私は昨日の本ブログの「今日の言葉」に熊田一雄さん(宗教研究者)の以下の言葉を引用しました。
 
外傷的事態は、「しばしば語りえないものをあえて語る」ために、ストーリーは、一般に、現像中の写真のように、もやもやしたものが少しずつ形をとってくることが多い。ここで、治療者があせってはよくない。好奇心が先に立つようではすべては失われる。治療者内面の正義感はしばしば禁じ得ないが、治療の場の基底音としては、むしろ、慎ましい「人性(あるは運命)への静かな悲しみ」のほうがふさわしい!だろう。外傷はすべての人に起こりうることであり、「私でなくなぜあなたが」(神谷美恵子)とともに「傷つきうる柔らかい精神」(野田正彰戦争と罪責』)への畏敬がなくてはなるまい。(略)私は木嶋佳苗被告は、性的虐待によって引き起こされた解離性パーソナリティ障害(俗にいう多重人格)ではないか、と強く疑っています。「毒婦たち」(上野北原信田)は、好著だと思いますが、執筆者たちが被告を、「目的」ではなく、自分の政治的主張のための「手段」として位置づけている側面がなくはないと思います。正直言って、「毒婦たち」には、被告に対する「静かな悲しみ」が不足している印象があります。(熊田一雄の日記 2014-04-13
 
上記の熊田一雄さんの『毒婦たち』の感想を読んで、私は熊田さんに以下のようなコメントを書いて返信しました。
 
「熊田さんのご感想はヒューマニストとしてまっとうなご感想だと思います。私たちはフェミニストである以前に(男・女である以前に)ヒューマニスト(人間)であるはずですから。引用も勉強になりました。」
 
下記は、かつて(4年ほど前)あるジェンダー問題を主題とするメーリングリストにおいて「政治」と「ジェンダー」問題との関わりはどうあるべきかについて議論したときの私の意見の一部です。文中に「本ML」、あるいは「このメーリングリスト」とあるのは同メーリングリストのことを指します。熊田さんの読後感想に触発される形でかつてジェンダー問題について書いた私の文章を想い出しました。上記のジェンダー問題に対する私の思いをもう少し説明的に述べれば以下のようになるのかもしれません。
 
「政治」と「ジェンダー」の関わりについて少し述べます。
 
ジェンダー運動に携わる多くの人たちにとっては常識の部類に属するといってもよいと思うのですが、フェミニズム運動のこれまでの最大の理論的功績といってもよいものは、いわゆる近代産業革命るものが「女」に家事・育児労働という長時間労働にしてかつ不当な不払い労働でもある「主婦」なる職種を誕生させたこと、「男は外/女は家庭」という性別分業の倫理規範をつくりあげたこと、それは18世紀後半以来の「男性優位」社会の形成過程と密接にリンクしていること、を明々白々にかつ強い説得力をもって天下に知らしめたことといえるでしょう。 
あるメーリングリストで実業家(人材育成コンサルタント会社代表)で「ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク」(のりこえねっと)共同代表である辛淑玉さんの評価をめぐって若干の議論がありました。その議論自体は辛氏を必要以上に誉めそやす者と必要以上に貶す者とのぶつかりあいのようなもので、取り上げるほどのものではないのですが、私がここで問題にしたいのは、いわゆる「リベラル・左派」と呼ばれる人々の間では、メディアというすでにコマーシャル化して久しい独自のフレームによって形成された情報によって「辛淑玉」というひとつの理想化された物語を創りあげ、その結果としての過剰な辛淑玉評価が幅を利かせてはいないかという疑念です。そこには実像の辛淑玉さんという人はいません。それは、リベラル・左派にとっても、辛淑玉さん自身にとっても不幸なことのように思います。そういう意味で、以下は、この際、私から見た辛淑玉論を少し述べておくことも無駄なことではないだろうと思って、上記の議論に乗っかかる形で私の辛淑玉さん評価をコメントの範囲内で述べたものです。
 
その私の辛淑玉さん評価は、主として彼女の「ミサンドリー(男性嫌悪)」思想と女性優位思想に焦点を当てて私の少なくない違和感と異議を述べたものでした。かつて私は、辛さんとともに「のりこえねっと」の共同代表をつとめている上野千鶴子氏(東大名誉教授・ジェンダー学)のフェミニズム思想についても「男よ率直に弱さを認めよう」という新聞に掲載された彼女の論評に則して若干の私なりの異議を述べたことがあります。今回の私の辛淑玉さん評価ともつながっていると思いますので、あわせて掲載させていただこうと思います。
この9月4日、最高裁大法廷は、いわゆる「婚外子差別」問題(「嫡出でない子の相続分は嫡出子の2分の1とする」という民法900条4号ただし書きの規定)について、「法の下の平等を保障した憲法に違反する」との違憲判決を出しました。明治時代から115年間続いてきた民法の規定の見直しにつながる違憲判決ですから、どういう立場から見るにせよエポックを画する歴史的な判決ということができるでしょう。そういうしだいで「婚外子差別」違憲判決について少しメモをしておきます(ただし、常套的なメモ程度であればメディアの報道などを参照すればそれですむことですから、ここではふつうの報道や解説とは少し違う観点からメモしておきます)。

婚外子差別2 
しんぶん赤旗(2013年9月5日) 
松江市教委の「はだしのゲン」閲覧制限措置問題は、昨日の26日、同市教委が同閲覧制限措置を「撤回」する決定をしたことによって一応決着を見ましたが、その「撤回」宣言は、市民の2万通を超える同措置の撤回を求める署名簿の提出をはじめとする押し寄せる世論の抗議の波に抗しきれずにやむをえず表明した体のものであって、同市教委が今回の「閲覧制限」措置を心から反省した結果によるものでないことは、同市教委の清水伸夫教育長が教育委員会会議のあとに語ったという次のような談話からも明らかです。
 
同清水教育長は教育委員会会議のあと次のように語っています。「手続きには不備があったが、当時の担当者が十分に考えて行った措置であったので、間違っていないと思う」(「『ゲン』閲覧制限要請 松江市教委が撤回へ」NHK 2013年8月26日 17時2分放送)、と。この松江市教委の清水教育長の言には反省の跡は微塵も見られません。また、その反省の皆無のところから「今後の取り扱いについては「各学校の自主性を尊重する」(同左)と言われても、その言もまったく信用することはできません。
 
現に同市教委は、はじめに閲覧制限措置を行った当初においても、「最終的に判断するのは各学校の校長である」と説明したうえで「閉架」の措置の要請を市内全ての小中学校に行っ」ていますが、「一部の学校から市教育委員会に『閲覧を制限していない学校もあり、現場が混乱しているので対応を統一してほしい』」という要望があった」際に各小中学校に対して再度要請を繰り返しています(NHKWEB特集「『ゲン』閲覧制限の背景は」 2013年8月22日)。が、「各学校の自主性を尊重する」という主張がほんとうであるならば2度も要請を繰り返す必要はないはずです。「各学校の自主性を尊重」すればそれでよいはずのことですから。「各学校の自主性を尊重する」という松江市教委の言はまったく信用できない、といわざるをえないでしょう。世論が冷えたとき、いつなんどき松江市教委が本心を曝け出して「撤回」決定を反故にしようとするか知れたものではありません。油断大敵です。
 
同様の思想的退嬰は東京都教委にも見られます。下記に根津公子さん(「君が代」不起立処分取消し訴訟原告)がご報告される8月22日に開かれた都教育委員会の定例会では「教育委員会ではどうしてモノを言わないのですか」とう当然の疑問を提起した傍聴人が退場させられて、なにもモノを言わない教育委員は泰然として席に座したままです。なんのお咎めもなし。このような不合理と不公正というほかない不正義が東京都教委の定例会では日常茶飯事に繰り広げられているのです。 
松江市教委は本日の26日に臨時会議を開き、「はだしのゲン」の閲覧制限を撤回しました。

以下、報道。

閲覧制限を撤回へ=「はだしのゲン」で松江市教委
(時事通信 2013/08/26-16:31)

松江市教委  
漫画「はだしのゲン」の閲覧制限について議論する松江市教育委員
会の内藤富夫委員長(左から3人目)ら=26日午後、松江市役所
時事通信

 松江市教育委員会が広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を市内の小中学校に要請していた問題で、市教委は26日、教育委員5人による会議を開き、要請の撤回が妥当と判断した。教育長が近く各校に撤回を伝える。

 市教委は昨年12月、残酷な描写があるなどとして、図書室や教室のゲンを倉庫などにしまう閉架措置を要請。市内の小中学校では、子どもが希望しない限り閲覧できない状態になっていた。今後は書棚などに置かれ、自由に閲覧できるようになる。
 
「はだしのゲン」閲覧制限を撤回 松江市教委
(共同通信 2013/08/26 16:35)
 
 松江市教育委員会が市立小中学校に漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を求めた問題で、市教委は26日の教育委員の会議で、制限の要請を撤回することを決めた。
 
はだしのゲン:閲覧制限を撤回…松江市教委
(毎日新聞 2013年08月26日 16時35分)
 
 松江市教委が故中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を全小中学校に求めている問題で、5人の市教育委員による臨時会議が26日、松江市役所であった。22日の定例会議で結論が出ず、この日改めて検討した結果、「市教委が学校側に閲覧制限を一律に求めたことに問題があった」「子供に見せるか、見せないかは現場に任せるべきだ」との意見が多く、制限を撤回することを全会一致で決めた。
 
 同市では昨年8月、小中学校の図書室からゲンを撤去するよう求める市民からの陳情が市議会に提出され、同年12月の本会議で全会一致で不採択となった。しかし、前教育長は教育委員からの委任事務として市教委幹部と協議し、同月の校長会でゲンを教師の許可なく閲覧できない閉架とするよう求めていた。
「はだしのゲン」閲覧規制問題の続報です。
 
はじめに声明(呼びかけ)。
 
「はだしのゲン」閲覧規制問題に関してあらたに『はだしのゲン』閲覧制限問題を考える教員・研究者有志から以下のような「文学と文化の教育・研究に携わる皆さまへ」という呼びかけと『はだしのゲン』閲覧制限措置の撤回を求める要望書が出されています。
 
文学と文化の教育・研究に携わる皆さまへ(呼びかけ)
(『はだしのゲン』閲覧制限問題を考える教員・研究者有志)
 
報道によれば、島根県松江市教育委員会は、中沢啓治『はだしのゲン』について、2012年12月・2013年1月の二度にわたって、市内小中学校学校図書館での閲覧を制限する要請を行っていました。この問題については、すでに多くの市民から疑問と反対の声があがっており、インターネット署名サイト「Change.org」でも、8月23日現在で20,000筆を超える多くの署名が集まっています。すでに、日本図書館協会・図書館の自由委員会(西河内靖泰委員長)からも、教育委員会委員長・教育長に宛てて、当該措置の再考をうながす「要望書」が送付されています。

わたしたちは、この問題は、単に学校図書館における自由な図書利用の問題にとどまらず、文学・文化の教育活動にかかわる重要な問題だと認識しています。文学や文化を愛し、広い意味での文学・文化の教育と研究、普及に携わっている立場から、差し当たり、閲覧制限の撤回を求める「要望書」を、松江市教育委員会委員長・教育長宛てにメールとファックスで送付したいと考えています。
 
以下、この問題を憂慮する教員・研究者の有志が作成・検討した「要望書」の文面を掲げます。この「要望書」をお読みいただき、主旨にご賛同いただける方は、下記の内容についてご記入の上、8月25日(日)16:00までに、
 
hadashinogen.appeal[*]gmail.com ※[*]を「@」に変えて下さい
 
 宛てにメールにて送信くださいますよう、お願い致します。
今日は松江市教委の 「はだしのゲン」閲覧規制問題に関して以下のような報道がありました。
 
ゲン「閉架」の再考求める要望書…図書館協会
(読売新聞 2013年8月23日)
 
「同協会の「図書館の自由委員会」の西河内靖泰委員長は「市教委が一定の価値判断をして学校に閉架を押しつけることは検閲にあたる」と話している。
 
図書館協会、「ゲン」閲覧制限撤廃を要望 松江市に
(日本経済新聞/共同 2013年8月22日)
 
「要望書は、米国の図書館協会が年齢による利用制限を「目立たない形の検閲」としているのを引用し、市教委の対応を批判。「読みたい子どもが教師の許可を求めるのは心理的負担が大きい」と指摘し「学校図書館の自由な利用がゆがむことが懸念される」とした。」
 
上記の日本経済新聞の記事によれば、図書館協会は、要望書でも、「米国の図書館協会が年齢による利用制限を『目立たない形の検閲』としているのを引用し、市教委の対応を批判」しているということです。日本の教育行政を根底的に根腐れさせている大きな一因ともなっていると私などは常々憤慨をもしている教委特有の――それも全国的な規模でのある種のモンロー主義、すなわち教委独特の視野狭窄(国際的にも国内的にも)を衝く有効な批判としても機能しているように思います。この間接的な意味での図書館協会が放った国際的批判を松江市教委はどう受け止めることができるか(おそらく受け止めることはできないでしょう。先の報ステの市教委インタビューの紹介の際にもふれたように同市教委に見られるのは小心な打算だけです)。しかし、そういうことをも含めてこのあたりの市教委の判断のありようがひとつの勝負どころになるようにも思います。 
松江市教委の「はだしのゲン」閲覧制限問題について今日の22日、同市教委において閲覧制限の「見直し」のための再検討会議が開かれるというので注目していましたが、結論は26日の臨時会議まで先送りされることになったようです。
 
「はだしのゲン」閲覧制限 松江市教委協議、結論先送り
(朝日新聞 2013年8月22日)

はだしのゲン  
「はだしのゲン」閲覧制限 結論先送り 松江市教委(産経新聞)
 
