今回(2012年)の東京都知事選のことについても「ある感想」を書いておきます。

上記で「も」と言っているのはすでに今回の総選挙については下記のような記事を書いているからです。

2012 総選挙 とりあえずのある感想

東京都知事選は私にとってある意味総選挙よりも重たい、息苦しくなるほどの結果でした。吐く息がゼーゼーと息を切らして泣き叫んでいるような空しさのようなもの、悲しさのようなものがこみあげてくるのです。落胆と悲しみ(挫折感)の度合いが総選挙での「革新」の敗北の比ではありませんでした(総選挙の結末は私の中でも早くから予想されていました)。それだけ私にとって今回の東京都知事選への期待が強かった、ということだったのかもしれません(総選挙の結果にはまったく期待していませんでしたから)。

その私にもいまや東京という雑種文化都市の空気の色は保守一色(といっていいほど)に染め上っているという認識は十分にありました。前回(2011年)の東京都知事選では石原慎太郎261万5120票、東国原英夫169万669票、渡辺美樹101万3132票というひとことでいって保守票といってよい合計の票は東京の当日有権者の過半を優に超えるおよそ532万票もありました。そこから推しても今回の猪瀬直樹の433万8936票という獲得票は不思議でもなんでもありません。東京という雑種文化の街はその雑種文化の街にふさわしく今回は(この10年来もそうですが)いっせいに右バネに弾かれて猪瀬直樹という石原慎太郎傘下の超保守候補(元副知事)を選択したのです。考えてみれば、なるべくしてなった結果、といってよいでしょう。

ですから、私が息苦しくなるほどの悲しみを感じるのはそういうことではないのです。

今回の都知事選での実質的な革新統一候補の宇都宮健児さんの獲得票は96万8960票。この得票数は前回は革新統一候補は実現せず共産党(無所属)の単独票となった小池晃氏が獲得した62万3913票よりははるかに多い獲得票です。そういう意味ではこの96万8960票という獲得票は今回のような実質的な革新統一候補が実現していなければ決して獲得することのできなかった大量票ということはできるでしょう。

しかし、前々回の2007年の都知事選の際の一方の革新候補、浅野史郎氏の得票数は169万3323票、もうひとりの革新候補、吉田万三氏の得票数は62万9549票、両者を合わせると232万2872票。宇都宮さんの今回の96万8960票はそのときの232万2872票にははるかに及ばないのです。それも2007年都知事選のときは革新統一は実現していなかったのです。どうして革新統一がいまだ実現していなかった2007年都知事選時の革新獲得票にはるかに及ばなかったのか。その事実が私には空しくて、悲しくて、やりきれないのです。

たしかに候補者の知名度の問題はあったでしょう。浅野さんは元厚生官僚で1993年から2005年まで3期に渡って「無党派知事」として宮城県知事を務めたという実績があります。構造改革を標榜する「改革派知事」としてテレビを含むマスメディアにも頻繁に紹介され、その知名度は抜群でした。その浅野さんに比して宇都宮さんの知名度は元日弁連会長を務めたとはいえ一般的にはそう高いものではありませんでした。そうした知名度の違いが上記の獲得票、得票数の違いに表れているということは否めません。

しかし、私は、知名度の問題は決定的な問題ではなかっただろうと思います。2007年選挙のときのいわゆる市民レベル、とりわけ女性レベル(女性たち)の浅野さんコールは熱狂的なものがありました。その市民と女性たちの当時の熱狂的な「浅野コール」のさまの一端を当時の朝日新聞記者の早野透さんが上手にレポートしています。当時の記録として残していますのでご参考にしてください。

資料:朝日新聞コラムニスト早野透さんの浅野氏へのラブレター(2007年2月20日付)

