の糸口が見つからなかったにもかかわらず、オバマ大統領がひたすら歓迎ムードに徹したのは、新ガイドライン成立による日米軍事同盟の「NATO並み化」実現を獲得したことに満足したからにほかなりません。新ガイドラインを具体化するための日本国内の「法整備」が実現した暁には、「世界の日米軍事同盟実現」がオバマ政権の最大の歴史的「成果」の一つとしてカウントされるという読みがあるはずです。しかし、日本にとり、また、21世紀の国際社会にとっては、安倍及びオバマにとっての「成果」は、極めて深刻な問題を提起するものにほかなりません。(浅井基文 2015.05.06

【今日の「山中人間話」】
上記要旨:
「英国王室に不敬だ」「日本の恥」「皇族の名前を動物につけられたらどう思うのか」だそうです。(略)このようなことを問題にすることこそおかしい。皇族、王室を絶対のものとして扱うこと自体に寒いものを感じざるを得ません。そこにあるのは権威だけを笠に着た横暴な振る舞いがあるだけなのですから。

引用者注:そうなのですが、それ以前に王室や皇族が“あこがれ”の対象となるという風潮自体が「個人の尊厳」(人間の平等)という人としてあるべき当然の観点から見ておおいに問題というべきですね。
なんじゃもんじゃの木 
なんじゃもんじゃの木

弊ブログ左端欄の「今日の言葉」は徳岡宏一朗弁護士の10日後に迫っている大阪「都」構想住民投票の反対投票の訴えを選びましたが、そのほかにも「今日の言葉」として記録しておくべきと私が思う言葉群が何点かありました。その中からさらに「kojitakenの日記」の言葉と「澤藤統一郎の憲法日記」の言葉を抜粋しておきたいと思います。kojitakenさんの言葉は今日のいわゆるリベラル・左派陣営の「人を見る目のなさ」の問題を問うていますし、澤藤統一郎さんの言葉は今日のリベラル・左派陣営のその「人を見る目のなさ」の問題に関連して保阪正康という本質的には保守の論客をほんもののリベラリストであるかのように遇する今日のリベラル・左派陣営の「人を見る目のなさ」の問題を具体論として提起している論のように思えるからです。
 
以下、徳岡宏一朗さん、kojitakenさん、澤藤統一郎さんのそれぞれの今日の問題提起。
 
このままでは、大阪「都」構想を問う住民投票で、橋下市長と彼が率いる大阪維新の会は勝利し、住民投票は賛成可決となって大阪市が解体・廃止される可能性が濃厚だと思います。各種世論調査は僅差で賛成派が多数を占めていますし、住民投票に実際に赴く率は賛成派の方が多いと思います。反対派は白けて棄権してしまう方も多いでしょうから。なにより、関西のマスメディアの中には明らかな橋下市長寄りの報道をする番組があり(読売テレビ、テレビ大阪)、公平であろうとしている局でも、どうしても目立つ橋下氏の発言を大きく取り扱いがちです。また、この住民投票が死活問題である大阪維新はここぞとばかりに政党交付金を投入しており、その額は4億円以上。テレビでコマーシャルまで流しています。しかし、反対派はこの住民投票で党の死活が決まるわけではありませんから維新ほどお金はかけられませんし、熱心に運動できません。なにより反対派の各政党は寄り合い所帯ですし、大阪の民主党はほぼ死に体です(略)。公明党は反対派に数えられていますが、実質的には自主投票であてになりません。自民党も安倍首相と菅官房長官の動き次第ではどうなるかわかりません。(略) そこで、全国の心ある市民の皆様にお願いがあります。大阪「都」構想住民投票まであと10日しかありません。大阪市にお住いのご友人の方々に、大阪「都」構想には絶対反対すべきだと話してみてはいただけないでしょうか。(略)それほどの危機感があるのは橋下徹という人が安倍晋三首相かそれ以上にこの国にとっての災厄だと思っているからです。(略)橋下氏が大阪「都」住民投票で勝ってしまい、ますます影響力を持つことは、日本全体にとっての不幸なのです。全国の皆さん。今は遠い大阪のこと、他人ごとと思っておられるかもしれません。しかし、橋下市長と大阪維新の会をこのままのさばらせるのは、日本全体の自由と人権を危機にさらすことなのです。ここで橋下徹とその「文化」をストップするために。是非、大阪市のお知り合いに、あの住民投票だけは賛成してはならないと是非是非お伝えください。(徳岡宏一朗のブログ 2015年05月07日
 
・ゴールデンウィーク中の護憲集会に民主党の長妻昭が出てきたこと自体、日頃から長妻に好感を持っていない私としては、なんだか白々しいなあと思っていたのだが、なんと長妻昭は共産党の志位和夫と手をつなぐのを拒否したのだそうだ。いかにも長妻らしいなあとか、やっぱり民主党だなあなどと、長妻や民主党に対するネガティブな印象しか持てなかった。民主党応援色の強い「リベラル」のブログがこの件を見て見ぬ振りをしているのもいつものことだが、このような身びいきが支持政党をますますダメにするのである。同様の傾向は、「生活の党となんちゃらかんちゃら」支持系のブログ群にはさらに強烈にある。結局、2009年に「政権交代」を果たした民主党は、小沢(・鳩山)系も反小沢系もみんなひっくるめてダメだったんだなあとつくづく思う。
 