一昨日、私は、松江市教委の「はだしのゲン」閲覧制限問題について「私たちの批判が実を結んでいるようです」とある意味楽観的な展望を述べておきました。この問題について一昨日の時点で広島県知事と広島市長が揃って「閲覧制限は適当でない」旨の見解を表明をしていたからです(長崎市長も同趣旨の発言をしているようですが私は確認できていません)。松江市教委にとって広島市長の発言は同格の別都市の市長の発言にすぎないのだとしても、同市教委のいわば上司筋に当たる広島県知事が「閲覧制限は適当でない」とまで明確に同市教委の今回の措置を批判しているのだから、この問題はこれで落着するだろう、と。
 
「はだしのゲン」鳥取市でも閲覧制限(NHK 8月20日 16時43分)

「この問題について広島県の湯崎知事は20日の記者会見で「『はだしのゲン』は広島の被爆の実相を伝える資料として、長年、たくさんの人が読み継いできたものだ。児童や生徒にはこうした資料を通して被爆の実相を理解してもらい、世界の平和と人類の幸福に貢献できる人に育ってもらうことが大事だと思っている。自由に読んでもらっていいと思う」と述べ、閲覧制限は適当ではないという考えを示しました。」
 
「はだしのゲン」は平和希求=松江市の閲覧制限受け-松井広島市長(時事通信 2013/08/21

「松江市教育委員会が市内の小中学校に広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」の閲覧制限を要請したことについて、広島市の松井一実市長は21日の記者会見で、「確かにいろんな場面があるが、作品全体の訴えは世界平和を希求する強い思いだ」と作品への見解を述べた。」
「『はだしのゲン』閲覧制限」問題について、松江市教育委員会は多くの人の批判を受けて「撤回」を余儀なくされているようです。
 
「はだしのゲン」閲覧制限を再検討=撤回を視野―松江市教委
(時事通信 2013年8月20日)


2012年12月に死去した漫画家中沢啓治さんが自身の被爆体験を基にした漫画「はだしのゲン」について、松江市教育委員会が同月、市内の小中学校に閲覧制限を要請していたが、要請の撤回を視野に再検討する方針を決めたことが、20日までに分かった。

市教委などによると12年8月、「はだしのゲンは間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書館からの撤去を求める市民からの陳情が市議会にあったが、市議会は同年12月に全会一致で陳情を不採択としていた。

しかし市教委は、作中にある女性への暴行場面や人の首を切る描写を問題視。同月中に市内の全小中学校に対し、作品を図書館の倉庫などにしまい、子どもから要望がない限りは自由に閲覧できない「閉架」措置とするよう要請した。

要請は市の教育委員会会議で議論されずに、市教委の独断で2度にわたり行われていた。

清水伸夫松江市教育長は20日までの取材に、「手続き的にどうだったか調査する必要がある」と要請に至った過程の問題点を指摘。また、議会が陳情を不採択としたことや、市内外から反発の声が多数寄せられていることを受け、「今後は撤回も視野に、委員会会議の意見を聴いて再度検討したい」と話した。

22日には同会議が開かれ、閲覧制限が議題として取り上げられる予定。清水教育長は、「遅くとも月内に一定の結論を示したい」としている。
 
この松江市教委の「撤回検討」発言に至るまでには同市教委の愚行を批判する以下のような報道がありました。
松江市教育委員会(広島県)が原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」(原爆被害を伝える作品として教育現場で広く活用され、約20カ国語に翻訳されている)を「描写が過激だ」などとして子どもが自由に閲覧できない「閉架」の措置を取るよう市内の全市立小中学校に求めていたことがメディア各紙で報道されています。
 
はだしのゲン「閉架」に 松江市教委「表現に疑問」(東京新聞/共同 2013年8月16日)
はだしのゲン:松江市教委、貸し出し禁止要請「描写過激」(毎日新聞 2013年8月16日)
「はだしのゲン」小中校で閲覧制限 松江市教委「描写が過激」(朝日新聞 2013年8月17日)


注:上記の毎日、朝日の報道でも触れられていますが、「松江市では昨年8月、市民の一部から『間違った歴史認識を植え付ける』として学校図書室から撤去を求める陳情が市議会に出され」ていました。今回の松江市教委の措置は左記の「市民」の陳情に応えた形になっていますが、この「市民」なる者は在特会系活動家の中島康治であることが判明しています。中島康治は自らのブログで「嘘出鱈目はだしのゲンが、松江市の全小中学校で、自由に閲覧できない『閉架』扱いになったようです。/いや~陳情やらなんやらで地味に動き回ってよかったです」とこの「陳情」者が中島自身であったことを自慢げに吐露しています。

また、下記の中国新聞記事(8月17日付)には「残虐な場面を未発達な子どもに見せるのはよくない。天皇批判がある作品でもあり、閉架によって閲覧の優先度を下げたのは適切な対処だ」という今回の松江市教委の措置を評価する声も「市民」の声として掲載されていますが、この「市民」なる者も「『平和と安全を求める被爆者たちの会』なる団体、あの田母神俊雄を広島に呼んだ右翼団体」の代表であることが
判明しています。
 
首切り
松江市教委が「旧日本軍がアジアの人々の首を切ったり女性への性的な
乱暴シーンが小中学生には過激」などとする漫画「はだしのゲン」の一場面
帯広畜産大学教授(哲学・セクシュアリティ論)の杉田聡さんが『逃げられない性犯罪被害者―無謀な最高裁判決』(青弓社)という新著を出版されました(2月16日発売)。私はこの新著をご紹介したいわけですが、その理由は下記の杉田さんご自身の自著の自薦の文をお読みいただければご了解いただけるものと思います。私はただ同著書の重要性を思って紹介するのみです。

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(杉田聡著 青弓社 2013年)

委細は下記のとおりです。

帯広畜産大学・杉田聡(哲学・セクシュアリティ論)と申します。

ご承知のように、一昨年7月25日、ある強かん事件に関する第一審・控訴審有罪判決を最高裁がくつがえし、無罪判決を出しました。その2年前にも、「痴漢」事件で同じく逆転判決が出されましたが、2度つづけて性犯罪事犯に対して最高裁が逆転判決を出した以上、これがその後の性犯罪裁判に対して及ぼしうる影響は甚大です。(実際その影響はすでにじわじわと出ていると判断されます。)

しかし、子細に検討してみれば、この最高裁判決はきわめて無謀なものです。そこでは、性犯罪についてほとんど何も知らない男性裁判官が、性犯罪被害者の各種証言や、性犯罪に関する研究者の地道な研究成果を、「経験則」の名の下に一蹴して、個人的な、きわめて限られた経験・性認識を絶対視しています。以下の書名にもありますが、何より、性被害にあっても女性は逃げられると前提してかかり、それを含むいくつもの「レイプ神話」を下に、この強かん事件での女性の供述には信用が置けないと、最高裁は判断しました。

この無謀な判決を批判的に検証する本を直ちに出したいと思いましたが、実際に出版できるまでに紆余曲折がありました。しかしようやく2月16日付けで出版されました。これは『逃げられない性犯罪被害者―無謀な最高裁判決』という本で、青弓社から出されました。価格は2000円(+税)です。

私が本文を執筆し、私ではとうてい不十分な専門的知識を補ってもらうために、4人の専門家(弁護士、犯罪心理学者、精神科医、産婦人科医)にコラムを執筆いただいております。

目次は以下の通りです。

すでに判決が出されてから1年半がたちますが、こうした無謀な判決を「判例」とさせないためにも、ぜひとも皆様にご関心をお持ちいただけるよう、お願いいたします。
2・14 杉田 聡

『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』
                        (杉田聡著 青弓社 2013年)

目次

序章 近年の性暴力事情と逆転判決の衝撃
1 近年の性暴力とその根絶へ向けての取り組み
2 二つの事件―「09年判決」と「11年判決」
3 本書の内容

第1章 逃げられない被害者
1 被害者は逃げられないことが多い
2 逃げられないのは暴力のためではない―被害者が陥る無力感
・コラム なぜ被害者は逃げられないのか:1―ショックと無力感
桐生正幸
・コラム なぜ被害者は逃げられないのか:2―精神医学による統計研究
橋爪(伊藤)きょう子
3 被害者の陥る心理状態―離人症・現実感の喪失
・コラム 被害のさなかに起こる離人感と現実感の喪失
橋爪(伊藤)きょう子
・コラム 強かん犯の犯人像―犯罪者プロファイリングから
桐生正幸
4 周囲の通行人はどれだけ力になるか
5 男女間の関係にはよけい介入できない
・コラム なぜ目撃者は助けることをためらうのか―援助行動の要因
桐生正幸
6 口封じ―加害者がとる策略:1
7 加害の隠蔽―加害者が取る策略:2
・コラム 傷つけないように「配慮」する加害者
堀本江美

第2章 身体に痕跡は残るのか
1 被害者に残る痕跡―誤解を生む「強(forcible)かん」イメージ
2 無抵抗・いいなりに状態で膣に傷がつくのか
・コラム かならず膣などが傷つくのか
堀本江美
3 精液はかならず残るのか
・コラム かならず膣内に精液が残るのか―消化器官としての膣
堀本江美
4 加害者・被害者の身体位置の問題

第3章 通報と告訴――なぜためらうのか
1 千葉事件に見られる被害者の行動・周囲の行動
2 なぜ通報・告訴をためらうのか:1―「汚れた」「恥ずかしい」という思い
・コラム 被害者はなぜ自分を責めるのか
桐生正幸
・コラム 被害女性は誰に配慮するか、何を恐れるか―被害者との面接から
橋爪(伊藤)きょう子
3 なぜ通報・告訴をためらうのか:2―脅迫と被害者が陥る無力感
・コラム 被害者が陥る無力感―被害者の心理的ダメージと通報前行動
橋爪(伊藤)きょう子
4 なぜ通報・告訴をためらうのか:3―警察・病院などでの検査
・コラム 検診時に見る被害者の心とからだ
堀本江美
5 なぜ通報・告訴をためらうのか:4―加害者の存在への恐怖、加害者による報復の恐怖
6 なぜ通報・告訴をためらうのか:5―セカンドレイプの恐れ、家族に知られる恐れ

第4章 記憶と神話――被害者が陥る心理、被害者に対する予断
1 供述の変遷を問題視する最高裁判決―これが「疑わしき」とみなす要因になるのか
・コラム 被害者は被害事実をどれだけ正確に記憶できるか
桐生正幸
2 人はどれだけ記憶できるか―被害事実が奪う記憶力
・コラム なぜ供述内容が変化するのか―急性乖離症状と心因性の健忘
橋爪(伊藤)きょう子
3 まかり通るレイプ神話―判決は被害女性の職業に予断を持たなかったか
4 被害者の「落ち度」は問題にならない―全裸で歩いても被害者は悪くない
5 「落ち度」と貞操観念にこだわる裁判官
6 女性がセックスできるのは特定のもしくは特定のタイプの相手―京教大事件に関する京都地裁判決
7 捜査・公判過程での被害者の扱われ方―依然として残る被害者軽視
・コラム 被害者は警察・検察・裁判所でどう扱われるか
養父知美

第5章 11年判決の基本原理――「経験則」と「疑わしきは被告人の利益に」
1 「経験則」と自由心証主義
2 「疑わしきは被告人の利益に」と強かん事件
3 法律審としての最高裁と無謀な「自判」―判例とはしえない最高裁判決
・コラム 裁判官は何によって心証を得るのか―書類審査が欠落させる心証形成
養父知美

第6章 司法官の性意識を生むもの
1 裁判官は性犯罪について学んできたのか―司法研修制度の問題点
2 特殊性が理解されないまま一般犯のように扱われている―男の常識への固執
3 どれだけ強かんが独自の犯罪として扱われてきたか―法学書・判例に見る強かんの理解
・コラム 性犯罪裁判の特異性―「物証」や「目撃者」が乏しい理由
養父知美
4 裁判官はどこから性情報を得るのか
5 市民生活のない裁判官
6 最高裁判事とは誰なのか―最高裁判事の任官システム
・コラム 最高裁判事とはどのような人か
養父知美
7 裁判員裁判への影響は?―判決を誘導する裁判官
8 強かん事犯では裁判官は無罪へと誘導するおそれがある
9 専門的な検察官・裁判官をもつ韓国の事情
・コラム 韓国の性犯罪と近年の取り組み
養父知美
10 訴えに対する警察の対応―近年、制度的な取り組みは進んだというが
・コラム 警察ではどのような教育が行われているか
堀本江美

終章 改革そして展望―性犯罪のない社会を
1 司法改革
2 被害者救済制度の改革
・コラム 性暴力被害者支援センターの役割―「ゆいネット北海道」の事例から
堀本江美
・コラム 生涯にわたる苦しみ―支援センターに求められる要件
橋爪(伊藤)きょう子
3 加害者更正プログラム・被害防止方法
・コラム 認知行動療法プログラムの概要と動向
桐生正幸
4 全般的な法的・破壊的改革
・コラム 被害者の性的経歴と「強かん被害者保護法」(Rape Shield Law)
養父知美
・コラム 親告罪の問題点
養父知美

11年最高裁判決判決文
あとがき
私は「『犬』シリーズの評価をめぐって」という連載の(4)で先日の5日に東京・飯田橋で開かれた「森美術館問題を考える討論集会に参加して言論の「暴力」行為に及んだ(本人は否定していますが)昼間たかしというフリーライターのことについても少し触れておきました。

同討論集会の主催者の前田朗氏(東京造形大学教授)によれば、その昼間氏の「暴力」行為について、同氏に同集会の取材を依頼した週刊金曜日編集部が同誌編集長名(ということですから、平井康嗣氏のことを指すものと思います)で下記のような謝罪と遺憾の意を表明しているとのことです。

以下、前田朗氏のこの件に関する報告メールから引用(孫引き)しておきます。

「2月5日に開催された「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」において、雑誌の「取材」と称して参加した男性が、他人を誹謗中傷する発言をし、女性参加者に暴力を振るおうとしたことはすでに報告しました。これまでAと書いてきましたが、昼間たかしというライターです。/私は2月6日に、Aに取材を依頼した週刊金曜日編集部宛に抗議文を出しました。/本日、週刊金曜日編集長から回答が届きました。結論部分を引用紹介します。