上記のような燃え上がるような熱気が今回の都知事選には私の感じでしかありませんが、私には残念ながら感じられませんでした。これが今回の宇都宮氏の敗因の第一だろうと私は思っています。なぜ今回、燃え上がるような熱気がなかったのか(もちろん、私の見るところ、ということでしかありませんが)? 私の独断的な偏見を言えば、浅野さんはリベラリストでしたが、市民は宇都宮さんにはリベラスト以上のなにかしら「左翼」的な匂いを感じて敬遠気味の状態にあったのではないか。市民はリベラリストは好きですが、非論理的なので口に出しては言いませんが、おそらく「左翼」は嫌いなのです。「革新」といわれる市民についてもそういう傾向は免れがたくあるように私には見えます。これは、猪瀬直樹氏433万8936票という現象と対をなす市民の表層的でもあり、深層的でもある心理であるように私には見えます。日本という国はこれほどまでに深層レベルでも表層レベルでも「右傾化」してしまったのだ、というのが私の見立てです。私たちはこのような「右傾化」とどのようにたたかうか、が今後の課題になってくるでしょう。これもいうまでもなく「私」の見立てです。

もう一点。2007年選挙のときは「石原ノー」という共通の土俵のことは一応おいておいて、浅野史郎氏と吉田万三氏という革新同士のつばぜり合いがすさまじいまでにありましたが、そのときのある意味「強大」だったエネルギーが今回の都知事選では潜在的なエネルギーのまま放出されなかった、ということがあるのではないか、とも私は思っています。すなわち、下町のドブ川を越えてそのドブ川の先の家の一軒、一軒まで声を嗄らして候補者への一票を呼びかけ続けるという姿勢がかつての両陣営ともに欠落するところがあったのではないか。これも私のある意味傍観者とならざるをえなかった他県人としての岡目八目的な見立てにすぎませんが、その見方を私は捨て去ることはできません。

宇都宮健児さんの今回の革新統一候補の経験は次にきっと生かされなければならない、と私は強く強く思っています。
私たちの国のツイッター現象はさらにさらに拡大の様相を帯びています。私はツイッターの利便性(有効に利用する限りにおいて)を否定するものではありません。が、私は、ツイッターのワンフレーズのつぶやきの特性にふれて、ツイッターという道具の持つ小泉純一郎流の「ワンフレーズ・ポリティクス」への回帰の危険性、私たち日本人が関東大震災で経験したあの忌わしい「流言飛語」的側面の危険性について指摘しましたが、その指摘を変更するつもりはありません。それどころかその指摘はツイッター現象のさらなる拡大の様相を見るにつけ、ますます重要になってきているものと考えます。

私たちの国で携帯電話が爆発的に普及したとき、私はその風俗に大きな違和感を持ちましたが、辺見庸も同様の違和感を持っていたらしく、その違和感のきたるべきゆえんを次のように表現しています。私たちの国のいまのツイッター現象を「思想」として考えてみる上で深秀なサジェスチョンにもなっているように思います。

以前、あるメーリングリストで「男泣き」の話が少し話題になりましたが、作家の丸谷才一は『男泣きについての文学論』の中で「高度成長以後、男は泣かなくなった」、と指摘しています。そして柳田国男の『涕泣史談』を引用して戦後「泣く回数がへったことと並べて、人間がおしゃべりになった」とも。ツイッター現象と関係があるのか、ないのか。興味深い指摘です。

以下、辺見庸の「機器の孤独」という文章の転載。

機器の孤独(辺見庸 『眼の探索』 朝日新聞社 1998年)