ところで、本屋で江藤淳の『一九四六年憲法 その拘束』が「文春学藝ライブラリー」から出ているのを見かけたが、下記文春のリンク先から確認できる画像を見ると、帯に「戦後民主主義に対する最も本質的で鋭利な批判」 白井聡氏(「解説」より)などという毒々しい文字が印刷されているのが目に突き刺さる。昔から政治に関心のあった者なら誰でも知っている通り、江藤淳の「押しつけ憲法論」は、保守派による日本国憲法批判論の典型例である。江藤の本は「反米保守」の立場から書かれているが、どうやら白井聡はその江藤淳に強い共感を示しているらしい。白井聡というのは、いうまでもなく、内田樹、孫崎享、矢部宏治らと同じグループに属するとみられる論者であり、池澤夏樹や朝日新聞にいわゆる「左折の改憲」を焚き付けた一派とみなされる。しかし、矢部宏治が唱える「押しつけ憲法論」は江藤淳の主張と変わるところなど何もないだろう。つまり、「左折の改憲」というのは池澤夏樹の幻想に過ぎないのである。内田樹らのグループの中でも、孫崎享については、岸信介や佐藤栄作へのシンパシーを隠さない「右翼」であるとして、私は3年前から今に至るまでずっと批判し続けているが、白井聡も孫崎の同類と見るほかない。池澤夏樹や朝日新聞に対しては、あんたらが「左折の改憲」とか「下からの改憲」などと思っている(または思い込もうとしている)ものは、つい80年代までの「右からの改憲論」の典型的な立論とまるっきり同じなんだよ、と強く言いたい。「リベラル」が感情的な「反米」ムードに安易に乗っかって、「『右』も『左』もない」などと言い出したことで自ら墓穴を掘り、自分が掘った穴に自分が落ちてしまったのが現状であるように思われる。(kojitakenの日記 2015-05-07
 
引用者注:内田樹さんと池澤夏樹さんの評価については私は「kojitakenの日記」の主宰者と認識を異にします。その認識を異にする第一点は、kojitakenさんは池澤夏樹が朝日新聞に投稿した「主権回復のために 左折の改憲、考える時」(朝日新聞 2015年4月7日)という一本の記事を根拠に池澤を批判していますが、この一本の記事で池澤の思想を斟酌するのには無理があるという点です。kojitakenさんの池澤評価は仮定に仮定を重ねた上での評価でしかないというのが私の判断です。第二点目は内田樹さんの評価についてです。内田樹さんをどのように評価するべきか。私の評価はいまだ定まっていません。したがって、私には、 kojita
kenさんのように内田樹、池澤夏樹、白井聡、孫崎享、矢部宏治各氏を「同じグループに属する」と断言することはためらわれます。というよりも、この点についてのkojitakenさんの評価は誤っているように私には見えます。にもかかわらず、kojitakenさんの言葉を引用するのは彼の「リベラル・左派」批判には共感するところが大きいからです。
 
・5月3日の未明、たまたま「ラジオ深夜便」保坂正康インタビューで特攻の話を聞いた。そして、その日の午後、立教大学で行われた全国憲法研究会が主催した憲法の日記念講演会で、ほぼ重なる保坂の話に接した。印象に残ったことのいくつかの要約。「特攻機が離陸した後は無線機のスイッチはオンのままとなる。基地では特攻隊員の『最期の叫び』を聴いて、これを通信記録として残していた。厖大な記録だったが敗戦時にすべて焼却されている」「それでも、個人的なメモを残していた参謀もいた。殆どの最期の声は『お母さーん』か、恋人と思しき女性の名前だった。『大日本帝国万歳』というのはほとんどなかった。中には、『海軍のバカヤロー』と叫ぶ者もあった」「特攻は志願を建前としてたが、実際には強制だった。知覧で特攻機の整備兵だったという人から話を聞いたことがある。『特攻が決まると、殆どの者は茫然自失し、痛々しいほど取り乱す。私は、そのような若者を次々と死地に送り出したことに、いまだに心の痛みが消えない』と言っていた」「特攻での死者は学徒兵と少年兵とが圧倒的に多く、職業軍人は少ない。これは、指揮官を育てるのに金を費やしているからだ。ここに、生死を分ける差別の構造が見える。ある参謀は言っていた。『息子を戦死させない方法を教えてやろうか。陸大に入学させることだよ』と。エリートは前線に行かず死なないのだ」(略)保坂の言は傾聴に値する。特攻を命じた旧軍のシステムに怒りを露わにしていることには大いに共感する。
 
しかし保坂は、特攻隊員の死に感傷的なまでに感情移入している。特攻隊員の死を他の戦争犠牲者の死とは分けて特別視しているやに覚えて、多少の違和感を禁じ得ない。むしろ、思う。どうして、知性も勇気も持ち合わせた人々が、「海軍のバカヤロー」と言いつつも、敵艦に突っ込んでいったのだろうか。形式的にもせよ、どうして「志願」したのだろうか。「命が大切」「命が惜しい」「生きながらえたい」「この命、国家なんぞに呉れてやってたまるものか」と考えるべきではなかったか。いささかも特攻を美化してはならない。国家のための死の選択を美しいなど言ってはならない。国家が、国民の生を謳歌する自由を奪った非道として断罪しなければならない。特攻は、戦争の非道、戦争の悲惨、戦争の醜さ、戦争の愚かさを際立たせた一つの事象として記憶されなければならない。(澤藤統一郎の憲法日記 2015年5月7日
 
引用者注:リベラル・左派の陣営の弁護士の澤藤統一郎さんが「多少の」という控え目の形容詞句をつけているものの保阪正康氏に対する「違和感」を述べているのは重要だと私は思います。本質的には保守の論客である保阪氏を真の「リベラル」の論客のようにもてはやしているのがいまのリベラル・左派陣営の「見る目のなさ」というべきだからです(この「見る目のなさ」の問題は共同、共闘の問題とはまた別の問題というべきものです)。その欠陥は「自ら墓穴を掘」っている行為のように私には見えます。