「昼間氏の行為の結果として、集会が騒然とした状態になったことを残念に思います。それにもまして昼間氏の行為の結果、恐怖を感じられた女性がいたことについて、取材を依頼した編集部としてお詫びいたします。」「また、「会田誠展問題」において、昼間氏では関係者取材が十分になされえないこと、昼間氏が記事を執筆した場合、その記事は読者に素直に届く可能性は低くなったと判断しました。そのことは会田誠展問題を考えるうえでもプラスに働かないことでしょう。編集部としましては、昼間氏と相談して合意した結果、今回の執筆者から降りていただくことにしました。」

以上は、この連載の主題とは直接関係するものではありませんが、関連する一事実関係ということで記録しておくことにします。
自民党のホームページにいまを時めく(テレビ番組などで人気者の意)「尾木ママ」こと教育評論家の尾木直樹氏が同党教育再生実行本部主催の初会合で講演したことが報じられています。

その自民党のホームページの記事によれば同党教育再生実行本部主催の初会合での尾木氏の講演内容は次のようなものであったようです。
 
「尾木教授が講演。尾木氏はいじめ件数が減少しない理由について、「加害者の罪の意識がまひしており教師が指導しても効果がでない」と指摘し、「心のノート」を使用した道徳教育を充実させる必要性(強調は引用者。以下同じ)を語った。/また、わが党の教育改革については、『スピードが速くパンチ力がある』と評価。そのうえで、『いじめ防止対策基本法案は可能な限り早く成立させてほしい」と要望し、「(同法案の成立により)社会全体でいじめ問題に取り組む体制を構築すべきだ」と訴えた。」(自民党ニュース「政府・与党一体で教育改革 教育再生実行本部が初会合」 2013年1月17日
 
この尾木氏の講演内容について子どもと教科書全国ネット21俵義文さんが先日教育関係者の多いメーリングリスト上で次のような警告を発していました。
 
「安倍政権の『教育再生』政策の基をつくった、自民党教育再生実行本部は、本部長の下村博文氏が文科相になったので、基本政策分科会座長だった遠藤利明議員が本部長になり、1月17日に安倍政権後の初会合を開催しました。/その会合で、『尾木ママ』こと尾木直樹氏が講演しています。/下記の自民党のHPによると、尾木氏は次のように語ったということです。/(記事の内容は上記と同じなので省略)/これが事実だとすれば、尾木氏までが自民党・安倍政権の『教育再生』政策にすり寄ったということで、大変重大であり、憂慮すべきことです。/無視できない情報なのでお知らせします。」

ところで尾木氏はどこかでこの俵氏のメーリス発言を知ったのでしょう。自身のブログ上でこの件について次のように反論しています。
 
「びっくり!!

・尾木氏までが自民党・安部政権の教育再生政策にすり寄ったということで、大変重大であり、憂慮すべことで、無視できない情報なのでお知らせします。
子どもと教科書全国ネット21/

こんなメーリスが送信されているようです。/読んだ人はびっくりしています。/当の私はもっと驚いています/第一に、こんな内容話すわけがないし、講義内容の確認もしないで主催が/載せるとは無責任甚だしい。/第二に、いかに引用とは言え、私への確認もしないで、メーリスに流すとは/これまたいかがなものか。ネットにアップすれば、世界中に次々流れること/ご存知ないのでしょうか!? いかにも軽率ではないでしょうか!?/私は送信者の名前は伏せます。

尾木ママブログの皆さん/ネットの噂は恐ろしいですね…/なりすまし被害には会いましたが、これもそんなに私を信用していないのか。/どうして事実だとすればー情報を流すのか。私は悲しくなります。/私は今日初めて知りましたので、当然ですが自民党に対して、抗議、訂正を求めます。/おかしいな?あの人がいつもと反対のこというかな?/って思ったら/皆さん/その情報/本人確認もしないで流しますか?/当日はメディアも詰めかけておられました/映像も配信、TVカメラも回っていました。/こんなに我田引水の記事はどこも書いていませんよ。/だから、私にとっては青天の霹靂です。

まぁ~せっかくいじめ問題の前進目指して、あらゆる人々と考え合おうとしているのに…/背後からバッサリ切られた心情です。/悲しくさみしいですね。/でも大津の子どもたちも/入試直前苦しい中奮闘しています!/尾木ママも一緒に頑張りますよ」(尾木直樹オフィシャルブログ 「事実確認してから情報流すべき」 2013-02-10)
*現在の文面は上記とは若干異なります。少し改稿したのでしょう。

さらに以下は、その尾木氏の反論への昨日10日付けの俵義文氏の再反論的コメントです。
 
「俵義文です。昨日、私が流した尾木直樹氏が自民党教育再生実行本部で講演した、/という情報について、尾木氏がブログで講演内容が事実ではないと書いています。/それを以下に紹介します。/(省略)/なぜ、本人に確認しないで流したのかという問い合わせをいただきましたので、/それについて、私の考えを以下に述べておきます。/私は尾木氏とは直接の親交はないので連絡先も知りませんので、/本人には確認していません。/私も自民党の記事を見たときにはびっくりしました。/自民党のHPは1月17日の記事であり、すでに3週間以上たっています。/もし、事実でないのなら、すでに尾木氏が自民党に抗議して削除されているであろう、/3週間も載っているというのは、事実と考えざるを得ない、という判断です。/それでも、私は、コメントの最初に『これが事実だとすれば』と書いています。/尾木氏のブログでは、なぜか、この『これが事実だとすれば』は引用されていません。」

さて、尾木氏は上記の自身のブログで「こんな内容話すわけがない」と自民党のホームページに掲載されている同党教育再生実行本部での自身の講演の内容を否定した上で「当然ですが自民党に対して、抗議、訂正を求めます」とも記していますが、「抗議、訂正を求め」るまでもなく下記のニコニコ動画のサイトに当日の尾木氏の講演の模様がアップされており、私たちは尾木氏と俵氏のどちらの言い分が正しいのかを検証することができます(ニコニコ動画を視聴するためには登録(無料)が必要です)。

H25/1/17 自由民主党【教育再生実行本部 いじめ問題対策分科会】(ニコニコ動画 2013年01月17日投稿)
 
その動画を見るかぎり上記の自民党のホームページに掲載されている尾木氏の講演内容に関する記事に粉飾はありません。尾木氏は同講演でたしかに自民党の教育改革について「スピードが速くパンチ力がある」(19:02頃)と評価していますし、「いじめ防止対策基本法案は可能な限り早く成立させてほしい」(28:42頃)とも要望しています。また、「『心のノート』を使用した道徳教育を充実させる必要性」(34:55頃)についてもその旨語っています。この部分の尾木氏の発言は次のようなものです。
 
「個々の教育の日常化ということ。心の教育、『心のノート』を使ったりとかそういう特別な時間も大事です。ぼくはいま道徳教育を大学で講義している専門家ですけれども道徳教育を世界で最も重視しているのは日本だと思います。直接道徳やそれからすべて、総合主義ともいいますけれども、すべての生活の中でも重視している国はないですね。日本だけなんですよ。」(34:55頃~)

講演の全体を聞いてみて、尾木氏が誠実に語っていることを私は否定しませんが、「心のノートについての認識は尾木氏は浅いようです。尾木氏は「心の教育」の重要性ということと、「『心のノート』を使用した道徳教育」の違いについて果たして認識しているのだろうかという疑問を持ちました。その違いを尾木氏は明確に認識していないのではないか。尾木氏はおそらく自民党教育再生実行本部での講演について次のように思っているのでしょう。「自分はくだんの講演では『心の教育』の重要性を語ったのであって、『心のノート』使用発言はその教授方法のひとつの応用としての例示でしかない」、と。そうした尾木氏の「心のノート」問題の非認識が自身のブログでの「こんな内容話すわけがない」発言になっているのでしょう。

私たちは尾木氏の教育思想をもう少し注意深く注視する必要があるように思います(私にとっては尾木氏が自民党の教育再生実行本部の初会合に出席し、同党の教育改革を「「スピードが速くパンチ力がある」と評価している時点ですでにアウトですが)。「いじめ」問題について一応理のある発言をテレビや雑誌でしているからといって(この点についてはいわゆるリベラル・左派の側が付和雷同的な無節操さで尾木氏がテレビ、雑誌などでもてはやされる時流に乗って彼を同じくもてはやしてきたことにも大きな責任があります。たとえばしんぶん赤旗日曜版教育評論家 尾木直樹さんに聞く」2012年8月5日号)、また30年の教員歴があるからといって、なにゆえに教育基本法は「公権力からの独立」(「教育は不当な支配に服さないこと」)を謳っているのか(現行法16条)。また、謳ってきたのか(旧法10条)。その精神を十分に理解しているとは限らないのです。尾木氏は「こんな内容話すわけがない」と否定する前に自身の考える「心のノート」問題についてのその認識、あるいは非認識を率直に語るべきでしょう。それが「現場」の教育をよく知る者の態度というべきものではないでしょうか。

なお、「心のノート」についてはこれまでも次のような批判がありました。

「心のノートは修身教科書の復活・現代版だ」「画一的・宗教的『徳目』による『心の支配』」「国家に忠実な『日本人』を作るための修身教科書」「差別・選別教育徹底のための道具」「女の子キャラクターが男の子キャラクターと比べて可愛らしく優しく語りかけたり、リボンを付けている点について『ジェンダー・イメージを固定化させる機能をもひそかに果たす』」(三宅晶子『「心のノート」を考える』p66)などなど。(ウィキペディア「心のノート」、「戦前の国定『修身』教科書復活につながる=文科省『心のノート』
ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)などの抗議などによってにわかに社会面的なホットニュースになった感のある「会田誠展 天才でごめんなさい」の展覧会開催について同展の主催者の森美術館と同展作品出品者の会田誠氏が2月6日付けで「会田誠展について」という公式メッセージを発信しましたが、その公式メッセージの発信についてもさらに「誤魔化しだ」とか「会田氏は典型的な性差別主義者だ」などというPAPSやポルノ・買春問題研究会 (APP)の抗議文賛同者の間からの批判がとまりません。

以下は、「僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。 け して単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません」という会田氏の公式メッセージの中の言葉を「誤魔化しだ」と批判する宮本節子さん(ソーシャルワーカー)の「会田誠展」批判の抗議文に賛同した289人のうちの1人の人の会田氏批判に対する私なりの反論と「会田氏は典型的な性差別主義者だ」といまなお主張するポルノ・買春問題研究会 (APP) 関係者の1人の会田氏批判に対する同じく私なりの反論です(原文はジェンダー関係のメーリングリストに発信しました)。

宮本節子さんの「会田誠展」批判の抗議文に賛同
した289人のうちの1人の人に対する反論

> ≪僕は必ず、芸術における屈折表現――僕はそれをアイロニーと呼んでいますが――として使用しています(あるいは、僕個人はこの言葉をあまり使いませんが、『批評的に使用しています』と言い直してもいいのかもしれません)。 けし て単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません。≫という言葉は、誤魔化しだと思います

Aさん

私はジェンダー関係のメーリングリストの前便で会田誠氏のお連れ合いでフェミニストアートの画家の岡田裕子さんのこの件に関する「意見」()をご紹介しておきましたが、その中で岡田さんは次のように言っていました。

「はい、わたしはこんな展覧会に呼ばれる作家です。ちなみにブルックリンミュージアムのグローバリズムフェミニズム展は、それはそれで過激な表現が多く見られ、ヌード、流血、自傷等。目玉はジュディシカゴのディナーパーティ、女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているというもの。性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」

岡田さんによって紹介されている上記のフェミニストアートの女性画家たちも自分たちの「ポルノを彷彿とさせる表現」について問われればおそらく会田氏と同様の見解を吐露するでしょう。「けして単線的に、性的嗜好の満足、あるいは悪意の発露などを目的とすることはありません」、と。(いまはいちいち彼女たちの見解を検証するつもりはありません)

その場合、彼女たちのその発言もやはり「誤魔化しだ」とHさんは批判される用意はありますか?

その用意があるというのであれば上記のHさんの発言はHさんなりの発言として筋がとおります(私とは見解は異なりますが)。

しかし、その用意はないというのであれば、再び岡田裕子さんの問いに戻らなければならないでしょう。「では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」、という。

私のこの問いにAさんはどうお応えになられますか?

上記の私の問いへの応えのない会田氏批判は私にはナンセンスとしか言いようがないのですが。

なお、上記の会田氏の発言は今回の抗議(2013年)に対する「誤魔化し」の弁明にすぎない、というご主張であれば、それは違います。これも前々便でご紹介したように会田氏は2008年の時点で今回の弁明と同様のことを述べているからです(「会田誠インタビュー」ART iT (アートイット) 2008年10月号)。すなわち、今回の抗議に対す 「誤魔化し」の弁明ではありえません。

「会田氏は典型的な性差別主義者だ」といまなお
主張するポルノ・買春問題研究会
(APP) 関係者
の1人に対する反論

Bさん

私はこのメーリングリストでの議論で基本的に会田誠氏の作品評価をするつもりはありません。作品評価というものはそれが美術作品に限らず文学作品その他であっても評価が分かれるのが常だからです。そうした作品評価をここで繰り広げてもラチはあきません。

だから私は先ほどのHさん宛てのメールでも次のような問いを立てて質問しました。

フェミニストアートを描く女性アーティストの中にも「ヌード、流血、自傷、ジュディシカゴのディナーパーティの席という設定で女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているという」「ポルノを彷彿とさせる表現」をモチーフにした作品は多い。(岡田裕子氏)それらの作品を描くフェミニストアートの女性画家たちにも会田誠氏への批判と同様の批判を投げかけますか? と。

同じ質問をKさんにもしてみましょう。あなたが問題視する会田誠氏の「巨大フジ隊員VSキングギドラ」風のタッチの作品は上記で見たように女性アーティストたちによって描かれるフェミニストアートの作品にも多く見られるのです。Kさんならどうされますか? この女性アーティストたちにも会田誠氏批判と同様の抗議の刃をやはり向けられますか?