 電車って、ときどき医師のいない移動病棟のようだ。患者というか乗客が、何人もてんでにモノローグをはじめたりする。招き猫の格好をして。電話といっても、あれじゃまるで独り言だ。
 隣の男が見えない相手をいきなり大声で叱りつける。五寸釘を脳みそに打ちこまれたみたいに私は驚く。そのまた隣の女は、いない相手にしきりに猫なぜ声を出す。ひとりでへこへこお辞儀している男もいる。怒ったり囁いたり命じたり謝ったり。
 怖いよ。やめてくれよ、と思うけれど、自分にいい聞かせる。我慢しなくっちゃ。いつか慣れるさ。でも、声が交錯して、頭蓋骨のなかを蟻がはいまわるみたいだ。まともに考えるなんてできゃしない。顔が固まる。いっしょに瘋癲になるしかない。
 公園だって安心できない。
 夜更けに集合住宅の児童公園の前を通る。ジャングルジムのあたりから押し殺した声がする。足が凍りつく。「絶対、許せない」。女だ。「殺してやりたい」と声はつづく。殺したい相手はそこにいない。夜陰に乗じたつもりで、ひとり呪っている。顔を高層住宅の上に向け、やはり招き猫の手つきで。たぶん、なかにファミリーがいる。亭主がやはり押し殺した声で姿なき女に応じているのだろう。「君、困るよ」とかなんとか。
 人を恨むのはいい、怒鳴るのも結構。だが、伝達のしかたが不気味だと思う。
 携帯電話のある風景とそれほど和解できないのなら、と友人は諭す。「君も一台持つことだ。ともに病むのさ」。
 名案である。三千六百万台という携帯電話とPHSの音が、この国の頭蓋骨のなかを無数の狂った蟻みたいにざわざわと迷走している。加入が一人増えたところでどうということはない。が、だめだ。そうまでして語るべきことはなし、伝えるべき相手も、よくよく考えれば、いやしない。それに、自分が一個の動く端末になるという想像にひるむ。
 かつて、紛争中のソマリアからインマルサットの移動電話で東京と交信したことがある。砲声に怯えながら話しているのに、いやに音声明瞭なのが間尺に合わぬ気がしたことだ。東京側は、音声明瞭なら万事伝達可能と信じているふしがあり、それも阿呆らしく思われた。
 機器が的確な伝達と描写を可能ならしめるのでない。眼前のおびただしい死は、機器などどうあれ、言葉に腐心してさえ容易に語れるものでなく、かりに描写できたにしても、東京のふやけた言葉には所詮なじまない。死はつまり、二カ所の端末間で接続不能の何かだった。
 通信機器は夏場のアメーバのように元気に増殖しているのに、言葉は瀕死ではないか。愛にせよ、怒りにせよ、意志の伝達がじつはいま、ことのほか難しい。
 孤独な風景は、機器で結んでも孤独なのだ。いや、機器でつなぎとめようとするから、かえって孤独なのだ。

 冒頭の電車の風景は病んでいるのだろうか、と自問するとき、荷風が五十七年前に記した車中風景が胸に浮かぶ。『断腸亭日乗』の十二月八日の項は「日米開戦の号外出づ」と書かれ「・・・・省線はいかにや。余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演説をなすものあり」と結ばれている。中野重治の短編「おどる男」のことも思い出す。こちらは、敗戦後の満員電車で人に潰されまいとぴょんぴょん飛び上がる短軀の男とこれをなじる女の話で、昭和二十四年の作品。東京の車中の人とは、戦争も平時も、うら哀しく、滑稽ではあったのだ。というより、痛々しかった。

 携帯電話のある風景を私は好かない。やかましく、何だか人も言葉もひしゃげている。しかし、これは私たち「大衆」(私の用語でないけれど)の像の、いつとても変わらぬ痛々しさというものではないかという気もする。病んでいるといえば、いつも病んでいるのであり、機器に言葉が蚕食されて、たたずまいが昨今ますます寒々しくなっているだけだ。
 本当は、警察の盗聴捜査合法化の動きについて書こうとしたのに、盗聴される側の貧相に気をとられ脱線した。ともあれ、この上盗聴とは、ちとつらい。風景はもうボロボロだぞ。

参考:辺見庸『眼の探索』



公開型メーリングリストの市民のML(CML)に「お笑いタレントは、何故、政治的発言を繰り返し、自民党を擁護するか?」という記事(2010年5月5日付)が掲載されています。

上記記事は私のツイッター現象≒流言飛語説を具体的に検証する上において有用な事例を提供してくれているように思えますので、以下、同記事の問題性を指摘しておきます。

第1。「田原総一朗氏が機密費の提供を拒否した」という件について。


上記記事の筆者はこの件について自身の意見を述べてはいませんが、下記の琉球新報記事及び「岩下俊三のブログ」記事をコメント抜き、あるいは無批判に掲載しているところから見て、「田原総一朗氏が機密費の提供を拒否した」という件については肯定的に受け止めていることは明らかです。

●「機密費:評論家にも 野中元長官、講演で証言」(琉球新報 2010年4月28日)
http://ryukyushimpo.jp/variety/storyid-161420-storytopic-3.html
「(野中氏は講演で)一方で機密費の提供を拒否した評論家として田原総一朗氏を挙げた。」