はじめに私は「基本的に会田誠氏の作品評価をするつもりはありません」と述べましたが、それでも少しのことは述べておこうと思います。

会田誠氏の作品の中には「美しい旗(戦争画RETURNS)」に代表されるこちらの画像に見るような作品も少なくなくあります。


美しい旗 
美しい旗 「戦争画RETURNS」 (1995)


空爆図 
紐育空爆之図 「戦争画RETURNS」 (1996) 

この点について森美術館館長の南條史生氏は次のように述べています。

「森美術館が、日本の重要な現代美術作家である会田誠の展覧会を構成するにあたって考慮したことは、これまで会田が制作した多様な作品を、偏ること無く、できる限り網羅的に紹介することでした。彼の作品は戦争、国家、愛、欲望、芸術などについて、しばしば常識にとらわれない独自の視点を開示しています。そして諧謔(かいぎゃく)と洞察に満ちた会田芸術の本質は、彼の作品の総合的な紹介によってのみ、理解することができると考えています。」(「会田誠展について」 2013年2月6日

上記に関連して「うぶ毛が生え胸がツンとしてくる14歳の少女には奇跡の時間がある!」という上記の「ヒロイン手帳」のインタビュー記事における会田誠氏の発言は「典型的な性差別主義者」としてのそれであるというKさんの会田氏「断罪」発言についても少し触れておきます。結論を先に言っておきますと、会田誠氏の「ヒロイン手帳」での一連の「うぶ毛が生え胸がツン」発言は自身の作品を「精神のメタファー」として解説しているもので直截に彼の「ロリコン嗜好」の志向性を語ったものではない、というのが私の解釈です。

実際に会田氏はART iT誌(2008年10月号)の「会田誠インタビュー」で自身の作品制作のモチーフについて次のように語っています。

「学生時代に着想した『犬』シリーズは、我を殺してひたすら丁寧に描く、という職人的画家のシミュレーションです。タッチはあくまでも高貴さを目指しつつ、しかしモチーフには変態性欲を選びました。そのギャップの味わいを試してみたわけです。近代日本画、あるいは古美術的なものに異質な何かをぶつけて揺さぶってみたい、これが美術家デビュー以前の最初期にあったモチベーションでした。なので、ああいった切断・嗜虐志向は僕自身の趣味というわけではないのです。ロリコン気質はちょっとありますが。このシリーズにはまだ描いていなかった図案があったので、この機会に取り組んでみたという次第です。」

上記に言う「ロリコン気質はちょっとあります」云々の発言はもちろん本音の部分はあるに違いありませんが(深層的には「ロリコン気質」であるかどうかは別として「○○気質」的なものは誰にでもあるでしょう)、冗談、あるいは諧謔(アイロニーとも換言できるでしょう)の要素の方が断然に強い発言と見るべきものでしょう(上記2つの赤字部分はK氏の質問に対応させています)。

この点についてふじいりょう氏は「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」という記事の中で会田誠氏の作風を次のように分析しています。

「なぜ会田氏の作品を展示するのかという問いに対しては、南條史生森美術館館長が明確に述べている。

「会田誠氏は、いま最も注目されている日本の現代アーティストの一人です。彼の作品の主題は、美少女、歴史、戦争、漫画、サラリーマンなど多様で魅力的ですが、そこにはユーモアを交えながらも、社会、政治、文化など私たちを取り巻く状況に対する疑念と批判が内包されています。」

つまり、エロティシズム溢れる作品もエロそのものがテーマなのではなく、社会の反映としての側面が色濃く、そこにこそ価値があるという考え方になるだろうか。個人的にも納得できるし、多くの美術ファンにも受け入れやすい会田評といえるだろう。/例えば、リストカットした少女を中心にアダルトコミックのコマのような絵をコラージュした『モニュメント・フォー・ナッシングⅢ』は、若い女子の性が社会から消費されているのが主題だと、観る者に自明なような表現になっている。これが扇情的な作品であるという批判をするひとがいたとすれば、アートを知らないな、と一顧だにされないと思う。/『PAPS』が槍玉に挙げている連作『犬』シリーズは、裸の少女の両手両足が切断され包帯を巻いて、あたかも犬のような表情を浮かべているのだが、これも自ら傷つけていく精神のメタファー(強調は引用者)に過ぎず、エロティシズムそのものを正面から描いた作品とは言いがたい。/彼の描く裸像は手段であって目的ではなく、彼女たちを通して現代社会を透けて見えるというカレイドスコープのような役割を果たしている(同上)ことこそが、多くの美術関係者や愛好者の支持が高い理由でもある。」(「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」 Blogos 2013年02月01日)
     
そういうことだろう、と私も思っています。

追記(2月10日):上記は会田氏の作品、というよりも美術作品を評価する際の一般論を述べている(あるいは紹介している)ものにすぎません。私は会田氏の作品を必ずしも評価しているわけではありません。私の会田氏作品の評価については、この連載(結果として連載になってしまいましたが)の1回目で「気分が悪く、うそ寒い悪寒のようなものがする」という会田作品に対する私の違和感を述べています(もっとも「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」(岡本太郎『今日の芸術』 1954年)という指摘もあるわけで、そういう意味では私は会田氏の作品の「芸術性」は認めてはいます)。その私の会田氏の作品評価とこの連載で会田氏批判を反批判、その批判の誤りを指摘していることとは別の次元のものであることをお断りしておきます。
前エントリで私は、会田誠展「犬」シリーズ評価をめぐって会田氏のパートナーでフェミニスト・アートの作家の岡田裕子さんのツイッター上での意見()を紹介しておきましたが、その岡田さんの論についてこの5日にあった「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の主催者の前田朗氏(東京造形大学教授)が主に読解力不足が原因の無理解きわまる反論をしています。

その前田氏の反論の内容はこちらで確認していただくことにして、ここではその前田氏の反論への私の再反論を掲載しておきたいと思います。もちろん、前田氏の無理解の論を放置しておくことの負の影響の決して少なくないことを考えてのことです(前田氏と私との「論争」はフェミニズム問題以外の主題を含めて長年にわたっているので個人的評価への反論も含みますがその点はご容赦ください)。

なお、上記の「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の報告には主催者側、参加者側の両者から次のようなものがあります。

(1)参加者側:「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」昼間たかし氏と渋井哲也氏の実況を中心としたツイート
(2)同上:「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」実況以外の反応
(3)主催者側(前田朗氏):「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」報告

追記(2月8日):なおまた、この問題については、森美術館と会田誠氏本人が2月6日付けで「会田誠展について」という公式メッセージを出しましたので追記しておきます(会田氏はご自身のメッセージを「あと少し書き足し」たそうです。近日中にアップされる予定のようです)。

さて、前田朗さんの岡田裕子氏批判に対する私の反論は次のようなものです。

(1)を見ると前田さんのご報告(3)にある「パネラーに対する誹謗中傷をしたり、反対意見の女性に駆け寄ってつかみかかったり」した人はどうやら昼間たかしというフリーライター氏のようですね。しかし、このハプニングを逆の見方をしている人がいます。

「さすがに主催者の意見に批判的な人に罵声をあげて掴みかかるとか、主催者が人を議論の対象じゃないと決めつけて退出を命令するとか、討論会と名乗る集会としてはどうなのかなぁという展開になっている『森美術館問題を考える討論集会』」

(1)を見ると「昼間たかし‏@quadrumviro:参加者から「座れ」とヤジが来たので「なにいってんだ!」と言い返すために近寄ったら、精神科の先生に取り押さえられ、前田氏に「出って行って下さい!」といわれ
とあるので(私はこの昼間氏のツイッター発言を必ずしも真だと思っているわけではありませんが)、この逆の見方をしている人は昼間氏が「精神科の先生に取り押さえられ」たところを見て上記のような視野狭窄の感想を述べているのかもしれません。いずれにしても公正な「実況」とはいえませんね(主観が勝ちすぎている)。

次に前田さんの論点に対する感想をいくつか。

> セクシュアリティがからむと頓珍漢な意見を述べて顰蹙を買ってきた東本さんらしい文章です。

「頓珍漢な意見」とか「顰蹙を買ってきた」などというのは前田さん個人のご意見、すなわち主観でしかありませんね。実際に私は前田さん以外からこの問題について「顰蹙を買っ」た覚えはありません。こうしたあなたの主観にすぎないことをさも「客観」のように言うところこそまさに「前田さんらしい文章」というべきところでしょう。

> 第1に、私たちは森美術館を批判しているのであって、NY事情など関係ありません。NYで問題があると思う人はそこで発言すればいいだけのことです。

私が会田誠氏のお連れ合いの岡田裕子さんの意見を紹介しているのはジェンダー関係のメーリングリスト上でのことです。
同メーリングリスト上ではさまざまな会田誠氏批判がありましたので(「森美術館批判」というよりも)、その批判に対するひとつのアンチテーゼとして「こういう意見もありますよ」という程度に岡田裕子さんの意見を紹介しているわけです。「森美術館批判」オンリーのアンチテーゼとして岡田さんの意見を紹介しているわけではありません。また、岡田さんの意見は、フェミニストアートの世界的基準をひとつの例証として日本のフェミニズム運動の限界性を指摘しているもので、岡田さんの意見を単なる「NY事情」の紹介などと矮小化するのは岡田さんの指摘の正しい読み方とはいえないでしょう。

> 第3に、女がやっても批判がなくて、男がやると批判があるのはおかしいという、根本的な無理解を露呈した文章を好意的に取り上げています。(略)セクシュアル・ハラスメントや性差別は、男が女に対して行うから問題なのではありません。権力関係を利用して行うことが基本です。

ここでも前田さんは岡田さんの指摘を矮小化しています。セクシュアル・ハラスメントや性差別の問題は根本的には「権力関係」の問題である、ということはフェミニストにとって常識の部類に属する「知」の問題といってよいでしょう(たとえば村上英吾著「研究者養成課程における権力性と性差別」参照)。グローバリズムフェミニズム展に呼ばれる作家でフェミニストの岡田さんがそうした「常識的知」すら知らないと考える方がむしろ非常識的です。

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グローバリズムフェミニズム展の会場となった
ブルックリン美術館・ミュージアム(NY市)


岡田さんがつぶやいた今回のツイッターでの論はツイッター上の論という制約から「権力関係」の問題まで論を拡張していないだけだ、というように理解するのがふつうの理解というものでしょう(ただし、岡田さんはこの点についてはなにも言及していませんので左記はあくまでも私の推測です)。また、セクシュアル・ハラスメントや性差別の問題は権力関係の問題であるという認識からは「男」や「女」という性的附従性は本質的な問題ではありえませんから「権力関係」の問題として「女がやっても批判がなくて、男がやると批判があるのはおかしい」という批判にも当然なっていくでしょう。それを「根本的な無理解」などという前田さんの論理の方が逆に「おかしい」のです。

> 第4に、そもそもフェミニズムを持ち出していることがお笑いです。(略)一部の人々は会田作品擁護のつもりで、フェミニズム叩きをして、論点すり替えに励んでいます。

私は「フェミニズム叩き」にはもちろん賛成しませんが、宮本節子さん(ソーシャルワーカー)の「会田誠展」批判がジェンダー関係メーリングリストを通じて短期間の間に急速に拡まり、今回のような抗議活動が展開される最大の契機になったのは事実です。私はそのジェンダー関係メーリングリストの参加者のひとりですからそのことは事実をもって立証できます。そして、そのジェンダー関係者の「会田誠展」批判がPAPS(ポルノ被害と性暴力を考える会)の抗議を含めて往々にして的外れな論であることが多い、というのは私がここ数回の弊記事で「引用」という形で間接的に立証していることでもあります。前田さんはその事実を見ておられないようです。

> 第5に、「単純な否定では無く、議論すべき作品である」などというのも、卑劣なごまかしです。森美術館に抗議した「考える会」や宮本節子さんたちは、「単純な否定」などしていません。きちんと議論しましょうと言って、自分たちの論拠を明快に提示しています。それを無視して、「単純な否定」などと虚偽のレッテルを張って非難するのは悪質なデマゴギーにすぎません。

宮本節子さんたちが「単純な否定」などせずに「きちんと議論しましょう」と言っていることは私も承知しています。しかし、私から見ればPAPSの主張には「単純な否定」の主張もあることは否めないことのように思います。たとえばPAPSの下記の主張などは「単純な否定」以前の問題、すなわち誤りというべきものです。

「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」

こちら
のサイトが「フランスで、犬シリーズが収録された書籍が発行されて」いる事実をあげて、上記のPAPSの主張の誤りを端的に指摘しています。

岡田裕子さんの「それが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」という主張は「悪質なデマゴギー」ではありません。「虚偽のレッテルを張って非難」云々の批判も当然当たりません。逆に両方の非難のどちらとも実のところはあなたに帰すべき問題といった方が適切です。
前田さん

森美術館問題を考える討論集会」はいよいよ本日の開催ですね。実りある議論の応酬を期待しています。

はじめにこの問題の当事者の会田誠さんがツイッターで前田さんにエール?を送っていますので、そのエールをまずご紹介しておきます(すでにご存じかもしれませんが)。

「前田朗さんは僕の展覧会見てくれてないんだろうなあ。なんならタダ券あげるけど。一緒に会場回るのも吝かじゃないよ。18禁部屋、あんなモンほんの一部だから、サラリとでいいよ。戦争画リターンズとか、現代社会扱った作品のところでじっくり話し合おうか。もしかしたら意気投合…ないだろうけど。」

また、以下は、先ほどジェンダー関係のメーリングリストに発信した私の意見です(作家の彦坂諦さんへの反論的返信として書いたものです。)。ご参考までに本日の集会の問題提起者のおひとりとしての前田さん宛としても掲げておきます。
*この件について彦坂諦さんから返信がありました。追記をご参照ください。また、前田朗さんからも「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」の報告があります。追記3として掲げておきます。

彦坂さん

前便のあなたのメールの主旨が何度も読んでみましたが私にはよく掴みきれませんので質問させていただきます。

あなたは前便メールでポール・ニザンの「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という言葉を引用した上で次のように書いています。

「だれを「不快にさせる」のか?/きのうそうであったようなおだやかでなにごともおこらない生活が/きょうもあすもつづいていくのだとつゆうたがわず、/その安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびとを、でした」、と。

この「安穏にくびまでどっぷりつかっている/そういうひとびと」とは「『会田某展』という言い方はいかがなものでしょう?」という問題提起をされたⅠ氏ほかの人たちのことを指してそう言っているのでしょうか?(Ⅰ氏のメールへの返信としての「だれを『不快にさせる』のか?」発言ですからそのように受けとめるほかないのですが)

だとすれば、彦坂さんのご認識には私は同意できません。

会田誠」という氏名がはっきりわかっている人のことをあえて「会田某」と言う。そこに会田氏に対する批判の意思が働いていることは明らかです。もちろん批判は自由です。しかし、その批判は、一般に理路のあるものでなければ他者(ひと)の共感は得られません。それをあえて理路とは関係なく「会田某」と不定称形で言う。その言い方には「批判」以前の問題として会田氏をはじめから「貶めよう」とする意志が働いています。

そういう「批判」のありようは「マズイ」のではないか、というのがⅠ氏の問題提起でした。そうした問題提起者を指して、仮に「安穏にくびまでどっぷりつかっている」人の例示としてあげているのならば、そうした評価は正しい評価とはいえないだろう、と私は思います。

なお、ポール・ニザンはサルトルなどの評論を通じて私も名前だけは知っている作家ですが、彼の著作を直接読んだことはありません。「文学とは読者を『不快にする』ものだ」という彼の評言はなんという著作の中での評言でしょうか? ご教示いただければ幸いです。

なお、さらに、私は昨日、会田誠氏の「犬」シリーズ問題の二便として「『犬』シリーズの評価をめぐって(2) 報道と参考記事(重要な指摘)」という記事を書きました。

その中で、私は、フランスでの事例をあげて「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張の誤りを実証的に指摘しているサイトの論を紹介しています。これもご参照いただければ幸いです。

なおまた、同記事の中で、会田誠氏のお連れ合いの岡田裕子さんのこの問題についての意見も紹介しています(岡田裕子さんの意見がある、という事実だけはすでに紹介ずみですが)。

その岡田裕子さんの意見は次のようなものでした。

「はい、わたしはこんな展覧会に呼ばれる作家です。ちなみにブルックリンミュージアムのグローバリズムフェミニズム展は、それはそれで過激な表現が多く見られ、ヌード、流血、自傷等。目玉はジュディシカゴのディナーパーティ、女性器を模した皿が巨大な三角のテーブルに並べられているというもの。性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう。そのためには実際に作者の展覧会を観る事、画集、著書等熟読したのち議論の場に立つべきで、そうでないと水掛け論で終わってしまい、断絶が深くなる一方かと思われます。そもそも議論のきっかけと成り得るのが美術作品の存在意義のひとつであるでしょうし。以上、会田誠妻つぶやきでした。『妻』と言われると痒いんですが…。美術を志すパートナーだと思ってます。今後も表現の上では、劇団★死期など協力体制を取るものもありますが、個人としては全く主題が対立したものも制作する事もあるでしょうし、お互いにそういう理解のもとで付き合ってます。」(

上記の岡田さんのご意見のうち「性的な表現はむしろフェミニストアートに多いのです。しかしフェミニストアートはポルノを彷彿とさせる表現であっても作者が女性であること、主題の内容などの関係でフェミニスト団体からのクレームはあまり無いように思います。では作者が男性であっても主題によってはそれが単なるポルノか否か、単純な否定では無く論議すべき作品であるべきでしょう」という指摘は、いまある多くのフェニミズム団体、あるいは個人(フェミニスト)の思想の欠陥の本質を衝いたとりわけ重要な指摘であるだろう、と私は思っています(実は私も岡田さんのご意見とほぼ同様の思いを長い間抱き続けています)。

追記:彦坂諦さんからの返信。

東本さん、
 
なるほど、そういう受けとりかたもあったのですか。
わたしとしては寝耳に水でしたが、そう言われてみれば、
だれのどのメールに返信というかたちをとるかについても
じゅうぶん慎重にしなければいけないのだと
思いしらされました。軽率でしたね、わたしは。

Ⅰさんそのほかの、あなたがあげておられるかたがたに
向けた発言であると受けとられるかもしれないなどとは
これっぽっちも予想してなかった。
もちろん、わたしの意図はそんなところにはありません、。
したがって、そう「受けとるほかない」ということを前提にした
あなたの批判には関心がありません。

ひとつだけ、
先便では「美術批評をする気はありません」と書いたけれど、
美術批評にかぎらずどのような芸術論もするつもりは毛頭ありません。
うんざりしているのです。

ニザンのやったことは、当時の「術語」で言えば「プチ・ブルジョワジー」に属するひとびとを不快にさせることでした。
わたしが「その安穏にくびまでどっぷりつかっている」と言って暗示しようとしたのは、

白井愛が後半生のすべてをかけて、むなしく刃をつきつけたひとたちです。
このわたしやあなたのことです。

わたしはニザンを「引用」などしていません。
ニザンという作家がその生涯と作品をとおしてやろうとしたことを
わたしのことばでのべたまでです。

典拠をあげるつもりはありませんが、それでも気になるとおっしゃるのなら、日本語で読める文献としては、ジャクリーヌ・ライナー他『今日のポール・ニザン――ポール。ニザン著作集・別巻2』(浦野衣子訳、晶文社1975)の冒頭にあるイヴ・ビュアン「ニザンあるいは不快感」でも御参照あれ。

イヴ・ビュアンのこのエセーには、エピグラフとしてサルトルのことばが
引用されています。この二人の対話のなかで発せられて(いる)ことばです。
「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(『クラルテ』1964年3-4月号)
(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)

ここで発せられたのとおなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちい(ら)れているという気がした(だれがどのようにといった詮索はいたしません)ので、ついつい筆がすべっただけ。

彦坂 諦

追記2:東本(ブログ筆者)の再返信

彦坂さん

特定の人を対象にした返信なのか? それとも「文学とは読者を『不快にする』もの」ということについての彦坂さん流のポール・ニザンの解釈を一般論として述べたものなのか? 彦坂さんの発言の意図は奈辺にあるのか? 私としては量りかねたので「質問」の形をとらせていただきました。が、彦坂さんの発言の意図は私の解釈とは別のところにあった、ということがよくわかりました。私の解釈は誤りであったことをお詫びして取り下げます。失礼の段はご容赦ください。

しかし、ある議論の過程の発言はそこでの議論の文脈と無関係にあるのではない、ということは、彦坂さんにもご留意していただきたいことです。私のような誤解も生じかねませんので。

「不快感をとり去ってしまえばもう芸術はなくなってしまう」(ちなみに、malaiseは「いごごちのわるさ」とも訳せます。)ということばと「おなじ発音のことばがあまりにも浅薄にもちいられている」という「イヤな気分」がくすぶっておられたのですね。そういうことをひとこと書いていただいていれば私も誤解しなかったのですが・・・

東本高志

追記3:前田朗さんからの「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」報告(2月6日)

昨日、「森美術館問題を考える討論集会――問われる表現の自由と責任」を開催しました。簡単な報告です。

私はあいにく風邪をひいていて、しかも、前日から、ネット上ではこの件で私に対する誹謗中傷が飛び交っていましたし、「潰せ」などという書き込みもあったので、やや神経質になりながら開会しました。

途中、会田誠擁護派の男性1名が、パネラーに対する誹謗中傷をしたり、反対意見の女性に駆け寄ってつかみかかったり(他の参加者2名が割って入って事なきを得ました)、罵声を浴びせながらカメラを向けるなど、暴力的な行為があり、騒然とする一幕がありました。主催者の指示を無視し、叫んだり、恫喝をしたりという、妨害行為です。会田誠派はこういう人たちだと言いたくもなりますが、この人物個人の問題です。会田誠氏本人とはまったく無関係の人です。

しかし、他の参加者はとても冷静に対応してくれて、最後まで有意義な会を持つことができました。

前半は、個人として森美術館に抗議した宮本節子さん(ソシャルーワカー)、ポルノ被害と性暴力を考える会の森田成也さんから、それぞれ抗議に至った経過や、ポルノによる性差別と暴力性、ポルノを公共の空間である美術館に展示することの問題性についてお話しいただきました。

続いて、私が「芸術とスキャンダル」について、芸術が結果としてスキャンダルになった時代から、スキャンダルを引き起こしてそれに「芸術」というレッテルを張る時代への変化に触れ、芸術だから何をやってもいいという「芸術特権論」、芸術至上主義のもとで自己目的と化したスキャンダル・アート、勘違いお騒がせアートの話をしたうえで、森美術館問題については博物館法の基本に立ち返ることを述べました。

後半、会場発言では、11人の発言がありました。3人のパネラーに対する疑問や批判的立場からの発言を優先したところ、4人の発言がありました。公共空間を具体的に定義できるのか(電車の中、美術館、一般の出版物など)。スウェーデンでは漫画は児童ポルノに当たらないという判決が出ている。暴力被害と言うが、喜んでいる女性もいるではないか。絵画の場合と言葉による表現など、表現形態によってどこがどう違ってくるのか、などなど。

その後、展示を見た人たちが「犬」シリーズへの批判的感想を述べました。女性差別問題に取り組んでこられた方たちの発言は、宮本さんの報告を補足するとても良い発言になりました。

他方、「15歳の時に初めて見て会田作品のファンになった。東京に出てきて森美術館の展示を見られてとても嬉しかった。この会で、まったく違う見方をする人がいることがわかって、良かった」という発言がありました。暴力の後で騒然とした時に、若い女性がこの発言をしてくれたのはとても良かったです。

終了後、何人もの方から、「こういう時期によく開催してくれた」「とてもいい集会だった」との言葉をかけていただきました。

今回は、1月31日に準備を始めてわずか6日でしたので、討論としては不十分ではありましたが、やってよかったとホッとしています。

感情的対立からヒートアップしがちなテーマで、あえて火中の栗を拾って抗議の声を上げ、パネラーとして発言していただいた宮本さん、森田さんのおかげです。感謝します。

今回不十分だったのは、美術館とは、という討論を詰めることができなかったことです。学芸員や美術評論家のご意見がほしいのですが、準備期間が短すぎました。次回、なんとか第2弾をやりたいと考えています。
前エントリ記事「『犬』シリーズの評価をめぐって」の追記にはこの問題を考えるにあたっての重要な指摘がいくつもあります。そういうしだいで追記の位置では読みすごされやすいので注意を喚起するためにもあらたなエントリを起こすことにしました(追記は項目別に並べ直しました)。

【「『犬』シリーズの評価をめぐって」の主題と要点】

追記1:前エントリ記事での私の意見の主意は、「権威」(この場合は最高裁)から「お前の『作品』は法律違反だ」と断罪された永井荷風はまたあの治安維持法体制下の中でも「時局におもねることのない『断腸亭日乗』を遺した稀有の作家でもあった、というところにあります(一個の例)。会田誠氏の作品の「犬」シリーズが「わいせつ」か否かを主題にしているわけではありません。主題はあくまでも「権威」です。

・「公共空間」(森美術館)という「権威」を問題にする人が逆に暗黙の前提として「時代の道徳観」(世論)という「権威」に依拠してモノを言っていないか(本人はそのことに気づかず「正義」と思いこんでいる)。

・そうした「権威」によって会田誠氏の犬シリーズをただちに「作画によるあからさまな児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」 に結びつけることは正しいことか?