【岩下俊三のブログ】より

「しかし今回の野中発言で『(機密費を)持って行って断られたのは、田原総一朗さん一人』と聞いて若干ホッとした。」

しかし、同筆者が間接引用している「文藝評論家・山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』」の「田原総一朗はカネを受け取らなかった? 嘘だろう。野中広務からは受け取らなかったかもしれないが、献金名簿に名前が記載されていたということは、別ルートからは、あるいは野中以前の官房長官からは受け取っているということだろう」(2010年5月3日付)という長いタイトルはそのタイトルのままの指摘になっています。同ブログの本文をもう少し引用すると山崎氏は次のように述べています。

「《野中氏はさらに『前の官房長官から引き継いだノートに、政治評論家も含め、ここには これだけ持って行けと書いてあった。持って行って断られたのは、田原総一朗さん1人』と述べた》。この野中広務証言をよく読むと、前官房長官から『引き継いだノート』に、しっかりと『田原総一朗』の名前が記載されていたということは、つまり野中からの現金は受け取るのを『断った』かも知れないが、前官房長官からの現金は受け取っていたということを意味していることは明白である。」

上記記事では情報の出所は明らかではありませんが、同筆者が引用している琉球新報記事の「野中氏は自民党政権時代に、歴代の官房長官に慣例として引き継がれる帳簿があったことにも触れ『引き継いでいただいた帳簿によって配った』と明言」という該当部分とも符合します。この山崎氏の推理は論理的で正しいものといってよいでしょう。

だとすれば、同筆者は保守的評論家である田原総一朗に関して誤れる情報と評価を人々に拡散しているということにならざるをえません。そして、その誤れる情報は、同筆者のCMLへのメール、上記の「岩下俊三のブログ」などでも明らかなように拡散に拡散を重ねていくのです。恐るべし、といわなければなりません。私がツイッターを、あるいはツイッター的なブログ(阿修羅掲示板のようなものを指しています)を「流言飛語」的というのはそういうことなのです。

第2。太田光はほんとうに機密費をもらっているのか?


上記では正当な推理をしている山崎氏ですが、太田光が政府の機密費を貰っているかのように吹聴するのはどうなのでしょう? そして上記記事の筆者がそのままの情報を垂れ流していることもどうなのでしょう?

山崎氏の上記ブログでの指摘では太田光をクロ(政府の機密費を貰っている芸能人)だと断定することはできません。「野中は、政治評論家だけではなく、政治的発言を繰り返す「お笑いタレント」たちにも、官房機密費から、盆暮れの二回、500万円ぐらいずつ、つまり年間1000万円のカネを手渡したと爆弾証言した」のでしょうが、同筆者が紹介する琉球新報の記事などを見る限り、野中元官房長官は具体的な芸能人の人名を明らかにしているわけではありません。それでどうして「伊藤、ビートたけし、太田光・・・等」(山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』)の具体的な人名を挙げることができるのでしょう(たぶん、2ちゃんねるのたぐいの情報なのでしょう)?


そう断定できる情報の出所を示さないまま断定だけはする。典型的な「流言飛語」的な言説だといわなければなりません。その「流言飛語」的な言説の流布に上記記事の筆者も積極的に手を貸している、ということにならざるを得ないのです。同記事の筆者の紹介する「阿修羅版」の投稿者亀ちゃんファンはなんらそのウワサの根拠を確かめることもしないまま「一度太田はパッシングしないとわからないだろうな」とまで言っている。そして、同筆者はそういう根拠のないウワサをあまりに無雑作に拡散している。ツイッター的流言飛語恐るべし、といわなければなりません。いま、関東大震災のような震災が再び起きたとして、当時は文字どおりの口コミで「朝鮮人が井戸に毒を入れ、放火して回っている」という根拠のない流言飛語が拡まり、朝鮮人虐殺にまでいたりましたが、いまはツイッターという文明の利器がその悪しき流言飛語の拡散の役割を果たすのだとしたら・・・

(写真1:田原総一朗)
(写真2:太田光)
(写真3:関東大震災の惨状)

ある人からツイッターの「流言飛語」的側面の危険性について指摘した「ツイッター現象と検察審査会の小沢氏『起訴相当』議決について考える」(2010年5月2日付)という過日の記事について、「ツイッター『流言飛語』説こそが『流言飛語』である」という批判がありました。以下は、そのある人への私の反論です。したがって、本エントリーは、同記事の続きという位置づけになります。ツイッター現象がマス・メディアを含めた国民・国家的レベルの大衆現象の様相を帯びている以上、再度その問題性を指摘しておくことは意味のないことではないように思います。なお、私のツイッター現象批判は全面批判ではありません。ある程度のその文明の利器の有用性を認めた上での批判です。言ってみれば4分の3批判というところでしょうか。

○○さん

あなたが「 ツイッターは、なかなか面白いツールです」と認識していること自体については、私は特段に異議を申し立てる立場にありません。それぞれの「好み」はそれぞれが決めることだからです。人さまの「好み」に異議を申し立てるなどナンセンスきわまりないことをするつもりはありません。

しかし、あなたがおっしゃるツイッターの「口コミ」機能のことを私は「流言飛語」的側面のある機能というべきではないか、ということを言っています。「流言飛語」の意味を辞書で確認すると「口づてに伝わる、根拠のない情報」という説明が出てきますから、「口コミ」機能のある悪しき側面を「流言飛語」的という私の解釈は辞書的な意味合いでも間違っているわけではありません。

インターネット百科事典のWikipediaも口コミについて、「一般に口コミによる評判はマスコミでのそれよりも信憑性が高いと認識されている。これは一般人にはマスコミのような利害関係が生じにくい事による」と口コミの正の評価を示すとともに、「一方で逆にマスコミのように情報の正確性が問われないため、偏見などによって情報が大きく歪められる事もある」という負の評価の部分をも指摘することも忘れていません。それを「ツイッター『流言飛語』説こそが『流言飛語』であると申し述べます」などというのは、あなたのツイッターに対する主観的な思い入れの吐露以上の意味を持たないだろう、ということを指摘しておきます。

さらにあなたの次の認識は誤っているだろうと思います。

(1)「要するに、ツイッターは、時事的な分野ではたいへん強力な武器になります。直接民主主義に似たような、われわれメディアに何の力ももたない庶民にとっては、ひとすじの光といってもよいようなツールです。」

(2)「ツイッターでは、とにかく人間力というものが試される。筋の通った、理想を失わない、権威権力(マスメディアと例外なく結託している)に風穴をあけようとしている良質のジャーナリストや一般人たちを、わたしはこのツイッターで知り、励まされています。」

まず(2)に関して、マスメディアの報道とツイッターのワンフレーズのつぶやきの違いについて、ある「庶民」と少しばかり応答しました。その部分を転記しておきます。
ある「庶民」の応答:
「一般論としてツイッターの内容はあてにならないことも多いでしょうが、逆に真実であることもあるでしょう。同様に、残念ながらマスコミの報道も、真実であることも多いでしょうが、逆に虚偽を真実であるかのように宣伝していることもあるのではないでしょうか。」

私という「庶民」の応答:
「あてにならないマスコミ報道が多いことは事実ですが、ツイッターのワンフレーズのつぶやきとマスコミ報道を一緒くたにしてはいけないと思います。報道には「論」とともに「論の理由」があります。読者は「論の理由」を読んで「論」の正しさを検証できるのです。ツイッターには「論」はあっても「論の理由」はありません。流言飛語も「論」(たとえば「朝鮮人が井戸に毒を入れた」)はあっても「論の理由」(いつ、どこで、誰が。その証拠と証明)はありません。これは決定的な違いです。「論」の真贋を検証できないからです。」
もうひとつ(2)に関して繰り返しになりますが、先のメールで述べた該当部分を転記しておきます。下記の例にあげる岩上安身氏があなたがいう「良質のジャーナリスト」の中にはいるのかどうかは定かではありませんが、岩上安身氏のツイッター情報は最近ある種の「庶民」によって頻繁に引用されています。そのある種の「庶民」にとっては岩上安身氏は「良質のジャーナリスト」とみなされているからでしょう。下記の例で私は「その良質のジャーナリストをしてをや」ということを言っています。
第3。フリージャーナリストの岩上安身氏発の弁護士の郷原信郎氏の見解とされる「これで検察が起訴するなら、今までの捜査はいったい何だったのか。専門家集団と称する検察などいらない、市民が起訴すればいい」という市民から構成される検察審査会の存在意義さえ否定するツイッター上の暴論(CML 003861)も郷原氏の下記の直接の発言と比較すれば正しくないことがわかります。