・「エロ・グロの境界」を描いたからといって作者の思想もそのままエロ・グロということにはならないだろう。

・「エロ・グロの境界」を描くことによって逆にエロ・グロの問題性がかえって浮かび上がってくるということもあるだろう(作者の意図のありなしにかかわらず)。

要は「犬」批判は短絡的ではないか、という問いが主題でもあります。

【報道】

追記2:主に映画情報を掲載しているシネマトゥデイ紙(2013年1月29日)によると、会田誠氏の問題の作品群を含む展覧会を開催している森美術館は、ポルノ被害と性暴力を考える会などの「児童ポルノ・障害者差別を容認している」という抗議を受けて現在その対応を協議しているとのことです。そのなりゆきを注視したいと思います。「会田誠の展覧会に抗議文!児童ポルノ・障害者差別を容認しているとの指摘」(シネマトゥデイ 2013年1月29日)

追記3:J-CASTニュースも1月29日付けで「会田誠展 天才でごめんなさい」への抗議問題を報じています。また、その記事の中で当事者の会田誠氏のツイートも紹介されています。「『首輪の全裸少女』作品に市民団体が抗議 会田誠展は本当に『性差別』なのか」(J-CASTニュース 2013年1月29日)

【会田誠氏の発言】

追記4:会田誠氏のツイートを見てみましたが、なかなか面白い。当然、ここ数日間の「抗議問題」についても触れられています。「(フェミニズムに)片足突っ込んで」いるフェミニストのお連れ合いの岡田裕子さんもご意見を開陳されています()。会田氏によれば、会田さんのお母さんも「頑迷なる初期フェミニスト」だったとか・・・

追記5:会田誠氏自身の「犬」シリーズについての見解。「学生時代に着想した『犬』シリーズは、我を殺してひたすら丁寧に描く、という職人的画家のシミュレーションです。タッチはあくまでも高貴さを目指しつつ、しかしモチーフには変態性欲を選びました。そのギャップの味わいを試してみたわけです。近代日本画、あるいは古美術的なものに異質な何かをぶつけて揺さぶってみたい、これが美術家デビュー以前の最初期にあったモチベーションでした。なので、ああいった切断・嗜虐志向は僕自身の趣味というわけではないのです。ロリコン気質はちょっとありますが。このシリーズにはまだ描いていなかった図案があったので、この機会に取り組んでみたという次第です。」(会田誠インタビュー ART iT (アートイット)  2008年10月号)

【会田作品及び「犬」シリーズの評価】

追記6:会田氏の画風と思想の関係(本文中の「美を考えないで美を生む『会田 誠』」 影山幸一も参照)についての理解には会田氏を評価するサイドの人の記事ですが次の記事も参考になります。「『会田誠 トリックスター』『会田誠 昭和40年生まれ』『会田誠 境界線』『会田誠 津田大介 対談』」(イソザキコム Archive for 11月, 2011

では会田誠は?
アートと何の境界なのだろう。
エロ?テロ?オタク?
そんな疑問には意味はない。
なぜならアートに境界がそもそもないのだから。
        (「会田誠 津田大介 対談より)

追記7:以下の論も有用な論だと思います。ただし、「『PAPS』なる団体から、性暴力展示に対する抗議文が送付されたことで、様相が変わった(参照)。会田作品では1990年頃から既に暴力に晒される少女が登場していたし今更感が拭えない」という部分は私もそう思いますが、「(『PAPS』は)団体の名前を売りたいために有名な芸術家をターゲットにしたのでは、という疑いも感じる」という部分は筆者の思い込みにすぎない誤解でしょう(弊ブログ筆者は『PAPS』に近い人たちに(メーリングリスト上での)知り合いが多いのでほぼそう断言できます)。また、同記事中の下段にある「意見」欄もいちいち例示はしませんが参考になる意見も少なくなく見受けられるように思います。「『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと」(Blogos 2013年02月01日)

追記8:平野啓一郎‏さん(芥川賞作家)の「犬」シリーズ評価。会田誠さんの『犬』シリーズは、彼の勝手な妄想ではない。古くは高祖の妻呂后が、高祖の死後、寵愛を受けていた戚夫人の「両手足を斬りおとした。その美しい目をとり去った。耳をつんぼにさせ、薬で口をきけなくした。それを厠に置いて『人ブタ』と名をつけた。」(『司馬遷』武田泰淳)とある。」(続く)「僕はむしろ、このサイトに書かれているような都市伝説に基づく作品だと理解していた。そうしたデマに顕在化した欲望が主題となっている。そんなことはみんな分かりきって見ていると思ってたけど、意外とそうじゃなかったというのを今回知った。」(承前

【「犬」シリーズは「児童ポルノ」取締法に抵触するか(諸外国の事例)】

追記9:「犬」シリーズは主要先進国においては違法な児童ポルノとして処罰の対象となるか、についての一考察(すちゃもく雑記 2013-01-28)。その中に「フランスでは犬シリーズが収録された書籍が発行されている」という指摘もあります。「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張への実証的反証の提示といえるでしょう。

【パロディとしての「会田誠展」抗議文】

追記10:パロディとしての「会田誠展」抗議文も出ました。批判しようと思えば背広というサラリーマンの象徴としてのイコンを用いて批判することもできる。すなわち、ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の抗議は的外れそのもの、というアイロニー。題して「もし森美術館への抗議文をサラリーマンも書いてみたら」。

森美術館館長
南條史生殿

謹啓

私たちは貴館において現在開催されている「会田誠展 天才でごめんなさい」に関して、以下の抗議文を提出するとともに、今回の展覧会に関して下記の要求を申し入れします。

森美術館への抗議文 貴美術館が現在公開している会田誠展において展示されている「灰色の山」シリーズなどの一連の作品に対して、またそれらを公開している森美術館に対して、私たちは以下の強い抗議の意志を表明します。

この「灰色」シリーズで描かれているサラリーマンたちはスーツ姿で遺棄され(しかも六本木ヒルズ商業棟で売られているような高級ブランド品ではなくロードサイド量販店で1着1万円均一で売られているような仕様)、かつて社員旅行で訪れた温泉宿ではじけていたバラ色の人生La Vie En Roseではなくドブネズミのように描かれており、作品名もず
ばり「灰色の山」となっています。さらに、これらの作品の中でサラリーマンは表情が伺えず、このような逆境でさえ社命とあらば受け入れあるいは冷え切った家庭より居心地が良いと思っている、せめてカラオケではブルーハーツで「ドブネズミみたいに美しくなりたい」とがなりたてるサラリーマンの心意気は全く無視されています。

これらはまず第一に、作画によるあからさまなサラリーマン差別であり、サラリーマンに対する職業的虐待、商業的性搾取です。日本においては現在、服装による差別は違法とされていませんが、英国の映画「さらば青春の光」においてはモッズ姿の少年が描かれており、まだ髪がハゲてなかったスティングがセクシーだったこともあってスーツ姿が即ダサイと扱われておりません。日本でもやがてピタTシャツによる経営者が再登場するでしょう。このようなものを貴美術館は堂々と公開しており、これはサラリーマンに対する職業的搾取に積極的に関与するものです。

これらは第二に、サラリーマン=負け組男性を安売りスーツに5足千円の靴下を穿かせQBハウスの10分カットで裁断処理し、サラリーマンを最も露骨かつ暴力的な形で会社に従属させ、オフィス機器以下の社畜として扱うものです。これは、描写を通じた暴力の一形態であるとともに、すべてのサラリーマンの尊厳を著しく傷つける下劣な差別行為です。作者あるいは貴美術館はこのような表現を通じて社会の常識や権威に挑戦しているつもりかもしれませんが、実際にはそれは、小遣い月額3万円以下サラリーマン一般を金銭的に従属的な存在として扱っている社会の支配的価値観に全面的に迎合し、それをいっそう推進するものに他なりません。それは反権力どころか、権力の露骨な行使そのものです。

第三に、これらの作品は、量販店のスーツ装着のサラリーマンに対する差別と侮蔑の行為です。デフレが原因であれ能力主義の結果であれリストラにより収入ないしその一部を失っている人々を愛着ある窓際の事務椅子と一緒くたにして遺棄物扱いすることが許されるでしょうか? これのどこが反権威や反権力なのでしょうか? あなた方は、これらの
作品を当事者が目にすることで、どれほどの深い衝撃と精神的ダメージを受けるかを想像したことがあるのでしょうか?

第四に、このような二重三重に差別的で暴力的である諸作品を、森美術館のような、金満なヒルズ族が女連れで闊歩してそうなリア充施設が堂々と公開し、宣伝し、多数の入場者に公開していることは、このような差別と暴力を社会的に公認し、それを積極的に正当化することであり、社会におけるサラリーマンの小遣い搾取、サラリーマンに対する暴力と差別、窓際族に対する侮蔑と差別を積極的に推進することです。たとえば、アメリカやヨーロッパ、かつて「エコノミック・アニマル」として白人の心胆寒からしめたサラリーマンが、女装したりヴィレッジ・ピープルのような格好もせずに「作品」であることなどありうるでしょうか? あなた方がやっているのはそういうことです。

第五に、作品の中には、不要サラリーマン遺棄をあからさまに描写しているものもあり、これは自治体の廃棄物・リサイクル条例違反にあたる可能性があります。これらの作品はなんだか若者のアベック(※定年間近のサラリーマンはこの用語使用が義務づけられています)が多そうな展望台とセットで入館料1,500円を払わなければ入場できませんが、広く公開されていることに何ら変わりはありません。また中学生以下なら入館料500円を払えばリストラされたサラリーマンの子どもでも鑑賞することのできる状態で展示されており、これは青少年健全育成条例違反にあたる可能性があります。また、「灰色の山」シリーズを含む諸作品は、森美術館の正式のホームページに掲載されており、それは何らゾーニングされておらず、子どもでも簡単にアクセスできるものです。

私たちは、以上の観点から、森美術館による今回の展示に強く抗議するとともに、サラリーマンの尊厳を著しく傷つける諸作品の撤去を申し入れます。また、私たちは、森美術館の高級ブランド推進的立場、その差別性と格差肯定的姿勢、サラリーマンに対する差別推進の姿勢について、今後も広く世間に問題提起していく所存し、下記を要求するものです。

一.「灰色の山」展示に当たっては、「サラリーマンをみだりにいじめたり棄てたりすることは法律で禁止されています」という但し書きを付すること

一.日本政府はハローワーク等の諸機関を通じてサラリーマンのリサイクルに努めており、あくまで一時的な保管場所であることを明記すること。

一.サラリーマン1,000体に1の割合でウォーリーを描き入れること。ただし、同率によりサラリーマン金太郎を描き入れた場合はこの限りではない。


一.サラリーマン10,000体に1の割合で島耕作を描き入れ、「時代によってはうまいことヤレ、かつ逃げ切りができたこと」を明示すること。

一.天気のいい日に布団を干すこと(ただし、紐育爆撃に充てた場合は布団乾燥機による代替を可とする)

           2013年1月30日

サラリーマンの明日と明後日の晩酌を考える会世話人

美術家・会田誠の個展「会田誠展 天才でごめんなさい」が昨年の11月から東京・六本木の六本木ヒルズ森タワーの森美術館で開かれています。会期は月数で5か月間。今年の3月31日まで。その会田氏の個展に展示されている「犬」シリーズという作品をめぐって、「四肢切断の裸体の美少女が犬の首輪に繋がれている姿をモチーフにした図柄はとても“芸術作品”と呼べるものではなく、女性、ひいては人間の尊厳と品位を凌辱する美少女ポルノというほかない」という批判がジェンダー研究者や女性団体などの間で高まっています。

 
次のような批判がそうした批判を代表するでしょう。

「この「犬」シリーズで描かれている少女たちは、全裸で四肢を切断され(略)、その切断部分に包帯が巻かれた状態で、首輪をつけられ、四つんばいなどの姿勢をとらされ、作品名もずばり「犬」となっています。さらに、これらの作品の中で少女は微笑んでおり、このような性的拷問を楽しんでいるように、あたかもそれが自分にふさわしい扱いであるかのように描かれています。(略)これらはまず第一に、作画によるあからさまな児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取です。(略)これらは第二に、少女=女性を全裸にしたうえで四肢を切断し首輪をつけて犬扱いしており、女性を最も露骨かつ暴力的な形で性的に従属させ、人間以下の性的玩弄物、性的動物として扱うものです。これは、描写を通じた性暴力の一形態であるとともに、すべての女性の尊厳を著しく傷つける下劣な性差別行為です。」(「森美術館への抗議文」 ポルノ被害と性暴力を考える会 2013年1月25日)

「『犬』と題された6連の作品では、裸体の美少女が四肢を切断され、その断端には薄く血がにじむ包帯が巻かれ、その少女が犬の首輪に繋がれてさまざま姿態を取ってほほえんでいる。四肢切断されたことに意味や必然性がない。戦争であるとかレイプ・凌辱であるとかの社会問題を背景にしているとは思えない。そしてその少女が嬉しそうにしている。痛みへの感受性がない。これは性的な視線で作られ、そこに性差別を顧みようとする姿勢が感じられない。首輪をつけられ監禁されていることを喜ぶ(従順)というのは、自由の剥奪であり加害者の勝手なスタンスである。支配、暴力、服従、凌辱の肯定に過ぎない。若い、美少女であり裸であるということが、性的欲望の対象としてのみ利用されている。」(「森美術館の会田誠氏の作品展示はひどい」 ソウル・ヨガ(イダヒロユキ) 2013年01月27日) 
 
さて、このように批判される会田誠という美術家はどういう人でしょうか。たとえばウィキペディアにおける会田誠氏についての記述は次のようなものです。

「会田 誠(あいだ まこと、1965年10月4日 - )は、日本の現代美術家である。武蔵野美術大学非常勤講師。社会通念に対するアンチテーゼを含む、アイディア豊富な作品に富む。作風は一定しないが、センセーショナルなテーマを含む作品が多い。美少女、戦争、暴力、エログロ、ロリコン、酒、社会通念への反発などのテーマを取り扱っていることが多い。ただし、近年は、センセーショナルな作風を好まなくなってきたと語っている。奈良美智や草間弥生らとともに『新ジャポニズム』の代表的な作家として、国際的な評価を固めつつある。」(ウィキペディア『会田誠』)
 
彼の美術界界隈での「権威」のさまについては次のような証言もあります。

「会田氏がアート業界で権威であるという情報を教えてもらっていますが、その一端が、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞などが彼を高く評価してきたこと、NHKの「日曜美術館」で肯定的に取り上げられていること、『美術手帳』で特集が組まれていること、彼が、自ら「天才」と表明することが許されている存在で村上隆に次ぐ位置にいるらしいこと、美術評論家や新聞社の文化記者は会田氏を批判するようなことが怖くてできないこと、作品がよく売れる作家だということ、現代美術シーンにおいて会田氏は『社会派』とされて評価されていることなどです。」(「森美術館・会田作品について つづき」 ソウル・ヨガ(イダヒロユキ) 2013年01月28日)
 
イダヒロユキさんの会田氏評価は上記の評価とは逆向き方向ですが、それでも会田氏が美術界界隈では相当な「権威」であることは逆説的にわかります。
 
会田氏の画風と思想の関係については次のような記事が参考になるかもしれません。会田氏から聞いた話を交えてア-トプランナーの影山幸一さんは次のように書いています(追記6(2月2日)も参照)。
 