■郷原信郎名城大学コンプライアンス研究センター長の定例記者レクでの検察審査会の「起訴相当」議決についての発言](2010年4月28日)
http://www.the-journal.jp/contents/newsspiral/2010/04/post_558.html

上記発言を読むと、郷原氏は、「公訴権の行使や検察運営に関し、民意を反映させる」という側面における検察審査会制度はそれ自体として肯定的に評価していて、ツイッター上で見たような検察審査会の存在意義さえ否定する暴言のたぐいの認識は一切示していません。この例からもツイッター上の言説の危うさと言説としての限界性を知ることができるでしょう(この場合のツイッター上の発信人はジャーナリストという物書きを仕事とする言論人です。その言論人をしてをや、ということです)。
(1)については次の例を示しておきます。私は下記のようなツイッター情報が「ひとすじの光」になっては困る、ということを言っているのです。

?2月はじめにツイッターで「検察審査会に小沢民主党幹事長不起訴の『不服申立て』をしたのは在特会だったということが事実として確認できました」という情報が流れました(「杉並からの情報発信です」 2010年2月10日)

?それから3か月ほど経って検審の小沢氏「起訴相当」議決が出た4月27日に関組長という人の同日付のメルマガにやはり「申し立てを検察審査会にした市民団体は、在特会だ」という情報が掲載されました。

2月はじめのツイッター上の?の情報が巡りめぐって掲載されたものと思われます(この間、私は何度も同じ情報を目にしましたので、そう推測することができます)。そしてこの関組長のメルマガを転載した人は「在特会と検察と検察審議会とに初めから打ち合わせがあったのではないかという推測を私はしました」と?の「事実」(ほんとうは推測に過ぎない。そして、先のメールですでに証明しているように誤れる推測)にさらに誤った推測を重ねて転載しています。

?上記の関組長のメルマガにはこれも誤れる次のようなツイッター情報も掲載されていました。
また驚くべきことをツイッターでつぶやいている人がいたので
https://twitter.com/sukiforumcom/status/12974019280
検察審査会の検察審査員は、無作為に抽選で選出されていませんよ。随分前ですが審査員の方からふさわしい人を推薦してほしいと依頼があったので推薦しました。(後略)
上記の関組長のメルマガに掲載されたツイッター情報は次の2点において誤っています。

()申し立てを検察審査会にした市民団体が在特会であると仮定しても、そのことと今回の検察審査会が小沢氏「起訴相当」と議決したこととの間には関連性は少なくとも証拠としてはない(上記に見たように同メルマガを転載した人は「在特会と検察と検察審議会とに初めから打ち合わせがあったのではないか」という主観的推測をした上で転載しています)。

()上記のツイッター上のつぶやきはありえない事例(すなわちウソ)といわなければならないこと。以下、この点について述べていることを転記しておきます。
上記のツイッターの発信人は「sukiforumcom(スキフォーラム)」の「charlie」という人で、同団体の ホームページ(http://www.sukiforum.com/index.php)を見ても、スキフォーラムという団体もcharlieという人も正体不明のままです。こうした正体不明の人の真偽の確かめられないつぶやきを一般に「流言飛語」と言います。関東大震災の際、「朝鮮人が暴徒化している」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という根拠のないこうした流言飛語によって多くの朝鮮人が日本人の手によって虐殺された歴史的悲劇をあなたもご存じないわけではないでしょう。いま爆発的に私たちの国で流行しているツイッター現象ですが、そのツイッターのひとことのつぶやきは、あの悪名高い小泉純一郎流の「ワンフレーズ・ポリティクス」の危うさを想起させるとともに、上記のような根拠のない流言飛語を撒き散らす最悪の凶器にもなりえます。いま、ツイッター現象に群がっている人たちにその自覚がどこまであるでしょうか? 

関組長は根拠不明、発信人不明のツイッター上のこうしたつぶやきを検証もなく紹介して「前述のつぶやきが本当だとすると」としてその根拠不明のつぶやきを拡めることに手を貸しています。○○さんも「見たいのですが見れないのです、ツイッターが。教えてくださいませんか」と言います。流言飛語はこうして拡がっていくのです。そのことに私たちは自覚的でありたいものです。

()の指摘については前エントリー「ツイッター現象と検察審査会の小沢氏『起訴相当』議決について考える」(2010年5月2日付)の該当部分をご参照ください。

以上からわかるように「検察審査員」が検察審査員を選定する過程に介入する余地はまったくないのです。仮にある検察審査員が次の検察審査員を推薦したとしても(そういうこともありえませんが)、その推薦はまったく無効です。
上記で示したことをもってしても、あなたに依然拙論に批判がある、というのであれば、それはそれで致し方ないことです。人さまの読解を強要することはむろんできることでもないでしょうから。

私は先にCMLという公開型のメーリングリストで現在のわが国のツイッター現象、そのツイッターのワンフレーズのつぶやきの特性にふれて、私たちがすでにさんざん反省したはずの小泉純一郎流の「ワンフレーズ・ポリティクス」の小児病的ポピュリズム政治へと再び退行させる蓋然性の大きい現象というべきではないか、ということ。また、ツイッターの基本的性質としての脈略のないつぶやきは、私たち日本人が関東大震災で経験したあの忌わしい「流言飛語」という凶器にいつ豹変しないとも限らないこと。また、私たちが安易に現在のツイッター現象に群がることの危険性についての私見(CML 003910など)を述べたことがあります。

上記で私の言う「ツイッター現象の危険性」とは具体的にはどういうことなのか? 先月27日の東京第5検察審査会の小沢民主党幹事長「起訴相当」議決に関してあった同メーリングリスト上の反応に即して検証してみようと思います。

第1。「小沢氏『不起訴不当』を申し立てた『市民団体』は『在特会』」という指摘が同メーリングリスト上でありました。同指摘は下記で述べるとおり誤った指摘というべきですが、その誤った指摘をはじめの段階で拡散していたのはやはりツイッターでした(注1)。

しかし、?同在特会代表の桜井誠なる人物は「そもそもこの事件で刑事告発をしていない」。「この事件で検察審査会に申立てできるのは、『告発をした者』でなければならない」のだから、桜井誠なる人物が「不起訴不当」を申し立てることはできない。?この桜井誠なる人物が自身のブログで公表している受理書番号第2号と小沢氏についての東京第5検察審査会の議決書における事件番号第10号は異なる(「上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場」2010年4月30日付より)。したがって、東京第5検察審査会の議決における審査申立人は桜井誠なる人物以外の者ということにならざるをえません。


第2。同じく「検察審査会の検察審査員は、無作為に抽選で選出されていませんよ」というツイッター上のつぶやきも虚偽といわなければなりません。ツイッター上のつぶやき人は「検察審査会の検察審査員は、無作為に抽選で選出されていませんよ」とつぶやく根拠として、自身が以前に経験した「(検察)審査員の方からふさわしい人を推薦してほしいと依頼があったので推薦しました」という事例を挙げるのですが、この事例はありえない事例といわなければならないからです。

検察審査会法第9条には「検察審査会事務局長は、(略)検察審査員候補者の員数を当該検察審査会の管轄区域内の市町村に割り当て、これを市町村の選挙管理委員会に通知しなければならない」とあり、同法第10条には「市町村の選挙管理委員会は(略)通知を受けたときは、当該市町村の選挙人名簿に登録されている者の中から(略)検察審査員候補者の予定者として当該通知に係る員数の者(略)をくじで選定しなければならない」とあります。そして、同法第20条には「検察審査会事務官は、裁判所事務官の中から、最高裁判所が、これを命じ」るとあり、また「最高裁判所は、各検察審査会の検察審査会事務官のうち一人に各検察審査会事務局長を命ずる」とあります。

以上からわかるように「検察審査員」が検察審査員を選定する過程に介入する余地はまったくないのです。仮にある検察審査員が次の検察審査員を推薦したとしても(そういうこともありえませんが)、その推薦はまったく無効です。

第3。フリージャーナリストの岩上安身氏発の弁護士の郷原信郎氏の見解とされる「これで検察が起訴するなら、今までの捜査はいったい何だったのか。専門家集団と称する検察などいらない、市民が起訴すればいい」という市民から構成される検察審査会の存在意義さえ否定するツイッター上のつぶやきも郷原氏の下記の直接の発言と比較すれば正しくないことがわかります。