「一浪して再度藝大だけを受けて無事入学。(略)大学院を経た後、泊まり込みの警備員やお酒のある店のウエイター、カウンターなどで働いていた。ここ3年くらいは美術家として自立を果たしているが、食うことはアート以外でやるものだと今も考えている。また、美とは何かの問いについては、「考えませんね。美しい絵を描こうとすると失敗することが多い。失敗とはコンクールで点が低いとか、講評会で馬鹿にされることです。崇高な話ではありませんが、競争社会の予備校では絵は成功しなければいけない。美を意識して制作すると弱々しくなることが多く、美以外のことを考えたときの方が結果的に他人が美しいと言ってくれる。だから美を考えない方がよかろうというふうに至りました」。美を考えないで美を生む。エロ・グロぎりぎりのモティーフでありながら美しい印象を残す会田の境地である」(「美を考えないで美を生む『会田 誠』」 影山幸一 2005年12月)。

この影山氏の記事を私は必ずしもヨイショ記事だとは思いません。なぜ会田氏はそれほどに「権威」と「人気」があるのでしょう? 今度は一般の人たちの会田氏評価を見てみます。
 
「会田誠の作品を初めて観たのはたぶん、NADiffで。/たまたま寄ったら、展覧会をしてたの。美味ちゃんの。/美味ちゃんは、食用人造少女。痛覚がなくて食べられるのが好き。/様々な調理法が描かれた絵や人形。/天ぷらとかさしみとか丼とか。煮たり焼いたりありとあらゆる。/これはアートなの?危なすぎる。衝撃。/次は2001年の横浜トリエンナーレ。(略)/天井からぶらさがる自殺未遂マシーン。/奥の壁に、裸の少女がつまった巨大なミキサーの絵。/下にいくほど肌色と血の色が混ざってどろどろ。/こんなの、とても好きにはなれない。。。/エロでグロで猟奇的で。気分悪くなりそうだ。/(略)それが突然、肯定できた。きっかけはたぶん、パルコミュージアム、girl's don't cry展(2003)。/会田誠の出品は、「犬」。雪月花の3枚の連作。/ひじと膝から先を生々しく切り取られ、包帯を巻き、/裸に首輪をしてる犬のような美少女の絵。/本当に気持ちが悪い、気色悪いのに、/雪や月光、桜の中の彼女の美しさにはっとして/見とれてしまった。表情や、温かみある肌の質感。/あれ?この作品好きかもしれない。/てゆか、今まで観たのも面白かったかも。/「きもちわる!」って拒否してきたけど、ちょっと待って。/コンセプトとか発想とか面白いのもあったし。/「犬」をきっかけに、気になるアーティストになっちゃった。」(sternschnuppe☆ 2007.06.09)

その人によって好悪の評価相半ばする(エロとグロをモティーフにしているという評価では一致している)会田誠氏の「犬」シリーズなる作品群は次のようなものです(下記の作品群は当初森美術館の公式ブログに掲げられていましたが、いまは、上記のような批判が続いたからでしょう、同ブログから削除されていますので同批判の当否を判断するひとつの資料としても掲載しておきます)。

1.jpg
「犬(雪月花のうち“雪”)」 1998年


1877052.jpg 
「犬(雪月花のうち“月”)」 1996年

 
img5c4188e3zik3zj.jpg 
「犬(雪月花のうち“花”)」 2003年

 
vol02_pht05.jpg 
「犬(野分)」 2008年

私は上記の作品群をブログにコピペするため何度もこの画像のカット・アンド・ペーストを繰り返さなければなりませんでしたが、正直言って疲れました。そのエロとグロと猟奇性に中(あ)てられた、といった方が正鵠かもしれません。気分が悪く、うそ寒い悪寒のようなものがするのです(この展覧会を見るのには体力がいる、とだれかが評していましたが、そういうことを言っているのでしょう)。しかし、それでも、その彼のアートの背後にあるこの人特有の色彩の美しさと描線の細やかさはほんものだと思わずにはいられませんでした。私は会田誠という画家の奇才を認めます。しかし、これは、「権威」に屈するということではありません。また、徒に「支配、暴力、服従、凌辱」の現状を肯定するということでもありません。

私はいま有名な「四畳半襖の下張」裁判のことを思い出しています。同裁判では最高裁は「文書のわいせつ性」について「その時代の社会通念に照らして、それが徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものといえるか否かを決すべきである」という判断を示しました。そして、その最高裁の判断によって永井荷風の作とされる戯作『四畳半襖の下張』を『面白半分』という雑誌に掲載し、販売した作家の野坂昭如と編集者の佐藤嘉尚はそれぞれ罰金10万円と15万円の刑を受けました。

しかし、最高裁から「男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めて」いると断罪された春本をものした永井荷風は、「日支今回の戦争は日本軍の張作霖暗殺及び満州侵畧に始まる。日本軍は暴支膺懲(ぼうしようちょう)と称して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用い出したり」、とあの太平洋戦争(大東亜戦争)中の治安維持法体制下の中でも時局におもねることのない『断腸亭日乗』を遺した稀有の作家でもあったのです。

最高裁ばりの断罪が人と作品の評価を不当に貶めるということもありえるということ。私たちは心しておきたいものです。また、丸谷才一五木寛之井上ひさし吉行淳之介開高健有吉佐和子らが「四畳半襖の下張」裁判において、なぜあれほどの論陣を張ったのかも考えておきたいことです(これは「表現の自由」ということだけを言っているのでもありません)。

私は多少の悪寒がしようとも野坂昭如らの立場に立ちたい、と思っています。

追記(1月30日):主に映画情報を掲載しているシネマトゥデイ紙(2013年1月29日)によると、会田誠氏の問題の作品群を含む展覧会を開催している森美術館は、ポルノ被害と性暴力を考える会などの「児童ポルノ・障害者差別を容認している」という抗議を受けて現在その対応を協議しているとのことです。そのなりゆきを注視したいと思います。

会田誠の展覧会に抗議文!児童ポルノ・障害者差別を容認しているとの指摘(シネマトゥデイ 2013年1月29日)

追記2(1月30日):上記の記事での私の意見の主意は、「権威」(この場合は最高裁)から「お前の『作品』は法律違反だ」と断罪された永井荷風はまたあの治安維持法体制下の中でも「時局におもねることのない『断腸亭日乗』を遺した稀有の作家でもあった、というところにあります(一個の例)。会田誠氏の作品の「犬」シリーズが「わいせつ」か否かを主題にしているわけではありません。主題はあくまでも「権威」です。

・「公共空間」(森美術館)という「権威」を問題にする人が逆に暗黙の前提として「時代の道徳観」(世論)という「権威」に依拠してモノを言っていないか(本人はそのことに気づかず「正義」と思いこんでいる)。

・そうした「権威」によって会田誠氏の犬シリーズをただちに「作画によるあからさまな児童ポルノであり、少女に対する性的虐待、商業的性搾取」 に結びつけることは正しいことか?

・「エロ・グロの境界」を描いたからといって作者の思想もそのままエロ・グロということにはならないだろう。

・「エロ・グロの境界」を描くことによって逆にエロ・グロの問題性がかえって浮かび上がってくるということもあるだろう(作者の意図のありなしにかかわらず)。

要は「犬」批判は短絡的ではないか、という問いが主題でもあります。

追記3(1月31日):J-CASTニュースも1月29日付けで「会田誠展 天才でごめんなさい」への抗議問題を報じています。また、その記事の中で当事者の会田誠氏のツイートも紹介されています。

「首輪の全裸少女」作品に市民団体が抗議 会田誠展は本当に「性差別」なのか(J-CASTニュース 1月29日)

追記4(1月31日):上記との関連で会田誠氏のツイートを見てみましたが、なかなか面白い。当然、ここ数日間の「抗議問題」についても触れられています。「(フェミニズムに)片足突っ込んで」いるフェミニストのお連れ合いの岡田裕子さんもご意見を開陳されています。会田氏によれば、会田さんのお母さんも「頑迷なる初期フェミニスト」だったとか・・・

追記5(2月2日):以下の論も有用な論だと思います。ただし、「『PAPS』なる団体から、性暴力展示に対する抗議文が送付されたことで、様相が変わった(参照)。会田作品では1990年頃から既に暴力に晒される少女が登場していたし今更感が拭えない」という部分は私もそう思いますが、「(『PAPS』は)団体の名前を売りたいために有名な芸術家をターゲットにしたのでは、という疑いも感じる」という部分は筆者の思い込みにすぎない誤解でしょう(弊ブログ筆者は『PAPS』に近い人たちに(メーリングリスト上での)知り合いが多いのでほぼそう断言できます)。また、同記事中の下段にある「意見」欄もいちいち例示はしませんが参考になる意見も少なくなく見受けられるように思います。

『会田誠展:天才でごめんなさい』を観て考えたこと(Blogos 2013年02月01日)

追記6(2月2日):会田氏の画風と思想の関係についての理解には会田氏を評価するサイドの人の記事ですが以下の記事も参考になります。

■「会田誠 トリックスター」「会田誠 昭和40年生まれ」「会田誠 境界線」「会田誠 津田大介 対談」(イソザキコム Archive for 11月, 2011

では会田誠は?
アートと何の境界なのだろう。
エロ?テロ?オタク?
そんな疑問には意味はない。
なぜならアートに境界がそもそもないのだから。
        (「会田誠 津田大介 対談」より)

追記7(2月3日):会田誠氏自身の「犬」シリーズについての見解。「学生時代に着想した『犬』シリーズは、我を殺してひたすら丁寧に描く、という職人的画家のシミュレーションです。タッチはあくまでも高貴さを目指しつつ、しかしモチーフには変態性欲を選びました。そのギャップの味わいを試してみたわけです。近代日本画、あるいは古美術的なものに異質な何かをぶつけて揺さぶってみたい、これが美術家デビュー以前の最初期にあったモチベーションでした。なので、ああいった切断・嗜虐志向は僕自身の趣味というわけではないのです。ロリコン気質はちょっとありますが。このシリーズにはまだ描いていなかった図案があったので、この機会に取り組んでみたという次第です。」(会田誠インタビュー ART iT (アートイット)  2008年10月号)

追記8(2月3日):「犬」シリーズは主要先進国においては違法な児童ポルノとして処罰の対象となるか、についての一考察(すちゃもく雑記 2013-01-28)。「カナダ、EU諸国、オーストラリアなどの主要先進国においてはすべて、これらは違法な児童ポルノとして処罰の対象になっています」とするポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の主張への実証的反証の提示といえるでしょう。

追記9(2月3日):平野啓一郎‏さん(芥川賞作家)の「犬」シリーズ評価。「会田誠さんの『犬』シリーズは、彼の勝手な妄想ではない。古くは高祖の妻呂后が、高祖の死後、寵愛を受けていた戚夫人の「両手足を斬りおとした。その美しい目をとり去った。耳をつんぼにさせ、薬で口をきけなくした。それを厠に置いて『人ブタ』と名をつけた。」(『司馬遷』武田泰淳)とある。続く」「承前僕はむしろ、このサイトに書かれているような都市伝説に基づく作品だと理解していた。そうしたデマに顕在化した欲望が主題となっている。そんなことはみんな分かりきって見ていると思ってたけど、意外とそうじゃなかったというのを今回知った。

追記10(2月4日):パロディとしての「会田誠展」抗議文も出ました。批判しようと思えば背広というサラリーマンの象徴としてのイコンを用いて批判することもできる。すなわち、ポルノ被害と性暴力を考える会(PAPS)の抗議は的外れそのもの、というアイロニー。題して「もし森美術館への抗議文をサラリーマンも書いてみたら」。
以下は、大山千恵子さんの「戦争の悲惨さ風化させないぞ こんなことだよ突撃一番」というブログ記事へのコメントです。

大山さん

「我が邦」(★)の敗戦記念の日に「突撃一番」の挿話を想起するとはなんとも風流で、かつ意味のあることだとも思います。

私は小学生の頃映画館通いを常にしていましたが(3本立て30円だった頃)、伴淳三郎と花菱アチャコのコンビの『二等兵物語』(あるいは『続二等兵物語』)だったかと思いますが、ヘナチョコ姿の伴淳が「突撃一番」と言って「突撃」していたのを思い出しました。もちろん、オチは「笑い」でしたが。『二等兵物語』は哀しき、面白き兵隊の物語ではありました。

★「わがほう」と読みます。森本防衛大臣をはじめとして「わがほう」の防衛省、外務省の官僚諸氏は好んでこの「わがほうの」と言い回しを用いますが、「『わがほう』は『我が邦』?それとも『我が方』?」という質問を受けると間違いなく「我が方」と答えます。報道機関も大臣発言や官僚発言を伝える際は「我が方」と表記します

しかし、この答え方と表記はともにインチキ、とまでは言わないものの(「我が方」のという言い方もありえるからです)、戦前的な「国家主義」に由来する本来的な用法を隠蔽しようとする意志を持ったレトリック話法というべきものでしょう。

昭和20年9月11日に連合国に逮捕される前に書かれたとされる東條英機の「英米諸国人ニ告グ」という有名な遺書のひとつの一文は次のような書き出しで始まります。

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である」、と。


第一次世界大戦当時の日本陸軍の軍務局長(最終階級は陸軍大将。男爵)であった奈良武次も次のような檄文を発している模様です。


我が邦往古武士の戦場に望むや生還を期せず」云々、と。


「わがほう」は「我が邦」と書くのが本来的な用法ですし、ふつうの用法なのです。防衛省、外務省官僚は漢字の書き換えによってなにを隠そうとしているのか? その「隠そう」とする意思を読み取ることは自民党政権と変わらないいまの民主党政権の悪しき方向性を読み取る上でも重要か、と。
政府が今日の19日に国際結婚が破綻した後の親権争いの解決ルールを定めたハーグ条約に加盟する方針を決定したことはご承知のとおりです。