上記発言を読むと、郷原氏は、「公訴権の行使や検察運営に関し、民意を反映させる」という側面における検察審査会制度はそれ自体として肯定的に評価していて、ツイッター上で見たような検察審査会の存在意義さえ否定する暴言のたぐいの認識は一切示していません。この例からもツイッター上の言説の危うさと言説としての限界性を知ることができるでしょう(この場合のツイッター上の発信人はジャーナリストという物書きを仕事とする言論人です。その言論人をしてをや、ということです)。

以上はツイッター的(ツイッター的ブログを含む)情報を根拠に小沢氏及び民主党擁護の自説を補強しようとするある種の人たちの思想の愚かしさについて述べたものです。

しかし一方で、今回の東京第5検察審査会の小沢民主党幹事長「起訴相当」議決について、検察審査会制度の「民意を反映させる」側面は評価しながらも、「もし弁護士(元裁判官)が議決書の作成を補助したというならお粗末な内容。このような『冷静さを欠く内容』と思われる議決書では検察審査会に強制起訴権限を付与したせっかくの改革が国民から支持されない心配を感じる。法律家である審査補助員の役割が問われる」(「弁護士阪口徳雄の自由発言」 2010年4月27日)などの批判があるのは当然だと思います。今回の東京第5検察審査会の「起訴相当」議決は専門家ではない法律の素人の眼から見ても少し以上にヒステリックです。

その理由はどうも上記においても阪口弁護士によって少しふれられている「法律家である審査補助員」周辺にあるようです。この事件の審査補助員について前出の上脇博之神戸学院大学法科大学院教授が興味深い事実を指摘をしています。この事件の審査補助員となった「弁護士が所属する法律事務所の『40周年祝賀会』が今年3月25日に開催され、自由民主党総裁の谷垣禎一衆議院議員ら(中井洽・国家公安委員長らも)が来賓として挨拶して」いたということです(前出上脇ブログ)。山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』によれば、この弁護士の名前は米澤敏雄氏。所属する法律事務所の名称は麻生法律事務所(ちなみにこの情報もはじめはツイッターから取得したようではあります。また、法律事務所の名称の麻生はあの元首相の麻生のことか、と疑いたくもなりますが、別人の麻生のようです)。同ブログで山崎氏も「政治的中立性は担保されているのか?」と疑問を呈している人物です。東京第5検察審査会の議決がなぜヒステリックなほどの議決になったのか? おおいに怪しんでいい事実の指摘だと思います。

検察審査会の問題については次の点も指摘しておく必要があるように思います。市民から選出される検察審査会であってもその審査が不当な場合もありえるということです。10年ほど前に地裁、高裁、最高裁、差し戻し第一審、第二審という25年間5回もの裁判を経て、やっと無罪判決が確定した甲山事件と呼ばれる冤罪事件をご存知だと思いますが、この冤罪事件の端緒をつくったのは、検察が証拠不十分で不起訴処分にした同事件の「容疑者」を「不起訴不当」の決議をした市民から選出されたはずの検察審査会でした。同検察審査会は結果として25年もの苦難をこの無罪判決を勝ち取った当時の「容疑者」に強いてしまったのです。このことは忘れてはならないことだろうと思います。

一方、東京第5検察審査会の今回の議決を批判するにあたって「疑わしきは罰せず」という刑事裁判における原則を持ち出して批判する向きがありますが(たとえば上脇前出ブログ2010年4月28日付)、この「疑わしきは罰せず」の原則はあくまでも刑事裁判における原則であり、検察起訴の際の原則ではありません。「疑わしきは罰せず」の原則と検察の挙証責任とを混同すべきではないでしょう。「疑わしきは罰せず」の原則は「ある事実の存否が判然としない場合には被告人に対して有利に」という原則のことです。一方、挙証責任の方は、「ある事実の存否が判然としない場合においても挙証責任を負えるだけの合理的な疑いがあれば足る」とする謂のはずです。両者を混同して検察審査会の起訴議決のハードルを高くすることには慎重であらねばならないだろう、と思います。

注1:「『twitter』で周知済でしたが、謎の市民団体『真実を求める会』が検察審査会に小沢民主党幹事長不起訴を『不服申立て』たのに続いて、『在特会』桜井誠代表と『博士の独り言』島津義広氏が「不服申立て」に加わったことが事実として確認できました(「杉並からの情報発信です」 2010年2月10日)。