■ハーグ条約、加盟方針を決定へ=政府(時事通信 2011年5月19日)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011051900045
■ハーグ条約に加盟方針 菅政権 19日に関係閣僚会議(朝日新聞 2011年5月19日)
http://www.asahi.com/politics/update/0518/TKY201105180620.html
■ハーグ条約:法務省が来月にも国内法整備諮問(毎日新聞 2011年5月19日)
http://mainichi.jp/select/today/news/20110519k0000m030155000c.html
■政府、ハーグ条約加盟表明へ 実態と隔たり懸念も」(神戸新聞 2011年5月17日)
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/0004073648.shtml

この政府のハーグ条約加盟方針についてあるメーリングリストにある医師から「なんか『あの人』の思いだけで決まっていってしまいそうな気がします。TPPも、浜岡原発も」と慨嘆する投稿がありましたので、次のような応答文を認めました。以下・・・。


私は「『あの人』の思いだけ」というよりも「「『あの党』の思いだけ」とした方がもっと正確な言い方というべきだろう、などと思いますし、また、本来の話題とはずいぶん逸れてしまうレスにもなってしまうかも、などと思ってもいるのですが、そういうことは兎も角ということにさせていただいて「TPP」(環太平洋パートナーシップ協定)の話題が出たついでに、ということで・・・・

佐久総合病院(地域ケア科医長)の色平哲郎さんがTPPについて毎日新聞の「これが言いたい」欄に次のような寄稿をされています。ご参考のために紹介させていただこうと思います。

■これが言いたい:TPPの問題は農業への打撃だけではない(毎日新聞 2011年5月19日)
http://mainichi.jp/select/opinion/iitai/news/20110519ddm004070004000c.html

色平さんは今年に入って新聞や雑誌での発言ばかりでなく、メーリングリスト媒体などにおいてもTPP問題の問題性について精力的に発言をされ、また情報提供をされているのですが、わが国のハーグ条約加盟の問題についても上記の神戸新聞記事(2011年5月17日付)において同条約加盟は「慎重にすべき」という神奈川県弁護士会の声明が紹介されているほか日弁連も今年の2月18日付けでハーグ条約の締結に際しては日本政府として「とるべき措置」を明確にした上で加盟すべしという慎重論としての意見書を発表しています。
http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/report/110218.html

このハーグ条約加盟の問題についても色平さんに負けない精力的な発言が望まれますね。とりわけ子どもたちと母親のために。

以下、色平さんのTPP発言です。

■これが言いたい:TPPの問題は農業への打撃だけではない(毎日新聞 2011年5月19日)
http://mainichi.jp/select/opinion/iitai/news/20110519ddm004070004000c.html

◇参加は医療基盤崩壊への道--佐久総合病院・地域ケア科医長、色平哲郎

 東日本大震災の被災者救済を迫られ、原発事故収束の見通しも立たぬ中、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への参加を促す議論が経済界などから出ている。

 日本経団連は4月19日に発表した「わが国の通商戦略に関する提言」で早期参加を訴えた。だが、TPP参加は被災地の基幹産業である農漁業への打撃だけでなく、医療基盤の崩壊を通じても国民の苦境に追い打ちをかける恐れが十分にあると警告したい。

 大震災では、地域医療態勢の疲弊が浮き彫りになった。 

 福島県南相馬市では、多くの入院患者が近隣の市町村に移送された。しかし、収容能力には限界があり、遠く離れた会津地方や新潟県などに移った人も少なくない。患者と家族が離ればなれになったケースもある。病院が機能を弱める中、それを補完する在宅ケアの態勢構築も課題だ。

 国民の命を支える皆保険制度は元々、医療費膨張による財政悪化と医療への市場原理導入という二つの危機に直面していた。

 TPP参加は「最後の一撃」になりうる。米国が日本に医療市場開放を迫っているからだ。米国政府が日本に突きつけた08年の年次改革要望書には「医療制度改革で米国業界の意見を十分に考慮せよ」「米国製薬業界の代表を中央社会保険医療協議会(中医協)薬価専門部会の委員に選任せよ」など露骨な要求が多く盛り込まれている。

 最大の狙いは、医療側が勝手に値段をつける「自由診療」と公定価格(診療報酬)に基づく「保険診療」を組み合わせた「混合診療」の全面解禁だろう。混合診療は日本でも一部の先進医療に限って認められており、現行制度をうまく運用すれば患者の多様なニーズに対応できる。

 しかし、混合診療が全面解禁されれば、効果が不確かな保険適用外の薬や治療法を多用し利幅を広げる動機付けが医療側に生じる。裕福な患者を優遇する医療機関が現れ、製薬会社も利益拡大のため、あえて薬の保険収載(公的保険の対象とすること)を望まなくなる。

 もうけの薄い農山村地域や救急医療などの分野では医師不足に拍車がかかり、満足に医療を受けられない国民が増えるだろう。所得による医療格差が大きな問題になっている米国と同じような状況になりかねない。

     *

 私は、佐久総合病院(長野県佐久市)の院長で農村医学の先駆者として知られた故・若月俊一先生に師事し、同県南相木村の国保診療所長を98年から10年間務めた。人口約1000人の同村には鉄道も国道もないが、都市部にとっても貴重な水源を守っている。田畑は食料を生産するだけでなく、ダムと同じ保水機能で水害や土砂災害を防いでいる。人口は少なくても、農山村は国土の「背骨」の役割を果たしているのだ。

 TPPで利益を得るのは多国籍化した大企業であり、土地に根ざして生きる人々ではない。一般庶民にも恩恵をもたらすと考えるのは、あまりにも楽天的であろう。むしろ、TPP参加は国の背骨を壊す。その影響は都市住民にも間違いなく及ぶ。

 「トモダチ作戦」などで支援してくれた米国の要求は断りにくいという意見もある。しかし、支援への感謝と国の在り方をめぐる選択は別次元だ。最近は米国や中国でも、日本と同じ国民皆保険制度を導入する動きがある。世界最速で高齢化が進む日本こそ、50年間維持してきた同制度を守り育てるべきだ。

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 ■人物略歴

 ◇いろひら・てつろう
 東大中退、世界を放浪後に京大医学部卒。外国人HIV感染者の支援にも携わる。
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追記:
 
上記エントリ記事についてある人から「TPPについて、「あの人」「あの党」の思い、というのはちょっと違うように思います。もしそれが、菅首相や民主党のことであるのなら。TPP加入問題は自民党政権からの動きであり、自民党はこれにむけてちゃくちゃくと用意をしていたはずです。(していました。)菅首相や民主党は、無批判あるいは勉強不足のため、官僚のいいなりにそれを自動継続しているだけのように感じます。(以下、略)」という感想が寄せられました。

下記はその感想への返信です。追伸として。

○○さん

そもそも例外品目を認めない全面的な関税撤廃(すなわち関税自主権の実質放棄)をめざすTPP(環太平洋パートナーシップ協定)構想を推進してきたのはかつての自民党政権であり、また、農林漁業をはじめとするすべてのわが国の産業という産業に決定的なダメージを与えるTPPの前身ともいうべきFTA(自由貿易協定)を推進してきたのもかつての自民党政権であった、という点では○○さんのご指摘のとおりです。

しかし、現実にいまその農林漁業者や中小企業、勤労者いじめのTPP(環太平洋パートナーシップ協定)構想を自民党政権から引き継ぎ、さらに推進しようとしているのはほかならない現政権の民主党政権です。私たちがいま批判しなければならないのは現にこの愚かなTPP構想を推進、実現しようとしている現政権である民主党政権です。そういう意味での民主党政権批判なのです。そして、その批判は民主党政権批判である以上、「あの人」というよりも「あの党」というのがより本質的な批判というべきでしょう。そういう意味での「『『あの人』の思いだけ』というよりも『『あの党』の思いだけ』とした方がもっと正確な言い方というべきだろう」ということなのです。

それにTPP問題をいっそう困難な隘路に引きずりこんでいる原因の少なくともふたつはかつての自民党政権ではなく、民主党政権が進んでつくりだしている困難です。「菅首相や民主党は、無批判あるいは勉強不足のため、官僚のいいなりにそれを自動継続しているだけ」という評価ではすまされないことのように思います。
 
以下の五十嵐仁さんの記事をお読みください。

■日本はTPP交渉に参加すべきではない(五十嵐仁の転成仁語 2011年2月4日)
http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2011-02-04

五十嵐さんは同記事で経済評論家の中野剛志さんの評言を引いて次のように言っています。

興味深いのは、中野さんが挙げている6つの根拠のうち、後の二つは菅内閣になってからのものだということです。/5番目の根拠として、中野さんは昨年11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)での菅首相の「国を開きます」という演説を挙げています。「これは外交戦略上、きわめてまずい」。というのは、「日本の平均関税率は欧米よりも低く、国は十分開かれている」にもかかわらず、「日本は鎖国的だというイメージが国際的に流布されてしまった」からです。/6番目の根拠についても、前原誠司外相の「TPPは日米同盟強化の一環」という発言が批判されています。前述のように、日米同盟と結びつけたためにTPPを拒否できなくなってしまったからです。
 
そして、上記に五十嵐さんのいう中野さんの評言とは次のようなものです。

■経済への視点 TPP交渉への参加 日本有利が不可能なわけは(中野剛志 毎日新聞 2011年2月5日)

 我が国はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の交渉に早く参加して、自国に有利なルール作りを進めるべきだという意見がある。一般論としては、確かに交渉に参加しなければ、ルール作りにも関与できない。だがTPPに関しては、日本に有利なルール作りは不可能だ。その判断の根拠は六つもある。

 第一に、TPPのルールは白地から策定されるのではなく、シンガポール、チリ、ニュージーランド、ブルネイによる経済連携協定かペースとしてある。この協定は物品貿易の全品目について、即時または段階的な関税撤廃を求めるもので、サービスや人の移動なども対象とする。この急進的な自由貿易協定が基礎となり、今後のルール作りを制約するのだ。それゆえTPPでは、コメなどの除外品目をあらかじめ提示しての交渉参加は認められないという。

 第二に、多数国間交渉でルール作りを先導するには、利害の一致する国々と連携する多数派工作が不可欠だ。しかし、TPP交渉参加国に日本と利害が一致する国がないのだ。日本は内需が大きく、工業製品輸出国で農業競争力は弱い。また高賃金労働の先進国であるが、デフレなので低賃金労働を受け入れるメリットがない。ところが、米国以外のTPP交渉参加国はすべて日本より外需依存度が高い小国ばかりだ。しかも米国ですら輸出倍増戦略をとっているので、全交渉参加図が輸出志向なのだ。また、特異な通商国家であるシンガポール以外、すべて農産品輸出国だ。さらに移民国家のシンガポール、米国、豪州以外は、低賃金労働輸出国ばかりだ。この中で、日本はどの国と組んで自国に有利なルール作りを進めるというのか。
 日本と同様に工業品輸出国の韓国がTPP交渉に参加しようとしないのは、この二つの理由のためだろう。だから韓国は、白地からルールを策定でき、かつ2国間で交渉できる米韓FTA(自由貿易協定)を選択している。それでもなお、米韓FTAが韓国に有利になったのかは、疑問の余地がある。なのに、日米FTAすらも結べない日本が、はるかにハードルの高いTPPで、自国に有利なルール作りをできるとは思えない。

 第三に、交渉参加国中、日本より国内市場が大きいのは米国だけであり、米国も豪州などとの間で、乳製品など自由化したくない品目をかかえてはいる。しかし、米国はドル安誘導や補助金など、関税以外の政策手段をもっている。ところが、日本は円高・ドル安を前になすすべがない。また、米国の大規模農業の競争力は、補助金だけで対抗するには、あまりに強大過ぎる。しかも、財政危機を訴えている政権に十分な予算を購ずることなどできはしない。日本は政策手段の選択肢が少なく、交渉の自由度が低すぎる。

 第四に、TPP交渉参加国に日本を加えた各国のGDP(国内総生産)の比率をみると、米国が約70%、日本が約20%、豪州が約5%、残り7ヶ国で約5%となる。つまり、TPP交渉参加国の実質的な輸出先は、米国と日本しかない。そして米国の輸出先はほぼ日本だけで、日本の輸出先もほぼ米国だけだ。しかし、その米国には輸入を増やす気が毛頭ない。
 このため、次のような状況が生まれやすくなる。米国以外の交渉参加国は、米国との交渉が難航した場合、代わりに日本への輸出の拡大を目指すだろう。米国のターゲットも日本市場だ。そこで、米国は他の交渉参加国にこうもちかける。『我々との交渉では譲歩してくれ。その代わりに、我々が日本市場をこじ開けるから、一緒にやらないか」。こうして米国主導の下、全交渉参加国が日本に不利なルール作りを支持するわけだ。

 第五に、菅直人首相は昨年11月のAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で「国を開きます」と演説した。これは外交戦略上、きわめてまずい。なぜなら日本の平均関税率は欧米よりも低く、国は十分開かれているからだ。にもかかわらず開国を宣言したため、日本は閉鎖的だというイメージが国際的に流布されでしまった。こうなると今後の交渉では、よほど踏み込んだ譲歩をしない限り、閉鎖的というイメージを消せない。
 過去にも例えば、日本は世界屈指の環境先進国なのに、NGO(非政府機関)にネガティブキャンペーンを張られたため、地球温暖化の国際交渉で譲歩を余儀なくされることがあった。ところが今回は、首相目らネガティブキャンペーンを張ったのだ。自国に有利なルールを作る気があるとは到底思えない。対照的に、オバマ大統領は「貿易黒字国が米国への輸出に依存するのは不健全だ」という趣旨の演説をした。日米両首脳の演説だけで、米国は開放的、日本は閉鎖的という構図ができてしまった。ルール作りに入る前に勝負が決まってしまったのだ。

 第六に、前原誠司外相が「TPPは日米同盟強化の一環」と発言している。北東アジア情勢が緊迫する中、日米同盟は軍事戦略上重要だ。だが、日本側からわざわざ、それとTPPを結びつけてしまった。今後、TPPがどれほど不利なルールになっでも、日本はもはや拒否できなくなったのだ。
  (なかの・たけし=評論家)
 
ご参照ください。